新皇帝が、憎い……。
 全てを私から奪った。もう私にはなにもないのに、それでもまだ奪い続ける。
 新皇帝が、憎い。

「そこにいるのは誰だ」

 威圧的(いあつてき)な低い声が後ろから投げかけられた。
 錦衣衛(きんいえい)に見つかった。殺される。
 分かっていても、もう逃げる体力も気力も残っていなかった。
 覚悟を決めて、ゆっくりと振り返る。

 漆黒の甲冑(かっちゅう)に身を包んだ男は、背が高く引き締まった体をしていた。
 流れるような黒髪に、精巧(せいこう)な金細工のような整った顔立ち。溢れ出る気品と冷酷な雰囲気は見る者を圧倒する貫禄(かんろく)がある。
 錦衣衛にしては猛々(たけだけ)しく、しっかりと体を鍛えているのが一目でわかるので、もしかしたら禁軍所属の武官かもしれない。

 この世の全てを憎み、絶望し、呪うような目で、声をかけてきた人物を(にら)みつける。
 男は、私を見ると固まったように動かなくなった。驚きが顔に出ている。

 殺すなら、さっさと殺してほしい。

瞳から一粒の涙が(こぼ)れ落ちる。この涙は恐怖でも、悲しみでもない。ひたすら悔しかった。どれほど恨んでも足りないほどだ。
新皇帝が、憎い。

男は二、三度(まばた)きをすると、我に返ったようにゆっくりと歩み寄ってきた。

逃げるなら今しかない。
 逃げる気力も体力も残っていないと思っていたが、(せま)りくる死を前にしたら不思議と力がみなぎってくる。
 駆け出して山に逃げ込めば勝機はあるかもしれない。

でも、その後は?

 奇跡的に逃げることができたとしても、そこからどうやって生きていくのか。ここで潔く斬られた方がましだと頭ではわかっているのに、死の恐怖が、とにかく逃げろと言ってくる。

 立ち上がり、駆け出そうとすると、それを(さっ)した男にあっという間に拘束(こうそく)された。
 まるで抱きしめられるように体を掴まれる。

「ひっ……」

 死の恐怖で体が固くなる。
 小さく悲鳴をあげると、男はさらに強く抱きしめてきた。

「会い……たかった……」

 私の首筋に顔を(うず)め、(しぼ)り出すような声で男は言った。

(会いたかった?)

 誰かと勘違いしているのだろうか。男の声は聞いたことがない低い音だし、禁軍の武官は父しか知らない。
 男は私の体を反転させて向かい合わせると、目を細めて私の顔を見つめた。そして、私の頬を壊れやすい装飾品を触るようにそっとふれる。

「やっと見つけた……俺の花嫁」

 男は(いつく)しむような瞳で、とても優しい声で囁いた。
 その瞬間、ある人を思い出した。

「まさか……」

 声が震える。聞いたことがないと思っていた男の声は、優しさを含んだ甘い声になると、聞き慣れた愛しい人の声と重なった。
 筋肉質で引き締まった体に高い背丈で、雰囲気がまったく異なっているけれど、整った秀麗な面立ちは見覚えがある。
 八年が経ち、驚くほど変わった彼に気がつかなかった。

雲朔(うんさく)……?」

 戸惑いながら尋ねると、男は顔をくしゃっとさせて優しい笑顔を向けた。

「そうだよ、華蓮(かれん)。ずっと会いたかった」

「嘘……本当に? 本当に雲朔なの?」

 雲朔の顔を()でまわして、本当に実態があるのか確認する。
 彼に触れた手先が震えていた。涙が(あふ)れてきて、全身が喜びに震えている。
怖いとか憎いとか、そういう気持ちは吹っ飛んでしまった。代わりに胸を締めつけるような愛おしさが込み上げる。

「幽霊じゃないわよね?」

「死んでないよ」

 雲朔の困ったような笑い顔を見て、間違いなく雲朔だと思った。
 雲朔はいつもこうして私を受け入れてくれた。

「雲朔! 雲朔!」

  何度も名を呼びながら雲朔に抱きつく。
 もう二度と会えないと思っていた。死んだものと思っていた。

 会いたかった。ずっと、寂しかった。

 胸が締め付けられて苦しいけれど、喜びの涙がとめどなく溢れてくる。
抱きしめた腕に力を込めると、雲朔も全てを受け入れるように抱きしめ返した。