彦星様と引き裂かれたあと、帰途に就こうと上りのホームに移り、ベンチでぼんやりする私に声をかけてきたのは、あの『いけ好かねえ』ヤツだった。
 悲しみに暮れる私に「どうしたの?」と聞いたあと、黙って横に座り続けた。そうして、共に電車に乗り、下車してからも、結局ひと言も口をきかずに別れたのだった。
 ひとり家路を辿る足取りが殊の外重たい。
 後ろ髪を引かれる思いで歩を進めたが、想いは引き裂かれた場所にさまよい続け、自ずと足は止まる。引き返して、もう一度()の地点で待ってさえいれば、突然彼が現れ、再会できはしまいか、との妄想に取り憑かれて一歩も進めない。
 胸に巨大な空気の塊でも詰まったように、私の内部から圧迫してくる。喉にまで達した違和感を鎮めようと、一度ゴクリと唾液を飲み込み、胸底深くに落とした。だが、依然かき毟りたくなる疼きに耐えきれず、喉元を掌で押さえつつ(うめ)き声を上げる。すると、幾筋もの(しずく)(まなこ)からこぼれ落ちた。両手で顔を覆い、おさまるまでの時間をその場に縛りつけられたままやり過ごした。
 ようやく涙は枯れはしたものの、悔恨は、双眸(そうぼう)を暗い地の底へと引きずり込んで光射す方向へは導いてはくれぬ。
 私はしゃくり上げながら項垂(うなだ)れ、置き去りのままの魂を()の地から強引に引き連れて家路を辿(たど)るしかなかった。
 自宅の前まで来たとき、辺りはすっかり夕闇に覆われ、玄関先の灯りが馬鹿で哀れな少女を迎えてくれた。
 玄関のドアの取っ手を握ると、自然とため息が漏れる。
 扉を開け、中に入ったならば、今日の(うるわ)しくも悲しい恋物語は終焉を迎え、味気ない日常が永遠に繰り返されるのか。この扉が夢と現実を分かつ境界なのだ。一旦越えてしまえば、かけがえのない今日は幻と化し、(いづ)れ消失してしまうのだ。そして、想い出はこの先の人生に重くのしかかり、この胸をしきりに(むしば)んでゆくのかもしれない。
 私は取っ手を握り締めたまま、ためらい続けた。もう一度心躍った瞬間を胸に刻みつけようと思った。目を閉じ、今日の物語を自ら語り始めた。決して忘れぬように彼の面影を(まぶた)に焼きつけながら。
 そうして長い時間が経過して、誰かが肩に触れた。
 ハッとして、振り返る。
 いっとき顔を見合わせた。そのうちにやっとその人物を認識できた。あの『いけ好かねえ』ヤツだった。
「どうして?」
 私には理解できない。なぜ彼女がノコノコついて来たのか。
 彼女は無言のままこちらを見下ろすばかりだ。そして、クールな目つきで私の肩を一度ポンと己が右手で軽く叩くと、(きびす)を返して去って行った。
 私は呆気(あっけ)に取られながら、尊い想い出を(けが)されてしまったようで次第に怒りが込み上げてきた。
 憤慨しつつ扉を開けた私は、一歩を踏み込んだ。中に入ると、後ろ手に扉を閉める。もう完全に今日という夢との決別を果たした。
 あの日、帰宅してからの記憶はない。
 夕食の風景、家族との団らんの一部始終、一切が脳裏から欠落している。
 ただ、悲しみの記憶だけが鮮明に、胸の奥部(おうぶ)に居座り続けていた。
 彼とのひとときに胸を躍らせ、ときめきに揺れた乙女心のやり場を無惨にも見失い、別離の場面が蘇ったとき、シクシクと体の(ずい)(うず)き出す。喜びと悲しみと怒りの感情が複雑に絡み合い、眠られぬ夜をやり過ごしたのだった。