号砲が鳴り、スターティングブロックを強く蹴りつける音とともに力を溜めたバネを弾くように兄貴の体が飛び出していく。
 地方大会まであと一週間、調整に取り組む兄貴の状態は順調そうだった。相変わらず俺は筋トレを軸とした体づくりメニューが中心でトラックの内側から短距離の練習の様子をずっと見ていた。こんな風に兄貴が走るのをじっと見るのは久しぶりかもしれない。
「動き止まってるよ」
 急に背後から声が聞こえてきて慌てて振り返ると、ドリンク片手に朱音が小さく笑ってこっちを見ていた。
「朱音っ!?」
「どうしたのさ。ずっとぼうっとしてるじゃん」
「そんなことない。ってかいいのかよ、俺と話したりして」
 朱音は今兄貴と付き合っているはずで、兄貴の練習中に朱音と話すのは何か抜け駆けみたいで悪い気がした。けれど、朱音は一瞬キョトンと目を見開いてからくつくつと笑いだす。
「智也さんがそれくらいで疑ったり怒ったりする人じゃないって、海人が一番わかってるでしょ」
 朱音が眩しそうに兄貴の方を見る。俺と付き合ってた時、朱音はこんな顔をしたことはあっただろうか。あまり思い出せない。付き合ってた頃も朱音の顔もちゃんと見てこなかったかもしれない。
 それに比べてお似合いだとは思うのに、朱音の兄貴の呼び方が変わっていることに気づいて胸の奥がヒリヒリした。付き合い始めてからもこれまでは先輩呼びだったはずで、もしかしたらこの前の県総体で何か関係に変化があったのかも。
「兄貴がどうとか、わかんないんだよ。最近も全然話してないし」
 練習に参加してない間は気まずくて家でも顔を合わせないようにしていた。最近はそこまででもなくなったけど、必要以上の会話はしていなかった。兄貴と話すのが嫌とかではなくて、ただ今更何を話せばいいのかわからなくなってしまっていた。
「越えたいなら、まずは向き合わないと」
 ポンっと朱音の手が肩に触れる。
「それが簡単にできたら苦労しないって」
「そうだね。大変だった」
 朱音の言葉に息を呑む。県総体の前日、朱音は俺に会いに来て朱音の中の問題に蹴りをつけた。多分それは朱音にとってとても勇気がいることだったはずで。それを乗り越えて朱音は結果を出した。そんな朱音の言葉はズシリと重かった。やるべきことはわかってるのに、踏み出す足がとてつもなく重い。
「俺のことなんかより、朱音は調子どうなんだよ」
 結局、その話を続けたくなくて話題を変える。朱音はちょっと何か言いたそうな顔だったけど、一つ息を吐くと切り替えたように表情を崩した。
「順調。もしかしたら海人より一足先にインハイまで行けちゃうかもね」
 朱音にしては強気の言葉だった。タイムだけで見ればまだ朱音は地方大会を越えるのは厳しくて、それはもちろん朱音もわかっているはずだ。だけど、朱音の笑顔を見てるともしかしたらと思わされてしまう。
「頑張れよ。今度も応援してるからさ」
 県総体の時は力が入り過ぎて後で怒られたけど、「最後に力貰った」とも言ってもらっていた。今の俺が朱音にできるのはそうやって背中を押すことくらいだろう。
「応援はいらない」
 だけど、朱音ははっきりと首を横に振った。
「待ってるから」
「待ってる?」
「海人と同じ舞台に立てる日が来るの」
 朱音はそう言ってふわりと笑うと、ちょうど練習を終えたらしい兄貴の方にドリンクを持って走っていった。その背中をずっと視線で追いかけてしまう。こうやって朱音の姿を追ってしまうようになったのはいつからだろう。
 初めは“フリ”から始めた付き合いだったけど、いつの間にか陸上に向き合う姿勢とか、絶対諦めないところとかに惹かれていった。恋愛と陸上のバランスとか、朱音とは色々噛み合っていて何をしても上手くいく気がして、俺はそんな感覚にずっと甘えていたのかもしれない。
 その時、頭の上にボスっと何かが置かれた。氷水の入った氷嚢だった。
「逃がした魚は大きいって顔してる」
 氷嚢よりも冷めた声が頭の上から降ってきた。声の主の沙良がどんな顔をしているかは振り向かなくても想像がついた。
「勝手なこと言うなって」
 氷嚢を手に取りながら振り返ると、やっぱり沙良は呆れ切った表情で俺を見下ろしていた。沙良は表情を変えずに俺の隣に腰掛ける。この前より少し距離が近い気がした。
「一度フラれて、もう一度手を伸ばそうなんて考えないし」
「惚れた腫れたは興味ないって言ったでしょ」
「じゃあ何でそんなにイライラしてんだよ」
「別にイライラもしてないし」
 今度は頬のところにぐにっと氷嚢を押し付けられた。っていうか、いくつ氷嚢持ってるんだよ。言葉とは裏腹にやっぱり沙良の表情はムッとしている気がするけど、その理由がわからない。
 そんな俺の様子を察したのか、沙良は深々とため息をついた。その視線は俺の方ではなく兄貴と話す朱音を見ている。
「そうね。イライラしてるかも」
「……何にだよ」
 もう一回頬に氷嚢が押し付けられる。
「走りは豪快なくせに、いつまでもウジウジしてるアンタに」
 どすりと突き刺さってくる言葉だった。わかってる、と答えようとしても声にならなかった。わかってる。わかってるはずだけど、気まずいから、何を話せばいいのかわからないからと逃げ続けることは本当にわかってると言っていいんだろうか。
「朱音は自分に決着をつけて、あの場所にいる」
 沙良は氷嚢を荒っぽく俺の右膝の上に乗せると立ち上がる。それは俺が春先に怪我した場所だった。
「アンタはどうなの。天野先輩と大友君よりもまず先に勝つべき相手がいるんじゃない?」
 沙良はそれだけ言い残すとそのまま走ってダウンに向かってしまった。取り残された氷嚢を膝にぐっと押し当ててみる。今は何ともない膝の部分がかつての傷を思い出したかのようにズキズキと痛んだ。小さく目を閉じて開くと、視界に入ってくるのは笑いながら話す兄貴と朱音の姿。
 ああもう、本当に。お前は発破かけるのが上手いよ。