逃げるぼくを追いかける2人。ノーマークだったぼくが出てきたことで、牽制しているのか、届く距離に位置取りしながらもアタックを仕掛けてこない。2人の選手をよく見ると、1人は昨年のツール・ド・フランスで山岳賞を獲ったイタリアのジュリオだ。29歳の彼は、どこかあの頃のぼくと似ている気がする。失うものなど何もないという気持ちが背中にひしひしと伝わって来る。もう1人は、今年初参戦のチーム選手でジョアンという。昨年のジロ・デ・イタリアでは、25歳でヤングライダー賞やステージ優勝も獲得している。
 90㎞を通過。後ろから2人の息づかいが聞こえてくる。まだ峠は上りだ。ぼくはさらに心拍数を上げてペダルを踏み込む。後ろの2人は、すぐさま反応したが、ジョアンが少し遅れた。彼はここまで来るのに、相当脚を使ったのだろう。そのまま追いつけずに離れていった。
 ぼくとジュリオは、下りに入った。スピードが一気に加速する。コーナリングが命取りになる下りは、テクニックと度胸が必要だ。
 「ジュリオ、ついてこい!」思わずぼくは叫んでいた。何故かは分からない。彼の目が、あのころの自分と少し重なったのかも知れないし、そうではないような気もする。ただ、風が心地よかった。

 しばらく下ると、最後の峠が見えて来た。残り16㎞。標高1678mのコル・ド・ラ・クイヨールだ。勾配は先ほどの峠と同じ7%だ。でも、さっきよりもさらに傾斜があるように感じる。これが魔物なのか。29歳のときは、力尽きて飲み込まれてしまった。しかし、いまは疲れているけれど、まだ余力を感じられる。でも、焦りは禁物だと自分に言い聞かせる。そうしないと、脚が勝手にアタックを仕掛けそうになる。
 メイン集団が1分差の所まで迫ってきていると、大会用バイクが知らせる。でも、まだだ。そう思ってペダルを漕いでいると、ジュリオが息を上がらせながら話しかけてきた。
「ユキ、あんたは何のためにロードバイクをしているんだ。もう引退の歳だろ? なぜ走る?」ただの挑発かとも思ったが、お互い必死にペダルを漕いでいるこの状況で、それはあり得ないとも思い、考えた。
 初めてロードバイクに乗ったとき、ペダルを1回踏む度に世界はぼくの後ろへと流れた。それを何度か繰り返すうちに、ぼくは風になったのだと錯覚した。あのころのように、ぼくは風になりたい。そして、誰かの背中を押す追い風になりたい。ぼくがペダルを踏み込むごとに、見ている誰かの背中を押してあげることができたらいいなと心から思う。この峠を上り切ったら誰かを笑顔にさせることが出来るのかもしれない。ステージ優勝したら、マティやチームメイトたちがよくやった!と喜んでくれるかもしれない。ぼくは、ぼくを支えてくれた人たちのために、走っている。そう、走っているんだ――。
「ジュリオ、君は本当にタフで勝負強い! 君だったら、きっとこの先のグランツールで総合優勝も獲得できると思う。ぼくは君と走れたことを誇りに思うよ。それから……ぼくは風になる――。そのために走るんだ」
 残り3㎞。メイン集団が下から迫ってきている。ぼくは力強くペダルを踏み込んだ。これまで積み上げてきた『価値』を背に。風に、風になるために――。