「部活終わりにドーナツ」から1か月ほどたった。相変わらず5時起きの朝練は続いているし、週に一回くらい、全員とはいかなくても部活の同期でドーナツやらラーメンやらを食べて帰る「青春」が続いていた。
 何度も楽しく、抹茶チョコチップを食べたおかげで、緑色も克服した。24色ボールペンには、黄緑と緑が戻ってきて、あとは青緑だけが家の机の奥にしまいこんであるだけとなった。

 青緑が使えなくて、恐怖を感じて困るのは、自分の名前を書いたり言ったらするときくらいだった。テストが終わってからというもの、実は名前が書けないということで困ることは、ほとんどなかったら。そもそも名前を書く機会が少ないし、提出物や小テストも、名前をひらがなにして誤魔化しても、特に怒られることはなかった。
 そんな私に「名前」という難関、夏休みのアルバイト届けがやってきた。
 うちの高校の1年生は夏休みからアルバイトが許可されている。最初はするつもりがなかったが、部活終わりのドーナツ代を稼ぎたいのと、これから何度かある遠征費の足しにしようと、近くの本屋でのアルバイトを考えていた。でも、無許可でやるわけにはいかない。最初に学校に「アルバイト届」を出さなければいけない。これは校内だけとはいえ正式な書類になるらしく、ボールペンを使ってもちろんフルネーム漢字があるなら漢字で名前を書かなければいけない。
 提出期間は1週間後に迫っていた。それまでに名前を書き切ることはできるのだろうか。

 「ねえ、ボール!」
 「あ、ごめん!!」
 アルバイト届けのことで頭がいっぱいになると、ついつい上の空になってしまう。こんなときにボールが飛んできたら、その先起こることはわかっているはずなのに。紫音くんとの朝練でも上の空になってしまっていた。
 「どこか体調でも悪い?」
 「いや、ちょっと考え事してて。」
 「考え事って、例の?」
 「うん。アルバイト届けに名前書かないといけなくて。紫音くんのおかげで、黄緑も緑も克服したんだけど、まだ名前は、青緑は怖いんだよね。」
 「そっか。」
 紫音くんはいつもの赤い元気な声でなく、少し曇ったオレンジに近い朱色のような声でポツリとこぼした。ボールを弾ませる音もいつもより小さくその場に止まっている。

 「ねえ。」
 「なに?」
 紫音くんはドリブルをやめて、ボールを手に持った。
 「翠鳥!」
 名前を呼ばれて、ドキッとした。いつもは「若森さん」なのに。急に下の名前、しかも呼び捨て。
 喉の奥が熱くなり、胸の鼓動がつま先からフロアを伝って紫音くんまで届いてしまいそうだ。
 「いま、どう感じた?」
 「え? どうって…。」
 「怖かった? あのときみたいに。」
 改めて自分の頭の中をのぞいてみると、ドキドキはしたけど、怖いとは思わなかった。ちょっと恥ずかしい、でも嬉しい、複雑な気持ち。
 「僕の声で『翠鳥』って呼ばれて、それが素敵に聞こえていないなら、ちょっと悲しいな。」
 「え!?」
 「だから、そういうこと! ずっと名前で呼びたかったけど、怖い思いさせたら嫌だなって思って。でも、色々告白してきて、そろそろいいんじゃないかって思ってたところだったんだ。で、どう? やっぱり、まだ怖かったかな?」
 突然の告白に、頭の中が真っ白になる。なんと答えたらいいんだろう? 私は紫音くんをどう思っているんだろう? 全部全部、わからなくなるくらい、私の頭は無になってしまっていた。
 「若森、翠鳥。本当にいい名前だ。さわやかで、優しくて、一生懸命な、翠鳥にぴったりな名前だよ。もう、あの怖い連中と一緒にしないで欲しい。僕と、新しい翠鳥の色を見つけていけないかな?」

 「うん。」
 しばらくの沈黙の後に絞り出すと、紫音くんはとびきりの笑顔でこちらに駆け寄ってきた。
 「もう、怖くない。むしろ嬉しい。紫音くんに呼ばれると、素敵に聞こえるよ。」
 「じゃあ…。」
 「まだまだ紫音くんと、私の新しい色、見つけていきたいな。」
 「よっしゃー!!! ありがとう!!!」
 紫音くんはボールを投げ出して、私の両手を力強く握ってくれた。あたたかくて、やさしくて、やわらかい、幸せな手をしていた。

 家に帰って、机の奥にしまってあった青緑のボールペンの芯を引っ張り出した。インクはまだほとんど使っていない。
 青緑をまじまじと見ても、もう怖い記憶はよみがえらなかった。ふと心に浮かぶのは紫音くんが呼ぶ「翠鳥」の声。この気持ちを思い起こさせる私の名前にはもう名前のついている色は見えなかった。
 カバンから筆入れを取り出し、1色かけたボールペンを取り出す。そこに入れるのは、いままで入っていた青緑ではなく、使い終わった色のでない赤だった。
 その「赤」で自分の名前を書いてみる。

 「若森翠鳥」。

 やっぱり緑に近い色に見えるけど、いままでよりグッとずっと、素敵な色が私の中には見えていた。