――ラスト1周。
 3,000m走の最後の400mに差し掛かり、足に力を込める。だけど、体に思うようにスピードが乗らない。走っているのにその場でじたばたと藻掻く感じ。スピードに乗れずにいるうちに後ろから沙良がすっと飛ぶように前に出てきてそのままの勢いで駆け抜けていく。
 私と同じ沙良の臙脂色のユニフォームとの距離がグイグイと開いていく。ついこの間までなら考えられなかった景色だった。これ以上離されるわけにはいかない。懸命に足を動かす。けれど、沙良との差は縮まるどころかさらに離れていった。
 結局、50mくらい引き離されたところでゴール。そのままトラックの内側に倒れ込むと肺がぜえぜえと新鮮な求める。指先までピリピリと痺れるような感じ。喘ぐように深呼吸をして息が落ち着いてくると、頭の傍にドリンクがポンと置かれた。
「お疲れ、朱音。先週よりだいぶ調子は戻ってきたんじゃない?」
 先に練習メニューを終えていた短距離の智也(ともや)先輩が穏やかな笑みを浮かべながら私に手を差し出していた。智也先輩の手を借りてグッと体を起こして立ち上がる。
「また沙良に負けました」
 辺りを見渡すと、沙良は既にTシャツを着てトラックに沿ってゆっくりと歩いていた。インターハイに向けた県大会が近づくにつれて沙良は調子をどんどんとあげていた。今日だってあくまで本番を想定した練習だけど、自己ベストじゃないだろうか。
「調子をベストに戻せば、まだ朱音が速いよ」
 智也先輩の言葉はその通りなのだけど、それだけで前を向けるほど楽観的にはなれなかった。先月の記録会、私の数メートル前をゴールした沙良の姿が頭に焼き付いて離れない。
「調子が戻れば、ですね」
 智也先輩は何か言いたそうな顔で私を見るけど、結局何も言わずに歩き出した私の隣に並んだ。穏やかな雰囲気の智也先輩だけど、去年既にインターハイに出場していて県内では早々負けることの無いスプリンターはどっしりとした存在感があって、隣に立つだけで少し圧倒されそうになる。その存在感は陸上部のキャプテンとしてもいかんなく発揮されていて、智也先輩がキャプテンになって一年程で陸上部の成績は大きく伸びていた。
 この人が私の彼氏なのかと今でも時々信じられなくなる。まだ付き合い始めて2ヶ月ほどだから先輩後輩の関係の方が馴染んでいて、インターハイまでの一連の大会が終わるまではそのままでいこうって話をしてるくらいだけど。でも、こうして話している私たちを見る視線は、私たちの関係が先輩後輩じゃなくなったことに明らかに気づいている。
「智也先輩は? 順調ですか?」
「まあね」
 智也先輩はニッと笑みを浮かべる。あまり自分の話題をされたくなくて聞いてみたけど、智也先輩の調子がいいのは練習を見ていればよくわかった。バンッとスタートで飛び出してからゴールまで伸びやかに駆け抜けていく。見ていて惚れ惚れとするような智也の走りからは、そう簡単に智也先輩が負ける姿を想像することができない。
 最終学年となり最後のインターハイに向けて意気込む智也先輩に勝てる可能性がある選手は県内ではそう多くないはずだ。そんな数少ない人物が思い浮かびながら智也先輩の顔を見ると、同じ人のことを考えていたのか智也先輩は痛そうな顔で笑っていた。
海人(かいと)、今日も練習来なかったな」
「……まだ怪我が治ってないんですか?」
「まあ、ね。だけど、怪我してたとしてもできることはいくらでもあるし、海人には来年もあるから……」
 ずっと笑顔だった智也先輩の顔が苦々しくなる。智也先輩に勝てる可能性があるスプリンター、それが海人だった。今度の県大会でも智也先輩のライバルになると思われてたけど、春先に怪我をして今年は県大会の参加も絶望的になっている。
「弟がこれだけ大きな怪我するのも初めてで、多分俺も弟も戸惑ってるんだ」
 智也先輩が痛みを抱えた表情のままで重たげな息を吐く。智也先輩のライバルは、一歳下の実の弟だった。