こちらへ近づいてくる男の姿を見て、私は男の肌の赤みが疾患、病気によるものだとすぐに気づいた。
 化け物なんて言ってしまった、と罪悪感を覚え、顔をそらすと男は「気にしてねえよ」と言った。
「アレルギーなんだ。なに言われても慣れてる」
「……そう」
 すると男は、スプレーで描かれた私のサインを指でなぞる。インクはまだ乾ききっておらず、男の指が黄色く濡れた。
「お前はうそつきって感じの顔してるな」
「はぁ?」
 なんだこいつ。初対面で人の顔見て失礼すぎる。……って、全部がブーメランだ。
 私はなにも言えずににらみつける。しかし男は私の敵意に気づいていないようだった。
「なんでLiarなの? 本名?」
「そんなわけないじゃん。理沙。L、i、s、a。そっからまぁ、なんとなく……」
「なんとなくってなんだよ」
 そういって男はケラケラと笑った。
 男の笑い声は人を馬鹿にした感じがなく、ただ純粋に面白いと思って笑っている感じがして、私は不思議と苛立たなかった。
 私はじっと男を見つめる。歳は変わらないくらいだろうか。鼻立ちはくっきりとしていて、猫目。笑った顔は少年っぽいが、やはり赤く腫れた皮膚の荒れ、ただれに意識が持っていかれる。
「日光アレルギーなんだ」
 私がなんのアレルギーなんだろう、と思った瞬間、男は答えた。
 この慣れた感じ、こんなやりとりを人生で幾度となく繰り返しているのだろう。
「なのに名前が朝ってヤバくね?」
「朝?」
「朝昼晩の朝。小野寺朝。ヤバくね?」
「へーヤバいね」
 別にヤバいとは思わないけど、適当に合わせて笑う。だけど朝はすでに私のことを見ておらず、指についたインクをこすりながら、私のサインを見ていた。
「Liar、Lisa、やっぱりな」
「なにが?」
「高架下のグラフィティ、あんたが描いたんだろ?」
「……そうだけど」
 朝が私に向けた一言目は「見つけた」だった。それはつまり、私のことを探していたということだ。
 朝は私が描いたグラフィティを見て、字は違うが形が似たサインを見かけ、きっと私のサインだろうと探し、そして今日、私にたどり着いたのだろう。
「ほかのグラフィティは? どっかにあるの?」
「ないよ。あれが最初で最後」
「は? なんで?」
「別に。もうやる気ないだけ」
「マジでうそつきじゃん!」
 朝はそういってまたけらけらと笑った。今度はちょっとムカついた。
「なにが」
「じゃあなんでスプレー持ってんだよ」
 私はなにも言えずに、顔をそらした。ムカついた理由。それは図星をつかれたからだ。
 朝はひとしきり笑うと、なにやら閃いたように「あ」とつぶやいた。
「じゃあさ、俺に教えてよ。グラフィティ」
 ひまでしょ? と言い朝は財布から五千円札を取り出し、私の手に無理に握らせる。
「これで必要な分のスプレー買っといて」
「なんで私が……」
「俺、太陽があるときは出歩けないから」
「そうじゃなくて。っていうか、それなら駅前なら22時くらいでもやってる店あるし……」
「じゃあまた明日、これくらいの時間で、よろしく!」
 そういうと朝は去ってしまった。
 私はしわがついた五千円札を見つめる。無理やり持たされた時についたしわのせいで樋口一葉が笑っているように見えた。