じつは大先生!だった中村博士の特別講義『モテるコミュニケーション理論』の開催は、今度の日曜日の10時から、ということになった。ぼくはトシキさんに連絡した。すると、トシキさんから「ぼく以外に参加したいっていってるヒトがいるんだけど…いい?」という返信がきた。
 「いいですけど…。誰ですか?」
 「ゆかりとカズキと弓美」
 「えー、なんでですか?」
 「最近、ぼくがあさひと毎週末、楽しそうに『修行』してるだろ? ゆかりがすっかりひがんじゃって」
 「なんでですか?」
 「ゆかりをほったらかしてお兄ちゃんたち2人だけで楽しそうに遊んでる、って」
 「あはは。ゆかりらしいですね」
 「ゆかりがそれをカズキに告げ口したら、カズキが『じゃあ、オレも来週は金沢に帰る』って。そうなると、自動的に弓美も…」
 「もちろんだいじょうぶです。一応、中村博士に聞きますけど、あのヒト、聴衆が1人でも、1000人でも、全然変わらずに楽しく話せるヒトですから」
 「ありがと!」

 トシキさんに参加者の追加を頼まれたすぐ後に、リンクス先輩とリサ先輩からあいついで「わたしも聴きにいける?」ってLINEが入った。
 「誰に聞いたんですか?」
 「ひとみ」
 おねえちゃんには、トシキさんの「修行」の進み具合についてときおり話してる。で、おねえちゃんは、そのことを2人に話したんだろう。おねえちゃん、トシキさんのことが気になってたまらないんだねー。でも、自分がノコノコ講義に出席するわけにいかないから、インストラクターとコーチにトシキさんの様子を見にいってきて、ってそれとなく頼んだんでしょ?
 ぼくは、返信する「もちろんどうぞ。歓迎しますよ!」

 急に聴衆(オーディエンス)が増えたので、中村博士は「じゃあ、『星ラジオ』研究所のレクチャールームを使おう」といってくれた。「その後、ウチで簡単な昼食を準備するから、みんなに移動してもらうことになるけど」
 「昼食まで…恐れ入ります」

 そんなわけで、日曜日は思いがけずにぎやかな集まりになった。初めは中村博士の家でトシキさんとぼくの2人で地味に聴講するつもりだったんだけど。
 ぼくはいつもの日曜日みたいに自転車を持って鶴来駅にむかう。なぎさが駅で待っていてくれる。みんな聴きにいく、って話したら、日曜日はウチでおかあさんと英語の実践練習をするんだ、っていってたなぎさまで「やっぱりわたしもいくっ」っていいだした「おとうさんが変なこといいはじめないように! 自分の娘がいれば少しはまじめにやるでしょ!」
 ぼくたちが星ラジオ研究所に着くのとほとんど同時にグレーのスズキ・ジムニーが着いた。誰?…運転席からリンクス先輩が降りてきた。ミディ丈の若草色のフレアスカートに明るいピンクのカットソー。グレーのジムニーって、いちばん地味な色! だからリンクス先輩のクルマだとは思わなかった。フェミニンで華やかな服装のリンクス先輩と機動的なジムニー、全然イメージになかった組み合わせだけど、目の前でみるとよく似合ってる。これも思わぬギャップ萌え、リンクス先輩、いいなー。
 「あさひ、なぎさ、おはよう。遊びにきた。よろしくね。」

 モーターサイクルに乗ったリサ先輩もやってきた。
 先輩の愛車は、ホンダのCL250っていうバイクだ。スクランブラーっていうタイプで高速道路も林道も、ってカタログに書いてあった…って、いうことは、ロードレーサーとマウンテンバイクの中間…つまり、ぼくやなぎさが乗ってるクロスバイクみたいな車種なんだろうな。リンクス先輩のジムニーにも似た機動的なデザインのバイクだけど、落ちついてるのに活動的!なリサ先輩にとってもよく似合ってる。
 「あさひ、おはよう。ひとみにいわれて偵察にきたよ」
 「あ、おはようございます。リサ先輩、こちらが」
 「なぎさちゃんね! 内田理沙、ひとみのコーチよ。評判どおりキレイなヒト!」
 「はじめまして。リサ先輩、お名前は、ひとみ先輩から何度も…ひとみ先輩は、わたしと同じぐらい美人のコーチだ、って」
 「『美しき魔王』ほどじゃないよ! これから、よろしくね」

 そこにオリーブグリーンのスバル・フォレスターがやってきたので驚く。あれっ? ウチの父と同じ車種、しかも同じ色。一瞬、父までやってきたのかと思っちゃった。でも、助手席から降りてきたのは、ゆかりだった。
 「あさひ兄ちゃん、ゆかりきたよっ!」…あいかわらず元気で…こどもだなあ。
 「おはよー。ゆかり」
 後ろのドアが開いて弓美ともう1人、カズキさんだね。そして、運転席からトシキさん。
 「びっくりしました」
 「なんで?」
 「ウチの父と同じクルマなんです」
 「あー、そうなんだ。でも、北陸じゃフォレスターはめずらしくないだろ」
 北陸地方は日本海側に面してるから、冬になると雪が降る。雪が降るし「北陸」って名前がついちゃってるせいで、とても寒いところだと思われてるんだけど、北陸はそんなに寒くない。じつは、冬の気温は太平洋側とそんなに変わらない。特に金沢は真冬でも氷点下になる日がほとんどないんだ。そこに雪がドサッと降るとどうなるか? 市街地の主な道路には「融雪装置」っていう名前の「噴水」が設備されてるから、ほとんど問題ない。でも、住宅地の道は、降雪後2、3日で道路がぐちゃぐちゃのぬかるみと化す。道に深い「わだち」ができてしまう。それで、自宅からクルマがだせなくなってしまう。そんなときにはAWD、つまり四輪駆動のクルマが圧倒的に強いし、車高が高いクルマじゃないとわだちにお腹がつかえてしまう。だから…という理由で北陸ではAWDのSUVを選ぶ人が少なくない。特にぬかるみに強くて、最低地上高が22センチあるフォレスターを選ぶ人はかなり多い。
 同じ理由で、リンクス先輩が乗ってるジムニーも人気がある。旧市街の江戸時代から続いてるみたいなすごく狭い路で圧倒的に取りまわしやすい軽自動車。それなのに、ぬかるみに強いオフロード性能に加えて地上高が20センチ以上ある。だから、金沢では、アウトドアに縁のなさそうな、ごく普通の女性がジムニーに乗ってることも多い。
 「あ、はい。フォレスターはめずらしくないんですが、その色が」
 「え、色も同じ?」
 「はい。同じオリーブグリーンなんです」
 「それは偶然だなあ…この色のフォレスターは、あんまり走ってないよね」
 「あの…はじめまして。竹田和希です。あさひくん、ですね?」
 「あ、はじめまして。カズキさん、遠いところまできていただいてありがとうございます」
 「いや。こちらこそお世話になります。ゆかりが、最近、トシキがあさひくんとばかり遊んでる、ってひがんでるので、今日は、みんなで遊びにきました」
 カズキさんは、トシキさんと違って『イケメン』ってヒトじゃないけど、がっしりした体つきのスポーツマンタイプ。でも、さすが東大生、って感じの鋭い知的なまなざし。トシキさんと方向性は全然違うけど、やっぱり魅力的な男性だと思う。弓美がヤラれた理由がよくわかる。弓美って、こういう「文武両道」&「一刀両断」って感じのオトコに弱そうだもん。
 「わたしもね!」…今日の弓美は髪をゆるく縦にカールさせて、薄くお化粧してる。前から、なぎさに聞いていたけど、弓美が本格的に化けると美しくなるだけじゃなく、なんかオーラがすごい。ものすごくオトナっぽく見える。リサ先輩どころかリンクス先輩と変わらない年齢に見える。まあ、もともと『超絶美少女』って、年齢不詳みたいなヒトばっかりだから、比較する意味があるかどうかはともかくとして。
 「なぎさ、今日はよろしくね!」
 「おはよう弓美。今日もキレイね! おとうさん、あんまり変なこといわなきゃいいんだけど…わたしの友だちがたくさん来てくれる、って、とっても、よろこんでるの…調子に乗っちゃうんじゃないかと…すごく心配」

 なぎさの案内で研究所のレクチャールームに入る。中村博士が講義の準備をして待っていてくれた。それぞれあいさつしたり、自己紹介したりしてから、博士の「超いいかげんな」特別講義が始まった。

 「こんにちは。ようこそ『星ラジオ』研究所へ。みなさんにお目にかかれてうれしいです。みなさんには、いつも娘のなぎさが大変お世話になっています」
 「…さて、今日は『モテるコミュニケーション理論』について話してほしい、ということなので、あまりややこしい話はせずに『モテるためには、どんなふうに会話をつくっていけばいいのか』ということをできるだけ楽しくお話ししたいと思います」
 「…といっても、あんまりでたらめな話をするのは、ヤメてくれって、なぎさにいわれて…そこに座ってガッチリ監視されてるので、今日は『社会言語学』の基礎的な理論である『ポライトネス理論』にもとづいた話をします。ま、いちおう学問的に裏付けのある話、ということで、なぎささんもどうかご理解を」…といって中村博士はニヤッと笑う。
 「えーと、まず『社会言語学sociolinguistics』について説明します。ふつう『言語学』というと『言語』つまり『ことば』を研究対象にするんですが、『社会言語学』の研究対象は『言語』じゃなくて『人間』なんです。『人間』が『言語』を使って、どんなふうに人間関係…つまり社会をつくっているか、ってことを研究しています。それで『社会言語学』っていってます。つまり人間のコミュニケーションについての研究です」
 中村博士は、ポイントをまとめたスライドを投影しながら、話してくれる。
 「社会言語学は、まだ新しい研究領域です。『社会言語学』って名前が意識的に使われたのは、1960年ごろからです。それから、いろんな人がいろんな研究をして『社会言語学』の研究です、っていってるんですけど、内容は、さまざまで『どこからどこまでが社会言語学』か、って定義はできてません。ただ、その中で『モテるコミュニケーション理論』に関係する重要な発見がいくつかあります。今日は、その中から一つをとりあげて話します。『ポライトネス理論』っていいます。
 『ポライトネスpoliteness』って英語は『礼儀正しさ』って意味なんですけど、社会言語学では、定義づけられた『専門用語』として使ってます。ブラウンとレビンソンっていう2人のアメリカの文化人類学者が1978年に『ポライトネス理論』としてまとめた論文を発表したんですが、その中で専門用語として『ポライトネス』ということばを使いはじめました」
 「…それで、最初にみなさんに聞きたいんだけど、ことば…言語ですね。言語の機能って、いくつかあるんですけど、どんなことでしょうか? …じゃあ、まず、あさひくん」
 「ええと、なんといっても『コミュニケーション』に使いますよね」
 「そのとおり。これは説明の必要がありませんね。他には?」
 「考えるため」…と、トシキさん「人間は、ことばを使って考えてるんですよね」
 「そうです。『考える』っていうと頭の中で『概念』とか『理論』とかを直接操作してるみたいに思うけど、じつは、すべて『ことば』を操作してるんです。ことばを使わないと人間は『考える』ことができません。小学校1年生から国語…つまり、ことばの勉強をするのは、まず、ことばを使えるようにならなければ、『考える』こともできるようにならないからなんです。どこの国でも、初等教育の最初から『ことば』と『算数』を習うんですが、それは『ことば』を『論理的に順序立てて』操作する方法…つまり『考える』ことを習得するためなんです。ことばを論理的に操作できるようにならなくちゃ、社会も理科も、それからもっと複雑な勉強もはじめられないんです。…さて、言語の機能、他にありますか?」
 「はい」と、ゆかりが手をあげた。お、ちょっと意外…「おぼえる、っていうのはどうですか? ことばがないとおぼえるのがものすごくむずかしくなると思うんです」
 「そのとおりです。人間は、ことばにしないとおぼえられないんです。つまり記憶するためにことばを使います…っていうか、ふつうはことばを『記憶』するんです。…音楽家や画家、あるいは調理師とか調香師とか…五感に特別なセンスをもっている人、つまり、芸術家(アーティスト)ですね。そういった人たちは、耳コピで完全に旋律(メロディ)を記憶しちゃったり、見たものをそのまま写真に撮るみたいに記憶したり、食べたモノの味、嗅いだ匂いをそのまま記憶できる能力を持つ人もいます…でも、ふつうの人は、ある事象を一度『言語』かそれに類する『記号』…たとえば数式とか音符におきかえなければ、記憶できません」
 「…料理のレシピがその典型的な例です。レシピには、その料理の味のことも食感も匂いも色も全然書いてありません。でも、ある料理を記憶しようと思ったら、ふつうの人は『レシピ』を記憶するしかありません。それから、絵画や音楽なんかでは、ことばでつけられた『タイトル』が目印(タグ)になって記憶できてるんです。わたしたちは『モナリザ』とか『ゲルニカ』といった絵の名前をおぼえているので、画像をなんとなく想起できるんです。じつは…身近なことでいうと、人の顔をおぼえる場合も、その人の名前をタグにしてることが多いんです。いずれにしても、言語の3番目の機能は『記憶』です」
 「…さらに付け加えておくと、その記憶を個人の脳から外に出して、長く保存するために発明されたのが『文字』なんです。だから、文字は人類最古の、そして、もっとも偉大な記憶装置(メモリー)なんです。…さて、ほかに言語の機能が考えられるでしょうか?」
 誰も手をあげない。
 「誰もいませんね。それでいいんです。言語の機能として言語学者に認められているのは、いま話した3つです。コミュニケーション、思考、記憶です。しかし、わたしは、ここに言語の4番目の機能を提唱します。それは『触る』です」
 「あの…『触る』って、touchですか?」
 「はい。言語には『他人に触る機能』があるんです」
 んんん??
 「ここで、ちょっと別の角度から話をさせてください。それは『なわばり』という話です。
 動物は、それぞれ「なわばり」を持って生活しています。そして、そのなわばりがものすごく重要なことは、朝、散歩している犬が、どうしても電柱におしっこをかけずにいられない様子をみてもよくわかります。
 人間は、群れをつくるタイプの動物です。ところが、この群れの規模が他の動物では考えられないほど大きいんです。たとえば、金沢市とその周辺では、50万人以上が群れをつくっています。これが首都圏や関西圏になると1000万人以上になります。しかも、大都会ではタワマンみたいなものまでつくってわざわざ密集して住んでます。しかも、ウシやシカの群れと違って…季節が変わるとき、食料を求めて、安全に移動するために集団をつくる、っていうんじゃなく、人間は1か所に何年間も、何十年間も住み続けます。巨大な群れをつくって、しかも密集して『定住』してるんです。
 群れで定住してる動物は、他にもいます。サルとかプレーリードッグとか。でも、そういった集団は血縁関係がある、つまり「家族」です。だから、大きくても100頭を超えることはまれです。ところが、人間だけは、血縁にまったく関係なしに、異常に大きな群れをつくってます。まあ、人間の異常なところは「群れの大きさ」だけじゃないと思いますが…ね。
 人間の巣…つまり、住宅は、各個体や家族のなわばりとして機能してるんですが、人間は、その自分のなわばりから毎日、外に出かけていって、学校や職場といった、自分のなわばりではない空間にわざわざ集まってすごします。そのほうが、生産性や学習効率がずっと高くなるからなんですが、これは常に『なわばり』を意識せざるを得ない動物の本能からすれば、耐えがたい状態のはずです。なぜ、人間だけが、そんな動物の本能に背くようなことができるんでしょうか」
 まあ、博士の話の流れからいって、それは、人間がことばを使うから…って結論になるんだろうけど、それと「なわばり」の関係は…まったく見当がつかない。
 「…たとえば、通勤の乗客で満員の電車の中で誰も話そうとしないのは、なぜでしょう? もし、そこに知り合いが乗ってきても、目と目であいさつするだけ、とか、ごくごく小声であいさつするだけ、になってしまうのはなぜでしょうか? そして、その2人がドアが開いてホームに降りた瞬間から普通の大きさの声で話しはじめるのはなぜでしょうか? 反対にもし、満員電車の中で見ず知らずの人に話しかけられたら、ちょっと怖くなりますよね。それは、なぜでしょうか?」…博士が「あさひ答えろ!」って、ぼくをじっと見る。
 「いや。そんな状況で話をする、ってことが考えられないからです。迷惑になります」
 「なぜ迷惑なんですか?」
 「えっ…えーと」
 「満員電車の中って、どんな状況ですか?」
 「赤の他人とくっついて立ってるみたいな…まったく他人との距離がとれない…状況です」
 「そう。動物が本能的に必要とする『なわばり』空間がまったく得られない状況ですよね。それは、動物には、本来、耐えられない状況です。人間がそれに耐えることができるのは、そこで、話しかけたり話しかけられたりしない、っていう暗黙の了解があるからなんです。その暗黙の了解が破られてしまうと自分のなわばりに侵入された!…と感じるんです。だから迷惑なんです。つまり、人間は、『身体的な接触』とそれにともなう『なわばり意識』に代わって、『言語による接触』を発達させることによって、巨大な集団で密集して暮らす、という特異な生活様式を生みだすことができたんです」
 「…満員電車でもう隣に立っている人と衣服が接触しているような状態。でも、わたしには、あなたの『なわばり』を侵害する意思はありません。だから、決して話しかけません、っていう『暗黙の了解』があるんです。それを決して破ってはいけないんです」
 「…ここからわかることは『話しかける』ってことは『ことばを使って相手に触る』ってことだということです。『話しかける』って『相手に接触を求める』ってことでしょう? 満員電車の中で実際に衣服が接触していたとしても、ことばで触られなければ、ガマンできるんです、人間は。つまり、人間にとっては、実際の肉体的な接触よりも『ことばによる接触』のほうが重たいんです。つまり、人間は、ことばを使って他人に触ってるんです…というわけで、言語の第4の機能は『他人に触る』ってことなんです」
 「それって、おとうさんが考えたんでしょ?」
 「そうだよ。これが『モテるコミュニケーション理論』の核心なんだよ」
 「へーえ」…と、なぎさはわざとらしく父親に冷淡な反応をしてみせたけど、ぼくは、早くその先を聞きたかった…ことばで相手に触る?
 「あの、ことばで相手に触る、って、じゃあ、どんなふうに触れば『モテるコミュニケーション』になるんでしょうか?」…とカズキさん。おっと、カズキさんも興味を持ったんですね!
 「…その触り方を知りたいです」…ん? 弓美がにらんでるんですけど。だいじょうぶですか? カズキさん!
 「そこで登場するのが『ポライトネス理論』なんです」
 「どんな理論なんですか?」
 「『ポライトネス理論』では人間が『ことば』を取りあつかうときに現れる対称的な二つの心理状態を最初に定義しています。『ネガティブ・フェイス』と『ポジティブ・フェイス』という定義です」
 「…ここにいるみなさん全員がそうだと思うんですが、人間には『他人にわたしの個人的なことを話したくないし、聞かれたくない。放っといてほしい。』っていう気持ちと、その反対に『わたしのことステキだといってほしい。すごいヒトだっていってほしい。わたしのことわかってほしい。カワイイっていって!』っていう矛盾した二つの心理状態を持ってるんです」
 「…最初の他人とあまり関わりたくない、って気持ちを『ネガティブ・フェイス』っていいます。反対に他人に認められたい…『わたしのことカワイイっていって!』ていう気持ちを『ポジティブ・フェイス』といいます」
 「フェイス、ってface…顔ですか?」…トシキさんも興味津々。
 「そうです。でも現実の顔じゃなくって、日本語で『よくもわたしの顔に泥を塗ってくれたな』っていう言い方がありますよね。そんな感じの抽象的な『顔』です」
 「この前、姉に叱られました『あんた、わたしの顔に泥を塗ったのよっ!こんなにも美しいわたしの顔にっ!』って」…思わずいっちゃった。みんな大爆笑。ごめんね、おねえちゃん。
 「ハハハ。ひとみさんがいった最初の『泥を塗られた顔』が、抽象的な概念としての顔、それが『フェイス』です。後ろの『こんなにも美しい顔』のほうは、ひとみさんのホントの顔を意味してるわけです。ま、とにかく人間は、自分について『イジらないでっ、放っといて!』っていう気持ちと、『わたしを認めて、ほめてっ!』…っていう、矛盾する二つの気持ちを持ってます。それにネガティブ・フェイスとポジティブ・フェイスって名前をつけたわけです」
 「…で『モテるコミュニケーション』のテクニックは、できるだけ目標とする相手…モテたい相手のネガティブ・フェイスをかいくぐって、ポジティブ・フェイスにいかに接近するか、っていうことになるわけです…ここまで、わかりましたか?」

 「『ポライトネス理論』では、相手のネガティブ・フェイスを尊重して、できるだけ相手に『触らないように』コミュニケーションする技術(スキル)を『ネガティブ・ポライトネス』っていってます。ブラウンとレビンソンは、ネガティブ・ポライトネスのストラテジー…方法を10に分類しています。たとえば『早く連絡してよ!』っていわないで『なるべく早く教えてもらえるとうれしいな』っていうふうに『相手への要求』を『自分の希望』にしていう…つまり、これは、直接、相手に触らないで、自分のこととしていう、ってことですよね。同じように『あなたとお付き合いするのはイヤです』っていわないで『わたしにはちょっと無理っぽい』っていったりする方法が、ネガティブ・ポライトネスのストラテジーとしてあげられてます」
 「…その中に、特に日本語で重要なことなんですけど『敬語を使う』っていうストラテジーがあるんです。みなさんは『敬語』を漠然と『尊敬してる人に使う』『目上の人に使う』ものだ、と考えてると思うんですが、いまの日本社会では、相手を尊敬してるから敬語を使う、ってことは少ないんです。相手との距離が遠いから、あるいは、遠くしたいから使う、ってことのほうが多いんです。それ以外に、公的な場面だから使う、ってのも多いんですが。とにかく対象を『尊敬』してるから『敬語』使う、って意識は急速に薄れてます」
 「…えーと、たとえば、なぎさはウチに帰ってくると『ねー、おとーさん、おなかすいたー。はやくごはんつくってよっ!』っていいます。わたしは、なぎさの父親で、年長者で、一家の主人として家計を支えているので、当然、なぎさに尊敬されているはず、なんですけど、なぎさは『おとうさま。わたくし空腹を覚えております。恐縮ですが晩ご飯をつくってくださいませ』とは決していいません…」
 みんな笑った。なぎさも、ムッとするふりをして…でも笑った。
 「…それは、わたしとなぎさは、親子っていう、夫婦のつぎに近い人間関係にあるので、ことばで直接ベッタリ触っちゃっても全然問題ない、っていうか、むしろ敬語を使って、距離をとったいいかたをするほうが不自然になっちゃうわけです。夫婦はもっとそうです。敬語を使って話してる夫婦を見たら『礼儀正しい立派なご夫婦だ』と思う人はいなくて、全員『夫婦ゲンカしたな』とか『もう離婚の危機にあるかも』って考えると思います」
 「…つまり、ここでおぼえておいてほしいのは、現代の敬語は『相手との距離を遠くする』ために…相手のネガティブ・フェイスに配慮するために使うんだということが一つ。もう一つは、敬語って完全に形式的なものだってことです。形式的、っていうのは、形が決まってるから、どこでも、どんなときも使える、ってことです。つまり、さっき例にあげた『早く連絡してよ!』を『なるべく早く教えてもらえるとうれしいな』って表現するストラテジー…これは『間接的に表現する』っていうストラテジーなんですが、こういったストラテジーは、使えるケースと使えないケースがあるわけです。さらに、適切に使うためには、センスと練習、っていうか、『気くばり』みたいな感覚が重要で、うまく使える人と使うのがヘタな人の差が大きくなっちゃうんです。それに対して、敬語を使う、っていうストラテジーは、どんなケースでもどんな人でも使えます。『早く連絡してよ!』を『早めに連絡していただきたく、重ねてお願い申し上げます』っていうみたいな感じです。特に日本語は、敬語の形式が決まっている言語なので、エラい人…学校の先生とか会社の社長とか…そんな人にも敬語を使って距離をとっているフリをしながら、つぎに話すポジティブ・ポライトネスのストラテジーを使って、相手の心にピッタリ触っちゃう、ってことがやりやすいんです」
 「…つまり、自分より上の立場にある人には『敬語を使って相手のネガティブ・フェイスをかいくぐりながら、ポジティブ・ポライトネスのストラテジーを使って触っちゃう』っていうのが『年上の人にモテるコミュニケーション』の秘術なんです」

 「…さて『ネガティブ・ポライトネス』の反対にできるだけ、相手に近づいて、相手に『ことばで触る』ためのスキルが『ポジティブ・ポライトネス』です。ブラウンとレビンソンは『ポジティブ・ポライトネス』を15のストラテジーに分類してます。ただ、この15のストラテジーの中には『モテるコミュニケーション』からみると、どんな場面でも使えるわけじゃないな、っていうものも入ってます。たとえば『申し出、約束をする』とか『楽観的にいう』なんてのがあります。『世界史の勉強、わたしが手伝ってあげる!』とか『ごめーん。今日、いけなくなっちゃったー。でも、大丈夫だよねっ!』っていったいいかたなんですが、こういういいかたって、もうかなり距離が近い、つまり、すでに親しい相手には、有効なんですが、まだ、あまり距離が近くない相手に不用意に使うと『別に手伝ってもらいたくないんですけど』とか『いきなりキャンセルされて大丈夫なわけないだろっ!』って思われちゃう可能性も大きいんです」
 ここで、中村博士がいきなり「世界史の勉強」なんて文例をあげたので、ぼくは、椅子から転げおちそうになった。…春休みになぎさが「世界史の勉強、手伝ってあげる!」ってムリやり押しかけてきたとき「うれしー」って思っちゃったけど、あのときには、もう親しかったもんなー。だから、エッチなお勉強までしちゃったんだよなー…なんて、こんなところで思いだしちゃイケナイことまで次々に思いだす。で、なぎさをみたら、めちゃくちゃ怖い目で父親をにらんでた!…おいおい、なぎさ、どこまで詳しくしゃべっちゃったんだ? もしかしてキミの会話術、博士にすっかりパクられちゃったんじゃない?
 「さて『モテるコミュニケーション理論』にとって、最も重要な『ポジティブ・ポライトネス』のストラテジーは、まず『相手との一致を求めるSeek agreement』 をマスターすることです」
 「…みなさん、たとえば、ニューヨークとかパリとかで偶然、日本人に出あって、ちょっと話したとします。そのとき、相手が『ぼくのふるさとは、金沢っていう町なんです』っていったら『えっ! わたしも金沢出身です』って思わずいっちゃうでしょ? さらに相手が『そうですかー。ぼくは高校まで金沢で育ったんです。旭丘高校です』っていったらどうなりますか? 『えー、わたしもですー。わたしも旭丘の卒業生です!』って自然にいっちゃうと思います。その瞬間、一気に相手との心理的距離が縮まります。相手のことばが、偶然、あなたの心に触れちゃったので、こちらからも思わず相手の心に触りにいっちゃったんです。おたがいにことばで触れあうことは、握手とかハグとか、身体的な接触するのと同じぐらい、一瞬で相手との距離を縮めちゃうんです。しかも、握手とかハグみたいな直接の身体的な接触って、たとえ『あいさつ』のつもりでも、サッとできないですよね? 日本文化にない習慣なので。でも『わたしも金沢ですっ!』って相手にいうのは、まったく簡単です。なにも遠慮せずにできちゃいます。でも、その効果は、相手にハグしちゃうのと同じぐらいあるんです」
 「…そこまでいかなくても、たとえば、出会った相手がフランス人で、その人が『去年、日本に旅行して金沢にいきました。すごくいい街ですね』っていったら、やっぱり心理的な距離がすごく縮まりますよね。わたしの経験からいっても、この『一致を求める』という会話術がすべての基本だと思います。初対面の相手とどこが一致するか、探りながら会話を進めて、少しでも共通することがあったら、一気にそこに話題をもっていくんです。一致するものは、ごく些細なことでいいんです。たとえば、食べ物や音楽の好みとか、スポーツや趣味、天気だっていいんです…『わたしも雨の日が好きっ!』なんてね。それを大げさに話すんです」
 「…で、そのとき、重要なのが、この『一致を求める』は、敬語を使っていてもできる、ってことなんです。『日本のどちらのご出身なんですか?』『雨の日がお好きなんですか。わたしも同じです。なんだかうれしいです!』って感じですね。敬語を使っていても、相手との距離を縮められるんです。さっきいったとおり、敬語を使って相手のネガティブ・フェイスをかいくぐりながら、ポジティブ・フェイスに触れられるわけです」
 「次に使えるのが『相手に気づき、関心をよせるNotice, attend to you』です。相手の服装や髪型をほめるんです。『きれいなシャツだねー』とか『その髪型、とっても似合ってる』っていわれるとうれしいのは、ほめられたこともうれしいんですが、相手が自分に関心をもってくれてる、って確認できたことが、もっとうれしいんです。やっぱり、相手との距離が一気に縮まります」
 「…特に男子は、絶対にこのことを忘れずに! わたしのまだ若いころの話なんですが、美容室にいって髪型を変えた彼女…いまの妻なのでご心配なく!…に2日間、なにもいわないで、3日目に気がついて『髪型変えたんだねー』って何気なくいったら、ひどく叱られたことがあります。もう、会った瞬間に『あ、髪型がかわって、ますますキレイになったね!』っていわなくちゃルール違反なんです。彼女の誕生日やなにかの記念日…初めてデートした日なんか…も同じです。ぜええったいに忘れちゃいけません。当日忘れてて、翌日に思いだしたりしたら激怒されます! ちゃんとおぼえてる? あさひくん」
 「え、えええ」
 「オトコはそういうこと、すぐに忘れるんです。でも、オンナは絶対に忘れないんです。だからあさひくんはGoogleカレンダーにいまから、全部記録して、毎年、その前日にメールが送られるようにしといたほうがいいですよ」
 「は、はーい」…なぎさが父をにらみ、それから、ぼくをにらむ。
 「もひとつ、男子のためにアドバイスしとくと、相手との距離が近くなるほど、関心を示すモノも場所も小さく細かくしていかなければなりません。最初のころは、服装や髪型でよろこんでもらえますが、親密な関係になると『そのピアス、すごくチャーミング』とか『今日はルージュの色、変えたの? いまの季節に似合ってる』なんて、ごくごく些細なことにちゃんと気づいたことをアピールする必要がでてきます。ちゃんとできてますか? カズキさん?」
 「そうよねー、わたし髪型大きく変えないもんねー」と弓美「でも、ルージュは、季節や行く場所によってこまめに変えてるんだけどねー」
 「今後、気をつけます。すみません…弓美さん」
 「ちなみに、この『相手に気づき、関心をよせる』も敬語を使ってできます。『あ、今日、着てらっしゃるお洋服。いまの季節にピッタリですね。夏らしくて、とてもお似合いです』って感じです。まったく相手のネガティブ・フェイスを侵害せずに、ポジティブ・フェイスに『触る』ことが可能です。やってみてください」
 「…そして、3番目にマスターすべきストラテジーは『相手と同じグループに属していることを示す Use in-group identity markers』です。これは、もう今日、集まったみなさんが日常的にやっていることなんです。わかりますか?」
 「なんですか?」…と、カズキさん。
 「あ、すみません。男子はやってません。美少女クラブのみなさんがやってます」
 ??
 「初めて会ったとき、必ず『まあ、キレイなヒト』『〇〇さんもお美しいかた』っていいますよね」
 あはは、と男子3人が声をだして笑う。あれっ? 超絶美少女管理委員会のみなさん。なんで笑わないんですか?
 「…あれは、おたがいに同じグループに所属してますよね、ってことの確認です。そして『今日もキレイね』とか『そのキレイな髪、うらやましいー』とか、常にほめあってるでしょ? あれ、別にほめあってよろこんでるんじゃないんです。ふつうの関係では、あまりあからさまにいわない、相手の美貌についてわざわざ最初に口にすることで、おたがいのココロの距離がきわめて近い、同じ仲間なんだ、なわばり争いする必要ないんだ、ってことを確認してるんです。仲間じゃない人にはできない特別な『あいさつ』をすることで、ハグしたり、キスしたりするのと同じぐらい強く、直接、相手に『触って』るんです。だから、ここにいるみなさんは、みんなすごく仲よしでしょう?」

 「…以上『相手との一致を求める』『『相手に気づき、関心をよせる』『相手と同じグループに属していることを示す』…まず、この3つのストラテジーをマスターすることが『モテるコミュニケーション理論』の初級課程です」
 ………
 「最後にもう一つ、今日は特別に、若いみなさんのために、『モテる会話術』の重要なポイントをお教えしましょう。それは、相手との距離をどんなタイミングで縮めるか、という技術です」
 「…よくラブソングや恋愛小説で『彼との距離が少しずつ縮まっていく』っていう表現がありますが、あれはフィクションです。マンガやラノベのラブコメなんか、オンナのコとオトコのコがだんだん相手を意識しはじめて、5巻目ぐらいまできて、やっと相手のことを『好きだ』って自覚したりしますが、現実にはそんなことは…まあ、絶対に、とはいえないけど、めったにありません。相手との距離が近づいて、そこから恋に落ちるまで、ってホンの一瞬のことなんです。じっくり相手のことが好きになる、なんてことはないんです。たとえ、ずーっと前からの知りあいだったとしても、そのヒトと恋に落ちるのは、一瞬のことなんです。なぜかというと、今日の最初に話したように、人間はことばを使って考えるから、なんです」
 「…っていうのは、人間同士が『ことば』を使って考える相手との距離って、心理的に遠いか、近いかの2つしかないからなんです。だから、初対面から間もない時期に会話で相手に『触って』、相手との距離を縮めて『近く』なってしまうと相手の好意も一気に高まります。そして、相手との距離を一気に縮めるコツは、相手をどのようによぶか、ってところにあります」
 「…日本語には、英語のIとかYouにあたる人称代名詞っていう品詞がないので、日本人はあまり意識してないんですが…」
 「あの、中村先生『わたし』『あなた』っていうのは、人称代名詞じゃないんですか?」
 「いいえ。あれは単なる名詞で、人称代名詞っていう独立した品詞じゃありません」
 「そうなんですか?」
 「だって、みなさんの中で、今日、このレクチャールームに入るまでの間に、相手に対して一度でも『あなた』っていった人がいますか? まあ『わたし』っていった女子はいるでしょうが…でも、たぶんあさひくんとトシキさんとカズキさんは、朝から一度も『わたし』も使ってないと思います」
 「…そうですね。確かにいってないと思います。『あなた』は絶対いってません」
 「でしょ? もし『わたし』『あなた』が独立した人称代名詞という品詞なら、それを使わずに会話できないはずです。そうじゃないから使わなくても会話できるんです。三人称の『彼』『彼女』に至っては、明治以降、欧米の文献を翻訳するために新しくつくられた単語です。翻訳のためにムリして造ったことばなので、まったく定着しませんでした。だから、現在の日本語の『彼』『彼女』の翻訳は『he』『she』にはならないでしょう?」
 「『恋人』って意味ですね。『one’s darling』『one’s love』です」
 「それはさておき、フランス語なんかをやってる人は知ってると思いますが、インド・ヨーロッパ語族など、親しい人に使う二人称と親しくない人に使う二人称を区別する言語がたくさんあります。現代英語はYouだけになってしまいましたが、シェークスピアの時代ぐらいまでは、やっぱり遠近2つの二人称代名詞の使いわけがあったんです」
 「…誰の書いた文章か忘れてしまいましたが、フランスの小説で、ある朝突然、男女の二人称代名詞が親しい呼び方に変わったら、それは前夜2人が一緒にすごした、ってことを暗示してるそうです。ポーランド語なんかも二人称代名詞を相手との親密度によって2つ使いわけます。ポーランド語は、さらに単数形と複数形があって、その使い方もなんだか複雑なんですが…とにかく、人間が把握できる他者との関係って、『遠い』か『近い』かの2種類だけなんです。日本語には、人称代名詞がないんですが、その代わり、現在の日本語では、会話の文体、特に文末表現で関係の『遠い』『近い』を表現してます。『敬体』と『普通体』っていうのがそれです」
 「…だから、だんだん近づいていく、っていうことばの使い方はできません。それで『モテる会話術』をマスターするためには、『遠い話し方』である『敬体』…簡単にいっちゃうと『ですます体』ですね、を、いつ、どうやって、上手に『普通体』つまり親近感がある相手に使う話し方…つまり『だ体』っていうか『タメ語』に変えるか、っていうストラテジーが大切になります。これは『ポライトネス理論』の範囲にはありませんが…いつ、どうやって『ですます体』を『だ体』にすればいいんでしょうか? カズキさん、なにかいいアイデアを」
 「えーと、たとえば『ですます体』の会話の中に間違ったふりして『だ体』を少しずつ混ぜていっちゃう、みたいな」
 「そうですね。意識してモザイク状に親し気な会話を入れていっちゃう、その比率を増やしていくっていうのは、いい方法です。でも、もっと簡単な方法があるんです」
 「どんな方法ですか?」
 「さっき説明した『日本語には人称代名詞がない』っていうのを利用するんです」
 「…これをまったくの初対面からやると『なにか下心(したごころ)があるな、こいつ』って、疑われちゃうことがあるので要注意で…2度目以降の対面でも、全然、こっちに好意もってくれてないよね、って感じの人にやっちゃうと逆効果なので気をつけてください…でも、ある程度、好意をもってくれてるんじゃないかな、って人がいて、その人に近づきたい…って思ったときに、自分の呼び方を自分から指定しちゃうと、もう、そこから先の相手との距離を自由にコントロールできます。相手にいきなり『ことばでハグして』親しくなっちゃう、という作戦です」
 「どういうこと、ですか?」
 「日本語にはYouにあたる人称代名詞がないので、相手に呼びかけるとき、みんな困っちゃうんですね。たとえば、わたしに対してよびかけるときに『あなた』『あんた』『キミ』『おまえ』『あなたさま』…って、どれもあつかいにくいでしょ? かといって、道端で、面識のない人によびかけるみたいに『すみません!』とか『あのー』ってよぶこともできませんよね。だから、ふつうは、相手の名前や役職名を使ってよびかけることを考えます。わたしは、中村淳一っていう名前ですから、そこから選ぶわけですが、このとき、なにもいわないと『淳一さん』とか『淳一』…って距離が近い方の呼び方を選ぶ人は、ほとんどいません。ほとんど100%の人が『中村さん』『中村先生』『中村博士』あるいは単に『先生』…って、距離が遠くなる呼び方を選択してしまうんです。それも失礼にならないように、できるだけ遠い呼び方が選ばれることが多いんです。でも、そうすると、それに引っぱられて会話のほうも「ですます体」にしなければならなくなります。そうすると2人の距離もずっと遠いままなんです。そして、これを途中から距離の近い会話に変えるのは意外に難しいんです。だから、それを避けたいと思ったら、最初に「わたしのことをこう呼んでください」って指定しちゃうのが一番です。この相手とは、このぐらいの距離感でいたい、って呼び方で」
 「はい」とトシキさんが手をあげて質問する「中村先生、それって、英語でも最初のあいさつのときに『ジョンってよんでくれ』みたいな、つまり、ファーストネームや通称でよんでくれ、っていうことがありますよね? それと同じことではないんですか?」
 「でも、英語には人称代名詞があるよね?」
 「はあ」
 「だから、たとえば『ジョンってよんでくれ』っていわれても、会話の中で相手をよぶとき『John are』 とはいえない。『John is』っていうと三人称になっちゃうし。だから、どんな相手でも必ず『You are』っていわなくちゃならない。でも、日本語には、人称代名詞がないから『淳一』ってよぶことになったら、それ以降の会話の主語は…主語が省略されたとしても…心理的には、すべて『淳一』になる。そうすると…そこで日本語では重要なことなんだけど、主語を『淳一』にしちゃうと、文末も『淳一、ビール好き?』って感じに…『だ体』になっちゃうんだ。『淳一、ビールがお好きですか?』と『ですます体』にはならない、だろ?」
 「それは…そうですね」
 「『ねえ、淳一はビール好き?』『うん、好きだよ。ソフィアは?』…あ、ソフィアって、ぼくの妻の名前です。えへへ」…博士はいちおう照れてみせる。
 「『うん。わたしも!』『え、ソフィアも? じゃ、今度2人で飲みにいこうよ!』『えー、うれしい。いついく?』『明日の夜、空いてる?』『空いてる』『じゃ、明日!』『うん、うれしい』…という感じで、あっという間に二人の距離が縮まってしまうんですね。日本語の場合、呼び方を指定しちゃうっていうのは、そのぐらい強い効果があるんです。英語と違うんです」
 …博士、一人芝居がうますぎます。
 「はい」とぼくも質問する。「えーと、それって、たとえば『中村なぎさ』だったら、『中村さん、ってよんで』とか『なぎささん、ってよんで』とか、最初に相手に指示するってことですか?…『なぎささん』よりもっと相手に近づきたいと思ったら『なぎささん、じゃなくて、なぎさ、ってよんで!』って指定しちゃうとか?」…思わず確認しちゃった。
 「そうそう。もう呼び方を指定しちゃうだけでいいんだ。最初に『中村さん』って呼ぶことにすると、その後の話し方もその呼び方の距離感で続けなくちゃならなくなって、2人の心理的な距離も変わらない。ところが『なぎさ』『あさひ』って呼ぶことになると、もうその瞬間から不思議なことに2人とも『ですます体の会話』が全然できなくなっちゃうんだよね。それと同時に心理的な距離感もたちまち縮んじゃうんだよ。えー、ホントか?って思ったら一度試してみてください」
 いえいえ、なぎささんのおとうさん。もう試してみた…っていうか、もう、なぎささんに試されました。それホントです、っていおうとしたら、それをさえぎってカズキさんがいった。
 「もうそれ試されました! 弓美に」
 「んん?」
 「…2年前、ぼくが高校3年、弓美が1年の新入部員だった…5月の連休明け…偶然、放送室に2人きりになったとき」
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 「三枝さん、ちょっとそこにある箱とってくれる?」
 「部長。『さえぐささん』ってすごくいいにくそうですね。『さ』が多すぎるんですね」
 「え、そ、そう?」
 「噛んじゃってます。すごーくいいにくいんですね!」
 「そうかな?」
 「ゆみ、でいいです」
 「え?」
 「ゆみ、ってよんでください。いいやすいように。これからは『弓美』って」
 「あ、ああ、わかったよ。弓美さん、そこの箱…」
 そのとき、弓美は、野暮ったい感じに左右2本に垂らしていた三つ編みをといた。そして髪をかきあげて2・3回ゆする。美しく豊かな黒髪。そして、それまで見せたことのない自信に満ちた笑顔…そこには、おどろくほどキレイなオンナのコが立っていた。
 「これから『弓美』ってよんでください。『三枝さん』でも『弓美さん』でもなく」
 「ゆみ…」
 「ね、わたしもカズキ先輩、ってよんでいい?」
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 カズキさんの話すエピソードを聞いて、弓美は「うふふ」と笑った。イタズラがバレたときのレインボー先輩みたいに! それを聞いて、ぼくもわかった。
 …なるほど、そういうわけかー。で、なぎさを見ると、ぼくをジト目で見ていた。目でこういってた「だってぇ、わたしもあさひに近づきたかったんだもん」…あー、なぎさ!! あの日、朝早く野町駅で会ったとき、そんなカワイイたくらみを思いついたなんて。まわりに人がいなかったら、ギュって抱きしめちゃう!

 こうして中村博士の『モテるコミュニケーション理論』特別講義は、ぶじに終了した。
 トシキさんとカズキさんが博士のもとに。
 「今日はありがとうございました。あの、こういうときには『おもしろい話でした』っていっちゃいけない。『興味深いお話をありがとうございました』っていうものだ、ってちゃんと知ってるんですが、でも、先生のお話はとてもおもしろかったです」
 「ぼくも『勉強になりました』っていうわざとらしいいいかたじゃなくて『おもしろかったです』っていいたいです。ありがとうございました。東京からきた価値がありました」
 「いや。そういってもらえるとうれしいよ。お2人のことは、あさひくんからいろいろ聞いてます。今後ともよろしくお願いします」
 「先生、連絡先を教えていてだけませんか? これからいろいろご指導いただきたいので。それから、今日のスライドをいただくことは可能でしょうか? もちろん著作権は守ります」
 「ええと、知ってると思うけど、ぼくは来月からオランダの大学にいくので…名刺みたいなものが今日はなくて…とりあえずLINEを交換しておいてくれるかな? スライドはDropbox transferでダウンロードできるようにするね。そのリンクもLINEでおくる。オランダにいったら、アドレスなんかをキチンと連絡するよ」
 「はい。お願いします」
 「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」

 一方、そのとき『超絶美少女』たちはなぜか無言だった。でも、裏でひそかにこんなLINEトークをしていたのだった。
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 あけみ:先輩が積み上げてきたオトコ心を手玉にとるテクがすべてネタばれした!
 ゆみ:理論的に解析されちゃったー
 あけみ:恐るべし中村博士
 ゆみ:どうします?
 りさ:消しましょう
 なぎさ:やめてください!!わたしの父です!!
 なぎさ:消さないでください涙涙涙
 りさ:冗談よ!
 ゆみ:だいじょうぶwww
 ゆかり:なぎさ先輩カワイイですー
 ゆかり:顧問になってもらうってのはどうですか?
 あけみ:超絶美少女の顧問?
 りさ:これから新人が入ったらレクチャーしてもらいましょう!
 あけみ:会長に相談する
 なぎさ:お願いします
 あけみ:許可がでたらなぎさからおとうさんにお願いしてね
 なぎさ:もちろんです!
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