重い瞼を持ち上げると、見慣れた白いレースが視界に映る。
天蓋から垂れ下がるのは、ひらひらしたカーテン。遮光性はなく、ほぼ透けているために圧迫感はない。カーテンは四隅のポールにリボンでくくられ、ほとんど飾りになっている。頭を優しく包み込んでいるのは、高級な素材をふんだんに使った複数のクッション。
天蓋付きベッドから身を起こすが、よく知る自室に人の気配はなく、静まり返っている。
イザベルはズキズキするこめかみを押さえ、息をつく。
(なんだか、長い夢を見ていたような……)
サイドテーブルにあった水差しを傾け、コップに水を注ぐ。ぐびっと飲み干し、渇ききった喉を潤した。
(でもたぶん、あれは夢じゃない)
フラッシュバックした記憶を反芻する。夢の中での自分は豪華なドレスではなく、濃紺のセーラー服に身を包んでいた。そう、あれはこの世界に生を受ける前の世界、つまり異世界の記憶だ。
前世ではイザベル・エルラインではなく、久遠雛乃として高校に通っていた。
そして高校三年生の冬、受験の願掛けに行った参道で不覚にも足を滑らせ、崖から海へとダイブした。いくら成績が悪かろうと、担任から「もう諦めろ」と匙を投げられても、その道では有名な救いの神社にすがるのではなく、自力で勉強して最後まであがくべきだった。
人生をやり直せるなら、その時の自分に長く説き伏せたい。
一人で思いつめた結果、崖っぷちにそびえ立つ神社に参拝しようと思ったばかりに、久遠雛乃の人生はブラックアウトしてしまったのだから。
(人生が終わる瞬間って、結構あっけないものなのね……)
とはいえ、生まれ変わった今の人生は、それほど悪いものではない。十歳離れた兄は面倒見もいいし、毎年の誕生日のプレゼントも欠かさずくれる優しい家族だ。友人にも恵まれ、学校生活もそれなりに満喫している。
ただひとつ、問題があるとすれば、ここが前世でハマりにハマった『薔薇の君と紡ぐ華恋』という乙女ゲームの世界であること。
タイトルにもあるように、攻略対象にはそれぞれ薔薇の花言葉にちなんだ愛称がある。
主人公に愛を囁く薔薇は全部で五本。
ネット界隈で一番人気だったのは「白薔薇の貴公子」こと、公爵令息のジークフリート・オリヴィルだ。聡明な佇まいで勤勉家な彼は、自分や他人に厳しい一面も持つが、不器用ながらも真面目で優しい好青年だった。純真に愛を囁くシーンでは、心が廃れた乙女たちのハートを瞬く間にさらっていった。
そんな彼は今、イザベルの婚約者でもある。しかし、前世で一番情熱を傾けたのはジークフリートではない。つまり、嫌いではないが好みのタイプではない。
(ジークフリート様には悪いけど、私の推しキャラは「紅薔薇の君」)
紅薔薇の君こと、クラウド・リードタィア。癖っ毛の黒髮で黒縁メガネの君は、主人公の幼なじみだった。何かとお世話を焼く貧乏くじの体質を持つ彼が、なぜ「熱烈な愛」の紅薔薇を称号を持つのか。
それは、眼鏡を外した彼が情熱的に迫ってくるシーンがあるからだ。
素顔の彼はそれはもうフェロモンを出しまくりである意味、危険な存在だった。地味な容姿とはかけ離れた、愛のハンターに生まれ変わった彼のギャップにやられる乙女も少なくない。
眼鏡属性は眼鏡を外してはならない、という友人の格言もあるが、雛乃は眼鏡属性がタイプというわけではないため、問題はない。
(相手を選べるなら、クラウドを攻略したかった……)
だが、その夢はもう望めない。
彼は幼なじみ以外の女性は眼中にない。それはそうだろう。情熱的な愛を四方八方に捧げていたら、ただの浮気男だ。百年の恋も冷める。
乙女であれば誰しも一途な愛を捧げられたい。重すぎる愛はご遠慮したいが。
イザベル・エルライン。
それはヒロインを虐げる悪役令嬢の名前だ。つまりは悪役。主人公の恋敵である。悪役令嬢に生まれ変わった現在、クラウドの愛を得ることはほぼ不可能といえる。
(でも今だけは、落ちこんでばかりはいられない)
神様は意地悪だ。前世からの恋を思い出した矢先、失恋することになるなんて、誰が予想しただろう。しかも、そのショックを癒やす時間を与える暇もなく、恋に破れた乙女に人生最大の難題を振りかけてきたのだから。
意識を手放す直前、ゲームの分岐点に差しかかったことを意味する鐘が鳴った。正確には実際にどこかで鐘が鳴ったのではなく、ゲームのBGMが脳内で再生しただけに過ぎないのだが。
(早く手を打たないと……)
緊急事態だ。乙女ゲームの主人公でもあるフローリアが、攻略対象を一人に絞ったのだ。ゲームでは、特定の攻略ルートに入ればBGMが変わる仕様だった。そのイベント分岐となるイベントを間近で見たせいで、ゲームの効果音が頭の中で流れた。
あろうことか、フローリアはジークフリートのルートに足を踏み入れてしまった。
薔薇の園遊会というイベントで、彼女はジークフリートから花束をプレゼントされていた。それこそがルートが確定したフラグだった。
このままだと、悪役令嬢であるイザベルはいずれ婚約破棄される。そして、最悪のシナリオが進行してしまう。
だまされて毒薬を飲んだイザベルは、老婆に姿を変えてしまうのだ。その後、伯爵家にはいられず、離れた山奥でひっそりと一生を暮らすことになる。
(婚約破棄はまだしも、一気に老けこむことだけは避けたい。っていうか、絶対に阻止しないとマズいわ)
できるだけ穏便に、この舞台から降りるのだ。
悪役令嬢としてではなく、あくまでその他大勢の一人として演じれば、最悪なシナリオは回避できるはずだ。そうだと信じたい。
ヒロインを散々いじめ、権力を笠にして横暴な振る舞いをしていた元婚約者。そんな汚名がつく前に、ヒロインから距離を取るべきだ。
(そうだわ。近づかないのが一番。嫉妬するのではなく、心から祝福する。そうすればきっと……悪役令嬢にも道は開ける)
幸か不幸か、ゲームはまだ始まったばかり。今なら嫌がらせもしていないし、セーフのはずだ。こちらから何もアクションをしなければ、不名誉な称号だってもらわずに済む。
やり遂げてみせよう。後で悔いても遅い。
前世の後悔は今世で晴らすのだ。
天蓋から垂れ下がるのは、ひらひらしたカーテン。遮光性はなく、ほぼ透けているために圧迫感はない。カーテンは四隅のポールにリボンでくくられ、ほとんど飾りになっている。頭を優しく包み込んでいるのは、高級な素材をふんだんに使った複数のクッション。
天蓋付きベッドから身を起こすが、よく知る自室に人の気配はなく、静まり返っている。
イザベルはズキズキするこめかみを押さえ、息をつく。
(なんだか、長い夢を見ていたような……)
サイドテーブルにあった水差しを傾け、コップに水を注ぐ。ぐびっと飲み干し、渇ききった喉を潤した。
(でもたぶん、あれは夢じゃない)
フラッシュバックした記憶を反芻する。夢の中での自分は豪華なドレスではなく、濃紺のセーラー服に身を包んでいた。そう、あれはこの世界に生を受ける前の世界、つまり異世界の記憶だ。
前世ではイザベル・エルラインではなく、久遠雛乃として高校に通っていた。
そして高校三年生の冬、受験の願掛けに行った参道で不覚にも足を滑らせ、崖から海へとダイブした。いくら成績が悪かろうと、担任から「もう諦めろ」と匙を投げられても、その道では有名な救いの神社にすがるのではなく、自力で勉強して最後まであがくべきだった。
人生をやり直せるなら、その時の自分に長く説き伏せたい。
一人で思いつめた結果、崖っぷちにそびえ立つ神社に参拝しようと思ったばかりに、久遠雛乃の人生はブラックアウトしてしまったのだから。
(人生が終わる瞬間って、結構あっけないものなのね……)
とはいえ、生まれ変わった今の人生は、それほど悪いものではない。十歳離れた兄は面倒見もいいし、毎年の誕生日のプレゼントも欠かさずくれる優しい家族だ。友人にも恵まれ、学校生活もそれなりに満喫している。
ただひとつ、問題があるとすれば、ここが前世でハマりにハマった『薔薇の君と紡ぐ華恋』という乙女ゲームの世界であること。
タイトルにもあるように、攻略対象にはそれぞれ薔薇の花言葉にちなんだ愛称がある。
主人公に愛を囁く薔薇は全部で五本。
ネット界隈で一番人気だったのは「白薔薇の貴公子」こと、公爵令息のジークフリート・オリヴィルだ。聡明な佇まいで勤勉家な彼は、自分や他人に厳しい一面も持つが、不器用ながらも真面目で優しい好青年だった。純真に愛を囁くシーンでは、心が廃れた乙女たちのハートを瞬く間にさらっていった。
そんな彼は今、イザベルの婚約者でもある。しかし、前世で一番情熱を傾けたのはジークフリートではない。つまり、嫌いではないが好みのタイプではない。
(ジークフリート様には悪いけど、私の推しキャラは「紅薔薇の君」)
紅薔薇の君こと、クラウド・リードタィア。癖っ毛の黒髮で黒縁メガネの君は、主人公の幼なじみだった。何かとお世話を焼く貧乏くじの体質を持つ彼が、なぜ「熱烈な愛」の紅薔薇を称号を持つのか。
それは、眼鏡を外した彼が情熱的に迫ってくるシーンがあるからだ。
素顔の彼はそれはもうフェロモンを出しまくりである意味、危険な存在だった。地味な容姿とはかけ離れた、愛のハンターに生まれ変わった彼のギャップにやられる乙女も少なくない。
眼鏡属性は眼鏡を外してはならない、という友人の格言もあるが、雛乃は眼鏡属性がタイプというわけではないため、問題はない。
(相手を選べるなら、クラウドを攻略したかった……)
だが、その夢はもう望めない。
彼は幼なじみ以外の女性は眼中にない。それはそうだろう。情熱的な愛を四方八方に捧げていたら、ただの浮気男だ。百年の恋も冷める。
乙女であれば誰しも一途な愛を捧げられたい。重すぎる愛はご遠慮したいが。
イザベル・エルライン。
それはヒロインを虐げる悪役令嬢の名前だ。つまりは悪役。主人公の恋敵である。悪役令嬢に生まれ変わった現在、クラウドの愛を得ることはほぼ不可能といえる。
(でも今だけは、落ちこんでばかりはいられない)
神様は意地悪だ。前世からの恋を思い出した矢先、失恋することになるなんて、誰が予想しただろう。しかも、そのショックを癒やす時間を与える暇もなく、恋に破れた乙女に人生最大の難題を振りかけてきたのだから。
意識を手放す直前、ゲームの分岐点に差しかかったことを意味する鐘が鳴った。正確には実際にどこかで鐘が鳴ったのではなく、ゲームのBGMが脳内で再生しただけに過ぎないのだが。
(早く手を打たないと……)
緊急事態だ。乙女ゲームの主人公でもあるフローリアが、攻略対象を一人に絞ったのだ。ゲームでは、特定の攻略ルートに入ればBGMが変わる仕様だった。そのイベント分岐となるイベントを間近で見たせいで、ゲームの効果音が頭の中で流れた。
あろうことか、フローリアはジークフリートのルートに足を踏み入れてしまった。
薔薇の園遊会というイベントで、彼女はジークフリートから花束をプレゼントされていた。それこそがルートが確定したフラグだった。
このままだと、悪役令嬢であるイザベルはいずれ婚約破棄される。そして、最悪のシナリオが進行してしまう。
だまされて毒薬を飲んだイザベルは、老婆に姿を変えてしまうのだ。その後、伯爵家にはいられず、離れた山奥でひっそりと一生を暮らすことになる。
(婚約破棄はまだしも、一気に老けこむことだけは避けたい。っていうか、絶対に阻止しないとマズいわ)
できるだけ穏便に、この舞台から降りるのだ。
悪役令嬢としてではなく、あくまでその他大勢の一人として演じれば、最悪なシナリオは回避できるはずだ。そうだと信じたい。
ヒロインを散々いじめ、権力を笠にして横暴な振る舞いをしていた元婚約者。そんな汚名がつく前に、ヒロインから距離を取るべきだ。
(そうだわ。近づかないのが一番。嫉妬するのではなく、心から祝福する。そうすればきっと……悪役令嬢にも道は開ける)
幸か不幸か、ゲームはまだ始まったばかり。今なら嫌がらせもしていないし、セーフのはずだ。こちらから何もアクションをしなければ、不名誉な称号だってもらわずに済む。
やり遂げてみせよう。後で悔いても遅い。
前世の後悔は今世で晴らすのだ。