お昼を一緒に過ごせなかったからか、今日の夢の遠堂くんは少し無口だ。そんなことより私は遠堂くんの下の名前を呼ぶことに、必死で脳内で何回も言葉にする。
ひろくん、ひろくん、ひろくん。
ハッとして顔を上げれば、ひろくんが、一個一個大切そうに私の言葉を拾い上げてる。優しい指先で摘み上げた名前は、ほろほろと手の中で崩れ落ちていく。
「急にどうしたの」
「ひろくん」
口に出した瞬間、喉はカラカラに乾くし、心臓は好きだとがなりたてるし、涙まで出そうになった。思い返せばひろくんはいつだって、私のことを名前で呼ぶ。普通のことのように、当たり前のことのように。
「リカちゃんの教え?」
「急に?」
好きになっちゃったからだよ、とは言いたくないから、必死にあーあー脳内で唱える。
「また、あーあー、落ちてる」
地面を指さして、私の壊れた「あー」を見つめる。その目があまりにも優しいから。拾おうとする手が、あまりにも、優しいから。
脳内であの時のリカちゃんが浮かんで、目の前に現れる。
「名前で呼ぶこと! いっそのこと、ハグしちゃおう! 手も繋いじゃおう!」
「違うの、違う違う!」
首をブンブンと横に振って否定する。こう言う時、心の中が明け透けになってしまうのは、不便だ。
「何が違うか、わかんないけど、ハグしたいってこと……?」
「そうじゃないんだけど、そうなんだけど」
「なにそれ。ゆっくり聞くから、ミチルの言葉で話してよ」
ふふっと笑った唇に目が離せなくなる。どんどん、好きが増していく。身体中からいつか、溢れちゃうんじゃないかってくらい増していく。
「ハグは大歓迎ですけど?」
大きく腕を広げて、どうぞと言わんばかりに微笑む。飛び込む勇気はないから、首を横に振る。
「えー?」
「ごめん」
「謝らせたいわけじゃなくてさ。とりあえず、どっか座る?」
夢の中だもん、体に疲れはなくて。このままでも全然良い。でも、胸の中が落ち着かなさそうだから、頷く。
あの日、夢で見た静恋のライブ会場の公演まで気づけば移動していた。目の前には、静恋がライブしていたステージがある。
思い出していれば、静恋のライブが始まって、私の大好きな「恋の詩」が聞こえてくる。目覚ましの音かと思って身構えたけど、目が覚める気配はない。
「静恋のライブ行ったことあるの?」
「俺? あるよ。ミチルはないんだよね?」
「ないよ」
でもあまりにもリアルだ。音は遠くで鳴ってる感じがするけど。
「恋の詩が一番好きって言ってたよな」
「うん、優しくて、背中を押してくれて、恋ってこんな感じなのかなって思えるから」
今だって、私の背中を押すように「君のヒーローになるよ」とか「大丈夫の魔法をかけるよ」とか、あまりにも優しい歌が見に届いてる。まるで、私にとってのひろくんみたいだ。
「俺も、好きなんだよな」
「大丈夫の魔法って本当にあるんだよね」
「へ?」
非日常的な感覚のせいか、好きだと伝えたくてしょうがない心臓のせいか。つい、余計な言葉まで口から出る。
「はい」
ひろくんの言葉と共に手が差し出される。意味がわからなくて、首を傾げれば私の右手を掴まれた。
「繋いじゃったー」
「そういうこと?」
「リカちゃんにこれで報告できるな?」
イタズラっぽくエクボを作って、私の右手を握りしめる。夢なはずなのに、体温が上がっていく感覚がしてしまう。
「大丈夫の魔法を掛けてくれたのは、リカちゃんたち?」
「も、そうだよ」
「も?」
「ひろくん、も」
すんなりと名前を呼べた。何回も何回も考えなくても、やっとすんなり名前で呼べた。
「俺の大丈夫も、力になったってこと?」
「うん、バナナとか、それ以外も、あの三人に話せた」
「悔しいけど、良かったな」
ありがとう。心の中で呟けば、ふわふわとした言葉がひろくんの胸に飛び込んでいく。
「おう」
短く照れ隠しのような返事に、つい、私の唇も緩んだ。でも、まだ好きを言えるだけの勇気はない。思えば形になって、きっと届く。でも、それは違う気がした。きちんと、いつか言葉に変えて耳に届けたい。
「ミチルが言えるまで、待てるよ。どんなことだろうと。あの三人にも大丈夫だっただろ?」
「うん、わかってる」
「何が言いたいかはわからないけど、とりあえず、ゆっくり話そうよ」
私の言葉を待つように、ゆっくり、ゆっくり言葉にしてくれる。手を繋いでくれる優しい左手が、離れそうでぎゅっと握りしめてしまった。
「私ね、気づいたの」
「何に?」
「自分に自信がないからって、三人のことも信じないように、目を背けてたこと」
「でも、勇気を出せたならいいんじゃない?」
ひろくんなら、そういう優しい言葉をくれるとわかっていた。ひろくんといると私はどんどん甘やかされてしまいそう。
「あのね」
「うん」
「好きだよ。ひろくんが、嘘で付き合ってるって言ってくれた優しさも。いつも言葉を待ってくれる優しさも」
ひろくんの反応が無くなって、唇を閉じるから不安になる。それでも、繋がれた手は離されない。
「困らせて」
ごめん、と言いかけた言葉と同時に、ひろくんも口を開く。
「俺もミチルが好きだよ」
「う、そだぁ。違うね、ごめん、嘘だぁは違う」
瞬時に信じられなくて言葉にしてしまった。そんな後悔を押し込んで、ひろくんの目をまっすぐに見つめる。ひろくんの目は嘘をついていない、優しい色をしていた。