地方大会三日目は、真夏に近い様な快晴と暑さだった。
 会場は県大会と同じ場所だったから、チーム総出で兄貴や朱音の応援に来て、今回は俺も初めから一段の中で応援していた。
 今日は短距離種目がメインでホームストレートに近いサイドスタンドに陣取っての応援だった。大友は準決勝で組内4位となり決勝を逃したけど、兄貴は余裕をもって決勝まで進んでいた。
「うわあ。私のレース、昨日でよかったあ……」
 俺の隣ではジリジリと熱されるトラックを見ながら朱音が眉をひそめていた。朱音のレースは昨日だった。この本番で自己ベストをたたき出したけど順位としては全体の真ん中辺りで本気でインハイを目指すならまだまだ課題の多いレースとなった。だけど、レースが終わって沙良と一緒に涙を流してる姿を見て、どれだけ道が険しくても本気でインハイを目指すんだろうなって思った。
「長距離は走ってる時間長いから大変だよな」
「短距離はあまり暑さとか関係ないの?」
「関係ないってことはないだろうけど……んー、人それぞれじゃないか」
 少なくとも俺はレース中に暑いと思った記憶はない。気象がレースに大きく影響するのは確かだけど、気にするのは気温というよりは。
「むしろ、今日は結構向かい風が強いから兄貴には有利かも」
 兄貴は短距離の中で見比べればそこまで体つきが大きいわけではないけど、向かい風は不思議なほど得意だった。風を受け流すような走りのコツを聞いてみたこともあるけど、本人もよくわかっていないようで困ったように笑うだけだった。
「もうすぐ100mの決勝ね」
 朱音の後ろから声が降ってくる。パタパタと手で顔を仰ぐ沙良の顔は何か言いたげだった。聞かなくても言いたいことはわかる。意志を固めるために小さく息を吸う。
「ちょっと用事思い出した」
 沙良から全部言われる前に立ち上がり、ウォーミングアップ用のサブトラックに向かって走る。屋内の雨天走路もあるけど、兄貴なら多分サブトラックの方にいるはずだ。
 結局、沙良からあれだけ発破をかけられたのに昨日になっても兄貴とまともに話をできないでいた。何を話せばいいかわからなくて、兄貴が俺に気をつかってることもわかって、一歩を踏み出すことができなかった。
 だけど、ここで話さなかったら本当にダメだ。兄貴の結果がどうだったとしても、もう元のようには戻れなくなってしまう。
「兄貴!」
 兄貴は荷物を纏めていて、ちょうどウォームアップを終えたところらしかった。
 声をかけると驚いたように顔を上げて、それからふわりと微笑む。まるで初めから俺が来ることが分かってたみたいだ。
「海人、どうかした?」
「かけっこしよう!」
 色々考えてきたけど、やっと口から出てきたのはそんな言葉だった。
 兄貴が目を丸くして、それから思いっきり吹き出す。
「今から?」
「全部……全部終わったら」
 全部って何だろう。地方大会か、インターハイか。あるいはもっとその先か。
 わからないけど、ただ前みたいに兄貴と単純に走りたかった。適当に引いた線から線までヨーイドンで駆け抜けるシンプルなかけっこを。
 そうしたら本当に、昔みたいにただ速くなりたいって過ごした日々に戻れるんじゃないかって。
「わかった。少し先で待ってるから」
 そう言って笑った兄貴が近づいてくる。久しぶりに間近で見る兄貴は俺が知ってるよりも一回り大きくなっている気がした。この人に勝ちたいってずっとずっと思ってきた。春先、全部に負けてしまった気がして心がバキバキに折れてしまったけど、兄貴はまだそこで待ってくれるらしい。
「のんびり待ってたら一気に追い抜くからなっ」
「うん。楽しみにしてる」
 兄貴の手がぽんと頭の上に乗せられる。小学生の頃、レースで負けて悔しがってる俺を兄貴はいつもそうやって励ましてくれた。俺が速くなるのを楽しみにしてると笑みを浮かべながら。
 そんな兄貴がちょっと口角をあげて含みのある笑みを浮かべた。
「ところでさ。『俺が勝ったら朱音を返せ』みたいなこと言わないよね?」
 今度は俺の方が吹き出してしまう。今から地方大会の決勝だっていうのに、この人は何を言ってるんだろう。いや、そんな相手にかけっこしようなんて言い出す俺も大概か。
 兄貴と朱音が一緒にいるのを練習に顔を出してから何度も見て、もうとっくに整理はつけていた。未だにどうしても視線で追ってしまったり、さっきみたいに隣に座るとちょっと戸惑ってしまったりもするけれど。
「どうだろうな。もたもたしてたらかっぱらうかも」
 だから、あえてその言葉を送る。多分、その方が俺たち兄弟らしいから。
 兄貴が俺の言葉を冗談と受け取ったのか本気にしたのかはわからないけど、顔色を変える事無く俺に背を向ける。
「じゃあ、行ってくるよ。海人」
「兄貴。頑張って」
 兄貴は後ろ姿に手だけを上げて答えた。
 ここ最近ずっと兄貴は競う相手であって、兄貴が走る決勝とかの舞台は俺も一緒に走ることがおおかったから、こうやって正面から応援したのは久しぶりかもしれない。
 兄貴の背中は追わなかった。その代わりにサブトラックのスタート地点に立つ。
 そこから見える景色はどこまでも新しくて眩しい青空だった。ついこの間まで、暗い夜の公園でバスケットボールを握りしめていたはずなのに。



 やがて、競技場の方から100mの決勝の開始を告げるアナウンスが響く。
 その中で兄貴の名前が呼ばれ、歓声が拡がる。そして静寂。

――on your mark

 位置についてというその声に合わせて俺もクラウチングスタートの姿勢をとる。ずっと基礎練習ばかりだったから、久しぶりに走り出すのを前に体がワクワクした。ここからまた始まる。始める。
 競技場で鳴り響く号砲。

 割れるような歓声を傍らに俺は俺のスタートを蹴り出した。