週末、黒のリムジンがエルライン伯爵家の玄関に到着した。
 オリヴィル公爵家の付き人がドアを開け、車から降りてきたのは正装姿のジークフリートだった。
 真っ白のブレザーに、青と白のチェック柄のスラックスという制服姿も目の保養にいいのだが、やはり公爵令息の正装も捨てがたい。
 ワインレッドのフロックコートに金色の刺繍、首元にはクラヴァットのフリルが広がり、非現実感を醸し出す。
 服の色合いもそうだが、今日はいつにも増して、きらびやかな装いだ。まるで、西洋の舞踏会に出てきそうな貴公子だ。

(まあ、実際に「白薔薇の貴公子」なんだけどね……)

 夕方から始まるオペラ開演に合わせ、イザベルの衣装も大人路線だ。さらりとしたサテン生地は体のラインを際立たせ、女性の魅力を最大限に引き出す。
 夜の蝶を意識した瑠璃紺のドレスと、ハーフアップした髪、そしてバックオープンで素肌をさらした背中。今日ばかりは、幼稚なデザインのリボンは必要ない。
 背中や首筋にはボディーパウダーが塗りたくられ、キラキラのラメ仕様だ。エルライン伯爵家メイド総出で着飾ってくれた成果ともいえる。

(……いつもより攻めてみたのだけど、おかしくないかしら……)

 婚約破棄したら、ジークフリートからお誘いを受けることもなくなる。もしかしたら、今日が最後になるかもしれない。
 今世では、後悔はしたくなかった。
 確かに、前世ではクラウドが一番好きだった。しかし、ジークフリートのルートも乙女心を刺激する場面は多かった。正統派にふさわしいエンディングのスチルは、今思い出しても胸を打つ。
 おそらく、別れの時は近い。悪役令嬢に転生してしまった以上、それは仕方のないことだが、せめて、最後の思い出は素敵な形で締めくくりたい。
 だからメイドたちに「今日は特別だから最高の夜にしたいの」と打ち明け、協力してもらったのだ。
 多少のギャップを与えようと、いつもと真逆のドレスにも挑戦した。子供っぽい自分には無理だと諦めていたが、メイド魂に火がついた彼女たちの本気はすごかった。
 化粧での印象操作のおかげか、想像以上の出来映えだ。

(頑張ってくれたみんなのためにも、今日は素敵な一日にしなくては)

 ドレスの裾を軽くつまみ、イザベルは粛粛と頭を下げる。

「ごきげんよう、ジークフリート様。約束の時間きっかりですわね」
「そういう君も時間どおりだな。いつも出迎えてくれなくても、僕が部屋まで迎えに行くのに」
「いいえ、これはもう性分のようなものですから」

 エルライン家は総じて皆、時間に厳しい。小さい頃から時間管理に厳しくしつけられていたため、イザベルも例外ではない。
 たとえ前世では遅刻組として、毎朝ダッシュで学校に行っていても、今世でもそうとは限らない。メイド長直々の厳しいマナー特訓により培われた時間厳守の慣習は、体にしっかり染みついている。

「イザベルお嬢様。どうぞいってらっしゃいませ」

 玄関前に見送りに来ていたリシャールとメイド長のメアリーが、丁寧にお辞儀をする。

「では、行ってくるわね」

 イザベルは、差し出されたジークフリートの手に自分の指を添えた。そのまま紳士的にエスコートされ、後部座席に乗り込む。
 伯爵家より質のいい生地を使った座席は、腰かけるだけでその違いがわかる。背中がフィットする角度に、沈みすぎないクッション性、すべてが計算し尽くされている。
 エルライン家が所有する車は、内装はオフホワイトとブラウンで統一されている。一方、オリヴィル家のリムジンは、グレーの内装に黒い座席。ビジネスに適した重厚感がある。

「出してくれ」

 イザベルの横に座ったジークフリートの合図で、車は静かに発進する。
 流れていく車窓を見つめること数分。ちらちらと視線を送ってみるが、ドレスの感想を言ってくれる気配はない。
 沈黙に耐えかねたイザベルは勇気を振り絞り、婚約者に向きなおる。

「……ジークフリート様」
「なんだ?」
「わたくし、今日はその……頑張って着飾ってみたのですが、いかがでしょうか」
「あ、ああ……その、なんというか」

 めずらしく歯切れが悪い。
 緊張が伝わったのか、ジークフリートの視線が右往左往としている。

(返答に困るぐらい、見苦しいということね……)

 所詮は付け焼き刃。背が低く、童顔な自分にはまだ早かったのだろう。膝の上で手を重ね合わせ、イザベルは心から懺悔した。

「やっぱり似合いませんよね……いいんです。自分が一番、わかっています。人には得手不得手がありますもの。わたくしが無謀だったのです。変に気を遣わせてしまって、申し訳ありません」
「イザベル、それは違う」
「……何が違うのですか?」
「すまない。君がその…………い、いつもと雰囲気が違って驚いて、褒める言葉が見つからなかったんだ」

 まっすぐに視線がぶつかる。
 正直すぎる言い訳に、やさぐれていた心が少し回復した。そして同時に、頬が若干赤い婚約者へ、ちょっぴりいたずら心が芽生える。
 無邪気を装い、イザベルはストレートに尋ねた。

「可愛くはないですか?」
「……可愛いというか、大人の魅力があふれているというか……。僕は素敵だと思う」

 最後は蚊の鳴くような小声だったが、すぐ横に座るイザベルの耳にはしっかり届いた。自然と脈が速くなる。

「……きょ、恐縮です」
「ところで。ずいぶん大人っぽくなったが、一体どうしたんだ?」
「それは……せっかく久しぶりにオペラを観るのですから。気合いを入れようと思いまして」
「そうか。では、気合い十分なイザベルに、贈りたいものがある」

 前の座席に置いてあった紙袋を取り、ジークフリートは中を漁る。

「まあ。改まってなんですか?」

 細長い黒い箱を差し出され、イザベルは両手で受け取る。リボンをしゅるりとほどくと、赤い布の上には、白とゴールドの双眼鏡が置かれていた。

「小型軽量タイプの最新型オペラグラスだ」

 持ち上げると、思ったより軽いのに驚く。持ち手のハンドルも手になじむ形状だ。ところどころにある、草木をかたどった模様も可愛らしい。

「アンティーク風のデザインなんですね。エレガントなのに軽量で素晴らしいですわ」
「この前、重いのがネックだとこぼしていただろう」
「……わざわざ用意してくださったのですか?」
「無論だ。君の手が悲鳴を上げる前に対処をせねば。僕は君に快適な環境を提供する義務がある」
「大げさですよ。でも、お気遣いありがとうございます。大事にしますわね」

 イザベルが微笑むと、ジークフリートも頬を緩めた。

      *

 豪華なシャンデリアの下には、深緑の絨毯が敷かれた階段。踏みしめるとわかる上質な絨毯は、高いヒールの音さえも吸収してくれる。
 タキシード姿の老紳士やロングドレスの婦人とすれ違いながら、イザベルはジークフリートとともに指定席へと向かう。
 二階のボックス席は、公爵家専用の席だ。この劇場の運営はオリヴィル公爵家が行っているため、支配人自らが案内してくれる。
 いつもの席に座ると、ジークフリートが独り言のようにつぶやく。

「夜の演目は確か……悲恋をテーマにしたものか」
「永遠のテーマですわね」
「まあ、そうだな。引き裂かれる二人の葛藤と、抗えない運命、すれ違う未来。役者の器が試される演目だ」

 客席の照明が消えて、あたりが暗くなる。ドアもすべて締め切られ、外部からの光も遮断される。
 開演時間だ。緞帳がゆっくり上がり、スポットライトが正面に当てられる。
 映画と違い、オペラが上演されている間の飲食は厳禁。
 ミュージカルのような舞台装置を使った派手な演出はないものの、オペラ歌手の歌唱力や演技力が目を引く。
 オペラグラス越しに見える表情の変化や、華やかな舞台衣装を見ているだけでも楽しい。しかし、オーケストラの生演奏も迫力があり、どんどん物語に引き込まれる。
 やがて、舞台から人がいなくなると、明かりがパッと点く。第一幕と第二幕の小休憩に入ったのだ。

(オペラ歌手は、ぶっ通しで歌い続けるわけだから、休憩も多いのよね)

 合間の休憩に席を立つ人も多く、ジークフリートも颯爽と立ち上がる。
 あらかじめ用意していたのか、ボックス席の奥にあるミニテーブルからバスケットを取って、すぐに戻ってきた。
 なんだろう、とイザベルが顔を近づけると、バスケットを覆っていた布が取り払われる。

「君の口に合うとよいのだが……」

 中身はクッキーだった。丸ではなく四角いクッキーが均一に置かれている。色はベージュに、少し黄色を足したもの。

「あら、今日はお菓子ですか?」
「……チーズ風味のクッキーだ」
「そうなのですか。食べるのが楽しみですわ」

 いつものように受け答えすると、ジークフリートは目をそらしながら言う。

「僕が作ったんだ」
「……え?」
「ジェシカから、君がそういうお菓子が好きだと聞いた。一流品の贈り物も結構だが、手作りの方が気持ちもこめられると思わないのか、と諭された」
「それで作ったのですか? ひとりで?」
「……そうだ……」

 完璧かつ勤勉で知られる公爵令息が、まさかの手作りお菓子を持参。悪戦苦闘する様子を想像し、イザベルは口に手を当てた。

「ふふ、……ふふふっ」
「何がおかしい?」
「いいえ、そうではなくて。ジークの気持ちがうれしくて。……わたくしのために作ってくれたのでしょう?」
「当たり前だろう」

 すねたような横顔に、イザベルは微笑みを絶やさない。これ以上彼の機嫌を損ねないよう、言葉を選んで感謝を伝える。

「今まで頂いたものの中で一番、心に残るプレゼントですわ。食べるのがもったいないくらいです」
「むしろ、食べてもらわねば困る。味は悪くない……はずだ」
「ええ、そうですね。せっかくですから、一緒に食べましょうか」

 一口サイズのクッキーをつまみ、そっと口に運ぶ。上品な甘さと酸味が広がり、隠し味はレモンの果汁かと推察する。

「大変おいしいです。初めて作られたのですか?」
「無論だ。お菓子を作る機会は言うまでもなく、作る予定もなかったのだから」
「努力なされたのですね。家庭用とは思えない、深い味わいですもの。洋菓子店にも負けていないと思いますよ?」

 言いながら、ふと気づく。

(もしかして、サロンで見たお菓子の本は、このクッキーを作るために……)

 心の中にくすぶっていたモヤモヤが晴れ、イザベルはクッキーを一枚取り、婚約者の口元に近づける。
 ジークフリートはクッキーとイザベルを交互に見比べ、怪訝な顔になった。いつもより低い声は慎重に問いかける。

「その手はなんだ?」
「え? だって、ジークの手が汚れるじゃないですか。……ひょっとして、おなかいっぱいでした?」

 手を引っ込めようとすると、やんわり腕をつかまれた。顔を上げると、ジークフリートは観念したようにつぶやく。

「……頂こう」

 なぜか心を無にしたような仏頂面になってしまったが、素直に口を開けるのを見て、そっとクッキーを押し込む。

「ね、ほら。おいしいでしょう?」

 自分が作ったわけではないのに、自慢げに言うイザベルにジークフリートは無言で頷く。よく見れば、その耳はほんのり赤く色づいている。

(このまま、時が止まってしまえばいいのに……)

 婚約者とのなごやかな時間は、あっという間に過ぎていった。

      *

 エルライン家の玄関前には、お迎え時と同じように、オリヴィル公爵家のリムジンが横づけされていた。
 お土産用にもらったクッキーが入ったバスケットを抱え、イザベルは婚約者を見上げる。約二十五センチの身長差は、見上げる角度も少しきつい。

「イザベル。今日は楽しめたか?」
「ええ、もちろんです!」

 断言すると、ジークフリートは一瞬驚いたように固まる。だが、次の瞬間には柔らかく笑い、頭をぽんぽんと撫でられる。

(身長のせいもあるだろうけど。まるで、妹のような扱いだわ……)

 しかし、この大きな手は好きだ。髪を撫でる手つきは優しく、親愛の情が伝わってくる。
 ふっと頭に載せられていた重みがなくなり、イザベルは目線を上げる。
 ダークブラウンの瞳をゆらめかせ、ジークフリートは切なげに別れの言葉を口にする。

「また誘うよ」
「ええ。いつでもお待ちしておりますわ」

 ジークフリートは片手を上げ、車に乗り込む。そのまま去っていく車を見送り、イザベルはため息をこぼす。
 ヒロインとの好感度が一定以上高くなると、次のイベントに進むはずだ。そして、フローリアとの仲が深まるにつれ、婚約者の自分の存在はわずらわしいものになる。

(引き際は今だわ)

 たとえ、悪役令嬢フラグを折るのに失敗したとしても、ゲームのように振る舞うのは危険だ。リスクが大きすぎる。

(今後は、誘われても理由をつけて断らないと)

 自滅エンド回避には、ヒロインとのイベントで悪目立ちするのを避ける必要がある。間違っても「ジークフリートにつきまとう悪役令嬢」と思われる真似はしてはならない。
 まずは距離を置くべきだ。

(……避けたりしたら、ジークは悲しむかしら)

 帰り際の幸せそうな笑みを思い出し、イザベルは胸に手を当てる。
 良心が痛むのか、胸のズキズキは大きくなるばかりだった。