6月初旬、県大会三日目は痛いくらいの快晴だった。16時過ぎでも微かに暑さが残っている。
「朱音、リラックスしてこう。冬期練の時と同じように走れれば勝負できる」
3,000mのレース直前、智也先輩は私にそう声をかけて大きく笑った。智也先輩は昨日のレースで100mの個人とリレーで地方大会進出を決めている。続きたい、と思うけどうまく言葉にならなくて智也先輩の言葉にただ頷いた。
緊張していた。5月の終わりごろから少しずつ調子は上がっていたけど、練習の中では沙良に勝つことは出来ないままでいた。女子の3,000mは24人1組だけで行われ、順位のいい6人が地方大会に進めるというシンプルなレースだ。一校あたり最大三人の選手がエントリーしていて、うちの県の女子は強豪校と呼べる高校が二校ある。つまり、強豪校の中に割って入らなければ地方大会に進出できない。出場者の持ちタイムや実績で考えれば、今の沙良でギリギリ入れるかどうか。沙良に負けるようならとても届かないだろう。
係員に呼ばれてスタートラインに並ぶ。昨日の智也先輩のレースの時も海人は姿を見せなかった。今更行けないと自分でも言っていたしわかっていたことだけど、思わずスタンドにその姿を探してしまって、首を振る。今は余計なことは考えない。
「on your mark」
最後に小さく息を吸う。騒めいていた会場がしんと静まり、世界が止まる。
パンっという号砲が響き、再び世界が動き出す。思い切って前に飛び出したつもりだったけど、前に9人程人がいる。強豪校は二校とも紫系の色のユニフォーム。その中に混ざりこまなければ地方大会には進めない。
最初からレースのテンポが速い。先頭集団は10人くらいの塊で最初の一周を通過し、後ろとの距離を離していく。ここで振り落とされれば勝負にもならない。集団の後ろの方で懸命に食らいつく。
「朱音ー、沙良ー、ファイトー!」
ホームスタンドの一番ゴールに近い位置から智也先輩の声が響く。沙良は私の二つ前を走っていた。沙良の本音を聞いたあの日から、沙良とは練習の度に色々話しながらここまでやってきた。沙良は私以上に上り調子だし、もしかしたら地方大会に進めるかもしれないという予感もある。
だけど、負けたくない。どちらが地方に進めるかとかじゃなくて、ただ負けたくない。
「負けるなっ、ファイト!」
智也先輩の応援を背中に受けながら前を追う。3周半、ほぼ半分は知ってきてジリジリと我慢の展開が続く。少しずつ疲労の気配が出てきて、このままじゃ勝てないという焦りが募っていく。
肺も脚も段々と苦しくなっていく。もう一周どうにか堪えるけど、徐々に集団から置いていかれそうになる。じわじわと距離が開いていく。
「朱音ッ!」
応援で沸く競技場内で、私の名前を呼ぶ声がハッキリと聞こえた。ゴールとは反対側のスタンドから響いてきた声。スタンドの方は見なかったけど、それが誰の声かはわかった。
「抜けっ! 朱音っ!」
兄のレースでも姿を見せなかった海人の声が響く。
バカっ。バカだ。
なんで今日になって応援に来て、みんなに気づかれるくらい大声張り上げてるんだっていうのもそうだし、一番苦しいところで前を抜けって言うのも意味が分からない。
だけど、そんな応援が耳に届いてバカみたいに力が沸いてきた。
踏み出せっ。自分に命じて疲れが見えてきた足を懸命に前に出す。まず一人を抜いて、更にその前にいた沙良の隣に並び――前に出る。
前には6人。紫色のユニフォームが並んで走っている。
肺も脚もいっぱいいっぱいなはずなのに、身体の内側からエネルギーが溢れてくる不思議な感じ。
ホームストレートを通過して鐘が鳴り響く。ラスト一周。前の6人がスパートをかけて一瞬引き離されかける。
「朱音!」
智也先輩の声に背中を押されて、食らいつく。もう後ろは気にしない。ただ前を追う。
残り200m。前の選手まであと一歩、その距離が詰まらない。あともう少しなのに。
まるで間に高い壁がそびえ立っているかのように、追い付けない。
「朱音ーっ!」
歓声の中で海人の声がハッキリと聞こえてきた。スタンドから海人がブンブンと腕を振っている。そんなに目立つ応援したら他のチームメイトにバレるとかは一切気にしてないらしい。海人らしいといえば、海人らしいのかもしれないけど。後で怒られるんだろうな、なんて場違いな思いが一瞬だけ浮かんだ。
「朱音ッ! させっ!」
「なんで、そんな応援……っ!」
海人の声で藻掻くようにばらつきかけた体がまとまる。風と一つになるような感覚。
一つ息を吐き出して前を向く。とっくに限界を迎えていると思ったのに、体がグイグイと加速する。紫色のユニフォームの中に飛び込んでいく。
あと100m、そこで並ぶ。前へ、前へ、前へ――
ゴールに飛び込んでも自分の順位はわからなかった。
出せる全部を出し尽くしてトラックの脇に倒れ込む。肺も脚も限界だった。視界の端にスタンドからこっちに向かって駆け下りてくる智也先輩の姿が見えた。ああ、心配かけてるかなあ。まだしばらく倒れ込んだまま空を仰いでいたかったけど、どうにか体を起こす。
「朱音、やったじゃん! 地方行けるよ!」
体を起こしたところで、飛び込んできた沙良にそのままギュッと抱きしめられた。
電光掲示場を見ると、5位のところに私の名前が載っている。すぐには実感がわかなかったけど、最後のスパート勝負に私は競り勝ったらしい。沙良の温もりに包まれて、ずっと堪えてきたものがぶわりと溢れだしてきた。
「ありがとうっ……! 沙良のおかげで、覚悟が決まったから」
「ううん。全部含めて朱音が頑張ったからっ!」
涙声で私を抱きしめる沙良をぐっと抱き返す。
バックストレートのスタンドに目を向けると、滲む視界の向こう側で海人が特大のガッツポーズをこちらに向けていた。
「朱音、リラックスしてこう。冬期練の時と同じように走れれば勝負できる」
3,000mのレース直前、智也先輩は私にそう声をかけて大きく笑った。智也先輩は昨日のレースで100mの個人とリレーで地方大会進出を決めている。続きたい、と思うけどうまく言葉にならなくて智也先輩の言葉にただ頷いた。
緊張していた。5月の終わりごろから少しずつ調子は上がっていたけど、練習の中では沙良に勝つことは出来ないままでいた。女子の3,000mは24人1組だけで行われ、順位のいい6人が地方大会に進めるというシンプルなレースだ。一校あたり最大三人の選手がエントリーしていて、うちの県の女子は強豪校と呼べる高校が二校ある。つまり、強豪校の中に割って入らなければ地方大会に進出できない。出場者の持ちタイムや実績で考えれば、今の沙良でギリギリ入れるかどうか。沙良に負けるようならとても届かないだろう。
係員に呼ばれてスタートラインに並ぶ。昨日の智也先輩のレースの時も海人は姿を見せなかった。今更行けないと自分でも言っていたしわかっていたことだけど、思わずスタンドにその姿を探してしまって、首を振る。今は余計なことは考えない。
「on your mark」
最後に小さく息を吸う。騒めいていた会場がしんと静まり、世界が止まる。
パンっという号砲が響き、再び世界が動き出す。思い切って前に飛び出したつもりだったけど、前に9人程人がいる。強豪校は二校とも紫系の色のユニフォーム。その中に混ざりこまなければ地方大会には進めない。
最初からレースのテンポが速い。先頭集団は10人くらいの塊で最初の一周を通過し、後ろとの距離を離していく。ここで振り落とされれば勝負にもならない。集団の後ろの方で懸命に食らいつく。
「朱音ー、沙良ー、ファイトー!」
ホームスタンドの一番ゴールに近い位置から智也先輩の声が響く。沙良は私の二つ前を走っていた。沙良の本音を聞いたあの日から、沙良とは練習の度に色々話しながらここまでやってきた。沙良は私以上に上り調子だし、もしかしたら地方大会に進めるかもしれないという予感もある。
だけど、負けたくない。どちらが地方に進めるかとかじゃなくて、ただ負けたくない。
「負けるなっ、ファイト!」
智也先輩の応援を背中に受けながら前を追う。3周半、ほぼ半分は知ってきてジリジリと我慢の展開が続く。少しずつ疲労の気配が出てきて、このままじゃ勝てないという焦りが募っていく。
肺も脚も段々と苦しくなっていく。もう一周どうにか堪えるけど、徐々に集団から置いていかれそうになる。じわじわと距離が開いていく。
「朱音ッ!」
応援で沸く競技場内で、私の名前を呼ぶ声がハッキリと聞こえた。ゴールとは反対側のスタンドから響いてきた声。スタンドの方は見なかったけど、それが誰の声かはわかった。
「抜けっ! 朱音っ!」
兄のレースでも姿を見せなかった海人の声が響く。
バカっ。バカだ。
なんで今日になって応援に来て、みんなに気づかれるくらい大声張り上げてるんだっていうのもそうだし、一番苦しいところで前を抜けって言うのも意味が分からない。
だけど、そんな応援が耳に届いてバカみたいに力が沸いてきた。
踏み出せっ。自分に命じて疲れが見えてきた足を懸命に前に出す。まず一人を抜いて、更にその前にいた沙良の隣に並び――前に出る。
前には6人。紫色のユニフォームが並んで走っている。
肺も脚もいっぱいいっぱいなはずなのに、身体の内側からエネルギーが溢れてくる不思議な感じ。
ホームストレートを通過して鐘が鳴り響く。ラスト一周。前の6人がスパートをかけて一瞬引き離されかける。
「朱音!」
智也先輩の声に背中を押されて、食らいつく。もう後ろは気にしない。ただ前を追う。
残り200m。前の選手まであと一歩、その距離が詰まらない。あともう少しなのに。
まるで間に高い壁がそびえ立っているかのように、追い付けない。
「朱音ーっ!」
歓声の中で海人の声がハッキリと聞こえてきた。スタンドから海人がブンブンと腕を振っている。そんなに目立つ応援したら他のチームメイトにバレるとかは一切気にしてないらしい。海人らしいといえば、海人らしいのかもしれないけど。後で怒られるんだろうな、なんて場違いな思いが一瞬だけ浮かんだ。
「朱音ッ! させっ!」
「なんで、そんな応援……っ!」
海人の声で藻掻くようにばらつきかけた体がまとまる。風と一つになるような感覚。
一つ息を吐き出して前を向く。とっくに限界を迎えていると思ったのに、体がグイグイと加速する。紫色のユニフォームの中に飛び込んでいく。
あと100m、そこで並ぶ。前へ、前へ、前へ――
ゴールに飛び込んでも自分の順位はわからなかった。
出せる全部を出し尽くしてトラックの脇に倒れ込む。肺も脚も限界だった。視界の端にスタンドからこっちに向かって駆け下りてくる智也先輩の姿が見えた。ああ、心配かけてるかなあ。まだしばらく倒れ込んだまま空を仰いでいたかったけど、どうにか体を起こす。
「朱音、やったじゃん! 地方行けるよ!」
体を起こしたところで、飛び込んできた沙良にそのままギュッと抱きしめられた。
電光掲示場を見ると、5位のところに私の名前が載っている。すぐには実感がわかなかったけど、最後のスパート勝負に私は競り勝ったらしい。沙良の温もりに包まれて、ずっと堪えてきたものがぶわりと溢れだしてきた。
「ありがとうっ……! 沙良のおかげで、覚悟が決まったから」
「ううん。全部含めて朱音が頑張ったからっ!」
涙声で私を抱きしめる沙良をぐっと抱き返す。
バックストレートのスタンドに目を向けると、滲む視界の向こう側で海人が特大のガッツポーズをこちらに向けていた。