帰宅した私は、ベッドに腰掛けて入学した頃の日記を見返していた。
私は元々、幼い頃から習っていたバイオリンでプロを目指すために、音楽科のある高校を受験するつもりだった。しかし運悪く中学三年の受験期に交通事故で左腕を骨折してしまい、バイオリンの実技試験が受けられる状態ではなくなってしまったため、仕方なく、滑り止めに受験していた今の高校に入学することになったのだ。
だから入学したばかりの頃、私の気分はいつも塞いでいた。
高校からはバイオリンに全てを捧げるはずだったのに。今頃ライバル達はどんどん良い環境で切磋琢磨して腕を磨いているに違いないのに。
そう考えるといてもたってもいられず、衝動的に授業を抜け出して練習できる場所を求めて学校を彷徨うのが私の毎日だった。
音楽の先生は私の事情を汲んで、授業のない時間は「バイオリンの練習させてください」と無理なお願いをする私を受け入れてくれていたが、他クラスが音楽の授業をしている時間はそうもいかない。
久郎君と出会ったのも、そうやってひと気のない場所を探して屋上に辿り着いた、高校一年の夏の終わりのことだった。
ある日、ここなら授業時間に人が居るはずないだろうと考えて屋上へ続く扉を開けた私は、目の前に現れた光景に思わず声を上げた。
「えっ、タバコ?!」
「うおっ、誰だよビビらせんなよ」
なんと、だらしなく制服を着崩した大柄な男子生徒が足元で何かを揉み消しているところに出くわしたのだ。話した事は無かったけれど、彼が誰なのかは知っていた。
「小瀬君、だよね」
「なんで俺の名前知ってんの」
「何で……って、有名人だから」
もちろん、悪い評判で。
相手もそれを分かっているのが苦笑の表情から伝わった。私がその場をすぐに立ち去らなかったのは、その様子があまり悪い人ではなさそうだったからだ。
「私、バイオリンの練習場所を探してるんだけど、あっちの日陰で音出してもいいかな」
「バイオリン? 授業で?」
「ううん、授業は今数学」
彼は一瞬、呆気にとられたような表情をして、そのあと突然笑い始めた。
「授業サボってバイオリンの練習? 根性すげえな。いいじゃん、俺にも聞かせて。俺も音楽好きだよ、バンドやってるし」
ニカっと笑ったその笑顔に、不良とかタバコとかそんな良くない噂は一旦忘れて、私は素直に「素敵だなあ」と考えていた。
それが、私たちの出会いだった。
何度かそういう日があって、私がまた屋上へ行くと、その日彼はタバコではなくギターを携えていた。
「俺も練習しよっかなって」
「そう言えば、バンドやってるって言ってたよね。校外で組んでるの?」
「いや、ウチの軽音部」
「そうなんだ……」
今の高校にまともに向き合っていなかったせいで、私はこの学校に軽音部がある事も把握していなかった。私の動揺に気づいているのかいないのか、あぐらの上に抱えたギターをぽろぽろと指ではじきながら、珍しく彼から話し始めた。
「こんどの文化祭で、軽音部から選抜で何組かだけ演奏できるらしくてさ。そのために部内選考会……っての? やるんだけど、ウチのバンドは評判が悪いから難しいかもなって諦めてんだ。俺はこんなんだし、木屋も他校のヤツらとよくつるんで何やってるか分かんねえし、藍吾は真面目だけどバンドは片手間って感じだし」
そう言いながらも、ギターを爪弾く手つきはよく慣れたものだった。何にも繋いでいないエレキギターなので、実際に聞こえる音はワイヤを弾く小さな金属音だけど、それがステージに立った時どんな音を奏でるのか聞いてみたいと思わせるだけの魅力があった。
「小瀬君なら、大丈夫な気がする」
「久郎でいい」
「えっ?」
「小瀬君、なんて俺のこと丁寧に呼ぶやつ居ねえよ。久郎って呼んでくれたらいい」
「わかった、久郎……君」
「サンキュ、萌奈」
私の名前、知ってたんだ……顔が赤くなったのは、きっとしぶとく居残った夏の日差しのせいだ。
「あ、そうだ!」
私はバイオリンケースにつけていたビーズ細工のストラップを外して、久郎君のギターケースの持ち手に結びつけた。ガラスビーズを繋げてト音記号の形にしてある。
「これ、中学の時にビーズで作ったんだ。コンクール前とか緊張しちゃう時、これを握ったら勇気をもらえるの。私のお守り。だから、久郎君の選考会が上手く行きますように」
「そんな大事なモン貰っちゃっていいのか」
私はおどけて舌を出した。
「実は、私の通学バックにも同じものまだ付いてるの。だから、お揃いなんだ」
「そうかよ……嬉しい。サンキュな」
久郎君が大切そうにビーズの表面に指を沿わせるその手つきはやはりとても温かくて、それに気づいた瞬間に「私はこの人のことが好きなんだ」と分かった。
★
当時の日記は今読み返してもくすぐったい感じがする。
日記を閉じて、通学バッグに繋いだビーズ飾りを手に取った。
私たちを繋いだお守り。
人から見たら、なんて事ないビーズ飾りだけど、それは今も毎日私達を見守ってくれている。
「これからもよろしくね」
感慨深い気持ちでビーズに室内灯の光を透かせてみると、私たちの言葉に答えるようにきらりと光を反射した。
その時、スマホがメッセージの受信を知らせた。
「久郎君だ」
『明日、ライブハウスの下見に行くんだけど萌奈も来る?』
『邪魔にならないかな』
『気、使い過ぎだろ! 大丈夫。真理亜も来るって』
「あ、そうなんだ」
私は『じゃあ行く!』と返信して、さっさと今日のバイオリン練習を片付けてしまうことにした。
明日も好きな人と一緒に過ごせるというだけで胸が弾む。渋々入学した高校で、こんな気持ちになれる日が来るなんて思いもしなかった。
今の私たちなら、何もかも上手くいくような気がした。
翌朝、藍吾君から「木屋が怪我を負った」という連絡が入るまでは。
私は元々、幼い頃から習っていたバイオリンでプロを目指すために、音楽科のある高校を受験するつもりだった。しかし運悪く中学三年の受験期に交通事故で左腕を骨折してしまい、バイオリンの実技試験が受けられる状態ではなくなってしまったため、仕方なく、滑り止めに受験していた今の高校に入学することになったのだ。
だから入学したばかりの頃、私の気分はいつも塞いでいた。
高校からはバイオリンに全てを捧げるはずだったのに。今頃ライバル達はどんどん良い環境で切磋琢磨して腕を磨いているに違いないのに。
そう考えるといてもたってもいられず、衝動的に授業を抜け出して練習できる場所を求めて学校を彷徨うのが私の毎日だった。
音楽の先生は私の事情を汲んで、授業のない時間は「バイオリンの練習させてください」と無理なお願いをする私を受け入れてくれていたが、他クラスが音楽の授業をしている時間はそうもいかない。
久郎君と出会ったのも、そうやってひと気のない場所を探して屋上に辿り着いた、高校一年の夏の終わりのことだった。
ある日、ここなら授業時間に人が居るはずないだろうと考えて屋上へ続く扉を開けた私は、目の前に現れた光景に思わず声を上げた。
「えっ、タバコ?!」
「うおっ、誰だよビビらせんなよ」
なんと、だらしなく制服を着崩した大柄な男子生徒が足元で何かを揉み消しているところに出くわしたのだ。話した事は無かったけれど、彼が誰なのかは知っていた。
「小瀬君、だよね」
「なんで俺の名前知ってんの」
「何で……って、有名人だから」
もちろん、悪い評判で。
相手もそれを分かっているのが苦笑の表情から伝わった。私がその場をすぐに立ち去らなかったのは、その様子があまり悪い人ではなさそうだったからだ。
「私、バイオリンの練習場所を探してるんだけど、あっちの日陰で音出してもいいかな」
「バイオリン? 授業で?」
「ううん、授業は今数学」
彼は一瞬、呆気にとられたような表情をして、そのあと突然笑い始めた。
「授業サボってバイオリンの練習? 根性すげえな。いいじゃん、俺にも聞かせて。俺も音楽好きだよ、バンドやってるし」
ニカっと笑ったその笑顔に、不良とかタバコとかそんな良くない噂は一旦忘れて、私は素直に「素敵だなあ」と考えていた。
それが、私たちの出会いだった。
何度かそういう日があって、私がまた屋上へ行くと、その日彼はタバコではなくギターを携えていた。
「俺も練習しよっかなって」
「そう言えば、バンドやってるって言ってたよね。校外で組んでるの?」
「いや、ウチの軽音部」
「そうなんだ……」
今の高校にまともに向き合っていなかったせいで、私はこの学校に軽音部がある事も把握していなかった。私の動揺に気づいているのかいないのか、あぐらの上に抱えたギターをぽろぽろと指ではじきながら、珍しく彼から話し始めた。
「こんどの文化祭で、軽音部から選抜で何組かだけ演奏できるらしくてさ。そのために部内選考会……っての? やるんだけど、ウチのバンドは評判が悪いから難しいかもなって諦めてんだ。俺はこんなんだし、木屋も他校のヤツらとよくつるんで何やってるか分かんねえし、藍吾は真面目だけどバンドは片手間って感じだし」
そう言いながらも、ギターを爪弾く手つきはよく慣れたものだった。何にも繋いでいないエレキギターなので、実際に聞こえる音はワイヤを弾く小さな金属音だけど、それがステージに立った時どんな音を奏でるのか聞いてみたいと思わせるだけの魅力があった。
「小瀬君なら、大丈夫な気がする」
「久郎でいい」
「えっ?」
「小瀬君、なんて俺のこと丁寧に呼ぶやつ居ねえよ。久郎って呼んでくれたらいい」
「わかった、久郎……君」
「サンキュ、萌奈」
私の名前、知ってたんだ……顔が赤くなったのは、きっとしぶとく居残った夏の日差しのせいだ。
「あ、そうだ!」
私はバイオリンケースにつけていたビーズ細工のストラップを外して、久郎君のギターケースの持ち手に結びつけた。ガラスビーズを繋げてト音記号の形にしてある。
「これ、中学の時にビーズで作ったんだ。コンクール前とか緊張しちゃう時、これを握ったら勇気をもらえるの。私のお守り。だから、久郎君の選考会が上手く行きますように」
「そんな大事なモン貰っちゃっていいのか」
私はおどけて舌を出した。
「実は、私の通学バックにも同じものまだ付いてるの。だから、お揃いなんだ」
「そうかよ……嬉しい。サンキュな」
久郎君が大切そうにビーズの表面に指を沿わせるその手つきはやはりとても温かくて、それに気づいた瞬間に「私はこの人のことが好きなんだ」と分かった。
★
当時の日記は今読み返してもくすぐったい感じがする。
日記を閉じて、通学バッグに繋いだビーズ飾りを手に取った。
私たちを繋いだお守り。
人から見たら、なんて事ないビーズ飾りだけど、それは今も毎日私達を見守ってくれている。
「これからもよろしくね」
感慨深い気持ちでビーズに室内灯の光を透かせてみると、私たちの言葉に答えるようにきらりと光を反射した。
その時、スマホがメッセージの受信を知らせた。
「久郎君だ」
『明日、ライブハウスの下見に行くんだけど萌奈も来る?』
『邪魔にならないかな』
『気、使い過ぎだろ! 大丈夫。真理亜も来るって』
「あ、そうなんだ」
私は『じゃあ行く!』と返信して、さっさと今日のバイオリン練習を片付けてしまうことにした。
明日も好きな人と一緒に過ごせるというだけで胸が弾む。渋々入学した高校で、こんな気持ちになれる日が来るなんて思いもしなかった。
今の私たちなら、何もかも上手くいくような気がした。
翌朝、藍吾君から「木屋が怪我を負った」という連絡が入るまでは。