十年前、列車の時刻が迫るなか慌ただしく手渡されたメモに記された連絡先へ何度も電話したり、手紙を送ったりしてみたが、三浦正樹が存在する痕跡など認められなかった。まるで幻を追いかけているのではないか、と己の精神状態さえ疑ってみる羽目に陥った。だが、手元のメモには確かに正樹少年の筆跡が、裕里子の魂を揺さ振り続けてきた。
この場所にやって来ると、脳裏に当時の光景がまざまざと蘇る。あの記憶は今でも裕里子の胸をセピア色に焦がしてしまう。この歳になってもいつまでも忘れられないことがいささか滑稽に思われ、その度にクスリと笑みをこぼしてしまうが。近頃では頻繁には訪れなくなったが、会社が休みの日などは思い出したように足が向いてしまう。
裕里子は地元の短大を卒業したあと、ずっとOLをしている。今年二十七歳の現在に至るまで恋人と呼べる男性との出会いはなかった。幾度か交際を申し込まれ、成り行き任せにつき合ってみたこともあるが、ついぞ恋愛と呼べるまでには至ったためしがない。シャボン玉がフワリと舞い上がったかと思うと、すぐに破裂するように、お互いの関係はいつだって自然消滅の憂き目に遭うのだ。どこかで心に制御が働いて、一向に加速しようとはせず、しらけムードに陥ってしまう。そんなとき、必ずあの少年たちを思い浮かべてしまう。
裕里子は生涯二度の恋をした。三浦正樹という少年に二度、恋心を抱いたのだ。最初は七歳の頃、ここで出会った。二度目は、十七歳、同じくこの場所で。何れも不思議な出会いだった。
裕里子にとってここは特別な場所だ。初恋が訪れた場所なのだ。しかし、実ることのない果実は、かじることも、甘酸っぱささえも味わうことも叶わない。幻想の味を想像しながらベンチの背もたれに背を思い切り反らせ、天を仰いだ。六月の昼下がりの公園の上空を白雲は流れ、青と白のグラデーションを織り成して映した水面が風に揺らめいた。日曜日の園内は清涼を求めてやって来る人で賑わっている。
裕里子が池の向こう側の樹木に目を移してしばらくすると、突然、視界が塞がった。目の前に男性が立っている。
ラフなTシャツとジーンズにスニーカーの筋骨質の長身からこちらを見下ろす顔は、丹精で骨ばっていて、かといってとげとげしい印象はなく、柔らかな眼差しは、温もりにあふれていた。見知らぬ彼は、裕里子をまるで恋人でもあるかのように話しかける。裕里子は面食らってしまったが、その優しさにあふれた口ぶりといたわりを兼ね備えた彼の誠実さがひしひしと伝わってくる仕種にたちまち魅了されてしまった。
裕里子は言葉を忘れ、彼を見つめ続けた。
「どなたかと間違えていらっしゃるのね?」
しばらく沈黙したのち、投げかけた問いに彼は一瞬だけ腑に落ちぬ顔を見せたものの、隣に腰を下ろすと、満面の笑みを向けたので裕里子も微笑んで一瞥したのち、視線を自らの足元に落とした。幸福な気分を味わってみたくなり、しばし黙り込んだ。こんな魅力的な男性の恋人を羨望した。
「オカメインコ、死んじゃった……」
彼の思いがけぬ言葉に、視点はそのまま固定され身体も膠着状態に陥った。
「今日は、一緒に弔ってほしくて来たんだ」
そう言うと、彼はビニール袋を裕里子のほうに掲げて見せる。中には一握りのヒマワリの種が入っていた。
「──エサ……ね?」
「ああ、池のほとりに撒いてやろうと思って。ここならいつも一緒にこの風景を望めるから。君の一番好きな風景……。撒くの手伝ってくれる?」
彼は袋に手を入れ少量の種を手渡そうとするので、裕里子は手を差しのべそれを受け取った。と、彼は徐に立ち上がり、ベンチを離れ、木柵越しに池を見渡した。裕里子も彼に倣い、隣に寄り添う。
彼は静かに種を撒き始めた。
裕里子は握り締めていた掌を広げると、種を見つめながらそっと傾けた。種はヒラヒラと大きな雨粒のように地面へと舞い落ちた。ひと粒ひと粒が、裕里子には梅雨空の僅かな晴れ間を縫って降り注ぐ陽の雫に見えた。
一連の儀式を終えた二人は、互いに見つめ合う。と、彼は裕里子の肩をそっと抱き寄せる。時間が止まったように周りの景色も静止し、風音さえ聞き取れない。
どれくらいの時間が経ったのかわからない。彼の腕が解かれると、一気に温もりは去って行った。彼は何も言わず微笑んでいたが、薄らと目を潤ませ、後日の再会の約束を交わすと、裕里子に手を振ってサヨナラをした。裕里子は胸の高鳴りを必死に押さえながら言葉も出せず、手を振り返すのが精一杯だった。彼は何度か振り返っては大きく手を振った。彼の去って行く姿を見えなくなるまで見送った。
裕里子の心にある思いが芽生え始めた。彼は紛れもなく『運命の人』だと。裕里子を誰かと間違えていることは確かだ。だが、直感はそう訴え続けるのだ。
この場所にやって来ると、脳裏に当時の光景がまざまざと蘇る。あの記憶は今でも裕里子の胸をセピア色に焦がしてしまう。この歳になってもいつまでも忘れられないことがいささか滑稽に思われ、その度にクスリと笑みをこぼしてしまうが。近頃では頻繁には訪れなくなったが、会社が休みの日などは思い出したように足が向いてしまう。
裕里子は地元の短大を卒業したあと、ずっとOLをしている。今年二十七歳の現在に至るまで恋人と呼べる男性との出会いはなかった。幾度か交際を申し込まれ、成り行き任せにつき合ってみたこともあるが、ついぞ恋愛と呼べるまでには至ったためしがない。シャボン玉がフワリと舞い上がったかと思うと、すぐに破裂するように、お互いの関係はいつだって自然消滅の憂き目に遭うのだ。どこかで心に制御が働いて、一向に加速しようとはせず、しらけムードに陥ってしまう。そんなとき、必ずあの少年たちを思い浮かべてしまう。
裕里子は生涯二度の恋をした。三浦正樹という少年に二度、恋心を抱いたのだ。最初は七歳の頃、ここで出会った。二度目は、十七歳、同じくこの場所で。何れも不思議な出会いだった。
裕里子にとってここは特別な場所だ。初恋が訪れた場所なのだ。しかし、実ることのない果実は、かじることも、甘酸っぱささえも味わうことも叶わない。幻想の味を想像しながらベンチの背もたれに背を思い切り反らせ、天を仰いだ。六月の昼下がりの公園の上空を白雲は流れ、青と白のグラデーションを織り成して映した水面が風に揺らめいた。日曜日の園内は清涼を求めてやって来る人で賑わっている。
裕里子が池の向こう側の樹木に目を移してしばらくすると、突然、視界が塞がった。目の前に男性が立っている。
ラフなTシャツとジーンズにスニーカーの筋骨質の長身からこちらを見下ろす顔は、丹精で骨ばっていて、かといってとげとげしい印象はなく、柔らかな眼差しは、温もりにあふれていた。見知らぬ彼は、裕里子をまるで恋人でもあるかのように話しかける。裕里子は面食らってしまったが、その優しさにあふれた口ぶりといたわりを兼ね備えた彼の誠実さがひしひしと伝わってくる仕種にたちまち魅了されてしまった。
裕里子は言葉を忘れ、彼を見つめ続けた。
「どなたかと間違えていらっしゃるのね?」
しばらく沈黙したのち、投げかけた問いに彼は一瞬だけ腑に落ちぬ顔を見せたものの、隣に腰を下ろすと、満面の笑みを向けたので裕里子も微笑んで一瞥したのち、視線を自らの足元に落とした。幸福な気分を味わってみたくなり、しばし黙り込んだ。こんな魅力的な男性の恋人を羨望した。
「オカメインコ、死んじゃった……」
彼の思いがけぬ言葉に、視点はそのまま固定され身体も膠着状態に陥った。
「今日は、一緒に弔ってほしくて来たんだ」
そう言うと、彼はビニール袋を裕里子のほうに掲げて見せる。中には一握りのヒマワリの種が入っていた。
「──エサ……ね?」
「ああ、池のほとりに撒いてやろうと思って。ここならいつも一緒にこの風景を望めるから。君の一番好きな風景……。撒くの手伝ってくれる?」
彼は袋に手を入れ少量の種を手渡そうとするので、裕里子は手を差しのべそれを受け取った。と、彼は徐に立ち上がり、ベンチを離れ、木柵越しに池を見渡した。裕里子も彼に倣い、隣に寄り添う。
彼は静かに種を撒き始めた。
裕里子は握り締めていた掌を広げると、種を見つめながらそっと傾けた。種はヒラヒラと大きな雨粒のように地面へと舞い落ちた。ひと粒ひと粒が、裕里子には梅雨空の僅かな晴れ間を縫って降り注ぐ陽の雫に見えた。
一連の儀式を終えた二人は、互いに見つめ合う。と、彼は裕里子の肩をそっと抱き寄せる。時間が止まったように周りの景色も静止し、風音さえ聞き取れない。
どれくらいの時間が経ったのかわからない。彼の腕が解かれると、一気に温もりは去って行った。彼は何も言わず微笑んでいたが、薄らと目を潤ませ、後日の再会の約束を交わすと、裕里子に手を振ってサヨナラをした。裕里子は胸の高鳴りを必死に押さえながら言葉も出せず、手を振り返すのが精一杯だった。彼は何度か振り返っては大きく手を振った。彼の去って行く姿を見えなくなるまで見送った。
裕里子の心にある思いが芽生え始めた。彼は紛れもなく『運命の人』だと。裕里子を誰かと間違えていることは確かだ。だが、直感はそう訴え続けるのだ。