風間(かざま)陽子(ようこ)は、突飛なことを口走ってはずいぶんと周囲の大人たちのひんしゅくを買う子であった。陽子にしてみれば、単に頭の中に浮かんだ映像について感じたことをそのまま口に出したに過ぎなかった。
 幼い頃から不思議な感覚に襲われることがある。
 物心ついた頃から同じ風景が見えるのだ。それがどこなのかわからない。行ったこともなければ、テレビで見たことのある場面でもなかった。ただ何となく懐かしさを覚えた。
 三歳時分、母に手を引かれて大池公園を散歩していたときのことだ。公園の一角にあるベンチの横を過ぎようとしたら、意志とは裏腹に足は自ずとベンチのほうへと引き寄せられた。つないでいた手は解かれ、ひとりベンチに座ってじっと水面を見つめた。そしたら、誰かの声がして、辺りを見回した。だが、自分と母以外は誰もいない。声の主はしきりに何かを訴えているが、その内容まではわからなかった。その声の響きには妙な懐かしさと心安さを覚えたのだ。その瞬間の記憶は、瞼の裏と耳に鮮明に焼きついてしまった。
 それ以来、その場所を通る度、声はささやき続けたが、年毎に薄れ、七歳となった今では全く聞こえなくなった。

        *

 小学校最初の夏休みが始まって一週間が過ぎた。
 坂道沿いの七階建てマンションの三階が陽子の自宅である。東向きの陽子の部屋から大池公園の森の緑が目に鮮やかに映える。小学校は坂を二、三分ほど下った目と鼻の先に位置している。
 朝食を済ませ、散歩に出て、気まぐれに大池公園に入った。そしてあのベンチ横を過ぎようとしたら、懐かしい声に呼び止められた。思わず振り返り(くう)を見つめる。陽子は、あの三歳の頃の体験を思い出していた。その場に留まったままベンチを見つめ続けると、強い既視感に襲われた。声に導かれるようにベンチに吸い寄せられ、腰を下ろし、ぼんやりと水面に視線を渡らせる。
 池からの風が気持ちよい。木陰のベンチは意外にも涼しく、自らも風に溶かされ風景に馴染んだかのような一体感で穏やかな心持ちになる。
 しばらく自然と戯れていたら、いきなり目の前を映像が過った。“見知らぬ”少年の顔がはっきりと現れたのだ。
 ──誰だろう?
 ──いつか会った気がする……
 声の主だと陽子は直感した。幻を見たこのときから陽子の心はざわめき出した。

        *

 その晩から三日続けて同じ夢を見た。
 公園のベンチに座っていると、目前に一瞬だけ少年の顔が迫ったかと思ったら、見知らぬ街を歩いていた。住宅街をさまよったあと、必ずある家の前に立って玄関先をうかがいながら扉が開くのを待っていた。三日目の朝方見た夢の中で初めてその扉が開き、そこで目が覚める。
 幼い頃から不思議な夢はよく見るほうだったが、立て続けに三回同じ夢なんてこれまで経験したことはない。おまけに、目覚めた直後、決まって胸は締めつけられ、何とも切ない気分に見舞われたのだ。
 それから数日が経った日曜日の朝、また公園へ行った。あのベンチに腰かけ、いつものように水面を眺める。ふと映像が過った。それと共に頭の中に直接声が響く。内容はわかりかねるが、陽子の心をしきりに急かせるのだ。思わず立ち上がり、大きく深呼吸を繰り返した。心を落ち着かせようとしても胸は高鳴る。それを抑える術も見いだせず、仕方なく家路へと足を向けた。だが、なぜか違う方向へ心は()かれてしようがない。どうにも抑えきれず、陽子は心の赴くままそちらへと足はなびいた。
 公園の南門を出て、坂を下り、四つ角にあるホームセンターの裏をまっすぐ進んだ。この辺りは路地が入り組んだ住宅街だ。二十分ほど歩いただろうか、しばらく街並を確認しながらぶらぶら散策していたら、ある路地に差し掛かった。その場に立ち止まって路地の先をじっと見つめる。一度も訪れたことはないが、何となく風景に見覚えがあるような気がした。よくある既視感かもしれない。陽子は躊躇(ちゅうちょ)もせず路地を辿ってみることにした。
 路地を進むうちに平常心ではいられなくなった。とある一角に差し掛かったとき、どこに何があるかをはっきりと知っていたのだ。自ずと足は止まった。左を向いたとき、息を()んだ。紛れもない、夢で見たあの家だった。
 しばらく呆然と玄関前で佇んでいたら、扉が開いて、中から同い年くらいの少年が現れ、陽子に気づいた途端、微笑みかけてきた。陽子も咄嗟に笑みを作ったものの、度肝を抜かれ、そのまま顔は強張った。
 ──あの日の幻だ!
 公園のベンチに腰かけていたとき、目の前を過った“見知らぬ”少年だった。
 少年は歩み寄って来て、あたかも以前からの知り合いのように振舞った。初め、そんな態度で陽子に接する少年に戸惑いつつも次第に妙な懐かしさ、親しみを覚えた。 
 少年の話によれば、今日、遠く県外へ引っ越すのだと言う。それで陽子の訪問を待ち侘びていた、と奇妙なことを口走った。それに約束を果たせないことを詫びるのだった。
「兄が、もう連れて行ってしまってね……。ゴメンね、約束したのに……」
 腑に落ちぬ陽子は、しばし放心して少年を見つめたのち、我に返って何のことか尋ねようと口を開きかけたら、胸底から熱い感情が込み上げて咽喉(いんこう)を塞いで声を遮るのだった。唾液を飲み込んで(のど)のつかえを胸底へ落とし返すのが精一杯だった。
「今日、来てくれて安心したよ。もう二度と会えないんじゃないかって……」
 とても弾んだ声が陽子の耳を揺さ振ってきた。声の振動は全身を駆け巡り、共鳴させ、温もりに包まれた心は高揚し、自ずと目頭を熱くした。気持ちを鎮めようと一旦視線を落とし、もう一度濡れた(まなこ)を少年に向ける。優しい眼差しに最早言葉もなくしてしまった。
 別れ際、必ず連絡をくれるよう少年は念を押し、路地を一緒に歩いて四つ角まで見送ってくれた。そこで、お互い別れを告げ、再会の約束を交わすと、陽子は少年を幾度も振り返りながら帰途に就いた。少年はいつまでもその場に立って手を振っていた。
 この出来事には腑に落ちないことだらけだったが、胸底から突き上げてくる初めての感情に戸惑いながらも再会を確信するのだった。なぜかわからないが、自分と少年は見えない糸でつながれているような錯覚に襲われた。この日以来、少年の面影は脳裏に焼きついて思い出す度に懐かしさで胸を焦がす日々を送って来たのだ。