玄関に鍵をかけ、アパートの階段を下りる。
空気に春の匂いが混ざる。昼間に落ちた桜の花弁が風に吹かれ、小人のようにアスファルトの上を走る。
顔を上げると、空には大きな月が出ていた。
あの日から、もう半年が経つ。
あれから私は高校を退学した。
そして今日から、もう一度高校生になる。
定時制高校への進学を勧めてくれたのは松吉先生だった。定時制高校ならもう一度学びなおしができる、と。
入学試験は中学までの基礎的な学力試験と面接が行われる。
学力は自力で頑張ろうと思えたが、面接の自信がなかった。そんな弱音を口にすると、松吉先生は面接の練習相手になってくれた。
このときすでに、私は高校を退学していた。生徒じゃなくなった私にどうしてここまでしてくれるのか。
松吉先生はやはりよくわからない。
「あなたは将来、やりたいことはありますか?」
黄金色のイチョウが彩る公園で私たちは向かい合う。
面接官として座る松吉先生を前に、私は今度こそ正直な気持ちを伝えた。
松吉先生が泣くから、私も泣いた。
学校までの間に、高架下へと寄った。
階段を下り、壁を見ると私のグラフィティアートは上から黒いスプレーで落書きされていた。
走り書き、下品な落書き。それらを見ていると、姫香たちと過ごした日々を思い出した。
これらもまた、楽しくて、寂しかった、だれかの夜の一部だ。
隣に描かれた朝のグラフィティアートは、あの日のままだった。
朝もまた、夜に出歩くことを止めたのだろうか。もしくはただただ飽きた、という可能性もありえる。前者であってほしい。
朝の夢は学校に通うことだ。
みんなと一緒に勉強して、みんなと一緒に遊んで、みんなと一緒に帰る。そんな日常を夢見ていた。
私は朝の夢が叶うことを願い、私の夢を叶えるために学校へと向かった。
退学後、定時制高校に通いたいと伝えると、案の定母に殴られた。
「ふざけるな」「退学なんてしてみっともない」「お前なんか生むんじゃなかった」
矢継ぎ早に浴びせられる罵声。私はすべてを受け止め、母から強要されるよりも先に自ら土下座した。
「お願いします」
床におでこを当てているため直接は見えなかったが、母の息をのむ音を聞いて私は死ぬかもしれないと思った。
母の影が動く。母の腕が振り上げられる。
私は覚悟を決めて目を閉じる。
「やめなさい」
顔を上げると、新しい父が母の腕をつかんでいた。
「理沙、家を出なさい。18になるまでは金を出す。それから先は自分の力だけで生きていきなさい」
「……はい」
それだけ言うと新しい父は母とともにリビングを出た。
新しい父がなぜそんなことを言ったのか、わからない。
私を憂いてのことか、それとも単純に家から出ていってほしかったのかわからないまま、私は今、小さなアパートで暮らしている。
夜の教室は目新しさと懐かしさが交じり合っていた。
しかし、あのころ感じていた息苦しさはもうなかった。
私は隣に座った同い年くらいの女の子にあいさつする。
「よろしくね」
女の子は少しだけ目を開いたが、すぐに安心したように笑った。
「よろしく」
ここにいるみんな、私と違って、私と同じなんだ。
同じ人は惹かれあって、きっと友だちになれる。だから無理に友だちを作ろうなんて思わなくていい。
私は胸に七輪のような温かみを抱いて、ほっと息を吐いた。
すると、後ろから会話が聞こえてきた。
「さっきの人、すごくなかった?」
「なんかあの噂思い出しちゃった。ほら、一年前くらいにあったじゃん。夜にしかあらわれない化け物が、みたいな?」
化け物。
まさか、と思うと同時に教室の扉が開いた。
その顔を見て、みんなはぎょっとして、私はわっと泣いた。
半年間我慢していた寂しさが、
半年ぶりに出会えた嬉しさが、
半年前よりも健康そうでよかったという喜びが、涙となってあふれて止まらなかった。
涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を見て、朝は初めて会った時のようにニヤリと笑った。
「大丈夫じゃなかったのかよ。このうそつき」
二人の夜の時間が、再び動き出した。
空気に春の匂いが混ざる。昼間に落ちた桜の花弁が風に吹かれ、小人のようにアスファルトの上を走る。
顔を上げると、空には大きな月が出ていた。
あの日から、もう半年が経つ。
あれから私は高校を退学した。
そして今日から、もう一度高校生になる。
定時制高校への進学を勧めてくれたのは松吉先生だった。定時制高校ならもう一度学びなおしができる、と。
入学試験は中学までの基礎的な学力試験と面接が行われる。
学力は自力で頑張ろうと思えたが、面接の自信がなかった。そんな弱音を口にすると、松吉先生は面接の練習相手になってくれた。
このときすでに、私は高校を退学していた。生徒じゃなくなった私にどうしてここまでしてくれるのか。
松吉先生はやはりよくわからない。
「あなたは将来、やりたいことはありますか?」
黄金色のイチョウが彩る公園で私たちは向かい合う。
面接官として座る松吉先生を前に、私は今度こそ正直な気持ちを伝えた。
松吉先生が泣くから、私も泣いた。
学校までの間に、高架下へと寄った。
階段を下り、壁を見ると私のグラフィティアートは上から黒いスプレーで落書きされていた。
走り書き、下品な落書き。それらを見ていると、姫香たちと過ごした日々を思い出した。
これらもまた、楽しくて、寂しかった、だれかの夜の一部だ。
隣に描かれた朝のグラフィティアートは、あの日のままだった。
朝もまた、夜に出歩くことを止めたのだろうか。もしくはただただ飽きた、という可能性もありえる。前者であってほしい。
朝の夢は学校に通うことだ。
みんなと一緒に勉強して、みんなと一緒に遊んで、みんなと一緒に帰る。そんな日常を夢見ていた。
私は朝の夢が叶うことを願い、私の夢を叶えるために学校へと向かった。
退学後、定時制高校に通いたいと伝えると、案の定母に殴られた。
「ふざけるな」「退学なんてしてみっともない」「お前なんか生むんじゃなかった」
矢継ぎ早に浴びせられる罵声。私はすべてを受け止め、母から強要されるよりも先に自ら土下座した。
「お願いします」
床におでこを当てているため直接は見えなかったが、母の息をのむ音を聞いて私は死ぬかもしれないと思った。
母の影が動く。母の腕が振り上げられる。
私は覚悟を決めて目を閉じる。
「やめなさい」
顔を上げると、新しい父が母の腕をつかんでいた。
「理沙、家を出なさい。18になるまでは金を出す。それから先は自分の力だけで生きていきなさい」
「……はい」
それだけ言うと新しい父は母とともにリビングを出た。
新しい父がなぜそんなことを言ったのか、わからない。
私を憂いてのことか、それとも単純に家から出ていってほしかったのかわからないまま、私は今、小さなアパートで暮らしている。
夜の教室は目新しさと懐かしさが交じり合っていた。
しかし、あのころ感じていた息苦しさはもうなかった。
私は隣に座った同い年くらいの女の子にあいさつする。
「よろしくね」
女の子は少しだけ目を開いたが、すぐに安心したように笑った。
「よろしく」
ここにいるみんな、私と違って、私と同じなんだ。
同じ人は惹かれあって、きっと友だちになれる。だから無理に友だちを作ろうなんて思わなくていい。
私は胸に七輪のような温かみを抱いて、ほっと息を吐いた。
すると、後ろから会話が聞こえてきた。
「さっきの人、すごくなかった?」
「なんかあの噂思い出しちゃった。ほら、一年前くらいにあったじゃん。夜にしかあらわれない化け物が、みたいな?」
化け物。
まさか、と思うと同時に教室の扉が開いた。
その顔を見て、みんなはぎょっとして、私はわっと泣いた。
半年間我慢していた寂しさが、
半年ぶりに出会えた嬉しさが、
半年前よりも健康そうでよかったという喜びが、涙となってあふれて止まらなかった。
涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を見て、朝は初めて会った時のようにニヤリと笑った。
「大丈夫じゃなかったのかよ。このうそつき」
二人の夜の時間が、再び動き出した。