「なんでいつもこうなるのかなぁ…」
九月十六日の金曜日の朝、保健室の少し古びれた椅子に座って小さく呟いた。
夏休み前までは普通に過ごしていたのに、二学期になってから急に教室が怖くなった。
なんとも言えないほどの気怠さを身にまとい、元気に登校してくる赤帽子の生徒たちを見ていると、私の心の色とは正反対の色の声が飛んできた。
 「おっはよー。今日もめちゃくちゃ暑いね。」
この先生は高木瞳先生。この学校の養護教諭の先生で、親身になって話を聞いてくれる私のとっても大好きな先生。
 「先生おはようございます。今日はなんだか元気ですね。」
 「そうかな?別にいつも通りだけど、やっぱ天気がいいと気持ちもあがるよね。」
新学期が始まって二週間ほど経ち、生徒たちの元気さも段々と取り戻されてきたものだから余計に自分が暗いものに感じる。そんな状況で消えかけている私の笑顔は、先生の清々しい笑顔と仲良くすることはできなかった。
 「わー!葉月さん、いつもありがとね。先生の仕事なのに全部やってくれて。」
 「全然問題ないです。ここにいても結局することはないし、環境が整っていた方が気持ちが落ち着くので」
最近は保健室にいてもすることがなく、暗いことを考え込んでしまうので、自分一人でできる朝の仕事はなるべく全部済ませるようにしている。
まず学校についたら、事務の先生に保健室の鍵を開けてもらい、荷物を置いたら古びた蛍光灯のスイッチを入れる。ここ数年のご時世ということもあり、数ヶ月前から導入された空気清浄機をついでにつける。これらは他の先生がやってくれることもあるけど、ここからが私だけの仕事。カーテンを開け、窓を十センチほど開き、今日の天気を気温を確認する。それが終わったら干してある洗濯物を取り込み、畳んで収納する。
ここまでが私の毎日の日課。
 「あっ、ごめん。職員室に忘れ物した。ちょっと待っててね。」
こんなことはよくある先生のおちゃめなので特に何も考えずぼーっとしていると、急にドアがノックされた。突然でビクッとしたけど、今は身体測定の時期だからそれの記入用紙を提出しに来た先生だろうとドアに目をやると…。
 「しつれいします。いちねんにくみのはらやまとです。」
まさか低学年が一人で来るなんて思わなかったが、膝から血を流しているので、とりあえずできることはしとかねばと思った。でも、怪我の手当を勝手にやってはいけないと思い、状況の確認をした。
「じゃあまず、どこが痛いのか教えて。」
「ここ。」
和翔君は膝を指さして言った。
「そっか、どこで怪我したの?」
「あさ、歩いてたら道路の白い棒に足があたって転んじゃったの。」
まだ一年生だから幼いなりの表現の仕方を理解するのが難しい。
「保健室に来ることは雄基先生に言った?」
保健室に来るには担任の了承をもらってからでないと、来てはいけないためその確認もした。
「先生はきょうしつにいなかったから、となりの子に言ってきた。」
「わかった、ありがとう。先生を呼んでくるから、あそこのピンクを椅子に座ってちょっと待っててね。」
そう言って保健室を出た私は、職員室に向かい、まずは二人の先生を呼ぶ。
「失礼します。六年三組の新井葉月です。水谷雄基先生と高木瞳先生いらっしゃいますか」
二人とも、出入り口付近にいたため、すぐに来てくれた。久しぶりにこんなことが起きたので少し戸惑ったが、落ち着いて状況説明をした。
「一年二組の市原和翔くんが登校中にガードレールに足を引っ掛けて転び、膝に怪我をしていて、さっき保健室に来ました。朝の支度は終わらせてから来たようで、教室に先生がいなかったため、隣の席を子には言ったと言っていますが、念のため水谷先生も呼びました。」
そう言うと、二人の先生は保健室に向かい、高木先生は怪我の手当に、水谷先生は朝の出来事の再確認をした。私はそれを見ながら、パンダのぬいぐるみを撫でた。
和翔くんの手当はすぐに終わり、怪我は単なる擦り傷のようなものでしばらくすればきれいに治るらしく、ついさっき教室に戻った。
 今日は朝会があるからそろそろ教室に戻らなきゃいけない。本当は行きたくないし、息苦しくて仕方ないけど、なるべく先生に迷惑をかけないために頑張って教室に戻ることにする。なんて思っていると、誰かが保健室に入ってきた。
「あっ、松本さん。おはようございます。」
保健室を出ようとした水谷先生がすれ違うときにその人に挨拶をした。私はそれで親友の愛花が来たのだと分かった。
「おはよう愛花。今日朝会あるよね?早く行こ」
時刻は八時二十七分。もうすぐで時計の秒針が一番上にたどり着きそうな頃。朝会はあと五分ほどで始まってしまう。
「うん。でも葉月大丈夫なの?」
「何が?」
「最近は授業以外ずっとここにいるじゃん。無理しなくていいんだよ。」
大好きな友達に不意打ちでそんな優しい言葉をかけられると、どうしようもなく泣きたくなる。必死に涙を堪えようとしてギュッと口を結んだが、わがままな私の身体には抗えないもので、まばたきをすると一筋の水滴が静かに頬を伝った。
愛花は優しい表情でティッシュを渡してくれた。
「じゃあ、今日は無理をしないデーにしよっか。たまにはそういう日があってもいいもんね」
髙木先生は私のことを気遣って朝の時間以外に保健室にいることを許してくれた。それすらも涙が出るくらいに優しいものに感じる。
私はぼろぼろと溢れた涙を親指で拭って愛花に教室に戻ってもらうようお願いする。
ご時世柄、最近の朝会は各教室に設置された大型テレビのオンラインミーティング機能を使い、空き教室で喋っている校長先生の話を自分達の教室で聞くというやり方なので、今日の朝会は空き教室の手前の廊下で話を聞いていていいことになった。どうやら他の先生方も朝会のときはそうしているようで別に変な気持ちにはならなかった。
朝会が終わり、朝の会の時間になったから、ランドセルを置きに教室に向かうことにした。先生の話も聞きに行きたいし、学校に来ているのに一度も教室に姿を見せないと余計に変な人だと思われてしまうのがなんとなく怖かったから。髙木先生も朝の会の時間は、各教室の健康観察簿を回収しに行かなきゃいけないらしく、少し遠回りで、教室に向かった。

教室に着くと、真剣に先生の話を聞いているクラスメイトたちが一斉に私のことを見た。
出たよ、その顔。その目。その態度。ゲームの最初の方に出てくる雑魚キャラを見るような面倒そうな目。だから怖かったんだよ。もう嫌だ、帰りたい。
一瞬泣きそうになったけど、みんなに私のそんな一面を晒すわけにはいかないから、グッと手を握りなんとか堪えた。
怪しい足取りで一番奥の自分の席につくと、先生の話が再び始まった。少し遅れた朝の支度の片手間で先生の話を聞いていると、突然放送が流れる。
【風間先生 風間先生 お電話です。至急、お越しください】
風間先生は私達の担任の先生だった。
先生が、少し待っててくださいと言って職員室に向かうと、教室全体がざわざわと騒ぎ始め、立ち上がる生徒も出てきたからそのタイミングを見計らって、後ろのロッカーにランドセルを置きにいった。特に目立つことなく朝の支度を終わらせられた私は安心して自分の席に座り、本を読むことにした。
しばらく読み進めてページをめくろうと指を動かしたときに、どこかから声が聞こえた。
「大丈夫か?」
教室があまりにも騒がしくて暴れ始める子もいたから、その子たちに対する言葉だろうと思い、気にせず本を読み続けると…
「おーい。せっかく心配して声かけてんのに無視かよ。葉月ー?」
名前を呼ばれてやっと自分に話しかけているのだと気づいた。
「ごめん。まさか私だとは思わなくて」
「まじか、隣の席だから流石に分かると思ったんだけどなぁ まあそれよりさ、大丈夫なの?色々と」
私が朝からいないことを不審に思ったのか。面倒くさいが、少しばかり心配をかけてしまったから謝罪のかわりに私のことを少し教えてあげようかという選択肢も出してみたけれど、たまたま居合わせた無知の人間にこんな暗い話をしてはいけないと思ったから、とりあえず、すっとぼけた。
「ん?何の事?」
「そうやって言われると聞きづらいわー」
私はこれを狙ってたのだ。面倒くさがって問い詰めることを諦めてくれれば、こちらにも向こうにも何も害はなく、万々歳だ。だが、そう簡単に諦めてはくれなかった。何とかして話題を変えなければ…
「そんな問い詰めてくる人、君が初めてだよ、なんでそんなに気になるの?」
「そりゃあ隣の人がそんな暗い顔してたら気になるでしょ。てゆーか今、俺のこと君って言ったでしょ?」
「言ったけど、何か問題でも?」
「隣の席の人の名前すら呼べないとか… 俺の名前は市原大芽だからね、覚えてる?今日の葉月のミッションは俺の名前を言えるようになること」
「もう言えるよ。い、いち、はら、たい、が 君」
「俺の名前そんな途切れてないけど、まぁ言えたから今日のミッション完了!君付けはなんか照れくさいから呼び捨てね」
なんかよく分からないけれど、隣の席の人の呼ぶことと話題を変えることに成功した。名前を呼んでもらってどこが嬉しそうな表情をした大芽は、また何か話し始めようとしていたけれど、風間先生が戻ってきたので会話は強制終了となった。

 体育ほど憂鬱な授業はない。騒がしくて、うるさくて、集団行動を強いられるから。そんな悪魔でしかない体育の授業は今日の一時間目だ。本当にやりたくない、そんな思いを誰にも言えずに俯いていると海香が話しかけてきた。
「葉月大丈夫?」
「まぁ今のところは大丈夫だよ。無理そうだったら保健室行くね あっそうだ。先生にそのこと言ってくる」
「分かった。先に行ってるね」
私は先生に今日の朝の出来事をそれとなく説明して、一応参加はするけど途中で見学するかもしれないと伝えた。優しい先生は嫌な顔一つせず了承してくれた。朝休みに体育着に着替えていなかったため、着替えてから、少し遅れて授業に参加することにした。着替えを終えて、一度教室に戻るとなぜか大芽が席に座っていた。
「大芽どうしたの?もう体育始まってるけど」
「葉月やっと来た。急に居なくなってびっくりしたんだけど」
「えっ?どういう意味?」
「トイレ行ってたらもうみんな行っちゃっててさ、どうせ遅れてるから葉月と一緒に行こうかと思って」
「意味分かんないけど、待っててくれてありがとう。じゃあ行こ、早くしないと怒られちゃうからさ」
大芽と私は、噛み合わない歩幅で共に歩き始めた。時折、大芽が合わせてくれようとするけれど、人間というのは難しいもので二人の歩幅が噛み合うことはなかった。
 やっぱり集団行動というのは怖くて、今日の体育の授業に参加する事はできなかった。でも先生は振り返りさえちゃんと書いてくれればそれを成績にするから大丈夫だよと行ってくれた。何故かその話を一緒に聞いていた大芽は、安心した表情で教室に戻っていき、私は保健室で休んでから教室に戻ることにした。

休み休みでなんとか迎えた給食の時間は、びっくりするぐらいうるさくて騒がしかった。どうやら今日の給食にはみかんがたっぷり入ったフルーツゼリーが出るらしい。
「うるさいなぁ 給食は保健室で食べようかな」
独り言を呟くと、大芽はそれが聞こえてしまったらしく、まさかの行動に出た。
「おーい。みんなうるさいよ。給食食べる時間減っちゃうよー」
教室の人に言い聞かせるならまだいい。廊下に出て、学年全員に聞こえるように言ったのだ。廊下も教室もしんと静まり返って、食器の音だけが廊下に響いた。
私たちの学年は人数が多く、一つのクラスに四十人ほどいて、既に席で教室がいっぱいのため給食の配膳台は廊下に設置される。
「これで良かった?とりあえず静かになったけど」
「なんで私に聞くの?」
「葉月の独り言、聞こえちゃったから。給食食べるときに隣の人いなかったらつまんないじゃん」
「君はなんでそこまで優しいのかなぁ、でもありがとう」
自分の給食を運び終わって、一人でぼーっと考え事をしていると、また周りが騒がしくなって思考が段々ネガティブになってきた。大芽に話しかけられても、心ここにあらずな返事ばかりで、段々とまぶたに塩水が浮かぶ感覚が強くなっていった。そしてクラス全員分の給食が配膳し終わってさあ食べようとなったとき、風間先生は私が泣いていることに気づいた。
「新井さん大丈夫?後で給食持っていくからさ、保健室で髙木先生とお話してていいよ」
風間先生は優しい言葉選びで逃げる選択肢をくれた。私はそれに甘えることにして、少し急いで教室から逃げた。
教室を出て、すぐ右に曲がり廊下とにらめっこしながら歩いていると隣の教室から出てきた、お代わりに並ぼうとしている生徒とぶつかりそうになった。私はすぐそれに気付きピタッと足を止めた。目線を上にするとそこには背の高い男子がこちらをじっと見つめながら立っていた。
「葉…月? 大丈夫?」
なぜこの人は私の名前を知っているのだろう、話したこともないのに名前呼びなんて怖すぎる。でもこの人、どこかで見たことがあるような気がしなくもない。
「ごめん」
私はとりあえずそう言って反対方向に歩き出した。
競歩並みに速いスピードで歩いた私は少し息が切れていたが保健室に着くと、少しだけ落ち着いた。なぜだが髙木先生は保健室に居らず、私は一人ボーっとして給食を待つことにした。小さなティッシュ箱を膝の上に乗せて、校庭の隅で揺れている、空に向かって一直線に澄んだ青色のリンドウを見ていた。
三十秒ほど時が流れると風間先生が給食を運んできてくれた。私は目線を給食に移し、心の中でゆっくり『いただきます』と呟いてから再びリンドウを見つめ始めた。
『あと少しで分かる気がする。あの人の名前 リンドウのようにまっすぐな心で青いランドセルの…』
その瞬間保健室のドアがノックされた。
本当にぼやぼやしていたから、急に叩き起こされたのかというぐらい心臓がバクバクした。そこにはついさっき廊下で遭ったリンドウのような男子がいた。
「失礼します。六年一組の山中碧です。給食をおかわりしようとして…」
山中碧は怪我の状況を途中まで説明したところで口の動かすのを止めた。どうやら今更私に話しかけていることに気づいたようだ。
「えっと…葉月?だよね 大丈夫?てかここで何してんの?」
また始まった、鬼のような質問攻め 私はこれが大嫌いだ。本日二回目の面倒な事態はさっきよりも大変なことになりそうだ。
「そうだよ。私は葉月。今は大丈夫。さっきはごめんね、変なとこ見せちゃって」
私は淡々と碧の頭の上のクエスチョンマークを消していった。大芽のときよりすらすらと話すことができたのはきっと、教室にいる劣等感に包まれていないからだろうなと的はずれなことを勝手に想像する。私が『何してんの?』の問いに答えなかったことに気付き、そっと気を遣った碧は再び怪我の説明を始めた。
「あっ、そうだ 給食をおかわりしようとしてたら、前を歩いてる人にぶつかちゃってそれで…」
「膝を怪我したのね」
私がそう言うと碧は大きく頷いてよくわかったねと小さく口を開けて笑った。
話を聞いていると、碧は怪我の手当をしてもらいに来たのではなく、教室に置くストック用の絆創膏を貰いに来たらしい。絆創膏を渡してもなぜか教室に戻らない碧と少しお話がしたくなった私は、さっきからずっと考えていたことを呟いてみた。
「君、リンドウに似てるね。あそこの隅っこに咲いてる青くてまっすぐに伸びた花。ほら、そこに見えるでしょ?」
私はさっきまで一人で見ていたリンドウを指さした後に彼の肩を見た。どうやらこの人と私は身長差がありすぎるようで彼の目を見つめるにはまだまだ届かなかった。
「あ、ほんとだそこに咲いてるね。俺にそっくりかも」
自分でそう言うには少し自意識過剰かもしれないけどせっかく来てくれたからツッコミはしないことにした。その代わり、私はここ最近ずっと喉の奥につっかえていたことを聞いてみた。
「ねぇ君にとっていちばん大切な人って誰?」
碧はしばらく考えた末、眉間にしわを寄せてりんどうを見つめたままこう答えた。
「俺を大切だと思ってくれる人かなぁ」
私は思わず なにそれ――。と呟いた。
いつの間にか私の頬はびしょびしょに濡れていた。まるで限界まで膨らんだ水風船が弾けたように。
なぜ涙を流したのか理由は分からない。でも、それでも、さっきの、あのたった一瞬、ほんの一瞬、わずか一瞬が私の心の何かを大きく動かした気がする。
「ちょっ葉月?! なんでまた泣くんだよ…もしかして俺のせい?どうすりゃいいんだよ」
―――なぜだろう初めてこの人と話したのに、ずっと友達だったみたいな変な感覚。私は自分の心が自分でも気づかないほどグシャグシャになっているのにやっと気づいた。
初対面の人に2回も涙を見られてしまうなんてすごく恥ずかしいけど、碧にならどんな私でも見せられる気がしたから、少しだけ彼の大きすぎる肩を借りることにした。