国で一番のお金持ちに嫁入りしたと思っていたら、国で一番の借金持ちに嫁入りしていたようだ。
具体的な金額はわからないが、個人が背負えるような額ではない。貴族や商人よりも圧倒的な借金額だ。
(どうしましょう……)
夜になり身支度を整え、寝台で雲朔を待っていた私の頭の中は莫大な借金のことでいっぱいだった。
甘い新婚生活を夢見ていたのに、現実はとことん甘くない。
皇帝の訪れを告げる鈴の音が鳴り、私はハッとして身なりを整えた。
雲朔は艶めく漆黒の深衣を羽織っていた。昨夜よりゆったりとした出で立ちだ。
「ああ、華蓮」
雲朔は私を見るなり、駆け寄って抱きしめてきた。
「会いたかったよ。今夜の華蓮も女神のように美しい」
歯の浮くような台詞を、一切の羞恥心を持たず発言できるのだから雲朔は凄い。
とはいえ私も、毎回同じような感想を抱いているのだから似たようなものか。
「柔らかでいい匂いだ……」
雲朔は最上の幸福に酔いしれるように、私を抱きしめながら呟いた。
そのまま雲朔は私を寝台に押し倒し、首筋に口付けを落としてきたので、慌てて雲朔を制した。
「待って、雲朔。話したいことがあるのよ」
「終わってからじゃ駄目?」
雲朔は甘えるような声で言った。
「それだと、話す気力も体力もなくなっているわ」
昨夜で身に染みた。私は気を失うように眠ってしまったのだ。
「う~ん、それもそうか」
雲朔は渋々ながら納得し、体を離した。
「それで、話っていうのは?」
雲朔と私は、寝台の上でお互いに膝をつき向き合った。
(う……なんだか言いづらいわ)
そもそも言ってどうするというのか。国が借金だらけということを知って動揺するばかりで、雲朔になにをどう伝えるかは全く考えていなかった。
(でも、このままでいいはずがないわ。私は雲朔のお嫁さんになったのだから、夫を支えるのは妻の役目でしょう?)
私は一つ深呼吸をして、雲朔の目をしっかりと見つめた。
「あのね、この宮殿は私のために特別に造らせたと言っていたじゃない?」
「ああ、俺が皇帝となって初めて指示したことはそれだ。華蓮を探し出している間に完成するよう命じた」
「そう、よね。この宮殿だけやけに新しいものね」
雲朔は笑顔で頷いた。
「この前の結婚式も随分豪華だったわよね」
「もちろんだよ。華蓮には全て最上のものを与えたい」
私は頭が痛くなってきた。雲朔の私に対する寵愛は限度をこえているところがある。
雲朔の気持ちはもちろん嬉しいが、そのせいで国が傾くのは避けたい。
「私ね、八年間、田舎の辺境な村で慎ましく暮らしていたの」
「そうだね、本当に苦労をかけてしまった。これからは俺が側にいる限り、そんな惨めな思いはさせないよ」
雲朔はとても申し訳なさそうな顔をして、私の頭を優しくなでた。
「そうじゃなくて、私は慎ましい暮らしに慣れているから、もっと質素に暮らした方がいいと思うのよ。こんな高価な絹糸で作った服でなくても着ることができればなんだっていいし、食事だってもっと品数を減らした方がいいわ」
私が必死になって訴えると、雲朔の表情がみるみるうちに曇っていった。
「華蓮、なにが言いたい?」
雲朔の顔から笑みが消えると、冷徹皇帝といわれるだけあって静かな迫力がある。
「ただ……私は……足手まといになりたくなくて……」
私は途端に萎縮してしまって、目を伏せ、声が小さくなっていった。
「華蓮、俺は怒っているわけではないよ。俺を見て」
私は怯えた目を見上げて雲朔を見る。
雲朔は私がこれ以上怯えないように、私の両手を優しく握った。
「簒奪帝のせいで、国の資金はひっ迫しているのでしょう? そんな時に私だけ良い暮らしをするなんて耐えられないわ」
「そうか、華蓮は優しいね」
(いや、そうじゃなくて)
なぜにそういう結論になる。
雲朔が私を溺愛しているのは伝わってくる。賢く、いつも正しい判断を下す雲朔だが、私のことになると無茶をしたりする。そういうところが私は不安だった。
いざとなったら国や自分のために私を切り捨ててしまって構わないと思っているのに、雲朔は決してそんなことはしないだろう。
迷うことなく自分を犠牲にするだろうし、私のためなら国を切り捨てる判断をしてもおかしくない。
「あのね、雲朔、私は……」
「うん、華蓮が思っていることは俺にはわかるよ。でもね、華蓮……」
雲朔は私の手をぎゅっと握りしめて、冷静な目で語った。
「皇帝や皇后は、国の顔なんだ。皇后の生活がみすぼらしかったら国民や他国の者たちはどう思う? よほどお金がないのかと国民は心配になるし、今が好機と他国から思われ侵略戦争を仕掛けられるかもしれない。我々はどんな時であっても胸を張り微笑みを顔に張り付けていなければいけない。多少の見栄は戦略だ。俺はこれからなにがあろうとも国を立て直す。不安だろうけれど、数年辛抱してほしい」
雲朔の言葉に、不安でいっぱいだった私の気持ちが穏やかになっていく。
(そうね、その通りだわ。新皇帝になったのは、誰よりも賢い雲朔なのよ。私があれこれ心配するより、雲朔に任せた方が賢明だわ)
「……わかったわ、あなたを信じる」
私は雲朔の目をじっと見て、微笑んだ。
雲朔も安心したように微笑み、そっと私の額に口付けを落とした。
◆
「……ということだから、国のことは雲朔に任せましょう」
次の日、ゆったりとお茶を飲みながら、昨夜の会話を亘々に告げた。
「う~ん、上手く丸め込まれた気がしないでもないですが……」
亘々はあまり納得していない顔をしながらも、私の意向をくんだ。
「そう?」
「大家は娘々に心配をかけたくないのでしょうね。男の矜持もあるでしょうし」
「でも私があれこれ気を揉むより、雲朔が考えた案の方が確実で正しいと思うの」
「まあ、それはそうでしょうね」
そこは納得するのか、と私は思った。
「簒奪帝を倒して、ハイ、おしまい、にはならないと思うんですよ。むしろ本当に大変なのはこれからなんじゃないかと思ったりもするんですよね」
「亘々が不安に思うことは私も感じるわ。なにか嫌な予感がするの。でも、私にはどうすることもできない」
「そうですね、我々にはどうすることもできない」
亘々も納得した。
「私ができるのは、雲朔を支えること。余計なことをして迷惑をかけたくはないわ」
亘々も静かに頷いた。
(雲朔なら大丈夫。数年後には軌道に乗っているはず)
自分に言い聞かせるようにそう思った。
◆
皇帝の私室で、俺は一人で竹簡に目を通していた。
かつて俺の父が使っていた秘密通路扉が繋がっているあの部屋だ。黒檜の執務机の引き出しの中には玉璽が入っている。
簒奪帝の盾公は玉璽を失い怒り狂っていたという。玉璽は皇帝のみが使うことを許された印章だ。帝権の象徴とされている。
玉璽を失った簒奪帝は、天に認められていない者と国民から思われていたが、自分に意見する者は容赦なく死刑にしていたので帝の地位を降ろされることはなかった。
簒奪帝を倒すため味方を集める時、この玉璽が非常に役に立った。正統な血統に加え、玉璽を持っているということは天に認められし者の証である。皇帝が天帝と呼ばれる由縁もそこにある。
(想像以上に国の財政はひっ迫している。簒奪帝時代に上げられた税負担を下げたいが、多額の債務が払えなくなり財政破綻する。資金を増やすために種は色々蒔いているが、それが育つまでに数年はかかる)
俺は肘を机につき、額に手を当てて、大きなため息を吐いた。
(国民は長年の多税に疲れきっている。なんとか緩めてやる方法はないだろうか)
文官からの報告書を再び全て見返して、なにか良い案が見つからないか思慮を巡らす。
(華蓮にまで心配されるとは、情けない。俺がこの国を救わなければ)
俺は無性に自分が悔しくなって、上げていた前髪を手櫛でぐしゃぐしゃにした。
そして再び大量の竹簡に目を通す。なにかを見落としていないか確かめるために。
(ん? これは一体どういうことだ?)
僻地の島で起きた小さな異変。害虫が大量発生したとの報告だった。
(……害虫? この島は華蓮が暮らしていた村の者たちが集団移転したところだ。なにが起きている?)
言いようのない胸騒ぎがした。こんなこと、取るに足らない些末なことだ。それでもやけに気になる。
俺はすぐに、島に調査員を派遣して詳細を報告させるように指示した。
すっかり夜も更けた頃、俺が一日で最も楽しみにしている時間が訪れる。
本当はもっと早く行きたいのだが、いかんせん仕事が山積みで、改革しなくてはいけないことだらけだったので、いくら時間があっても足りなかった。
忙しいのに後宮に毎夜通っていたら体を壊してしまわないかと周りは心配していたが、実際のところはまったくの逆だった。
もしも華蓮の元に通わなければ、俺は寝ずに仕事に取りかかっていただろう。切り替えることもできず、心身の不調を招いていたかもしれない。
華蓮がいるから夜遅くでも仕事を終わらせ、気分転換ができる。しかも俺にとっては最上の幸福のひと時である。
たった数時間でも眠れるというのも大きかった。
健康で良い集中力の中、仕事ができるのは華蓮のおかげだった。
華蓮は気がついていないだろうが、しっかりと皇后として俺を支えてくれている。余計な心配はせず、毎日笑顔で楽しく過ごしてくれれば俺は満足だ。
「華蓮、今日も天女のように神々しく美しい」
俺は寝室に入るなり、華蓮を褒めたたえた。
いつものことなので、華蓮は苦笑いしているが、嫌がっている様子はない、と思う。そうであってほしい。
むしろ、俺を心待ちしていた様子が美しい瞳に表れている。これは恋する目だ、と思う。そうであってほしい。
「雲朔、おかえりなさい」
華蓮は、胸元が開いた練り絹の衫襦に、繊細な綾糸で織りあげた半臂を妖艶に着こなしている。
華蓮の美しさは筆舌に尽くしがたい。どんな言葉で形容したとて陳腐になってしまう。
まるで天女の羽衣のような出で立ちなので、目のやり場に困る。
こんな格好を他の男に見られたら、怒りでどうにかなってしまいそうだ。だが、この姿は夫である俺のみの特権だ。
俺は華蓮を抱きしめ、甘い匂いを吸い込んだ。
(あ~、たまらん)
冷徹皇帝と怖れられる俺が、女性を抱きしめながら、おっさんみたいなことを心の中で漏らしているなど、誰が想像できようか。絶対に心の声は誰にも聞かれたくない。特に華蓮本人が聞いてしまったら引かれる自信がある。
「あのね、雲朔、あのねっ」
華蓮は俺に抱きしめられながら、必死で今日あった出来事を話そうと頑張っている。可愛い、たまらん。
たいした話ではないのだが、女性は今日の出来事を聞いてほしい生き物らしい。華蓮は昔からそうだったので、俺はいつもニコニコとオチのない話を延々と聞いていた。
でも、実は内容はあまり真剣には聞いていなかった。
(今日も可愛いな、華蓮は。なんて清らかな瞳なんだ)
そんなかんじで、華蓮の長い話を、右から左に聞き流す癖がついていたので、今でもうっかり聞き流してしまって怒られる。
「ねえ、雲朔聞いているの⁉」
華蓮は俺の胸の中で、上体を仰け反りながら言った。
「ん? もちろん聞いている」
しまった、全然聞いていなかった。今日はどこから脱がそうかと、そんなことばかり考えていた。
普段は仕事のことばかり考えているが、華蓮の前で考えていることはたいてい華蓮に関する卑猥なことばかりである。
そんなことを考えているとは、見た目には一切出ないので、華蓮は時々、俺がなにを考えているかわからないと言うのだが、知らない方が絶対にいい。
(たまに大事な話もするから、ちゃんと聞いておかなくては。そんな話ができるようになるなんて、華蓮は成長したな。体の方もすっかり大人に……)
こうして俺は、再びいかがわしいことで頭がいっぱいになるのである。
そして華蓮の話を聞くのはそこそこに、俺の頭の中で繰り広げられた密事を夜通し実行に移すのであった。
◆
俺が調査団を派遣してから数日後。
衝撃的な報告が宮廷を駆け巡った。
華蓮を虐げていた村人を島流しした土地で尸鬼が発生したというのだ。
すぐさま数十人の高官が集められ、広間で会議が開かれた。
「尸鬼? それは伝説の生き物ではないのか?」
「尸鬼とはなんだ、どうして尸鬼だとわかる」
困惑の声があちこちから上がり、収拾がつかない状態となっていた。
俺も竹簡に目を通しながら、真偽を疑っていた。
(実際にこの目で見ないことには判断のしようがない)
そして俺は決断を下した。
「数日後に出立するぞ、準備をしろ」
俺の言葉にその場が静まり返った。
「陛下自らが行かれるのですか?」
御史大夫(ぎょしたいふ)が、おずおずと聞いた。
「もちろんだ。尸鬼かどうかこの目で見てくる。そしてなんであっても根絶やしせねばならんだろ」
竹簡には、尸鬼の怖ろしさが切実に書かれていた。
尸鬼は、まるで腐った死体のような見た目で、触れるものを腐らせていくらしい。尸鬼に触れられた植物は枯れ、生き物もドロドロに溶けるように腐っていく。
この報告が真実であるならば、尸鬼を倒さなくてはいけない。
「しかし、どうやってそんな怖ろしい化け物と戦うのですか?」
御史大夫の指摘はもっともだった。誰もこんな怖ろしい化け物と戦いたくなどない。
「それは出立までに考える。俺に任せていれば大丈夫だ」
俺の自信に満ち溢れた言葉に、その場にいた者たちは承諾した。しかしながら、皆が手放しで承諾したのではないことを感じ取っていた。他に良い案が見つからなかったから渋々承諾した、というのが本音だろう。
いくら皇帝といえど、ただの人間。尸鬼とどのように戦うつもりなのか半信半疑なのだろう。
正直言うと、俺もどう戦うのが正解かまるで見当もつかない。でも、やるしかない。俺は皇帝なのだから。
その日の夜。
俺はいつもと変わらず華蓮の元を訪れた。
数日後に出立するとはいっても、なるべくいつも通り過ごして、華蓮に余計な心配はかけさせたくなかった。
しかし……。
「尸鬼が出たって本当⁉」
華蓮は俺に会うなり、国家秘密を容易に口にした。
「華蓮……なぜそれを知っている」
俺は頭が痛くなってきた。こんな大事な情報が外に漏れている。
華蓮は皇后とはいっても政治に関与していない。それなのに知っているということは……。
「え? 宮廷内ではその話で持ち切りだそうよ」
……やっぱり。
俺はこめかみを抑えた。ズキズキとする頭痛を抑えるためである。
一枚岩にならなければいけない大事な局面だというのに脆すぎる。臣下の心はバラバラで、皇帝への信頼も薄いことが今回のことで露呈してしまった。
華蓮は俺の反応を見て、噂が本当であったことを確信したようだ。
「ねえ、雲朔、尸鬼って実在するの?」
華蓮は怯えるような目で言った。
「わからない。ただ、もしも報告通り、尸鬼が発生したとなったら大変なことになる」
「大変なことって?」
「大栄漢国が、尸鬼に喰われる」
華蓮は目を見開いて息を飲んだ。
「尸鬼は人々を喰い殺し、仲間を増やしていくと聞いたわ」
尸鬼は元々言い伝えで広まった昔話に出てくる鬼で、子供たちが悪さをしないように怖がらせる目的の架空の話だ。それが実際に現れたとなると、どんなことになってしまうのか。
華蓮が怖がっているのを見て、俺は安心させるように頭をなでた。
「大丈夫だよ、俺が全て切り倒すから。数日後に出立するんだ。さっさと片付けてくるよ」
「雲朔が行くの?」
華蓮は、とんでもないといった表情で俺を見た。
「そうだ。この国で一番強いのは俺だ。俺が行かなくて誰が行く」
「でも、尸鬼は元々死んだ人間よ。斬れば死ぬのかしら」
「胴体を真っ二つに斬れば動けないだろ」
「もしも動いたら?」
「バラバラに斬ればいい」
「分裂したみたいに動いて、さらに仲間を増やしていったら?」
なかなか気味の悪いことを言うな。
次から次に最悪の状況を華蓮が口にするので、元から苛々していたこともあり、ついに怒ってしまった。
「そんなのわからないよ! やってみるしかないだろ!」
華蓮が思いついた最悪の状況は、俺も当然想定していた。むしろ俺はもっと最悪な状況も想定していた。
尸鬼は触れたものを全て腐らせるという。尸鬼を斬った剣は錆てしまわないか。そもそも、尸鬼を倒す術はあるのか。尸鬼の生体を知らないまま特攻するのは、あまりにも危険で浅はかではないのか。
しかし、早急に動かなければ尸鬼が仲間を増やして手遅れになってしまう。むこうみずではあるが、やるしかない。だからこそ、華蓮の言葉は痛いところを突かれているので癪に障ったのだ。
「ごめんなさい、でも、雲朔が死んでしまったら、それこそこの国は終わるのよ?」
「華蓮は俺に、臣下を捨て駒にして尸鬼の生体を探れというのか? 俺はもう犠牲者を出したくないんだ」
「雲朔は優しすぎるのよ!」
華蓮は叫んだ。
「高官たちもどうかしている! こんなわけもわからない生き物と戦うのに、皇帝が戦いに行くことを許可するなんて!」
華蓮が大きな声を出すので、俺は逆に声を落とした。
「皆、尸鬼が怖ろしいんだよ。そんなものと対峙したくないんだ。だから俺が……」
「違うわよ、皇帝が死んでもいいと思っているのよ、だから……」
「それ以上言うな! わかってる!」
俺は声を荒げた。
華蓮はビクっとして、言葉を飲み込んだ。
俺が簒奪帝を倒し、新皇帝になったからといって、臣下が忠実とは限らない。俺が仲間にした者たちは、元はただの村人だ。
しかし、簒奪帝の元で堕落しきった武官たちよりも腕は立つし優秀だ。今では大栄漢国の武官として高い位を与えている。その者たちからの信頼は厚いが、文官たちは俺が皇帝となってから知り合った者たちばかりだ。
まだ日も浅く、信頼を築けていない。それに、皇帝となってすぐ政治を高官たちに任せ、華蓮を探す旅に出ていたのもいけなかった。
国が大変な時期に高官たちは必死で立て直した。皇帝がいなくても自分たちでなんとかできると思っている。
だからこそ、今回のことは俺自身の手で解決したかった。
もしも尸鬼を倒せたら、唯一無二の存在として尊敬されるだろう。皇帝として箔をつけるためにも、俺自らが前線に赴き、戦って勝利しなければいけないのだ。
……ただ、華蓮の言う通り、あまりにも無鉄砲な計画だった。
わかっている、俺は焦っているんだ。新皇帝となったときは期待でもてはやされたが、莫大な借金をすぐになくすことはできず、臣下や国民からの支持は薄れていった。華蓮にまで心配される始末だ。
だからこそ、華蓮の言葉が胸に刺さった。
「ごめんなさい、私……」
華蓮は言い過ぎてしまったと反省しているようだ。俺が全部わかっている上で、出立の覚悟を決めたとは思ってもみなかったのだろう。
「俺こそ、ごめん」
俺も感情的になったことを反省した。
これじゃまるで八つ当たりみたいだと思った。
(なにもかも上手くいかない。国は借金だらけで、臣下からの信頼も薄い。こんな奴が皇帝だなんて笑える……)
俺は心の中で自嘲した。
(もっと頼れる男になって華蓮を守るはずだったのに。心配ばっかりかけて情けない)
俺は俯いて目を閉じた。
すると、華蓮がそっと俺を抱きしめた。
「雲朔は頑張っているわ。あの簒奪帝を倒して、私を見つけ出してくれたんですもの。最高の夫だわ」
包み込むような優しい声色で華蓮は言った。
冷え切った俺の心が温かくなっていく。
「本当にそう思っている?」
「ええ、もちろんよ」
「じゃあ、もっと褒めて」
俺は華蓮の胸に頭を寄せながら言った。
甘えるなんて俺らしくない。今日は心が疲れているのだろう。
「そうね、雲朔はとても賢いし、強いし、男前だし、優しいわ。雲朔以上の素敵な男性を見たことがない」
華蓮は思いっきり俺を褒めた。こんな情けない俺でも包み込んでくれる。
「いい気分になってきた。最後にもっと強烈な言葉が聞きたいな」
「強烈な言葉?」
不思議そうに華蓮は聞いた。
「華蓮から愛の言葉を聞いたら、尸鬼だろうが悪神だろうが、なんだって倒せる気がする」
俺は誘うような瞳で華蓮を見つめた。
華蓮は一瞬で顔が赤くなった。もじもじとしていて照れているのが可愛い。
褒め言葉と愛の言葉は似ているようで全然違う。
俺は華蓮から好きという言葉は聞いていない。約束通り結婚したけれど、一番欲しい言葉は聞けずにいたままだった。
「雲朔、愛してるわ」
華蓮は照れくさそうにしながらも、俺の顔を見て満面の笑みで言った。
心からそう言ってくれているのが伝わってきた。
最高に幸せだ。今までの苦労が、華蓮のたった一言で報われた気がした。
俺も華蓮に笑みを見せ、華蓮をぎゅっと抱きしめた。
具体的な金額はわからないが、個人が背負えるような額ではない。貴族や商人よりも圧倒的な借金額だ。
(どうしましょう……)
夜になり身支度を整え、寝台で雲朔を待っていた私の頭の中は莫大な借金のことでいっぱいだった。
甘い新婚生活を夢見ていたのに、現実はとことん甘くない。
皇帝の訪れを告げる鈴の音が鳴り、私はハッとして身なりを整えた。
雲朔は艶めく漆黒の深衣を羽織っていた。昨夜よりゆったりとした出で立ちだ。
「ああ、華蓮」
雲朔は私を見るなり、駆け寄って抱きしめてきた。
「会いたかったよ。今夜の華蓮も女神のように美しい」
歯の浮くような台詞を、一切の羞恥心を持たず発言できるのだから雲朔は凄い。
とはいえ私も、毎回同じような感想を抱いているのだから似たようなものか。
「柔らかでいい匂いだ……」
雲朔は最上の幸福に酔いしれるように、私を抱きしめながら呟いた。
そのまま雲朔は私を寝台に押し倒し、首筋に口付けを落としてきたので、慌てて雲朔を制した。
「待って、雲朔。話したいことがあるのよ」
「終わってからじゃ駄目?」
雲朔は甘えるような声で言った。
「それだと、話す気力も体力もなくなっているわ」
昨夜で身に染みた。私は気を失うように眠ってしまったのだ。
「う~ん、それもそうか」
雲朔は渋々ながら納得し、体を離した。
「それで、話っていうのは?」
雲朔と私は、寝台の上でお互いに膝をつき向き合った。
(う……なんだか言いづらいわ)
そもそも言ってどうするというのか。国が借金だらけということを知って動揺するばかりで、雲朔になにをどう伝えるかは全く考えていなかった。
(でも、このままでいいはずがないわ。私は雲朔のお嫁さんになったのだから、夫を支えるのは妻の役目でしょう?)
私は一つ深呼吸をして、雲朔の目をしっかりと見つめた。
「あのね、この宮殿は私のために特別に造らせたと言っていたじゃない?」
「ああ、俺が皇帝となって初めて指示したことはそれだ。華蓮を探し出している間に完成するよう命じた」
「そう、よね。この宮殿だけやけに新しいものね」
雲朔は笑顔で頷いた。
「この前の結婚式も随分豪華だったわよね」
「もちろんだよ。華蓮には全て最上のものを与えたい」
私は頭が痛くなってきた。雲朔の私に対する寵愛は限度をこえているところがある。
雲朔の気持ちはもちろん嬉しいが、そのせいで国が傾くのは避けたい。
「私ね、八年間、田舎の辺境な村で慎ましく暮らしていたの」
「そうだね、本当に苦労をかけてしまった。これからは俺が側にいる限り、そんな惨めな思いはさせないよ」
雲朔はとても申し訳なさそうな顔をして、私の頭を優しくなでた。
「そうじゃなくて、私は慎ましい暮らしに慣れているから、もっと質素に暮らした方がいいと思うのよ。こんな高価な絹糸で作った服でなくても着ることができればなんだっていいし、食事だってもっと品数を減らした方がいいわ」
私が必死になって訴えると、雲朔の表情がみるみるうちに曇っていった。
「華蓮、なにが言いたい?」
雲朔の顔から笑みが消えると、冷徹皇帝といわれるだけあって静かな迫力がある。
「ただ……私は……足手まといになりたくなくて……」
私は途端に萎縮してしまって、目を伏せ、声が小さくなっていった。
「華蓮、俺は怒っているわけではないよ。俺を見て」
私は怯えた目を見上げて雲朔を見る。
雲朔は私がこれ以上怯えないように、私の両手を優しく握った。
「簒奪帝のせいで、国の資金はひっ迫しているのでしょう? そんな時に私だけ良い暮らしをするなんて耐えられないわ」
「そうか、華蓮は優しいね」
(いや、そうじゃなくて)
なぜにそういう結論になる。
雲朔が私を溺愛しているのは伝わってくる。賢く、いつも正しい判断を下す雲朔だが、私のことになると無茶をしたりする。そういうところが私は不安だった。
いざとなったら国や自分のために私を切り捨ててしまって構わないと思っているのに、雲朔は決してそんなことはしないだろう。
迷うことなく自分を犠牲にするだろうし、私のためなら国を切り捨てる判断をしてもおかしくない。
「あのね、雲朔、私は……」
「うん、華蓮が思っていることは俺にはわかるよ。でもね、華蓮……」
雲朔は私の手をぎゅっと握りしめて、冷静な目で語った。
「皇帝や皇后は、国の顔なんだ。皇后の生活がみすぼらしかったら国民や他国の者たちはどう思う? よほどお金がないのかと国民は心配になるし、今が好機と他国から思われ侵略戦争を仕掛けられるかもしれない。我々はどんな時であっても胸を張り微笑みを顔に張り付けていなければいけない。多少の見栄は戦略だ。俺はこれからなにがあろうとも国を立て直す。不安だろうけれど、数年辛抱してほしい」
雲朔の言葉に、不安でいっぱいだった私の気持ちが穏やかになっていく。
(そうね、その通りだわ。新皇帝になったのは、誰よりも賢い雲朔なのよ。私があれこれ心配するより、雲朔に任せた方が賢明だわ)
「……わかったわ、あなたを信じる」
私は雲朔の目をじっと見て、微笑んだ。
雲朔も安心したように微笑み、そっと私の額に口付けを落とした。
◆
「……ということだから、国のことは雲朔に任せましょう」
次の日、ゆったりとお茶を飲みながら、昨夜の会話を亘々に告げた。
「う~ん、上手く丸め込まれた気がしないでもないですが……」
亘々はあまり納得していない顔をしながらも、私の意向をくんだ。
「そう?」
「大家は娘々に心配をかけたくないのでしょうね。男の矜持もあるでしょうし」
「でも私があれこれ気を揉むより、雲朔が考えた案の方が確実で正しいと思うの」
「まあ、それはそうでしょうね」
そこは納得するのか、と私は思った。
「簒奪帝を倒して、ハイ、おしまい、にはならないと思うんですよ。むしろ本当に大変なのはこれからなんじゃないかと思ったりもするんですよね」
「亘々が不安に思うことは私も感じるわ。なにか嫌な予感がするの。でも、私にはどうすることもできない」
「そうですね、我々にはどうすることもできない」
亘々も納得した。
「私ができるのは、雲朔を支えること。余計なことをして迷惑をかけたくはないわ」
亘々も静かに頷いた。
(雲朔なら大丈夫。数年後には軌道に乗っているはず)
自分に言い聞かせるようにそう思った。
◆
皇帝の私室で、俺は一人で竹簡に目を通していた。
かつて俺の父が使っていた秘密通路扉が繋がっているあの部屋だ。黒檜の執務机の引き出しの中には玉璽が入っている。
簒奪帝の盾公は玉璽を失い怒り狂っていたという。玉璽は皇帝のみが使うことを許された印章だ。帝権の象徴とされている。
玉璽を失った簒奪帝は、天に認められていない者と国民から思われていたが、自分に意見する者は容赦なく死刑にしていたので帝の地位を降ろされることはなかった。
簒奪帝を倒すため味方を集める時、この玉璽が非常に役に立った。正統な血統に加え、玉璽を持っているということは天に認められし者の証である。皇帝が天帝と呼ばれる由縁もそこにある。
(想像以上に国の財政はひっ迫している。簒奪帝時代に上げられた税負担を下げたいが、多額の債務が払えなくなり財政破綻する。資金を増やすために種は色々蒔いているが、それが育つまでに数年はかかる)
俺は肘を机につき、額に手を当てて、大きなため息を吐いた。
(国民は長年の多税に疲れきっている。なんとか緩めてやる方法はないだろうか)
文官からの報告書を再び全て見返して、なにか良い案が見つからないか思慮を巡らす。
(華蓮にまで心配されるとは、情けない。俺がこの国を救わなければ)
俺は無性に自分が悔しくなって、上げていた前髪を手櫛でぐしゃぐしゃにした。
そして再び大量の竹簡に目を通す。なにかを見落としていないか確かめるために。
(ん? これは一体どういうことだ?)
僻地の島で起きた小さな異変。害虫が大量発生したとの報告だった。
(……害虫? この島は華蓮が暮らしていた村の者たちが集団移転したところだ。なにが起きている?)
言いようのない胸騒ぎがした。こんなこと、取るに足らない些末なことだ。それでもやけに気になる。
俺はすぐに、島に調査員を派遣して詳細を報告させるように指示した。
すっかり夜も更けた頃、俺が一日で最も楽しみにしている時間が訪れる。
本当はもっと早く行きたいのだが、いかんせん仕事が山積みで、改革しなくてはいけないことだらけだったので、いくら時間があっても足りなかった。
忙しいのに後宮に毎夜通っていたら体を壊してしまわないかと周りは心配していたが、実際のところはまったくの逆だった。
もしも華蓮の元に通わなければ、俺は寝ずに仕事に取りかかっていただろう。切り替えることもできず、心身の不調を招いていたかもしれない。
華蓮がいるから夜遅くでも仕事を終わらせ、気分転換ができる。しかも俺にとっては最上の幸福のひと時である。
たった数時間でも眠れるというのも大きかった。
健康で良い集中力の中、仕事ができるのは華蓮のおかげだった。
華蓮は気がついていないだろうが、しっかりと皇后として俺を支えてくれている。余計な心配はせず、毎日笑顔で楽しく過ごしてくれれば俺は満足だ。
「華蓮、今日も天女のように神々しく美しい」
俺は寝室に入るなり、華蓮を褒めたたえた。
いつものことなので、華蓮は苦笑いしているが、嫌がっている様子はない、と思う。そうであってほしい。
むしろ、俺を心待ちしていた様子が美しい瞳に表れている。これは恋する目だ、と思う。そうであってほしい。
「雲朔、おかえりなさい」
華蓮は、胸元が開いた練り絹の衫襦に、繊細な綾糸で織りあげた半臂を妖艶に着こなしている。
華蓮の美しさは筆舌に尽くしがたい。どんな言葉で形容したとて陳腐になってしまう。
まるで天女の羽衣のような出で立ちなので、目のやり場に困る。
こんな格好を他の男に見られたら、怒りでどうにかなってしまいそうだ。だが、この姿は夫である俺のみの特権だ。
俺は華蓮を抱きしめ、甘い匂いを吸い込んだ。
(あ~、たまらん)
冷徹皇帝と怖れられる俺が、女性を抱きしめながら、おっさんみたいなことを心の中で漏らしているなど、誰が想像できようか。絶対に心の声は誰にも聞かれたくない。特に華蓮本人が聞いてしまったら引かれる自信がある。
「あのね、雲朔、あのねっ」
華蓮は俺に抱きしめられながら、必死で今日あった出来事を話そうと頑張っている。可愛い、たまらん。
たいした話ではないのだが、女性は今日の出来事を聞いてほしい生き物らしい。華蓮は昔からそうだったので、俺はいつもニコニコとオチのない話を延々と聞いていた。
でも、実は内容はあまり真剣には聞いていなかった。
(今日も可愛いな、華蓮は。なんて清らかな瞳なんだ)
そんなかんじで、華蓮の長い話を、右から左に聞き流す癖がついていたので、今でもうっかり聞き流してしまって怒られる。
「ねえ、雲朔聞いているの⁉」
華蓮は俺の胸の中で、上体を仰け反りながら言った。
「ん? もちろん聞いている」
しまった、全然聞いていなかった。今日はどこから脱がそうかと、そんなことばかり考えていた。
普段は仕事のことばかり考えているが、華蓮の前で考えていることはたいてい華蓮に関する卑猥なことばかりである。
そんなことを考えているとは、見た目には一切出ないので、華蓮は時々、俺がなにを考えているかわからないと言うのだが、知らない方が絶対にいい。
(たまに大事な話もするから、ちゃんと聞いておかなくては。そんな話ができるようになるなんて、華蓮は成長したな。体の方もすっかり大人に……)
こうして俺は、再びいかがわしいことで頭がいっぱいになるのである。
そして華蓮の話を聞くのはそこそこに、俺の頭の中で繰り広げられた密事を夜通し実行に移すのであった。
◆
俺が調査団を派遣してから数日後。
衝撃的な報告が宮廷を駆け巡った。
華蓮を虐げていた村人を島流しした土地で尸鬼が発生したというのだ。
すぐさま数十人の高官が集められ、広間で会議が開かれた。
「尸鬼? それは伝説の生き物ではないのか?」
「尸鬼とはなんだ、どうして尸鬼だとわかる」
困惑の声があちこちから上がり、収拾がつかない状態となっていた。
俺も竹簡に目を通しながら、真偽を疑っていた。
(実際にこの目で見ないことには判断のしようがない)
そして俺は決断を下した。
「数日後に出立するぞ、準備をしろ」
俺の言葉にその場が静まり返った。
「陛下自らが行かれるのですか?」
御史大夫(ぎょしたいふ)が、おずおずと聞いた。
「もちろんだ。尸鬼かどうかこの目で見てくる。そしてなんであっても根絶やしせねばならんだろ」
竹簡には、尸鬼の怖ろしさが切実に書かれていた。
尸鬼は、まるで腐った死体のような見た目で、触れるものを腐らせていくらしい。尸鬼に触れられた植物は枯れ、生き物もドロドロに溶けるように腐っていく。
この報告が真実であるならば、尸鬼を倒さなくてはいけない。
「しかし、どうやってそんな怖ろしい化け物と戦うのですか?」
御史大夫の指摘はもっともだった。誰もこんな怖ろしい化け物と戦いたくなどない。
「それは出立までに考える。俺に任せていれば大丈夫だ」
俺の自信に満ち溢れた言葉に、その場にいた者たちは承諾した。しかしながら、皆が手放しで承諾したのではないことを感じ取っていた。他に良い案が見つからなかったから渋々承諾した、というのが本音だろう。
いくら皇帝といえど、ただの人間。尸鬼とどのように戦うつもりなのか半信半疑なのだろう。
正直言うと、俺もどう戦うのが正解かまるで見当もつかない。でも、やるしかない。俺は皇帝なのだから。
その日の夜。
俺はいつもと変わらず華蓮の元を訪れた。
数日後に出立するとはいっても、なるべくいつも通り過ごして、華蓮に余計な心配はかけさせたくなかった。
しかし……。
「尸鬼が出たって本当⁉」
華蓮は俺に会うなり、国家秘密を容易に口にした。
「華蓮……なぜそれを知っている」
俺は頭が痛くなってきた。こんな大事な情報が外に漏れている。
華蓮は皇后とはいっても政治に関与していない。それなのに知っているということは……。
「え? 宮廷内ではその話で持ち切りだそうよ」
……やっぱり。
俺はこめかみを抑えた。ズキズキとする頭痛を抑えるためである。
一枚岩にならなければいけない大事な局面だというのに脆すぎる。臣下の心はバラバラで、皇帝への信頼も薄いことが今回のことで露呈してしまった。
華蓮は俺の反応を見て、噂が本当であったことを確信したようだ。
「ねえ、雲朔、尸鬼って実在するの?」
華蓮は怯えるような目で言った。
「わからない。ただ、もしも報告通り、尸鬼が発生したとなったら大変なことになる」
「大変なことって?」
「大栄漢国が、尸鬼に喰われる」
華蓮は目を見開いて息を飲んだ。
「尸鬼は人々を喰い殺し、仲間を増やしていくと聞いたわ」
尸鬼は元々言い伝えで広まった昔話に出てくる鬼で、子供たちが悪さをしないように怖がらせる目的の架空の話だ。それが実際に現れたとなると、どんなことになってしまうのか。
華蓮が怖がっているのを見て、俺は安心させるように頭をなでた。
「大丈夫だよ、俺が全て切り倒すから。数日後に出立するんだ。さっさと片付けてくるよ」
「雲朔が行くの?」
華蓮は、とんでもないといった表情で俺を見た。
「そうだ。この国で一番強いのは俺だ。俺が行かなくて誰が行く」
「でも、尸鬼は元々死んだ人間よ。斬れば死ぬのかしら」
「胴体を真っ二つに斬れば動けないだろ」
「もしも動いたら?」
「バラバラに斬ればいい」
「分裂したみたいに動いて、さらに仲間を増やしていったら?」
なかなか気味の悪いことを言うな。
次から次に最悪の状況を華蓮が口にするので、元から苛々していたこともあり、ついに怒ってしまった。
「そんなのわからないよ! やってみるしかないだろ!」
華蓮が思いついた最悪の状況は、俺も当然想定していた。むしろ俺はもっと最悪な状況も想定していた。
尸鬼は触れたものを全て腐らせるという。尸鬼を斬った剣は錆てしまわないか。そもそも、尸鬼を倒す術はあるのか。尸鬼の生体を知らないまま特攻するのは、あまりにも危険で浅はかではないのか。
しかし、早急に動かなければ尸鬼が仲間を増やして手遅れになってしまう。むこうみずではあるが、やるしかない。だからこそ、華蓮の言葉は痛いところを突かれているので癪に障ったのだ。
「ごめんなさい、でも、雲朔が死んでしまったら、それこそこの国は終わるのよ?」
「華蓮は俺に、臣下を捨て駒にして尸鬼の生体を探れというのか? 俺はもう犠牲者を出したくないんだ」
「雲朔は優しすぎるのよ!」
華蓮は叫んだ。
「高官たちもどうかしている! こんなわけもわからない生き物と戦うのに、皇帝が戦いに行くことを許可するなんて!」
華蓮が大きな声を出すので、俺は逆に声を落とした。
「皆、尸鬼が怖ろしいんだよ。そんなものと対峙したくないんだ。だから俺が……」
「違うわよ、皇帝が死んでもいいと思っているのよ、だから……」
「それ以上言うな! わかってる!」
俺は声を荒げた。
華蓮はビクっとして、言葉を飲み込んだ。
俺が簒奪帝を倒し、新皇帝になったからといって、臣下が忠実とは限らない。俺が仲間にした者たちは、元はただの村人だ。
しかし、簒奪帝の元で堕落しきった武官たちよりも腕は立つし優秀だ。今では大栄漢国の武官として高い位を与えている。その者たちからの信頼は厚いが、文官たちは俺が皇帝となってから知り合った者たちばかりだ。
まだ日も浅く、信頼を築けていない。それに、皇帝となってすぐ政治を高官たちに任せ、華蓮を探す旅に出ていたのもいけなかった。
国が大変な時期に高官たちは必死で立て直した。皇帝がいなくても自分たちでなんとかできると思っている。
だからこそ、今回のことは俺自身の手で解決したかった。
もしも尸鬼を倒せたら、唯一無二の存在として尊敬されるだろう。皇帝として箔をつけるためにも、俺自らが前線に赴き、戦って勝利しなければいけないのだ。
……ただ、華蓮の言う通り、あまりにも無鉄砲な計画だった。
わかっている、俺は焦っているんだ。新皇帝となったときは期待でもてはやされたが、莫大な借金をすぐになくすことはできず、臣下や国民からの支持は薄れていった。華蓮にまで心配される始末だ。
だからこそ、華蓮の言葉が胸に刺さった。
「ごめんなさい、私……」
華蓮は言い過ぎてしまったと反省しているようだ。俺が全部わかっている上で、出立の覚悟を決めたとは思ってもみなかったのだろう。
「俺こそ、ごめん」
俺も感情的になったことを反省した。
これじゃまるで八つ当たりみたいだと思った。
(なにもかも上手くいかない。国は借金だらけで、臣下からの信頼も薄い。こんな奴が皇帝だなんて笑える……)
俺は心の中で自嘲した。
(もっと頼れる男になって華蓮を守るはずだったのに。心配ばっかりかけて情けない)
俺は俯いて目を閉じた。
すると、華蓮がそっと俺を抱きしめた。
「雲朔は頑張っているわ。あの簒奪帝を倒して、私を見つけ出してくれたんですもの。最高の夫だわ」
包み込むような優しい声色で華蓮は言った。
冷え切った俺の心が温かくなっていく。
「本当にそう思っている?」
「ええ、もちろんよ」
「じゃあ、もっと褒めて」
俺は華蓮の胸に頭を寄せながら言った。
甘えるなんて俺らしくない。今日は心が疲れているのだろう。
「そうね、雲朔はとても賢いし、強いし、男前だし、優しいわ。雲朔以上の素敵な男性を見たことがない」
華蓮は思いっきり俺を褒めた。こんな情けない俺でも包み込んでくれる。
「いい気分になってきた。最後にもっと強烈な言葉が聞きたいな」
「強烈な言葉?」
不思議そうに華蓮は聞いた。
「華蓮から愛の言葉を聞いたら、尸鬼だろうが悪神だろうが、なんだって倒せる気がする」
俺は誘うような瞳で華蓮を見つめた。
華蓮は一瞬で顔が赤くなった。もじもじとしていて照れているのが可愛い。
褒め言葉と愛の言葉は似ているようで全然違う。
俺は華蓮から好きという言葉は聞いていない。約束通り結婚したけれど、一番欲しい言葉は聞けずにいたままだった。
「雲朔、愛してるわ」
華蓮は照れくさそうにしながらも、俺の顔を見て満面の笑みで言った。
心からそう言ってくれているのが伝わってきた。
最高に幸せだ。今までの苦労が、華蓮のたった一言で報われた気がした。
俺も華蓮に笑みを見せ、華蓮をぎゅっと抱きしめた。