次の土曜日、ぼくとなぎさは朝8時に北陸鉄道の野町駅で待ち合わせて、レインボー先輩の料理教室『暮らしのアトリエ』に自転車を走らせた。なぎさも、同じビルでやっているスコール先輩の絵画教室に通ってる。絵画教室が始まるのは10時からだけど、なぎさが「わたしもレインボー先輩にごあいさつしたい」といったから一緒にいくことにした。ま、なぎさのホントの気持ちは「ごあいさつしたい」じゃなくて、「見てみたい!」っていったほうが正確だったと思う。でもその気持ち、よくわかる。はじめて『雨と虹』をたずねてスコール先輩に会ったとき、彼女がすごく魅力的なオトナ女性だったので、なぎさはうれしかったんだ。それからずっと「わたしはスコール先輩みたいなオトナになりたい」っていってる。そのスコール先輩が一緒に仕事をしているレインボー先輩もきっと魅力的なオトナ女性に違いない、ぜひ会ってみたい!っていうのがなぎさの気持ち、だったと思う。
 ぼくもレインボー先輩に会うのを楽しみにしてる。最近、『超絶美少女の真実』がはじめてちゃんとわかってきたような気がしてるんだ。

 「超絶美少女」って同じタイプの顔立ちの整った人形みたいなオンナのコたちがいて、その容貌の整いかたの差で順番がつけられて決まる…なんてことはない。ちゃんと考えてみれば、当然のことなんだけど。でも、なぎさ1人だけを『超絶美少女』として意識していたときは、漠然とそんなふうにしか考えてなかった。あのコが1番美人なんだ、って…もちろん、なぎさはハーフだから、顔立ちも瞳の色や髪の色もひときわ目立ってしまう、ってこともあったと思うけど。
 でも、それから、なんと!おねえちゃんが『超絶美少女』だったということを知って、その後、ゆかりや…なぎさの同級生の弓美や、リンクス先輩や、さらに…すっかりオトナ女性になっているスコール先輩と知り合って、その全員が美少女、美人としかいいようがないキレイな女性なんだけど…ま、おねえちゃんの評価はしないけど…、それぞれの個性は、まったく違っていて、もちろん、外見も、顔立ちも、発言も、しぐさも、考えてることも、まったく違っていて、全然順番なんてつけられなくって、でも、それぞれが見とれちゃうほど…魅力的で、カッコよくて、キレイで、ステキで…カワイくて、そのみんなが『超絶美少女』なんだ!っていうことがわかってきて、ぼくは、ふかーく考えさせられてしまった。
 おねえちゃんがいってるとおり「JKはみんな、ふつうの美少女」なんだ。で、高校に入学して、青春に突入して、そのとき、自分がどんなタイプか、自分の魅力はどこにあるのか、ってことを自覚して、自分を磨いていったオンナのコが「まあまあの美少女」に、そして、それ以上の美少女に成長していくんだ。もちろんそれ以外のところ、勉強とかスポーツとか趣味とかを磨いていくオンナのコもいる…とにかく「自分がどんなヒト」なのか、って気づいて、これにしようって決めた「何か」にがんばって、それ以上になろうって努力してるオンナのコたちが、どんどん輝いていくんだ、ってことがぼくはわかった…ような気がする。
 それで、あらためて高校生になったころのおねえちゃんを思いだして、それに、いま、修行中のゆかりをみてると、これも前におねえちゃんがいった「『超絶美少女』が管理委員会によって選抜され、養成される『人為的システム』なんだ」っていうことの意味がよくわかる。『超絶美少女』は「いる」んじゃなくて「なる」ものなんだ。それもすごく努力して。もちろんスポーツや勉強で活躍するオンナのコたちと同じように、天性のもの、体格とか運動神経とか、知能指数とか記憶力とか…とまったく同じように…美貌とかスタイルもすごく重要。それは否定しない。でも、それと同じくらい「努力」も必要なんだ。で、そんな努力を日常的に続けるには、ココロがとても強くなければならない。…オトコはそんな彼女たちの「強さ」にヤラれちゃうんじゃないだろうか。少なくとも、ぼくはなぎさにそんなふうにヤラれちゃった。
 だから、新しく出会うレインボー先輩は、いったいどんなタイプの、どんな努力をしてきた『超絶美少女』なんだろう?…ってことにすごく興味がある。

 レインボー先輩が開いている料理教室『暮らしのアトリエ』は、カフェ『雨と虹』から歩いて3分ぐらいの4階建てのビルにある。あまり大きくない、あまり新しくもないビルで、1階と2階には会計事務所が入っている。3階がスコール先輩のオフィスとアトリエ、そして、4階が『暮らしのアトリエ』だ。
 外観に全然特徴がないビルだから「ここ?」って感じなんだけど、インテリアは、スコール先輩がデザインしてすっかり改装されている。だから、中に入ると「ここだよね」って思う。
 4階の料理教室は、窓からの眺望を最大限に生かす設計になっている。窓から「重伝建」の東山、卯辰山地区、そして、浅野川の流れがみえる。インテリアも金沢のセレブ女性が「ここで料理を習いたい」と思う気持ちになっちゃうような、シンプルだけどカワイイ北欧風のデザインだ。フロアにアイランドキッチンが6基。1つが講師用、5つが実習用。ほかに大きな業務用の冷蔵庫と冷凍庫、食器棚…となりの小さな部屋はオフィス兼倉庫。
 ぼくとなぎさが到着したのは8時30分ごろだったけど、もう、レインボー先輩とトシキさんは来ていた! 2人で楽しそうに話していた。レインボー先輩もイケメンに弱いタイプかな?
 「あ、あさひくん。おはよう。なぎささん、ですね? いつも、ゆかりから話をきいてます。すっごい美人だ、って。ホントにそのとおりですね! あ、あの、ゆかりの兄の竹田俊希です。はじめまして」
 口では「すっごい美人」っていってるけど、一般男性と違って、まったく動じる気配がない…さすがイケメンだ。
 「あら、お二人もはやいのね! はじめまして、わたし、宮沢 (あや)…コードネーム、レインボーよ。よろしくね」…とレインボー先輩は、なぜかぼくをみつめる。
 「おはようございます。八倉巻あさひです。今週からお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」…ぼくもレインボー先輩をみつめてしまう。なぎさ以外の美女を0.1秒以上みつめることは、この前、弓美に禁止されたんだけど、むこうからみつめてきたんだからしょうがない。
 うーん。レインボー先輩…『超絶美少女』は、またまたこちらの想像を斜め上方に超えてきた。
 ちょっと小柄な女性。身長はなぎさやぼくにくらべると5センチ以上低いかな。なぎさとぼくは、ほとんど身長が同じ。ちなみにトシキさんは、ぼくらより5センチぐらい高い。
 レインボー先輩の髪は「ウィッグですか」って聞きたくなるぐらいキレイに整った、ちょっと長めの内巻きのボブで、深い栗色。これは、なぎさと違って染めてるんだろう。
 前髪の下にアーモンド形の大きな目がキラキラ輝いてる。なんだか好奇心いっぱい、って感じの瞳。「ああっ、せんぱいっ!そんなにこっちをみつめないで!」って感じ…ドキドキしちゃう。弓美にいわれたとおりだよー。
 「おはようございます。あさひがお世話になります。保護者の中村なぎさです。今朝は付き添いとしてまいりました」…おいおい。
 「なぎさは、あさひの保護者なのね?」
 「というのはウソです。『恋人』!です」
 「あさひー、よかったわね。こんなにこんなにキレイなヒトに、ちゃんと恋人、っていってもらえて!」
 そういうとレインボー先輩は、ニコッと笑った。桜貝みたいなかわいいピンク色のくちびるからこぼれてでてくる笑顔…な、なんでそんなに笑顔がやわらかいんですかっ、レインボー先輩! しかも、あなたもえくぼが魅力的ですっ。それも、ゆかりやトシキさんのように深くなくって、意識しないと気づかないぐらいの、浅くふわっとした感じで浮かぶえくぼがなんとも魅惑的です…それもあなたのチャームポイントなんですね!
 料理上手で、2人のオトコのコのおかあさん、と聞いてたので、来る前になぎさと、優しくて、暖かくて、プレーンオムレツみたいにあたりを金色の光でとろりと包んでしまうような、オトナ女性じゃないか、って予想してた。ところが、レインボー先輩の印象は、全然「母」でも「ママ」でも「女性」でさえなく、まるっきり「少女」…んー、「幼い」って感じがするから「少女」って思ったわけじゃなくて、もうすっかりオトナ女性なんだけど、笑顔の純粋さ、みたいな印象が強くて、そこがすごく「少女」。あ、これって、スコール先輩の横顔に「少年」を感じたのと共通してるかも。もー、なんなんですか、あなたたちは!どーしてオバサンにならないんですかっ。『超絶美少女』ってみんなそんなふうに歳を重ねていくものなんですかっ?!
 「あの、レインボー先輩。わたし、今朝は先輩に一目会いたくて、それで、あさひの付き添いで来たんです。先輩にお目にかかれて、すごくうれしいです。レインボー先輩もスコール先輩も、すごくステキなオトナ女性で、お二人をみて、なんだか、わたしもこんなふうになれるんだ、『超絶美少女』ってただの学園アイドルみたいなものじゃないんだ、ってわかってきたんです。わたしも後に続きます!」
 「そんなに気負わなくてもだいじょうぶ。なぎさは、もうわたしたちより一つ上のレベルにいるオンナのコ。いままで誰も想像さえしてなかった最少告白記録を樹立して、しかも、そのたった一つの告白をしっかり自分のモノにしちゃった史上最高の『超絶美少女』なんだから」
 「い、いえ、そ、そんな…」
 「コードネームを持ってる先輩が、みんなあなたを認めてる。すごい、って」
 「えー…」はじゅかしー。
 「でもね」
 「でもね…って?」
 「なぎさ、ガードが甘いわ。甘すぎる」
 「はいっ?」
 「やっと自分のモノにしたオトコなんだから…気をつけてね。…みんなあさひを狙ってるからね」
 「ええええ?」「どーゆーことですか?」…2人同時に聞いちゃった。
 「あら、知らないの?」そういって、レインボー先輩は、クスッと笑った。あー、これは、完全にイタズラ少女の笑い!…うちの母やおねえちゃんがよくやる。最近は弓美もやる。母もおねえちゃんも弓美も、もっと意地悪くニヤッと笑うけど。レインボー先輩、ぼくたちをからかう気だな。
 「まず、なぎさが注意しなくちゃならないのは…スコールよ」
 「えっ? スコール先輩がなにか?」
 「めちゃくちゃあさひのことが気にいっちゃって」
 「スコール先輩が??」
 「もうすっかり恋人気取りよ」
 「えええー」
 「この前の電話。『わたしの年下のかわいいボーイフレンド助けて』って泣かれて、その後『あんたの教室のアシスタントにしなさい!』って命令された」
 「ああ、それって、トシキさんのことです。スコール先輩、イケメンに弱いから」
 「で、わたしが『アシスタントかー』っていったら、スコールが『そのかわり、ものすごーいイケメンも一人つけてあげるから』って」
 「あれっ…」
 「あさひって、ものすごーいイケメンだったのね? そう?」
 「そ、そんなー」
 「だから、なぎさ、スコールには気をつけなさい!…それから、他にもあさひを狙ってるのがいるからね」
 「だ、だれ、だれですかっ!」
 「リンクスよ」
 「リ、リンクス先輩が?」
 「だって、この前、いってたもん。『わたし、あさひがすっごくほしい! ほしいんですっ!!…………バイトに』って」
 「あ、あさひが、すっごく、ほ、ほしいっ!!」
 「なぎさ、全然違うよ『バイトにほしい』だよ」
 「うううー」
 あー、もうレインボー先輩、やめてください。なぎさは、からかわれるのに慣れてないんです。ついこの前までムーンショットビューティーやってたコなんですから。彼女を「いじる」こと考えたヒトなんて、いままで誰一人いなかったんです。あなたが世界で初めてですっ!
 しかも、あなた、わざわざなぎさが「キーッ」ってなるような、誤解をまねくようないいかた選んでしてるでしょ! それ、ワルいオンナのコです! あー、もー、なぎさがすっかり逆上してます。なんとかしてくださいよ。ぼく、知りませんよー。
 でも、トシキさんが、なぎさをなだめてくれた。トシキさんは、逆上したオンナのコをなだめるのがすごく上手だった。さすがイケメン、って思ったんだけど、この場合、イケメンは関係なかった。単純にトシキさんは、家で毎日のように、わがままな妹をなだめているから、慣れてる、ってだけだった。
 トシキさんになんとかなだめてもらったなぎさは、最後に、はき捨てるようにレインボー先輩にいって、スコール先輩のアトリエに降りていった。
 「レインボー先輩! あさひがセレブ夫人とか、お嬢とかにヤラれないように、しっかり見張っててくださいねっ! もし、なにか間違いがあって、あさひがキズモノにされたりしたら、わたしは、ぜええったいに許しません!! そんな気配がしたら、すぐに3階から飛んできますからねっ!!」
 憤然としてなぎさが出ていった瞬間、レインボー先輩とトシキさんはふきだした!! もー、なぎさをからかうのやめてください!! ちょっとちょっと2人で大爆笑するのヤメてください。とくにトシキさん。あんたクールなイケメンってことで売り出し中なんですから、げらげら笑うの禁止です!

 なぎさが出ていった後、今日のクラスの準備を3人でする。じつは、とってもイタズラ少女だ、ってことがバレちゃったレインボー先輩が、料理の奥義をさずけてくれた。
 「トシキ、料理をつくるときに一番大切なもの、ってなに?」
 「え、えーと記憶力、でしょうか? 調味料の分量や加熱時間を記憶する」
 「ブーッ!」…えっ? ぶーなんて、まるっきり、ゆかりレベルじゃないですか!
 「あさひは?」
 「え、えーと、愛情!」
 「あんた、まるっきりバカね。レベル低すぎ」…えー、そんなー。「あんた、まるっきりバカ」なんていうんですか? 30分前にはじめて会ったばかりなのにー。それ、ゆかりレベル以下です。おねえちゃんレベルです。
 「正解はなんですか?」
 「生物学と化学の知識」
 「はいっ?」
 「あのねー、料理ってのはね。動植物の死骸を材料にして」
 「ちょ、ちょっとなにいってるんですか、レインボー先輩!」
 「だってそうでしょ?」
 「そ、それはそうですけど、ふつう料理教室で『死骸』っていいません!」
 「わたしだって、セレブ夫人の前では優雅に『新鮮なお肉やお魚やお野菜を』っていうから心配しないで…でも、いくら新鮮っていっても、あれって全部、死骸なのよねー」
 「はいはい。わかりました。それで?」
 「新鮮な動植物の死骸を」
 「死骸やめてください」
 「動植物の死んだヤツ」
 「はいはい。もう…死んだヤツでいいです」
 「死んだヤツをどのように解体して切りわけるか、っていうのが第一のポイント。そのとき、死んだ動物の場合、解剖図が頭の中にあれば、自分がつくりたい料理に適しているのが、どの部位の筋肉か、ってことが自然にわかるし、その部位をどのようにカットしていけば、つくりたい料理になるか、ということも自然にわかる」
 「はい」
 「アメリカでは、感謝祭やクリスマスのときにね。七面鳥(ターキー)のローストをメインディッシュに食べる。知ってる?」
 「話に聞いたことはあります」
 「七面鳥の死んだヤツですね!」
 「ターキーって、すごく大きな鳥なのね。それを一羽まるごと2時間ぐらいかけてローストして、テーブルに置いて、一家の主人が…まあ、ふつうは夫とか父ね…それをナイフを使って切りわける。そのときね、解剖学の心得のある…って、そこまで高度な知識じゃなくていいんだけど、鳥類の解剖図が頭に浮かぶような人なら、関節や主要な筋肉の間にナイフを入れて簡単にキレイに切りわけられる。3分もかからずに。でも、知識がないと10分以上かかっても切りわけられない。だから、アメリカでは、ターキーを切りわけられないオトコとは結婚するな、っていわれてたの。つまり頭の悪いオトコは相手にするな、ってこと。まあ、昔話だけどね。まったく同じように、魚をさばくときも、解剖学の知識があるかないかで、手際も仕上がりも全然、違ってくる。素人は、毎日たくさん魚をさばくわけじゃないから、あらかじめ知ってるか知らないかで「上手(うま)さ」に大きな差がでてしまうのね。つまり、調理に解剖学の知識って不可欠なの」
 「…植物も同じなのよ。どこにどのように繊維が走ってるかを知らなくちゃ。どんなふうに切るかをそれで決めるの。繊維を短く断ち切っていくか、繊維にそって長く切るかで、食感も加熱時間も、味つけも変わってくる」
 「それから、それぞれの材料や部位にふくまれてる成分を理解している、ってことも大切ね。脂質、タンパク質、糖質の割合がそれぞれどれぐらい、っていうのが基本で、脂肪の層が皮膚のすぐ下にある、とか、組織全体に均等に入ってる、とか。さらにそこに特別な成分、ペクチンとかコラーゲンとかアミノ酸とか、そんな成分がどの臓器や組織にどのぐらいふくまれてるかを知っていないとおいしい料理はつくれない。これも生物学」
 「わかりました」…あーなんか、レインボー先輩、わざわざ残酷な表現してよろこんじゃうイタズラ少女なんだけど…話は理論的。間違ってない…でも、どこかおかしい。父と同じ。
 「で、つぎに化学ね。バケガクのほうの化学よ。調理ってね、ごくシンプルにいっちゃうと、部位や繊維の状態を理解してうまく解体した動植物の死骸をね」…ありゃ、また死骸にもどっちゃった。
 「…あ、死んだヤツをね、加熱することによって殺菌して、化学変化をおこして、人間が安全に消化吸収しやすいようにする作業なの。それから、調味…味をつけるのもね、もちろん、食べておいしい、って感じるように味をつける、ってことなんだけど、単純に味を足す、ってだけじゃなくて、調味料と材料の間に化学反応をおこして、新たな味や食感を創っていく、っていう作業なの。たとえば、シメサバだったら、塩の浸透圧でサバの死骸…じゃなかった、死んだヤツにふくまれてる余分な細胞液を排出して、筋肉を硬直させて、そのあと、酢でタンパク質を白く変性・脱水してつくるわけ。そのとき、サバの表皮に細菌が付着していたとしても塩と酢で死滅するから殺菌もできる。細菌もタンパク質でできてるからね」
 …なんか、その説明、ちょっと凄惨な感じがするんですけど。シメサバ好きなんですけど、そんな凄惨な料理だとは思いませんでした。
 「一度、そういう化学的な原理を知ってしまえば、殺菌と化学反応に必要な作業とその時間もわかってくる。だから、シメサバだったら、どのぐらいの量の塩をどのぐらいの時間使って、どのぐらい硬直させよう、とか、酢につける時間を短くしてタンパク質の変性を表層にとどめて中はレアの状態にする、とか、いろいろ工夫できるようになる。さらに、酸の種類を変えてみたらどうなるか…理論的な裏付けのもとに実験をくりかえしていって、安全で衛生的、っていう料理にいちばん大切なことを遵守(じゅんしゅ)しながら、自分の好みの…そして、彼女に食べてもらいたいような、おいしいシメサバを創っていけるようになるわけ」
 「あの…」トシキさんが質問する「酸を変えるって、どういうことでしょうか」
 「酢の種類を変える、ってことよ。ふつうは酢酸が主成分の米酢や穀物醸造酢を使うけど、クエン酸を豊富にふくむレモン果汁にしてみるとか、酒石酸を豊富にふくむワインビネガーにしてみる、とか…それで味わいが全然違ってくる」
 「わかりました」
 「たとえば、サバの代わりに、タイやヒラメみたいな白身魚をつかうとしたら、薄切りにして、塩は軽くふるだけにする。酸味の強い酢もヤメて、バルサミコか、あまりすっぱくない熟成白ワインビネガーに替える。ふつう白身魚はサバと違って皮をはがして薄切りにするので、細菌や寄生虫の心配は少なくなる代わりに皮膚の下のうまみの強い脂肪層もなくなっちゃう。だから、その補充としてオリーブオイルかける。そして、わさびの代わりに玉ねぎの細かいみじん切りとケイパーの酢漬けを散らす。そうすると、できたものは、まったく別の…カルパッチョっていわれるような料理になっちゃうけど、やってる作業の手順とその意味は、シメサバとまったく同じことでしょ? だから、シメサバのつくりかたを練習するときに、それぞれの手順でなぜそういう作業をするのか…つまり、どういう素材に、どういう手順で、どういう化学変化を、どの程度起こさせるのか、その意味は?…ってことを考えながらおぼえていくの。そうすれば、シメサバをカルパッチョに変化させるみたいに、自分でバリエーションを考えて、新しい料理をつくっていくことができるようになるの。わかる?」
 「わかります! それってアルゴリズムですね」トシキさんがさけぶ。
 「アルゴリズム??」
 「ええと、コンピュータの新しいプログラムをつくるときの話なんですけど…アプリケーション・ソフトの種類は、作業目的におうじて無限につくれます。でも、作業を実行する手順、つまりアルゴリズムは、そんなに多いわけじゃないんです。だから、基本的なアルゴリズムを理解していれば、いろんなソフトを設計できるんです。ぼくたち兄弟は、どんなアルゴリズムをどんなふうに組み合わせれば、最小の処理時間で過不足なく作業の目的を達成できるか、っていうことを考える…そんな研究、とバイト…をしてるんです。レインボー先輩の話をきいてわかったんですけど、料理もプログラミングとまったく同じ、ってことですね」
 「そのとおり!…もう料理の奥義を悟ったみたいね。すばらしいわ!…だからトシキ、あなたは、この料理教室で料理の基本的なアルゴリズムを習得していくの。そうすれば、家に帰って、その日、あなたの目の前にある『動植物の死骸』から、いろいろな『あなたの料理』をつくっていけるようになるの。わかった?」
 「わかりました!」…トシキさんとぼくは同時に返事する。それにしても、レインボー先輩、すごく理知的に説明できるヒトなのに、どうしても「動植物の死骸」っていいたかったんだね。ホントに困ったイタズラ少女!

 でもイタズラ少女のイタズラは、それだけで終わらなかった。
 「今日は、どんなメニューなんですか?」
 「今日は韓国料理にしたの」
 「えー、韓国料理、ですか?」…セレブ料理教室なんだから、毎回フレンチとかイタリアンとかの気取ったメニューでいくのかと思ってました。
 「うん。この教室は、けっこう高額のレッスン料をとってるから、あまりシンプルな料理メニューは、好まれないんだけど、今日は、わたしたちのチームのデビュー戦だから、絶対に失敗しないメニューが組めるもの、ってことで、韓国料理を選んだの。手順がシンプルなレシピばかり選んだから失敗することはないわ」
 「ありがとうございます」…「わたしたちのチーム」っていってくれるレインボー先輩がステキだ…「でも、生徒さんたちは満足しますか?」
 「今日は、ウワサの美人料理研究家が、すっごいイケメンとカワイイ年下のボーイフレンドをアシスタントにしちゃいましたっ!っていう大事件に奥さまとお嬢さまはコーフンしちゃうから、メニューの内容は、誰も見ない。みんなイケメン男子とカワイイ男子2人だけを見るから、メニューなんて誰も気にしない、って作戦」
 「それって、デザイン思考ですね」…あ。トシキさん、ぼくも同じこと考えてました。
 …それに、イケメン男子と「カワイイ男子」っていってくれるレインボー先輩、やっぱり、すごくステキです。おねえちゃんレベルじゃないです。弓美やスコール先輩レベルも超えてます!

 で、イタズラ少女のこんな紹介で、チーム・レインボーの初めての料理教室がはじまった。
 彼女の第1のチャームポイント、美しいミディアムボブをギンガムチェックの三角巾に包んだレインボー先輩が、受講生のみなさんに語りかける。彼女の髪が隠れると2番目のチャームポイントのキラキラ光る大きな目がみんなを魅了する。
 「みなさん。今日はステキなお知らせがあります。…今週から、この土曜日クラスにアシスタントして、こちらの竹田俊希さん…と、八倉巻あさひさん、が入ることになりました。どうぞよろしくお願いします」…ここで、ホントにクラス全体がピンク色にどよめいたので、おどろいてしまう。まあ、どよめきの8割はトシキさんを見て、だけど。
 「2人とも、わたしの年下のボーイフレンドなので『トシキ』と『あさひ』って呼んでます。だから、みなさんもトシキとあさひ、っていってください。敬称は不要です。自分のボーイフレンドみたいに呼び捨てにしてかわいがってください」
 「ただし、残念なお知らせが一つあります。じつは、このオトコのコたちは2人とも売約済みなんです」
 「えー、彩先生のボーイフレンドじゃないんですか?」
 「もちろん2人ともわたしのボーイフレンドだけど、わたしのモノじゃないんです」ここでレインボー先輩は、ニコッと笑う。彼女のやわらかい笑顔が波紋のように教室全体に広がる。これって『超絶美少女』の(わざ)ですねっ!…それにしても、レインボー先輩って3つもチャームポイント持ってるんだ。そして、その3つとも、男子だけじゃなくて、女性にもステキ、カワイイ、って共感してもらえるようなポイントなんだ。こりゃ、教室にキャンセル待ちがでるの、わかります!
 「2人とも、わたしが買おうと思って手を出したら、もう『売約済み』って札がついてたんです」
 「あらー、残念だったわねー。わたしも買おうかと思ったのにー」…誰かがいう。みんな笑う。
 「しかも、2人とも、ものすごくキレイなオンナのコに買われちゃったんです…だから、みなさんも2人に不用意に手をお出しにならないようにお願いします。とくに、こちらの『かわいいあさひ』のキレイな彼女は、この時間帯、3階の松浦さんのオフィスにデッサンの練習に来ています。彼女、すごく敏感で、恋人に手を出すオンナがいるとその気配を感じて、ちっちゃな竜に変身して、羽を広げて4階までパタパタ飛んできて、悪いオンナの顔に紅蓮(ぐれん)の炎を吹きかけちゃいます」
 さっきのなぎさの捨てゼリフを知らない生徒さんたちは、キョトンとしてたけど、ぼくは、レインボー先輩がさっきのなぎさの様子を見事に描写したので、おかしくて小声でハハハ、と笑っちゃった。
 「だから、火遊びをして顔にやけどしないように、トシキとあさひの取扱いには、十分に気をつけてくださいね」
 …そういうと、レインボー先輩は、クスッって笑ってトシキさんをみた。トシキさんも、さっきのなぎさの様子を思いだしてしまって、もう必死で笑いをこらえてた。もし、人目がなかったら床を転げまわって笑ってただろう、と思っちゃうぐらい! レインボー先輩は満足そうだった。
 ホントにあなた、もー、どうしようもないイタズラ少女ですねっ!…いまの話も「ちっちゃな竜」の部分は、「トシキさんを笑わせるためだけ」にわざわざ入れたんでしょ!
 でも、美しくてかわいくてチャームポイント満載の料理研究家が突然、年下のボーイフレンドを2人も公開しちゃったことにクラスの雰囲気は、すっかり浮きあがってしまっていた。誰も今日のメニューがシンプルな韓国料理だ、なんて気にしてなかった。

 その夜、ぼくはおねえちゃんにレインボー先輩の料理教室でどんなことがあったか話した。
 「あのヒト、もうめちゃくちゃイタズラ少女で、初対面のなぎさをからかって遊んじゃったんだよ。あのなぎさを、だよ? なぎさもいじられることなんて、いままでなかったから、レインボー先輩の冗談をまともに信じちゃって、烈火のごとく逆上して…」
 「ちょっとちょっと、あさひ『烈火のごとく逆上して』っていいかたおかしいよ。そんなフレーズないよ」
 「あー、ぼくがいまつくった。だって、なぎさ、ホントに『烈火のごとく逆上した』ってしかいいようがなくなっちゃたんだよ。…それでね、ちっちゃな竜になって羽をパタパタさせて、紅蓮の炎を吐いちゃったんだよー」
 「あんたがいってることの後半がなんだか全然わかんないんだけど、とにかく、なぎさもいじられちゃうぐらい、人前で自分の感情をすなおに表現できるようになった、ってわけね。よかったよ…さすがレインボー先輩」
 「え、なんで?」
 「レインボー先輩ってね、魔法が使えるんだよ。あの人の周りにいると、みんな、なんだか楽しくなって、自分の気持ちにすなおになっちゃうんだよ」
 「それって、単なるイタズラだろ? レインボー先輩のイタズラに周りのヒトが巻き込まれちゃう、ってだけだろ」
 「そういうイタズラをサラっとできちゃうところが魔法使いなの」
 「そうかな」…まあ、周りが楽しくなるってのは、わかるけど、レインボー先輩本人が楽しみたい、ってのが99%だと思うな。
 「…でも、あのクールで端正なイケメンのトシキさんが、楽しすぎて床の上を転げまわって笑ってた。やっぱり魔法かな?」
 「魔法だよ。あさひも気をつけな。魔法かけられて床の上に転がされないようにねっ!」