金曜日の夜。いつものように母が首都圏から新幹線で帰宅した。しばらくして、父がぼくとおねえちゃんを「ひとみ、あさひ、ちょっと下に降りてきてくれ」となんだか妙にまじめな声で呼んだ。なんだ? なにがあった??
 おねえちゃんとぼくがリビングに降りていくと、食卓に使っているテーブルに父と母がならんで座っていた。そして、ぼくらにその前に座るようにうながす。
 「明日の土曜日、二人の予定は?」
 「わたしはバイト。シフトは9時から17時までのフルタイム」
 「じゃあ、夕方6時ごろには帰れるのかな?」
 「うん。たぶん大丈夫だけど。お客さんの込みぐあいにもよる」…おねえちゃんは、ひがし茶屋街の近くにあるカフェでバイトしている。観光客がめちゃくちゃに多いエリアなので、特に週末は忙しい。それに、駐車場がないから自分の車が使えない。路線バスで往復してるから、その時間がよけいにかかる。
 「できるだけ早く帰ってきてほしいんだ」
 「うん。わかった」
 「あさひは?」
 「ぼくはいつものように…」だいたい土曜日はなぎさとデートするんだけど。
 「彼女とデートか?」
 「いや、まあ、なんというか…」
 「じゃあ、デートの後、そのまま彼女を連れて家に帰ってきなさい」
 「あ、はい……え、ええっー」
 「いいね」
 「な、なんで、なぎさを!」
 父はニヤリと笑っていった「中村博士とソフィア教授には、18時ごろうちに来てくださいって連絡しておくから」いきなりの爆弾発言!
 「!!…ってことは、おとうさん。なぎさの両親がうちに来るってことなのっ?」
 「そうよ」と母が、父と同じぐらいうれしそうにニヤッと笑っていう…「ひとみもちゃんとあさひの姉らしくふるまってね。お願いよ」
 「あ、あんた!婚約したのっ??」おねえちゃんが逆上してぼくを問いつめる。両親を前にしていることをすっかり忘れて魔王顔になってる!
 「お、おねえちゃん。か、かお、顔が」
 「あっ」おねえちゃんはうろたえながらも、なんとか0.1秒で顔を愛娘《まなむすめ》顔にもどした。さすが『超絶美少女』
 「じゃあ、ふたりとも明日は、18時までに帰宅してほしい。ひとみは、できるだけ急いでくれ。あさひは、なぎささんを連れてくることを忘れないように」
 そういうと父は、かんじんのことをなにもいわずに母と見合ってニヤニヤと笑っている。どうもうちの両親の態度がよろしくない。いったい何なんだ。
 「じゃあ、わたし、先にお風呂に入っていい?」と母がいう。2人とも、事情を説明してくれる気持ちはないらしい。ぼくたちをからかって夫婦で楽しんでいるな! こどもたちをからかって遊ぶなんてたちの悪い夫婦だと思うが、なぎさが関係していることらしいので、下手なことはいえない。

 しかたがないので、おねえちゃんと2階に上がる。おねえちゃんは、当然のようにぼくの部屋に侵入してくる。あのー、自分の部屋に引っこんでいただけませんか? もちろんそれもいえない。ドアを後ろ手でしっかり閉めるとおねえちゃんは魔王に変身した。思ったとおり。
 「なぎさの両親がウチにくるなんて、予想外の展開。いったいなにがあったのか、ちゃんと説明しなさい」
 「いえいえ、わたくしにもまったく心あたりがございません」
 「なんで、なんで突然なぎさの両親がそろってウチにあいさつにくるのよ。そんなの結婚のあいさつ以外考えられないでしょっ!…あんた、もしかして『できちゃった婚』なんてことないでしょうね?」
 「あー、おねえさま。いまは『できちゃった婚』とはいいません。『授《さず》かり婚』という奥ゆかしいことばが…」
 「うるさいっ! そうなのねっ??」
 「まだぼくたち高校生なんだよ!」
 「高校生だって妊娠します!不適切なやりかたで行為すれば!」
 「ちがいますちがいます!ぼくたちは、ちゃんと適切なやり方で行為してます。ないない、絶対ない、ぜえええったいありません。ち、ちゃんと…ひ、避妊、してます。この前もおねえちゃんとアオキにいって大量の化粧品と一緒に買ったでしょ?知ってるでしょ?」…そのとき、どさくさに紛れて一緒に山ほど化粧品を買ったんだから知らないとはいわせない…でも、逆上したおねえちゃんは全然聞いてくれない。
 「もし、万が一、在学中の現役の『超絶美少女』が『授かり婚』で引退、なんてことがあったら許さないからねっ! あんた、わたしの顔に泥を塗ったのよっ!こんなにも美しいわたしの顔にっ!」
 「いや、だから、それはありません…おねえさま、そんな超絶魔王顔でにらむのはやめてください。怖すぎますっ!」
 「ま、明日が楽しみね。一体全体なにがおこるんだろうね。場合によってはタダでは済まされないからね。あんた、かくごしてなさいっ!」

 すぐに、なぎさにLINEで聞いてみたけど「さあ。なんだろうね」という返事。明らかにとぼけてる。でもこの返事なら「授かり婚」は絶対ないな。だいたいもともとあるわけないんだけど、おねえちゃんが、あんな剣幕でどなるから0.01%ぐらい心配になっちゃった!

 さて、その問題の土曜日には、なぎさと高岡にいった。高岡市は、石川県の隣の富山県だけど、金沢市が富山県と接しているので、そんなに遠くない。金沢から高岡まで45キロぐらいだ。でも、さすがに自転車で往復するには、ちょっと距離があるので、電車でいく。途中に峠もあるし、それに…今晩なにかあるらしいし…なぎさは、あいかわらず「さー、なんだろうねー」というばかり。このヤロー。
 富山県には2件の国宝がある。2件とも建築物…寺院で、2件とも高岡市にある。なぎさが
 「建築士になる」と決めてから、二人のデートは、街並みや建物を見にいくことが増えた。 なぎさが街並みをスケッチしている間、ぼくは彼女のために周辺の写真を撮る。それから、なにかおもしろい店はないかと2人で街を散策する…そんなデートだ。
 国宝に指定されている高岡市の寺院のうち一つは「勝興寺」という。高岡市郊外の伏木というところにある。それで、まずJR氷見線に乗り換える。JRといってもローカル線なので、いつも乗っている北鉄石川線とそんなに変わらない。勝興寺の巨大な伽藍、そして大きな本堂をゆっくり見て、高岡駅に引き返す。駅前で昼を食べてから、もう一つの国宝「瑞龍寺」へ。高岡にも、鶴来や金沢と同じように観光客用のレンタサイクルがあるけど、瑞龍寺は駅から徒歩10分だというので歩く。
 瑞龍寺は、山門を入ると、回廊にかこまれた広い芝生の中庭が気持ちよく広がっている。中央に仏殿、その奥に本堂、左に禅堂、右に庫裏という、きれいな四角い伽藍配置なんだけど、なんだかすばらしい開放感。こういう開放感は、仏教寺院にはめずらしいんじゃないかと思う。少なくとも金沢のお寺では体感したことがない。イタリアの斜塔で有名なピサ大聖堂を思わせる…といっても、いったことないから、写真で見た印象だけど。
 なぎさもなにか感じるものがあるらしく、すぐにスケッチ帳を出して描きはじめる。写真を撮っているうちにわかったんだけど、このお寺は、本堂や回廊などの室内も全体に明るい。お寺って、なんとなく薄暗いイメージがあるけど、それがない。だから、気持ちのいい開放感があるんだ。
 それから、高岡駅にもどって周辺を歩いてみたけど、なんとなく人通りも少なくてさびしい。北陸新幹線の新高岡駅が2キロほど南に開業してしまってから、人の流れが移ってしまったのだろうか。

 4時ごろ金沢駅にもどってきたけど、なかなか家に帰る気にならない。それは、なぎさも同じだ。でも、その理由が違う。ぼくは、これから何が起こるのかわからないから。なぎさは、ぼくの両親にはじめて会うから。じつは、ぼくはそれに気づかず「なぎさは気楽でいいなあ」といってしまったら「なにいってんのっ!わたし、あさひのおとうさんとおかあさんに会うの初めてだからさっきから緊張の(きわ)みっ!」と叱られてしまった。ぼくは、中村博士には、なぎさ抜きでも何度も会ってるし、ソフィア教授にも、この前ごあいさつにいって会ったので、なんだか、なぎさもぼくの両親にもう何度も会ってるような気持になってた。
 「なぎさ、今晩のことだけどさ」
 「さー、なんだろうねー。楽しみだねー」はいはい、それはもうわかったよ。
 「おねえちゃんがさー、両親そろってごあいさつなんて、結婚の申し込みに違いないっていって」
 「えー」
 「あんた『授かり婚』じゃないでしょうね…なんて、いうんだよ」
 それを聞くと、なぎさは「うふふ」と笑った。
 「ねー、あさひー。もし、そうだったらどうする?」
 「えっ?」
 「もし、わたしのお腹に新しい小さな命が宿ってたら」
 「そ、そ、そんなまさか」
 「バカね。『もし』っていってるでしょ。そのとき、どんな気持ちになる? あさひは?」
 「いや…突然そんなこといわれても…なんとも」
 「わたしは、とってもとっても幸せな気持ちになる。きっと。ねー、いつかそんな日がくるといいね。わたしたちに」
 「うん」…うーん。そういう感じってオトコには、ちょっとわからないような気がする。オトコは「できた」って聞いてから、はじめて現実だと思うんじゃないかな、どんな気持ちになるかわかるのは、その後だよ。
 「でもね、あさひ。今晩の話が『結婚話』だってことは、ひとみ先輩、合ってる」
 ???…そ、そんな…ぼくになんのことわりもなしに…なに??…やめてー!

 そんなわけで、なんとか5時半ごろまで時間をつぶして、2人でぼくの自宅へ。ちょうど家に中村博士の車が着いたところだった。「あ、おとうさんたちだ」と、なぎさがホッとした声をだす。
 「やあ、あさひくん、今日はよろしく」
 いや、よろしくっていわれても、なにがおきるか全然知らされてないんで…突然、結婚しろなんて命じられても…ちょっと対応しかねます。
 そこに合わせたように、おねえちゃんも帰ってきた。
 「ひとみ先輩、わたしの両親です」
 「あ、はじめまして。八倉巻ひとみです」
 「中村淳一です。娘がお世話になっていること、いつもきいています…ありがとうございます」
 「中村ソフィアです。はじめまして。なぎさがいつもいっているとおりだわ。本当に…お美しいおねえさま」
 「ありがとうございます。ソフィア先生もおキレイな方…」
 こりゃ、初対面のあいさつで、おたがいの美しさをほめあうなんて『超絶美少女』たち特有の習慣だと思う。その日本離れした奇習に…なぎさが指導したんだろうけど、しっかりついてきているソフィア先生はさすがだ。
 でも、おねえちゃんがいったことは「ウソ」じゃない。ソフィア先生は、とてもキレイな人だ。この前、初めて会ったときにそう思った。ほっそりとした顔立ち、濃いめの亜麻色の髪、ハシバミ色の瞳、高い鼻、白い肌…典型的な東欧の美女だ。しかも、まだ若い。まあ、学生結婚してなぎさを生んだんだから、まだ若いのは不思議じゃない。当然だけど、中村博士も同じくらい若い。
 それにくらべてぼくの父は、若いころから数々のラブ・アフェアを繰りかえしているうちに歳をとってしまい、最後に母に泣きついて結婚してもらった(本人談)ということなので、だいぶ年長だ。ちなみに母と父には、かなりの年齢差がある。だから今日は父だけ長老、って感じ。    
 父がずっと家のすべての家事を引き受けてきたのも「途中下車しすぎて、もう陽も沈んでしまった黄昏(たそがれ)る恋愛の終着駅」でやっと母に出会ったから彼女につくさなければならない(これも本人談)。まあ、ぼく的には、なんでそんな黄昏れた終着駅にまだうら若き母が佇んでいたのか、っていう方に興味があるんだけど…まだ聞いてません…。
 でも、ぼくがソフィア先生にはじめて会ったとき、一番ビックリしたのは、ソフィア先生が全部ポーランド人だったことだ…っていうと、まったく変な話だけど、いつもなぎさが「わたしポーランド人」っていってるから、ぼくの中では、なぎさ=ポーランド人って認知されてしまっていた。でも、もちろん、なぎさは「半分(ハーフ)」だから、「全部」のソフィア先生とは、すごーく違う。それで、ぼくは、ソフィア先生を初めてみたとき「あ、ああれ、このヒトもしかして外国人??」ってなってしまった。いや、まあ、そのとおりです…それも、前から知ってたんですけど。
 でも、その「全部ポーランド人」の母と「半分ポーランド人」の娘が、「全部日本語で」ごく自然に親子の会話をしてる。そんな、母と娘の「みための差」と「日本語の会話」が二重の違和感になってぼくに襲いかかってきて、いまでもソフィア先生と話していると混乱しちゃう。 でも、なぎさと同じハシバミ色の瞳、同じ色の濃い亜麻色の髪…やっぱり親子なんだ。
 …ところで、いま、ソフィア先生、「中村ソフィアです」ってあいさつしなかったっけ??

 外の話し声が聞こえたのか、うちの両親がでてきた。
 「やあ。いらっしゃい。どうぞ、まず中に入ってください」
 中村博士とソフィア教授、そしてなぎさ、それからおねえちゃんとぼくが家に入る。はてさて、いったいなにが起きるのか?

 「すでに八倉巻先生には、電話で簡単に事情をお話ししておりましたが、わたしは、この9月からオランダのフンボルト大学に移籍することが正式に決まりました」
 「えええー」…思わず大声をあげちゃった。
 「なによ、あさひ! いきなりびっくりするじゃないっ!」…というおねえちゃんも声がでかい。
 「あ、ああ、ごめんなさい…でも」
 「なによ?」
 「なぎささんがどうするのか、だろ? あさひ」と父が話をひきとる。
 「う、うん」
 「ま、それについては、この後でゆっくり」…母がもうめちゃくちゃに意地悪な目つきでぼくを見て笑った。
 「な、なぎさー(涙)」

 それから、なぎさファミリーが口々に話してくれたことは…次のようなことだった。
 3月の講演会で博士が話してくれたとおり、いよいよ「星ラジオ」の受信衛星の打ち上げが正式に決定した。計画は、ヨーロッパ、アメリカと日本の共同研究プロジェクトで、日本の研究機関もたくさん参加するが、中心になっているのはヨーロッパ宇宙機関(ESA)で、衛星もアリアン5ロケットでフランス領ギニアの宇宙センターから打ち上げる予定だ。
 中村博士は、日本側研究者の一人としてその計画に参加することになった。でも、博士の専門はロケット工学でもないし、通信工学でもない。博士は世界にも数名しかいない「星ラジオ」を専門領域とする言語学者だ。だから、博士の仕事は、ロケット打ち上げが終わり、放送が受信できるようになった後から始まる。当然、ヨーロッパに長期間滞在しなければならない。それを聞いて、すぐにいくつかのヨーロッパの大学が中村博士の招聘(しょうへい)に名乗りをあげた。その中から、中村博士が選んだのが、天文学も言語学も世界一流のレベルにあるオランダのフンボルト大学、というわけだった。

 「10年前、わたしがヨーロッパの大学に職を得たときに…このまま2人の人生は、離れ離れになってしまって、もう死ぬまで一緒に生活することはできないだろう…おたがいに近くにいい人をみつけて新しい人生を歩んだほうがいい…って2人で、何日も、話し合って…離婚したんです。でも、わたしは、ヨーロッパにもどってから後悔して、ずっと…毎日毎日泣きました。…いまごろ彼は、きっと新しい人に出会ってる。淳一みたいな男性を周りの女性がほっとくはずがない。すぐに再婚してる。きっと、なぎさも新しい優しいおかあさんと幸せに暮らしている…悪いのはわたしだったんだから…あきらめなくちゃならないんだ…。そう思って一切連絡はしませんでした。
 ところがある日、思いがけず突然、ホントに突然、なぎさからメールが来て、わたしはびっくりして泣いて、すっかり大きく、とてもキレイになったなぎさの写真を見て泣いて、淳一がずっとなぎさと2人だけで暮らしてきたことがわかって泣いて…また毎日泣いて…わたし、がまんできなくなって、この10年間の想いがあふれて、これからの人生は、絶対に淳一と一緒! わたし、スウェーデンの仕事はやめて、日本に帰って淳一と暮らす!…って決めたんです。ところが、彼が『やめるのはちょっと待て、八倉巻先生に客員研究員にしてもらえるようにお願いしてみるから、とりあえずこの夏をもう一度3人ですごそう』っていってくれたんです。そして日本に来たら…『ぼくがヨーロッパに行く。また一緒に暮らそう』っていってくれて…」
 そこまで話してソフィア先生…いや、ソフィアさんは、がまんできなくなった。突然、こどものようにしゃくりあげ、声をあげて激しく泣きはじめた。中村博士が、ソフィアさんを胸に抱きよせる。ソフィアさんは、博士にやさしく抱かれて泣き続ける。
 あー、なんかいいなー。このカップル、おたがいのことをものすごく大切に思ってずっと生きてきたんだ…そして、2人はとてもとても愛しあってる…それを、みんなの前でこんなに自然に表現できる…ぼくもなぎさとこんな2人になれたらいいな…。
 「まあ、たまたまタイミングがよかったんです。ソフィアから連絡が来たのと、ほとんど同時にヨーロッパのいくつかの大学からオファーがあって…でも、そんなふうにいろいろなことが動いたのは、わたしたちの前にあさひくんが登場してからなんです。彼がとても重要な人物だったんです。第一になぎさが、ソフィアを探し当てることができたのは、あさひくんの的確なアドバイスがあったからで…さらに、フンボルト大学の方も、わたしとあさひくんの共著論文をわたしを招聘する理由の一つにあげているんです」
 「え、あさひがそんな論文を書いてたなんて」
 「ちがうよ。おとうさん。ぼくが話したアイディアをとりいれた論文を中村博士が書いたんだよ」
 「あさひくんのアイディアがすばらしかったんです」
 「えーと、その論文はネットですぐに読める?」
 「あ、すみません。八倉巻先生にもコピーをお送りするべきでした。そのころは、まだ先生のことを存じあげなくて」
 「いや。専門が全然違うから、別にそんなことはいいんだ。息子が関係した論文だって聞いて、ちょっと興味をもっただけなんで…」
 「帰宅したら、すぐにメールでPDFをお送りします。ジャーナルのデータも。…ところで、フンボルト大学の最寄りの空港は、スキポール空港なんですが、そこから、ルンド大学の最寄り空港であるコペンハーゲン空港の間には、1日に何便もフライトがあって、フライト時間も50分なんです。コペンハーゲンとスウェーデンのマルメの間は、フェリーが通勤客を乗せて15分おきに往復してます。だから、わたしがフンボルト大学にいけば、わたしたちも、いまの八倉巻夫妻と変わらなくなるんです」
 「つまり、単身赴任、ってことね。わたしと同じ」ぼくの母も涙声でいう。
 「そうなんです。オランダ―デンマーク間の空路で1回、デンマーク―スウェーデンの航路でもう1回、国境を越えなきゃならないので『国際単身赴任』です。でも、日本のパスポートを持っていれば、シュンゲン条約国の国境は、日本の県境と同じですから。それで…わたしとソフィアは、再婚することを決めました!」
 「おめでとう!よかった」と父がいった。ぼくも「おめでとうございます」といった。母とおねえちゃん、そして、なぎさは、もらい泣きしてた。…おいおい「結婚話」ってそっちか!

 「それで、今日の最初のお願いは、これなんです」
 そういって、博士が持ってきたカバンから取りだしたのは、一枚の紙だった。
 「何ですか?」
 「これが『婚姻届け』だよ。あさひくん。こんなに大事なことが、こんな紙切れ1枚でできちゃうのが不思議だよね。それで、八倉巻ご夫妻に『証人』になっていただきたいんです」
 「『証人』って、何ですか?」…なんか、おねえちゃんも興味津々で聞く。
 「結婚がちゃんと正式なものかどうかを確認するための人なんだ。偽装結婚や勝手に一人で書いて提出したものじゃない、って確認するためのね。でも、なんか不思議な制度で、証人になったから、何か責任が発生する、ってわけでもない。まあ、ホントに形ばかりの制度なんだけど、とにかく婚姻届けには、2人の証人が必要なんだ」
 「うちの両親でもいいんですか?」…とぼく。なんか、姉弟で博士を質問ぜめにしてる。
 「あ、うん。誰でもいいんだ。ただ、成人じゃなきゃだめ。はじめは、あさひくんとなぎさになってもらおうか、と考えてたんだけど、2人とも、まだ成人じゃないから、八倉巻先生ご夫妻に…」
 「えー、自分のこどもでもいいの?」…なぎさも質問に乱入する。
 「ああ、成人ならね。親に証人になってもらうのが一番ふつうだから、もちろん、こどもが親の証人になることもできる」
 「あー残念! わたし、あさひと証人になりたかった! わたしは11月で成人だし、あさひはー…ねえ、来年3月まで待てない?」
 「ダメっ! わたし、もう一日も待てません! 明後日、絶対に市役所にいきます!」…と、オトナらしからぬ主張をするのは、ソフィアさん。
 「ねー、もしかして、なぎさってさそり座?」
 「そーなんです。あさひさんはうお座だから相性ばっちりなんですー」
 「えー、わたしと同じじゃん。わたしもさそり座!」
 「そうなんですか!ひとみお義姉さま、今年は誕生会、一緒にやりましょうねー。ロンシャンのケーキで!」
 「でも、なぎさってあさひより年上なんだね。はじめて知ったー」…年上とはおおげさな。たった5か月じゃん。
 「はいはい。お姉さまがた、ちょっと落ち着きましょうね」…どうも、中村博士とソフィアさんの愛情物語に2人はすっかりコーフンしてしまったらしい。
 「婚姻届けって、こんなにかわいいんですか? お役所の書類じゃないみたい!」…おねえちゃんが、またまた余計なことをいいだす。
 「あ、これはネットからダウンロードしたんだ」
 「ネット?」
 「婚姻届けは役所にも置いてあるけど、A3サイズの普通紙に所定の様式(フォーマット)で印刷してあれば、自分で印刷したものでもかまわないんだ。だから、ネットで検索すると、いろいろなデザインのテンプレートが山ほどみつかるよ」
 「…えーっと、そんなわけで…八倉巻先生ご夫妻、お二人に証人になっていただけないでしょうか?」
 「もちろん!」「よろこんで…」

 「そして、次が今日、お願いする中で一番大事な、そして、ものすごく厚かましいお願いなのですが…なぎさの件で」
 「あさひと婚約ですね。(うけたまわ)りました」
 「こ、こらっ! おねえちゃん、ここ、ふざけるとこじゃないだろっ! なんてこというんだ!」
 「あら、違うの?」
 「ちょっと違うのよ。ひとみさん。ごめんなさい」泣きやんだソフィアさんが、今度はにっこり笑う。
 「今回、わたしがフンボルト大学に移籍するにあたって一番の問題になったのは、もちろん、なぎさのことです。わたしたちとしては、一緒にいって、家族3人で暮らしたいんですが、なぎさは、高校3年で、大学進学をひかえていて、いまが人生で一番大切な時期だと思うんです。だから、どうしたいのか、本人に選ばせることにしました」
 「わたしは日本に残ります」
 「な、なぎさー(涙)」
 「でも、あさひさんのためじゃないんです」
 「な、なに?」
 「わたし、建築家になろうと思うんです。大学は建築学科に進学するつもりです。それで、いろいろ調べてみました。日本は、世界的に認められている超一流の建築家がたくさんいる国なんです。そして、そんな日本を代表する世界的な建築家は、みんな日本の大学で教育をうけているんです。つまり、建築を学ぶなら、ヨーロッパの大学に進学して苦労することにあまり意味はないと思うんです。わたしは、いませっかく日本にいるんですから、日本の大学に進学して建築を学ぼうと思います。だから、わたしは日本に残ることにしました。…もう一度いいます。わたしが日本に残るのは、決してあさひさんのためじゃないんです。わたしの将来のためなんです」
 それ、くりかえしいわなくちゃダメなことなの?
 「えー、残念だなー。わたし、なぎさを連れて買い物とかいきたかったのにー。『あの、お連れ様は?』『ああ、彼女、義妹(いもうと)なんです』『まあ、美人姉妹でうらやましい』『あら、美人姉妹なんて…』オホホ…」
 こらっ、ここで妄想するな!!
 「ひとみお義姉(ねえ)さまが、そうおっしゃるんなら、いつでもお買い物にお付き合いさせていただきます。ついでに、あさひさんともときどき遊んであげます。どうせ日本にいるんですから」
 もう、今夜のこの2人にはついていけない。中村夫妻もうちの両親もあきれてる。
 「まあ、2人の漫才はさておき」…あっ、やっぱり博士も同じこと思ってた。
 「…ここからが、厚かましいお願いです。なぎさを日本に一人おいていくとしても、いま住んでいる鶴来の一軒家に一人で住まわせておくのは、とても不安なんです」
 そりゃそうだ。なぎさみたいな女子高校生が、たった一人で田舎の一軒家に住んでいたら、なにか恐ろしい犯罪に巻き込まれても不思議はない。
 「それで、学校から近い、この八倉巻先生のお宅のそばに部屋を借りて、そこに住まわせようと思っているんです。なぎさは、わりとしっかりしているコなので、ご迷惑をおかけすることはないと思うのですが、やっぱりなにかあったときのために…たとえば、病気とか…そんなときのために八倉巻先生に親代わりというか、監督というか、後見人になっていただきたくて、お願いにあがりました」
 「わかりました。お引き受けします」
 「厚かましいお願いをしてしまってすみません。どうぞよろしくお願いいたします」
 「だいじょうぶです。厳重に監督します。どうかご安心ください。なぎささんには、どんなオトコも指一本触れさせません。たとえそれが我が息子であっても!」…またまた、おとうさままでお(たわむ)れを!知ってるでしょ?わたしとなぎさの関係を!
 中村博士も笑った。そして、その後、まじめな顔でぼくにいった。
 「そんなわけで、なぎさのことを頼む。あさひくん。…でもね。こんなことは、なぎさの父親がいうことじゃないと思うんだけど…あさひくんに、なぎさの人生の責任をとってくれ、っていってるわけじゃない。たぶん、これから、ふつうの高校生のカップルよりは、あさひくんの生活に近いところに、毎日なぎさがいることになると思うんだけど、2人の関係は、ぼくやソフィアや…それにキミのご両親とは関係なく、キミたち2人が自分たちの意志で決めてほしい。つまり、婚約とか結婚する、ってときはもちろん、たとえば、2人の気持ちが合わなくなったり、どちらかに、もっと好きな人ができたようなときも、2人の気持ちだけで、2人だけで考えて、どうするか決めてほしい。親同士の約束とか、関係とか、そんなことは気にしちゃダメだからね。…これからも、ふつうの高校生の恋人同士として付き合っていってほしい」
 「だいじょうぶ。おとうさん。わたしたち、ちゃんと決められるから」
 「だいじょうぶです。博士。信じてください」
 「もちろん、キミたちならだいじょうぶだと思ってるけどね」
 「わたしもそう思う。これからのことは、全部2人でしっかり決めなさい。ひとみなんかに相談する必要は全然ないからね。たとえひとみがよけいなことをいろいろいってきたとしても」
 「ちょっとは相談しなさいよー!」おねえちゃんが文句をいう。

 「じゃあ、食事を始めようか」…父がいう。「今夜は、中村夫妻の結婚祝いだから、炭火でバーベキューとか大皿でパエリアとか、派手なメニューをいろいろ考えたんだけど、それだと、わたしが準備につききりにならなくちゃならなくなるから、昼のうちに準備できる手巻き寿司パーティにしました。ちょっと地味だけど許してください」

 その夜の食事は、楽しかった。みんなでいろいろな話をした。…ぼくの父がなぎさに聞いた。
 「ところで、なぎささんは、もう、どの大学に進学するか、決めたの?」
 「はい。早稲田大学の理工学部…創造理工学部建築学科が第一志望です」
 「早稲田かー。どうしてそこを?」
 「日本の大学の建築学科では、東大、東工大、早稲田、東京芸大、横浜国大…といったあたりがトップレベルなんです。だから『日本に残って建築を学ぶ』っていっちゃった以上、この中の大学に入らなくちゃ、両親に申しわけないと思ってます。
 …でも、東大は、わたしにはちょっと大変かな、って。わたしやひとみ先輩の親友に弓美ってコがいて、このコは学校のトップで、当然のようにわたしは東大にいく、って宣言してるんですが、弓美の成績とくらべると、わたしはだいぶ差があって…といっても、それ以外の大学も、難しさに差はないんですが…ただ、早稲田大学だけは、私立大学なので、試験科目をかなり絞って受験準備をすることができるんです。そこに突破口があるかな、って」
 「いろいろ考えてるね」
 「でも、八倉巻先生。早稲田の入試で一つ困っていることがあるんです」
 「なに?」
 「…早稲田の入試科目には『空間表現』っていう実技試験があって…2時間でデッサンを描くんです。それをどうやって勉強すればいいのかわからなくて」
 「まあ、すべて実技科目ってものは、基本的に練習を繰りかえすしか勉強法がないから…美大予備校に通うしかないんじゃないかな。金沢市内に何校かあるだろ?」
 金沢は江戸時代から美術や工芸が盛んで、金沢市立の美術工芸大学があるくらいだから、美術系の大学をめざす受験生も多い。それで、そういった人たちむけの予備校も地方の中都市にしてはたくさんある。
 「それが…たとえば、目の前の石膏像を見て、それを描く、という課題なら、わたしは、もうある程度できてると思うんです。美大予備校に通って練習すれば、問題なく合格レベルにいける自信があります」
 つきあってから知ったことだけど、なぎさはとても絵がうまい。まだ石膏デッサンは見たことがない…でも、今日も高岡の瑞龍寺でスケッチをしてたけれど、建物や風景はすごく上手だと思う。
 「…ところが、早稲田の『空間表現』は、文章で課題がでるんです。それを自分で画面に構成して描く、って問題なんです。それもすごく特殊な設定で…だから、ふつうの予備校じゃ、対応できないと思うんです。それで、どうしたらいいのかわからなくって」
 「なぎさ。わたし、いい先生、知ってるよ!」
 「だれ、ですか?」
 「わたしがバイトしてるカフェのオーナー。本職はデザイナーなんだ。金沢ではもちろん、最近は首都圏からも仕事の依頼がたくさんくる。現役バリバリのデザイナー。そして、わたしたちの先輩」…ここで、おねえちゃんは、なぎさとぼくに軽くウインクする。これは、高校の先輩ってだけじゃなくて『超絶美少女』の先輩…ってことだな。
 「その人が、毎週土曜日に『こどものための絵画教室』を開いてるの。もともと、自分のこどもたちとその友だちに絵を教えてたんだけど、それが評判になって、いまでは20人ぐらいの生徒が通ってる。小中学生だけじゃなくて、美大受験を目標に通ってる高校生もいて…そこに入れてもらって、先輩にいろいろ教えてもらえばいいと思う」
 「おねえちゃん、その先輩って、もう、結婚してるの? だいぶ年上の人? 子どもがいるってことは」
 「うん。子どもは2人。2人ともオンナのコで、1人は中学生。来年高校受験かな? 再来年だったかな?」
 「コードネームは?」
 「スコール…スコール先輩」
 それから、おねえちゃんは、スコール先輩にLINEしてくれた。先輩は、明日の午前中なら時間がとれるから、10時にカフェに来てほしい、と返事をくれた。

 その夜、なぎさファミリーは結局、うちに泊まることになってしまった。大人がみんな楽しくなって、ビールやワインを飲んでしまったので、車で鶴来に帰れなくなったんだ。うちの両親はいつもの寝室で、中村夫妻はお客さん用の寝室で。そして、なぎさは…おねえちゃんの部屋に寝た。ぼくだけ一人で寝た。…まあ、両親が4人そろってる夜だからしかたがない。はいはい、一人でさびしく寝ます。