永遠に、ぼくの心を

「もしかすると……」
「──そんな日が永遠に訪れないとしたら?」
二人の心に過ったものは……?
 二人は仏壇に線香をあげると、別れを惜しむ老婆に挨拶をして食堂をあとにした。食堂の角を右に折れ、緩やかな下り坂になった道を辿れば、二十分程で健祐の生まれ育った街へ出る。ひんやりとした風が、坂の下手から右手斜面の樹々の枝を揺らしながら頬を掠めて吹いた。
「少し寒くなったみたい」
 文はコートのボタンを留めると、襟を立てる。「先輩、いい眺めね」
 健祐は文の後ろから左前方に広がる景色に見入っていた。景色を眺めながら頷き、文を見ると、健祐の視線に合わせて同じ方向を見ていた。その文の肩を軽く叩き、遠くを指差す。
「あの辺に僕の家があったんだ。あの川の向こうに」
 文は一旦こちらを向き、健祐の指の遙か先に視線を延ばした。
 二人はしばらくその場に留まって崖の上から街を見渡した。「さあ、行こうか」と健祐が促すと、文は薄ら笑みを浮かべたまま健祐のあとに従う。
 十分程行って健祐は立ち止まった。神社に続く長い階段を見上げる。初めて章乃と出会った場所だ。いっときそこでぼんやりしていると、先を歩いていた文が引き返して来た。
「先輩、どうしたの?」
 文の呼びかけには答えず、健祐は階段の先を見つめ続ける。
 文は横に立つと、同じように階段を見上げた。
「上ってみようよ? きっと、いい眺めだよ」
 あのとき、章乃にかけた言葉を口にしてみる。
「えっ、なに?」
 健祐の声が文には聞き取れなかったらしい。
「文ちゃん、上ってみないか?」
 文は無言だった。
 顔を文に向けると、文は直ぐに視線を逸らし、首を折って頷いた。俯き加減で何かをしっかりと捉えた目つきで自身の足元を見つめながら口角を持ち上げ、唇だけに薄ら笑みを湛えている。 
 健祐はゆっくりと階段を上り始める。
 文はいっとき間を置いてからついて来た。
 一番上まで来ると、鳥居の向こうに小さな社殿が建っている。時を飛び越えて、ようやく元の時代へと戻って来た旅人を出迎えてくれているように、全てが当時のままだ。何も変わっていない。
 文は健祐の背後で息を弾ませている。その声を背中で受け止めると、健祐は身を翻し、社殿を背に階段の上から景色を見やった。
 文もようやく追いついて横に立ち、荒い息遣いで健祐に(なら)って街並みを眺める。
「いい眺めだろう?」
「ホント、きれいねえ! 章乃さん、この街が大好きだったのね。古里を懐かしんで『窓外の自然に親しんでいる』と手紙に書いたんだわ。ここに帰りたかったんじゃないかしら。きっとそうね。分かる気がするもの」
 瞼に焼きついていた景色と照らし合わせた。章乃と一緒に幾度となく眺めた懐かしい街並みが、眼下に広がっている。脳裏に章乃との想い出が次々と蘇り、溢れ出してしまいそうになる。
 文は荷物を置き、その場に座った。
 健祐も腰を下ろすと、そのまま後ろに倒れ込んだ。
「先輩、汚れるわよ」
「構わないよ」
 健祐は両手を枕に寝そべったまま空を見つめた。
 黒雲の隙間から、青空も覗いていた。
 ──もしかすると?
 胸は高鳴る。健祐はこれから起こる出来事に希望と喜びを見出そうとしたかった。
 ──もしかすると……

   *

 街に入ってしばらく行くと、高台に建つホテルの全形が現れた。
「もう直ぐだよ。ほら、あの建物がこの街で唯一のホテルさ」
 健祐は心なしか弾む声に、自分でも気づいた。「チェックインしたら、街を案内するよ。まだ時間あるから」 
「お願いします」
 文は歩きながら健祐の顔を覗き込んできた。「先輩、嬉しそうね、ヘヘヘ……」
「ええっ?」
「訊いてもいい?」
 そう言うなり文は、健祐の前に立ちはだかり、通せんぼをする。ニヒルな笑みを気取って健祐を上目遣いに見据えた。
「な、なに……?」
「あの神社、どんな想い出があるのかしら? 初めての……」
「えっ?」
「初めて、キスしたとか?」
「ち、違うよ、あそこじゃ……」
「えっ、あそこで、じゃないの? じゃあ、どこで?」
「い、いや、その……」
 健祐はどぎまぎして、首筋を激しく掻く。
「あらっ、ゴメンなさい」
 文は含み笑いをしながら、また健祐の顔を覗き込む。「どんな人か知りたいわ? 章乃さんに会ってみたくなっちゃった」
「直ぐそこだよ。さあ、行こうよ」
 健祐は文をかわす様に横をすり抜けると、必死に話題を変えようとした。
「先輩、章乃さんのこと、おしえて? ダメ?」
 文は執拗に悪戯な視線を向けながらせがむ。
 健祐の頬が熱くなる。それを悟られまいとそっぽを向き、コートの襟を立て、顔を埋めるように背を丸めながら歩を速めた。
「もうそこだよ」
 動揺を抑えてぶっきらぼうに放った己の声は微かに震えていた。
「おしえて、おしえて? ねえ先輩……」
 文を一瞥すると、声を押し殺しながら笑っていたが、仕舞いには腹に手を当てて高笑いを始めた。
「意地悪め!」
 呟くように言い放った健祐の声は、文の笑い声に遠方へと跳ね返されてしまった。
「はあ、楽しいわね」
 文は健祐をからかう様に舌を出したまま肩を竦めた。
 健祐がまた首筋を掻こうとしたら、すかさず文もその癖を真似て見せたので、健祐の右手は宙を彷徨いながら行方が定まらず、結局コートのポケットへとおさまった。
 一階の和室に入ると、既に炬燵の上に夕食が用意されていた。重箱も載っていた。
「お正月の準備も済んだのね、ご苦労様」
「味見してごらんなさい」
 座布団に膝を突いて身を乗り出し、重箱を覗いたら、母はテーブルの中央に重箱を移動させ、三段重ねの最下段を真ん中に挟むように、二段目と最上段をそれぞれ横に並べた。二段目と三段目は何の変哲もない我が家の味だ。御煮しめや黒豆、出汁巻き玉子やらが所狭しとひしめき合っている。御節料理定番の顔ぶれである。母は最上段の蓋を開けた。鯛の尾頭付きと伊勢海老が居座っていた。
「お母さん、張り込んだのね……」
 章乃は伊勢海老の巨大さに目を奪われた。「高かったでしょうに」
「摘まんでみる?」
 台所へ向かいながら母が訊く。
「そうね……」
 少し思案してみる。「来年まで待つことにするわ」
「まあ、気の長いこと、フフフ……」
 炬燵に潜りながら母の様子をうかがう。母は台所から鍋を持って来た。
「年越しそば?」
「章乃の好きなコンソメスープもあるのよ。お昼にと思って……」
「お昼、抜いちゃったもんね。二階までいい匂いしてたわ。両方もらっていい?」
「ええ、ちょっと待ってなさい、温め直すから」
 章乃が頷くと、母はまた台所へと立った。
 待つ間、もう一度重箱の蓋を開けて中を覗いてみる。伊勢海老は今にも躍り出しそうな勢いで身構えていた。隣の鯛を襲うんじゃないかしら、海老で鯛を釣るなんて、と章乃はクスッと笑った。真鯛が貧相に見えるのが何とも滑稽である。
 母はスープの入った鍋を持って来た。
「お腹減っちゃった。スープからにしようっと」
 笑みを見せながら頷いた母はスープを装って章乃の前に皿を置いた。人参と玉ねぎの間をジャガイモと地鶏の肉団子がゴロゴロと転がりそうだ。
 さっそくスプーンを取って、次から次へと口に運んだ。香りの高いジャガイモのとろけるような食感と肉団子の地鶏の味わい深い弾力が対照的に口の中で秩序立ち、濃くも薄くもない絶妙な濃度のスープに、玉ねぎの香りと人参の甘みがそれらの味を引き締める。
 章乃はたちまち皿を空にした。
「食欲出たみたいね」
「やっぱり、お昼抜いたせいね、ペコペコだもの」
 年越し蕎麦を啜ると、もう一杯お代わりをした。それにまたコンソメスープをさっきと同量だけ胃袋に流し込み、腹をさすりながら口を尖らせ、フウッと息を吐いた。
「珍しいわね。こんなに食べたの久しぶりね」
 母は目を丸くする。「元気出た?」
「とっても」
「そう、よかった」
 母は満面の笑みを見せた
「ごちそうさま、美味しかったあ……」
 章乃は手を合わせた。「お母さん、ありがとう」
 母は蕎麦を啜りながら満足げな表情だ。自分が元気を見せたからだ。
 腹が膨れると、自ずと幸せな気分にもなるものだ。章乃は母の明るい顔を見て、全身で母の温もりに浸っていた。生んでくれた母に感謝でいっぱいだ。この幸福な団らんがずっと続けばいいのに、と切に願った。
 窓に視線を向けると、外は夕闇が迫っていた。静かに立ち上がり、窓際へ歩み寄ると、サッシ窓を開け、西の空を見上げた。薄らと残照が闇に溶け込んで、昼と夜の境界を曖昧な色合いに染めていた。直に闇が今日を追い払うだろう。
 章乃は別れの色だと感じた。
 恐らく今夜は星空は見込めまい。次第に黒雲が垂れ込めつつある。真冬の澄んだ星空が望めないのは残念だ。章乃は夜空が好きだ。星々の遥か彼方、百数十億光年先まで広がる宇宙の果てを眺めていると、何もかもが取るに足りないものに思われる。人の寿命ですら悠久の時の中では一瞬に過ぎないのだから。
 章乃は空を見上げたまま溜息をついた。
「章乃、風邪ひくわ」
 優しい声である。母は章乃の肩にショールをかけてくれた。
 章乃は母に微笑んで窓を閉めると、胸元でショールを合わせながら移動し炬燵に足を突っ込んだ。
 母は石油ストーブに火を点け、また章乃の正面に座る。
「天気予報当たりそうね」
 章乃は炬燵の中で手を揉む。
「予報はなんて?」
「雪になるんだって……」
「どうりで冷え込むはずね。初雪ね」
 母は背を丸め、章乃と同様に炬燵の中で手を揉んでいる。
 母の仕種に自ずと笑みが零れる。親子はやはり似るものだと思った。
「どうしたの?」
 母もつられて笑う。
「私はお母さんの娘だってこと……」
 母は笑いながら首を傾げた。
 比較的温暖な山間(やまあい)のこの街にも本格的な冬将軍の到来だ。雪もまたよしとしよう、と章乃は初雪を待つことにした。
 ホテルは、健祐がこの街に暮らしていた頃はまだ外観も見栄えはよかったが、遠目でも五階建ての鉄筋コンクリートの白壁は薄汚れ、近づいてよく見ると、塗装が剥がれかけている箇所も見て取れた。
 健祐も中へ入るのは初めてだ。エントランスには、どこかでよく見かける有名な西洋絵画の写しが、堂々と額入りで宿泊客を歓迎してくれる。自分の趣向とは随分とかけ離れていて、内部の落ち着いた雰囲気とも少々そぐわない印象を与える。それを除けば、庭に面した南向きの窓は、天井まで届く程大きく開放感に優れ、フロアは明るく、敷き詰められた絨毯も充分な厚みがあり、踏み締めた感触は殊の外心地良い。中は外観程の安っぽさは感じられなかった。従業員も割合愛想がいい。
 チェックインを済ませた二人はエレベーターで三階まで昇り、部屋へと案内された。
 部屋は隣同士で、それぞれの部屋に荷物を置くと、二人して街へ出た。健祐の後ろから文はついて来る。街に入ってから身を切るような大気の冷たさが、秋の終わりを物語っている。南国の街だが、標高が高いために冬の寒さは厳しい。
 ホテル正面の坂道を下りながら川を挟んだ向かい側の街並に目を向けた。鉛色の雲の底で、低い民家の瓦屋根の幾重にも波打つ景色が、街から望む山々の紅葉と相まって見事なコントラストを成している。
「ねえ、先輩のお(うち)、どの辺り?」
「あの川を渡って、川沿いを少し上流へ行くと、坂道があって、その坂を上って、横道に入って奥まった所」
 指で道をなぞって説明した。
「えっとー? まあ、いっか。とにかく行けば分かるでしょ」
「まだ、あるかな?」
「章乃さんのお家は、近く?」
「いいや、ちょっと遠いよ。アヤちゃんの家は、こっちの方」
 反対方向を指差す。
「アヤちゃん……か」
 文のか細い声の波動が尻すぼみに耳元を流れた。
「なんか……言った?」
 聞こえない振りをして訊き返す。
 文は立ち止まり、無表情でこちらを一瞥しただけで無言でまた歩き出す。
 二人は橋を渡って川沿いを歩いた。川の流れは、さっき食堂を出て見下ろした下流域よりも、かなり速くなっている。緩いカーブを描いた場所では川岸側の流れが遅く、不規則で小さな渦を形成している。
 健祐が立ち止まって護岸の上から下を覗き込むと、文もそれに(なら)う。
「きれいな流れね」
「そうだね。もっと上流へ行くと、蛍がいるよ」
「蛍? 行ってみましょうよ」
 文は目を輝かせる。
「今はいないよ」
「どうして?」
「夏じゃないもん」
「あっ、そうか」
 そう言って快活に笑う文の顔を覗き込むと、健祐は大袈裟に肩を竦めてやる。
「まあ、意地悪ね」
 健祐はまた文の先を歩き、しばらく行って立ち止まった。
「この上だよ」
 坂道を見上げる健祐を一瞥した文は、さっさと坂を上り出したが、健祐は突っ立ったままその場に留まり続けた。
 文は健祐がついて来てないのに気づき、振り返る。
「ねえ、先輩。早く行きましょうよ」
 文の手招きを見て、健祐もゆっくりと坂を上り始める。その場に待っていてくれた文に追いつくと、文は横につき、歩調を合わせる。
 丁度坂道の中あたりに横道が通じている。そこを右に折れ、三十メートル程奥まった場所に、当時家族で暮らした借家は建っていた。木造平屋建ての二軒連なった、かなり古めかしいつくりで、向かって左側の部屋がかつての我が家だ。六畳と四畳半の二間だけの狭い間取りである。煮炊きできるだけのちょっとしたスペースと流しが玄関横にあり、学校から帰宅すると、決まってその窓ガラスに夕食の支度をする母の影が映っていた。健祐の鼻腔は、今、焼き魚のにおいを嗅いだ。
 表札は見知らぬ名前だった。建物の外観は、左程変わった様子はない。隣室との境界にヤツデが植えられてある。当時と何ら変わりない。健祐の耳に父母の笑い声が届く。
 本当にここで暮らしていたのだろうか。健祐には実感が湧いて来ない。何か他人事のようにも思われる。ここでの生活は努めて思い出さないようにしてきたし、確かに懐かしい佇まいではあるが、懐かしさよりも、幼い健祐にとって、あまりにも辛いことが多過ぎた。父と母の最期を看取った家なのだ。二人の葬送の風景が蘇る。
「ヤツデか……」
 文が不意に声をかけた。「先輩、ここなの?」
「ああ」
「チャイム押してみようか?」
「よしなよ。フミちゃん、行こう」
「もう?」
 これ以上この場所にはいたくなかった。胸が押し潰されるような気持ちだ。健祐はひとりさっさとそこを離れたが、文は玄関先をうかがったまま、健祐が去ったことに気づいていない。健祐が声をかけようとしたとき、ようやく気づいて小走りに駆け寄って来た。
「先輩、置いてかないで」
「さあ、戻ろうよ」
「どこに?」
「どこにって……ホテルだよ」
「ダメよ! 章乃さんとこ行ってみなくちゃ」
「行こう。時間もなくなるし」
 健祐は腕時計を見た。同窓会まではかなり時間はあったが、慌ててそう言った。章乃の家には文に気づかれないようこっそりと行くつもりでいる。
「なに言ってるの? 章乃さんとこ寄っても、まだ余裕でしょ、そんなのダメダメ」
「いいよ」
「なにが『いいよ』なの。なんのためにここまで来たのよ!」
 文は健祐に詰め寄った。「章乃さんに会うためでしょ?」
「いや、同窓会に……」
「今更なに? 呆れるわね!」
 文は腹立たしげに腰に両手を当てた。「章乃さんとの恋を成就させるためでしょうに!」
 健祐は文の強引さにたじろぐばかりだ。
「アヤちゃんは、ここには……」
「そんなこと、分かんないじゃないの! なんか見つかるかもよ、手掛かりが」
 文は健祐の言葉を遮って捲し立てる。「私だって、見届けに来たんだもの。このまま引き下がれますかって!」
「フミちゃん……」
 健祐は文の迫力に呆気にとられ、言葉を失くした。
「さあ、行きましょう。ほら、早く」
 健祐を急き立てると、今度は文が健祐を置いて歩き出した。
 健祐は文を追って路地を出た所まで来て、立ち止まった。文は坂をかなり上の方まで上ってしまった。まだ上り続けている。
「フミちゃん!」
「なに? 私、忙しいのに!」
 文が振り向くと、坂の下手を指差して、健祐は坂道を下り始める。振り返ると、文は両手を腰に当て溜息をついた。
「まったく。先輩、待って! 早く言ってよね!」
 文の駆け寄る足音が、背後から聞こえる。健祐はお構いなくさっさと先に進みながら思わず吹き出した。
 文が追いついてピタリと横につく。荒い息遣いだ。
「先輩、なに笑ってるの! 人の不幸を笑うなんて……」
 文はこちらの顔を覗き込む。「もう、イジワル!」
 隣で睨む文の視線を余所目に、顔を背け、笑いを堪えながら健祐は歩いた。

   *

 章乃の家は、川をほぼ直角に貫く大通りの向こう側にある。この通りが中学の学区を分岐する境界だ。二人は玉川大橋のたもとの横断歩道を渡り、川べりを川下へと進んだ。
 健祐の家から章乃の家までおよそ三十分程要する。ようやく章乃の家が面する通りにやって来た。章乃の家は、この通りと狭い路地との十字路の角にある。
 健祐は心なしか歩みを緩めたことに気づいた。さっきからやけに足運びがもどかしく感じられていた。
 文は相変わらず健祐に寄り添うようについて来る。
 健祐の右手前方に章乃の家の屋根が視界に入ってきた。気が遠くなりそうで、自分の行動がどこか現実味に欠けているような錯覚がした。ゆっくりとそこを目指す。次第に家屋の全形が現れる。しばらくしてとうとう章乃の家の前までやって来た。立ち止まり、二階の章乃の部屋を見上げてみる。
 木造二階建ての、こじんまりとした古い洋館だ。当時から随分モダンな印象だった。かつては章乃の父、章の友人宅だった。その人の妻は外国人で、妻の国に移住することになったのを機に、章が生前買い取った、と章乃から聞いた。室内は外観の西洋風の様相とは随分と違っている。一階は、リビングと幸乃が仕事部屋にしている部屋を除いて六畳の二間は和室だ。畳部屋はその人のこだわりだったらしい。健祐の目には、そこに暮らす章乃と幸乃親子がくっきりと映し出される。
 玄関先に佇むと、すかさず表札を確認する。
「田代……?」
 表札は元のままだった。高校を卒業してここに来たあのときには確かに外されていた。他人に貸したはずだ。当然、別の名があるとばかり思っていた。健祐は首を傾げる。
 不意に庭の方で人の気配がする。誘われるように家の角を右に折れ、路地に入り、垣根越しに庭を望むことのできる場所に出た。庭先をうかがうと、人影が屈んで花壇の手入れをしている。庭木の陰で顔は見えない。しばらくその光景を眺め続けた。
 突然、人影は立ち上がり、顔をこちらに向けた。健祐は目を凝らした。顔を確認した瞬間、思わず叫んでいた。
 章乃は夕食後、しばらく一階で暖を取ると、自室へ引っ込んだ。
 机の前に腰かけ、スタンドを点すと、引き出しから白封筒を取り出した。先月、病室で認めた手紙が既に入れてある。それを封筒から引き抜き、ざっと目を通す。静かに手紙を机上に置いてペンを取り、白封筒の表に、いつの日か受け取るであろう人の名を記した。手紙を丁寧に折り畳んで封筒に戻したあと、厳重に封をして胸に押し当て、目を閉じた。
 そっと目を開け、宛名を見つめる。
“立花健祐 様”
 字面を指で何度もなぞってみると、健祐の顔が浮かぶ。健祐は笑っていた。
 章乃は決心して立ち上がった。封筒をパジャマのポケットに忍ばせ、宝箱を両手で抱えると、自室を出て階段を下りた。
 和室に入り、母の横に膝を突き、箱を置いて蓋を開ける。
「なに?」
 母が不思議そうな目で章乃と木箱を交互に見た。
 章乃は中の物をひとつずつ手にしながら母に説明する。
 健祐が章乃のために持って来てくれた物だ。健祐が描いた絵、綺麗な貝殻、石ころ。色々な物が詰まっている。他人にはガラクタ同然だろうが、章乃にとっては、かけがえのない懐かしの品物ばかりだ。どんな高価な宝石ですら章乃には色あせて見える。
 母は静かに笑みを浮かべながら章乃の話につき合ってくれた。
「健ちゃん、どうしてるかな?」
「きっと元気にしてるでしょう、やきもきしながら……」
 母は章乃の顔を覗き込んできた。「ねえ、知らせてあげようよ」
 章乃は口を真一文字に結ぶと、激しく首を振る。
「それだけは絶対に……」
 母は表情を強張らせ、しばらく章乃を見つめる。
 章乃は視線を箱の中に落としたまま奥歯を噛み締めた。
「仕方ないわね、でも、もうじき元気な章乃を見せてあげられるわね……」
「うん、病院に戻ったら、手術を受けて治療に専念する……」
 章乃の心は押し潰されそうになる。「直ぐに会えるわ」
「その調子よ」
 母はようやくいつもの笑顔を見せてくれた。
 章乃は箱の中をじっと眺めた。中の物を見ている訳ではなかった。しばらくして、徐にパジャマのポケットから白封筒を取り出すと、母に差し出す。
「もし、健ちゃんが来たら……この手紙渡して欲しいの」
 母は手紙を受け取ると、裏表を交互に確かめた。
「これ、出さないの?」
「うん、健ちゃんが来たときでいいの。この箱に入れとくから、お願いね」
「いいけど……なに?」
「野暮な質問はご法度よ。お母さんって……わりと無粋な人ね」
 章乃はわざと不機嫌を装い、顔を背けた。
「あら、恋文?」
「古風ね、こいぶみ……いい響きだわ。ま、そんなものかな。面と向かって言えないことも、手紙だと素直に言えちゃうのね。それに……まだ健ちゃんに知られたくないの」
「分かったわ」
 母は笑って頷いてくれた。
「ありがとう……」
 章乃は躊躇いながらも、ようやく決心してあとを続けた。「健ちゃんって、酷いこと言うのよ。私にもしものことがあったら、自分もあとを追う、だなんて、それも真剣な顔してよ。ホント嫌になっちゃう。縁起でもない、冗談にも程があるわ!」
「章乃……」
 母の顔色が変わった。
「で、私決心したの。この機会に一度だけ健ちゃんをとっちめてやろうって。お母さんも手伝ってね、健ちゃんを驚かすのよ」
 章乃は悪戯っぽい目つきで母を見た。「本心なのかしら?」
 真っ直ぐ母の顔を見ると、母は顔を章乃に向けたまま無言で視線だけを落とした。悲しげな表情だ。
 章乃の胸は張り裂けそうだった。母も同じだろう。「ごめんなさい」と叫びたかった。
「もし、本心なら……私は絶対に先に天国へは行けないわね。お婆ちゃんになっても、健ちゃんを看取るまではって、決めてるの、フフフ……」
 母は黙って章乃を見つめるだけだ。
「章乃……」
 母が囁くように口を開いたのは大分時間が経ってからだ。「あなたは大丈夫なのよ。大学病院の先生だって太鼓判押してくれたのよ。心配いらないのよ」
「当然よ。私はそんな柔じゃないわ。全快……とまでは言わない。でも……健ちゃんに会いに行けるぐらいには早くなりたいわね。その日が待ち遠しいなあ。お母さんが縫ってくれたビロードのワンピースで……突然、健ちゃんの前に現れたら……健ちゃん、驚くわね、フフフ……」
「そうね、健ちゃんの驚く顔、見てみたいわね」
 母もやっと笑ってくれた。
 章乃は母の膝に頭を乗せた。
「ああ、懐かしい感触。なん年振りかしら、お母さんの膝枕……」
「なーに、甘えちゃって……」
 母は章乃の髪を優しく撫でてくれた。
 母の膝はとても温かく、幼い頃の記憶が次から次へと脳裏を掠めて流れた。まるでパラパラ漫画のように。
 章乃は母の膝の上で一つひとつの映像の断片を噛み締めていた。
「戻ってたんだね!」
 健祐は興奮した。垣根越しに懐かしい人の顔がある。
 最初、彼女は怪訝な表情を浮かべながらこちらに歩み寄った。
「どなたかしら?」
 懐かしい声だ。健祐は無言で彼女を見つめる。胸が詰まって声が出せない。微笑むのが精一杯だった。
「どなたかしら?」
 彼女はもう一度尋ねた。
「僕だよ……」
 健祐は声を絞り出した。「健祐だよ」
 彼女は急に足を止め、その場に立ち尽くしたまま唇を微かに動かした。
「健祐……さん?」
 健祐は大きく頷いた。
 いっとき二人を取り巻く空間は静まり返った。健祐は微かに震える胸に息を吸い込み、発声の準備を整える。
「会いたかった」
 自身の声はかなり震えてしまった。上下の奥歯が小刻みにぶつかり合うので、歯を喰いしばり、口を真一文字に結ぶ。
「健ちゃん! 健ちゃん……なの?」
 彼女は目を見開いてこちらを見る。
 もう一度健祐はゆっくりと大きく頷く。
「健ちゃん……なのね……」
 彼女も声を詰まらせ、語尾がうまく言葉にならない。その目に涙が滲んだ。
「いつ……いつ戻ったの? どうして……どうして連絡くれなかったの?」
 健祐は息をするのも忘れて一気に言葉を吐き出した。
「ごめんなさいね……」
 彼女の目には涙が溢れ、瞬きをする毎に次々と零れ落ちた。「健ちゃん……立派になったわね」
 健祐は必死に涙を堪えた。目の前が歪んで見える。
 ついにこの日が来たのだ。健祐が待ち望んだ日が。十年の歳月を経て、一途に思いを募らせ、この世で唯一愛も命も分かち合える女性との再会の瞬間が。健祐にとってこれ以上の幸福は最早なかった。

   *

 健祐の胸は高鳴った。これまでの不安はこの一瞬に吹き飛んで行った。やっと辿り着いたのだ。
「あの頃は……色々とお世話になって……ありがとうございました」
 健祐は途切れ途切れに言うと、深々と(こうべ)を垂れた。その目からひと粒だけ涙が零れてしまった。
「なに言ってるの、そんな真似しないで。章乃……章乃の方こそ、ありがとう」
 章乃の名を、今、母親の幸乃の口から聞いたことが何より嬉しかった。
 ──もしかすると?
 一瞬また健祐の心を過ぎった。いや違う。もうそんな問いかけは必要ない。章乃はいる。章乃に会える。会えるのだ。今日、全てが報われる。最早疑う余地などあろうはずがない。今、章乃の息遣いを間近に感じた気がする。直ぐにでも章乃の命の息吹を抱き締められるだろう。この腕の中に章乃を(いだ)き、全身で体温を感じ取りたい。そう思うだけで今は幸せだった。長年の夢が現実になるのだと確信できたこの瞬間、健祐の心は満たされていた。
「おばさん、アヤちゃんは?」
 幸乃はしばらく無言で健祐の顔を見つめたまま目頭を押さえた。
「待っていたのよ……健ちゃんを……」
 途切れ途切れに言葉を発しながら、幸乃は垣根越しに手を伸ばし、健祐の手を取った。「章乃は……いないの」
「アヤちゃん、戻ってないの?」
「ごめんね、健ちゃん」
「いや、いいんだよ。でも、早く会いたいなあ」
「本当に懐かしいわね。健ちゃんは、どうして、ここに?」
 幸乃は止め処なく溢れる涙を拭った。
「中学の同窓会に出ようと思って」
「そう。あの子も、みんなと会いたかったでしょうね……」
「仕方ないよ、また、いつか必ず会えるんだし」
「健ちゃん、いつまでこちらに?」
「明日、夕方には戻らないと」
「そう、また帰りにでも……寄ってくれる?」
「ああ、必ず。おばさん、元気そうでよかった。アヤちゃんも元気?」
「また、寄ってくれたときに、お話しましょうね」
「そうだね」
「……この方は?」
 幸乃は健祐の隣の文に視線を向ける。
「はじめまして、私、三枝文と申します」
 健祐が紹介するよりも先に、文がすかさず口を開いてお辞儀をした。
「可愛い方ね。健ちゃんのガールフレンド……かしら?」
「とんでもないです。私、会社の後輩でございます」
 健祐が幸乃の言葉にどぎまぎするうちに、文自ら説明する。
「そうなの? 健ちゃん、お仕事は?」
「私どもは、建設会社の設計課に勤務しておりまして、立花は一級建築士、私は二級建築士でございます。予てより、立花から、こちらの環境の素晴らしさを聞いておりまして、私も仕事柄大変関心がありましたもので、今回、同行した次第でございます」
 健祐が答えるより早く、また文が口を開いた。
「そうなの。ごめんなさいね、変なこと言って……」
 文は穏やかな笑顔で首を横に振って見せた。
 健祐は思わず首筋を掻いていた。
「健ちゃん。その癖……直らないみたいね」
「はい、そうです」
 文が答えた。「立花さんって、分かり易い人です。嘘もすぐ見破られますから」
 健祐は文を見て目を見開いた。文は笑っている。
 幸乃も微笑みながら文を見て頷く。
「おばさん、もう行かないと」
 健祐は腕時計を指した。
「先輩、お逃げにならなくても……」
 健祐は文を無視して半身だけを路地側に向ける。
「明日の朝にでも、また、必ず寄るよ」
「そうね。そのときに、お話しましょう」
「じゃあ、もう行くから」
「同窓会、楽しんで来てね」
「そうするよ。今日、アヤちゃんに会えないのは残念だけど、また近いうちに会えるから。じゃあ……」
 健祐は一礼して、手を振りながらその場を離れ、同窓会会場へと足を向ける。
 文も、幸乃に丁寧に暇乞いをすると、健祐に続いた。

   *

 健祐の胸は弾んでいた。
「先輩、よかったわね」
 文は優しく微笑んでくれた。
 また首筋を掻きながら、健祐も微笑を返す。
 健祐の心に一条の光が差し込んでいた。今、全身でその温もりを感じている。ほとばしる喜びを、誰に憚ることなく叫びたい衝動に駆られた。
「ねえ、私の言うこと、聞いてよかったでしょう? 感謝しなさい」
 文は冗談めかして健祐の顔を下方から覗き込んできた。悪戯な笑みを浮かべながら、しばらくそのままの状態を保った。
 健祐は息苦しさの余り、天を仰いでまた首筋を掻いてしまった。
「その癖、お直しになった方が、よろしくってよ。なに考えてるか、お見通しだもん」
 文は健祐の仕種を真似て冷やかした。
「い、いやあ……」
 健祐は苦笑して瞬きを繰り返すだけで何も言えない。
「でも、残念ね……」
「なにが?」
「私も会いたかったわ、章乃さんに」
「いつでも会えるよ」
「そうね……」
 文は真顔で頷くと、直ぐに表情を崩した。「じゃあ同窓会、行きましょうか?」
「フミちゃんも?」
「なによ! ご一緒しては、ご迷惑?」
 文は不機嫌な口調で、づかづかと健祐に詰め寄った。「私じゃ不服かしら? アヤちゃんじゃなくて……」
 ぐんぐん迫ってくる文の顔を、健祐は半身を引いてかわしながら後ずさった。
 章乃が宝箱を片づけに自室に戻って程なくすると、玄関の呼鈴が鳴った。
「章乃。公子ちゃんが来てくれたわよ」
 階段の下から母の声だけが駆け上がった。
 章乃は机の引き出しから工藤公子宛の手紙を手にすると、パジャマのポケットに入れ、部屋を出た。
 一階へ下りると、既に公子がストーブに手をかざし、暖を取っていた。
「キミちゃん、しばらくね、どうしてた?」
「相変わらず。アヤちゃん、顔色よくなったね。見違えるわ」
 公子はぽっちゃりした頬が愛らしい女の子だ。
「そう、そんなに?」
 章乃は炬燵に足を突っ込みながら、ここへおいで、と自分の隣の畳を右の掌で叩いた。
 公子が章乃に従い、隣に座ろうとしたところを、すかさず母が座布団を敷いてやると、公子は「すみません」と言いながら母に向けて感謝を微笑みで示した。
 腿と腿が触れ合う。密着した公子の体温が伝わってくる。お互い顔を見合わせ、笑みを交換する。
「おばさん、これ対馬のお土産、『かす巻き』よ」
 台所へ立とうとした母に公子は紙袋を差し出した。

   *

 公子の母の里は、九州と朝鮮半島の間に浮かぶ国境の島、長崎県の対馬である。
 晴れた日には釜山の街並が望まれる程、九州本土より韓国の方が近い。その距離約五十キロメートル。
 一九〇〇年(明治三十三年)艦船を通すため、島を真っ二つに引き裂き、万関(まんぜき)瀬戸を築いた。西部の浅茅(あそう)湾と東部の三浦湾を接続する運河である。日露戦争時、重要な役割を果たす。そこに架かるのが万関橋で、上島と下島を結ぶ。
 隣島の壱岐と比べ、島内最高峰の矢立(やたて)山(648.5メートル)を筆頭に比較的高く険しい山々。殊に、特徴的な地形は上島と下島の間のリアス式海岸に囲まれた浅茅湾である。その冠たる眺めの壮麗さは名状し難い程の迫力がある、と幼い頃より公子から聞かされ、自ずと章乃も憧れを持ち続けている。いつか公子と二人で訪れることを楽しみにしてきたのだった。国指定の天然記念物のツシマヤマネコやヒトツバタゴ(別名ナンジャモンジャ)などの珍しい動植物も章乃を惹きつける要素である。
 『かす巻き』は対馬の名産品のひとつで、カステラ様の生地で餡をくるんだ蒲鉾大の和菓子だ。黒餡と白餡がある。章乃は比田勝(ひたかつ)という街のとある店のそれが好きだ。カステラとは少々違う独特の生地の風味としっとりした歯触り、餡も甘過ぎず全体的にバランスの取れた甘さ控えめのところが絶品だと思う。
 公子の母は実母の病気見舞いのため、博多港から壱岐経由のフェリーで五時間以上かけて、対馬の玄関口、厳原(いずはら)港で下船し、港近くの病院へ行った帰りに、比田勝へもわざわざ立ち寄り、土産を買って来てくれたのだ。
 島と言っても、厳原から比田勝までは車でゆうに一時間以上は要する程の距離だ。比田勝港からも小倉行きのフェリーは出てはいるが、博多、厳原間よりも船に揺られる時間は長い。夜、比田勝港を出航し、早朝小倉へ到着。JR小倉駅から上りの新幹線と在来線と私鉄の鈍行を乗り継いで昼過ぎに帰宅し、休む(いとま)もなく店に出て、閉店時間まで働きづめだったと言う。
 公子の家は商店街の一角で総菜屋を営んでいる。年末の書き入れ時の多忙な中、一日を余計に費やして自分のために心を砕いてくれる。そんな人たちの優しい心根が章乃には何よりの財産だと思う。心は感謝でいっぱいになる。

   *

「さっき店に寄ったら、早く持ってけって言うから、すっ飛んで来ちゃった。アヤちゃんの好物でしょう……比田勝のお店のよ」
「まあ、わざわざ? ありがとう、公子ちゃん。お母さんにくれぐれもよろしく言っといてね」
 母は紙袋を受け取ると、両手を突いて公子に頭を下げた。
「いいえ、こんなことぐらいしかお役に立てなくて……」
 公子も咄嗟に正座すると、ほんのり頬を紅潮させながら恐縮して母に頭を下げる。
「キミちゃん、なんてこと言うのよ。いくら感謝しても足りないくらいよ。ありがとう」
 章乃は公子の肩を抱き寄せる。と、公子は「フフフ」と照れて頬を更に赤らめる。
「熱は……? ないね、よかった」
 公子は章乃の額に手を当てると、天性ののんびり屋らしく、ゆったりとした動作でその手を炬燵の中に引っ込めた。
 出会ってかれこれ十二年になる。同じ高校に入り、今年ようやく小学校以来、念願のクラスメイトが叶ったのに、章乃が休学してしてしまったせいで公子は残念がっていた。
「学校はどう?」
「変わりない。ひとつも面白いことなんてないよ」
「そう、それは残念ね」
「アヤちゃんがいないと寂しいもん。早く戻って来てね」
「ええ。直ぐに、と言いたいけど……」
「こんなに元気になったんだもん、もう直ぐよ」
「そうね、ありがとね」
「とーんでもない」
 公子は首を横に振って炬燵を出ようとした。「さて、帰ろうっと」
「ええっ! もう? 来たばかりじゃない」
 章乃は目を瞬かせた。
「アヤちゃんが無理するといけないでしょ」
 公子はゆっくり立ち上がって台所を覗いた。「おばさん、お邪魔しました」
「公子ちゃん、もう帰るの? お茶淹れるから……」
「アヤちゃん疲れるといけないから……」
 公子はそう言うと、玄関へ向かいかけた。
 章乃も立ち上がろうとした。
「アヤちゃん、いいから休んでて。見送りはいいよ」
 公子は章乃を制して、さっさと部屋を出た。
「大丈夫よ、気を遣わせてゴメンね」
 章乃は立ち上がり、公子の背に向かって言葉をかけながらあとを追いかける。
「水臭いこと言いっこなしよ」
 公子は濃紺のスクールコートを羽織り、靴を履き終わると、二人を追って章乃の横に立つ母にお辞儀をしながら暇乞いの挨拶をした。
「公子ちゃん、ありがとう。ご家族にくれぐれもよろしくね」
「はい、おばさん」
 微笑みかける母を見て頷くと、公子は章乃に視線を向けた。「お大事にね」
「うん、ありがとう。もう少しいてくれればいいのに……」
「また今度、アヤちゃんが元気になってから……じゃあね。おばさん、また伺います」
 公子が玄関のドアを開けると、章乃もツッカケを履いて何も羽織らず追いかけた。
「キミちゃん、待って」
 章乃は外に出ると、ドアを後ろ手に閉める。ポケットから手紙を取り出し、公子に差し出した。
「手紙?」
「お願いがあるの」
 章乃は公子に手渡すと、囁くように言葉を続けた。「私がここを離れてから……いいえ、私がいいって言うまで読まないで。それまでは絶対に開けないで。これを開ける日は自然と分かるから……」
「どうして? 面と向かって言えばいいじゃない。こんな水臭いことしないで……」
「手紙だと……言えないことだって言えたりするものよ」
「ふうん、そんなもんかなあ。で、なにが書いてあるの?」
「そんなこと……言えないから、手紙書いたんじゃない」
「あっ、そうか」
 公子は肩を竦めながら笑った。
 公子が笑うと、太めながら形のよい三日月眉は垂れ下がり、瞼が膨らんで大きな瞳を隠してしまう。何とも可愛らしい顔だ、と章乃の表情も自ずと綻んだ。
 二人はしばらく見つめ合い、笑顔を交換し終えると、抱き合って別れを告げた。
「気をつけて帰るのよ。転んじゃダメよ」
 おっとりにも拘らず、そそっかしい公子に章乃は念を押した。「足元よく見るのよ」
「へへへ……大丈夫よ。他人の心配より、早く戻って。そんな格好で……風邪ひくよ」
 そう言い残して公子は帰って行った。

   *

 自分の単なる取り越し苦労で終わればいい。そのときは公子と手を取り合って、今日を笑い飛ばすことができるだろう。
 ──でも、もしそんな日が永遠に訪れないとしたら?
 公子にも随分と辛い思いを強いることになる。それを思うと胸は張り裂けそうだった。
 章乃は心の中で手を合わせ、公子に詫びた。詫びながら、これまでよりも尚一層、生への執着を強固にしつつ、その意味を噛み締めた。

   *

 旧友とのしばしの対面もあっという間に終わった。
 章乃は家の中へ入ると、しばらく公子の出て行った玄関のドアを見つめた。やはり、ひとり病室での生活は寂しい。いつも人恋しくなる。せめて公子が傍にいてくれたら、といつも思ってきた。
「もう少し話したかったのに……」
「さあ、寒いから戻りましょ。いつでも会えるわ」
 玄関先で章乃を待っていた母が、そっと肩を抱いて腕をさすってくれる。
「そうね……」
 章乃は今日だけはいつまでも語り明かしたい気分だった。
 今夜は何となく人恋しさが募る。
懐かしい旧友とのひと時を終えて……
 頭上には相変わらず、鉛色の雲が垂れ込めていた。
 文と共に同窓会会場の小学校を目指す。文はゆったりとした足取りであとをついて来る。さっきより少しばかり上流域の橋を渡り、たもとでふと健祐は振り返った。文の背後に、裾野まで紅葉した山が鮮やかに浮かび上がっている。山を見上げながら、文が追いつくのを待つ。
 文は傍まで来ると、健祐の視線の方向を見た。
「きれい!」
 感嘆の声を上げ、山に見とれる文と肩を並べてしばらく景色を楽しんだ。
 我が心も、今、あの山のように赤々と紅葉している。健祐はこれまでの自分を振り返ってみた。
 今までの人生は何だ。まるでこの雲のようだ。殺風景な色のない枯れた荒野にたったひとり取り残されたかのような人生だ。だが、今は違う。命の息吹を吹き込まれた、あの萌え立つ山のように、我が身もまた生命力に満ち満ちている。これ程までに生きる喜びに打ち震えたことがあったろうか。章乃をこの腕に抱くのだ。きっと、もう直ぐ報われるのだ。
「先輩」
 文の呼びかけに健祐は我に返った。反射的に首を回し、文を見る。
「幸せそうね」
 文は優しく微笑みかけてくれた。
「いや、その……」
 健祐は言葉に詰まり、しどろもどろな返答しかできない。
「なにも言わないで」
 いつもの穏やかな表情で、文は静かに首を横に振った。
「ごめんね」
「あら、先輩が謝るなんて、おかしいわ」
 文は笑って肩を竦める。「先輩、おめでとう。心から……ね」
「フミちゃん……」
 ありがとう、と言うつもりが、それ以上言葉は出なかった。
「さあ、行きましょうよ。私も先輩の出た小学校見てみたいわ」
 文はいきなり健祐の腕にしがみついた。「今のうち……ですもの」
 文の行為に動揺した健祐は、空いた方の手で首筋を掻く。と、文はその仕種を見るや、声を上げて笑いながらより一層健祐の腕を締めつけた。

   *

 小学校は丁度この街の中央に位置し、小高い丘の上に建っている。二人は緩やかな坂を上って校門の前で立ち止まった。木造二階建ての古びた校舎はどこか郷愁を誘うものだ。健祐には目の前の校庭が、かなり狭く感じられた。
「こんなに、狭かったかな?」
 独りごちながら、ひと通り学校の佇まいを確認してみる。
 数年前の同窓会の通知によれば、この辺りは児童の数も激減し、小中学校の統廃合が進んでいる。健祐たちの中学も廃校となり、既に校舎も取り壊され、今は章乃が通っていた中学に統合された。この小学校も例外ではないのだが、土、日にはカルチャースクール等も催され、今では街の人たちの憩いの場として復活し、賑わいを取り戻している、ということだった。校舎はそのまま再利用され、解体は免れたという訳だ。
 門の横の看板に『(かみ)玉川中学校同窓会』の文字が、白地に黒々と浮かび上がっている。
「へえ、まるで映画のロケ地ね……」
「都会とは違うから」
 文は健祐を見て頷いた。
「これぞ、学校……って感じよね。なんだか懐かしい」
「おお、早いなあ」
 門をくぐって校舎の正面玄関へ向かおうとした二人は、ほぼ同時に声の方を振り返る。男が首を傾げている。ゆっくりと歩み寄って来ると、腕組みをしながら健祐と文を交互に見る。
 健祐も最初、誰だか分からなかったが、直ぐにクラスメイトの金子だと気づいた。
「金子! しばらく」
「ええっと、誰……だっけ?」
 健祐は黙って笑顔を向けた。
「その顔は……健祐……? 立花……か?」
 金子はしばらく健祐の顔をじっくりと観察していたが、眉根を寄せると、遠慮がちに尋ねた。
「ああ、そうだよ」
 健祐は大きく頷いて答える。
「立花か? 立花健祐か?」
 金子は満面の笑みで抱きついてきた。「おお、健祐!」
「どうしてた? 久しぶり。元気だったか?」
 お互い肩を叩き合い、無沙汰の挨拶を交わす。
「健祐! お前こそどうしてた? なん年振りだ? 卒業以来だから……」
 金子は指折り計算する。
「十二年だ」
 健祐がすかさず答えた。
「そうか。そんなになるか? 心配してたんだぞ皆」
「悪かったな」
「いいや、元気ならそれでいい」
 健祐が門の方を見ると、旧友たちの一団が現れた。
「金子! もう、来てたか」
 懐かしい顔ぶれが健祐の目前に続々と現れた。
「おい、みんな、誰か分かるか?」
 金子は、健祐の肩に手を添えて皆に問いかけた。次々に皆が入れ代わり立ち代り健祐の顔を覗き込んでくる。
「見覚えあるぞ……」
「立花だ。健祐だろう?」
 古賀が健祐の前に出て穏やかな口調で言った。
 健祐は古賀の顔を真っ直ぐ見てから静かに頷く。
「立花か?」
「立花君なの?」 
「どうしてた?」
 皆が一斉に叫んだ。
「みんな、元気だったか?」
 健祐は逆に聞き返した。
「おお、お前、元気そうじゃないか。黙っていなくなって、水臭いぞ、健祐!」
 誰かが言うと、また「そうだ」と斉唱した。
「ごめんな。急だったんだ。俺も心残りでな……」
「元気ならいい。よく帰って来たな……」
 いつもクールだった古賀が、声を詰まらせた。
 皆は健祐の周りを取り囲んだ。
「立花君、私……分かる?」
「変わってないね。清原さんだろう?」
「あら、嬉しい。そんなに変わってない?」
「健祐、お世辞上手くなったな!」
 誰かが叫んだ。
「なによ。立花君は、お世辞なんて言わないもん」
 皆が一斉に笑う。
「ところで、健祐。こちらは……嫁さん……か?」
 健祐の傍で、静かに笑っている文に金子が気づき、遠慮がちに尋ねた。
 健祐は戸惑いながら、文を紹介しようとしたら、文はすかさず自己紹介を始めた。
「わたくし、立花の秘書をしております三枝文と申します。どうぞよろしくお願い致します」
 文は深々と頭を下げる。「立花は、建設会社の設計課に勤務しており、優秀な一級建築士として、社内でも一目置かれる立場でございまして、現在、次長の重責を担っております。今回、弊社では、リゾート開発の計画がございまして、以前より、立花から、この街の自然環境や景観の素晴らしさを聞いておりましたもので、参考の為、このような街をわたくしも一度見ておくべきと、かねがね思っておりましたものですから、その視察を兼ねまして、立花に同行した次第でございます」
 一気に捲くし立てた文の意気込みに、皆呆気に取られていた。
「おおっ、秘書さん同伴とは、お前、偉くなったんだなあ」
 金子が言うと、誰もが文の方を見ながら感心した。
「では、次長。手前はこれで失礼させて頂きます。御用の向きがありましたら、ご連絡ください」
「いいなあ、美人秘書同伴なんて、羨ましいなあ」
「出世したもんだなあ。次長か……その若さで」
 勿論、健祐の部署にそんな役職などはない。
「そんな……」
 健祐は文を見ながら首筋を掻く。「それより、中に入ろう。寒いから」
「おお、そうだ。そうしよう」
 健祐の言葉に従い、皆それぞれ校舎に向かって足早に校庭を突っ切った。次々と校舎の玄関に一行は吸い込まて行く。
 健祐と文は校門をくぐった所で、しばらく皆を見送った。その場から誰もいなくなるのを待って、文は肩を竦め、健祐に向かって舌を出して見せる。
「僕も出世したねえ」
 健祐は苦笑する。「悪戯っ子め」
 文は健祐にウインクすると踵を返し、校門を出て行った。

   *

 校舎の中に入ると、雰囲気は当時のままだったが、それぞれの趣味に合わせ、各教室は様変わりしていた。変貌を遂げた中で、健祐のクラスは絵画教室になっていた。その前を過ぎ、一番奥の教室に入ると、長テーブル四脚と椅子が設えてあり、ひと目で料理教室だと分かった。会場としてはおあつらえ向きな訳だ。
「さあ、みんな、どこでもいいから座って。あと十人ばかり来るけど、始めていよう」
 幹事の金子が張り切って音頭をとると、皆は思うがまま席に着く。
 テーブルにはアルコール類とつまみ、それにちょっとした料理が所狭しと並んでいる。それぞれの前にはグラスが伏せて置かれていた。
 健祐は後ろの入口から中に入り、右手の直ぐ傍の椅子に廊下側の窓を背にして座った。
 古賀が前の入口からこちらへ近寄ると、すかざず健祐の右隣に陣取り、健祐の前のグラスをひっくり返して、ビールの栓を抜き、注いでくれた。古賀が自分の分を注ごうとしたのを健祐は制して、今度は健祐が注いでやる。二人はグラスを目の高さまで持ち上げ、互いに視線を合わせると、一気に飲み干した。
「あれからどうしてた? 苦労したか?」
 古賀は健祐のグラスに注ぎ足しながら訊く。
 健祐もまた、古賀のグラスに注いでやる。
「いいや、それ程じゃ……祖母も死んで……」
 健祐は笑いながらグラスに手を伸ばした。「今は、ひとりだがな」
 古賀は健祐の話を黙って聞きながら、もうひとくちだけビールを口に含み、喉を鳴らすと健祐に顔を向けた。
「健祐。まだ、独り身か?」
「ああ」
 健祐は一旦古賀に向けた視線を外しながら小さく頷いた。目は既に消失したグラスの泡の幻影を見ていた。章乃の面影が自然と浮かび上がる。
「さっきの子は?」
「いいや、彼女は……」
「結婚相手じゃないのか?」
「まあな。お前は?」
「俺は、一昨年、息子がひとり」
「そうか、でかしたな」
 健祐は熱い眼差しを送り、旧友への心からの祝福を示した。
「お前も早く身を固めたらどうだ? 家族をつくれ。ご両親だって、お婆さんだって、それが一番気掛かりだろうよ」
 健祐は黙って頷いた。
 古賀はぶっきらぼうな態度が周りから随分誤解され易かった。強面の外見も手伝ったのは確かだが、深くつき合ってみると、情の厚い男だと分かる。それでもこの男の評価は二分していた。古賀を嫌いな奴はとことん嫌っていた。古賀の方はそんなことなど意に介しはしなかった。それが人間さ、と妙に悟り顔をしていた。その態度も一部の者からの(そし)りを被る要因でもあった。不思議なことに、健祐とはどういう訳か妙に馬が合った。古賀はいつも健祐のことを気遣ってくれ、健祐も古賀を思いやる、という風に友情を育んで行った。お互い気の置けない仲になったのだ。
 健祐は、ふと原田を思い出した。古賀と原田はどこか似ていると思った。もっとも、原田は古賀ほど物静かではないが、原田と仲良くなったのも、この不器用な旧友と重なるところがあったせいかもしれない、と健祐は今気づいた。
 前の入口から、賑やかな声が次々となだれ込んで来た。
「おっ、みんな来たか。ほら、席について」
 また、金子がよく通る甲高い声で張り切ると、席を離れ、教壇に立った。「これで、みんな集まったな。ちょっとひとこといいか? 伝言を預かってる」
 金子は、一度咳払いをすると、メモを取り出した。ゆっくりと教室を見渡す。
「もったいぶるなよ! お前の顔は見飽きた。早く読みなって」
 誰かが叫ぶと、一斉に笑い声で溢れた。
 金子は、もう一度咳払いをした。
「ええ、先生からの伝言だ。『皆、元気でやってることと思う。今日は出席できなくて申し訳ないが、ひとこと言っておきたい。人は年毎に、色々な意味で変わってゆくものだが、決してお互いの友情は壊すことなく、これからも育んでいってくれ。今日、出席した者もできなかった者も、尊い仲間であることに変わりはない。これから幾年か過ぎ、年を取って誰だか思い出せない者もいるかもしれん。だが、これだけは忘れないでほしい。確かに、あのとき、あの時代、共に過ごした仲間がいたことを。中村秀明(なかむら ひであき)』」
 金子は伝言を読み終えると、健祐を指差した。「それから、もうひとつ。今日は懐かしい顔が来てるぞ」
「だれ?」
 今、教室に入って来たばかりのひとりが健祐の方へ歩み寄って来た。
 健祐はゆっくりと立ち上がった。
「みんな、久しぶり」
 数人が代わる代わる健祐の顔を覗き込んできた。
 金子も健祐の元へ歩み寄ると、皆を押し退け、テーブル越しに健祐の前に立つ。
「みんな、分からんのか?」
「健ちゃん!」
 工藤公子が叫んで涙ぐんでいる。
 健祐は公子に微笑みかけた。
「立花?」
 皆はそれぞれ復唱する。
 健祐は皆に頷くと、公子に顔を向け、笑みを送る。
「キミちゃん、元気だった?」
 公子は首を縦に折ると、涙ぐんだまま健祐を見つめる。
「みんな、健祐はな、秘書同伴なんだぞ。しかも美人だぞ、どうだ!」
 金子は得意げに説明する。
「金子! お前が自慢してどうする」
 金子の背後で、笑い声が聞こえる。
「へえ! 出世したんだなあ……立花なら当然か」
 皆、一同に口を揃える。
 古賀は健祐の隣で静かに微笑んでいる。
 既に校庭で対面を果たした旧友もまた声を出して笑っている。
 今来た連中が健祐を取り囲むと、健祐は銘々と無沙汰の挨拶を交わした。
「健祐、会いたかったぞ」
「立花君、久しぶりね」
 懐かしい顔が皆、表情を綻ばせている。
 ようやく再会の儀式が終わって、それぞれが席に着いた。健祐の正面には公子が座った。
「健ちゃん、立派になったわね。アヤちゃんも……」
 公子は言葉を詰まらせた。「……一緒だったら……どんなに……」
「工藤」
 古賀は首を横に振りながら穏やかな声で公子を制した。
「健ちゃん……」
 公子の目から次々と涙が零れる。
 健祐は公子に優しく微笑んだ。
「分かってる。さっき幸乃おばさんに会って来たよ」
 健祐がそう言うと、公子は顔を両手で覆って嗚咽する。
「工藤。今日ぐらい、湿っぽいのはよそうぜ。仕方ないじゃないか」
 古賀は公子にグラスを握らせると、ビールを注いだ。「こいつが一番会いたかったはずだしな」
「そうね、ごめんなさい」
 公子は涙を拭いながらグラスに唇をつけると、ひとくち飲んでテーブルに置いた。
「構わないよ。僕は大丈夫だから」
「アヤちゃん? 古賀、アヤちゃんって、田代章乃のことか?」
 古賀の隣でほかの連中との話に夢中だった波瀬(なみせ)が、章乃の名を聞いた途端、割り込んできた。
「田代章乃か……懐かしいなあ。立花には申し訳ないけど、俺の初恋だからなあ」
 波瀬の周囲の者も話に加わる。
「おい、田中よせ! 健祐の前で」
 古賀が田中をたしなめる。
「そうだった。ゴメン立花。でも会いたかったなあ、天女に……」
 田中は肩を落としながら溜息をついた。「雪の羽衣をまとって……」
「俺も、好きだったのに」
 波瀬もがっくりと肩を落とした。
「お前ら、もうよせ! 酔ってきたな」
 古賀は二人を一喝した。
 そのやり取りを無言で聞いていた公子が、声を震わせ泣き始めた。
「まったく、仕様がねえ奴らめ!」
 古賀は舌打ちして首を何度も横に振る。
「ごめんなさい……」
「分かったから、もういいだろう。久しぶりに会えたのに、今日は楽しもうぜ」
「そうよね。ゴメンね、健ちゃん、飲もう」
 公子は笑顔をつくると、ビールビンを両手で持ち、健祐の前に差し出した。
 健祐もそれに応え、グラスを傾けるのだった。
 それにしても章乃母娘が戻って来たことを、なぜ公子は知らせてくれなかったのか。喉まで出かかったが呑み込んだ。最早そんな些細なことなどどうでもいい。章乃は健祐の直ぐ傍にいるのだから。

   *

 健祐は校門を出て、緩やかな坂を下り切ったところで皆に別れを告げた。健祐と古賀と公子の三人がその場に残った。
「健ちゃん、たまには連絡ちょうだいね。私もまた連絡するからね」
「そうだぞ、顔見せに来いよ」
「ああ、ありがとう」
 健祐は二人と交互に手を取り合った。
「いつ戻るの?」
「明日の夕方には……」
「そうか、見送りはできんが、無理せず、しっかりやれよ」
 殆ど感情の起伏を見せない古賀が語気を強めた。「疲れたら、いつでも帰って来い。ここがお前の古里なんだぞ、いいな」
「健ちゃんに会えて本当によかったわ。また近いうちに会いましょうね」
「そうだね、近いうちにね」
「きっとよ」
「ああ、きっと」
「じゃあ、俺たちは行くが、気をつけて帰れよ」
「健ちゃん、名残惜しいけど……元気でね」
「キミちゃんもね。また必ず帰るよ」
「うん」
 古賀は公子の肩に軽く手を添え、「行こう」と促すと、健祐に手を振りながら公子を従えて、街灯の薄明かりの下を歩き出した。
 二人の後姿を見送っていると、突然公子が健祐の元へ駆け寄った。
「健ちゃん……あのね……アヤちゃんのこと……ごめんなさい……」
 公子は歯切れの悪い口調でまた涙ぐんだ。
「なに? キミちゃんに謝られることなんて、なにもないじゃないか」
 まだ何か言いたげな顔で、公子はしばらく健祐を見つめ続ける。健祐も微笑んで優しい眼差しを送った。
「……元気でね」
 公子は両の掌で涙を拭うと、ひとことだけつけ足して小走りに古賀を追いかけた。
 途中二人は、別れを惜しむように、何度も健祐を振り返った。
 二人の後姿を見えなくなるまで見送った。二人が去ったあとも宴の余韻に浸りながらその場に留まり続け、ようやく逆方向へ足を向けると天を仰いだ。いつしか、雲間から、星の瞬きが零れていた。風が次第に雲を散らしている。
「今夜は冷え込みそうだ」
 独りごちながら、ゆっくりとホテルへの道のりを辿った。
 今日は来てよかった。しみじみとそう思った。やはり古里の仲間たちとの語らいは楽しく、久しぶりに心から笑ったような気がする。当然それだけではない。章乃との再会のときが刻々と迫っていたせいもある。だから余計に心躍ったのだ。
 ふと、さっき耳にした旧友の言葉を思い出した。
 天女。雪の羽衣。
 ──なんのことだ?
 健祐には皆目見当もつかなかった。が、そんなことなどどうでもいい。それより、明日、章乃の家を訪問する。そのことで健祐の頭はいっぱいになった。余計なことを考える余裕はない。章乃に会えるかもしれない。そう思っただけで、全身が熱くなるのを覚える。
 晩秋の夜風が体を貫こうとも、健祐は真っ直ぐ前を向いて大地を踏みしめながら歩くのだった。

   *

 ホテルに戻ると、文はロビーのソファに座って雑誌を読んでいた。
 健祐は足音を忍ばせながら文の正面のソファに静かに腰を下ろした。文は俯いて居眠りをしている。
 穏やかな寝息を立てる文をしばらく見ていたら、ようやく浅い眠りから目覚め、口を右手の甲で隠しながら欠伸をした。目前の健祐に気づいて睨む。
「いつから、そこに?」
「たった今」
「レディの寝姿を覗くなんて、いやらしい!」
 文は健祐にアカンベーをして見せた。
「美人秘書さん、寝るなら部屋に戻った方がいいですよ」
「そうね、美人が台無しだわ。こんな姿、覗かれるなんて」
「おやおや、自惚れが強い秘書さんだこと」
「もう! なんとでも言えばいいわ」
 文はもう一度睨み返した。
「怖い怖い、この美人秘書さんは」
 文は一度そっぽを向いて健祐の方に向き直ると、脚に肘を乗せ、両手で頬杖を突いた。
「それより、同窓会、どうだった? 楽しかった?」
「ああ、来てよかったよ」
「そう、よかったわね」
「ありがとう、フミちゃん……」
「私、お礼言われる筋合いはないと思うけど……まあ、折角だからありがたく頂戴しておきましょう」
 お互い顔を見合わせて笑った。
「そろそろ部屋に戻ろうか。風邪ひくよ、こんな所でうたた寝なんて」
「そうね、そうしましょう。明日は早いから。ご一緒しますんで」
「どこに?」
「決まってるでしょ。とぼけちゃって。私も見届ける義務、あるもの」
「そんな義務は……ないと思うけどなあ」
「いいの。どんな女性か、会ってみたいわ」
「仕方ないなあ」
「決まり!」 
 文は立ち上がり腰に手を当てると、人差し指で健祐を部屋に促した。「さあ、早く寝なさい。明日は早いですよ」
「はいはい、美人秘書さんの言いつけは絶対だからね」
 二人はロビーでの(いさか)いをおさめると、それぞれの部屋に戻って行った。