練習を終わった後、智也先輩は監督と打ち合わせに呼ばれていったので先に一人で帰ることにした。5月も中旬になったけど、日が暮れると暑さの気配はすっと引いている。自転車のペダルを蹴ると夜風が火照った体に気持ちよかった。
 風を切る感覚。3,000mを走る時、それは私にとってひたすら前に前に伸びていく風と一体になる感じに身を任せることだった。だけど、最近はそれが無い。春先になり、風と一緒になる感じがなくなってから、思うように走れなくなっていた。
 去年の高校総体は入学した直後ということもあって、校内選考の関係もあり県大会に出ることは出来なかった。だから、今年初挑戦となる県大会に向けて冬期練に取り組んできて、3,000mの県大会の出場枠までは勝ち取った。でも、それでは全然満足してなくて、少なくとも県大会の次の南九州大会までは進みたいと思ってる。そのためには県大会で6位内に入る必要があって、校内で負けている場合じゃない。
 そんなことを考えながらペダルを蹴っていたら、いつの間にか体全体に力が入っていた。だめだ、落ち着こう。息を吐いて足を止めると、すぐ傍の公園からバンバンとボールが跳ねる音が聞こえてきた。確かここってバスケのゴールがあるんだっけ。足を止めたついでにちらりと公園内を覗いてみる。
「えっ、海人っ!?」
 公園内でボール片手にゴールと向き合っているのは同じ陸上部の海人だった。智也先輩に匹敵するほどのスプリンターで、春先に怪我をした“同級生”。
「ん、朱音か。どうしたんだよ、こんなところで」
 私に気づいた海人がぶっきらぼうに片手を上げる。
「どうしたは海人の方でしょ。なんでこんなところでバスケしてんの」
 智也先輩が言ってた通り、怪我をしてたって部活に来ない理由にはならない。実際、今だって海人はボール片手に動き回っていて、全力で走れないとしてもできる練習は色々あるはずなのに。だけど海人は悪びれる様子もなくゴールの方に向き合った。
「兄貴と顔合わせると気まずいんだよ」
 そう言いながら海人はゴールに向かってボールを放つ。ボールはリングに弾かれると私の方に飛んできた。そのボールをそのまま海人の方に投げ渡す。海人は再びゴールに狙いを定めるけど、シュートは打たなかった。
「朱音は? 調子どうなの?」
 海人はシュートの構えのままこちらを見る事無く尋ねてくる。何気なく聞いたつもりだろうけど、その言葉にギリリと胃が痛くなる。
「微妙。まだ調子戻ってない」
 ガンっと再びボールがリングに弾かれる。ボールは私と海人の間くらいに落ちたけど、海人は追わなかった。夜の公園にボールが跳ねる音だけが木霊する。海人はじっと私のことを見ていた。
「なんで」
「なんでって、私が聞きたいくらいだし」
 春先までは順調に調子が伸びていた。それがいつからか足に鎖でも括りつけられたかのように重くなり、上手く走れなくなってしまった。何か明確な理由があるのなら一番聞きたいのは私だった。
――本当に?
 私はただ、目を背けているだけではないだろうか。この胸の奥のザラリとした感覚に足まで縛り付けられていることを。
 海人が私との間に落ちたボールを拾いに来る。街灯に照らされて海人の顔がはっきり見えた。責めるわけでもなくただ真っすぐとした視線が私を見ている。
「朱音は走らなきゃだめだよ」
 ボールを拾い上げた海人がそのままボールを私にパスする。
「俺と朱音は違うんだからさ」
「……違わない」
 受け取ったボールをシュートする気にはなれなくて、そのまま海人に返す。海人は更に私にパスすることは無くて、ゆっくりとドリブルをしながらゴールの方に顔を向けた。
「違うよ。だから、お前は走れ」
 海人の手から放たれたボールは綺麗にリングに吸い込まれた。
 海人がニッと笑って私を見る。
「あとさ、兄貴とは上手くいってる?」
 さっきの質問で胃がギリギリとしたなら、今度の海人の言葉は直接握りしめられたようにギュッと痛んだ。
「うん。智也先輩とはうまくやれてる」
「そっか。兄貴のことよろしく頼むよ。これまでずっと陸上ばっかで女っ気なんてなかったからさ」
 転がってきたボールを拾いながらカラッと笑う海人の顔が、鈍い鋭さをもって胸の奥の方に突き刺さった。