雲朔が凱旋した。

 麒麟が現われて、尸鬼を倒したという話はあっという間に国中に広まった。国中が名君の誕生をお祝いしお祭り騒ぎだ。
 私の切実な祈りは、少しは雲朔の役に立ったのだろうか。私が祈ろうが祈らまいが結果は同じだったかもしれないけれど、あの時自分にできる精一杯をやったことに後悔はない。
 行動を起こした。それが、宮中の人々に届き、信仰心を復活させたことが、目に見える一番の収穫だった。
 きっと、歴代の偉大な先祖たちも力を貸してくれたのだと思う。そう感じる、それだけで全てに感謝する理由になる。

 雲朔が帰ってきたという一報を聞いた私は、後先考えずに後宮を飛び出した。
 私の後ろから亘々や女官たちが「お待ちください!」と一生懸命追いかけてくる中、みんなを振り切って、紫禁城の太和殿広場に到着したという一行の元へ走っていった。
 到着したばかりの雲朔はまだ馬に乗っていて、多くの武官や官吏に囲まれながら祝福されていた。
 そんな中、私が多くの女官たちに追いかけられながら太和殿広場へと走ってきたのだ。
 馬に乗っていた雲朔は、私が走ってくるのを見つけると、何事かと驚いた様子で馬から下りた。
 雲朔を取り囲むように集まっていた人々も、私の姿を見ると、まるで道を開けるように雲朔から離れていった。
 雲朔は馬の手綱を近くにいた武官に託すと、私の方へ走って駆けてきた。
 私はそのままの勢いで思いっきり雲朔に抱きつき、雲朔はそれをしっかりと受け止めてくれた。
 大勢の人たちの中で、私たちは抱き合って再会を喜んだのだ。
 とんでもなく怒られることを覚悟していたのだけれど、なぜか周囲から拍手が起こり、私たちを祝福してくれた。

 久しぶりの雲朔は、また少し成長したみたいでがっしりとした体つきだった。それに、戦から帰ってきたので、いつも衣に焚いている高級なお香の匂いもしなくて、草地に体を擦りつけたみたいな匂いがした。
 それが、雲朔が生きている証拠みたいな気がして、胸の奥が熱くなった。
 もう二度と会えないかもしれないと、不謹慎な思いが頭に浮かぶ度に考えないようにしていた。念願だった結婚もできたのに、今度こそ二度と会えない状況になったらと思うと、怖くて仕方なかった。

「会いたかった、会いたかった、雲朔」

 私は雲朔の首に手をまわして、ぎゅっと抱きしめる。

「うん、ただいま」

 雲朔は私を首筋に鼻を寄せ、私の匂いと温もりを堪能するかのように言った。
 雲朔は、雲朔だ。皇帝になったとしても、名君となって歴史に名を残す偉大な人物になるとしても、私にとって雲朔は雲朔だ。
 ずっと、大好きな人。

 ◆

―― 一年後。

「凄いぞ、借金返済だ!」

 中央官僚を集めた会議の場で、俺は喜びの声を上げた。

「さすがは麒麟に認められた名君でございます」

 高官たちは拍手をして讃えた。
 尸鬼との戦いから、全てが変わった。官僚たちは俺への信を深め、意見をよく聞いてくれるようになった。
 宮廷の武官と文官は昔から仲が悪かったが、『皇帝陛下のために』と一枚岩になって仕事をしてくれるようになった。
 さらに国民たちも、これまでは重税で不満が多かったのに、『大栄漢国を立て直すんだ』と無償で公共事業などに参加するようになり、どんどん財政は潤っていった。

 当初の予定では、最低でも三年は厳しい状態が続くと思われたが、皆が一致団結するところまで急成長するのかと驚くばかりだ。
 皆の信頼が厚くなったのは、麒麟の出現だけではない。華蓮が皆の信仰心を盛り上げてくれたからだ。
 簒奪帝のせいで、天神への信仰心がなくなってしまっていた。
 神はどうして我々を助けてくださらないんだ。神なんていないのではないか。
 無慈悲に葬られる命の多さに、信仰心は消え、恨みつらみばかりが増えていく。それは仕方のないことだ。俺だって、どうして両親や兄弟が殺されなければいけなかったのか、いまだに納得してはいない。

華蓮の凄いところは、本人はなにも考えていないということだ。
ただ純粋に天に祈り、天の力を信じ、天に感謝をしている。政治は狡猾なところがあって、国を挙げて宗教を推し進めるのは、人を動かしやすくするためでもある。だから皇帝は神事を司っている。もちろんそれは一面であり、鴛家は心からの信仰心を捧げているが、歴史上の戦争が好きな皇帝は、信仰心ではなく戦争に駆り出すために天神の存在を利用する者もいた。真に天神を敬っているならば、戦争などむやみに引き起こそうとは思わないはずだ。

華蓮は俺が凱旋した後も、廟堂へのお参りを欠かさない。私利私欲のためでなく、天への感謝の気持ちを伝えるためだ。その純真な思いが、宮廷に広まり、皇帝のみならず、皇后を慕う(いしずえ)となっていることを、意図せずやっているのだから、天も嬉しいだろう。
なぜ皇帝や皇后が神事を司っているのか。華蓮は生涯、表向きの理由だけしか知らず、それで納得し、心からの信仰を捧げるだろう。それでいい。本来はそうあるべきだ。

皇帝となり、天帝と崇められ、国民の生活や命を守る立場となって、感じることがある。
俺は全ての権力を握っている。俺が右といえば、右だし、左といえば左だ。誰に手を差し伸ばすかで、簡単にその人の人生を変えてしまう。
まるで本当の神になったかのようだ。そうなると、おこがましいが、神の気持ちがわかるようになってくる。

どんなに力があったとしても、全ての者を救うことなんてできないし、むやみに物を与えたところで、それはその者を幸せにするとは限らない。
逆に堕落し、甘え、感謝の心が薄れ、強欲になっていく者もいる。与えるだけが優しさではないし、成長のためにわざと助けを求める手を取らないこともある。その結果、その者が潰れたとしても新たに立ち上がる者が出てくればそれでいい。
無慈悲に見えるだろうが、冷酷さもないと政治は務まらない。綺麗ごとだけで、国を守ることはできないのだ。
だからこそ、華蓮は心優しく等しく万人を包み込むような皇后であり続けてほしい。
光と影の存在がないと、世の中は上手くまわらない。


会議が終わり、皇帝の私室で一人静かに執務机に座りながら仕事に打ち込む。
執務机の目の前の壁には、大きな絵画が飾ってある。絵師に描かせた皇后の人物画だ。

『華蓮はもっと内側から輝くような美しさだ!』

 と散々文句を言ったら、どんどん本人からは遠くなっていってしまった。これだけ大きな絵画なのに、現皇后だと気づく者がいないというのは、ある意味幸運だったのか。私室に妻の人物画を飾る夫は、世間的にはどう映るのだろう。まあ、臣下に引かれようと痛くも痒くもないのだが、華蓮本人に引かれるのは辛い。
 ちなみに華蓮の人物画を私室に飾っていることを本人は知らない。それに、執務室の机の中に、華蓮が以前使っていたかんざしや、結婚式で口をつけた小さな盃≪さかずき≫など、華蓮に関する思い出の品が大切に保管されていることなど、知る由もない。
 さすがに嫌な顔をされることくらいはわかっているので、こっそり隠し持っている。
 仕事で疲れたときなどに、それらを見ると不思議と癒される。そして、さっさと仕事を終わらせれば華蓮の元へ行けると思うと、俄然集中力が増す。
 頭の片隅で華蓮のあられもない姿を想像しながら、小難しい経理の計算をすることができるくらい俺の脳の容量は優れている。
 普段は自分の頭があまりにも精密なのでうっとうしくなるが、こういう時は、賢くて良かったと思う。
 頭が回りすぎるというのも、なかなか面倒なものだ。
たとえば、一人でいられる時間がないと駄目なのも、他者といると様々なことが気になって仕方なくなるから疲れる。華蓮となら、むしろずっと一緒にいたいと思えるのだが、本来の性格は人に興味がないので、だんだんと息が詰まってくる。

地面を這いつくばって、虫にしか興味を抱けなかった男が、皇帝となってしまった。両親を殺された復讐心もあるが、もしも華蓮を助け出すという目標がなければ、ここまで頑張ることはできなかっただろう。俺の行動動機の中心はいつだって華蓮だ。
華蓮は良くも悪くもなにも考えていない。もちろん彼女なりに思い悩んだりすることがあるのは知っているが、基本的に昔から自分が楽しいか楽しくないかで判断する。
楽しければ笑い、悲しければ涙する。怒りたいときは怒って、眠たくなったら寝る。感情が顔にそのまま出るのでわかりやすい。一緒にいると、世の中のほとんどのことはどうでもいいことのように思える。

太陽が暖かく、食事が美味しければ今日はいい日だ。なんの疑いもなくそう思えるのだから凄いと思う。自分にはまったくない考え方なので、そんな風に毎日を過ごせたら幸せだなと思う。華蓮といると、幸せのおこぼれをもらっているような、そんな温かな気持ちになれる。
大人になった華蓮は、さすがに昔の天真爛漫でなにも考えない無鉄砲な無邪気さはなくなったけれど、代わりに慈愛深い女性になった。
辛いことを経験しているから、他者の痛みに敏感で、寄り添い共感することができる。

俺は人間というのは愚かで欲深く残忍な一面があると思っているし、天神ですら厳格で冷酷な一面を持っていると思っているが、華蓮は違う。
どんな者にも手を差し出し、万人を救いたいと思っている。天神は器が広く慈愛に満ちた敬慕すべき存在だと思っている。
きっとそれは、華蓮自身が純粋で人も神も疑わない人物だからだ。俺みたいにひねくれていないからだ。
麒麟が俺の前に出現したことにより、『名君だ』と盲目的に崇拝されるようになったが、本来の俺は大した人物ではない。

頭の中は華蓮でいっぱいだし、基本的に人なんてどうでもいいし、大義のためなら弱者も切り捨てる冷酷さを持っている。
犠牲者を出したくないのは、単なる俺の身勝手さだ。人であろうが動物であろうが、虫であろうが、目の前で死ぬのを見たくないからだ。なんとなく嫌だ、ただそれだけの感情で動いている。
名君だと崇拝されるのは、買いかぶりすぎだとわかっているのに、否定しないのは、その方が都合がいいからだ。こんなのが皇帝で、この国はかわいそうだなと思うから、自分にできることは最大限にやる。ただそれだけだ。それに、豊かで幸せな国を作ったら華蓮が喜ぶから。俺の行動理由なんて、そんなものだ。

さあ、今夜も華蓮の元へいこう。



「はっはー! お前ら俺様に勝とうなんざ百億年早いぞ!」

 武官たちとの手合わせで、数人が束になってかかってきたが、一太刀で倒した俺は、練兵場の真ん中でふんぞり返って高笑いをした。

 俺は雄珀。元は山賊の長という身分ながら、禁軍の右龍武軍(うりゅうぶぐん)で将軍に登り詰めた男だ。

そして数年後は大将軍になっているだろう。目標や夢などではない、確実に来る未来だ。なぜなら俺がそう決めたからだ。異論は許さない。

 母は遊郭の中でも有名な美しい妓女だった。身請けされ、俺が産まれた。しかし、身請けした父親がクズだった。代々続く商人の一人息子だった俺の父は、酒、女、賭博、暴力、なんでもありの最低野郎だ。自分が惚れて身請けしたくせに、元妓女という肩書きを罵り、酔って帰ってきては暴力を振るうというありさまだった。
 長年、体を酷使していたせいか、母は病気になってしまった。病人を離れの小屋に隔離して、医者にも診せず、食事すらまともに与えず、衰弱していくのを放任していた。俺はなんとか母を助けようと食べ物を盗んでは母に渡したが、固形物がだんだん食べられなくなり、母は餓死した。
 母が死んだ夜、俺は父を木刀で殴り殺し、家屋に火を放って山へと逃げ込んだ。八つのときの話だ。

 街に戻ったら捕まるので、俺は山賊の下っ端となった。そこから幾戦もの死地を乗り越えて山賊の長になった。
 俺は喧嘩では誰にも負けたことがなかった。どんどん規模を拡大していき、数年で国一番の山賊へと成長を遂げた。そんな頃、雲朔に出会った。
 俺が喧嘩で初めて負けたのがあいつだった。真っ青な顔色をしながら、表情一つ変えず、滅多に言葉も発しない。なにを考えているのか全くわからない上に、人間とは思えないほどの圧倒的な強さだった。

 喧嘩に負けた俺は、売り言葉に買い言葉で、まんまと雲朔の手下にされてしまったわけだが、山賊が約束を守るわけがない。折を見ては、雲朔をぶっ殺そうと卑怯なやり方で攻撃するのだが、いずれも返り討ちにされた。
 こっちはぶっ殺そうと相対しているのに、雲朔は決して誰も殺さない。怪我も最小限に抑える徹底ぶりだ。最初は嫌味なすかした奴だなと思っていたが、そうでもないということがだんだんわかってきた。

 命がけで、敵の命を守っている。馬鹿なんじゃねぇか、こいつ。頭が良すぎる奴の考えることはわからん。なにか大層な信念があるのかと思ったが、それすらもない。小さい頃、蜥蜴を助けるために川に飛び込んで死にかけた話を聞いたとき、雲朔は人間だから助けているわけではなく、そういう奴なんだなと妙に納得した。
 仲間思いなわけでも、特別情に深いわけでもない。かといって冷酷で利己的なわけでもない。

 ただ、有事の時は命懸けで守ってくれる漢気はある。食料調達も、野営地作りも、下っ端がやる仕事なのに率先して一番働いている。誰もが嫌がることも、無言で黙々とこなす。偉ぶることもなく、贅沢することもない。欲というものがなにもない。なんだ、こいつ。
 雲朔の手柄で、大量の路銀が手に入り宴を開催した時も、みんなが高級な酒を飲んで歌って踊る様子を、端の方で静かに酒を飲みながら、目を細めて眺めている。美味いものがあれば誰かに分け与え、喜んでいる姿を見ることが好きなようだ。
 だんだん雲朔という男のことが気になってきて、『お前はなにが欲しいんだ』と言ったら、『国が欲しい』ととんでもないことを言いやがる。だが、私利私欲のために国が欲しいと言っているわけではないことは明らかだ。

 深く聞いてみると、先代皇帝の直系の皇子だというじゃねぇか。しかも家族の無念のために復讐したいというのではなく、好きな女が安心してずっと暮らしていけるために簒奪帝を倒したいのだという。
 聞いていると、どこまでも『誰か』のためで、自分のためではないということに気がついた。

『皇帝になりたいわけではないのか?』

 と聞いたら、

『実は面倒くさい』

 と答えやがった。
俺は大笑いをして、雲朔を推すことに決めた。
俺の命を懸けて、お前の望みを叶えてやる。国だのなんだの、まったく興味なかったが、雲朔という男に興味を持った。こいつが作る国を側で見てみたいと思った。そして、支えてやりたいとも思った。だから俺は、大将軍になる。俺が決めた、異論は許さない。
 
 練兵場で、俺に倒された武官たちが、救護班に連れて行かれるのを、汗を拭きながら見ていた俺の元に、一人の優男が近づいてきた。

「なんだ弦武、俺と対戦したいのか?」

「そんなわけないでしょう。いったん、休憩にしませんか? 武官たちが雄珀さんの強さに怖がっちゃってます」

「おいおい、そんなに褒めるなよ」

「褒めてないです。むしろ戒めています」

 弦武がその場で腰かけたので、俺も隣に座る。練兵場のど真ん中で休むやつはそういないが、そんなことを気にするような性格じゃない。俺も、弦武も。
 俺たちが休憩し始めたので、武官たちもほっとして休みだす。訓練はぶっ通しで午前中いっぱいやっていたので、そろそろ休憩してもいい頃合いだった。
 弦武が持ってきた握り飯をもらい、かぶりつく。弦武は行儀よく、背筋を伸ばしながら黙々と食べていた。

 弦武は貴族出身だから育ちがいい。頭もいいし、顔立ちも女みたいに整っている。
 雲朔と似た性質だが、決定的に違うのは簒奪帝を倒したかった動機だ。弦武は姉を殺された復讐心からだった。
 出会った頃の弦武は、まだ少年で体は貧弱だった。俺と雲朔は、弦武が戦いに参加することをずっと反対していた。でも、弦武は何度も土下座して頼みに来た。貴族が山賊に土下座するなんてあり得ない。それほど切迫した強い望みだった。
 弦武は幼いながらも絶望を知った目をしていて、なにをしでかすかわからない危うさもはらんでいた。

 それでも戦に子どもを参加させることはできないと一蹴していたが、弦武の弓の技術は天才的だった。誰よりも正確な弓矢の軌道。遠くから参戦するということで、弦武は少年ながら戦いに参加することになった。
 実際、あの戦いで弦武は多大な貢献をしている。弦武は天才だ。だが、天才ではなかったら、戦いには参加せずに済んだ。幼い少年に、あの悲惨な戦地を見せてしまったことは本人にとっていいことだったのか。俺にはわからない。
 姉が殺されたといっても、弦武には金持ちの両親がいたし、別の人生もあったはずだ。荒くれ共が集う禁軍の武官ではなく、宮廷で汚れ一つない衣を着た文官の道に進むことだってできたはずだ。

 禁軍にいるということは、いつ死んでもおかしくはない。俺は好き好んでここにいるが、弦武はどうなのだろう。なぜか急に、そんなことが気になった。

「お前さ、ずっと禁軍にいるつもり?」

「そうですが、なにか問題でも?」

 弦武はリスのようにちまちま握り飯を食べながら言った。

「雲朔に頼んで文官にしてもらったら?」

 それまで一度も俺の顔を見ずに握り飯を食っていた弦武が、俺の顔を見た。

「どうしてそんなことを? 自分で言うのもなんですが、俺がいなくなったら全員困ると思いますよ」

 確かに、俺も困る。言っておきながら、弦武がいなくなった後のことを考えていなかった。

「そうだけど、お前の人生だろ」

 俺の言葉に、弦武は下を向いて少し考え込み、考えがまとまったのか晴れやかな表情で顔を上げた。

「俺はいつだって自分のことしか考えていませんよ。禁軍にいたいからいる。戦いに参加したいから参加する。誰かのために行動していたら、ここにはいません。両親からは猛反対でしたから」

 弦武の答えになぜかほっとする俺がいた。

「お前は雲朔とは違うな」

「当たり前でしょう、皇帝ですよ」

「でも変人だ」

「知ってます」

 俺たちは顔を合わせて笑った。

「あいつ滅多に顔見せに来ないよな」

「俺たちに会うより、皇后に会いたいのでしょう」

「薄情な奴だよ」

「そういう人です。元から情なんてありません」

 散々な物言いだが、俺たちは雲朔が好きだ。皇帝になろうが、なんだろうが、雲朔は雲朔だ。戦いの時にしか会えなくても、俺たちはあいつのために命を張っている。それでいい、見返りなんて元から求めていない。あいつが元気でいれば、それでいい。

「雄珀、弦武!」

 遠くから雲朔が俺たちを呼ぶ声が聞こえたので、一瞬幻覚かと思った。

「うわ、珍しい。話しをすればなんとやらですよ」

 弦武が立ち上がって雲朔を迎える。雲朔はたった一人で練兵場にやってきた。

「元気そうだな」

 雲朔が珍しく笑顔で懐かしそうに言った。

「どうしたんだよ。なにかあったのか?」

「いや、最近体がなまっているから運動しようと思ってな」
 珍しいこともあるもんだ。俺は驚きながら雲朔を見つめていると、弦武が耳元で俺に囁いた。

「あんなこと言ってるけど、俺たちに会いたかったんじゃないですかね?」

「そうだな、あいつはそういう男だ」

 コソコソと話していると、雲朔が放り投げてあった木刀を手に取って言った。

「おい、準備運動になるくらいのしぶとさは見せてくれよ」

「ダァーッハッハ、なにを言ってやがる。俺はお前が女に腑抜けている間にも鍛錬していたんだ。一瞬でぶちのめしてやるよ。それともなにか? 皇帝だからって手加減してほしいのか?」

 雲朔と睨み合ったまま、間合いを詰める。真剣勝負の始まりだ。



「ああ、華蓮。天なる光が差し込み、君を内側から神々しく輝かせているね」

 雲朔は、私に会うなり毎回おかしな褒め言葉を使う。
 結婚してから一年。さすがの雲朔の語彙力にも限界がきたのか、言っている意味がわからない。
 なにかのこだわりかもしれないので、とりあえず笑顔で無視することにしている。
 雲朔は寝台に座っていた私の元に駆け寄ると、包み込むように優しく抱擁した。

「体はどう?」

「少しお腹が張っているけど、体調はいいわ」

 雲朔は、抱擁していた手をほどくと、私の突き出たお腹にそっと触れた。

「いよいよだね」

 少し緊張した面持ちで雲朔が呟く。
 私もお腹をさすりながら頷いた。

「きっと華蓮に似た子が産まれる」

 雲朔は目を細めて、確信を込めるように言った。

「え⁉ 困るわ!」

「どうして困るんだ、最高だろう」

 雲朔は心底わからないと言った顔で私を見た。
 もしも私に似た子が産まれてきたら、雲朔は狂喜乱舞して溺愛するような気がする。雲朔の私への寵愛は変わらない。むしろ、安心して素を出せるようになったからか、溺愛を隠そうともしない。
 大切にしてくれることは嬉しいし、変わらず愛してくれるのは満たされる。でも、ちょっと盲目的というか、行き過ぎというか、ずれているところがある。たとえば、普通は嫁に毎日、歯が浮くような甘い台詞を囁かないと思う。
 雲朔は、頭が良くて、強くて、かっこよくて、非の打ちどころもないくらい完璧で最高の夫なのだけれど、ちょっと変だ。
 他人に言ったら、『のろけですか?』と言われてしまいそうなのだけれど、そうじゃなくて、なんか、変わっている。ちなみに亘々なら賛同してくれると思う。雲朔のことをよく知らない人が聞いたら、という話だ。
 嫌とかではなくて、むしろそういうところも抜けているかんじがして愛しい部分なのだけれど……。
 こんなことを言ったら『やっぱりのろけですね』と思われてしまうのだけれど、そうじゃなくて、なんというか、適切な愛し方を知らないから暴走して溺愛をこじらせているような、そんなところがある。
 再会した当初、変な違和感があって愛情表現が怖いと思ってしまったのも、このこじらせ方にあると思う。雲朔は欲もないし執着するものがないから、愛情の傾け方がおかしくなっていたのかもしれない。

「私に似ている子が産まれたら、お転婆で言うこと聞かなくて大変よ。気がついたら生傷作っているわよ」

「それは確かに心配だな……」

 雲朔は手を口に当てて神妙な面持ちで言った。

「私は雲朔に似た、利発で武道に長けていて、優しくて眉目秀麗な……って改めて言うと完璧人間すぎて怖いわね」

「俺は自分を完璧だと思ったことはないよ。むしろ欠陥だらけで嫌になる」

「どこが欠陥なの⁉ そんなこと言ったら他の人たちはどうなるのよ、欠陥どころじゃなく使えないゴミじゃない!」

 度を越した完璧主義発言だ。雲朔よりも秀でたところが一つもない私なんか、どうなってしまうんだろう。

「俺はみんなが羨ましいよ。人として、大事なものを持っている」

 雲朔の目が少し寂しげだったので、胸がきゅっと痛くなった。雲朔のおろしたサラサラの前髪を軽く触る。

「人として大事なものって?」

「わからない。でも、俺にはない何かだ」

 雲朔のきめこまやかな整った頬に手を這わせ、目を細めた。

「雲朔もずいぶん人間臭くなったのね。昔はそんなことに興味すら抱かなかったのに」

 そう、昔から雲朔の関心は普通の人とは違っていた。当時はそれが大人びて見えて素敵だなと思った。けれど、周りと違う自分に気がついて心を痛めている今の雲朔の方がもっと素敵に見える。

「俺には、みんなが輝いて見える」

「それは、あなた自身が輝いているからよ。人の良いところを見つけられる人は、輝いていないはずがないもの」

 笑ってはいけないのだろうけれど、不思議でおかしかった。全てを持っているのに、人を羨む気持ちがあるなんて。
 私は雲朔の頭を胸に抱いて優しく囁いた。

「大丈夫、雲朔はこれからたくさん幸せになれる。どんどん人間らしくなっているもの」

「……俺のこと、人間じゃないと思っていたの?」

「そうじゃないわ。でも、周囲の人間に関心を寄せるようになったのよ。人間らしい感情って良いこともあれば悪いこともある。でも、それを含めて尊いものよ」

 子どもが産まれたら、雲朔はもっと視野が広くなる。子育てに奮闘して、自分の頑張りではどうしようもできないことに直面したり、右往左往して思い悩んだりすることも出てくるのだと思う。
 大変だけれど、幸せな日々が待っている。

「私、この子がどんな子であろうとも嬉しいわ」

 夫婦どちらにもまったく似ていなくても、どんな子であっても愛せる自信がある。むしろ私たちをどんどん振り回してほしい。そして、生きることを楽しんでほしい。
「うん、俺もだ」
 私たちは見つめあって微笑んだ。そして、そっと口付けを交わす。



――三年後。

 俺の嫁は、想像以上にやり手だったようだ。
 侮っていたなどという失礼極まりない気持ちは微塵もない。出会った時から内に秘めた強さと溢れるような精気、そしてなにより神々しいまでの可愛さ。
 華蓮に惹かれた理由は、一目惚れだ。顔立ちがあまりにも可愛いから、華蓮の本当の魅力が隠れてしまっていたのかもしれない。
 彼女は、とんでもない女性だった。
 純真無垢で、天真爛漫。無邪気でちょっぴりお馬鹿なところも可愛かった。
 子を産むと女性は変わるというが、正直ここまでかと。いや、悪い意味で変わったのではなく、彼女の内に秘めた強さが表出したというべきか。
 でも、まさか、こんな風に変わるとは思ってもみなかった。

「えい、やあ!」

 後宮内に威勢の良い掛け声が響く。
 練兵場のような広場で、数十人の少女たちが槍の稽古に明け暮れている。
 静まり返っていた後宮はとても賑やかとなり、多くの年若い女性たちで溢れていた。
 誤解のないように説明しておくが、妃を入内させたわけではない。
 鴛家は代々一夫一婦制だからとかそんな理由ではなく、単純に華蓮以外の女性にまったく興味がない。
 むしろ、皇帝の仕事として無理やり子を増やすため、華蓮以外の女性を抱くことになるなんて想像しただけで気持ちが悪い。
そんなことを言ったら、雄珀に『女を抱くのが気持ち悪いって、そんなこと言うお前が気持ち悪い』と言われたが。
なぜ後宮がこんなことになっているかというと、発端者は一人しかいない。
後宮を統べる最上位の皇后だ。
少女たちに武術を教えて戦争にでも駆り出すつもりなのかと思いきや、そうではない。護身術を教えているらしい。もちろん教えているのは華蓮ではなく、武術に長けた女性師範だ。
簒奪帝の暴挙により、後宮にいたたくさんの妃たちが亡くなった。二度とあの悲劇を繰り返さないために、とのことだ。
とはいえ、護身術だけにしては、みんななかなか筋がいい。身体能力値の高い者を集めて、本格的に修練している。少女とはいえ、これほどの腕があれば武術経験のない大人の男であれば簡単に倒せるだろう。
さらに華蓮が手掛けたことは、これだけではない。
民の中から勉学に秀でた優秀者、しかも独身女性だけを集め、科挙に合格するための勉強を教えている。
講師は科挙に合格したことのある優秀な宦官や女官である。住まいを提供し、日夜勉学に明け暮れている。もちろん無償だ。
ここは一体なんの場所なのだろうか。後宮……ではない。まるで、女性寮の教育施設のようだ。
先代の皇后も、皇帝からお手付きにならないこと前提で後宮妃を迎い入れ、良き婿を見つけて下賜するということをやっていたが、華蓮の場合は迎い入れる少女は庶民がほとんどだ。
先代皇后は、幼女ですら受け入れていたが、後宮妃に相応しい身分の者しか入れなかったので、一応表面的には後宮の体をなしていた。身分の低い者は亘々のように女官として受け入れていた。だから、後宮の本来の目的とは少し違うけれど、後宮っぽさは残していた。
他国の後宮例を見ても、いくら後宮妃が多いからとて、全ての妃の元へ通っている皇帝は少ない。簒奪帝のように酒池肉林に溺れ、女官だろうがなんだろうが、気に入った者は節操なく手をつけるという皇帝の方が歴史的には少ないのだ。
皇帝から手つかずのまま武官の褒美として下賜される例など数多く存在する。
先代皇后の作った後宮は、聞いたことがない後宮の在り方であったけれど、既存の後宮の規則内の範囲だった。
しかし、華蓮の作った後宮は、色々な意味でぶっ飛んでいる。規則もなにもない。少女たちは妃として入内したわけでもない。純粋に学ぶために後宮に入っている。
後宮とは……と遠い目をして考え込みたくなるほど破天荒だ。
どうして後宮を教育施設にしてしまったのか、理由を聞いてみた。

『私は雲朔と違って、力もないし、頭も良くないし、私にできることなんてほとんどないのよ。でも、この国のために力になりたい。そう思ったとき、私にできないのなら他の人たちができるように育てればいいと閃いたの。道徳心もしっかり学んでもらって、この国の力になる人をたくさん育てようと思ったのよ』

『貴族ではなく、庶民を集めたのは?』

『貴族は親のお金があるから自力で勉強できるじゃない。でも、庶民は勉強する機会すら与えてもらえない。女性はさらに虐げられて、科挙に合格した女性は一割程度しかいないのよ。でも、優秀な人たちはたくさんいる。もったいないじゃない。だから、その環境を私が作ろうって決めたの』

こんなことを言われたら、応援せざるを得ない。
それは、宮廷の高官たちも同じだったようで、新しい取り組みを嫌う老官たちまでも味方につけてしまった。
尸鬼の一件が終わってからも、華蓮は毎日欠かさず祈祷を続けている。
祠堂は外廷にあるので、華蓮は常に後宮の規則を破って外廷に出ていることになるが、もはや誰も忠告する者はいない。
そこで外廷の高官、特に信仰心の厚い老官たちと話す機会もあるらしく、新しい後宮について熱心に語っていたのだとか。

『いや~、皇后は素晴らしい人徳のある御方ですな。もう二度と、簒奪帝が行った非道が繰り返されないように、若い人々を教育するのだそうです。国を乗っ取ろうと悪だくみをする者が現われたとき、どうやってその陰謀を阻止するか。武道や教育がその抑止力になるとおっしゃっておりました。思慮深き御方です』

 そう老官に言われたときは、とても驚いた。
 自分になにができるのかを真剣に考えて実行に移す行動力。そして、周りを巻き込み味方を作る影響力。
 麒麟の出現は、俺のためではなく、華蓮の強い思いに応えてくれたのかもしれない。天が認めたのは、皇后の方だったのではないかと、開花したような華蓮を見ているとそんな気にさせられる。

 そして、変わったことがもう一つ。

「やあ、華蓮、今日も一段と……ごふっ」

 いつものように華蓮に挨拶をしようと喋っていたところで、腹に思いっきり頭突きをされた。

「おい、親父、邪魔だよ!」

 もうすぐ三歳になる我が長男の翔紫《しょうし》が上目遣いで睨んできた。

「お前、父に向かってなんて言葉遣いを……ってどこに行く!」

 翔紫は一瞬目を話した隙に、走り去ってしまう。日も落ちているので、外で待機していた女官たちが慌てて皇子を捕獲し、部屋へと連れて来る。

「翔紫、こんな遅くに外に出てはいけませんよ」

「はい、母上」

 華蓮から注意されると、翔紫は素直に従った。
 俺は親父で、華蓮は母上。父と母に対する態度があからさまに違いすぎる。
 翔紫は完全な母っ子で、俺に対して敵対心を持っているようだ。顔立ちは華蓮にそっくりで、口達者なところや、やんちゃなところも華蓮似だ。
 俺たちの子は、華蓮に似たのかと思いきや、実はもう一人。

「ほら、蘭珠《らんじゅ》、お父様にご挨拶しなさい」

 寝台の下の床で、一心不乱に絵を描いていた長女が顔を上げた。
 俺の顔を見ると、『ああ、来てたの』みたいな興味なさそうな顔で一瞥され、再び下を向いて絵を描き出した。
 口達者な翔紫に比べて、蘭珠はまだ話さない。女の子なのに、身なりにはまったく興味を示さず、櫛で梳かして結ぼうとすると、とんでもなく抵抗するそうなので、髪はぼうぼうで真っ白な顔立ちの上、喋らないので不気味な雰囲気を醸し出している。
 俺たちの子は双子だった。しかも、男女を入れ替えただけと思うくらい、幼い頃の俺と華蓮にそっくりだった。
 自分や華蓮に似ているとわかってはいても、こんなに手がかかる子どもだったのかと今は亡き両親に感謝をする。
 こんな問題児を育てながら、後宮まで着手するのだから華蓮は凄い。
 それに、最近産まれたばかりの次男の世話もしなければいけない。
 華蓮は寝台に座りながら、まだ頭が座っていない赤ん坊を抱いていた。

「華蓮、顔色が悪いよ。疲れているんじゃないか?」

「えぇ、博陽《はくひ》があまり寝てくれなくて。でも大丈夫よ、乳母がよく面倒をみてくれるから」

 乳母がいるとはいえ、華蓮は自分で乳をあげていた。なるべく自分の手で育てたいというのが彼女の希望なので、尊重するようにしている。
博陽はすやすやと眠っていた。
 この子はどんな性格なのだろう。子は育てたように育つというが、生まれたときの性質というのは個々で違う。
 翔紫も蘭珠も同じ環境で同じように育てたのに、性格がまるで違うのだから面白い。

「いつもありがとう」

 赤子を抱いた華蓮の額に口付けを落とすと、華蓮は少し照れくさそうに微笑んだ。

(ああ、なんて美しさだ)

 母となっても華蓮は変わらず綺麗だった。博陽と一緒に包み込むように優しく抱きしめると、後ろからちょいちょいと袖を引っ張られた。

「おい、親父、いつ帰るんだよ」

 翔紫はジトっとした目で俺を睨みながら言った。

「いや、来たばかりだろ。それにここは俺の帰る場所でもある」

「母上が疲れていることは、見てわかるだろ。気の使えねぇ男だな」

「こら、翔紫、お父様になんてこと言うの」

 顔立ちは昔の華蓮にそっくりなのだが、たまに苛つくときがある。口達者すぎて、幼児特有の無邪気さというものがない。
 でも、たしかに華蓮が疲れているのは事実だ。子どもたちを乳母に預けて、二人でゆっくり眠るという選択もできるが、俺も父親だ。ここは俺が折れてやろう。

「翔紫の言う通り、俺がいない方がよく眠れるだろう。今日は外廷で寝るよ」

「ごめんなさい、雲朔」

「大丈夫、ゆっくり休むといい。また明日」

「また明日も来るのかよ」

 翔紫がいちいち突っかかってくるので、翔紫をひょいっと持ち上げる。

「おい、子ども扱いすんなよ! 降ろせよ!」

 どこからどう見ても子どもなのに、むしろ幼児なのに、一丁前に虚勢を張っている。

「翔紫、父がいない間、華蓮を頼むぞ」

 翔紫を上に掲げながら、真剣な目で言う。

「……当たり前だ。死んでも守る」

「いや、それはやめて」

 華蓮が冷静に突っ込む。母としては、子どもを命懸けで守りたいと思うものだが、子どもとて、母を命懸けで守りたいのだ。

(いい子だ)

 翔紫をおろし、再び華蓮の額に軽く口付けをして、部屋を出た。

(なんだこれ、寂しいな)

 外廷に戻りながら、今日は一人寝かとため息が出る。
 華蓮の役に立ちたいし、なにより華蓮の側にずっといたかったので、子育てを手伝おうとしていた時期もあるのだが、肝心の子どもに拒絶されて上手くいかなかった。
 頑張れば頑張るほどから回りし、余計な負担をかけさせるばかりだったので、自分の気持ちは押し殺して、そっと見守るようにした。
 子育てを手伝いたくないとか、自分には向いていないからとか、そんなことはまったく思っていない。これも愛なのだ。
 華蓮はまだしも、子どもたちに伝わっているかは自信がないが。
 不器用なりの父の愛だ。

(あ~、今夜は寒くなりそうだ)

 澄んだ夜空に浮かぶ月を見上げながら思った。

◆ 

「私の名前は亘々。
 後宮の女官をしている。誰の側に仕えているかって?
 え、聞きたい? え、それ聞いちゃう?
 ……皇后様(ボソリ)。
 ちゃんと聞こえた? ああ、良かった。
 ほら、やんごとなき御方だから、あまり大きな声では言えないからさ、ごめんね。
 ここだけの話、女官の中で一番偉いの私。
 皇后様には昔から仕えていたから、一番の信頼を寄せてもらってんのよ。
 ま、女官っていうより、皇后様の親友ってかんじかな。
 いや、親友だなんてそんな大それたことを私が言ったわけじゃないよ!
 皇后様は、私のことを親友って思っているだろうなって、ふふ。
まあ、本人から言われたことはないけど。
 ちなみに普段は、娘々って呼んでいるの。昔はお嬢様って呼んでいたんだけど、ほら、皇后様になっちゃったから、対面的にも娘々って呼んだ方がなんとなく箔がつくかなと思ってさ。
 それにほら、娘々に仕えているっていうのが一発でわかるでしょ」

「ちょっと亘々、あなた赤ん坊相手になにを話しているの」

 博陽様を抱っこしながら語りかけていた私は、調子が出てきたところで、娘々に止められた。

「また新人が入内してくるんで練習していたんですよ」

「うちの子を練習台にするのやめて。それに、その自己紹介の仕方やめた方がいいわよ」

「人の話を勝手に聞くのはやめてもらっていいですかぁ?」

「聞きたくて聞いてるわけじゃないわよ。勉強に集中できないから外に行っててちょうだい」

 娘々は、翔紫様と蘭珠様に筆の持ち方を教えている最中だ。
 まだ三歳になられたばかりだというのに、なかなかの教育母っぷりだ。
 娘々が三歳くらいのときは、筆なんか渡したら部屋中墨だらけにしたことを忘れているのだろうか。
 娘々に似ていると言われている、やんちゃな翔紫様でさえ、ちゃんと座ってお利口に筆を持っている。

「亘々、博陽を連れて散歩でもしてこい」

 翔紫様は背筋を伸ばして座ったまま、横目で私を見て言った。
 三歳にしてこの流暢な言葉。神童通り越して怖ろしくなる。
 まだ見た目は幼児なので、大人の霊が憑依しているのかと思うくらいの違和感だ。
 娘々もおませで口達者だったけれど、ここまでではなかった。
 でも、教えているのが娘々じゃなかったら、間違いなく速攻で逃げ出しているに違いない。
 母への異常なまでの執着愛は、雲朔様そっくりだ。
 ちなみに蘭珠様は床に寝そべりながら、『石』を描いている。蘭珠様はお絵描き好きで、いつも黒い丸いものを殴り書きしていると思っていたが、最近それが『石』を描いているということがわかった。
 蘭珠様の『石』の腕前はどんどん上がっていき、まるで本物のような質感の『石』の絵を描く。これも、とても幼児が描いたとは思えない仕上がりだ。
 なぜ『石』なのかは、本人が喋らないので謎のままだ。

「はいはい、わかりましたよ~」

 すっかり重くなった博陽様を抱っこして部屋を出て行く。
 博陽様は、私の話が気に入ったらしくご機嫌だ。

「ああ、あ、ああ」
 と言いながら、話を急かして
くる……ように、見える。
「話の続きを聞きたいのですね。いいですよ。せっかくなので私の生い立ちの話から始めましょうか」

 暖かい春の陽ざしを浴びながら、重たい博陽様を抱っこして庭を歩く。

「私の人生は、あの方と出会った時から始まりました……」

 博陽様に語りかけるというよりも、まるで歌うように独り言を呟いた。

「正直、それまでの人生なんてクソみたいなものでしたよ。
 え、汚い言葉使いをするなって?
 道端に落ちているクソでもまだ綺麗な方ですよ、本当に毎日糞尿まみれ。あれは地獄でした。

 色々な地獄を見てきましたが、あれほど酷いものはなかった。貧しい農村で生まれた私は、十二歳で孤児となりました。その年は干ばつによる大飢饉に襲われ、子どもたちに食料を分け与えていた両親は軽い風邪で亡くなりました。幼い弟や妹もいたので、私は女衒に行くことを決意しました。それほど多くない銅貨でしたが、弟や妹が当面の間生きていくことはできます。

 私と同じく売られた少女たち数十人が、都に行くために船に乗せられました。私はその中で一番若かったので、姉さんたちに可愛がってもらいました。
 一週間近く船に乗っていたのですが、食料はほとんど与えてもらえませんでした。それだけではなく、売人が姉さんたちに手を出していたのです。

 本来なら、これから売りに出す商品に手を出すなんてありえないことです。けれど、この年は大飢饉の影響で例年以上に多くの女性がいたので、少しくらいならいいだろうと考えたのでしょう。
 嫌がった人は酷く殴られ、中には死んでしまって海に捨てられた人もいました。私はこんな奴らに指一本触れられたくなかったので、自ら糞尿を体に擦りつけました。
 もちろん嫌でしたが、やるしかありませんでした。体や服にだけでなく、顔や頭にもうんこをつけました。船の揺れとくさい匂いで吐いてばかりいました。

 自分の嘔吐物も体につけたので、売人は私に近づこうともしませんでした。
 都に着いたものの、栄養失調と吐いてばかりいたので、ほとんど私は死にかけていました。
 くさいし、死にかけだったので、花街に入る前に捨てられました。
 街にゴミのように捨てられた私は、道行く人たちにも避けられ、路地裏の片隅で一人死を待つばかりでした。

 そんな私を拾ってくれたのが、娘々のお父様です。
 娘々のお父様は禁軍の大将軍というとても偉い方です。一銭の得にもならないどころか、迷惑にしかならない私を引き取り、仕事を与えてくれました。
 やんちゃ娘の面倒見役です。すでに娘々のお母様は病で亡くなっていたので、やんちゃ娘には相当手を焼いていたようです。
 私は長女で、田舎には小さい弟や妹の世話をしていたので、娘々とはすぐに打ち解けました。それに、拾ってくれた恩を返すべく、一生懸命働きました。

 それが、私の第二の人生の始まりです。
 それからは天真爛漫な娘々に振り回されながらも、楽しい毎日を送らせてもらっています。
 ここだけの話ですけど、娘々は私が男性に興味ないと思っているようですが、そんなことはないのです。昔からひっそりと想いを寄せていた方がいるのです。

 その方は私を拾ってくれて、新しい人生をくれました。もうこの世にはいないけれど、今でもお慕いしているのです。内緒ですよ。
 娘々のことをずっと妹のように思っていました。でも、娘々は成長してあっという間に私を追い越していってしまいました。今では、どちらが姉かわからないくらいです。まあ、見た目は明らかに私の方が年を取っているんですがね。

 精神年齢は娘々の方が高いですね。私の心は、あの方が亡くなったときのまま止まっています。
 簒奪帝が起こしたあの戦いのさなか、あの方とほんの一瞬だけ目が合いました。
『華蓮を頼む』と託されました。声は聞こえなくても、理解致しました。
 あの時から私は、命懸けで娘々を守ると決めたのです。

 いや~、それにしても最近の娘々は凄いですね。こんなことを言ったらアレですけど、あなたのお母様は、昔はこんなに切れ者じゃなかったのですよ。
 後宮妃時代から勉強が大嫌いで、簒奪帝から隠れるために田舎に身を寄せていた時も、娘々のために簡素な学堂を作ったのにまともに勉強していなかったですからね。
 学堂とはいっても、空き家になっていた平屋を綺麗にして、若い頃に都で教えていた経験があるという老人に給金を渡して教えてもらっていただけですが。

 それに、後宮もすっかり様変わりしましたね。新しい人をどんどん入内させていますが、これまでの慣例通りの後宮より運営費が低く抑えられているのですよ。
 普通の後宮は、妃が一人入内するだけで、衣装や食事、女官の賃金など多くの税が必要でしたが、娘々が新しく作った後宮は、全て自分たちで行うので賃金が発生しないのです。
 宮殿の掃除や後宮の管理に多くの女官が必要でしたが、入内した本人が掃除するので下仕えの者がいらないのです。
 元々貧しい生まれの女性たちがほとんどなので、清潔な衣食住が提供され、さらに教育まで施してもらえるとあって、入内希望者はどんどん増えているそうです。

 娘々って、なかなか策士というか経営能力がある女性だったのだなと感心しました。
 廃れた後宮を人件費をかけずに、すっかり綺麗に復興させてしまいましたからね。
 そして浮いた後宮維持費で、念願の廟堂をお作りになられました。
 そうです、簒奪帝によって多くの後宮妃や女官が死んだあの場所にお作りになったのです。

 もう二度と、あのような悲劇が起こらないように。
 娘々は皇后として自分のできる精一杯のことをしているようです。

 立派になられましたよね。あのお転婆で天真爛漫だった女の子が、このように変わられるとは、立場が人を作るといいますけれど、まさにその典型例でございます。

 とはいえ、娘々の口癖は『私なんて……』というのが気になります。
 世の女性達が羨むような美貌を持っているのに、秀でた能力がなにもないことを憂いているのです。おかしいでしょう?
 教育によって国を支えるという考えになったのは、自身の能力に対する劣等感が影響しているのかもしれません。
 賢さと強さ、全てを備えている大家は、他人に任せるなんて考えもしないでしょう。自分の能力で国を発展させる力があるのですから。

 まあ、年老いて後進に任せる必要が出てきたなら別ですが、おそらく娘々のように後宮を使って女性を育てるという案は考えつかなかったでしょうね。
 娘々だからこそ、考えついたことであり、娘々にしかできない後宮の在り方です。

 でも大家も変わっているのですよ。
 大家なんて、この世の全てを持っているといっても過言ではない方じゃないですか。
 国一番の頭の良さに、国一番の強さ、さらにあの見た目。

 それなのに、他の人々が羨ましいらしいですよ。なにを羨むことがあるのかと思いますよね?
 どうやら大家は、『人徳』が欲しいらしいですよ。
 これ、笑っちゃいけないですけど、笑っちゃいますよね。

 もちろん大家を馬鹿にしているわけじゃないですよ。でも娘々から聞いた時は思わず笑ってしまいました。
 しかも別に、指導者としての資質や能力といった類のものじゃないらしいんですよ。大家はすでに、民からも臣下からも絶大な信頼を寄せられていますからね。

 そうじゃなくて『親しみやすさ』であったり『明るさ』といった人としての楽しさや魅力に憧れるそうなんですよ。
 こういっちゃなんですけど、たしかにないですよね!
 そういう朗らかさや適当さがない真面目人間からしたら、私みたいな明日のことすら考えられない阿呆は輝いて見えるんでしょうね。

 ないものねだりに見えますが、それとはちょっと違うような気がします。
 大家も娘々も、決して欲張りではないですから。欲しいものがあるなら、ないことを嘆くのではなく、努力して手に入れる方々です。
 どんなに努力しても手に入れられないものというのは、人間誰しもあるのでしょうね。
 それが自分にとって大きな価値のあるものだとしたら、どんなに他が恵まれていたとしても一抹の虚しさというのは人生に残ります。

 あれ、そう考えると、私は今、なにも欲しいものがありません!
 私が幸せだなと思う人生は、適当に毎日生きて、笑って過ごすことです。私は、毎日幸せだなと感じますし、こんな自分が大好きです!

 こうなりたいとか、向上心なんて持ち合わせてないので、とても気楽です。
 太陽の下で、こうやって博陽様とくだらない話を一方的にできるなんて最高じゃないですか。
 つまりは私、最強ってことじゃないですか?
 天下を取った大家や娘々よりも幸せなのかもしれませんね。なにせ、責任というものがなにもないですし!
 いや~、私、最強!」

 高揚した気分で博陽様を持ち上げて高い高いすると、博陽様は呆れるように笑った。
 赤ん坊って、呆れるように笑うことあるんだ、と思って一瞬固まる。
まるで天の神が博陽様に乗りうつって笑ったかのような不思議な笑顔だった。



                                  【完】