後頭部に衝撃を受け、そこから黒い固まりが崩れ落ちた。

「痛っ……」

 頭を触ると、ざらざらとした感触が指先につく。それを顔の前に持ってくると、手に泥砂がべっとりとついていた。

(またか……)

 頭にぶつけられた固まりが、泥団子であったことが判明してため息をつく。

 私、(とう)華蓮(かれん)は、どうやら見た目が目立つらしい。のどかな田畑の風景とは馴染んでいないなと自分でも思う。
 でも、それは仕方のないこと。元は後宮妃だったので、華やかな宮殿にいる方が肌になじむ。それが、彼らには癪に障るのだろう。生まれが違うのだからどうしようもないと思うのだけれど、そうやって割り切ってしまうところも私が嫌われる原因だ。

投げてきた人物を見るために後ろを振り向くと、薄汚れた襦褲(じゅこ)を着た男たちと、冴えない(あか)色の嬬衣(じゅい)を着て、裙子(くんし)の上から()を重ねた女たち数人が群れて笑っていた。歳は十六歳前後で、私と同年代だ。

 こんな子供じみた嫌がらせで楽しんでいるなんて、なんて愚かなのだろう。

侮蔑の眼差しを彼らに向けて、無視してそのまま前を見た。頭にこびりついた泥砂を手で払いながら歩き出す。
 春になったとはいえ、長時間水で洗うのは凍えるほど寒いのに、まったく面倒なことをしてくれた。

まるで私に投げつけるように、癪に障る甲高い笑い声が後ろから聞こえる。
 それすらも無視をして、砂利を踏みしめながら家へ帰る。相手にするだけ無駄であるということを私は経験から嫌というほど学んでいる。

 一重底しかない粗悪な(くつ)は、足裏に小石が当たって痛い。底が木で出来ていて泥除けもある(せき)を履いていた頃が懐かしい。鮮やかな銀朱(ぎんしゅ)色で絵柄や紋様も入っていた。

 あの頃の私は、上等な襦裙(じゅくん)を身に纏い、(うすぎぬ)を肩に羽織って、銀の豪華な(かんざし)までつけていた。
 今では泥団子を投げつけてきた村人たちよりも粗末な継ぎはぎだらけの短褐(たんかつ)だ。そりゃため息だって出る。

八年も前のことなのに、昨日のことのように思い出せる。荘厳な宮廷も、贅を凝らした小離宮も。そして、彼の不器用な微笑みも。
 凄惨で痛ましい思い出の中に、大切で温かな記憶もある。腹が立つときや、惨めな気持ちになったときに彼を思い出すと、眠っていた矜持が湧いてきて背筋を伸ばして前に進める。私にとって彼との約束は、心のよりどころなのだ。

……たとえ、もう叶うことはないとしても。


 貧しい農村の一角に、ひときわみすぼらしい平屋がある。それが、私の家だ。

藁を詰め込んだだけの屋根は、雨が降ると漏れてくる。もう八年もボロ小屋に住んでいるから雨漏りにも慣れたものだった。

「ただいま~」

 戸口を開けて中に入ると、狭い部屋の奥に、私と同じく短褐を着た女性が織り機で反物を生産していた。
 彼女の名前は亘々(こうこう)。二十六歳で、女性として花盛りの時期であるというのに、男のように髪を緇撮(しさつ)に結い上げている。

 最新の織り機は、座ったまま踏み板を踏んで動かしたり、横棒や取っ手を使って繊細な模様を織ることができるけれど、彼女が使っているのは旧製のやたら大きな音が出る粗末なものだ。最新式のように図柄が複雑な絹布を生産することはできないので、家計は常に苦しかった。
亘々の両足は織り機を挟むように豪快に開かれ、屈託のない笑顔を私に向けた。

「おかえりなさいませ、お嬢様」

 短褐を着るような貧しい身なりの私に様をつけて敬語で話す様子は、はたから見ればおかしなものだろう。私ですら「もうお嬢様と呼ぶのはやめて」と言っているのに、亘々は頑として言うことをきかない。
 亘々にとって、私は仕えるべき主で、このように不遇な状況となった今でもそれは変わらないのだ。男のように緇撮に結い上げているのも、恋などはしないと決めているからである。ずいぶん仁義にあつい人物に見えるけれど、私は知っている。そもそも愛だの恋だの男だの、そんなものに興味はないのが亘々という女である。

「学堂はどうでしたか?」

「うん? まあ、いつも通りよ」

 泥団子をぶつけられた頭を隠すように髪をかき上げると、亘々の瞳が鋭くとらえた。

「……お嬢様、その髪の汚れ、どうされました?」

(げ、もう気付かれた)

「え、なんのこと? あら嫌だ、砂がついてる。汚れた手で触ってしまったからかしら」

「すっとぼけないでくださいよ。また嫌がらせされたんですね。あんの野郎共、一回首をぐきっとへし折ってやらないと分からないようですね」

「いや、それやったら死ぬから。やめて」

 私は呆れるように言った。本気でやりかねないから亘々は怖い。

「学堂がこの村にできたのだって、お嬢様の資金のおかげなのに、あいつらは搾取することしか頭にないんだから」

 学堂とは庶民(主に子供)が学問を教わる場所だ。貧しい農民たちは、食べていくだけでやっとの状態だったので、子供に学問を教える余裕もなかった。飢饉で村人全員が死にかけていたところを助けてやったのが私や亘々の持っていたお金なのに、村人たちは感謝するどころか迫害しているのだから始末に負えない。

「仕方ないわよ。私たちをかくまっていることが露呈したら、村ごと焼け放たれて皆殺しだもの」

私は亘々から目を逸らして、自分に言い聞かせるように言った。

「村人たちの本音は、厄介者の私たちに出ていってほしいんでしょうね。飢饉であえいでいるのを救ったのに感謝の気持ちすら持たず、お金を搾り取るだけ絞り取って捨てようって魂胆ですね。なんて仁義のない奴らだ。尸鬼(しき)になるぞ」

尸鬼とは体内に住む虫のことで、憎しみや負の感情を好物としていて、愚かな人間は尸鬼に精神を喰われ乗っ取られるという。まあ、子供に言うことを聞かせるための、昔からある言い伝えだ。

「ああ、そうだ。そんなことよりお嬢様、凄い情報を手に入れましたよ」

 亘々は得意気に目を輝かせた。

「凄い情報?」

「はい、簒奪帝(さんだつてい)が崩御されて新皇帝が誕生したようです」

「え⁉」

あまりの衝撃に、私は目の前が一瞬真っ白になった。
 簒奪帝とは、皇位継承権がない者が皇帝の地位を奪取した帝のことをいう。
 ……簒奪帝。私の全てを一夜にして奪った憎き(かたき)。あいつを殺すためなら命なんて惜しくない。むしろ、奴が死ぬのなら、喜んで差し出すだろうと思っていたほど忌まわしい相手。これほど憎んだら尸鬼になってしまうと怯えたほどだ。

 その、簒奪帝が死んだ。

「いつ……?」

 震える唇で訊ねる。全身が寒気だっていた。

「それが一か月以上前のことらしいです。ここは(みやこ)から遠く離れているし外部との接触がほとんどないから情報が届くのに時間がかかるんですよ」

 だからこそ身を隠す場所にここを選んだ。しかし、新皇帝が誕生したというのに情報を得られるまでにこれほど時間がかるなんて。都から遠すぎるのも考えものだ。

「あの策略家の簒奪帝を討つなんて新皇帝はどんな御方なのかしら」

「それが、簒奪帝よりも残虐で冷酷な悪帝らしいですよ。簒奪帝の臣下や後宮妃を宮殿に閉じ込めて皆殺しにしたそうです。簒奪帝は色好みだったから後宮妃は数千人いたそうです。臣下や女官合わせると数万人を皆殺しにしたとか」

 怖ろしい数だ。簒奪帝が謀反の戦を仕掛けた時も相当な数が殺されたが、後宮妃は元々少なかったし、すでに多くの臣下が簒奪帝に寝返っていたから、あの日殺されたのは、私の父や皇子たち合わせて数千人ほどだ。それでも多いと思っていたのに、さらに上回るとは。

「簒奪帝が新たな簒奪帝に殺されたわけね。因果応報というものかしら」

 私は吐き捨てるように言った。殺された者たちに同情はしても、簒奪帝を同情する気は一切ない。

「そうですね、八年前に正式な継承血筋を持つ者はいなくなってしまいましたから」

 亘々の言葉に、顔が強張ってしまった。私の顔色の変化を察知した亘々は慌てて頭を下げた。

「申し訳ございません! お嬢様のお気持ちを考えず、私はなんという軽率な言葉を!」

 床に頭をつけるほど深く謝る亘々に、私は慌てて駆け寄る。

「いいのよ、亘々はなにも悪くないわ。ただ、事実を言っただけですもの……」

 顔をあげた亘々は泣きだしそうな目で私を見上げた。
 そう、あの日助けてくれた彼は、もうこの世にいない。

「迎えに行くから」と言った言葉も、「お嫁さんにしてね」と言った約束も、一生叶うことはない。分かっていた。生き延びているはずがないということなど。分かっていた。待っていても、彼は来ない。
 私は偽りの微笑みを顔に張り付ける。本当は今すぐ声をあげて泣きたかった。

亘々は私の気持ちが分かっているからこそ、心の底から自身の言葉を後悔しているようだった。