スコール先輩が経営しているカフェ『雨と虹』は、金沢でも一番、観光客でにぎわっているひがし茶屋街のそばにある。正確にいうと浅野川を渡った主計町(かずえまち)の方だ。
 店舗は、なぎさの鶴来の家のように古い家屋をフルリノベーションした建物、といっても、ひがし茶屋街、主計町ともに「重伝建」つまり「重要伝統的建造物群保存地区」なので、このあたり一帯の店は、だいたいみんな古い建物をフルリノベーションして使っている。
 ちなみに石川県は日本の都道府県で一番「重伝建」が多くて9か所あるそうだ。観光協会は「これは京都府の8か所よりも多いんだぞー」と自慢しているけど、残念ながら石川県の「重伝建」は、観光地としてはいまいち感があるところが多い。たとえば、金沢市内に4か所ある「重伝建」のうちの一つは、なんと、ぼくとなぎさが毎日通っている野町駅から旭丘高校までのルート上にある寺町だ。つまり、ぼくらは、毎日「重伝建」の中を歩いて通学してるわけだけど、観光客はほとんどきてない。別に「重伝建」は観光客を集めるために指定されるわけじゃないから、観光客なんかこなくてもいいんだけど、完全に知らん顔されてるってのも、地元の住民としては、ちょっとさびしい。
 そんな地味な石川県の「重伝建」の中で金沢市の東山地区、つまり、ひがし茶屋街と主計町は例外的に観光客むけによく整備されていて、じっさい観光客がたくさん来てる。
 『雨と虹』は、その観光客が押しよせるエリアから、わずかに外れた位置にある。北陸の古い民家は、空間にゆとりがあるのが特徴だ。雪国のせいか、それとも人口密度が低かったからかわかんないけど。『雨と虹』は、その「ゆとりある広さ」をうまく生かしたおしゃれでシックな店。観光客が押しよせるエリアからわずかに外した立地も「ゆとりある広さ」を確保したかったからだろう。
 外観は、カフェらしくガラスの開口部分を大きくとっている。外から店内がよく見えて、おしゃれな店なんだけど、気取りすぎた感じがしない。ちょっと街歩きに疲れた通りがかりの観光客が、ためらうことなく、フラッとコーヒーでも飲んでいこうか、と入りやすい雰囲気を上手につくっている。
 なめらかに滑るアクリルガラスの引き戸を開けて入ると、白っぽい三和土(たたき)の土間になっている。L字型の長い白いカウンターがあって、ハイスツールが並んでる。その内側は、オープンキッチン。そして、カウンターの背後は木のフローリングの床になっていて、ゆったりとしたテーブル席がある。さらにそのむこう側に中庭がみえる。中庭は、和風の庭園になってるんだけど、その木陰にいくつかテーブルがおいてある。春から秋までは、庭のテーブルでもお茶が飲めるみたいだ。
 カウンター、キッチン、テーブル席、そして庭の席の高さが、少しずつ調整されたスキップフロアになっているので、カウンター席のハイスツールから庭の席まで、すっきり見通せる。広い店内が一つの空間にまとまっている…その開放感っていうかライブ感がすごくいい感じ。なぎさが「わたしは、こんな空間をデザインする人になりたい」といいそうな店だ。
 『雨と虹』は、観光客が多い土曜日と日曜日は、平日より早く10時に開店する。でも、今日は、まだあまりお客さんは来ていない。
 「いらっしゃいませ」…カウンターのむこうから涼しい声がむかえてくれた。落ちついた低いトーンで粒立ちのいい発声。ぼくには、もう声を聞いただけで、超絶美少女の一味だな、ってわかっちゃう。
 まず、声の主のまっすぐ伸ばした長い黒髪が真っ先に目に入る。彼女の顔立ちは、もちろん美しい。でも、なんていえばいいんだろう。なんだか水のような、透きとおって、サラッとした容姿。高原に湧く透きとおった天然水みたいなヒトだ。思わず「『超絶美少女』シリーズには、まだ新しいパターンがあったのか」って思っちゃった。
 ぼくのこれまでの経験では「超絶美少女」たちが魅力的なのは、必ず一か所「引っかかる」ところを意識的につくっているからだと思う。あー「引っかかる」っていうのは失礼でした。「チャームポイント」ですね。
 …たとえば、なぎさだったら、神秘的なハシバミ色の瞳がとてもチャーミングで、そこにオトコのコを吸いこむために、じっと相手をみつめるという技を使う。ぼくは、もう何度もやられました。ゆかりだったら、彼女の半径2メートルぐらいに陽がさしているみたいな明るい笑顔と、それを引き立てちゃう上目づかいのせがむような視線。うーん、うちのおねえちゃんの魅力ってどこかな? ま、姉の魅力っていうのは、弟には、わかりずらいんだけど、突然、魔王さまになったときのレーザービームみたいな視線、ってのが、恐怖のチャームポイントなのかもしれない! それから、おねえちゃんが「超絶美少女の有力候補だったけど、入学早々恋なんかしてたのでスタッフに回ってもらった」という弓美は、やわらかく暖かく微笑むおねえさん…かとおもいきや、普段、ゆるい三つ編みに編んでいる髪を「ふっ」と解いて、一瞬のうちに妖艶華麗な美女に「化ける」っていう「変化技」を持ってる。
 ところが「雨と虹」のカウンターの中にいた超絶美少女の先輩は、そういうパターンではないみたいだった。いくら見ても「引っかかる」ポイントがない。強いていえば、まっすぐ伸びた黒髪かな? 髪を使って弓美みたいな変化技を使う? とにかく一見しただけでは「チャームポイントが全然ないのにすごい美人」という…まったくすごい美人だった。…もう、自分でもなにいってるのかわからない。とにかく、おねえちゃんや弓美みたいに、細部までしっかり端正に書きこみました、って感じの美人じゃない。
 えーと、ものすごくデッサン力がある画家が、鉛筆1本でサラッと描いた、って感じの美人。それも、4Bとか6Bとかのデッサン用の鉛筆を使ったんじゃなくて、HBの筆記用の鉛筆で、ノートの余白に。
 切れ長の目、鼻筋がとおった鼻、シュッと細いアゴ、そして、それを取り囲んで流れる黒髪。前の方の髪だけ耳の下あたりでカットして段をつけているのは、全部長く伸ばすと、見ているヒトが視線を止めるポイントをまったく失なって、視線が足まですべりおちてしまうから、だろうか。もちろん全体の印象もグレースケール。胸当てのついた明るいグレーのエプロンをしてたことはおぼえてるんだけど、その下の彼女の私服のシャツとスカートの色をいま思いだそうと思っても全然思いだせない。
 …なんてことを考えて10秒間ぐらい彼女を凝視していたぼくをなぎさがつつく。なぎさを見ると「いいかげんにしなさい。なにみとれてんの!」とハシバミ色の瞳が怒ってる。すみません…ぼくはわれに返って、なぎさと隣り合ってカウンターに座る。今日は、デートが目的じゃなくて、このカフェに用事があってきたから。
 「いらっしゃい。なぎさちゃんとあさひくん」…なんで名前を?
 「…だって、2人とも有名人だもの。仲間うちでは」
 「手配写真がひそかに出まわってる、とか?」
 「ハシバミ色の瞳の美少女が、すごく幸せそうにオトコのコを連れて入ってきたら、誰でもすぐにわかるよ…でも、今日はデートじゃなくて、うちに用事があるみたいね」
 「はい。えー、えーと、あの…先輩は?」なぎさがためらいがちに聞く…うん。たしかに彼女はスコール先輩じゃない。いくらなんでも若すぎる。
 「あ、ごめん。自己紹介してなかったね。わたしは奥山あけみ。コードネーム、リンクスよ。ここでバイトしてるの。ひとみやリサと一緒に」
 「ええっ、あ、あなたが、リンクス…先輩」…うーん。ちょっと想像と違った。だって、おねえちゃんが「仔猫ちゃんのようにしなやかでやわらかいオンナのコ」…っていってたから、ぼくは、無意識に「ぬいぐるみタイプの美少女」をイメージしてたんだ。ゆかりを涼しくした感じの…。こんな「アルプスの天然水」みたいな人だとは思ってなかった。涼しすぎるー。まあ、たしかに「しなやかでやわらかい」っていわれれば、間違ってないけど、ぜんぜん仔猫じゃないな。やっぱりオトコをフルときに化けるのかな。白いひげがピンと伸びて、ニャーッって爪を立てる…なんて。かわいいっ!
 「はじめまして。八倉巻あさひです。その節は、姉がたいへんお世話になりました」…リンクス先輩は、ぼくのおねえちゃんの一つ前の「超絶美少女」だ。ということは、おねえちゃんのインストラクター、ってことになる。姉がさんざんお世話になっているはずだ。
 でも、ぼくのあいさつを聞くと、リンクス先輩はふきだした。
 「立派なあいさつをするのね。あさひくんって!」
 「はい。いつも姉にきびしくしつけられているので」
 「美しき魔王にこき使われてるんだって?」
 「はい。もう、ほとんど召使…どころか家内奴隷です」
 「あのー」なぎさが、ためらいがちに発言する。
 「はじめまして。中村なぎさです。どうぞよろしくお願いいたします」
 「もう自己紹介いらないよ。みんな知ってるよ。『超絶美少女』75年の歴史の中で、ついに歴史的記録を樹立したオンナのコだもんねー」
 「なんの記録ですか?」
 「決まってるじゃない。3年間で告白された回数たったの1回。絶対不可侵な至高の超絶美少女! これはもう誰にも破られないよね」
 「これから『ゼロ』っていう記録をつくる後輩が現れるかもしれません」
 「あー、ゼロはありえないと思うな」
 「なぜ、ですか?」
 「もし3年の3学期までゼロ、っていう『超絶美少女』がいたとするじゃない?」
 「はい」
 「そうすると3学期…卒業直前になにがおきるか想像してごらん」
 「えっ…わかりません」
 「あさひくん、わかる?」
 「はい。せっかくだから卒業記念に告白してみよう、っていう、卒業記念告白が殺到しますね。もしかすると、受けてくれる可能性がまったくゼロとは限らないし」…ま、自意識過剰で間抜けなオトコのコが考えそうなことです。
 「わたしもそう思う。だから1が最少記録よ」
 「でも、まあ…まだ卒業まで10か月ありますから…」
 「なにいってるの。あさひくんが全力で愛を告白して、それをなぎさちゃんが受けたことは、全校生徒がよーく知ってるのよ…なにしろ全校放送しちゃったんだから!」リンクス先輩は、自分でいって、自分でふきだした。なぎさとぼくは赤くなるしかない。
 「そんな『超絶美少女』に、じゃあ『オレも告白してみようかな』なんてオトコが現れるはずないよ。1名で確定よ。だから『超絶美少女史』に残る最少記録樹立!」
 「……」…ただただ2人で赤面
 「さて、ご注文はなにを?」
 「あ、すみません。メニュー、見せてください」
 ぼくらが注文をすませると、リンクス先輩は「ちょっと待っててね!」といって、キッチンのほうに下がった。オープンキッチンに立って彼女自身が注文された品をつくりはじめる。リンクス先輩のようなステキな人がオーダーをとりにくるだけではなく、そのままキッチンに立って自分のオーダーをつくってくれるところを見ているだけで、客はなんかすごく得した感じになる。通りすがりの観光客さえもリピーターになってしまいそうだ。もしかして、それを狙ってる?
 しばらくたって、奥から…今度は、まちがいなく「大人の女性」って感じがする人がでてきた。
 「ごめんなさい。ちょっと遅刻しちゃった。お待たせしました。松浦(まつうら) (れい)です。…っていうより「スコール」です。なぎささんとあさひくんね。…ホントにキレイな人なのね」最後のセリフは、もちろん、なぎさにむかっていったことばだ。わざわざ注を入れる必要もないけど。
 「…そして、あなたがあさひくん…なのね。うふふ…あの有名な。…うん…そうかー…あなたか…。はぁー」…キレイな人っていえないから、「有名な」でごまかしたらしい。でも、最後のため息はなんだ? イケメンじゃなくてそんなに失望した? まあ、ぼく『超絶美少女』業界では有名人らしいです。
 スコール先輩は「超絶美少女」だった…もう「少女」じゃないので「だった」って過去形でいっても叱られないと思う…人だから、なぎさやリンクス先輩に負けないくらいキレイな人なんだけど、あのころ「超絶美少女」だったわたしは、やっぱりいまでも美しいでしょっ?…っていうような「奥に引っ込んでしまいました」感は、まったくない。なんていえばいいのか…  「あのころの超絶美少女が、さらに『羽化』して別の魅力を獲得しましたっ」ていう感じ。その「変容」というのか「現役感」がすごい。だからといって、うちの母親みたいに第一線でバリバリ働いてます!仕事以外はすべて夫に任せてます!…という極端な感じでもない。もちろん、彼女はこのカフェをはじめ、いくつかの事業を展開しているから「実業家」でもあるんだけど、実業家とか経営者っていう雰囲気も全然ない。そういう現実感とか生活感とかとは無縁な自然体っていうか…うーん。やっぱり、アーティストっていうのが一番近いのかもしれない。デザイナーとして活躍して、いろんな企画をプロデュースしている人なんだから、じっさいにアーティストなんだけど…それ以上に…なんていうかその存在自体が「アーティスト」。
 少年のようなすっきりした横顔。もう「少女」じゃないのと同じく「少年」ともいえないはずなんだけど「少年」ということばが一番ぴったりする不思議な「大人の女性」だ。肩にかからない短い髪がそのボーイッシュな印象と絶妙に似合ってる。髪が短いと弓美みたいに髪型の変化で見た目の印象を変えることが難しいから、ショートヘアって「超絶美少女」むきのヘアスタイルじゃないような気もする。スコール先輩は、現役の「超絶美少女」だったころからショートヘアだったのかな? 整ってるけどなにも余計な飾りがない、って感じのスッキリとした顔立ちの中で一つ…左の目じりのチャーミングな泣きぼくろに視線が吸いよせられる。そして、キレイに上向きにカールした長いまつげ、その目元の涼しさに魅惑されてしまう。…印象的なそのまなざし。すっとこちらをみつめるその目が、まっすぐに目標にむかって進んでいる少年みたい。でも、そのまなざしに落ちついた、とても強い力を感じる。それだけ歳を重ねて、いろいろな経験を積んだまなざしだから?…だろうか。
 …と、そんなわけで、またまた彼女を10秒ほど凝視してしまった。でも、今度は、なぎさもつついてこなかった。なぎさのほうが、ぼくより真剣にスコール先輩をみつめていた。彼女は…おそらく自分の将来について考えていたのだろう。考えてみれば、すっかり大人になった元「超絶美少女」に会ったのは、ぼくもなぎさも初めてだった。スコール先輩は歳を重ねて、高校生の「超絶美少女」のときよりもずっと魅力的になって活躍してる…ってことがはっきりわかる。なぎさが先輩に見とれちゃったのも当然だ…しかたがないので、今度はぼくがなぎさをつつく。
 「あ、ああ…スコール先輩、今日は先輩にお願いがあってまいりました。先輩の絵画教室で、わたしにデッサンを教えてください。入試のために必要なんです」
 「どこを受けるつもりなの?」
 「早稲田大学の建築学科です。入試に「空間表現」という絵を描く科目があるんですけど、毎年、なんだかめちゃくちゃ特殊な問題がでるんです。なにを、どんなふうに書けばいいのか、自分が描かなくちゃならないものを想像すること自体がむずかしいような。だから、デッサンの技術を教えてくれる美大予備校みたいなところにいってもダメだと思うんです。デザイナーとして活躍してらっしゃるスコール先輩に、描く前の発想法から教わりたいんです」
 「へー。いったいどんな問題がでるの? 過去問って発表されている?」
 「あ、はい。大学のホームページにでてます。えーと、スクリーンショットがあるのでみていただけますか?」…と彼女はiPadを差しだす。
 「どれどれ」
 「これです」
 「ふーん。自分が別の生物になったと思って、その生物がみた風景を描いてください…どんな生物でもいいです。まだ発見されていない生物でもいいです。その生物の目線で見た風景を描いて、その風景の中に必ず同じ生物の姿を含めてください…」
 「別の年はこんな感じです」
 「んー、想像できる限り史上最大の規模の『かくれんぼ』を描いてください、か。…ハハハ。なんか笑っちゃうね」
 「これはその前の年です」
 「『遊び場を描いてください』か…。へー、こりゃ、大変だ」
 「先輩はどう思われますか?」
 「うん。たとえば、最初の問題だったら、別の生き物といわれたとき、早稲田の受験生だったら、ふつうの動物じゃなく…宇宙人とか妖怪とかドラゴンとか…想像上の生き物を描くことを考えると思う。みんなが似たような発想をするだろうから、空想上の動物をリアルに描くためにかなりの描写力が必要だよね。もし、その逆をいって、ふつーに犬とか猫を選んだ場合は…描写力にくわえて画面の構成力…日常の風景のどの部分をどんなふうに切り取るか…もすごく優れてないと高得点は望めないだろうな。描写力にも構成力にも自信がない人は、他の人が絶対思いつかないような創造力で勝負するしかないだろうけど、早稲田大学の受験生、それも人気のある建築学科だったら、ふつうの発想の裏をかくくらいのことは当たり前にできるレベルの人だらけだろうから、そのまた裏、…裏の裏をかかなくちゃ勝負にならないね」
 「『出題の意図』っていうコメントも発表されてるんですけど…これです」
 「創造力を働かせ…独創的な空間や対象物を丹念に描き…光と陰影で立体的な表現…なんだか『全部乗せ』みたいな意図ね。ハハハ…笑っちゃう」
 「わたし、過去問をみて途方に暮れちゃって…」
 「『史上最大のかくれんぼ』っていう問題も、ほとんどの人が地球をかくれんぼの舞台にするような壮大な光景を発想するだろうけど、それを1枚の画面に描くのは難しいなあ…やっぱり自分が持っている発想力がもろにでちゃうよね。それを避けるために斜め上をいって…たとえば、2歳ぐらいのこどもが、自分の家のリビングでかくれんぼをする…2歳のこどもにとっては、自分の家のリビングが『史上最大の空間』に感じられる、っていう発想もありかな。でも、そうなると、完全に2歳のこどもになりきって、その視線でリアルな室内空間を描けなくちゃならない…これは…難しい問題だねぇ……うーんと、どちらもキーワードは『視線』っていうことかな。なんとなく要求されていることがわかってきた感じ…とりあえず『視線』をはっきり決めて、空想の世界をキッチリした透視図として描く練習をしてみようか」
 「はいっ!」
 「この入試問題、ちょっとおもしろい。この問題への解答が将来の建築家にどんなふうにつながるのかわからないところもあるけれど…ええと。試験時間と配点は?」
 「120分40点です」
 「他の科目は?」
 「英語と数学と物理と化学です。英語、数学が120点満点、物理、化学が60点満点です」
 「ということは、全部で、ええと、400点満点のうち40点ってことね。全体の1割か…じゃあ『空間表現』が全然できなくても合格できそうね」
 「他の科目が満点近ければ…ということだと思います。数学や物理、化学は、満点に近い点をとる人がたくさんいると思います。早稲田の理工学部ですから。でも、わたしはそこまでじゃないから『空間表現』は捨てられません。それと、総合点が合格に届かなくても、英語か数学か空間表現のどれか一つが高得点なら合格させる、っていう規則もあるんです」
 「ああ、その入試のグランドデザインはよくわかる。建築学科に必要な、そして優秀な学生を募集するためには、合理的なプランね。…建築は国や地域を超えて仕事がくるから、英語が使えなくちゃお話にならない。構造設計なら絵なんか描けなくてもいいもんね。圧倒的に数学ができる人にきてほしい。設備設計なら、数学プラス物理と化学の知識が不可欠…そして、いまの建築業界で慢性的に不足してる人材は、構造と設備だから、数学・物理・化学の配点を高くして、そういう素養のある人材は逃さずとりたい。でも、学科の「顔」になるような、本当に優れたデザインセンスを持ってる人材も、絶対に落としたくないから、空間表現は配点をあまり高く設定しないけど、満点に近い点数をとった受験生は他の科目の点数に関わらず合格させる、ってことね。それで…もちろん、なぎさちゃんは意匠設計をやりたいんだよね」…意匠設計というのは、デザインのことだ。
 「はい。そうです。それも、建物をデザインするっていうより、このカフェみたいな空間デザインをしたいんです」
 「インテリア設計ね…それじゃあ、この『空間表現』は、合格のためだけに必要なものじゃないね。入学後、そして、あなたが将来仕事をするとき絶対に必要になる。意匠設計の中でも、特にインテリア設計は、たとえば生成AIを使った半自動のCGでキレイに作画して提案しても、センスのある依頼者(クライアント)なら全然納得しない。内装の素材感とか空気感を伝えるためには、それがCGであっても、どこかで設計者が自分の「手」を入れて表現しなくちゃダメ。提案画面の表現力は、意匠設計に不可欠なのよ…一緒にやりましょう。あなたの『あるべき未来』のために」
 そういって、スコール先輩は快く指導を引きうけてくれた。ぼくは、彼女が話すことを聞いて、やっぱりスコール先輩は、いつも未来にむかって成長し続けていくことを考えてる人なんだ、と思った。彼女は、こうやって『超絶美少女』から、もっともっと美しい存在に『羽化』してきたんだ。なぎさはホントにいい先輩をもった。
 毎週土曜日の午前中、なぎさは『雨と虹』からそれほど遠くない先輩のオフィス兼アトリエに通うことになった。

 そして…さらになぎさは、週に2日、予備校に通って数学と物理と化学を勉強することに決めた。ぼくとしては、なぎさと一緒にいられる時間が減ってつまんない。…かといって、なぎさと一緒に予備校にいって物理を勉強する気持ちも全然ない。
 さて、ぼくはどうしよう??