私が初めてこの世から居なくなりたいと思ったのは小学1年生の時だった。
気がつけばいつも一人だった。要領が悪いとか、運動音痴とか、臭いとか。理由は人それぞれだろうが、とにかく私は一人だった。
テレビや教科書でみたり、先生の口から発せられる『友だち』という言葉を、私はひどく他人事に感じていた。
そんな中、一人だけ私と遊んでくれるクラスメイトがいた。
今にして思えば、彼女も私のようにどこかまわりとずれていた。
彼女はよく一人でいた。だが決して孤独ではなかった。そこが私とはちがった。
おっちょこちょい。天然。不思議ちゃん。
だから、みんなが仲間はずれにしている私と遊んでいても、彼女は許され、ついでに私も許された。
しかし、子どもが許しても、大人は許してくれなかった。
ある日の学校終わり。
私は彼女を公園へさそった。昨日と同じように。一昨日と同じように。
だが、彼女は首を振った。
「ママから理沙ちゃんとは遊んじゃダメ、って言われちゃった」
私以上に落ち込んだ様子で話す彼女の前で私はなにも言えなかった。
久しぶりに一人で帰る道は、とても長かった。
なのに意識は、彼女に誘いを断られた時から止まったままだった。どうしても飲み込むことができずに、口の中に残ったホルモンのように、彼女の言葉が消えなかった。
家に帰ると、母が居間で洗濯物をたたんでいた。
「どうしたの?」
早く帰ってきたからか、私の顔が曇っていたからか、母はしゃがむことなく、私の前に立って尋ねた。
いつもだったら言わないのに、私はつい話してしまった。
そこからの母はすごかった。
私の腕をうっけつするほど強く握り、嫌がる私を引きづって学校に怒鳴りこんだ。
彼女を呼びつけ罵声を浴びせ、彼女のママを呼びつけ泣き喚き、先生を含め、その場にいた全員に私にではなく、自分にむかって土下座をさせた。
母はそういう人だった。
母は私の代わりに怒っているわけではない。母は『仲間外れにされているかわいそうな娘の母』になりたくなくて怒っていた。
きっと家に帰ったら、私も土下座をさせられるだろう。
お前のせいで私が恥をかいた、と。
あぁ、どうして母に話してしまったのだろう。
私は赤く腫れた腕をおさえてそう思った。
このとき、理沙は生まれて初めて、この世から居なくなりたいと強く願った。
この日から私は自分から人をさけて生きた。
先生も、クラスメイトも、みんな敵。すれちがう人はみんな敵。
仲間外れにされているんじゃない。自分がまわりをさけているんだ。そういうことにした。
そうすれば母はかわいそうな娘の母じゃなくなる。私はかわいそうじゃなくなる。
母のため、みんなのため、そして自分のために虚勢を張り続けた。今はもう、私がいじめられたって母は怒鳴りこまないのに。
母は私が小学3年生の時に離婚し、私が中学生になるころに再婚した。
母の意識はもう私には向いていない。新しい父も私に興味がないようだ。本当の父もまた新しい家庭を持ち、子どもが生まれていた。それを知ったのは偶然だった。
ショッピングモールで小さな子どもと手をつなぐ父を見かけた。小さな子どもに笑いかける父を見て、父は私たち家族という失敗を経て、子育てのやり直しをしているのだと、そう思った。一瞬、父と目が合ったが父は私から目をそらした。
中学の卒業式が終わり、アルバムの最後のページをめくる。誰からのメッセージもない寄せ書きのページを見て、これが私なんだと思った。
真っ白。空っぽ。なにもない。それが私。
私はアルバムをコンビニのゴミ箱に捨てて帰った。
私の孤独は限界を迎えていた。
私は友だちが欲しかった。だけど、友だちが分からない私に、友だちの作り方は分からなかった。
高校生になって数日。みんなは同じ中学、同じ習い事、同じ趣味をきっかけに言葉を交わし、いつしか友だちになっていた。
なのに私はまだ誰とも話をしていない。
私は今日も教室から逃げるように、保健室にかけこむ。保健室の若い女の先生に腹痛です、と訴え、「また?」と小言を吐かれながら、怪しむような視線をカーテンで遮り、白くてかたいベッドに寝転ぶ。
たくさんのクラスメイトと教室で過ごすよりも、保健室に一人でいるほうが孤独がまぎれた。
結局、また独りか。
天井のまだら模様の黒い粒を見ていると、保健室の扉が開く音が聞こえた。
「せんせー、あたまいたいからねる」
「また?」
甘ったるい声の女子は先生を無視して、私が寝るベッドのカーテンをシャッと開く。
「あ」
それが、姫香との初めての出会いだった。
私たちが仲良くなるのに、そう時間はかからなかった。
姫香はとても人懐っこく、パーソナルスペースがほとんどない。気がつけばいつも私の肩にもたれてスマホをいじっている。
姫香の押しの強さと人たらしさは人によっては不快に思うだろう。現に姫香が私以外の誰かと一緒に居るところを見たことがなかった。しかし、人との接し方を知らない私にはありがたかった。
「あたしって天然だからさ」
姫香は自身のことをそう評し笑った。でも、本物を知っている私から見れば姫香は偽物の天然だ。
姫香のキャラクターは、姫香の内側からにじんでいるものではなく、姫香自身が作り出しているものだ。
私の、人をさける生き方と同じだ。
私たちは同じ孤独を抱えていたから。だから私は姫香のことを友だちだと思えた。
だけど姫香は私と違って、孤独の紛らわせ方をよく知っていた。
学校終わり、姫香に手を引かれついていった先は駅近くのカラオケボックスだった。
私はカラオケ自体が初めてで、薄暗い廊下に、あちこちから他人の歌声が聞こえてくることに、いちいち驚いていると姫香ががちゃりと扉を開ける。
そこには他校の制服を着た数人の男女がいて、茶髪の男が熱心にバラードを歌い、ほかのみんなはスマートフォンをいじっていた。
姫香はよっすー、と言いながらソファに座り、もともと居ました、って感じでスマホをいじりだす。
私はあっけにとられながらも、慌てて姫香の隣に座った。
「だれこのひとたち……」
私の疑問は、茶髪男のへたくそなビブラートでかき消された。
そこへ違う男がやってきて、無理やり私と姫香の間に割って入ってきた。耳には黒いピアスが三つ連なって輝いている。
「え、だれこの人」
「あたしの仮病仲間」
「なにそれ」
そういってピアス男はけらけらと笑った。なにが可笑しいのかわからなくて、私は男の存在を意識から消すように机の上をじっと見た。
メロンソーダにカルピス、ジンジャーエール。わずかに残った飲み物たちが液晶の明かりに照らされ、色とりどりの影を作る。
ステンドグラスみたいだな、と考えているとピアス男の腕がへびのように背中を這い、肩を抱く。
「名前は?」
耳元でささやかれ、私はとっさにピアス男の胸ぐらをつかみあげる。
「さわんな」
ガシャン、とピアス男の足が机にあたりコップがたおれた。異変に気付いた茶髪男が歌をやめ、みんなの視線がこちらに向く。
ぴちゃ、ぴちゃ。とドリンクの雫が一定のリズムで床にこぼれ、カラオケ音源がさみしく流れる。
するととつぜん、姫香がお腹を押さえて笑いだした。続けてほかの人も、ピアス男も笑いだす。
「やるじゃん理沙」
それから私たちは、五時間以上カラオケにいた。
帰り道、私の体温はずっと高かった。彼らは姫香の友だちで、姫香の友だちは今日、私の友だちにもなった。
まさかわたしにもこんなにたくさんの友だちができるなんて……。
誰かと過ごす楽しさと幸せの余韻に浸っていたが、家に着くと一気にそれらが冷めた。
今は夜の10時。こんなに夜遅くに帰ったことはない。
子どもの頃の記憶がフラッシュバックする。殴られるだろうか。久しぶりに土下座させられるだろうか。
私は臓器を絞られるような息苦しさの中、玄関を開ける。
「た、ただいま……」
反応はない。リビングに行くと、母と新しい父がソファに座り、ミステリードラマを見ていた。
「ただいま……」
「うるさい、いまいいところだから」
母だけがちらりと私を見て、すぐにテレビの世界へともどった。
それから私はほとんど毎日、夜遅くに帰るようになった。
姫香はよく学校を休んだ。そういう日は必ず、夜遅くに姫香に呼び出された。
深夜の11時に家を出て、翌朝の5時に帰る日もあった。次第に私も学校を休むようになった。
「玄関の音うるさいから、出るなら静かに出て」
学校に行かなくなって一か月が過ぎたころ。それが、母からの唯一の注意だった。
姫香が行くところには、必ず誰かがいた。カラオケ、ファミレス、公園、コンビニ前。
そこには姫香も知らない人がいたりもする。
本名も実年齢もわからない、ただ同じような孤独を抱えた人間が集まっていた。
夜は孤独な人間が集まる時間だ。
ここが私が求めていた居場所だったんだ。
私は子どものころからずっと求めていた、誰かとともにすごす楽しさを知った。
しかし、楽しさは長く続かなかった。
ここにいる人間は孤独を埋める誰かを求めていた。私も最初はそうだった。
でも、姫香と出会って、たくさんの人と知り合って、私は誰かに求められたいと思うようになった。
いや、もしかしたら最初から私の願いはそれだったのかもしれない。
私はクラスメイトに、先生に、母に、求められたかった。
私は、私の本当の願いに気づいた時から、居心地の悪さを感じ始めた。
ここにいる人間は孤独を埋める誰かを求めていた。だけどそれは、私じゃなくてもいいんだ。
それでも私は、夜になると町に出た。
長い長い夜を一人きりで過ごすなんて、無理だった。
そのころから、私にとって夜は孤独を紛らわせるための嘘をつく時間になった。
「化け物?」
「そう。夜にだけあらわれる化け物」
そんな会話が私の周りでよく聞こえるようになった。
誰かが近くで見かけたとか、話しかけられたとか、襲われたとか、食べられたとか。
皮膚が赤いとか、鋭い牙が生えているとか、地獄を這うような低い声とか。
噂は立派な尾ひれをつけて、私の周りを遊泳している。
くだらないなぁ、と思いながら私は今日もスプレーを噴く。
はじまりは、ゴミ捨て場に転がっていた一本のスプレー缶だった。
その時一緒にいた男(名前は忘れた)が拾い上げ、塀に向かってノズルを押す。すると、予想に反しスプレーは勢いよく噴射し、灰色のブロック塀に白いインクが垂れた。
それから男子はDr.スランプアラレちゃんのようなわかりやすいうんちのイラストを描き、みんなはゲラゲラと笑った。大きさ、バランス、先端のとがり具合、すべてがちょうどいいうんちだった。
スプレー缶はまだ数本あった。
「はい」
姫香に差し出され、私はなんとなく手に取る。
みんなが思い思いのくだらないイラストや下品な言葉を描く中、私はなにを描くか迷っていた。
結局その後、私がなにかを描く前に巡回の警察がやってきて、私たちは散り散りになって逃げた。
私と姫香は高架下へとたどり着いた。私と姫香は息を切らして、壁にもたれかかる。
「私も、ああいうの描いてみたいな」
姫香が指さす先にはスプレーで描かれた大きな文字のような落書きがあった。
しかしその落書きは落書きというにはあまりにも色遣いがきれいで、飛び出してきそうなほど立体的で勢いがあり、存在感を放っていた。その落書きに私は心を奪われた。
私はスマホで調べた。ああいう類の落書きはグラフィティアートというらしい。
動画サイトで描き方を学び、グラフィティアートの制作風景の様子を見て研究した。
練習もした。足りなくなったらスプレーを買い足した。ネイルはインクで汚れるから止めた。
そして本番。私たちは高架下に集まった。みんなにデザインを伝え、スプレーの噴き方を教えた。
だが、ものの1時間でみんな飽きて帰ってしまい、結局私一人で描きあげた。気がつけば、空が白ずんでいた。
縦横1.5メートルの大きなグラフィティだ。私は最後の仕上げに、右端にLisaと記した。初めて筆記体で自分の名前を書いた。
私はその日、久しぶりに満ち足りた気分で眠った。
「マジで描いてるし。なに夢中になっちゃってんの?? サインまでしてるし」
次の日。姫香やみんなは私のグラフィティを見て笑った。私も「だよね」と言って笑った。
それから私はグラフィティを描くことはなかった。
でも、スプレーを噴くことだけはやめられなくて、自分のサインを町のあちこちに噴いた。
Lisaを少し変えてLiar。私はうそつきだ、と。
月明かりが照らす満月の夜。時間はすでに0時を過ぎている。その日も私は、いつもように私はスプレーを噴いていた。
カラカラ……と空っぽで、バカみたいな音を響かせて。すると。
「見つけたぞ。うそつき」
月が雲に隠れた時、そんな声が聞こえた。低く、がさついた声だった。私はとっさに声のする方へふり向く。
人の影は見える。私よりも高い身長、細いが角ばった体格、そしてさっきの声からして男だろう。しかし、もうすぐ夏だというのに厚手のパーカーを着ているせいでそれ以上の情報は分からない。
だれ、と聞こうとしたとき、雲が晴れ、月明かりが男の正体を教えてくれた。
首元まで伸びた枝毛だらけの髪の毛。鋭い目つき。いや、そんなことは些末なことだ。
頬、首筋、手の甲。男の見える範囲すべての肌は、どこも赤黒くただれていた。
肌が、赤い。低い声。
私は、いつしか聞いた噂を思い出した。
「化け物……」
こちらへ近づいてくる男の姿を見て、私は男の肌の赤みが疾患、病気によるものだとすぐに気づいた。
化け物なんて言ってしまった、と罪悪感を覚え、顔をそらすと男は「気にしてねえよ」と言った。
「アレルギーなんだ。なに言われても慣れてる」
「……そう」
すると男は、スプレーで描かれた私のサインを指でなぞる。インクはまだ乾ききっておらず、男の指が黄色く濡れた。
「お前はうそつきって感じの顔してるな」
「はぁ?」
なんだこいつ。初対面で人の顔見て失礼すぎる。……って、全部がブーメランだ。
私はなにも言えずににらみつける。しかし男は私の敵意に気づいていないようだった。
「なんでLiarなの? 本名?」
「そんなわけないじゃん。理沙。L、i、s、a。そっからまぁ、なんとなく……」
「なんとなくってなんだよ」
そういって男はケラケラと笑った。
男の笑い声は人を馬鹿にした感じがなく、ただ純粋に面白いと思って笑っている感じがして、私は不思議と苛立たなかった。
私はじっと男を見つめる。歳は変わらないくらいだろうか。鼻立ちはくっきりとしていて、猫目。笑った顔は少年っぽいが、やはり赤く腫れた皮膚の荒れ、ただれに意識が持っていかれる。
「日光アレルギーなんだ」
私がなんのアレルギーなんだろう、と思った瞬間、男は答えた。
この慣れた感じ、こんなやりとりを人生で幾度となく繰り返しているのだろう。
「なのに名前が朝ってヤバくね?」
「朝?」
「朝昼晩の朝。小野寺朝。ヤバくね?」
「へーヤバいね」
別にヤバいとは思わないけど、適当に合わせて笑う。だけど朝はすでに私のことを見ておらず、指についたインクをこすりながら、私のサインを見ていた。
「Liar、Lisa、やっぱりな」
「なにが?」
「高架下のグラフィティ、あんたが描いたんだろ?」
「……そうだけど」
朝が私に向けた一言目は「見つけた」だった。それはつまり、私のことを探していたということだ。
朝は私が描いたグラフィティを見て、字は違うが形が似たサインを見かけ、きっと私のサインだろうと探し、そして今日、私にたどり着いたのだろう。
「ほかのグラフィティは? どっかにあるの?」
「ないよ。あれが最初で最後」
「は? なんで?」
「別に。もうやる気ないだけ」
「マジでうそつきじゃん!」
朝はそういってまたけらけらと笑った。今度はちょっとムカついた。
「なにが」
「じゃあなんでスプレー持ってんだよ」
私はなにも言えずに、顔をそらした。ムカついた理由。それは図星をつかれたからだ。
朝はひとしきり笑うと、なにやら閃いたように「あ」とつぶやいた。
「じゃあさ、俺に教えてよ。グラフィティ」
ひまでしょ? と言い朝は財布から五千円札を取り出し、私の手に無理に握らせる。
「これで必要な分のスプレー買っといて」
「なんで私が……」
「俺、太陽があるときは出歩けないから」
「そうじゃなくて。っていうか、それなら駅前なら22時くらいでもやってる店あるし……」
「じゃあまた明日、これくらいの時間で、よろしく!」
そういうと朝は去ってしまった。
私はしわがついた五千円札を見つめる。無理やり持たされた時についたしわのせいで樋口一葉が笑っているように見えた。
「夜にしかあらわれない化け物……?」
放課後の教室。教卓にひじをつく松吉先生は、うーん、と首を傾げつぶやく。
「……鵺?」
「ふつー吸血鬼とかでしょ。てかふつーに人間だったよ」
あら残念、と肩をすくめる松吉先生。なにが残念なのかはわからない。
松吉先生は今年で定年を迎えるおばちゃん先生。時々こんな風に、よくわからないことを言う。
「人間だったけど、化け物みたいなやつだよ。あ、見た目じゃなくて、中身が」
それから私は、朝と過ごした一週間のことを話した。
朝はとにかくわがままで、生意気で、自己中心的で。思い出すだけで、ムカついてくるし、あきれるし……って。
「ちょっと先生、聞いてる?」
「ごめんごめん」
今の私の話に対するリアクションの正解は、いっしょにムカつくか、そいつやばいって笑うことだ。
なのに松吉先生は笑ってはいるが、口元が緩んだようにニマニマとほほえんでいる。町で幼稚園児の集団散歩を見かけた時のような感じのあたたかなほほえみだ。
「その化け物さんと、河西さんはよく似てるのね」
「はぁ? どこが?」
「だって二人とも、正直者じゃない」
「正直者……」
たしかに朝は、言い方を変えればすごく正直者だ。嫌なことは嫌だってはっきり言うし、楽しかったら楽しいと笑う。
初めて会った次の日、私が買ったスプレーを朝が噴いた時、目をキラキラと輝かせて笑っていた。
そういうところが、朝のいいところなんだろう。
そんな朝が私と似てる? こんな、うそつきな私と?
やっぱり松吉先生は、よくわからないことを言う。
松吉先生は教師の中で唯一、いや、私と接点のある大人の中で唯一、私のことを気にかけてくれる。
なんで私のことを気にかけるのかはわからない。でも松吉先生が、松吉先生だからって理由で私は納得してる。
きっかけは半年前。大雪が降った冬のことだ。
私は補講を受けるために学校に来ていた。三学期のテストが赤点だらけで、このままでは進級ができない、と担任から強く言われた。でも、補講に来た理由はそれじゃない。
「やっぱり……」
校門は閉まっていた。今日は土曜日。しかも大雪。さらに今は午前6時半。生徒も先生も、誰も来ていなくて当たり前だ。
昨日の夜から寝付けなくて、結局暇に耐えかねて来てしまった。家に居たくなかった、というのもあるけど。
私は考える。
駅まで戻ってファミレスで待つか、もういっそこのまま帰ろうか。別に進級できなくても、退学するだけだし。
私は自分の人生に興味が持てなかった。ため息が白く凍る。すると、そこに一台の車がやってきた。
「あら早いね」
運転席から降りてきた松吉先生は細い体で鉄の校門をひっぱり開け、「またあとでね」と言い残して再び車に乗り、校内の駐車場へと去っていった。
教室へ行き、ストーブのボタンを押すが灯油切れのランプが点灯した。
詰んだ、と思った矢先、松吉先生が扉を足で勢いよく開け、台車を押して入ってきた。
一見上品なおばさん先生が教室の扉を足でこじ開けたこと。
そして、荷台に乗った炭が入った七輪に、私は眉間にしわをよせた。
「みんなには内緒ね」
そういって先生は炭に火をつける。
なんだこの人……。松吉先生のつかめないキャラに、私に備わった大人という存在に対し無意識に張るバリアのような敵意がぐらつく。
いや、こんな風におどけて見せて近づこうとしているのかもしれない。
私は気を引き締めるようにキッと睨むが、七輪からじんわりと伝わる火のぬくもりに気持ちが溶けていく。
「冬はつとめて」
教壇に私と並んで座る松吉先生は七輪に手を当てながら呟く。
「え?」
「清少納言の枕草子よ」
そういって松吉先生は枕草子の原文と現代語訳が書かれたプリントを取り出す。そういえば、松吉先生は国語教諭だ。
「冬は早朝が趣がある。趣って、今でいうエモいって意味」
「エモいって」
松吉先生の口から飛び出した若者言葉に噴き出すと、松吉先生も笑った。
それから松吉先生は枕草子のこと、枕草子を描いた清少納言がどんな人だったのか、清少納言が生きた時代のことを教えてくれた。
それは私が赤点を取ったテストの内容だった。これが、補講ということらしい。
でも、なぜか松吉先生の言葉はすんなりと頭の中に入ってきた。
気がつけば昼に近い時間になっており、七論の炭は真っ白になっていた。
「わろし、だね」
「うん。わろし」
そういって私たちは笑いあった。
私は進級できた。古典だけじゃない。ほかの教科もそこそこいい成績をとれた。
だけどそれも松吉先生のおかげだ。
私はあの日、生まれて初めて勉強の楽しさを知った。
二年生になった私は、朝から昼まで寝て、夕方は学校に行って松吉先生とおしゃべり兼勉強をして、夜になると姫香たちと出歩くルーティンを生きていた。
でも、やっぱり一番楽しいのは、松吉先生と勉強している時間だ。
そのころからだ。姫香たちと過ごす夜の時間が、退屈に感じるようになったのは。
それでも私は夜になれば町へ行く。
このままでは成績が良くなっても、卒業までの出席日数が足りずに退学になると分かっていても、夜になれば町に行く。
だって私には、夜にしか居場所がないんだから。
チャイムが鳴り、松吉先生との勉強時間の終わりを告げる。これからは朝とグラフィティの時間だ。
松吉先生はほかのクラスの宿題を採点しながらたずねる。
「河西さんはグラフィティのプロになりたいの?」
「べつに。ただの趣味だよ」
これは本心だ。グラフィティは楽しいし、最後まで描き切ったときの爽快感はすばらしい。でも、プロになりたいかと言えば、そうじゃない。
「ほかに、やりたいことは?」
「ないよ」
「じゃあ、あこがれの人とかは?」
松吉先生がこんなこと聞くなんて珍しいなと思ったが、答えはすぐ後ろの黒板に貼られていた。
『進路希望調査票の提出期限。7/8 厳守!』
そういえば引き出しの中に入ってたっけ。
進路か。考えたことなかった。やりたいことなんてないし、あこがれの人か。
私はぼんやりと考え、一定のリズムで赤ペンを走らせる松吉先生をみつめる。
「ま……」
私は口を開きそうになって、私なんかがこんなことを口に出しちゃいけないと思い、とっさに首を振った。
「なんかいった?」
「ううん。そんな人いないよ」
そういって私はじゃあね、と教室を出た。
ほら、やっぱり私はうそつきだ。
路地裏や電柱など、町のあらゆるところに存在するグラフィティには実はちゃんと種類がある。
単色で自分のサインなどの文字を描くタギング。私が最近までやっていたのはこれ。
文字の枠だけを描いたものをホロー。ホローの中を塗りつぶし、影をつけたものをスローアップ。
「じゃあこれは?」
朝は高架下の壁に描かれた大きなグラフィティを指さす。これは、私が描いたものだ。
「これは一応マスターピースのつもり」
マスターピースの定義はサイトによってちがった。
文字は3色以上使用しているもの、だったり、文字だけではなくキャラクターなどが描かれているものをそう呼ぶとも書いてあった。
ただ、どのサイトにも共通して書かれた言葉があった。
マスターピースとはライターが『本気』で描くグラフィティだ、と。
「朝は、どんなのが描きたいの?」
「もちろん、マスターピース」
朝は迷わない。地面に置かれたスプレー缶を拾い上げ、インクの出をよくするために素早く振る。
蓋を開け、ノズルに置いた指に力を入れる瞬間、私は朝からスプレーを奪い取った。
「なにすんだよ!」
「まだデザインが決まってないでしょ! それにスプレーってすぐなくなるんだから!」
スプレーの値段はそれほど高くないが、複数色を、大きく描くとなるとかなり痛い出費になる。払うのは私じゃないけど。それでも目の前でもったいないことをされるのはストレスだ。
「まずは紙に描いて自分なりのデザインを考える」
「自分なりの?」
「例えば」
私は階段に腰掛け、ノートを取り出し、ペンで『L』と書く。
「上から下に線を引いて、そこから右に線を引くと『L』という文字になる。これがみんなが描く『L』。じゃあこれを逆の書き順で描いたり、わざと一回ずつノートからペンをはなして書いたり、丸っこく書いたり、かっちり書いたり……」
ノートにはたくさんの『L』の文字が描かれる。でも、そのどれもが同じものではない。
「ね、これが自分なりのデザイン」
「なるほど」
朝は私の隣へ座ってノートに『M』を普通の書き順と逆の書き順で書く。
「すげー、たしかにちょっと違うかも」
そういうと朝はいろんな描き方で『M』を描いていく。量産されていく『M』を見て、私は頭上にはてなが浮かんだ。
小野寺朝。名前に『M』なんて入らないけど。
「ねぇ、それってなんの『M』?」
朝は待ってました、と言わんばかりに口角を片方だけ上げてニヤッと笑う。
「化け物、モンスターの『M』」
こいつ、まだ根に持ってたのかよ。
朝はひたすらにペンを走らせた。私はノートを見ながら、朝の無防備な横顔を私は盗み見る。
私が化け物と口走ったことを言われるまで、朝の肌のことを忘れていた。
それよりも、朝のキラキラと輝く茶色の瞳や薄い唇に目がいってしまう。
するといきなり、朝が私の方へと振り向く。
「なんか顔赤くない?」
「……へ?」
「って、俺に言われたくないか」
そういって朝はまた自分の世界へ戻っていった。ほんとに、なんだこいつは。
朝と出会って一か月が経とうとしていた。
一か月の間、あーでもない、こーでもない、と朝はデザインをひたすら考えていた。
夜になると突然呼び出され、インスピレーションが大事だといって、山の上の展望台に連れていかれたり、レンタル自転車で県境の大きな川にかかる橋まで行ったりもした。ほとんど遊んでばっかりだったけど、楽しかったから良しとする。
朝と会った帰り道、姫香がいなくてよかったとよく考えた。姫香は最近できた年上の彼氏と同棲しており、ここ一か月顔を見ていない。
姫香は彼氏ができると、彼氏のことしか見えなくなるタイプだが、周りの人が恋人を作ると必ず邪魔をする。
相手が男でも女でも誘惑して、二人の時間に入り込む。そうして周りの人が自分のことを考えていないと気が済まない。
そもそも朝とは付き合っていないが、姫香には朝のことは言っていない。
私は、朝と過ごす時間を絶対に邪魔されたくなかった。
「これ」
その日は突然やってきた。朝のデザインが完成したという。
朝が渡してきたノートに描かれたギザギザとした『MONSTER』の文字。文字を塗りつぶす某エナジードリンクを思わせるグリーンが、文字を縁取る黒色でよく目立っている。また、文字には光沢を思わせる白い点がついており、立体感も出ている。
文字の上部分は藍色から青色へとグラデーションで彩られ、白い飛沫が飛んでいる。これは。
「もしかして、夜空?」
「そう。この白いのが星」
それは、二人で展望台で見た景色とよく似ていた。ほんとにインスピレーション受けてたんだ。
「どう? けっこういい感じじゃない? 理沙が言ってたことはおさえられてると思うんだけど」
私はじっくりと朝のグラフィティを見つめる。
文字のデザイン。色の使い方、塗り方。
朝のいうとおり、私が教えたことが、グラフィティの随所に盛り込まれている。
「で、どうよ?」
大型犬のように口を開けてぐいぐいと近づいてくる朝に、私は笑って答える。
「嬉しい。動画とかネットで見ただけの付け焼刃だけど、私の知識が朝のグラフィティの役に立って」
「……デザインがかっこいいかって聞いてんだけど」
望む答えじゃなかった朝は、不満そうに目を細める。朝はほんとに嘘がつけない、正直者だな。
『だって二人とも、正直者じゃない』
そのとき、七輪の火のような強く、じんわりとしたぬくもりが胸の内に広がり、松吉先生の顔が浮かんだ。
「私は、松吉先生のような先生になりたい」
「ん? なに急に?」
「あ、いや……」
朝の驚く顔を見て、私も驚いた。ほとんど無意識に、言葉を発していた。
「ちょっと前にね、好きな先生から聞かれたの。やりたいことはないのって。ないって答えたら、じゃあ憧れる人は、って聞かれたの」
私は自分の気持ちを言葉にできない。苦手とかじゃない、無理なんだ。怖いんだ。
本音を笑われたり、無視されたり、否定されることが。
なのになんでだろう。誰かの前でこんなに正直に自分の気持ちを話すのなんて、生まれて初めてだ。
もしかしたら、朝の正直がうつってしまったのかもしれない。
「私、こんなんだけど、先生のおかげで勉強が好きになってきたの。朝にグラフィティのこと教えたりするのもすごく楽しくて。だから」
「その先生みたいな先生になりたい?」
私はうん、とうなずきかけて、首を横に振った。
「……もうおそいけどね。今更勉強ってキャラでもないし」
松吉先生のおかげで古典の知識がついたところで、私は漢字の読み書きもできないし、小説だって読んだことはない。
九九も危ういし、都道府県は10個くらいしか知らない。義務教育をないがしろにしたツケが回ってきている。
そんな私が、勉強を人に教えるなんてできるわけがない。
気持ちが沈みかけた時、朝はおもむろに言った。
「俺は、学校に通ってみたい」
「……今は通信だっけ」
「そう。勉強は家でもできるけどさ、おれはもっと定番なことがしたい。アクエリのCMみたいな、部活で汗流したりみたいな、そういうアオハルじゃなくていいからさ、ふつーに誰かのとなりで勉強して、一緒に帰ったり、そういうやつ」
朝が望んでいるのは、学生にとってのありふれた日常だった。
しかし、その日常の空には必ず太陽がある。朝日が、夕日が、彼らの日常を色づける。
それはつまり。
「おれの夢はどうしても叶えられない」
朝は夜空に向かってつぶやく。
「でも、理沙の夢はどうにかなるって思うけどな」
「簡単に言うなよ。朝だってそんなこというならちゃんと治療受けろよ。薬とか飲んでねーんだろ?」
朝のアレルギーは今の医学では完治することはないらしい。だが、症状を緩和する薬や手術などの手はあるという。
だけど、朝は投薬も手術も拒否していた。
「俺は太く短く生きるんだよ」
けらけらと笑う朝は、出会ったころよりも痩せていた。
帰り道。私は夜空を見上げて、朝のことを思い出す。
朝は私の夢を笑わなかった。無視しなかった。否定しなかった。それに。
どうにかなるって思う。
「どうにかなるってなんだよ」
わたしはふっ、と噴き出し、よし、と覚悟を決めた。
根拠はないが嘘もない朝の言葉に、私は背中を押された。
アラームが鳴り、私は眠気をおしてカーテンを開いた。
まぶしすぎる。朝陽を浴びるのはいつぶりだろう。
眠たいし、頭が重い。早起きは三文の徳という言葉があるが、三文は現代でいうと百円にも満たないらしい。こんなにつらいならもっと高くないと、五万くらいないと割に合わないと思う。
私は朝陽から、世界から逃げるようにまくらに顔をうずめる。まっくらだ。なんちゃって。
…………学校行こ。
私はもぞもぞと起き上がり、制服の袖に腕を通した。
教室に入ると、ほんの一瞬、空気が止まってまたすぐに動き出した。
大半のクラスメイトは私をちらりと見るだけで私のことを気にも留めていないが、一部男子たちが私を見てこそこそと顔を合わせる。
「うっしゃ! 今日の昼飯お前のおごりな」
「まじかよ。今日月曜だぜ? ぜってー来ねーと思ったのに」
どうやら私は賭け事の対象らしい。
今まで気が向いた時だけ学校に来ていたやつの連続登校はいつまで続くのか、ってところだろう。
チャイムが鳴り、朝のホームルームが始まる。
担任のつまらない世間話を聞き流しながら、私はめらめらと燃えていた。
連続登校がいつまで続くのか? おもしろいじゃん。
私は、私が卒業するまで通い続けるに賭けてやるよ。
「え? 私卒業できないの?」
昼休み。職員室に呼ばれ、担任から今の私のヤバさを説明された。
「いや、進級がね、できないの。今のままじゃ」
卒業までに必要な出席日数はギリギリ足りている。前のような生活に戻ればすぐにダメになるらしいが、出席日数は大丈夫。
問題は授業態度と成績だ。
私はなれない早起き生活の弊害で午前中の授業はほとんど寝てしまっている。それに成績も昔の私と比べれば飛躍的に頭がよくなっている自負があるが、平均を見ればやはり私はまだまだ馬鹿だ。二次方程式は解けるのに、いまだに九九は言えない。そんないびつな頭脳になっている。
担任はもう一度、今度はゆっくりと、わかりやすく説明する。
「だからね、今度のテストで一個でも赤点を取ればね、あなたは進級できないの」
「だから卒業できないってことじゃん!」
担任は呆れた様子でこめかみをかいた。でも、分かっていないのは担任の方だ。
担任は、私の母のことを知らない。
進級できない。それはつまり、留年か、退学か、ということになる。
母は私によく18になったら必ず家を出て働け、と言った。働いた金の半分は家に入れろ、とも。
そんな母が絶対に留年なんて許してくれない。私には留年という選択肢がない。
「だからね、卒業じゃなくて、進級、……えっと、学年が一つあがることを進級て言うんだけど」
的外れな訂正をしてくる担任を殴りたくなった。
子ども扱いするな。進級の意味ぐらいわかる。その馬鹿を見る目をやめろ。
「横からごめんなさいね」
するといきなり松吉先生がやってきて、爆発寸前だった感情がすーっと落ち着いた。
「河西さん、よかったね」
「……なにが?」
「授業をよく聞いて、テストで赤点を取らなければ進級できるって。大丈夫! 河西さん勉強好きだもんね」
「……うん」
私は思わず泣いてしまいそうになって、それしか言えなかった。
松吉先生の言葉に、担任は困った感じでこめかみではなく、頭をかいていた。
「松吉先生はときどきよくわからないことを言うなぁ」
担任がぼそっとつぶやく。今日初めて、担任の意見に賛同した。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、職員室を出ると今一番会いたくなかった相手が壁にもたれてスマホをいじっていた。
「姫香……?」
姫香は私に気づくと、よっと手を挙げ寄ってきた。
夏なのにカーディガンを羽織った姫香。久しぶりに見た姫香はかわいくなっていた。
ぷっくりとした涙袋も、大きな瞳も、全部どこかでみた「かわいい」が詰まっていた。
「ねぇねぇ、理沙も退学する?」
姫香も私のように呼び出しを食らったのだろう。
このままじゃ進級、もしくは卒業できないぞって。でも、口ぶり的に考えて。
「姫香、退学する気なの?」
「まぁね。え? 逆に理沙はしないの?」
「しないよ。……ほら、親がうるさいし」
私はとっさに嘘をついた。でも、姫香には嘘が効かない。いや、そもそも私の話を聞いていない。
「えーなんで? いっしょに退学しようよ。自由の身になろうぜ」
「私は……」
「っていうかさっきゴミ教師から言われたんだよね。河西は最近学校来てるのにお前はなにしてんだって。まじむかついたわ。理沙のせいだからな?」
姫香は笑って私の肩を押す。その力加減から、姫香が本気で私に対してキレているのがわかった。
「理沙さ、学校になにしにきてんの?」
「……べつに。暇つぶし」
「なにそれ」
廊下に姫香の笑い声が冷たく響き渡る。また嘘をついてしまった。
「今日夜さ、久々にカラオケいかね? 誰かいないかなー」
そう言うと姫香はスマホをいじりだす。
今までの私なら黙ってついていっただろう。でも、今までのままじゃダメなんだ。
嘘つきな私のままじゃ。
私は松吉先生のこと、そして朝のことを思い出し、拳をぐっと握る。
「私行かない」
「……は?」
「用事あるから」
嘘はついていないが、本当のことも言えなかった。だが、私なりの小さくて、大きな成長だ。
姫香は人差し指に爪を噛みながら、ぼそぼそと話す。
「そうやって理沙もたーくんも姫香のこと一人にするんだ」
たーくんとは姫香の年上の彼氏のことだ。も、ってことは。
「彼氏と別れたの?」
「私のことどうでもいいくせに心配するふりとかやめてもらえる? うざいから」
姫香はそう言い放ち、私の横を通り過ぎていった。
その瞬間、姫香の手首が見えた。姫香の孤独の数だけ刻まれた赤い傷のついた白い手首。
だけど、私はその腕をつかむことができなかった。
「姫香……」
私の声は、もう届かないのかな。
LEDの街灯が照らす児童公園。
私は木製のテーブルにつき、ぬるい夜風を感じながら自分の答案と解答を見比べ丸を付けていく。
国語小テスト
[現代文]1.× 2.〇 3.× 4.× 5.× [古典・漢文]6.〇 7.〇 8.〇 9.〇 10.〇
「よしっ」
10問中6問正解。松吉先生のおかげで古典、漢文の問題はほとんど解けるようになった。だけど。
「やっぱ現代文が苦手だな。もう一回……」
「もう国語はいい。次は英語」
そういって隣に座る朝は国語の教科書をぱたんと閉じた。
「えぇ」
「今はどれか一つの教科で100点を目指すんじゃなくて、全教科で平均点を目指すような勉強をするべきだろ」
ぐうの音も出ない正論にムカついて、私はそこの自販機で買ったカルピスソーダを音を立てて飲んだ。やけ酒ならぬやけカルピスソーダだ。
期末テストまで残り二週間。
私は学校終わり、6時まで各教科の先生を捕まえてわからないところを教えてもらい、8時までは図書館で一人で勉強して、そのあとは次の日に寝坊しないように11時までという決まりで、公園で朝に勉強を教えてもらった。
教科書を見ていると、机の上に置かれた朝のノートが目に入った。
朝が一か月間、考えていたグラフィティアートのデザインが描かれたノートだ。
グラフィティはもうしばらくやっていない。夏休みになったら再開する、という私に朝も付き合ってくれている。
あぁでも、スプレーの感触が懐かしいなぁ。
私はほわほわん、とグラフィティのことを思い返していると、朝に頭をはたかれた。
「集中!」
私は朝をキッとにらみつけ、カルピスソーダを飲み干した。
あっという間に二週間が過ぎ去った。
私は人生で一番勉強して、人生で一番頑張ったと胸を張って言える二週間だった。
つらかったし、何度も心が折れそうにもなったけど、そのたびに松吉先生と、朝のことを想って踏ん張った。
私のことを応援してくれる人のために、私自身の夢のために、私は絶対に高校を卒業するんだ。
そうして私は期末テスト本番を迎えた。
期末テストは全8教科を三日間に分けて行われる。
初日は数学と理科と美術、二日目は保健体育と音楽と英語だった。
数学と理科は山が当たって正直手ごたえがある。英語は微妙だが、赤点は免れたと思う。
ほかの副教科たちは事前に配られたプリントを丸暗記すればいいだけの内容で助かった。
そして今日が最終日。残すは国語と社会だ。
ぎりぎりまで出題範囲をまとめたノートを見返していると、テスト監督の松吉先生が入ってきた。
松吉先生と目が合い、私はうんと頷くと、松吉先生もやさしく頷いた。
「テストを始める前に、机の引き出しのものはすべてカバンの中かロッカーにしまってください。スマートフォンの電源は消してくださいね」
みんながいっせいに引き出しの中に手を入れたり、教科書を仕舞うためにロッカーへ向かったりと騒がしくなる。
私もノートをカバンへ入れると、スマホに手が触れ画面が光ったのに気がついた。
あぶない。電源を消すのを忘れていた。
カバンの中でスマホの電源を消そうと、パスワードを解除するとメッセの通知が来ているのに気がついた。
『助けて』
それは、姫香からのメッセだった。私は頭が真っ白になって、姫香とのトーク画面を開く。
メッセージが送られていたのは午前4時過ぎ。『助けて』のあとに続いて『今すぐ来て』とも送られていた。
『大丈夫?』
そう送っても、既読はつかない。
「河西さん?」
名前を呼ばれ顔を上げると、私以外の全員、テストを受ける準備が終わっていた。
私はテストを受ける。これからも高校に通って、卒業して、大学に通う。そうしなければ、私の夢は叶えられない。
私の夢は松吉先生みたいな先生になること。
だから、だから……。
「やるじゃん」
姫香の笑った顔が脳裏をよぎる。
ごめん。
私はスマホをカバンの奥へ投げ入れ、カバンを持って立ち上がる。
「ごめん、先生」
私は教室を飛び出した。
カラオケ。コンビニ前。人気の少ない公園。
姫香たちと遊ぶ場所は大体限られていた。
夜になるとどこからともなくみんなが集まって、さわいで、笑って。
日付が変わってしばらく経つと一人、また一人と眠たいから、とか、明日用事があるから、なんて帰っていく。
私が帰るとき、姫香はいつも私を見送った。私よりも先に姫香が帰ったことはなかった。
どうしてあの時、いっしょに帰ろうって言わなかったのだろう。
どうしてあの時、姫香の腕を見て見ぬふりしてしまったのだろう。
私は姫香との思い出を振り返るように、町を走った。
姫香との思い出はいつも夜で、日中のそこらの場所はどこも味のしなくなったガムのように白けていた。
日が傾き始めたころ。
足が痛くて、お腹が空いて、なにも考えられなくて。
公園のベンチに腰掛け、何度となく見た姫香とのメッセを見返した瞬間、メッセの上に小さく既読の文字がついた。
私はほとんど反射で、姫香に電話をかける。
「なに?」
数コールの後、通話越しに聞こえた姫香の声に私はやっと生きた心地がした。
「いまどこ?!」
「うるさ。たーくんの家だけど。うわ、もう夕方じゃん」
低血圧からくる不機嫌そうな声。大きなあくび。布を擦れる音。
間違いない。姫香はあのメッセージを送ったのち、今の今まで寝ていた。
だからずっと連絡がとれずに、既読にもならなかったんだ。
そう、あのメッセージ。
「助けてって、なにがあったの?」
「え? なにそれ?」
姫香はごそごそと動く音がノイズのように聞こえてくる。おそらく画面を操作し、メッセージを見返しているのだろう。
すると姫香はあー、となにかを思い出し、ケラケラと笑う。
「なんか飲みすぎちゃって、ちょいヘラって、でぇ、理沙にメッセ送ったのに無視されたから、結局たーくんに会いに来てさ」
「無視って、あんな朝早くに送られて気づくわけないじゃん!」
「だからうるさいって。なにキレてんの?」
「キレるよ! だって私……」
本気で心配した。本気で焦った。だから今、すごく安心してるし、すごく怒ってる。
そんな気持ちを伝えようとするが、「あ!」とわざとらしくなにかに気づいたふりをして私の声を遮った。
「……なに?」
「もしかして学校サボった? もしかして姫香のために退学してくれる感じ?」
ワクワクしている姫香の声に、私は違和感を覚える。
退学? なんでそのことを……。
その瞬間、私はすべてを察した。
「姫香、あんた……」
姫香の『助けて』のメッセージはわざと、私を試すために送られたものだったんだ。
私はまんまと騙されたんだ。
「グラフィティのこと覚えてる?」
立ち尽くす私の耳元で、スマホから姫香の穏やかな話し声が聞こえる。
それはちょうど、私の肩に姫香が頭をのせていた、出会ったころと同じようだった。
「私、理沙のやるときめたら最後までやる、みたいなスタンス、羨ましかった」
そういうと、姫香は電話を切り私をブロックした。
ブロックされた姫香とのメッセージ画面を見て私はもう二度と姫香には会えないことを悟った。