朝8時20分。
 学校につくと私の後ろの席には青いリュックだけが無造作に投げ出されていた。まだ朝SHRまでは時間があるが、どうしたのだろうか。間も無くして呼吸浅く、戸を勢いよく開ける音がした。
 「よ、おはよう!」
 「おはよう。」
 腕まくりをして額に汗をにじませている赤木くんが元気に挨拶してくるのに対し、私はいたって冷静を貫こうとしている。
 「どうしたの? 朝からリュック放り出して。」
 「ああ、朝練してたんだよ。まあ、練習っていっても制服のままだから、そこまで本気じゃないけどね。」
 「そうなんだ。」
 うちの部活で朝練をしている人はまずいない。本当にバスケが好きな人なのだと思う。額の汗をぬぐうのは白地に赤い線が入った、いかにも赤木くんらしい色のタオルハンカチで、そうしながらバスケの話をする赤木くんは本当にキラキラとした赤い笑顔を見せていた。
 「そうだ! やっぱ練習の時はマネージャーいた方がいいから、明日の朝も来てくれない?」
 「え! まあ、『マネージャー』だからね。まだバスケのこと何もわかってないけど。」
 「じゃあよろしく! 7時に体育館ね!」
 「しちじ!!!」

 翌日。
 7時に体育館に行くため、私は生活スタイルをガラリと変えなければならなかった。
 6時に起きていては、間に合わない。起きるのは5時だ。朝が苦手なのに、こんなに早起きをするなんて、お弁当を作っていた母にギョッとされてしまった。
 7時半のバスでは手遅れ。だから6時半の始発バスで学校に向かう。いつものバスだと様々な高校に向かう学生で満員で、まず座れることはない。色とりどりの制服、カバン、そしてキラキラした高校生活にクラクラするのも日常だった。始発のバスは同じ路線とは思えないくらい落ち着いた空気をしている。色で例えると、ラメ入りの虹色から艶消しの深緑に変わったくらい違う。
 乗客はまばらで私が座ってカバンを隣の座席に置いても余裕があるくらい空いている。乗っている客層も違い、高校生は遠くの高校と思われる制服の手で数える程度で、多くはスーツのようなパリッとした服を着た社会人だ。開いているのはスマホの明るい画面ではなく、やさしい白さの文庫本。そう言う落ち着いた雰囲気が肩の強張りをすっと落としていく。
 学校に着いたのは約束の10分前だった。いつものバスなら40分くらいかかる道を半分の時間できたことになる。乗客が少ないとここまで時短になるのかと驚いたものだ。赤木くんには「始発のバスでも間に合うかわからない」と伝えてあったが、その心配はなさそうだった。赤木くんのように教室にカバンを置き、体育館へ向かう。教室にはすでに赤木くんの青いリュックが投げ出されていた。

 「おはよ!」
 「おは…。」
 体育館にいるのは、赤木くん一人だ。Yシャツ一枚で、奥のほうでボールを持ってシュート練習をしている。そして私と赤木くんの間にあるのは、緑色の光だった。あの、階段での記憶がよみがえりそうになる。
 「気持ちいいでしょ?」
 「え?」
 「この空気だよ。東京ではこんな緑あふれる学校じゃなかったから。この気持ちいい朝を一緒に感じたかったのもあるんだ。」
 「緑、ね…。」
 赤木くんは私のウィークポイントを忘れているのだろうか? 今の私に「緑が気持ちいい」だなんて、意地悪がしたいのだろうか? しばらくあの記憶がよみがえりそうで、その場に立ち尽くしてしまう。そんなことはお構いなしに、赤木くんは次々とシュートを決めていく。
 しばらく立ち尽くしていると、この緑はあの怖い緑とは違うことがわかってきた。まず、この緑はどちらかというと黄緑色だ。そしてペンキのようなジャージの緑と違い、透明感があるゼリーのような美味しそうな色をしている。メロンの甘い匂いまで感じられるようだ。
 そして奥にはバスケを純粋に楽しむ、キラキラした赤紫の赤木くん。その光景は決して怖いものではなく、穏やかで、楽しくて、爽やかな、そんな朝の景色だった。
 「こっち来て! ボール出し頼む!」
 キラキラとした笑顔で赤木くんに呼ばれる。そうだ、私はボール出しをするためにこんなに早く学校に来たのだ。
 「うん!」
 私は緑の光の中に飛び込んだ。緑の背景に立っている赤紫の赤木くんの元に走って行った。