「雷が自分に落ちる確率と宝くじが当たる確率、どっちが高いと思う? 」
 電車から降りて改札を抜ける時、イヤホンを外していた右耳からそんな声が聞こえてきた。視界に入ってきた空は雨が落ちてきそうな、でも大丈夫そうな、今が家を出るときなら傘を手に取るかどうか迷うような色をしていた。
 駐輪場の目の前にあった駄菓子屋はシャッターがしまったままで自販機だけがあの頃のまま置かれていた。懐かしいというほど歳を重ねてるわけでもないのに駐輪場に置かれている自転車も、空の色も、自動販売機のコーンスープも、目にとまるすべてが11歳の冬を思い出させた。

 雨は降るのだろうか? そもそも私はなんであの日の約束のためにわざわざバスと電車を乗り継いでこんなところまで来たんだろう。私は約束していた架道橋の下で足をとめた。コートのポケットから取り出したスマホの画面に表示された時刻は13時50分だった。そもそも10年前にした約束をきっと覚えているわけもない。しかも今日はクリスマスイブ。そんな約束なんか忘れて誰かとデートしてるに決まってる。

 母が再婚したのは私が10歳の時だった。母から虐待されていたわけでも、ネグレクトされていたわけでもなく、ただ母も時々、母という服を脱ぎたかったのだと思う。週末になると私にリュックを持たせて、外に遊びに行くように促した。週末は平日と違って、みんな家族で出かけていた。いつもの公園も閑散としていて、私はよく架道橋の下でただ『ガタン ガタン ゴトン ゴトン』電車が通過していく音を聞いていた。犬の散歩をする人、コンビニに行く人、パン屋に行く人、私がリュック背負って立っていても、誰かと待ち合わせしてるのだと思って誰も目にとめなかった。毎週、土日の数時間、架道橋の下にいた。そろそろ、何か上着を着ないと寒いなと感じる時期だったと思う。大人が旅行の時、コロコロとひいている小さなスーツケースをひいて歩く男の子が私と同じように架道橋の下にやってきた。彼は山根(やまね)と自分の名前を私に教えてくれたのに、私は聞き間違えてしばらくの間、『ヤマメ』だと思って『ヤマメ君』と呼んでいた。
 私はリュックの中、彼はスーツケースの中にお菓子を入れていて、それを分け合って食べた。山根くんの家も両親が離婚していて、彼のお母さんは土日も仕事で彼は暇だからとクリスマスにお母さんからプレゼントしてもらったおもちゃが入っていたスーツケースを持って旅しているんだと言った。
「川瀬さんも僕と同じで旅してるの? 」
「ううん、旅じゃない。時間つぶし。お母さんにとって、私がいてほしくない時間もあると思うから、土日のどっちか、お昼ご飯を食べた後、お母さんが私にリュックを手渡した時、ここにくるようになったんだ」
「駅みたいなもんなんだ」
「駅? 」
「そっ、誰とも待ち合わせしていないけど、嘘の駅で、待ち合わせしてるみたいに川瀬さんはここにきてる」
「嘘の駅? 」
「だって、僕ら、線路の下にいるじゃん? 駅でもないのに、『ガタン ガタン』ってこんなにもうるさく電車の音を聞いてる!! 」
 山根くんは見た目より随分と大人の考え方をしていた。そんなこと考えても見なかったから、それからしばらくふたりの間でこの場所を『嘘の駅』と呼んでいた。
 そして、山根くんと交換するお菓子はお菓子というより、さきいかとかナッツとかお酒のおつまみのようだった。私と交換したキットカットやグミを口にいれるたび、『甘っ』と一瞬、苦い顔をした。
 小学校を卒業するまでは、そんなふうに嘘の駅で少なくとも月に4回、山根くんに会って話す事ができるんだと思っていた。それは突然、いいや、母と新しい父の中ではずっと話していたことだったのだと思う。『郊外の静かな場所に家を買ったから』5年生の冬休み前、転校することになった。山根くんとは通っていた学校も違う。郊外に引っ越せば、もう偶然会うこともなくなるし、身長が伸びたり、髪型が変わったりして、きっとショッピングモールですれ違ってもわからない。好きとか嫌いとかじゃなくて、もっと話したかったな、と思いながら引っ越すことを伝えた。
「静かなところに引っ越せるなら羨ましいな。でも、きっと、この電車の音もまた聞きたくなるんじゃないかな? そうだ、10年後のクリスマスイブがちょうど日曜日だったんだ。もし覚えていたら、ここに2時に来てみてよ。10年後だよ? なんか、そんな守れそうもない約束を僕からプレゼントにおくる」
 少し意地悪そうに笑っていた。私は
「これっ!! 」
 新しいお父さんがUSJのお土産でふたつくれたE.Tの耳かきのひとつを手渡した。
「じゃあ、10年後にこの耳かきを目印に持ってゆくよ。それまでバイバイ」 
「うん、バイバイ」
 私が歩きだすと同時に彼もスーツケースをゴロゴロ引きながらどこかへと歩いて行った。


 来るわけがない……。まだ21歳だけど11歳から21歳の間って1番、多感な時期だ。寒いし、雨は降りそうだし、2時過ぎたら帰ろう、そう思って空を見上げた時、『ガタン ガタン ゴトン ゴトン 』架道橋の上を電車が通った。久しぶりに聞いた耳を塞ぎたくなるほどの音だった。電車が頭上を通過するたび、耳を塞いで、口を大きく開けて話したな。
 
 『ピッピッピッピッ』
 14時にセットしていたアラームがコートのポケットの中から聞こえてきた。右を見ても左を見ても、真正面を見ても彼らしき人の姿はどこにも見えなかった。
 10年間、自分の中で抱え込んでいた約束。誰かを好きになりかけては付き合うのはこの日の後から──と律儀に思っていた真ん中にあった約束。雨がぽつぽつと落ち始めてきた。
 その時、1台の軽トラが目の前でとまった。運転席の窓が開いて、その手には、E.Tの耳かきが持たれていた。
「すんげぇ!! 10年前の約束、覚えてたんだ!! 」
「山根くん? 」
「そう。ごめん、実は今、仕事中でもう1軒だけ清掃が入ってるんだ。もし時間があるなら今から喫茶店まで連れてゆくから、そこで待ってもらっていい? 」
「……」
 突然のことに声がでなかった。
「大丈夫? もしかして作業着だし、イメージが崩れた? 」
「そ、そんなことはない。でも、まさか来るとは思わなかったから、物凄い緊張してる。それに大丈夫? 仕事中でしょ? 」
「社長には許可もらってる。本当は今日は休みだったんだ。でも同僚がインフルになって僕がこの約束のことを話して許可もらって出勤したわけ」
 山根くんは当たり前だけど、もうスーツケースをゴロゴロと引っ張ってはなかった。作業着を着て、軽トラに乗って、家具の移動や清掃、ゴミの処分などをする会社で働いていた。
「いい? ちゃんとシートベルトした? 結構、揺れるから気をつけて」
 軽トラが発車する前、もう一度、架道橋を見た。そう言えば、雨が降ったことはなかったんだ。山根くんと会って、はじめての雨がフロントガラスを濡らしていた。

「そうだ、山根くん、雷が落ちる確率と宝くじが当たる確率、どっちが高いと思う? 」
「ごめん、俺、雷に落ちてほしくもないし、宝くじも買わないから当たる確率なんてそもそもないや」
 変わっていなかった。私と山根くんの背中にはそれぞれの10年の線路がある。約束の場所はちゃんとした駅ではなかった。山根くんがつけた『嘘の駅』。E.Tの耳かきだけが私よりも山根くんの今までをきっと見てきたのだろう。ドリンクホルダーに置かれたE.Tの耳かきを見た。
「川瀬さん、着いたよ。とりあえず、この喫茶店で待ってて。遅くとも3時半までには来れると思うから」
「じゃあ、待ってる」
 山根くんはそのまま運転席から私に手をふった。
『カラン カラン』
 喫茶店の少し重いドアを開けると同時にドアベルが揺れた。
「いらっしゃいませ。山根様から聞いています。まずはお好きな飲み物をどうぞ」
 私は窓際の席に座って珈琲を注文した。
 ストーブの匂いと珈琲の匂い、そして、さっきまで感じていた山根くんの匂い、私の口から出てくる白い息、ひとつ夢が叶ったこの瞬間を忘れないように、と砂糖もミルクも入れないまま、はじめてブラックコーヒーを飲んだ。ゆっくり、ゆっくりとまるで秒針の音のように。

『カラン カラン』
 15時8分だった。駅ではなかった。それでもまた新しい何処かへ向けて出発のベルがなった気がした。
「持たせてごめん。本当はゆっくり選ぶべきなんだけど、さっき花屋で目についたから」
 彼は私の目の前に座るとラッピングされた白いシクラメンの鉢を私に手渡した。確か、花言葉は内気とか嫉妬とか誠実だったはず……。
「話したいことはたくさんあるんだ。でも来ないとも思ってたから、ごめん。姿が見えた時、全部、空っぽになった」
「だよね? 10年だもん。ありえないよ」
「本当にありえない。でも守ってくれて嬉しかったわ」
 ミントが薄くなったような色の作業着を着た山根くんの顔をまじまじと見た。面影はあるようなないような、街中で出会ってもきっと気づかない。
「居場所は見つかった? 」 
「居場所? 」
「なんとなく感じてたんだ。居場所がなくて架道橋の下に来てるのかな? って。俺もあの頃、そうだったから。話したいのに話す相手がいなかったから」
「どうかな? でもこの日にすがっていたのかも。この日が終わるまで──、この日が終わってから──、そうやって10年、この約束を小さな支えにしてたかな。期待したら苦しくなるから来ない方に気持ちを寄せて」
「同じだな──。じゃあさ、忘れないように今、言っとく。大晦日も元旦もあけておいてよ」
 彼の声の向こうにチキンの焼ける匂いがした。カウンター席の向こうで店の人が蝋燭に火をつけているのが見えた。
 今年の終わりと新しい年のはじまりの小さな支え。
「うん。約束!! それより、これからどうする? 」
 私が聞いたと同時に、テーブルの上に蝋燭が置かれて食べやすいようにカットされた炭火で焼かれたチキンと苺のショートケーキが置かれた。

『メリークリスマス』
 店員と彼の声が重なる。
『メリークリスマス』
 
 なぜかその声の向こうに電車が通過してゆく音が聞こえた気がした。

『ガタン ガタン ゴトン ゴトン』