「夜にしかあらわれない化け物……?」
放課後の教室。教卓にひじをつく松吉先生は、うーん、と首を傾げつぶやく。
「……鵺?」
「ふつー吸血鬼とかでしょ。てかふつーに人間だったよ」
あら残念、と肩をすくめる松吉先生。なにが残念なのかはわからない。
松吉先生は今年で定年を迎えるおばちゃん先生。時々こんな風に、よくわからないことを言う。
「人間だったけど、化け物みたいなやつだよ。あ、見た目じゃなくて、中身が」
それから私は、朝と過ごした一週間のことを話した。
朝はとにかくわがままで、生意気で、自己中心的で。思い出すだけで、ムカついてくるし、あきれるし……って。
「ちょっと先生、聞いてる?」
「ごめんごめん」
今の私の話に対するリアクションの正解は、いっしょにムカつくか、そいつやばいって笑うことだ。
なのに松吉先生は笑ってはいるが、口元が緩んだようにニマニマとほほえんでいる。町で幼稚園児の集団散歩を見かけた時のような感じのあたたかなほほえみだ。
「その化け物さんと、河西さんはよく似てるのね」
「はぁ? どこが?」
「だって二人とも、正直者じゃない」
「正直者……」
たしかに朝は、言い方を変えればすごく正直者だ。嫌なことは嫌だってはっきり言うし、楽しかったら楽しいと笑う。
初めて会った次の日、私が買ったスプレーを朝が噴いた時、目をキラキラと輝かせて笑っていた。
そういうところが、朝のいいところなんだろう。
そんな朝が私と似てる? こんな、うそつきな私と?
やっぱり松吉先生は、よくわからないことを言う。
松吉先生は教師の中で唯一、いや、私と接点のある大人の中で唯一、私のことを気にかけてくれる。
なんで私のことを気にかけるのかはわからない。でも松吉先生が、松吉先生だからって理由で私は納得してる。
きっかけは半年前。大雪が降った冬のことだ。
私は補講を受けるために学校に来ていた。三学期のテストが赤点だらけで、このままでは進級ができない、と担任から強く言われた。でも、補講に来た理由はそれじゃない。
「やっぱり……」
校門は閉まっていた。今日は土曜日。しかも大雪。さらに今は午前6時半。生徒も先生も、誰も来ていなくて当たり前だ。
昨日の夜から寝付けなくて、結局暇に耐えかねて来てしまった。家に居たくなかった、というのもあるけど。
私は考える。
駅まで戻ってファミレスで待つか、もういっそこのまま帰ろうか。別に進級できなくても、退学するだけだし。
私は自分の人生に興味が持てなかった。ため息が白く凍る。すると、そこに一台の車がやってきた。
「あら早いね」
運転席から降りてきた松吉先生は細い体で鉄の校門をひっぱり開け、「またあとでね」と言い残して再び車に乗り、校内の駐車場へと去っていった。
教室へ行き、ストーブのボタンを押すが灯油切れのランプが点灯した。
詰んだ、と思った矢先、松吉先生が扉を足で勢いよく開け、台車を押して入ってきた。
一見上品なおばさん先生が教室の扉を足でこじ開けたこと。
そして、荷台に乗った炭が入った七輪に、私は眉間にしわをよせた。
「みんなには内緒ね」
そういって先生は炭に火をつける。
なんだこの人……。松吉先生のつかめないキャラに、私に備わった大人という存在に対し無意識に張るバリアのような敵意がぐらつく。
いや、こんな風におどけて見せて近づこうとしているのかもしれない。
私は気を引き締めるようにキッと睨むが、七輪からじんわりと伝わる火のぬくもりに気持ちが溶けていく。
「冬はつとめて」
教壇に私と並んで座る松吉先生は七輪に手を当てながら呟く。
「え?」
「清少納言の枕草子よ」
そういって松吉先生は枕草子の原文と現代語訳が書かれたプリントを取り出す。そういえば、松吉先生は国語教諭だ。
「冬は早朝が趣がある。趣って、今でいうエモいって意味」
「エモいって」
松吉先生の口から飛び出した若者言葉に噴き出すと、松吉先生も笑った。
それから松吉先生は枕草子のこと、枕草子を描いた清少納言がどんな人だったのか、清少納言が生きた時代のことを教えてくれた。
それは私が赤点を取ったテストの内容だった。これが、補講ということらしい。
でも、なぜか松吉先生の言葉はすんなりと頭の中に入ってきた。
気がつけば昼に近い時間になっており、七論の炭は真っ白になっていた。
「わろし、だね」
「うん。わろし」
そういって私たちは笑いあった。
私は進級できた。古典だけじゃない。ほかの教科もそこそこいい成績をとれた。
だけどそれも松吉先生のおかげだ。
私はあの日、生まれて初めて勉強の楽しさを知った。
二年生になった私は、朝から昼まで寝て、夕方は学校に行って松吉先生とおしゃべり兼勉強をして、夜になると姫香たちと出歩くルーティンを生きていた。
でも、やっぱり一番楽しいのは、松吉先生と勉強している時間だ。
そのころからだ。姫香たちと過ごす夜の時間が、退屈に感じるようになったのは。
それでも私は夜になれば町へ行く。
このままでは成績が良くなっても、卒業までの出席日数が足りずに退学になると分かっていても、夜になれば町に行く。
だって私には、夜にしか居場所がないんだから。
チャイムが鳴り、松吉先生との勉強時間の終わりを告げる。これからは朝とグラフィティの時間だ。
松吉先生はほかのクラスの宿題を採点しながらたずねる。
「河西さんはグラフィティのプロになりたいの?」
「べつに。ただの趣味だよ」
これは本心だ。グラフィティは楽しいし、最後まで描き切ったときの爽快感はすばらしい。でも、プロになりたいかと言えば、そうじゃない。
「ほかに、やりたいことは?」
「ないよ」
「じゃあ、あこがれの人とかは?」
松吉先生がこんなこと聞くなんて珍しいなと思ったが、答えはすぐ後ろの黒板に貼られていた。
『進路希望調査票の提出期限。7/8 厳守!』
そういえば引き出しの中に入ってたっけ。
進路か。考えたことなかった。やりたいことなんてないし、あこがれの人か。
私はぼんやりと考え、一定のリズムで赤ペンを走らせる松吉先生をみつめる。
「ま……」
私は口を開きそうになって、私なんかがこんなことを口に出しちゃいけないと思い、とっさに首を振った。
「なんかいった?」
「ううん。そんな人いないよ」
そういって私はじゃあね、と教室を出た。
ほら、やっぱり私はうそつきだ。
放課後の教室。教卓にひじをつく松吉先生は、うーん、と首を傾げつぶやく。
「……鵺?」
「ふつー吸血鬼とかでしょ。てかふつーに人間だったよ」
あら残念、と肩をすくめる松吉先生。なにが残念なのかはわからない。
松吉先生は今年で定年を迎えるおばちゃん先生。時々こんな風に、よくわからないことを言う。
「人間だったけど、化け物みたいなやつだよ。あ、見た目じゃなくて、中身が」
それから私は、朝と過ごした一週間のことを話した。
朝はとにかくわがままで、生意気で、自己中心的で。思い出すだけで、ムカついてくるし、あきれるし……って。
「ちょっと先生、聞いてる?」
「ごめんごめん」
今の私の話に対するリアクションの正解は、いっしょにムカつくか、そいつやばいって笑うことだ。
なのに松吉先生は笑ってはいるが、口元が緩んだようにニマニマとほほえんでいる。町で幼稚園児の集団散歩を見かけた時のような感じのあたたかなほほえみだ。
「その化け物さんと、河西さんはよく似てるのね」
「はぁ? どこが?」
「だって二人とも、正直者じゃない」
「正直者……」
たしかに朝は、言い方を変えればすごく正直者だ。嫌なことは嫌だってはっきり言うし、楽しかったら楽しいと笑う。
初めて会った次の日、私が買ったスプレーを朝が噴いた時、目をキラキラと輝かせて笑っていた。
そういうところが、朝のいいところなんだろう。
そんな朝が私と似てる? こんな、うそつきな私と?
やっぱり松吉先生は、よくわからないことを言う。
松吉先生は教師の中で唯一、いや、私と接点のある大人の中で唯一、私のことを気にかけてくれる。
なんで私のことを気にかけるのかはわからない。でも松吉先生が、松吉先生だからって理由で私は納得してる。
きっかけは半年前。大雪が降った冬のことだ。
私は補講を受けるために学校に来ていた。三学期のテストが赤点だらけで、このままでは進級ができない、と担任から強く言われた。でも、補講に来た理由はそれじゃない。
「やっぱり……」
校門は閉まっていた。今日は土曜日。しかも大雪。さらに今は午前6時半。生徒も先生も、誰も来ていなくて当たり前だ。
昨日の夜から寝付けなくて、結局暇に耐えかねて来てしまった。家に居たくなかった、というのもあるけど。
私は考える。
駅まで戻ってファミレスで待つか、もういっそこのまま帰ろうか。別に進級できなくても、退学するだけだし。
私は自分の人生に興味が持てなかった。ため息が白く凍る。すると、そこに一台の車がやってきた。
「あら早いね」
運転席から降りてきた松吉先生は細い体で鉄の校門をひっぱり開け、「またあとでね」と言い残して再び車に乗り、校内の駐車場へと去っていった。
教室へ行き、ストーブのボタンを押すが灯油切れのランプが点灯した。
詰んだ、と思った矢先、松吉先生が扉を足で勢いよく開け、台車を押して入ってきた。
一見上品なおばさん先生が教室の扉を足でこじ開けたこと。
そして、荷台に乗った炭が入った七輪に、私は眉間にしわをよせた。
「みんなには内緒ね」
そういって先生は炭に火をつける。
なんだこの人……。松吉先生のつかめないキャラに、私に備わった大人という存在に対し無意識に張るバリアのような敵意がぐらつく。
いや、こんな風におどけて見せて近づこうとしているのかもしれない。
私は気を引き締めるようにキッと睨むが、七輪からじんわりと伝わる火のぬくもりに気持ちが溶けていく。
「冬はつとめて」
教壇に私と並んで座る松吉先生は七輪に手を当てながら呟く。
「え?」
「清少納言の枕草子よ」
そういって松吉先生は枕草子の原文と現代語訳が書かれたプリントを取り出す。そういえば、松吉先生は国語教諭だ。
「冬は早朝が趣がある。趣って、今でいうエモいって意味」
「エモいって」
松吉先生の口から飛び出した若者言葉に噴き出すと、松吉先生も笑った。
それから松吉先生は枕草子のこと、枕草子を描いた清少納言がどんな人だったのか、清少納言が生きた時代のことを教えてくれた。
それは私が赤点を取ったテストの内容だった。これが、補講ということらしい。
でも、なぜか松吉先生の言葉はすんなりと頭の中に入ってきた。
気がつけば昼に近い時間になっており、七論の炭は真っ白になっていた。
「わろし、だね」
「うん。わろし」
そういって私たちは笑いあった。
私は進級できた。古典だけじゃない。ほかの教科もそこそこいい成績をとれた。
だけどそれも松吉先生のおかげだ。
私はあの日、生まれて初めて勉強の楽しさを知った。
二年生になった私は、朝から昼まで寝て、夕方は学校に行って松吉先生とおしゃべり兼勉強をして、夜になると姫香たちと出歩くルーティンを生きていた。
でも、やっぱり一番楽しいのは、松吉先生と勉強している時間だ。
そのころからだ。姫香たちと過ごす夜の時間が、退屈に感じるようになったのは。
それでも私は夜になれば町へ行く。
このままでは成績が良くなっても、卒業までの出席日数が足りずに退学になると分かっていても、夜になれば町に行く。
だって私には、夜にしか居場所がないんだから。
チャイムが鳴り、松吉先生との勉強時間の終わりを告げる。これからは朝とグラフィティの時間だ。
松吉先生はほかのクラスの宿題を採点しながらたずねる。
「河西さんはグラフィティのプロになりたいの?」
「べつに。ただの趣味だよ」
これは本心だ。グラフィティは楽しいし、最後まで描き切ったときの爽快感はすばらしい。でも、プロになりたいかと言えば、そうじゃない。
「ほかに、やりたいことは?」
「ないよ」
「じゃあ、あこがれの人とかは?」
松吉先生がこんなこと聞くなんて珍しいなと思ったが、答えはすぐ後ろの黒板に貼られていた。
『進路希望調査票の提出期限。7/8 厳守!』
そういえば引き出しの中に入ってたっけ。
進路か。考えたことなかった。やりたいことなんてないし、あこがれの人か。
私はぼんやりと考え、一定のリズムで赤ペンを走らせる松吉先生をみつめる。
「ま……」
私は口を開きそうになって、私なんかがこんなことを口に出しちゃいけないと思い、とっさに首を振った。
「なんかいった?」
「ううん。そんな人いないよ」
そういって私はじゃあね、と教室を出た。
ほら、やっぱり私はうそつきだ。