「起きろっ!」
「痛っ!」
頭の上に何かが降ってきて飛び起きる。落ちてきたのはアイシングなどに使う水や氷が入った氷嚢だった。顔を上げると呆れ顔の沙良が俺を見下ろしていた。臙脂色のユニフォーム姿でまだ少し呼吸を整えているところを見ると練習を終えた直後かもしれない。
「アンタは寝てる場合じゃないでしょ」
「ちょっと休憩してただけだって」
本気で寝てたわけではない。ちょっと一年程前のことを思い出していただけだ。その部分は口にせずに沙良と向き合うと、沙良はやれやれといった調子でため息をつく。
「そんなんじゃ天野先輩との差、開く一方になるよ」
沙良のハッキリとした言葉に口を紡ぐしかなかった。
二週間前の県総体、兄貴――天野智也――は100mで優勝し、リレーでも県内2位に入り地方大会に進んだ。その結果はそんなに驚くものではなかったけど、タイムは俺の想定よりはるかに速かった。特にリレーは俺なしでチームベストを叩きだしていて、驚きと悔しさがグチャグチャになった。自分の中にまだそんな気持ちが残っているのかと自分でも意外だったけど。
「せっかく戻ってきたのに」
「戻ってきたというか、引きずり戻されたというか」
春先に怪我をしてからずっと陸上と距離を置いていたけど、その県総体で朱音の応援に行った。朱音が地方大会に進めたのはよかったけど、応援に熱が入り過ぎてチームメイトに見つかって監督の前に引っ張り出されてしこたま説教された。もう一度練習に来ることを約束させられて、実際に3ヶ月ぶりくらいに練習を再開した。
兄貴たちに対する驚きと悔しさと、それから朱音の走りを見て火がついてしまっていた。走りたいと身体が疼き、それまで距離を置いていたことが嘘のように競技場に戻ってきた。といっても、「怪我せず走れる身体を作り直せ」という監督の言葉に従って基礎的なトレーニング中心だからまだほとんど走れてないけど。
「っていうかさ、あれっていつもなの?」
競技場の一角を指さす。地方大会に向けて別メニューを終えた兄貴と朱音がジョギングをしながら色々と話していた。どうせ陸上色たっぷりで色気のない話をしているんだろうけど、遠目で見ても息が合っていて、改めて二人が付き合っているという現実を見せつけられる。
「何、妬いてんの?」
「そんなんじゃねえよ」
妬くも何も朱音とはもう別れていて、今は兄貴と付き合っているのだ。そもそもそんな資格なんてない。
どさりと隣に沙良が腰掛けた。陸上部の中では長めに伸びた髪が風に揺られて腕のあたりに僅かに触れる。
「いつもだけど、お似合いすぎて誰も何も言わない。二人とも真面目に練習してて、結果も出したからなおさらね」
沙良の口調には少しだけ含みがあった。朱音が結果を出したのは県総体の時で、それまでの練習ではずっと沙良に負けていた。その朱音に発破をかけたのが沙良だったらしい。
「お前さ、余計なことしたとかって思わねえの?」
朱音がいなければ、地方大会に進んでいたのは沙良だったかもしれない。
沙良がしたことは客観的に見れば沙良にとって悪い方向に転んだはずだ。だけど沙良は俺の顔をまじまじと見た後、思いっきり吹き出した。
「ないない。朱音が調子悪いままでも私は地方大会には行けてないだろうし、長距離はこれから駅伝だもん。惚れた腫れたなんかでウジウジされてる方が困ったし」
沙良の言葉は耳が痛かった。練習に来なかった直接の原因は怪我だけど、怪我の原因とか怪我している間ずっと競技場と距離を置いていた理由はまさしくそれだ。
「アンタこそ頑張りなさいよ。せっかく冬までキャプテン候補だったのに、今じゃ大友君がキャプテン候補になってる」
沙良の言葉に別メニュー組を見ると、短距離の輪の中心で笑う大友の姿が見えた。同級生の大友は兄貴を慕ってうちの高校に入ってきて、練習中は兄貴の弟子の様について回ってる。
だからかわからないけど兄貴がキャプテンになってから大友はメキメキと実力をつけて、県総体では200mで地方大会に進出して、リレーでは四走を務めた。それまでは俺が走っていた走順だった。キャプテンがどうとかよりそっちを思い出してまた悔しさが小さく吹き出してきた。
「別にキャプテンなんか興味ない」
俺がキャプテンになったとしても、兄貴みたいに上手くまとめていける自信はない。大友がそれをやってくれるというのなら、俺はそれでも構わない。
だけど、走ることでだけは絶対に負けたくない。一度捨てようとしたものを手に取ってみると、眩しい物も暗い物も次から次に溢れてくる。前を走らせたくないだけじゃない、隣を走ることすら許さずに置き去りにしたかった。そうやってずっとずっと走ってきたから。
「沙良」
「ん?」
「お前、ホント発破かけるの上手いのな」
不思議そうな顔をしている沙良を傍目に残る筋トレメニューに取り掛かる。
負けたくない。そんな気持ち、これまで兄貴にしか抱いてこなかったのに。今はただ、その思いを全部腹筋に込めた。
「痛っ!」
頭の上に何かが降ってきて飛び起きる。落ちてきたのはアイシングなどに使う水や氷が入った氷嚢だった。顔を上げると呆れ顔の沙良が俺を見下ろしていた。臙脂色のユニフォーム姿でまだ少し呼吸を整えているところを見ると練習を終えた直後かもしれない。
「アンタは寝てる場合じゃないでしょ」
「ちょっと休憩してただけだって」
本気で寝てたわけではない。ちょっと一年程前のことを思い出していただけだ。その部分は口にせずに沙良と向き合うと、沙良はやれやれといった調子でため息をつく。
「そんなんじゃ天野先輩との差、開く一方になるよ」
沙良のハッキリとした言葉に口を紡ぐしかなかった。
二週間前の県総体、兄貴――天野智也――は100mで優勝し、リレーでも県内2位に入り地方大会に進んだ。その結果はそんなに驚くものではなかったけど、タイムは俺の想定よりはるかに速かった。特にリレーは俺なしでチームベストを叩きだしていて、驚きと悔しさがグチャグチャになった。自分の中にまだそんな気持ちが残っているのかと自分でも意外だったけど。
「せっかく戻ってきたのに」
「戻ってきたというか、引きずり戻されたというか」
春先に怪我をしてからずっと陸上と距離を置いていたけど、その県総体で朱音の応援に行った。朱音が地方大会に進めたのはよかったけど、応援に熱が入り過ぎてチームメイトに見つかって監督の前に引っ張り出されてしこたま説教された。もう一度練習に来ることを約束させられて、実際に3ヶ月ぶりくらいに練習を再開した。
兄貴たちに対する驚きと悔しさと、それから朱音の走りを見て火がついてしまっていた。走りたいと身体が疼き、それまで距離を置いていたことが嘘のように競技場に戻ってきた。といっても、「怪我せず走れる身体を作り直せ」という監督の言葉に従って基礎的なトレーニング中心だからまだほとんど走れてないけど。
「っていうかさ、あれっていつもなの?」
競技場の一角を指さす。地方大会に向けて別メニューを終えた兄貴と朱音がジョギングをしながら色々と話していた。どうせ陸上色たっぷりで色気のない話をしているんだろうけど、遠目で見ても息が合っていて、改めて二人が付き合っているという現実を見せつけられる。
「何、妬いてんの?」
「そんなんじゃねえよ」
妬くも何も朱音とはもう別れていて、今は兄貴と付き合っているのだ。そもそもそんな資格なんてない。
どさりと隣に沙良が腰掛けた。陸上部の中では長めに伸びた髪が風に揺られて腕のあたりに僅かに触れる。
「いつもだけど、お似合いすぎて誰も何も言わない。二人とも真面目に練習してて、結果も出したからなおさらね」
沙良の口調には少しだけ含みがあった。朱音が結果を出したのは県総体の時で、それまでの練習ではずっと沙良に負けていた。その朱音に発破をかけたのが沙良だったらしい。
「お前さ、余計なことしたとかって思わねえの?」
朱音がいなければ、地方大会に進んでいたのは沙良だったかもしれない。
沙良がしたことは客観的に見れば沙良にとって悪い方向に転んだはずだ。だけど沙良は俺の顔をまじまじと見た後、思いっきり吹き出した。
「ないない。朱音が調子悪いままでも私は地方大会には行けてないだろうし、長距離はこれから駅伝だもん。惚れた腫れたなんかでウジウジされてる方が困ったし」
沙良の言葉は耳が痛かった。練習に来なかった直接の原因は怪我だけど、怪我の原因とか怪我している間ずっと競技場と距離を置いていた理由はまさしくそれだ。
「アンタこそ頑張りなさいよ。せっかく冬までキャプテン候補だったのに、今じゃ大友君がキャプテン候補になってる」
沙良の言葉に別メニュー組を見ると、短距離の輪の中心で笑う大友の姿が見えた。同級生の大友は兄貴を慕ってうちの高校に入ってきて、練習中は兄貴の弟子の様について回ってる。
だからかわからないけど兄貴がキャプテンになってから大友はメキメキと実力をつけて、県総体では200mで地方大会に進出して、リレーでは四走を務めた。それまでは俺が走っていた走順だった。キャプテンがどうとかよりそっちを思い出してまた悔しさが小さく吹き出してきた。
「別にキャプテンなんか興味ない」
俺がキャプテンになったとしても、兄貴みたいに上手くまとめていける自信はない。大友がそれをやってくれるというのなら、俺はそれでも構わない。
だけど、走ることでだけは絶対に負けたくない。一度捨てようとしたものを手に取ってみると、眩しい物も暗い物も次から次に溢れてくる。前を走らせたくないだけじゃない、隣を走ることすら許さずに置き去りにしたかった。そうやってずっとずっと走ってきたから。
「沙良」
「ん?」
「お前、ホント発破かけるの上手いのな」
不思議そうな顔をしている沙良を傍目に残る筋トレメニューに取り掛かる。
負けたくない。そんな気持ち、これまで兄貴にしか抱いてこなかったのに。今はただ、その思いを全部腹筋に込めた。