《完結》忌み子は烏王の寵愛に身を焦がす

(わか)……本当に人間から嫁を取られるんですか』
『取るも取らないも、俺が決めることじゃない』
『いくら古くからの習わしでも、もういい加減よろしいじゃないですか! そろそろ人間と決別してたって、誰も文句は言いませんよ』

 近侍の灰墨(はずみ)が、怒ったように声を荒げて訴えていた。

『人間なんて……っ、いくら優しくしようと僕たちを化け物としか見ないじゃないですか。どうせ若の相手だって、今までのやつらと同じですよ』


 
 今朝の灰墨との会話を思い出し、男はひとり、憂鬱な溜息を吐いた。
 歩く度に地面に落ちた枯れ葉が、さくっ、さくっと鳴く。
 木々に覆われた山はすっかり色を失い、空すらも灰色に淀んでいる。

「ああ……どうりで寒いはずだ」

 男が木々の隙間から空を見上げれば、白い綿帽子がゆっくりと舞い落ちてきていた。
 落ちてきた綿帽子を手に乗せると一瞬だけひやっとして、あっという間に熱で溶けていく。

「雪か」

 ほう、と吐いた息は白く、髪色も身にまとった着物の色も黒ずくめの自分の口から出た色にしては美しすぎるな、と男は自嘲した。
 男は小高い山の中でひとり佇んでおり、眼下には彼の棲まう郷が見えている。
 あやかしの世界――〝常世〟に棲まうあやかしの郷の中では、(からす)一族の郷は規模が大きいほうだ。
 今は父が一族の長――黒王として治めているが、それもいつまで保つことか。
 父は病に伏せっており、郷の中ではそろそろ代替わりをとの声がチラホラと上がっていた。特に最近は、よそのあやかしが郷の外をうろちょろしていると聞く。大方、黒王が伏せっている今ならば攻め入る隙があるかも、などと考えているのだろう。
 このような状況では、いつ自分に黒王の座が回ってきてもおかしくない。
 座についたらば郷の皆をまとめ、守っていくのが役目となる。

「はぁ……俺が黒王なあ……」

 男は憂鬱なため息をついた。
 黒王になるのが嫌なわけではない。
 黒王になった者に課された〝習わし〟が煩わしいのだ。
 (いにしえ)からの習わしで、黒王の嫁は〝花御寮(はなごりょう)〟と呼ばれる人間の娘でなければならないと決められている。
 もちろん自分の母も人間であった。
 母というより、自分を産んだだけの人間と言ったほうが正しいが。

 彼女は自分を身ごもった時、何を思ったのだろうか。産む時、どのような思いで苦しみに耐えたのだろうか。
 まあ、そんなことを知ったところで、自分にはどうしようもないが。
 あやかしという存在は、人間の住まう現世では恐れられ嫌われる対象である。そのような者のところへ単身で嫁いで来る者と、どう接したら良いのか分からない。
 黒王の役目は、郷を守り跡継ぎを残すことである。
 父は間違いなく、その任は果たしていた。
 しかし、父は幸せだったのだろうか。
 両親は、夫婦だったのだろうか。
 夫婦とは……なんなのか。
 そんなことがばかり考えていると、「若ー!」と叫びながら山を駆け登ってくる者の姿が視界に映った。よほど慌てているのか、ぜぇぜぇと、ここまで聞こえてきそうなほど息を荒くしつつも、何度も自分を呼び続けている。

「ここにいる。なんだ」
「そちらにおいででしたか、若! 今すぐ屋敷へとお戻りください!」

 嫌な予感がした。

「黒王様がご逝去なさいました!」

「ああ……」と、男は天を仰ぎ、目を閉じた。
 先ほどより勢いを増した雪が、次々と顔に触れては雫となって流れ落ちていく。目尻を伝う雫だけが、ほんの少し温かい気がした。

「すぐに行くから、お前は先に戻り重役達を屋敷に集めておけ」
「かしこまりました」

 ばたばたとした足音が遠ざかり聞こえなくなれば、しんしんとした静かな世界がまた戻ってくる。

「……俺の花御寮か」

 期待はしていない。
 どうせ今までの花御寮と同じく、異物に向けるような冷めた目で自分たちを見て、「化け物がっ!」と泣き叫んだあげく、すぐにいなくなるのだろうし。
 それでも、郷の習わしは拒否できない。

「どうせなら、性格が悪い娘のほうが良い」

 そうすれば、単身で常世に嫁いできてもらう罪悪感も、幾分かましになるというもの。

「口汚く罵ってくるような相手ならば、いなくなろうと、痛みも寂しさも感じないだろうしな」

 男は目を開けると同時に、灰色の空に向かって片口をつり上げた。
 降りしきる雪。
 周囲にある針山のような枝には、うっすらと白が積もり始めている。
 男は顔を正面に戻し、眼下で白くなりつつある郷に向け、ゆっくりと山を下りていく。

「……そうか、父上が……」

 着物の上にまとっていた羽織を、胸の前できつくたぐり寄せる。
 色のない世界は、凍えそうなほど寒かった。



        ◆



 こうして、新たな黒王は現世より花御寮を迎え入れたのだが……。

 その女は既に身籠もっていたという。


 
        1

 雪が今にも落ちてきそうな鈍色の空を見上げながら、(きく)は屋敷への道をほたほたと、力ない足取りで戻っていた。小脇に抱えた籠には、よく肥えた大根や葉の締まった白菜、コロンとしたふきのとうなどの野菜が乗っている。

「ちょっと、菊! なんでこんなところにいるのよっ!」
「きゃあッ!」

 あまりに突然のことで、菊は振り返る暇もなく砂利道に倒れ込んだ。
 背中を強く押されたのか、ジンジンとした痛みがある。背中で結っていた三つ編みもはずみで解けたようで、夜色をした長い髪は地面に広がって白く汚れていた。

「――ッレ、レイカ姉様……」

 驚きに振り返れば、そこにいたのは、この世で菊が一番恐れている従姉のレイカであった。
 彼女は不機嫌極まりないと、肩口で柔らかくまとまる内巻の髪を鼻息と共に手ではらい、猫のように吊り上がった目を、さらにつり上げてこちらを見下ろしている。従姉妹であるため菊と似た顔立ちをしているのだが、まとう雰囲気は真逆で、一度も似ていると言われたことがなかった。
 その隣では、年若の男が裾がはだけて露わになった菊の白い足を、ニヤニヤとやに下がった顔で眺めていた。

「ひっ……!」

 たちまち菊の顔が蒼ざめる。裾を引っぱり足を隠し、身を守るように小さくする。

「よう、菊ちゃん。この間は楽しかったよなあ?」

 男は菊の顔を覗き込み、ニヤけた顔を近づけてねっとりと語尾を上げ、意味深な言葉を吐く。

「なぁに、一平(いっぺい)。菊にもちょっかい出してんの? あたしだけじゃなく……」
「ったく、違ぇって。この間、たまたま夜にここら辺を歩いてるのを見てね。ちょいとばかし遊んでやったんだよ」

 なあ、と男が菊に同意を求めるも、菊はビクリと身を震わせるばかり。

「へえ……遊んだねぇ? こんな汚い女に随分とお優しいことじゃない」
「おいおい、拗ねるなよレイカ。俺が忌み子なんかを本気で相手にするわきゃないだろう」

 レイカがふいっとそっぽを向くと、男はレイカの機嫌を取るように肩を抱き頭に口を寄せた。

「レイカだけだって」
「んもう……」

 頭上から聞こえるレイカの甘ったるい声を無感情に聞いていたら、突然彼女に「菊!」と呼ばれた。
 弾かれたように顔を上げると、彼女は勝ち誇った顔でこちらを見ており、自分との差を見せつけるかのように男の胸にすり寄っている。
 すると、先ほどまでの猫撫で声はどこへやら。凄みのきいた声が降ってくる。

「そういえば、あんた。誰の許しを得てこんな真っ昼間から家の外に出てんのよ」

 菊は視線を逸らすようにして、道に散らばってしまった野菜や籠に見遣る。

「ツル子さんが、畑から野菜をとってくるようにと」
「チッ、あのババア。使用人のクセして怠け者ったらありゃしないわね。帰ったらお母さんに言いつけてやる」

 使用人が怒鳴られた後、怒りの矛先は自分へと向くだろうと、菊は耐えるようにグッと拳を握った。

「いい? あのババアがなんと言おうと、日が高いうちはあんたは家の中の仕事だけやってなさい。分かった!?」
「……はい、レイカ姉様」

 従順な返事があったことで、ようやくレイカの怒りも収まったようだ。「ふぅー」と、彼女が長めの息を吐けば、ヒリついていた空気も少しはましになる。

「従姉妹だからって、どうしてこんな忌み子の面倒を古柴家(うち)で見なきゃなんないのよ。ていうか、こんなのと血が繋がってるだなんて、嫌過ぎるんだけど。本っ当、目ざわりだわ!」
「申し訳ございません」

 レイカは、足元で砂まみれになってしゃがみ込んでいるみすぼらしい菊を一瞥すると、ふんっと鼻を鳴らし、さっさと古柴家の屋敷へと帰っていった。
 レイカの姿が見えなくなれば、菊はのろのろと動き始め、拾った野菜を再び籠にのせていく。そうして、籠を抱えて立ち上がろうとした時、草履がずるりと滑った。

「あ、鼻緒が」

 ただでさえボロボロの草履の鼻緒が千切れていた。転んだ拍子に切れてしまったのだろう。
 辺りを見回し、何か結べそうなものはないかと探す。そこで菊は、周囲には村人達もいたのだと初めて気付いた。
 皆、ひそひそと遠巻きにするだけで、ひとりとして菊に近寄ろうとも声を掛けようともしない。村には何百人と村人がいるのに、それでも菊はひとりぼっちだった。
 菊は壊れた草履を脱いで手に持つと、村人達の目から逃げるように屋敷へと戻るのであった。



        ◆



 古柴家の半地下に築かれた四畳半程度の座敷牢。
 そこだけが、ここ界背村(かいせむら)で菊が安心して息がつける場所だった。
 日が昇っている間は屋敷の外に出ることは許されず、古柴家の親類だいうのに、その親類であるレイカ達親子からの扱いは使用人以下。村人には忌み子と呼ばれ、同じ村に住んでいるというのに、存在を認められることはなかった。
 しかしそれに関しては、菊は仕方ないことと諦めている。
 事実、菊は他の村人とは違うのだから。
 界背村の者達は皆、村生まれの両親を持ち村で生まれた、界背村だけの血を持つ者達である。それに対し、菊は村の血を半分しか持たず、生まれたのもこの村ではない。
 菊は、彼女の母親が村外の男との間につくった掟破りの子――〝()み子〟であった。



 外国(とつくに)の文化が入ってきて久しいというのに、村人達の格好は着物に草履や下駄。建物は歴史を感じさせる木造家屋で、場所によっては茅葺きも残っている。
 決して村の人口が少ないわけでもなく、老人ばかりということでもない。
 それでもなぜこの村が、時を止めたように人世の色に染まらないか。
 それは、界背村が人世とは少々異なる性質をもった村だからだった。
 界背村にはいくつかの掟がある。
 そのひとつが、『村外の者と子供を作ってはならぬ』というもの。
 何故、村人同時でしか婚姻が認められないのか、それはひとえに村の生業にあった。

 帝国一番の賑わいを見せる帝都。そこから遠くに見える山陰のひとつに界背村はある。
 入り組んだ山間部に存在し、村人か、村をよく知る取次役である案内人がいなければ、決してたどり着けない界背村の生業は〝祓魔(ふつま)〟であった。
 かつて、現世(うつしよ)常世(とこよ)との境界がまだ曖昧だった時代、しがない悪戯ばかりする魑魅魍魎(ちみもうりょう)の数は多く、現世だけでなく、常世さえも手を焼く存在であった。
 そこで、常世は一つの決断を下す。
 常世の治安を司るとある(あやかし)一族に、現世と常世と両方の魑魅魍魎を退治するようにと命じたのだ。
 しかし、常世だけでなく現世までとなると、とてもその一族だけでは手が足りない。一族の長は、現世の者達に力を分け与え、現世の魑魅魍魎は現世の者に退治させることにした。この時に祓魔の力を与えられた者達のひとつが、界背村だったと伝わっている。
 おかげで祓魔の血を守るために、このような掟が課されたのだ。

 しかし、菊の母親は掟を破った。
 止める両親をふりきって村を飛び出し、村外の男との間に子供をもうけたのだ。そして菊が三歳の頃、突然ふらりと村にやってきて叔母に菊を頼むとだけ言い残し、また姿を消したという。
 叔母から菊に向けられる冷たい目は、本来は母に向けられたものなのだろう。
 いつも「お前のせいで!」と言って叔母は菊を叩く。
 菊の祖父母――つまり母と叔母の両親は、母が村を出て掟を破ったことにより、村人からの目に耐えられず病んで早逝したという。
 掟破りの子を出した家というのは、菊に対する風当たりの強さからも考えても、余程肩身の狭い思いをしたことだろう。叔母に対しては、母が村外に出た時には既に村でも大きな古柴家に嫁いでいたということもあって、表だった批難はなかったようだが、それでもやはり相応の目は向けられてきたのだと思う。
 事実、菊が母に捨てられたときも、村長は身内の恥は身内で解決しろと叔母に一切手を差し伸べなかったのだから。
 そう思えば、こうして無事に生きていられるだけで幸運なのかもしれない。
 だから、たとえ日々をつらく思っても、それを口にしてはいけない。

「仕方ないもの……私は本来生まれてはいけない忌み子なんだから」

 菊は諦めが滲んだ声で呟きながら、ひとり、屋敷裏に広がる雑木林の中を歩いていた。
 空には半分になった青白い月が輝き、葉っぱが落ち枝だけになった木々の上から、煌々と足元を照らしてくれる。おかげで、雑然とした木々の中だというのに夜でも転ばずに歩けていた。
 昼間切れた鼻緒は、着れなくなった自分の着物のハギレを使って修理した。おかげで左右で鼻緒の色がちぐはぐになってしまっている。
 ちぐはぐな鼻緒を見ながら、菊は『まるで自分のようだ』と小さく嘆息した。
 人が起きている昼ではなく、寝静まった夜にしかこうして外を歩けない、普通の人とは違うちぐはぐな自分のようだと。
 古柴家から菊に与えられた自由は、夜だけだった。
 座敷牢に鍵は掛けられておらず、こうしていつでも出ることができる。
 昼間、屋敷の外に出ないように言われているのは村人達の目を避けるためであり、古柴家にとって、菊はいなるのを願いこそすれ、家に置いておきたくない存在なのだ。

「叔母様達は、きっと私に消えてほしいんでしょうけど……」

 皆が寝静まった夜であれば、もし菊が消えても古柴家は責任を負う必要はない。

「消えられるものなら消えたいわ」

 しかし、それは自殺とかわりない。
 村にやって来た三つの頃から、はや十五年。菊はこの村以外で生きる術など何も知らなかった。

「でも、死ぬ勇気なんて私にはないのよ」

 そう、ぽつりと呟いた時だった。

「きゃっ!?」

 突如、先の方でバサバサと枯れ葉が踏まれたような騒がしい音がして、菊は思わず腰を抜かしてしまう。
 以前、夜に村の中を歩いていたら、昼間に会った一平という男と出くわして、嫌な目にあったことがあった。だから、今夜は人が来ないような雑木林を選んだというのに。
 思わず身を守るように、ギュッと両手で腕を抱きしめる。

「ど、どなたでしょうか……!?」

 菊は震えながら声を上げたが、しかし、音がする場所からの返答はない。
 不思議に思い恐る恐る近寄ってみると、暗闇にいたのは人ではなかった。

(からす)? ……って、まあ、羽根を怪我しているじゃない」

 枯れ葉に埋もれるようにしていたのは、片羽根から血を流した烏だった。
 暗がりの中向けられた目は、揺らぎつつも威嚇しているかのように逸らされない。そのまま菊から逃げるように、後ろへひょこひょこと下がろうとしているのだが、上手く歩けないでいる。

「大丈夫よ。痛いことはしないから大人しくしていて」

 菊は自分の着物の裾に歯を立てて細長く引きちぎり、血が出ている部分を優しく包んだ。
 最初は菊の手から逃げようとしていた烏も、菊に危害をくわえる意思がないと分かると、途端に大人しくなる。

「あなた、珍しい色の羽根と目をしているのね」

 月明かりの元でまじまじと見れば、烏の羽根はよくある黒ではなく羽先の方だけ淡い紫色に染まっており、くりっとした丸い目も紫色だと分かる。

「とっても綺麗な色だわ」

 烏はまるで言葉を理解したかのように、菊の顔をじっと見つめてきた。
 紫水晶のような瞳はとても澄んでいて、まるでそのまま内側に引き込まれてしまいそうに感じた。
 村人達が菊に向ける目はいつも濁った感情がはびこっており、目を背けたくなるようなものばかり。だから、生まれて初めて向けられた悪意も何もない純粋な眼差しというものが、菊にとってはとても新鮮だった。
 紫と黒の瞳が見つめ合う。
 菊は烏の意思をくみ取ろうとじっと見つめ続け、そしてひとつの結論に思いいたる。

「あ、そうよね。その羽根じゃ食べ物を探しに行けないものね」

 菊は「待ってて」と言うと、近くにあったコナラの木の麓をかき分けてどんぐりを拾い集めると、それを烏の前へと置いた。

「はい、これで足りるかしら? 足りなかったらごめんなさいね。そろそろ私もお屋敷に戻らないといけなくて……」

 正直、あまり戻りたくないのだが。
 菊は烏の背をひと撫ですると、寂しそうに微笑んだ。

「また明日、様子を見に来るから、その時には色々持ってきてあげる」

 じっと見つめてくる烏を、名残惜しそうにチラチラと振り返りながら、菊は屋敷へと戻ったのだった。




        2



 
「あー、あたしもやっと来月で二十歳(はたち)なのよねえ」

 昼も終わり、座敷でレイカ達の食膳の片付けをしていたら、横の座卓で茶を飲んでいたレイカがわざとらしい声で言う。

「これで堂々と好きな男と結婚できるわ。一平ったら、早くあたしを自分のものにしたくて仕方ないみたいなのよ。本当困ったわあ」

 一平というのは、レイカとよく一緒にいるあの男のことだろう。
 村の若手では一番の男前で、古柴家と同じく村の顔役をしておりそれなりに大きな力もある、と常日頃声高らかにレイカが自慢していた覚えがある。
 しかし、菊にとっては苦々しい思いのある男だった。
 顔を思い出せばおぞましい記憶が蘇り、慌てて追い出すようにして菊は頭を横に振る。

「それは良かったです、レイカ姉様」

 控えめに笑いながら言えば、なぜかレイカは鼻で笑った。

「ははっ、本心で言ってる?」
「え……もちろんですが」

 レイカは片口だけをつり上げ、再びハッと鼻で一笑する。
 彼女が結婚してくれたら、一平という男からのちょっかいもなくなるだろうと、本心で良かったと言ったのだが。どこが彼女の癇にさわってしまったのか。
 レイカの気持ちが分からず、戸惑いがちに視線を落としていれば、突然、横から胸元を強い力で引っ張られた。

「――っ!?」

 菊は抗う暇もなく引きずられるようにして畳に倒れ込み、衝撃で床に置いていた盆の中の食器が、ガチャガチャとうるさくぶつかりあう。

「本当は羨ましいんでしょ?」

 ぎりぎりと締め上げるように菊の胸元を引っ張りながら、レイカは半笑いの顔を近づけてくる。しかし彼女の目はまるで笑っていない。

「ゴホッ……そ、んな……っ、私は本当に……」
「何が良かったよ、白々しい……あたしの男に色目を使っておいて。知ってるのよ、一平があんたにも手を出したってことは」

 サッと菊の顔から血の気が失せた。

「でも残念だったわね。一平があんたなんかを本気で相手にするわけないでしょ。あ、もしかして本気にしちゃってた? 自分のほうが一平に選ばれるって……」
「――ぐぅッ!」

 胸元を掴むレイカの力が一段と強まり、ますます締め付けられた喉が苦しくなる。

「そんなわけないでしょ! 村の掟で、花御寮候補の間は表立って手を出せないから、あたしと顔が似てるあんたで遊んでやっただけ! ただの気まぐれなのよ!」

「調子に乗るんじゃないわよ」と、レイカは最後にもう一度菊の胸元を締め上げると、押し飛ばすようにして手を離した。

「だって、花御寮に……化け物の嫁としても必要とされないあんたを、人間の男が好きになるはずがないじゃないの」

〝花御寮〟――それも村の掟のひとつである。

 人世と隔絶したような山奥の村でも貧しさに嘆くことなく成り立っているのは、ひとえに妖一族から祓魔という力を与えられたからだ。
 しかし、何かを得るには相応の代償はつきもの。
 妖一族は界背村に力を分け与える条件として、『一族に新たな黒王(こくおう)が立つ時、王の嫁となる花御寮を差し出すこと』という約束を結ばせた。
 この時の妖一族こそが〝(からす)〟と呼ばれる一族であり、最初に約束を交わした村長以外、誰一人としてその姿を知らない。
 おそらくはその名のとおり、烏の妖だろうというのが村人達の認識である。

 おかげで常日頃レイカは、『王って言っても烏なんだし、きっと陰湿で粗暴で汚い目をしたおぞましい化け物に決まってるわ』と顔をしかめて言っている。
 もちろんそのように認識しているのは、レイカだけでなく他の村人達も同じで、中には花御寮とは人を食べるための建前であり、本当はただの生け贄だと言う者もいた。花御寮として嫁いだ者のその後は一切分からず、それがまた恐怖に拍車をかけている。

「あー本当忌々しい……っ! 役に立たないなら化け物の嫁にでもなってればいいのに」

 花御寮候補になる娘の歳は十四から十九と決まっており、その間は純潔を守らねばならない。
 ゆえに、村の娘達は十四になるのを泣いて嫌がり、十九が明けるのを泣いて喜ぶ。
 今現在、菊は十八であり、レイカは十九であった。
 しかし、忌み子である菊にその資格はなく、レイカが十四になった時からずっと『忌み子のくせして、どうしてあんたのほうが良い思いしてんのよ! この、役立たず!』と、事あるごとに折檻を受けてきた。
 しかしそれもあと少しだ。
 彼女が来月の誕生日を迎え二十歳になれば、怒りも多少はマシになるだろう。

「まあでも、あたしももう候補から外れるからいいけど。ただ……他の女の子達はいつ花御寮に選ばれるか怯えて過ごしてるってのに、あんただけのうのうと生きてんのは腹立つのよね」

 すっくと立ち上がったレイカは、畳の上で咳き込んで丸くなっている菊を上から睨み付け、くっと口角をつり上げた。

「ああ、そうだわ。あたしと一平が結婚したら、あんたも使用人として一緒に連れて行ってあげる」
「そ……っ!」

 そんなのは嫌だ、と言えたらどれだけ良かっただろうか。
 しかし、レイカや叔母達がいるから生きていけている菊は、唇を噛み言葉を飲み込むほかなかった。

 ――私は、生まれてきてはいけなかった忌み子だもの……。

 畳の上で握られた菊の拳が小刻みに震えているのを見て、レイカが菊の耳にそっと口を寄せる。

「勘違いしないでねぇ、菊。姉としての優しさなんだから。愛される喜びを知らないあんたに、愛されることがどれだけ幸せかを教えてあげようって姉心なのよ」

 柔らかい声で言っていたが、その内容にぞっとした。
 それはつまり、愛されることはない自分との違いを、一生見せつけられ続けるということ。
 そして、レイカは菊に呪いにも似た言葉を吐いた。

「どうせ、一生あんたはひとりぼっちなんだから」

 レイカは「あははははは」ととても愉快そうに笑いながら、部屋を出て行ってしまった。あとにひとり残された菊は、俯いたまましばらく立てなかった。



        ◆



「……はぁ……はぁ……っ」

 夜になり、菊は屋敷を抜け出し雑木林の中をずんずん進んでいく。
 こすりすぎた目尻が冷気にあたってヒリヒリと痛んだ。
 月は雲間に隠れ、昨夜と違って足元がおぼつかない。それでも菊は、できるだけ人けのない寒い方へ寒い方へと進んでいく。
 頭の中では、昼間にレイカから言われた『一生ひとりぼっち』という言葉がぐるぐると渦巻いていた。

「……っそんなの分かってるわ」

 覚悟していたことだ。
 しかし、誰かの口から改めて言われると、言葉が示す将来に心が凍えそうだった。身体を抱きしめ、その場でうずくまる。しかし、いくら肌をさすろうとも身体は温かさを感じなかった。
 突然、バサバサッと頭上で大きな音がして驚きに顔を上げれば、星が輝く黒い夜空の中に一段と濃い黒があった。目を凝らして見ていれば、それは突如両腕を広げたように大きくなり、先ほど聞いたものと同じ音をたてて菊の前に舞い降りる。
 ちょうどその時、雲間から顔を出した月が薄光を地上に落とした。

「あなたは昨日の……」

 目の前にいたのは、羽先と瞳が紫色の特徴的な烏。

「あ、そうだったわ。これを持ってきたの」

 菊は懐から、赤や茶の木の実や干し柿を取り出し、烏の前に並べていく。

「と言っても、もう充分に飛べるようだし必要ないかもしれないけど……」

 木の上から舞い降りてくる姿はとても雄々しく、怪我をしているとは思えないほどだった。
 きっと人が用意したものより、もう自分で食べたいものを獲れるのだろう。こんなことでも自分はやはりなんの役にも立てないな、と菊は苦笑したが、烏は赤い実をひとつくわえると、コクンと食べて見せたのだ。
 まるで、礼を言うように。
 烏の行動に、菊は目を丸くして瞬かせ、ふっと小さく噴き出した。

「ありがとう、優しいのね」

 しかしそれも一瞬。膝を抱いた腕に顔をうずめ、小さな嗚咽を漏らす。

「…………っ」

 烏の行動に優しさを見出してしまった自分は、それほど人世では優しさと無縁なのだなと思い知らされてしまった。
 きっとこの先も、自分は一生誰かの温かさを知ることはないのだろう。
 それでも、それが忌み子である自分の宿命。

「私は一生……ひとりぼっちだわ……」

 寒くて凍えそうな夜、一羽の烏だけが菊の寂しさをじっと見つめていた。





        3



 菊が紫色の烏と出会って半月、寒々しかった木々に緑が芽吹きはじめ、落ち葉の下から新たな命が顔を出しはじめた早春の頃。
 界背村の集会所は、異様な緊張感に包まれていた。
 場に集まったのは村長の他、顔役と言われる村でも大きな有力家の面々。その中にはレイカの父親も含まれており、彼は今し方村長が言った言葉に、苦々しい顔で腕組みをした。

「本当ですか、村長……新たな黒王が立ったというのは」
「ああ。先日、使者がわしの枕元に立ちおった」
「その使者が偽物ということは……っ!」
「お主は、人語を話す烏を見たことがあるか?」

 ジロリ、と村長の横目を向けられ、レイカの父親は出かかっていた言葉を飲み込む。
 しかし当然、戸惑いを胸に抱いたのはレイカの父親だけのはずがなく、彼ひとりが黙ろうと、車座になったあちらこちらからザワザワと声が上がっていた。次第にざわめきも大きくなり、そしていよいよ場に不安が充満しようとした時、村長が煙管(キセル)を灰落としの(ふち)に「カンッ!」と打ち付け、静寂を取り戻した。

「嘘か真かなどどうでもいい。とにかく向こうは花御寮を欲していて、こちらは契約通り、誰かひとり村娘を差し出さねばならぬということだ」

 顔役達が一斉に俯いた。膝の上で拳を握るものもいれば、顔を両手で覆ったり額を抑えたりして呻いているものもいる。
 彼らには年頃の娘がおり、それはレイカの父親も例外ではない。

「なぜ、今なんだ……っ」

 あと半月、いや、一週間後にはレイカは候補から外れる予定だったというのに。唇を噛むも、どうしようもなかった。

「仕方ないのさ。そうやってこの村は生きてきたのだからな」

 再び、村長が煙管を二度、カンカンと灰落としの縁に叩きつければ、呻いていた者達の顔が上がる。
 村長は車座の真ん中に、何十人と花御寮候補の名前が記された連判状を広げた。紙に記された名前の多さを目の当たりにすれば、少しは落ち着いたのか、顔役達の表情に少しだけ安堵がおとずれる。
 皆が皆、これだけいるのなら自分の娘には当たることはない、と思っていたのだろう。

「さて、嫁選びを始めるとするか。神事ゆえ、決定後は掟に背くこと、逃げることは許されぬからな」

 固唾を飲んで皆が見守る中、村長は懐から取り出した小刀を脇に置いていた酒で清め、祝詞を唱えると、連判状の上めがけて放り投げた。
 小刀は空中でクルクルと回転しながら連判状へと落ちていき、一人の名前に刃を突き立てた。
 誰だ誰だと、興奮気味に一斉に紙に群がる。
 そして名前を確認すれば、皆、安堵半分申し訳なさ半分といった曖昧な表情で、顔面蒼白になった一人の男を見遣ったのだった。



        ◆



「いやああああああああああっ!」

 その日、古柴家では朝からレイカの喉が裂けんばかりの絶叫が響いていた。

「なんでっ! なんで、あたしが化け物に嫁がなくちゃいけないのよ! あたしはもう対象外になるはずでしょ!?」

 レイカが、新たに立った妖一族の王への花御寮として選ばれたのだ。
 屋敷中に響き渡る拒絶の声に、使用人達も何事だと仕事場を離れ、声のする広間をのぞきに集まってくる。そこではレイカが畳に突っ伏してむせび泣き、同じく叔母も膝を折って叔父の足に縋りついていた。

「そうです、あなた! どうしてうちのレイカなんですか!? どうして、あと半月後にやってくださらなかったんですか!?」
「俺だとて、娘を差し出したくはないに決まっているだろう! だが、仕方なんだよ……っ、神事で決まったものは覆せない。それがこの村の掟なんだ!」
「あの子の母親は掟を破ったんですよ!?」

 叔母は、癇癪的な声を上げながら、使用人の中にまぎれるようにして様子を窺っていた菊を指さした。
 叔母の瞳は、今にも菊を射殺さんばかりに睨み付ける。
 化粧が混ざった黒い涙を流す血走った目は、人とは思えぬそれこそ悪鬼のような恐ろしさがあり、使用人達は火の粉が降り掛からぬようにと皆、菊から距離をとった。
 視線を向けられていた菊も、叔母の凄まじさに息をのみ、身を強張らせる。すると、叔母はドカドカと大股で菊に近づき髪を鷲掴むと、引きずるようにして広間に投げ倒した。
「きゃっ!」と菊のか弱い悲鳴が上がるも、叔母は構わずに菊を足蹴にする。

「なんで忌み子は候補にもならなくて良くて、掟を守っている私達の方がこんな苦しい思いをしなきゃいけない! の! よ!」
「――痛っ! あ……す、みませ……ッ」

 叔母は、着物の裾がはだけるのも気にせず、横たわった菊の細い身体を何度も何度も罵声と一緒に踏みつけた。
 そのたびに菊の口からは痛々しい悲鳴が上がるも、しかし、誰ひとりとして止めようとするものはいなかった。皆、眉をひそめて顔を逸らすばかり。広間には叔母の癇癪な金切り声と、菊のくぐもったうめき声だけが響くばかり。

「お前なんか……っ! 母親にすら捨てられて! 誰にも必要とされてないのよ!! だったらせめて、化け物への供物にでもなって役に立ちなさいよっ!」

 菊を折檻すれば収まるかと思いきや、叔母の怒りはまるで衰えない。使用人達は目を覆いたくなる光景から逃げるように、静かに各々の仕事場へと戻っていった。

 ――ぃ、で……捨て……ない、で……。

 菊は視界に映るたくさんの足が、ひとつ、またひとつと去って行くのを、ただぼんやりと眺めているしかできなかった。視界がかすみ始めれば、次第に意識が遠のいていく。

 ――ひとり……は……いや…………。

 救いを求めるように伸ばそうとした手は、菊の意識が途切れると一緒にパタリと畳に落ち、動かなくなってしまった。




 
 それを見てようやく叔母は怒りを収め、はぁはぁと浅い息をつきながら額に浮かぶ汗を拭う。
 すると、すっかり静かになった広間で、レイカが「そうだ」とぽつりと呟いた。
 レイカはすっくと立ち上がると、先ほどまで泣き伏していたのが嘘のようま機敏な動きで、広間のふすまを次々と閉めていく。
 そうして、外からの目を全て遮断した中で、彼女は笑う。

「ねえ、お父さんお母さん。あたしを化け物に嫁がせたら後悔するわよ……?」
「ど、どうしたんだ、レイカ。それに後悔って……どういう……」

 薄暗い部屋の中、突然様子がおかしくなったレイカに、父親も声を詰まらせる。しかし、レイカはくすくすと笑うばかり。

「後悔したくないでしょ? だからぁ、あたし……いーこと思いついちゃったんだぁ」

 涙で化粧がどろどろに溶けた顔で、瞳を真っ赤にしてニタリと場にそぐわぬ笑みを浮かべる凄絶なレイカに、親である二人ですら背筋を冷たくしていた。



        ◆



 いつもなら皆が寝静まる丑三つ時。
 ただし今夜は、村から裏山の中腹にポツンと佇む鳥居まで、赤い手燭の灯りが列をなしている。
 ただでさえ夜だというのに、木々が乱雑に生い茂っているせいで辺りは恐ろしい程に暗く、まるでそこにあるのが間違いだとばかりに、鳥居の朱色は異様に目立っていた。
 そんな中、鳥居の前にひとり残された、白無垢姿の菊。
 村人や古柴家の者達は、嫁入りの口上を言い終えるとその場に留まるのを嫌がるように、そそくさと山を下りてしまった。

「どうしてこんな事に……っ」

 菊は両手で顔を覆った。



 
『レイカの代わりに花御寮になってもらう』と、菊は目覚めた座敷牢の中で、叔父から聞かされた。
 拒む時間さえ与えてもらえなかった。
 その日から今日までの一週間、古柴家の座敷牢は本来の役目通りの使われ方をすることとなった。牢にはしっかりと鍵が掛けられ、菊は昼夜問わず一切の外出を禁じられた。入れ替わることがばれないよう、使用人にも暇が出され、古柴家はまるで葬式のように暗さに包まれていた。
 しかし、古柴家の変化を村人の誰ひとりとして怪しむ者はいなかった。ひとり娘を妖の嫁に奪われるのだから、と同情的に見守っていた。

 そうして、レイカではなく菊が、絶対に着ることはないだろうと思っていた花嫁衣装に身を包み、生まれて初めて叔母と叔父に手をひかれ、今夜、花御寮として黒王へと嫁入りする。
 レイカと背格好が似ていたということもあり、喋らずに俯いていれば白無垢の綿帽子のおかげで、村人達から入れ替わりがばれることはなかった。もしかしたら、化け物に嫁ぐのを憐れに思って、皆まともに花御寮を見られなかっただけかもしれないが。
 その入れ替わったレイカであるが、彼女は嫁入りのほとぼりが冷めるまで、菊と同じように座敷牢で生活し、その後に村を密かに出るのだと聞かされた。
 そして、恋人である一平という男と村の外で結婚するつもりだと。
 菊が座敷牢から出て行くとき、入れ替わるようにして残ったレイカに、『感謝しなさいよ』と嘲笑と共に言われた。
 どうやら『そんな綺麗な花嫁衣装に身を包んで嫁げることを感謝しろ』ということらしいが、相手は常日頃彼女が『化け物』と謗っている相手ということを考えれば、皮肉だったのだろう。

「黒王の花御寮になるってことは、ひとりぼっちではなくなるっていうこと……なのよね」

 しかし――。

「やっぱり、食べるための花御寮なのかしら」

 黒王がどのようなものなのかは、まったく分からない。
 もしかすると、婚儀を終えた瞬間にくちばしで啄まれるかもしれない。
 それに――。

『いいかい! 死にたくなけりゃ、絶対に身代わりってばれる真似はしないことだよ。さもないと、烏たちのくちばしがお前の肉を啄むからね!』

 それは鳥居の前に菊を残していく時、叔母が菊の耳元で凄んだ言葉だった。

「……怖い……っ」

 身を守るように、菊は皺ひとつない白無垢のあわせをギュッと握りこんだ。

 ――それにもし、身代わりだってばれなかったとしても、この身体のことが知られたら……っ。
 不興を買って惨たらしく殺されるかもしれない。

 恐怖にぶるりと震えた身体を、菊は無意識に抱きしめていた。
 背後を見遣れば、ぼろぼろの石段が、ぽっかりと黒い口を開けた山へと飲み込まれていく。その先にチラチラと見える点のような赤い光は、村人達の手燭だろう。
 もう、どんなに声を上げても誰も気付かない。
 古柴家から菊の存在が消えても、きっと誰も気にしない。
 眼下に見える小さくなった村の家々。彼らには明日も変わらぬ朝がやって来る。
 自分は朝を迎えられるか分からないのに。

「…………っ」

 ――なんのために私は生まれてきたの……っ。

 この生を喜んでくれた者がひとりでもいただろうか。

「仕方ない……私は忌み子だもの……」

 もしかすると、レイカの代わりに贄として食べられるために、生まれてきたのかもしれない。であれば、生まれて初めて誰かの役にたったと、必要とされたと言えるのではないか。
 しかし、無理矢理前向きに思い込もうとするも、やはり怖いものは怖い。

「……このまま、この山を下りたら……」

 逃げられるかも、と甘い誘惑が菊の足進ませようとした時だった。
 チリン――と、鈴のような細く甲高い場違いな音が鳴り響いたのは。
 はっとして振り返った菊が、鳥居の向こうに広がる暗闇へと目を向ければ、宙空からぬるりと人の手だけが現れた。

「ひ……っ!」

 あまりの現実離れした光景に、菊の喉は引きつり勝手に足が退がる。
 しかし、現れた手は逃がさないとばかりに菊の手首を掴み、強引に鳥居の内側へと引き込んだのだ。

「きゃあっ!」

 次の瞬間、菊は正面から何かにぶつかった。しかし、ぶつかったそれは硬くも痛くもなく、むしろ菊の身体を支えるような優しく温かいもの。

「お前が俺の花御寮か」

 しかし、頭上から聞こえた男の低い声は、春先の夜風と同じくヒヤリとしていた。
 菊が顔を上げると同時に、綿帽子がふわりと脱がされる。

「…………ぁ」

 二人の視線が絡み合い、菊は息をのんだ。
 男は先ほど〝俺の〟花御寮と言った。ということは、彼こそが菊が嫁ぐ黒王ということ。

 ――こ、これが……黒王様……っ。

 菊の真っ白な花嫁衣装とは正反対の、漆黒の羽織袴を纏ったうら若き青年。
 菊より頭ふたつ分背が高い黒ずくめの青年は、そこに立っているだけで他者を圧倒するような空気があった。
 彼はどうしてか、切れ長の凜々しい目を大きく見開いていた。

 ――もしかして、ばれたんじゃ……!?

 ニセモノと気付かれたのかもしれない。
 そう思った瞬間、手は震え、思わず手を置いていた青年の羽織をぎゅうと握ってしまう。
 しかし男は、一度瞬きをした後には、元の涼やかな目に戻っていた。
 月明かりの陰が落ちた暗い顔で、冷ややかに菊を見下ろしている。

「俺が、お前の夫となる(からす)一族の長である黒王だ」

 男の綿帽子の脱がせ方は驚くほど丁寧で、髪の毛一本たりとも引っ掛けぬようにとの気遣いが窺えたというのに、向けられる瞳は、冬の池にはった氷のように冷たく、奥が見えないくらいに(くら)かった。

「俺の妻となるか、〝レイカ〟」

 自分ではない名前を自分に向けて呼ばれる。
 それがこれほどに虚しいものだと初めて知った。
 しかし、これが自分の運命。

「……っはい」

 受け入れるしかないのだ。
 男は弱々しく返事をした菊の顎に手をかけると、クッと上向かせ、触れるだけの口づけを落とした。
 彼は自分の夫となる黒王。
 それは同時に、自分が偽り続けなければならない相手。
 触れられた手も唇も温かいというのに、菊の心は凍えそうだった。


 ――私は忌み子で、ひとりぼっちで、偽物で……嘘を吐いている。
 


 

        1

『おぞましい化け物』とは誰が言ったのだったか。
 夫となった黒王は、そんな言葉とは無縁の美しさをもっていた。
 月明かりにしっとりと輝くひとつに結われた黒髪は、風に靡く瑞兆の尾のような優雅さがあり、精悍な目つきからは、女である自分よりも濃い色気が漂っていた。
 こうして今思い出してみても、とても烏のあやかしだとは思えない。

 年の頃は二十をいくつか過ぎたくらいか。
 村で目にする同年の男よりも纏う空気に品があり、今まで見てきたどのような人間よりも、菊は彼こそが一番美しい人間だとすら感じたものだ。
 深夜にひっそりと行われた、黒王と菊の二人だけの嫁入り。
 誓約の口づけだけが交わされ、その後はもう遅いからと、連れられた部屋で休むようにと言われた。畳敷きの部屋には既に布団が敷かれており、そこが寝所だということがうかがえた。
 このまま彼と初夜を過ごさなければならないのかと焦ったが、しかし、黒王は「おやすみ」とだけ言って、すぐに踵を返して部屋を出て行ってしまったのだ。
 あまりのあっけなさに、菊は拍子抜けすると一緒に安堵した。
 長らくの緊張から気が緩んだこともあり、菊は横になった瞬間、そのまま夢の世界へと旅だったのだった。



 そして、今朝。
 女の柔らかな声に起こされ、布団から出てきてからは驚くことばかりである。
 まず、菊にはひとりの侍女と、いくらかの女官がつけられた。
 今まで使用人として使われることはあっても、誰かに世話を焼かれることのなかった菊にとって、それは喜びよりも驚きや戸惑いのほうが大きかった。
 食事の時も座っているだけで良く、最初、目の前に用意された食膳を見て、菊は首を傾げたものだ。
 誰かの配膳を手伝えということなのだろうと思い、「どちらへは運べばよろしいでしょうか」と女官に尋ねれば、慌てて「花御寮様のです」と言われ驚いた。
 もしかしたら寝ているうちに自分は食べられて、既に天国に来てしまったのではないかと、菊は本気で錯覚した。
 天国とは自分でも図々しいとは思うが、そうとしか思えないような扱いなのだ。

『人を食べたいがために、花御寮を欲しがっているに違いない』と村では言われていたのに、食べられるどころか、菊に出された食事は古柴家の者達が食すものよりはるかに豪勢なものばかり。
 丸々と太った鮎の塩焼き、蕗の煮付け、豆腐の山椒和え、冬瓜の煮物、蕪の味噌焼き、山盛りの木苺。どれもが生まれて初めて口にする味で、「美味しい」以外、気の利いたことも言えなかった。
 立ち上がれば『どちらへ行きましょうか』と尋ねられ、座れば『本でもお持ちしましょうか。それとも、貝合(かいあわせ)でもなさいますか』と、とにもかくにも菊を下に置かぬ扱いなのだ。
 さすがに、着替えを手伝われそうになった時は、恥ずかしいからとひとりで着替えさせてもらったが。
 そして、驚きは身の回りのことだけに尽きない。

 つるりと輝く板張りの廊下に、ひとりでは多すぎる部屋の数々。その中でも、東棟の一番奥にもうけられた庭に突き出た板張りの広間は特にだった。
 広々とした広間には几帳がいくつも立ててあり、薄紅色の美しい織り地の几帳(きちょう)は、風が吹き込めば目にもあやな光景を作り出す。菊が座る場所には五色の(へり)が鮮やかな(しとね)が敷かれ、つるっとした漆塗りの厨子(ずし)や文机や唐櫃(からびつ)
 まるで、古の絵巻の世界のようだ。
 黒王の屋敷はいくつもの棟が渡殿(わたどの)で繋がっており、うかつに歩き回れば迷子になってしまいそうなほどに広い。界背村の村長の屋敷など比べものにならない。
 菊には、黒王の住まう母屋に繋がった東棟が与えられている。
 東棟の中でもいくつもの部屋が連なっており、移動もちょっとした散歩気分だった。

「花御寮様、どうされましたか? 先ほどからずっと外を眺めておいでですが」
「あっ、わ、若葉さん……いえ、その……」

 屋敷の説明を一通り聞き終え、広庇でぼうっとしていたら、侍女の若葉が隣にやってくる。前髪の一部が緑色になった特徴的な侍女だ。

「……夢のような場所だなって……」

 菊はまじまじと、己の手首に絡む柔らかな袖を眺めた。
 桃花色の生地に、純白の糸で小花が刺繍してある着物は美しいの一言につきる。上から紗の白羽織を纏えば、まるで目の前に見える桜から作られたようだ。
 菊が座っている張り出した広庇からは、たくさんの桜の木が見えている。
 (かすみ)のようにあちらこちらで芽吹き始めた桜に目を向ければ、若葉も「ああ」と一緒に目を向ける。

「三分咲きというところでしょうか。最近は我が郷も暖かくなって参りましたから、五分までくればあっという間に満開ですよ」

 楽しみですね、と微笑まれ、菊は「そうですね」と曖昧な笑いしか返せなかった。
 これも、菊が目を覚まして驚いたことのひとつである。
 若葉や女官が見せる柔らかな笑みや気遣いや優しさは、菊が生まれて初めて受けるもので、正直どのような反応を返して良いのか分からないのだ。

 ――それに……彼女達の優しさは、本来私に向けられたものじゃないもの。

「どうされました、花御寮様?」

 すっかり黙り俯いてしまった菊を、若葉が眉を下げて心配そうに覗き込んできた。後頭部の高い位置で結われた彼女の髪が、肩口でゆらゆらと揺れている。

 ――この心配も、〝私〟じゃなくて〝本物の花御寮〟へのもの……。

 彼女達の優しさを嬉しく思う反面、心のどこかで『自分はニセモノなのだから』と引っかかって素直に喜べない自分がいた。

「私なんかにこんなに良くしてもらって、その……申し訳なくて」
「そのようなことを仰らないでください。花御寮様は、黒王様の妻となられる方で、わたくし共にとっても大切なお方なのですから。良くすることが当たり前で、花御寮様がそのように遠慮なさることはないのですよ」

 膝に置いていた手を、若葉にギュッと握られた。
 しっかりと五本の指があり健康的な色をしている若葉の手は、菊の手と同じ形をしている。違いといえばひとまわり大きいことくらい。
 彼女もこの郷に住んでいるということは、烏のあやかしなのだろうが、頭の先から爪の先までどこをどう見ても同じ人間にしか見えなかった。

 ――不思議。人間の手よりもあやかしの手のほうが温かいだなんて。

 村では、菊を無理矢理に引っ張る手や頬を叩く手は、どれも冷たかった。
 そういえば、黒王の目は冷たかったが、触れられた手は温かかったな、などとその時の心地よさを思い出して、菊はハッと頭を横に振った。

 ――だ、駄目よ! あれは私が受けるべき温かさではないんだから。

 そういえば、と昨夜彼に言われた言葉を思い出す。

「あの、若葉さん。黒王様との婚儀はいつになるのでしょうか。昨夜のは婚儀ではないと黒王様に言われたのですが」
「昨夜のは迎えの儀でしたからね」
「迎えの儀、ですか?」
「わたくし達鴉一族に伝わる婚儀までの儀式のひとつですよ。深夜、夫となる男がひとりで妻になる女のもとを訪ねるのです。そこで男は女に妻になってくれるかを問い、女は諾否を返すというものです。ここで女の承諾が得られてはじめて、婚儀が行えるようになるのですよ。黒王様より儀式のことは聞かれませんでしたか?」
「いえ、何も……」

 それどころか、あの『俺の妻になるか』という言葉が、儀式の問いだとも思わなかった。当然、『いいえ』などという選択肢はないのだから、素直に『はい』と頷いたのだが。
 黒王は一言もそのようなことは教えてくれなかった。
 口づけの後、彼は『正式な婚儀は改めてする。着いてこい』と言ったきり、この東棟に入るまでずっと無言だったのだから。
 おかげで気まずくて、俯いた視界にあった彼の白い足袋と、黒袴が揺れている姿しか覚えていない。
 すると、若葉が耳元に顔を寄せてきて囁いた。

「婚儀の日と言えば初夜ですね、むふふ」
「――っ初夜ですか!?」

 当然、結婚すればそのようなこともあると知ってはいたが、それよりも入れ替わりの事実がばれないかばかり気になって、すっかり忘れていた。

「あら、もしかして初夜のことも黒王様はお話になってないと……。まったく黒王様ったら、相変わらずの面倒くさがりやなんですから」
「ほう、誰が面倒くさがりだと?」

 若葉が頬を膨らませて「もうっ」と言った瞬間、背後から厚みのある逞しい声が聞こえた。
 それは当然、女官の声などではなく――。
「こ、黒王様!」と、菊は慌てて床に額をつける。

「そんなに畏まる必要はない。顔を上げよ」

 菊は怖ず怖ずといった調子で上体は起こせたのだが、顔までは上げられなかった。
 昨夜向けられた冷たい視線が、また頭上から向けられていると思うと、とても顔など上げられない。
 菊の視界には、黒王の黒い袴の裾と白足袋だけが映っているのだが、しかし次の瞬間、ぬっと目の前に黒王の顔が現れた。

「ひゃっ!?」

 驚きの声と一緒に菊の顔も跳ね上がる。
 どうやら彼は、膝を折ってまで自分の顔を覗き込んできたようだ。目の前で胡坐をかいて、黒王という名に相応しい黒い瞳で、じっとこちらを見てくる。

 ――何かしたかしら。

 視線に戸惑いを覚えていると、ぬっ、と黒王の手が伸びてきた。
 男の大きな手に、過去の記憶が脳裏に再生される。

「――っ!」

 次の瞬間、菊は首を竦めて身を強張らせた。
 しかし、覚悟していた痛みはなく、代わりに髪を撫でるような感覚があっただけ。

「散り花がついていただけだ」
「あっ……も、申し訳ございません」

 額を打ち付けそうな勢いで頭を下げる菊に、頭上からハッ、と鼻で笑う声が降ってくる。

「レイカ」

 呼ばれた名前にツキリと胸が痛みつつも、怖ず怖ずと顔を上げる。
 それでもやはり視線は上げられない。

「俺が怖いか?」
「そのようなことは……」

 ある、とはさすがに言えない。
 中途半端に切ってしまった言葉が、気まずく二人の間をただよっていた。

「――っあの、黒王様。婚儀の日取りはいつになりますでしょうか?」

 言った後で菊は『あ』と後悔した。
 話題を逸らさねばと思い、咄嗟に出てきたのは、まるで菊が黒王との婚儀を望むような言葉。

「ほう?」

 案の定、黒王はニヤリと目を細め、興味が滲んだ声をだす。

「今、婚儀に相応しい日を選ばせている。決まったら言うからもうしばらく待て。それとも――」
「きゃっ!?」

 突然、黒王に腕を引っ張られ、菊は彼の胸に飛び込んでしまった。そして、覆い被さるようにして耳元で囁かれる。

「そんなに早く俺と閨事をしたいのか?」
「ね、やご……と?」

 言葉を雛鳥のように片言で復唱した菊だったが、次の瞬間、ぼっと顔が赤くなる。

「ね、閨――!? っと、とんでもありません! いえ、あの……っその……!?」

 色気のある声で囁かれ、余計にそういうこと(・・・・・・)を意識してしまった。

「黒王様、あまり花御寮様を揶揄われないでください。それに、急に手を引くのはおやめなさいませ。人間の身体はわたくし共妖と違って繊細なのですから」
「揶揄ってなどいない。俺はレイカの意思を確認しただけだ」
「左様でございますか」と、嘆息した若葉が菊を黒王の手から救出する。
「花御寮様、痛いところなどはございませんか」

 揶揄われただけだと知り、菊はホッと安堵の息を吐いて大丈夫だと答えた。
 それに痛いどころか、黒王が触れた手は驚くほどに優しく、引っ張られても痛くはなかった。

 ――昨夜も思ったけど、どうして黒王様の言葉や視線はちぐはぐなのかしら。

 向けられる視線や言葉には冷たいものが含まれるが、反対に自分に触れる手は驚くほど優しい。
 その違いはどこから来ているのだろうか。
 しかし、菊には黒王の事など何も分からない。
 おかげで少しの推察もできず、微かな疑問は瞬く間に思考の中にかき消えた。

「まあ、いい。たとえレイカが嫌がろうと、子は残してもらわねばならないからな。そのための花御寮だ。責任は果たしてもらうぞ」

 腰を上げた黒王は、また温度のない昏い瞳で菊を見下ろしていた。
 ゾクッと、背中に冷たいものが落ちる。

「……子供……」

 菊は自分の腹に触れ、しかしすぐに腫れ物にでも触れたように拳を握った。
「ではな、俺の花御寮殿」と言って遠ざかっていく黒王の足音を聞きながら、菊は自分に残された時間についてを考えざるを得なかった。

 ――初夜でこの身体を見られてしまえば、全てが明らかになってしまうわ。

 ニセモノとばれるまで――つまり自分の命は、長くても初夜までということか。
 菊は、満開の桜は見られるだろうか、と欄干の向こうを眺めていた。



        ◆



 鳥居の向こうから現れたのは、白無垢を纏った小柄な少女だった。
 子供かと思ったが、奏上で述べられた年齢を思い出し、二十三の自分より五つも下なら当然かと納得した。
 綿帽子の下から覗く、烏と同じ真っ黒な前髪。前髪以外は白に包まれ、月明かりの中、輝くように際立っていたのが印象的だった。
 最初に思ったことは『これが俺の花御寮か』という、身も蓋もないことだった。
 どうせ、人間には化け物だなんだと思われているのだし、最初から花御寮には何も期待していなかった。子供さえ産んでくれれば、あとは勝手にしてもらっていい。
 しかし、綿帽子を脱がせ、見上げてきた彼女を見て驚いた。
『もしかして』という喜びがわきそうになったが、自分を見上げてくる彼女の目は怯え、胸元を握る小さな手が震えていれば、そのような甘い考えはたちまち消えた。




 黒王は、東棟から戻ってきた私室でひとり自分の手を眺め、溜息を吐いた。

「なんて溜息を吐いてるんです。新婚が吐いて良いものじゃないですよ」

 中性的な軽やかな声が聞こえたと思ったら、衝立の向こうからひょこっと顔を覗かせ、近侍の灰墨(はずみ)がやって来る。
 灰がかった色の髪は、彼が歩く度にふわふわと揺れ、見るからに柔らかそうだ。
 灰墨は目の前までやって来ると、ちょこんと黒王と対面して正座する。

「灰墨、部屋に入ってくる時はまず声掛けをとあれほど……」
「堅いこと言わないでくださいよ。僕と黒王様との仲じゃないですか」
「まったく、お前は」

 灰墨は、近侍であると同時に、幼い頃から共に育ってきた四つ下の乳兄弟である。おかげで近侍だというのに、昔からの関係で他の者よりも言葉や態度に遠慮がない。しかし、今まで誰も矯正してこなかったのは、黒王自身がそれで良しとしてきたからだ。
 大人になり肩書きがつくほど責任は重くなるのに、周囲との距離は開いていくばかり。そんな中、灰墨の態度は黒王にとって昔のままでいれる貴重なものだった。

「それで、黒王様。先ほどの憂鬱そうな溜息はなんなんですか。つい先ほどまで、花御寮様を訪ねられていたはずでしょう? 新婚初日とは思えないですね」
「まだ婚儀はあげてない」

「はいはい」と灰墨に適当にいなされ、黒王は今度はわざとらしく不満を訴えた溜息を吐く。
 しかし、灰墨は気付いているのかいないのか、どこ吹く風とケラケラと笑っている。

「あー、やっぱり花御寮様のことがお嫌いなんですね? であれば、さっさと村に返しちゃいましょう! それが良いです! こんな古くさい因習なんか終わりにしましょうよ!」
「そう簡単にできることでもないし、そういう意味の溜息でもない」
「でも、黒王様は人間がお嫌いでしょう? 僕も嫌いですよ」

 黒王は灰墨の問いに答えを窮した。
 結局、黒王は否定も肯定もせず、話を続けることを選んだ。

「灰墨、お前が以前から花御寮について納得していないのは知っているが、俺の一存でなくせるものでもない。なくしたければ、お前が各里の里長達を集めて説得して回るんだな」
「えー! あんな頭が石仏と変わらない方達を説得だなんて、絶対無理じゃないですか!」
「そういうことだ。諦めろ」

 納得できないのか、灰墨は「えー」と言いながら畳の上にぐでんと上体を倒していた。いつまでたっても、甘えたな弟気質は治らないようだ。

「お前、もう十九だろう。もっとしっかりしろ」
「いいんです、他ではしっかりしてるんで。これは黒王様の前でだけです」
「そんなこと言うのはお前くらいだよ。普通は逆だ」

 思わず黒王もフッと小さく笑みを漏らしてしまう。

「それと、灰墨。花御寮についてだが、お前から聞かされた話と些か違う気がするんだが」

 迎えの儀の前に、村からは花御寮の名前と、迎えの儀の日取りが書かれた紙が村の神社に奉納される。
 あの神社は、鴉の郷から現世に行くための通路となっている。
 常世側からしか繋ぐことはできず、人間にはただの神社でしかないのだが、まあ、妖の世と繋がっていると知っていて近寄る人間はいない。
 灰墨が取りに行った紙には、花御寮の名前として『古柴レイカ』と記されていた。
 別に誰が来ようと同じと思っていたし、名前を聞いても少しも興味は沸かなかったのだが、灰墨が『どんな女か見てやりますよ!』と勇んで出て行ったのは記憶に新しい。
 そうして持って帰ってきた古柴レイカについての報告というのが――。

『村の顔役の娘ということもあり、性格が悪く高飛車であり、村娘達の中心的存在』

 というものだった。

「僕は花御寮様と会ってないのでなんとも言えませんが、昨日の今日ですし、まだ猫被ってるだけかと思いますよ」

「いや」と黒王はすぐに否定する。

「そんな器用なことができる人間ではない」

 これには灰墨がきょとんとした顔で首を傾げた。

「まるで良く知っているような口ぶりですね」
「あ、いや……今日接した感じからそう思っただけという話だ。露骨に俺を怖がっていたしな」

「ふぅん」と、灰墨はさほど追求せず流し、黒王は胸をなで下ろした。
 黒王は、彼女を知っていた。
 ただし〝花御寮〟という認識ではなく、名前も知らないただの界背村の村娘としてだが。
 しかし知っていたことで、この現実に落胆を覚える羽目になっていた。

「……灰墨。人間は現世の烏にどんな感情を抱いている」
「ええー、またそれ言わせます? あまり気分の良いものじゃないですけど……不吉の象徴だの、死神だのと随分な言われようですよ。本当、勘違いもいい加減にしてほしいですよね! こちとら太古の昔から、神使として神の眷属に連ねられているってのに!」
「そうだ、烏は嫌われ者だ」

 自分で言って、黒王は自嘲した。

「……その嫌われ者の烏よりも、俺達のほうが嫌いということか」
「ん? 今、何か仰いました?」
「いや、独り言だ」

 灰墨がツラツラと鴉一族のゆえんをひとり熱弁しているのをよそに、黒王は開け放たれた障子から景色を眺めた。
 桜の木の枝には、ぽつりぽつりと薄紅色の花が咲いている。
 別に彼女の性格まで全て知っていたわけではない。
 ただ、他の人間よりも少しは優しいのかもしれないと思っただけで。
 しかし、やはり常世の者に向ける感情は違うのだろう。
 ちょうどいい。性格が悪い娘をと望んでいたのは自分ではないか。
 この夫婦関係はただの習わしでしかない。義務的に役割だけをこなせば良い。
 胸に覚えた感情など、さっさと忘れてしまえ。



        2



 花御寮として嫁入って四日が経った。
 菊は杉の香りが漂う湯殿で、ひとり風呂に浸かっていた。
 初日、女官達が湯浴みの手伝いをすると言って、一緒に湯殿の中までついてこようとしたのだが、それは菊が必死に止めた。しばらく女官達はそれも仕事だからと譲らなかったが、三日も言い続ければ折れてくれた。
 単純に恥ずかしいし、何よりこの身体は誰にも見られてはならない。

「やっぱり、私なんかが花御寮になるべきじゃなかったのよ」

 元より、自分に花御寮になる資格などなかったのだから。
 若葉をはじめ女官達は、菊にとても良くしてくれる。そんな彼女らを騙していると思うと、いつも心が痛くなるのだ。

「それに……」

 菊はちゃぷっ、とお湯から出した自分の手を眺めた。彼の大きく骨張った手とはまったく違う手。
 あのような大きな手を近づけられると、どうしても反射的に身構えてしまうのだ。
 若葉達の手は大丈夫なのに、やはり自らの身に刻まれた恐ろしい記憶が蘇るからだろう。

「傷つけた……のかしら、やっぱり」

 顔を見ることはできなかったが、頭上から振ってきた鼻で笑う声には、微かに哀感が籠もっているようにも聞こえた。
 あれからも黒王は毎日菊を訪ねてくるのだが、彼は一度も触れようとしなかった。
 おかげで、余計に悪いことをしてしまったという罪悪感が、菊の中でモヤモヤとわだかまったままなのだ。
 菊は、湯気立つ温かなお湯の中に口元までを沈め、ぶくぶくと子供のように泡立てる。

 こんなこと、古柴家ではしたこともなかった。いつも最後に入るお湯は冷めきっており、浸かると風邪をひくから拭うだけで、こんなにいっぱいの温かいお湯に浸かれることはなかった。
 花御寮として迎えられ、菊はいくつもの『生まれて初めて』を経験していた。
 当然、当初に抱いていた『食べられるかも』という恐怖は今はもうない。
 しかし、どのように黒王に接したら良いかという迷いはまだある。
 結局、この生活も周囲との関係も、いつか終わるものだから。

「ニセモノなのに、こんな良くしてもらって申し訳ないくらい。せめて花御寮でいる間は、何か役に立てるようなことを探さなくちゃ」

 たとえ初夜までの命だとしても、少しでも罪悪感は減らしたかった。
「……こんな汚い女……誰も欲しがらないもの」
 暖かなお湯の中で、菊は凍えたように身体を抱きしめた。



        ◆



 ここ数日での春の陽光に空気も暖まり、日中、菊が過ごす場所は開放感あふれる広庇の広間ばかりになっていた。
 桜は今ちょうど五分咲きといったところで、日々の移ろいが景色として目に見えるというのは感動的である。

「――え、花御寮様のできることですか?」
「ええ、皆さんにこんなに良くしてもらってばかりじゃ申し訳なくて。何かお役に立てたらと思いまして」

 昨夜、自分のできることを色々と考えたのだが、これまでの人生経験が少なすぎて良いものが思い浮かばなかった。なので、本人達に聞くのはどうかと思いながらも、こうして若葉に何か自分にできることはないかと尋ねてみたのだが。

「家事は得意なんですが……」
「ふっ……あはははは! 花御寮様ったらとてもお優しい方ですのね」

 笑われてしまった。
 余程おかしいのか、若葉は身体を揺らしながら笑っては目尻に涙を浮かべている。
 若葉は、ハキハキとした気持ちのいい女性だった。
 洗練された凜とした空気をまとい、おそらく彼女に憧れる者は多いのではと予想できる。しかし偉ぶったところは少しもなく、菊の意思を汲んで、半歩ほど先回りして絶妙な手助けしてくれ、とても頼りになる。
 おかげで、菊もすっかりと若葉には心を許していた。

「もう、若葉さん。私、本気で悩んでるんですよ」
「そんなこと、花御寮様は考えられなくてよろしいのですよ。わたくし達にとって、花御寮様が来てくださったこと自体が喜ばしいことですから。でもそうですね……」

 若葉は手にしていた本を閉じると、文机の上にある菊の手を両手で包んだ。

「できることなら、どうか黒王様を怖がらないでください」

 ぐっ、と菊の首が僅かにのけぞる。

「怖がっては……」

 穏やかな苦笑顔で見つめられ、菊は取り繕うのを早々に諦めた。
 カクン、と菊の顔が俯く。

「……すみません。少し……怖いです」

 正直に言った後で、彼女達の長であり、自分の夫でもある黒王を怖いなどと言うのは、失礼だったかもしれないと後悔した。
 しかし、伝わってきたのは、若葉がふっと微笑んだ気配。

「怒らないんですか? 怖いって言ったこと」

 恐る恐る視線を上げて若葉の様子を窺えば、彼女はじっと菊を見つめていた。彼女の黒い瞳には怒りなど微塵も見えず、ただただ柔らかく笑まれている。

「わたくし達は、あやかしと呼ばれ常世に棲まう者。現世の者が恐怖を抱くのも無理はありませんから。確かにあやかしの中には人間を害する者達もおります。しかし、わたくし達鴉は、人間の血を半分受け継ぐ黒王を長と仰ぐ者達です。誰ひとりとして花御寮様に怖い思いをさせたいとは思っていないのですよ」
「黒王様も……ですか?」
「もちろんです」

 嫁入りしてから毎日、黒王は菊に会いにやって来る。
 朝一番の時もあれば、昼時や、夕暮れの時など時間はまちまちだが、しかしいつも菊の顔を見るだけで、これといった会話もなしに帰っていくのだ。
 あっても最小限の様子伺いの言葉のみ。

 ――私に会いにっていうより、義務だから渋々来てるみたいな感じなのよね。

 おかげで彼が何を考えているのか、何を自分に思っているのか分からず、それが恐れとなっているのも否めなかった。

「今は態度が冷たく感じられるかも知れませんが、黒王様は本当はとても温かなお方なのですから。花御寮様への態度が少々ぎこちなく感じられるのは、昔、とてもお辛い思いをされたからで……」
「昔?」

 若葉は苦笑しただけで、その部分については話そうとはしなかった。

 ――そうよね。他人の過去は勝手に話すものではないもの。

 しかも〝昔〟を思い出したのか、若葉は眉根をひそめ、苦痛を噛みしめるかのように口角を下げている。とても気軽に聞いて良いものではないと察せられ、菊は深追いせず口を閉ざした。

「花御寮様、黒王様をまっすぐ見てあげてください。わたくし達と接するように、何をしたいか、何が好きか、何を思っているか、ひとつずつ言葉を交わされてください」

 願いを込めるように、包む若葉の手の力が増した。

「それは、花御寮様にしかできないことですから」
「私にしかできないこと……?」

 不要と言われ続けた、忌み子である自分にしかできないこと。そんなものがあるとは。
 胸の内側に、仄かなあかりが灯ったようだった。

「私にもできることがあるのでしたら、頑張りたいです」

 意を決した顔で、菊がもう片方の手を若葉の手に重ねた時だった。

「いつの間にそれほど仲良くなったんだ」

 声に驚き部屋の入り口に顔を向けると、そこには扉に肩をもたれかからせて立つ黒王の姿があった。
 今日は珍しく黒羽織と袴の姿ではなく、紺鼠色の着流しと黒い帯という格好である。
 すっきりとした出で立ちなのに華やかに見えるのは、きっと彼の高い腰位置と、無駄のない身体の輪郭のせいかもしれない。
 そんなことを、彼の姿を目にしてぼうっと思っていれば、ギッとすぐそこで床板の軋む音がした。意識を現実へと引き戻せば、彼の黒い双眸がこちらを見ており、菊は反射的に視線を下げてしまう。
 握られたままだった手を、まるで合図のようにギュッ、と一度強く握られた。

「あ……」

 若葉と目が合えば、片目を閉じて目配せされる。

「ではでは、わたくしは仕事がありますので失礼させていただきます。どうぞお二人水入らずでお過ごしくださいませ」
「ああ、若葉。そういえばさっき灰墨が探していたぞ」
「灰墨が? かしこまりました。それではついでに訪ねてみましょう」
「え!? あ、わ、若葉さん……!?」
「ほほほー! 花御寮様、失礼いたしまーす」

 菊の戸惑いの声を笑顔で受け流し、若葉は部屋から出て行ってしまった。

 ――そ、そんなぁ……まだ心の準備が……。

 確かについ先ほど頑張ると言ったばかりなのだが、それにしてもこれはあまりに急すぎでは。

 ――せめて明日なら……もう一日くらい考える時間がほしかったのに。

 まだ何を話せば良いか話題すら見つかってすらいないこの状況で、二人きりで取り残されるのは少々不安だっら。しかも黒王は立ったままで、いかにもすぐに帰るといった様子。

「変わりないか」
「は、はい」
「そうか」

 相変わらず淡泊な、会話とも呼べないやり取り。ここからどうやって、若葉達と話すような雰囲気に持っていけば良いのか分からない。
「ではな」と、黒王が立ち去る気配がして、菊は慌てて黒王を引き留めた。

「お待ちください! あの、少しで良いんで一緒にお話しませんか」

 焦っていて、思いのほか大声になってしまい、菊はパッと自分の口を手で押さえる。

「お話し……俺とか?」

 菊は口元を隠したまま、コクコクと懸命に頷く。
 目を丸くして、振り返ったままの体勢で固まっている黒王。やはり唐突すぎただろうか。
 彼はしばし逡巡すると、ゆっくりと菊の元へと戻ってきて、隣に腰を下ろした。

 ――これは、『良い』ってことかしら。

 しかし、これはこれで何を話せば良いのか。

 ――これじゃ、ただ呼び止めただけだわ。もし黒王様にお仕事とかあったのなら、むしろ迷惑だったんじゃ……っ。

 今度は菊が固まってしまった。

 ――ええと、いつも若葉達とは何を話してたかしら。

 あれでもないこれでもないと、頭の中がぐるぐるぐるぐると煮詰まっていく。

「読書か」
「え」

 もうすぐで菊の頭から湯気が出そうになった時、黒王が床に置いてあった本を手に取った。それは先ほど若葉が持っていた和綴じの本。

「なんの本だ……って、『にじいろまがたま』? 子供が読むような童話じゃないか。大人のレイカが読む分には物足りないと思うが」

 黒王は本の題名を読み上げて、片眉を(いぶか)しげに下げている。

「いえ、これはその、読んでいたわけではなく……」
「読まないのであれば何故ここに?」

 彼は首を傾げ、顔はますます怪訝の色が濃くなる。それと一緒に、菊の顔はどんどんと俯いていった。胸の前で重ねられた手は、心許なさを隠すようにギュッと握られている。
 菊の震える唇が開き、か細い声が漏れ出た。

「……私、文字が読めないんです」

 顔が熱かった。

「書けもしないです」

 界背村では菊と同じように文字を書けない女性もいた。特に使用人などがそうだ。
 だが、皆文字を読むことはできたのだ。読みも書きもできないというのは、村でも菊ひとりだけだった。
 こんな無知な娘が花御寮とは、やはり恥ずべきことだろう。
 あやかしの世界の風習や規則などは分からない。だが、先ほど黒王は『子供が読むような』と言った。それは、子供でも菊のような者はいないということだった。
 いっときのニセモノとは言え、一族の長の妻として、自分はやはり不釣り合いではないか。

「でも、花御寮も色々と婚儀の席で読むものがあると聞いて、若葉さんに文字の読み書きを教えてもらえるようお願いしたんです……付け焼き刃かもしれませんが……」

 若葉は快く引き受けてくれたが、もしかして恥ずかしいと思われていたのではないか。どんどんと気持ちが塞がっていく。
 やはり、ここでも自分だけひとりぼっち(異質)だ。
 花御寮だから受け入れてもらっているだけで、その肩書きがなければ、誰にも見向きもされない存在なのだ。
 菊は顔を上げることができなかった。
 彼が、どのような目で自分を見ているのか知るのが怖かった。

 ――若葉さんに、真っ直ぐ見つめてって言われたけど……やっぱり無理だわ。

 彼は、こんな自慢できないような女が嫁入りしてきたことを、疎ましく思ってはいないだろうか。軽蔑してはいないだろうか。
 また、あの冷たい目で見られていたら……。

 ――あ、駄目……っ。

 顔だけでなく、じわりと瞼の奥までもが熱くなってきた。
 視界が歪みはじめ、慌ててぎゅっと目を閉じる。しかし、俯いているせいで、瞼を閉じてもじわじわと目の隙間からあふれそうになる。

「いい話だろう」
「へ?」

 予想外の言葉に、菊は弾かれたように顔を上げた。
 びっくりして、そこまで出てきていた涙も奥へと引っ込んでしまう。

「俺も昔、よく乳母に読んでもらった記憶がある。大人が読んでも面白い物語らしい」

 黒王は、本を撫でたりひっくり返したりと、目を柔らかく細めて懐かしそうに眺めていた。
 次の瞬間、彼は『どうだ』とでも言うように菊へと目を向ける。
 その視線が、菊が想像していたよりも遙かに普通で、肩と一緒に鼓動が跳ねた。

「は、はい! とっても面白くて……虹色の勾玉を神様から貰った白烏が、野原に降り立って友達を探していくところが一番好きです! 特に最初のお友達の羽が片方なくなったのを、勾玉の烏が自分の白い羽をあげるところとか、あと他にも――あ……」

 たがが外れたように喋り続けていた菊。だが、クッ、と笑いを堪える黒王の声で、我に返った。
 黒王は俯いているが、肩が小刻みに揺れていた。絶対に笑っているに違いない。

「あ、わ、私ったら……その……」

 小声で「すみません」と尻すぼみに呟くと、またクッと聞こえ、再び顔に熱が集まる。

「これは、俺達鴉一族について分かりやすく書いてある。手習いにもちょうど良いだろう。まあ、頑張ることだな」
「……あ」

 黒王の言葉に菊の目が、これでもかと大きく見開いた。

「あ?」
「ありがとうございます、黒王様っ」

 菊は瞳をキラキラと輝かせ、浮かされたような声で黒王に礼を述べた。
 誰かに頑張れと言われる日が来ようとは、思ってもみなかったのだ。
 黒王にそんなに深い意味はなくとも、生まれて初めて言われた、自分の背中を後押ししてくれる言葉は、菊にはとても嬉しいものだった。
 そして、目を丸くしていたのは菊だけではない。

「礼を……言うのだな。人間も」

 黒王も菊と同じような顔をして、ぼそりと口の中で呟いた。
 しばしお互いが同じ表情で互いを見つめ合うという、不思議な時間が流れるが、それは、黒王が手にしていた本を床に取り落としたことで、不意に終わりを迎える。
 ハッとして、菊は慌てて視線を黒王から正面の文机へと戻した。黒王も、なんとも言えないとばかりに後頭部を掻き乱しながら、落ちた本を文机へと戻す。
 拍子に、黒王の横顔が菊の視界に入ってきた。
 まつげの一本一本まで見える距離にある彼の横顔を見て、菊は「あ」と自分の勘違いに気付く。

「黒王様の瞳は黒ではなく、深い紫色だったんですね。黒だと思っていました」

 よく見ると、彼の横顔に見えた瞳の色は紫だった。春光を受けてきらりと輝く深紫の瞳は、思わずまじまじと見入ってしまうくらいに美しい。

「それに、髪の毛先も色が違うのですね。そちらは淡い紫色で……」
「――っおい」

 首後ろでひとつに結われた細い髪は、彼の背中で優雅な流水紋を描いている。ちょうど腰辺りにある毛先は、黒から紫へと変化していく濃淡が特徴的で目を惹いた。

「……綺麗……」
「それ以上見るな!」

 自然と菊の手が背中に流れる毛先に伸びた瞬間、黒王が勢いよく立ち上がった。
 驚きに、きゃっ、と菊から小さな悲鳴が上がるが、黒王は振り返ることもなく部屋を出ていってしまう。あまりに突然のことに、菊は呆然と部屋の入り口をしばらく見つめるばかりだった。

「私ったら、黒王様になんて失礼なことを……!」

 勝手に髪に触れようとするのはさすがに無礼だっただろう。それに、今ま目の色や髪の色に気付かなかったというのも、気分が良いものではないはずだ。

「どれだけ私は黒王様を見ていなかったのかしら……花御寮失格だわ」

 いくらニセモノでいつかはすげ替えられる身だとしても、こんなに良い暮らしをさせてもらっているのだから、せめてその日までは花御寮としての役目を全うしたいと思ったところなのに。

「……私ってやっぱり駄目な人間ね」

 菊はわびしそうに俯いた。


 
      3



 ハッ、と唐突に覚醒した黒王は、腹の底に残る気持ち悪さに吐き出すように、天井に向かって息を吐き出した。

「……最悪だ」

 しばらく布団に身を横たえたまま、起き上がることができなかった。



 
 夢を見た。子供の頃の夢だ。

『お前はあたしの子じゃない!』

 それが、覚えている母親に関する記憶の中で一番古いものだった。
 五つくらいだろうか。それまで自分は母屋で父親と暮らしていて、ずっと乳母が母親だと思っていた。しかし、乳母とは別に本当の母親が東棟にいると聞いて、子供の自分はたまらなく会いたくなった。
 東棟には近寄らないように、と父親には常々きつく言われていた。
 いつも理由は教えてくれず、特に興味もなかったから素直に言いつけを守っていたが、本当の母親がいると聞けば話は別だ。
 一目会いたい一心で、父親に見つからないように母屋を抜け出し、東棟へと渡った。
 東棟は、母屋と比べ全ての装飾が華やかだった。
 欄間の透かし彫りには花々が彫られ、格子戸の障子にも花の模様が漉き入れられている。
 母屋を離れ、次第に建具が美しくなっていくのに、子供の時分は心躍らせていた。
 しかし、母親の部屋に入った途端、踊っていた心は氷漬けにされたように止まった。
 いや、止められたのだ。

『お前はあたしの子じゃない! 化け物めっ!』

 金切り声で叫ばれると一緒に、こめかみに痛みが走った。
 しばらく、自分の身に何が起こったのか分からなかった。
 ただ、足元で陶器が割れる音がして、俯いた先に破片が散らばっているのを見て初めて、湯飲みを顔に投げられたのだと分かった。ポタポタと顎先からしたたる赤が交じった白湯はぬるく、いつまでも肌にまとわりつくようで気持ち悪かったのを覚えている。
 他にも母親は何か叫んでいたが、騒ぎを聞きつけてやってきた女官達に引き離され、上手く聞き取れなかった。
 ただ、ずっと『化け物』と叫んでいたのだけは覚えている。

「なんで今更こんな夢を……」

 きっと、昨日レイカと長々と会話したせいだ。少し気が緩んだのかもしれない。

「ははっ……馬鹿か俺は」

 人間は化け物を愛さない。

「ただの烏と妖の鴉では、全く違うだろ」

 鉛でも背負ったように重い身体を無理矢理起こした黒王は、顔を覆った。不意に指先が触れたこめかみに痛みが走った気がしたが、とうに傷など治っているのだから、この痛みは偽物だろう。

「彼女の言葉も全て偽物だ」

 乳母がよく読んでくれた懐かしい本を見て、一瞬ほだされそうになったが、所詮、彼女も人間だ。
 この色を綺麗と言った心の中では、化け物だと罵っていたに違いない。

「必要以上に関わるな」

 それでも、今日も彼女の元へと行かなければならない。
 まだ、黒王としての地位は盤石とは言いがたいのだから、他の者達に隙などみせられない。今、つまらないことで足元を掬われるわけにはいかなかった。
 黒王は手早く身支度を整えると灰墨を呼び、今日の予定の確認を終える。
 そうして時間ができれば、己の花御寮のいる東棟へと足を向けた。
 そこへ、黒王の背中へ声を掛ける者がひとり。

「これはこれは黒王様」

 振り返ると、白髪白髭の老爺がまろやかな微笑顔で立っていた。

玄泰(げんたい)か」

 彼は、祖父の代から三代に渡って里長を務め、鴉一族を陰ながら支えてくれている最年長の重役である。
 鴉一族は、ここ黒王が直轄する郷以外にも様々な場所に『里』を持っている。
 各里には里長がおり、彼らは鴉一族の重役として会合などの時期は郷に留まることになっている。今ちょうど、黒王が交代したということで、今後の郷の方針などについて会合が開かれているのだが、この玄泰という老爺が中々の食わせ者なのだ。

「迎えの儀の日から毎日、花御寮様を訪ねられていると聞いておりますよ。仲睦まじいご様子で、よろしゅうございますなあ」

 代々の花御寮が、決して夫である黒王を受け入れてきたわけではないと知っていて、この言いようなのだから皮肉以外のなにものでもないだろう。

「その花御寮へ会いに行く俺の足を止めたのだ。玄泰、それなりの用があってのことだろうな?」
「はは、お厳しい。そうそう、郷の外をうろついている妖についてですが、わたくしにお任せていただきたいと思いまして。里から若者を呼び寄せて対処させようかと」

 この冬頃から、チラチラと郷の外でよその妖を見るようになっていた。
 郷には結界を張ってあるから中まで入られることはないが、それでも目と鼻の先でうろちょろされるのは鬱陶しい。
 妖にとって縄張りを侵すというのは、従属させるという意思表示と等しい。
 普通ならば、縄張りに入らなくとも万が一を考えて、よその妖の縄張りには近付かないのが暗黙の了解なのだが。
 さて、どこの妖がどのような意図でやって来ているのか。

「分かった。この件については玄泰に任せよう」
「感謝いたします」

 玄泰が丁寧に腰を折り去って行くのを、黒王は眉をひそめて見送っていた。



        ◆
 


 東棟を訪ねた黒王を迎えたのは、床にひれ伏した菊だった。

「……何をしている、レイカ」

 踏み入った瞬間の光景に、黒王でもビクッと肩を揺らして足を止めていた。彼の声には、はっきりとした戸惑いが滲んでいる。

「若葉達はどうした。姿が見えないが」
「黒王様と二人だけで話たいと思い、席を外してもらいました」
「俺と二人きり、だと?」

 訝しげな声が頭上から聞こえた。
 無理もない。昨日まで己を怖がっていた者が、突然自ら二人きりになりたいと言い出したのだから。
 しかし、菊は臆することなくはっきりとした声を出す。

「黒王様、昨日は不躾な態度をとってしまい、誠に申し訳ありませんでした」
「なんのことだ」

 黒王がドスッと菊の前に座ると、菊の顔もゆるゆると上がる。
 今日の黒王は着流しではなく袴姿で、あぐらをかいて片膝だけを立てていた。

「勝手に御髪に触れようとしたり、瞳をあんなにもまじまじと覗き込んでしまい……」

 立てた方の膝に頬杖をついた黒王の口から、盛大な溜息が聞こえた。

「なんだ、そんなことか。別にその程度で気分を悪くしたりはしない」

 黒王の溜息に眉を下げた菊だったが、黒王の言葉を聞いてすぐに眉間を開いて、ほっと胸をなで下ろす。
 しかし、それでは昨日の唐突な去り方はなんだったのだろうか。

「では、昨日突然戻られたのは? てっきり私の無礼が原因かと」
「それは……」

 たちまち、黒王の表情が厳しくなった。顔は菊ではなく明後日の方へと逸らされ、口元も頬杖で隠されてしまう。

 ――あ、また私、余計なことを。

 先ほど謝ったばかりなのに、どうしてまた自分は同じ過ちを繰り返してしまうのか。

「申し訳ありません……私、人との距離の取り方があまり分からず……」

 人と関わってこなかった。
 関わることすら許されなかったのだ。

 ――いえ、誰かと関わりたいなんて思ったことがあったかしら。

 物心つく頃には、使用人生活が身に染みついていて、自分は忌み子だからと諦めていたように思う。
 今まではそれで良かったのだ。
 しかしまさか、自分のその諦念を後悔する日が来るとは思ってもみなかった。
 どうしても、彼のことを知りたいと思ってしまうのだ。
 若葉に言われたからだけではない。
『頑張れ』と、生まれて初めて背中を押す言葉をくれた彼は、冷たい目と温かな手をした人だった。
 最初から、彼の言動はずっとちぐはぐだったのだ。
 その理由が知りたかった。
 初めて胸に抱いた欲求に突き動かされるように、菊は真っ直ぐに黒王の瞳を見つめた。
 黒王の喉が一度上下する。

「……俺のこの瞳や髪を……綺麗だと言ったな」

 黒王の手が、背中に流れていた髪を肩口から引き出した。
 ちょうど腹の辺りに落ちた毛先は、昨日見たのと同じように、胸の辺りで黒からだんだんと綺麗な紫に染まっている。

「はい、それはとても。まるで藤の花が飾られているようで、一足早く藤色を楽しめ得した気分です。目も紫水晶のように神秘的で、ずっと見ていたくなります」

 黒王は「そうか」とだけ言って、また視線を逸らしてしまう。
 何か気に障るような言い方をしただろうかと不安に思ったが、彼から怒気のようなものは感じられない。
 それにしても、髪も目も紫とは不思議な色だ。現世(向こう)でこのような色を持つ者を見たことがない。やはり、妖だからだろうか。そういえば、若葉も前髪の一部が緑色をしていた。 人には持ち得ない美しい色を持つ者達。色だけではない。彼ら彼女らは皆、総じて容姿も美しいのだ。

 ――本当、私みたいな嘘つきの忌み子には、相応しくない場所だわ。

 黒王の美しさにそんなことを思っていると、「見ていたくなる、な」とポツリと彼が呟いた。

「レイカは、俺が怖かったんじゃないのか」

 頬杖を外した黒王の顔が、正面――菊を真っ直ぐに見つめる。
 咄嗟に「そんなことはない」と出かかった言葉を、菊はすんでで飲み込む。
 彼のことを知りたいと言う自分は、彼に嘘を吐いている。ニセモノなのだ。
 だからこそ、それ以外の部分では嘘を吐かず、彼には真摯でいたかった。

「確かに最初は怖かったです」
「素直だな。迎えの儀の夜、俺の着物を握るお前の手は震えていた。それからもお前は俺を見なかった……急にどうした、何か欲しいものでもあるのか? それとも村に帰りたいとお願いするためか!?」

 言いながら感情が昂ぶっていっているのか、最後の方は叫ぶようであった。菊に向けられている顔も、片方の口端を皮肉めいてつり上げている。

 ――ああ、この顔には見覚えがあるわ。

 嫌というほど村で向けられてきた、相手を蔑むときの顔だ。逃げたくなり、反射的に顔が俯こうとする。
 しかし、菊は意思の力でそれを止めた。

『黒王様をまっすぐ見てあげてください』

 若葉の声が耳の奥で響く。

「怖いと思ったのは、黒王様が分からなかったからです」

 自分が怖いと思うことで彼を傷つけたのなら、少しでも彼を理解して、二度と彼を傷つけないようにしたかった。
 それが、花御寮の資格も何も持たない自分が、唯一できることだと思うから。

「黒王様のことを私は何も知りません。ですので、教えてくださいませんか」
「ハッ……無理をしなくて良い。烏のくせに人間と同じ容姿(かたち)をしている妖など、人間には化け物に見えるのだろうな」

 自棄的に言う彼は、自分自身の言葉に傷ついているように見えた。

「人間と同じ姿をしているが、俺の中には妖の血が流れている。人間とは全くの別物だ」
「それは若葉さん達も同じなのでは?」
「違う。若葉達の本当の姿は烏だ。妖力を使った転化で人間の姿を真似ているだけで、元々人間の身体を持つ俺とは違う」

 俺だけだ、と黒王は、床にたたきつけるようにまた自嘲を吐き出す。

「常世の者が現世の者の腹から生まれてくるのだ。お前の腹からも……」

 菊の腹を黒王が指さした。
 そのまま彼は顔を近づけてきて、もうすぐで唇が重なる、という距離で低く脅すような声音で囁く。

「どうだ、恐ろしいだろう? 気持ち悪いだろう? 腹の中で十月十日も化け物を育てるのは、どれほどの苦痛だろうなあ」

 初めて彼の瞳の中に、温度のある感情を見た気がした。
 それは今までの昏く冷めた瞳とも、紫水晶のようにただ綺麗な瞳とも違う。瞳の中に自分を映している彼の双眸は今、初めて感情らしい感情をあふれさせていた。
 菊は、それがなんの感情か知りたくて、瞳を覗き込もうとした。
 しかし次の瞬間、終わりだとでも言うように、瞳は瞼によって隠されゆっくりと遠のいていく。

「分かったら、二度と適当なことは言うな。子供さえつくれば、俺は二度と関わらないから安心しろ」
「安心などできません」
「…………は?」

 目をぱちぱちと瞬かせる黒王の姿を可愛いと思ってしまったのは、失礼だろうか。

「だって、私には黒王様が一番苦しそうに見えますから」

 菊は、黒王の瞳の揺らぎが〝怯え〟だったのだと気付いた。
 いつぞやの夜、村の雑木林で出会った、羽を怪我した鴉と彼の姿が重なった。
 それは、手負いの獣が怯えつつも威嚇する姿。

「黒王様が何をさして化け物と仰っているのかは分かりませんが、私は黒王様や若葉さん達皆さんを、そのように思ったことは一度もありません」

 黒王の息をのむのが分かった。

「化け物とは、恐ろしいものを言うのでしょう? 確かに、黒王様に対しては怖いという感情を抱いておりました。しかしそれは、黒王様が何を思っているのか、私になぜ冷たい目を向けられるのか分からなかったからです」

 それは、と黒王の口角が下がる。
 分からないものは怖い。
 だから昔から人々は何が潜んでいるか分からない闇を怖がり、克服するために火を灯してきたのだ。
 闇の中に何があるか知るために。

「むしろ私は、化け物から救ってもらった身なのです。感謝こそすれ、黒王様達をそのように思いなどいたしません」

 たとえ初夜までのわずかな命であろうと、あの村で、レイカ達の傍で一生生きていくことに比べたら、なんの苦痛も後悔もない。

「黒王様、私にできることはありませんか?」
「レイカに……できること……」

 もう黒王からは、威嚇するような様子は感じられなかった。
 幻想的な紫色の瞳が、戸惑ったように小さく揺れている。

「特になければ、お話でもしませんか? 私、黒王様のことが知りたいんです」
「はは……またお話か」
「はい。好きな食べ物やお花、本でもなんでもいいですよ」
「……急に言われても困る」

 語尾がかすれていくにつれ、彼の顔も俯いていく。
 しかし、菊はそれを拒絶だとはもう思わない。

「ではまず、私から。私はここで出されるお料理がどれも美味しくて好きで、花はもうすぐで見頃を迎える桜が好きで、あ、でも黒王様と同じ色の藤の花も好きで、本はにじいろまがたまが好きです。それしか読めないっていうのもありますけど……」

 驚いたように、パッと黒王の顔が上がった。

「食事は……妖が作ったものだが」
「妖というのは、とてもお料理が上手なのですね。皆さん舌が肥えてらっしゃるのでしょうか? こんなに美味しいものを食べたのは初めてで、好きなものがひとつに絞れませんでした」

 もしかして尋ねた意図と違う答え方をしてしまったのか、黒王は面食らったようにうっすらと口を開け固まっている。
 あんなに冷徹そうに見えた彼から色々な表情が飛び出すのが面白く、菊は口を隠した袂の下でクスッと笑った。

「さあ、次は黒王様の番ですよ」

 しばらく沈黙の時間が流れる。
 菊が、やはり急には無理だったかと少しだけ寂しく思った時、うっすら開いたままだった黒王の口が微かに動いた。

「……好きなものは……分からないが、嫌いなものならある」
「なんでしょう」と、菊は小さな声音を邪魔しないよう、静かに耳を傾ける。
「冬が嫌いだ。あれは……寒い。凍えるほどに」
「黒王様は寒がりなのですね。まあ、でしたら今日は少し風が冷えますので、何か羽織りをお持ちいたしますね」

 奥の部屋に自分の羽織があったなと思い出し、黒王の横を通り過ぎようとした菊だったが、不意にクンッと引き留められてしまう。
 隣を見れば、黒王が菊の左手を握っていた。

「黒王様?」
「いい……行くな」
「でも、寒くありませんか?」
「寒くない」

 彼はそっぽを向いたままで菊からは顔が見えないが、握られた手は確かに指先まで温かく、寒くはなさそうだ。
 菊は出しかけた足を引っ込め、黒王の隣に静々と座った。
 握られた手は、そのまま床の上で握られ続けている。おかげで左手と左手で繋いでいるため、互い違いを向いて座ることになってしまい、これでは会話ができない。

「あの、黒王様。手を……」
「ああ」

 そうは言いつつも、彼の手は少しも動かなかった。
 相変わらず彼の顔は、菊とは反対方向を向いていて見えない。
 しかし、菊の手の輪郭を探るようにふわりと触れる彼の手は、まるで強く握ることを躊躇っているようで、妙にこそばゆく、変に心地よい。
 力を入れて引けば、恐らく彼と手を離すこともできるだろうが、菊はそうしなかった。ここで彼の手から逃れるのは簡単だが、この状況を惜しく思ってしまったのだ。

「一緒にいろ」

 瞬間、菊の顔が勢いよく黒王を向いた。
 とはいっても、菊から見えるのは黒王の耳と後頭部だけで、顔など見えないのだが。

「一緒に……いても……?」

 菊は心許なげに眉を下げ、涼やかな目を満月のように丸くして見つめていた。中に収まる黒い瞳は、風に揺れた湖面のようにキラキラと輝いている。
 そこでようやく黒王の顔が少しだけ傾き、肩越しに彼の横顔が見えた。

「……話をしようと言ったのはレイカだろう。それとも俺ひとりで勝手に話していろと?」

 彼の目尻が赤く染まって見えるのは、気のせいだろうか。

「いえ……っ、いえ、そのようなことはありません!」

 菊は瞬時に首を横に振って否定した。あまりに強く振りすぎたために目の前がくらくらして、ふらりと黒王の肩にあたってしまう。
 やってしまったと恥ずかしく思ったのも束の間、ふっ、と黒王が笑った気配がした。

「いいから……一緒にいろ」

 菊は消え入りそうな声で「はい」と言うのがやっとだった。
 朝の清涼な空気が広間に流れる、穏やかな日だった。



        ◆



「んっふふー、どうなることか心配したけど、さっき覗いたら花御寮様と黒王様、良い雰囲気だったし問題はなさそうねー。それにしても本当、花御寮様って素直で可愛らしい方だわぁ」

 若葉は軽くなった心そのままに、軽快な足取りで東棟内を歩いていた。

「おい、若葉」

 すると、自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、若葉は足を止める。しかし、辺りに人影はなく、声がした廊下の欄干には、一羽の烏がとまっているのみ。

「あら、誰かしら? わたくしを呼ぶ生意気な声が聞こえた気がしたんだけど……どっこにもいないわねー空耳かしらー? ねえ、そこのちっこい烏さん、何か知らなぁい?」
「いだだだだだだ!? 脳出る脳出る! 頭を掴むなバカ葉!」

 若葉が欄干にとまっていた烏の頭を朗らかな顔で鷲づかめば、烏はくちばしがついた口で、人と同じ言葉を吐いて騒ぎ立てた。

「年上への敬い方を知らないと、命取りになるって教えてあげなきゃねえ?」

「バカ葉、バカ葉」とギャアギャアうるさい烏の羽根を、若葉が無言で摘まむ。

「ぎゃああああ! 羽根は毟らないで!? 禿げたくないよー!」

 イヤイヤと頭を左右に回しながら悲痛な叫びを上げる烏に、ようやく若葉も両手を離し解放してやった。解放された烏は、瞬時に若葉から距離をとり羽を大きく羽ばたかせると、次の瞬間には、人の姿になって旋風と一緒に廊下へと着地した。
 そこにいたのは、柔らかそうな灰色の髪をした人間――灰墨であった。

「まったく……郷内で元の姿でいたってことは、あんた、花御寮様と黒王様をのぞき見してたわね?」

 やれやれ、と腰に両手を当てた若葉が問えば、灰墨はばつが悪そうに唇を尖らす。

「気になるんなら、あんたも黒王様と一緒に堂々と来れば良いじゃない。近侍なんだし」
「やだ……人間なんか嫌いだ」
「あんた、人間と関わったことないわよね」
「それでも黒王様を傷つけた人間は嫌いだ」

〝黒王を傷つけた人間〟というのが、誰を指しているのか分かり、若葉は顔を曇らせた。
 今、若葉は黒王の三つ、灰墨の七つ年上の二十六で、先代の花御寮のことも知っている。当然、彼女が黒王にどのようなことをしてきたのかも。

「その方と……今の花御寮様は別よ、一緒にするものじゃないわ。それに黒王様が受け入れられるのなら、近侍であるあんたも受け入れないさいよ」

 灰墨も若葉の言っていることは分かっているのだろう。しかし、納得はしたくないようで、ずっと足元を見てむくれていた。
 これ以上言ったところで仕方ないか、と若葉は肩をすくめると、暗くなってしまった場の空気を和ませるように一際明るい声を出す。

「それで、わたくしに何か用なの? ただ呼び止めたわけじゃないでしょう?」
「婚儀の日取りが出たらしい。正式な決定はもう少し先だろうけど」

「まあっ!」と若葉は喜びを表すように手を叩いて、喜色を全身にみなぎらせた。

「これでやっと、花御寮様と黒王様は本当のご夫婦になられるのね!」

 嬉しさのあまり、若葉は灰墨に抱きついてぴょこぴょこと跳ねる。

「うわっ!? 急に抱きつくなって、バカ葉!」
「はいはい、それよりも日取りはいつよ、いつ!」
「はっ、半月後だってよ! 次の満月の日! 黒王様には俺から伝えるからな!」

 灰墨は若葉の肩を押してベリッと身体から引き離すと、ぶつぶつ恥じらいがどうのこうのと言いながら崩れた着物を整えていたが、一方の若葉は、東棟の奥――菊と黒王がいる部屋を、目尻をすぼめて嬉しそうな目で眺めていた。

「このままお二人には、どうか幸せになってほしいものだわ」

 どーだかね、と拗ねたように言い放って、灰墨は再び烏姿になり母屋の方へと飛び去っていった。



        4



 書き取りをしていた菊の手が、ピタリと止まる。

「え、十日後……ですか……?」

 昼下がりにやって来た黒王は、開口一番に婚儀の日取りが決まったと言った。

「ああ、満月の日だ。それで俺達は本物の夫婦になる」
「本物……」

 たとえ正式な婚儀を行ったとしても、本物の夫婦になどなれないことは一番菊が知っている。元より花御寮自体がニセモノなのだから。

 ――それもだけど、つまり……。

 止まったままの筆先からは墨がどんどんと滲み、紙に大きな黒いシミを作っていく。

「不安か?」

 気付いた黒王が菊の右手を優しく開いて筆を抜き取り、筆置きへと置く。そのまま菊の手を見つめ、指の一本一本に自分の指を絡めていく。
 あの日から、黒王は菊を訪ねると、必ず手を重ねるようになっていた。
 外の桜を眺めながらただ重ねている時もあれば、こうして手遊びのようにして指を絡めてくる時もある。
 絡められる指や触れる肌はいつもとても温かで、結ばれている間、彼は穏やかな顔をするようになっていたのだが、今、菊の手を見つめ「不安か」と聞いてくる彼の眼差しの方が、どこか不安げに見えた。
 彼は時折こうして寂しそうな目をすることがある。普段は威厳をまとって他者を圧倒している彼が、不意に子供のように見えるのだ。
 その理由は、未だ分からない。
 彼が今まで語った中には、原因と言えるようなものは何もなかった。
 菊は左手を彼の手にそっと重ね、首を横に振る。

「これでやっと花御寮としのお役目を果たせるのですから、何も不安なことはありませんよ」

「ただ、奏上を間違えないかは心配ですけど」と、おどけて言ってみせれば、黒王の目から不安の色が消える。

「そうだ、レイカ。婚儀の日取りも決まったことだし母屋を案内しよう。東棟に籠もりきりも身体に良くないだろう」

 黒王は「若葉」と入り口の外に向かって声を飛ばす。
 すると、「はい」という返事と共に入り口の戸が開き、跪いた若葉が姿を現した。
 ここ最近、黒王が訪ねてくると若葉や女官達は席を外す、というのがお決まりのようになっていた。皆ニヤニヤしながら出て行くものだから、いつも残された方には妙な気恥ずかしさが漂うのだ。

「レイカをしばらく連れて行くぞ」
「はいはいそれはもう、どうぞ心ゆくまでご自由に楽しんでらしてください」
「……含みのある言い方だな」
「はてさて、何のことでしょう?」

 じとっとした重たげな眼差しで黒王が若葉を見遣るも、若葉はどこ吹く風とほほほと笑うのみ。
 そのちょっとしたやり取りを見ても、黒王が周囲からどれだけ慕われているのかが分かって、菊はいつも少しの羨ましく思ったりする。まだ、自分と黒王の間には
 絡ませていたままの手を黒王が引いた。

「了解ももらったし行こうか、レイカ」

 そうして、菊は黒王に手を引かれながら広間を後にした。




 黒王の一歩後ろを、手を引かれながらついて歩く。

「広いとは思っていましたが、想像以上ですね」

 菊はキョロキョロと視線を巡らしながら、はぁと感嘆の溜息を漏らす。
 東棟から渡殿を渡った先が母屋なのだが、一直線に伸びた長い廊下に、傍らから見える屋根の数々。突き当たりで廊下が終わったと思えば、右に左にと曲がってまだ先まで続いてる。母屋の中にも渡殿や池泉があり、松や青紅葉、枝垂れ梅に椿と多くの植栽でにぎわっている。母屋だけで小さな村のようだった。

「迷子になってしまいそうです」
「俺と一緒にいれば良い」
「……はい」

 手を握る黒王の力がほんのわずかだけ増し、菊は彼の背後で密かに頬を緩める。
 言葉以外で伝えられる気持ちが面映ゆかった。

「あ、ちょうど良かった。黒王様ー!」

 そこへ、黒王を呼び止める声が前の方から飛んできた。
 廊下を走るぱたぱたとした足音と、間延びした朗らかな男の声が段々と近付いてくる。「黒王さ――」
 しかし、菊が黒王の広い背中からひょこっと顔を覗かせれば、男の声がピタリと止まった。
 菊の目に映ったのは、丸い目がどこか子犬を思わせる灰黒い髪をした青年。
 彼は菊と目をが合うと、開いていた眉間にぎゅっと皺を寄せ、たちまち苦々しい表情となる。

「黒王様……そちらはもしかして……」
「俺の花御寮だ、灰墨」

 灰墨と呼ばれた青年は「ども」と、一応という感じで会釈するが、菊が反応する前にはもう視線を切って黒王に話しかけていた。

 ――あら? これはもしかして……。

 花御寮として嫁入ってから初めて向けられる感情。しかしそれは、菊には随分と馴染みのあるものでもある。
 菊は二人の会話に耳を傾ける。
 どうやら婚儀の話のようで、儀式の段取りや必要な道具などについて話し合われていた。その中で、菊が読む奏上文についての話が出る。

「では花御寮様が読まれる奏上文は、通常より平易なものを用意するということで……」
「申し訳ありません、お手間をかけてしまいまして」

 いたたまれず、菊はつい謝罪の言葉を挟んだのだが。

「あなたのためじゃなく黒王様のためですから。あなたが失敗するのは勝手ですけど、黒王様にまで泥を塗られちゃ困るんで」

 チラとも目を向けられず、まるで俎上の鯉を包丁で一刀両断するかのごとく、無感情に淡々と言葉を返されてしまった。
「灰墨」と黒王が彼をたしなめていたが、彼の眉間の間に走った川がいっそう深度を増しただけだ。

「はいはい、すみませんね! お忙しいところお邪魔しましたよ!」
「あ、おい、灰墨」

 彼は黒王の声に振り返ることもなく、ドスドスと足音激しく廊下の奥へと姿を消した。
 あっという間のことに、菊はきょとんとして黒王を見上げれば、視線に気付いた黒王も菊を見て片眉をへこませていた。

「すまない、レイカ。俺の乳兄弟で近侍の灰墨だ。普段はあんな感じではないんだが……少し、人間嫌いなところがあって……嫌な気分にさせただろう」

 やはり、と菊は心の中で納得に頷いた。
 彼が向けてきた視線は、村でよく受けてきたものと似た類いだった。しかしだからと言って、今更それで傷つくこともないが。

「好き嫌いは人それぞれですもの。どうかお気になさらず」

 申し訳なさそうに肩を落とす黒王に、菊は気にしていないと笑って首を横に振った。
 しかし、黒王の曇った表情は戻らない。
 形の良い美しい眉は今、険しさに形を崩している。俯けられていた彼の顔は暗く、視線は菊ではなく足元に落とされていた。

「あいつの人間嫌いは俺が原因なんだ……」
「黒王様が?」

 そういえば、彼も最近までは、わざと自分を遠ざけようとしていた節があった。

 ――今はもう、そんなことはないけど。

 菊の左手は、部屋を出た時から一度も離されていない。

「場所を変えようか」
「え――きゃっ!?」

 言うと同時に、黒王は菊を横抱きにして庭へと下りた。


 
        ◆



 母屋の庭を経由して二人がたどり着いたのは、東棟の広間からいつも見えている桜の庭だった。
 桜の花は五分を過ぎ、もう枝の茶色よりも薄紅色のほうが多くなっている。
 樹齢どのくらいだろうか。庭にはたくさんの桜の木が植わっており、空の半分を淡くとも薄紅色に染めていた。

「こ、黒王様……おろしてください……ぃ……」

 耳の先まで真っ赤にした菊は顔を手で覆い、黒王の腕の中で小さくなっていた。
 東棟と違い母屋はさすがに人が多く、ここまで来るまでに、菊はいろいろな人に、「まあ」やら「おっ」やらと好奇の視線を向けられ、顔から火を噴きそうだったのだ。

「すまない。外に出る予定ではなかったから、レイカの履き物がなかったんだ。レイカの足を汚したくはなかったし」

 かすれた小声で、菊は何度も下ろしてくれと請うているのだが、黒王は菊を抱く手の力を強めはしても緩めることはない。
 正直、子供のように抱かれ、それを周囲に後期の眼差しで眺められ恥ずかしいのだ。
 指の隙間から熱に潤んだ目を向ける。

「あの、重いですから……私の足など気にせず……」
「ははっ、これしき重いものか! レイカならあと三人でも抱えられるさ」

 大きな口を開けて愉快そうに笑う黒王に、菊は目の前にパチパチと光りが走った気がした。
 いつも彼に向けられる笑みは淡いもので、こんなに彼が大きな笑い声を上げているのは初めてだった。思わず、まじまじと彼の顔を眺めてしまう。
 しかし、笑いを収めた彼が向ける顔は、どこか寂しさが漂っていた。
 顔に陰が落ちているからだろうか、口元は淡い笑みをたたえているのに、目元は愁いが滲んでいる。
「黒王様……」と、自然と菊の手が彼の顔に伸びようとしたところで、パッと黒王の顔が遠くを向いた。

「だが、確かにこのまま話をするわけにもいかないな」

 黒王は一際大きい桜の木の麓で、菊を抱えたまま腰を下ろした。
 菊は横向きのまま、胡坐をかいた黒王の足の中にすっぽりと収まり、背中を黒王の手が優しく支える。
 見上げれば彼と目が会い、ふっと目を細められた。

「……っ」

 これは、好意を持ってくれていると思ってもいいのだろうか。少なくとも、当初より関係は良くなっているとは思うが。
 どうにも、この丁寧な甘さにまだ慣れない。

「灰墨の人間嫌いは俺のせいなんだ。いや、元々の原因は俺の母親かな」

 空を仰いでいた黒王が、ポツリ、とこぼした。
 まるで、空に語りかけているような静かな声。

「そういえば、黒王様のお母様はどちらに? 一度ご挨拶をと思ったのですが」

 黒王の父親は亡くなったと聞いた。だから代替わりで彼が新たな黒王となり、村では花御寮が選ばれたのだから。

 ――その花御寮はニセモノだけどね……。

 しかし、黒王の母親である先代花御寮は本物だ。自分と違い、正体がばれて罰せられるということもないはずなのに、未だ姿が見えなかった。

「もしかして、ご病気などで……」

 以前、それとなく若葉に聞いたのだが、微妙な顔で濁されてしまった。
 上を向いていた黒王の顔が、ゆっくりと下へ――菊へと向けられる。
 俯いた黒王の顔が暗く陰った気がしたのは、空から降りそそいだ陽光の影だけとは思えなかった。

「母は自ら命を絶ったよ」
「え」

 予想しなかった言葉に、上手く返事を返せなかった。

「俺を産んだことを受け入れられず、少しずつ心を病んでいって……最期は物見の塔から身を投げて亡くなった。俺が七つの時だ。明け方に薄雪がつもった姿で発見された」
「どうして……」
「化け物だと」

 黒王の顔は、薄く笑っているようにも、今にも泣き出しそうなものにも見えた。

「自分は腹から化け物を生んでしまったんだと」

 菊は絶句した。

  
 きっと思い返すのも辛かっただろうに、黒王はとつとつと語ってくれた。
 幼い頃から、父親には花御寮の住まいである東棟への立ち入りを禁じられていたこと。五つの時に、禁を破って母親に会いに行って、湯飲みを投げられたこと。その際に飛んできた、聞いている菊のほうが耳を塞ぎたくなるような、ひどい言葉の数々。
 それでも幼い黒王にとって、母親は母親だった。

「その一件で、父親や乳母には二度と会わないようにと言われたが、実はそれからも、目を盗んでは東棟に忍び込んでいたんだ。心が疲れているから、ああなっているだけだと言われていたからな。だったら、その疲れを癒やせたら、優しい母になってくれると信じて……」

 はは、と黒王が笑った。
 疲れたような、かすれた声で。
 いつも大きく見える彼が、今はひどく小さく見える。自分の背を支える手が子供のもののように、弱々しいものに思えた。
 彼の声からするに、おそらく彼の願いは叶わなかったのだろう。
 そして、おとずれた母親の最期……。
 彼の話を聞いて、菊は今までの彼の態度が全て腑に落ちた。
 なぜ、自分に触れる黒王の手は温かいのに、瞳には温度がなかったのか。
 なぜ、近寄ろうとした時、何度も何度も遠ざけるように脅してきたのか。

「すまない。せっかくの春日和なのに暗い話をしてしまったな」
「いいえ、話してくださって嬉しかったです」
「灰墨は俺より四つ下だから、もちろん俺の身に何があったのか覚えちゃいないが、色々と周囲から聞いたらしくてな。一緒に育った分、俺への思い入れも強くて……あいつの中では、俺の母親がそのまま人間の印象になってしまってるんだ。だからその、レイカ自身を嫌いというわけではなく……」

 どうにか両者を傷つけないようにと、懸命に言葉を選ぶ黒王の姿に、菊は肩を揺らす。

「ふふ、とても兄思いの弟さんなんですね」
「ああっ、生意気で騒がしくて猪突猛進なやつだが、優しい弟なんだ」

 何か思い出したのか、彼は肩をすくめて渋るように笑った。しかし、どこか無理して空気を明るくしようとしているのがうかがえた。

「……黒王様」

 菊は黒王の頬に手を伸ばした。
 不意にそうしたいと思ったのだ。
 一瞬、彼は目を瞠ったが、菊の手が肌に触れるのを拒みはしなかった。瞼を閉じた黒王は、触れている菊の手に頬を擦り付けるように、ほんの少しだけ頭を揺らす。
『化け物』と、母親に拒絶された黒王。
『忌み子』と、村から弾かれた菊。
 二人は思わぬところで同じ痛みを抱えていた。
 誰かに不要と突きつけられる苦しさはよく分かる。
 人数など関係ない。ひとりにでもそのような思いを向けられると、残りの者達からも同じように思われているのではと思ってしまうのだ。常に疑って、なぜどうして、とずっと頭を悩ませ続けなければならないのだ。
 そうして、心だけがどんどん疲弊していく。

 彼の手や触れ方が温かかったのは、きっとかつて彼が母親に向けていた優しさの欠片。
 優しくしたいと思いつつも、また拒絶されたらという恐怖で、彼の言動はああもちぐはぐになっていたのだろう。
 そよそよとした柔らかな春風が黒王の前髪を揺らすたび、彼の顔に落ちる影もゆらゆらと動いた。遠くでは、ヒバリが甲高い声でキュルキュルとさえずっている。東棟の女官だろうか、女達の楽しそうな声も聞こえる。
 穏やかな時が流れていた。
 不意に、菊はなぜ自分が今ここにいるのか、分かった気がした。
 いっときはレイカのためだからと思っていたが、そうじゃない。

 ――私は、この人を温めるために花御寮になったのね。

 母親に与えられなかった言葉を、眼差しを、温もりを、同じ花御寮という自分が与えるために身代わりになったのだ。

 ――それが、花御寮の私にできること……。

 菊の手と黒王の頬の体温が馴染んで、触れ合った境界線が曖昧になり始めてようやく、黒王の瞼が上げられた。
 菊の真っ黒な瞳と、黒王の深紫の瞳が、互いの姿を瞳の中に収める。
 黒王が僅かに眉根を寄せた。

「……この瞳と髪の毛の色は、人間ではあり得ない色なのだろう? 母はこの色を気持ち悪い色だと言っていた」
「そんなこと思ったことありませんよ。言ったでしょう、とても綺麗な色だと」
「本当か? 俺はその言葉を信じていいのか?」

 毎日手を重ねても言葉を交わしても、まだ不安そうにしているのは、それだけ彼にとって母親から受けた仕打ちが根深いということ。
 菊は頬から手を離し、そのまま彼の顔の前で小指のみを立ててみせた。

「な、なんだ?」
「黒王様、お約束します。私は決して嘘を吐きません。約束を破った時は、針千本飲ますなりなんなり、どうぞお好きに」
「……レイカ……やはり俺はお前が良い……」

 控えめに伸びてきた黒王の小指は、菊の小指に触れた途端、力強く絡みついた。くっついてしまって二度と離れないかのように強く、強く、けれど、痛くはない優しい力で。
 嘘吐きの身でありながら、嘘を吐かないとは自分でも苦笑ものだったが、ちゃんと罰はうけるから許してほしい。

 ――どこまでいっても、私はニセモノでしかないから。

 だから、せめて口から出す言葉だけは本当でありたかった。
 あと、十日。
 せめてその間だけでも、彼を温めていたい。


        1


 ――花御寮にするのなら、この娘がいいと思ったんだ。

 
 人間を妻とすることは生まれながらに決まっていた。しかも、相手の人間は自分では選べない。界背村が送った人間をそのまま妻とするのが決まりだった。
 そんな淡泊な流れで、夫婦らしい何かが芽生えるというのか。
 少なくとも自分は、芽生えたという過去の例を、ひとつも知らない。
 それが黒王の役目だと言われれば、そうなのだろう。目的は嫁取りというより、次代の黒王を残すことなのだから。

 何が花御寮だ。
 何が夫婦だ。
 全て嘘ではないか。
 だから、黒王になると分かった時、密かに界背村を見に行った。多分、ささやかな抵抗だったのだと思う。自分で選ぶことができないのなら、せいぜい全員を見て『どれが来ても変わらんな』と自分を納得させたかったのだと思う。
 郷の皆が寝静まった後、一羽の烏姿に転化しひっそりと鳥居を抜け村を飛んで見回った。
 現世を訪ねたのは、それが初めてではない。
 昔はよく灰墨と一緒に郷を抜け出し、現世をふらりと跳び回っていた。それで、鳥居をくぐって帰ったところでいつもそれぞれの父親に捕まって、げんこつと雷をもらったものだ。
 あの時は現世に行くのが楽しかったのに、この時は憂鬱で仕方なかった。
 この村のどこかに、自分の妻になる者がいる。
 とはいっても夜中だし、見ることができても寝顔だけで、性格も何も分かったものじゃないが。

 そんなことを考えながら飛んでいたせいか、それとも転化が久しぶりだったからか。雑木林に入ったところで羽を引っ掛け、墜落してしまった。
 しこたま地面に身体を打ち付け、『しくじった』と己の馬鹿さ加減を後悔していれば、カサッ、と何者かが近付いてくる音がしたのだ。慌てて飛び立とうとするも、やはり片羽はまだ動かせず、地面をのたうちまわるだけ。
 そうこうしているうちに、声が聞こえた。
 若い女の声だった。
 ただですらうっそうとして暗い雑木林に、しかもこんな深夜になぜ……。
 しかし、人間にここで遭うわけにはいかない。
 人間が烏を良く思っていないのは前々から知っていた。妖の姿なら人間など赤子も一緒の存在だが、この姿でしかも怪我までしている今は不利だ。
 しかし間に合わず、木の向こうからひょこっと娘の顔が覗いた。
 どんな仕打ちを受けるのかと半ば覚悟した時、彼女は驚きの行動に出た。なんと、ためらいもなく己の着物を引き裂き、怪我をしている羽に巻き付けたのだ。すっかり拍子抜けして警戒も解けてしまった。
 しかも、呆気にとられていれば、顔をまじまじと覗き込んできて――。

『あなた、珍しい色の羽根と目をしているのね』
『とっても綺麗な色だわ』

 と言ってのけたのだ。
 しまいには、怪我で飛べないからと、木の実まで口先に並べていった。
 なんだこの娘は――と、帰っていく娘の背から、しばらく目が離せなかった。


 翌日、郷に戻っても彼女の突飛な行動が信じられなくて、再びこっそりと村を訪ねた。
 その日も深夜にやってきた彼女は、寒さに耐えるかのように、膝を抱いて丸く小さくなっていた。
 気付けば、彼女の前に降り立っていた。本来なら、自分から人間に近付くなどあり得ない。
 顔を上げた彼女は、懐から木の実や干し柿を差し出した。正直、昨夜もだが、腹など減っていない。それにただの烏と違い、木の実など好んで食べたりするものか。
 しかし、向けられた弱々しい笑みが、自分のために懸命に笑ってくれているかのようで、気付いたら赤い実をひとつ口にしていた。

『ありがとう、優しいのね』

 心臓が止まったと思った。
 こんな人間がいるのかと。
 その後、『ひとりぼっち』だと言って小さな嗚咽を上げ続ける彼女を、今すぐに抱きしめたいと思ったものだ。

 
 ――俺はあの夜からずっと、彼女に心を奪われたままだ。


 
        ◆


 
 あふ、と黒王は口元を隠した手の下で、噛み殺せないほど大きなあくびをした。
 昨夜は、レイカは何が好きか、何を贈ったら喜ぶかなど、彼女のことを考えていたらすっかり寝付くのが遅くなってしまった。

 ――何が『古柴レイカはワガママで高飛車』なんだか。灰墨の言葉も当てにならんな。

 猫を被っているかもと指摘もされ、初めはそうかもと思っていたが、どう見ても何も被っていない。自分が出会ったあの夜の彼女そのものだった。
 しかし、そうなると今度は灰墨の言葉が気になる。

 ――あいつは、どこでそんな噂を拾ってきたんだ?

 大方、同じ名前の別人の噂を間違えて聞いた、といったところか。昔から灰墨にはおっちょこちょいなところがあるし、そう考えるのが自然だ。
 そんなことをぼんやりと考えていると、隣から横腹を突かれた。

「――と各里からの報告は以上なのですが……大丈夫ですか、黒王様?」
「ん、ああ。それじゃあ少し休憩を挟もうか」

 今、部屋では重役達と共に、各里の定例報告と婚儀の進行についての話し合いが行われていた。半分は上の空だったが、定例報告については事前の報告が上がってきた段階で、全て目を通して把握しているため問題ない。
 正直、今すぐにでもレイカに会いに行きたかった。
 重役達の厳めしい顔を見るよりも、レイカと桜を眺めながら茶をすすりたい。彼女が隣にいてくれるだけで、陽だまりの中に立つように胸の内側が温かくなるのだ。

 しかし、そうも言っていられない。
 まだ自分は黒王になって日が浅いのだ。
 ここに集った重役達は各里を束ねてくれている者達であり、彼らの力を借りなければならないことも多い。
『黒王』が血統によって継がれることに異議をとなえる者はいない。
 黒王が黒王である理由は、鴉一族の中で圧倒的な力を持つからである。
 妖と呼ばれる者達は、多かれ少なかれ皆『妖力』を持つ。
 それによって様々な術を使えるのだが、黒王は術の規模、精度、強度、どれをとっても他の鴉とは一線画す力を持っていた。
 それを可能にしているのが、界背村の娘――花御寮の血である。

 界背村の者達の身には、祓魔の力が宿っている。
 元をたどれば妖力だが、長い時を経て今や完全に別物となっている。より彼らの世界に馴染むようにと独自の進化をとげ、また、村内婚姻を重ねて力が凝縮されているのだ。
 それは大木のごとしで、根は同じだが成長し枝先がのびるにつれ、どんどんと力の性質が離れていった。
 そして、性質の異なる力を掛け合わせてきたことで、黒王の血統は抜きん出た力を持つようになった。もし、他の鴉が真似をして界背村の娘に子を産ませても、何代にも渡って力を重ねてきた黒王の力には到底及ばない。
 だから皆、黒王が自分より若輩者であろうと『黒王』として敬うのだ。力によって立場が決められる妖の世界では、強さとは崇敬するものであった。
 ただ、時には崇敬とは別の感情を抱く者も中にはいる。

「各里変わりないようで何よりだ。そうだ、南嶺(なんりょう)。奥方の調子はどうだ? 寝込んでいると聞いていたが」
「おおっ、お気遣いありがとうございます、黒王様! しかし心配はいりませんよ。ただの食あたりですから」
「ははっ、ならば一安心だ」
「いえ、もう本当、うちの妻は食い気がすごくて。しかも寒いと尚更とか言って……今度黒王様からも食べ過ぎるなと言ってやってくださいよ」
「では今度、南嶺の里へと邪魔するかな」
「黒王様が来てくださるのなら、里の者達も喜びます」

 こうした何気ない会話で相手の様子を窺うのも重要なのだ。
 休憩ということで、皆それぞれの里の様子や、自分の子や孫のことなどの会話に花を咲かせていた。
 そこで、「では」と老爺のかすれた声が場をまとめる。

「次は、黒王様の婚儀についてですが。ここからは儀式を取り仕切る私が、話し合いの進行もいたしましょう」

 灰墨が老爺――玄泰(げんたい)の目配せに浅く頷く。
 さすがに先々代、先代と続けて婚儀を仕切ってきた玄泰は、婚儀までに行われる儀礼についてしっかりと把握している。それに対する段取りにも抜けがない。

「――そして、婚儀の前日ですが、黒王様と花御寮様はそれぞれに潔斎に入っていただきます。黒王様は北の霊泉で、花御寮様は南の霊泉でそれぞれ沐浴していただき、その日から婚儀まで、二人の接触は一切禁じられます」
「一切か……」

 たった数時間の会議の間でも会いたくて仕方ないのに、一日も我慢できるか我ながら心配になってきた。

「その後は、祝詞奏上(のりとそうじょう)と三献の儀、誓詞奉読(せいしほうどく)と……まあ一般的な婚儀の流れと同じです」
「であれば気をつけるのはやはり前日だな。うっかり東棟に足を運んでしまいそうだ」

 悩ましげに前髪を掻き上げながら呟く黒王に、南嶺が愉快そうに目を細める。

「そういえば、黒王様は足繁く東棟に通われているとのこと。お二人の仲がよろしいのであれば、これ以上幸いなことはありませんな」

 周囲も南嶺の言葉を聞いて、「それはそれは」と表情をほころばせていた。
 しかし、灰墨ともうひとり――玄泰だけは口を引き結んでいる。

「はてさて、それがいつまで続くやら……」

 温まっていた場の空気が、一瞬にして凍りついた。

「その花御寮様の仮面が、どこまでもつのかが問題ですな」
「俺の花御寮は仮面など被っているようには見えんがな? とても美しく可憐な容貌だぞ」

 玄泰の皮肉に皮肉で返せば、彼ははっと鼻で一笑し、腰をゆっくりと上げる。

「私は、そろそろこの花御寮という習わしを、やめてもいいと思っておりますがね」
「俺のことよりも、郷の外の妖はどうした? 自分から名乗りを上げたんだ。しっかりと対処できているのだろうな」
「もちろんですよ。里の若手もいましたし、私も黒王様のような力は持たずとも、これでも長年里長を任されてきた身でしてね」

 少し曲がった腰で手を結び、玄泰は足で畳を擦るようにして部屋を出て行く。しかし、廊下に出たところで「そうそう」と歩みを止めて、黒王へと首を返した。

「女官達が、花御寮様は未だに湯殿や着替えの手伝いをさせてくれぬから、暇になってしまうと嘆いておられましたぞ。やはり花御寮様は妖に触れられるのを、心の中では嫌悪されているのかもしれませんなあ」

 黒王の目がじわりと見開く。
 玄泰は黒王の表情を目の端に捉えると、猿のように皺だらけになった口元を笑ませて、去って行った。

「気になさいますな、黒王様。玄泰殿は二代にわたって花御寮様と接してこられ、色々とその……苦労されてきたようですから」

 他の重役からの慰めの言葉に、黒王はチッと口の中で舌打ちした。

 ――王が憐れまれてどうする。

「……分かっているさ」

 本当、食えない爺だ。



        ◆



「レイカ、いるか!」

 いつものように菊が広間で若葉や女官と談笑していると、入り口が開くなり荒っぽい声を飛んできた。

「あら、黒王様。こんにちは」

 しかし、誰が入ってきたか分かっている菊達は特に驚くこともなく、黒王ににこやかな挨拶を向ける。
 彼は広間に入るなり荒々しい足取りで一直線に向かってきて、菊の左隣でぴたっと肩をくっつけるようにして座った。いつも、いつ来たか分からないくらい静かに入ってくるのに、今日はまたどうしたことか。

「まあまあ、黒王様ったら。それでは花御寮様が動けないじゃありませんか」

 若葉は黒王に場を譲るように菊の傍から一歩分さがり、女官達は微笑ましい者を見るような顔をして、ほほと袂を口に当てながら部屋を出て行く。

「黒王様、何かありました? ご様子がいつもと違うように思うのですが」
「んー……別に。レイカの顔を見たら良くなった」

 低く抑揚のない声で言われても、説得力がないのだが。
 しかも肩はくっついているのに、黒王はそっぽを向いているから、菊からは様子が見えない。顔を覗き込もうと、菊がそうっと身体を傾けて前から回り込もうとするも、気付いた黒王に「見るな」とばかりに、床についていた左手を握られてしまった。

「ふふ、今日の黒王様は、ご機嫌なななめなんですね」
「…………」

 また手をぎゅっと握りしめられる。
 どうやら、もうしばらくはこのままのほうが良さそうだ。

「若葉さん、すみませんが文机を」
「かしこまりました」

 若葉は分かったように立ち上がると、文机と一緒に墨や筆が入った硯箱も持ってきて、菊の前に整えた。
 左手は黒王に握られたままで動かすのははばかられ、筆を持った右手だけで文字の練習をしていく。暇さえあれば本の書き取りをしてきたためか、今では平仮名であれば全て、漢字も簡単なものであればいくつかは書けるようになっていた。
 若葉が紙を押さえ、菊が書いていく。
 紙をめくる音と筆が滑る音だけが部屋に響く、穏やかな時間が過ぎていく。

「……何を書いてるんだ」

 少し落ち着いたのか、黒王の顔がようやく菊の方を向いた。

「色々ですよ。今は、若葉さんや女官の皆さんの名前を書いてます」


 平仮名ですけどね、と筆先を上げて、書いた文字を黒王から見えやすくする。
 紙には、上手いとは言いがたいひょろりとした文字で「わかば」や「こうづき」「ももせ」などと書いてあり、黒王が首を伸ばしてまじまじと覗き込んでくる。
 てっきり「まだまだ下手だな」などと笑ってくれるかと思っていたのだが、なぜか黒王の口はみるみるへの字になっていく。

「え、え!? あ、あの、黒王様!? 私何か失礼を……!?」

 戸惑いにおどおどする菊だったが、その隣でなぜか若葉が吹きだした。

「え、若葉さん?」
「…………若葉」

 黒王が、ぼそりと非難めいた声で若葉をたしなめる。

「……っし、失礼……っふふ」

 顔を袖で隠していても、全身が小刻みに揺れているせいで、笑っているのがばればれである。というより、黒王はなぜ難しい顔になり、若葉は笑いをこらえているのか。

「若葉っ」

 しかし、黒王には若葉が笑っている理由が分かるらしく、また若葉を、今度は先ほどよりも強い声でたしなめていた。

 ――なんで分かるのかしら。

 菊には二人の表情の意味が分からないのに。
 二人の間で顔を往復させていた菊は、無意識に己の胸元にカリッと爪を立てていた。

「ふっ……はいはい。それでは怒られてしまいましたし、わたくしはこれで失礼いたしましょうかね。黒王様、言いたいことは口になさならないと伝わりませんよ」
「――っ若葉!」

 とうとう声を上げた黒王などなんのその。若葉は「ほほほー」と満足げな笑声を響かせながら、パタンと扉の向こうへと消えていった。
 はぁ、と大きな溜息と共に前髪を乱暴に掻く黒王は、菊が初めて見るもので、珍しい粗野な姿に思わず見とれてしまう。

「ったく、あいつは昔っから……」

 しかし、彼が呟いた言葉で、瞬く間に菊の高揚は醒め、それと共に顔まで俯く。

「どうしたんだ、レイカ?」

 二人は言葉を交わさずともわかり合っていた。
 しかし、自分は口にされないと分からないらしい。
 それがなんだか、少し悔しくて、もやっとするのだ。

 ――なんなのかしら、これ……。

「……昔から黒王様と若葉さんは、そのように仲がよろしかったのですか?」

 隣で黒王が笑う気配がした。
 顔を上げれば、黒王がくつくつと喉を鳴らして笑っている。楽しそうに頬を緩め、こちらを見ているではないか。
 しかし、なぜ彼が笑っているのか、菊にはまた分からない。

「安心しろ、若葉とは幼馴染みなだけだ」
「あ……そう……なんです、ね」

 すーっと胸にわだかまっていた何かが晴れる心地がした。
 ニヤニヤと揶揄い顔を黒王が近づけてくる。

「妬いたのか?」
「妬く?」
「俺と若葉の関係に嫉妬したのかと聞いているんだ」
「……分かりませんが……それは、この胸のあたりが、もやっとしたことを言うのでしょうか?」

 こてん、と菊が首を傾げてみせれば、黒王は口をぽかんと開けたまま一歩後ずさった。

「どうされたのです、黒王様?」

 顔が真っ赤だ。

「――っ無自覚か!?」

 何がだろうか。

「婚儀までまだ数日あるのに、勘弁してくれ……っ」
「それよりも、黒王様こそ、先ほどのへの字口はなんだったのですか?」
「それよりもとは……」

 きょとんとして本気で分からないといった顔をする菊に、黒王は明後日の見つめながら、後頭部をがしがしと乱していた。

「あれは、その……若葉や女官達の名前ばかり書いていたから……」
「しかし、黒王様のお名前を私はまだ聞かされておりませんから」

 そこで菊は、はた、と気付く。

「もしや、お名前が『黒王』というわけではありませんよね?」
「……筆を貸せ」

 言うが早いか、黒王は菊の手から筆を抜き取ると、さらさらと筆を走らせ文字を書いた。

「俺の名だ」

 菊にも分かる達筆さなのだが、漢字で書かれているため読めず、読み方を聞こうとしたら、それよりも早く黒王の口が菊の耳元で囁いた。

「――――」

 聞いた名を呟こうとして、人差し指を口に乗せられてしまう。

「決して他人に知られてはならない名だ。だから、レイカにだけ教えた。二人きりの……特別な時にだけ呼んでくれ」

 菊は紙に書かれた二つの漢字をじっと眺め、音を伴わず呟いた。
 すると、水が湧き出るように胸の中で何かがこみ上げてきて、何度も何度も口に馴染ませるように、刻み込むかのように、菊はひとり呟き続ける。

「それにしても、レイカは十九だろう。今まで嫉妬したりなかったのか? 村で想いを寄せた者や、寄せられた者くらいいただろう? ああ、いや……俺としてはとても嬉しいことなんだが……」

 菊は苦笑した。

「村にどのような者がいるのかすら私は知りませんでしたから……誰かに特別な感情を覚えるというのもなかったんですよ」
「そう……か」

「はい」と微笑んだ菊と、黒王はその日も若葉に「そろそろ夕食の時間ですので」と言われるまで、並んで春風を共に感じていた。




 
「…………」

 母屋へと戻る廊下の半ばで、ふと黒王は足を止めた。

「……灰墨」

 ぼそりと呟けば、一羽の烏が飛来し横の欄干に着地する。
 名前を呼べば、彼はすぐにやって来る。たとえそれが独り言の大きさでもだ。それが近侍である。

「何か」
「調べてほしいことがある」
「どのような」
「界背村へ行け。そして〝古柴レイカ〟についてもう一度調べてきてくれ」
「花御寮様について? 今更ですか?」
「同じことでもなんでもいい。とにかく彼女に関すること全てを持ってこい」
「かしこまりました」




        2




 ――なんだか、村にいたのがもう随分昔のことのようだわ。

 実際はまだひと月も経っていないというのに。
 今日は、昼から仕事があるからと、彼は朝早くからやって来た。
 忙しいのなら無理して訪ねてこなくても大丈夫だと伝えたのだが、彼は「俺が会いたいだけだから」と言って頬を撫でてくれた。彼の名前を書けるようになったと報告すれば、頭を撫でてくれた。

 ――なんなのかしら……この気持ち……。

 彼に撫でられた頬の感触を思い出しただけで、顔が熱くなる。
 最初は、伸ばされた彼の手を怖いと思った。
 でも、今では彼に触れてほしいと、自ら頬を差し出しそうになる。
 もっと、もっとたくさん、色々なところを彼に触れてほしい。

「――っああ、私ったらなんてことを……っ!? はしたないわ……」

 耳の奥まで沸騰したように熱くなった顔を、自らの両手で包んで冷やす。

「良かった……若葉さん達がいない時で……」

 こんな顔を見られたら、病気かと騒ぎになるところだった。
 若葉達は今、それぞれの持ち受けた仕事で、広間の外に出ている。特に今は、婚儀を目前にして衣装の準備や、用具の確認などで忙しいようだ。しかし、声を掛ければ、誰かしらがすぐにやって来てくれるため、困ることはない。

「本当……どうしたのかしら、私……」

 菊は風でも浴びようと広庇へと出て、庭に面した欄干に身体をもたれさせた。
 眼下では、桜の薄紅だけでなく、すみれの紫やたんぽぽの黄色、名を知らない小花の水色や桃色が咲き誇っている。

「あ、あの桜の木は……」

 たくさんの桜の木が植わっているのだが、桜の花々で隠された庭の奥にある一本は、かつて黒王と共に腰を下ろして眺めた桜ではないだろうか。
 あの日に誓った――凍えていた彼を温めようと。彼が、ずっと笑っていられるように。

 ――私はずっと彼の傍にはいれないから……。

「少しでも彼の心が癒えてると良いんだけど」

 傷は簡単に癒えない。
 しかし、花御寮としてここで過ごすようになって、確かに菊の中の傷は癒えていっていた。そして癒えた場所に、別の何かが芽吹き始めているような気がする。
 それがなんなのかは分からない。
 ここでもまた、生まれて初めてを経験していた。

「何かしらね」

 桜の麓を眺め続けていると、ふと背中を支えてくれていた、彼の大きな手の逞しさを思い出してしまった。
 たちまち耳まで熱くなる。

「……もうっ」

 手でパタパタを顔を扇ぐ。花の香りを含んだ風が、ちょうど良い冷たさで心地よい。
 花御寮になってからというもの、菊が得る感情は未知のものばかりで、毎日が大忙しった。
 胸が躍るようなことから、締め付けられるようなこと。凪ぐような時もあれば、毛が逆立つような時もあった。

「そういえば、昨日のあれはなんだったのかしら」

 胸の内側が、なんというか不愉快だった。しかし、今こうして指でカリカリと掻いてみても何も感じない。昨日は掻いても消えないもやもやをもどかしく思っていたのに。

「嫉妬……なのかしら? でも、どうして……」

 菊は振り返り、正面にある広間の入り口を眺めた。
 扉はぴったりと閉まっており、うんともすんとも開く気配がない。

「……仕事って言っていたもの。来ないわよね」

 そこで菊は、今あの扉が開いて彼が顔を出してくれないかと、自分が願っていることに気付いた。

「そういえば、いつからかしら」

 彼が来るのが待ち遠しく感じたり、帰っていく背中を寂しく思い始めたのは。
 最初は、彼が来れば恐ろしく、帰ればほっとしていたというのに。

「…………」

 菊は、入り口を眺めながら、欄干に引っ掛けた腕に頭を乗せた。
 自分の頬が、ほのかに温かくなっていくのを感じる。胸の内側がむずむずとする。でも、爪を立てたくなるような不快感はない。

「なんなのかしら……」

 答えは出ない。
 しかし、この感情は決して悪いものではないのだろう。


 
        ◆


 
 東棟を訪ねれば、彼女は青草の爽やかさが香るような笑みで迎えてくれる。
 今日は朝から訪ねたのだが、若葉達が部屋を出て二人きりになった途端、耳元に顔を寄せてきて。

『お名前、書けるようになりました』

 と、囁かれた。
 それが嬉しくて嬉しくて、ニヤける口元を隠すのに大変だった。
 口を押さえて言葉を発せなかったため、代わりに頭を撫でてやれば、彼女は照れたように「ふふ」と笑った。
 その穏やかさがまた可愛くて、たまらなくて。
 彼女が自分のことをどう思っているのかは分からない。
 ただ、どのように思われていようと、暖かな陽だまりのような彼女の隣にいれるだけで、心地よくて、幸せだった。
 傍にいてくれるだけで……良かったのだ。
 しかし、名残惜しさを感じながらも、午後からの仕事があるため早々に母屋へと戻ってきたのだが、それどころではなくなってしまった。

 
「――デタラメを言うなっ!!」

 三日ぶりに帰ってきた灰墨の報告を聞いて、黒王は母屋中に響き渡るほどの怒号を落とした。

「しばしお待ちを」

 しかし、灰墨は少しも臆することなく座を立つと、閉まっていた障子を開け、外の様子をきょろきょろと窺い戻ってくる。

「黒王様、もう少し声を落としてください。人払いをお願いしましたが、あまりにもですと女官達が駆けつけてくるかもしれません」
「……なるほど。このための人払いだったか……」

 怒号と一緒に落とした拳により、脇息が半ばから綺麗に折れていた。

「花御寮が嫌いだからと、適当なことを言っているんじゃないだろうな、灰墨」
「そんなことしないのは、黒王様が一番分かってますよね」
「…………悪い」

 灰墨が折れた脇息を手際よく片付けていく。
 黒王は置き所のなくなった手で顔を覆った。

「レイカが……っ身ごもっているだと……」



 灰墨は当初、既に嫁入った者のことなど誰が噂するというのだろうと、きっと大した情報は得られないなと期待していなかった。
 しかし、界背村に入り自分の認識を改めた。
 村の者達は、あちらこちらでヒソヒソと『古柴家の娘』や『レイカ』という言葉を口にしていたのだ。
 何をそんなに彼女のことで話すことがあるのか、と聞き耳を立てれば、村人達はどうやらひとつの話題ばかりをはなしている様子だった。

『さすがレイカだわぁ。私だったら万が一を考えてそんなことできないわよ』
『古柴家だからって、結構彼女だけ色々と許されてたもんね』
『でも、だからってまさか、妊娠してたなんて』

 灰墨は耳を疑った。
 冗談だろう、と。
 もしかして、村にはレイカという名前の女が他にいて、そちらの者のことだろうと。しかし、それから隅々まで村を跳び回って村人達の声を集めたが、〝古柴レイカ〟どころか〝レイカ〟という名前の女はひとりしかいないという裏付けにしかならなかった。
 そして、彼女が身ごもっていたということも。



「村はその噂で持ちきりでした」
「……村人達はどうやってレイカの身ごもりを知ったんだ」
「花御寮様には元々恋人がいたそうです。本来村の掟では、花御寮候補者はその期間が過ぎるまで、異性と深い仲になることを禁じられているそうです。が、彼女の場合は相手の男含め、村の有力家だったようで、清い関係であればと大目に見られていたようです」
「清い関係な……」

 どうやら村の大人達の譲歩は、見事に裏目に出たようだ。

「深い仲の恋人がいたのは分かった。だが、どうして今さら噂になっているんだ」
「どうやらその男、長らく仕事で村の外に出ていたようで。古柴レイカが花御寮に選ばれたことも、嫁入りしたことも知らなかったらしく。仕事を終え村に戻ってきた時、他の村人から聞いて『レイカの腹には俺の子がいるんだぞ!』と随分と騒いだようです」
「なるほどな。それでその男と……古柴家はどうしている」
「まず古柴家の方ですが、嫁入り以降火が消えたように静からしいです。使用人も、娘が花御寮となってから入れていないようですし」
「娘がいなくなったショックか」
「男の方はしばらく騒いでいたようですが、今は落ち着いているみたいですね。ただ、それでも内容が内容なので噂は未だ……という感じです」

 正しく状況を把握するために、なんとか冷静に話を聞くことはできたが、こうして座っていても頭がクラクラする。胸の内側は焼けるように熱いのに、頭の中は凍ってしまったかのように、恐ろしいほど冷えていた。

 ――レイカの腹の中には、既に別の男との子が宿っている……?

 この紫色を、綺麗だと微笑んでくれた彼女の中に?
 嘘を吐かないと、小指を差し出してくれた彼女の中に?
 自分の真名を記憶するために、何度もあの愛らしい唇で口ずさんでいた彼女の中に?

「…………っ!」

 前髪を握りこんだ手の中で、ブチブチと髪が切れる感覚があった。しかし、痛みは感じない。
 黒王の憤る姿に、灰墨の目も悲しそうに眇められていた。

「そりゃ人間は嫌いですし、花御寮制度なんかなくなれって思ってますけど……でも、黒王様が笑われる姿が増えて、良かったとは思ってたんです。だから……その笑顔がなくなるようなこと、本当は持ち帰りたくなくて……」

 以前、古柴レイカを調べると言って村へ行った時は、灰墨は一日で帰ってきた。今回三日もかかったのは、噂が間違いであることを突き止めようと、頑張ってくれたからだろう。

「分かっている……余計な苦労をかけたな、灰墨」

 ありがとう、と労ってやりたいのに上手く言葉が出なかった。
 正直に言うと、聞きたくなかった。
 しかし、彼女に関する情報を全て持ってこいと言ったのは自分だ。灰墨は何も悪くない。悪いのは、彼女の一言に違和感を覚えてしまった自分なのだから。
 彼女に関しては、以前からちょこちょこ、と首を傾げたくなるようなことはあった。
 たとえば、聞いていた性格と違うとか、文字の読み書きができないとか。しかし、性格に関しては、相手によって評価も変わるだろうし、読み書きは、得手不得手があるだろうと、さして疑問は抱かなかった。
 しかし、『村にどのような者がいるのかすら私は知りませんでしたから』という言い方には引っかかりを覚えた。
 村人に噂される程度の関わりはあるのに、『知らない』などということがあり得るのだろうかと。
 その些細な引っかかりを解消しようとした結果――。

「……ますますレイカが分からなくなった」

 ――俺があの夜に出会った彼女と今の彼女、そして噂の彼女……どれがいったい本物なんだ。

 すると、もじもじと灰墨が視線を送っているのに気付く。

「どうした、灰墨」

 灰墨が、ためらいがちに口を開いた。

「黒王様……花御寮様って確か、女官達に湯殿や着替えの手伝いをさせないって話でしたよね」

 ハッとした。

「それって、膨らんだ腹を見られないようにするためじゃ……」
「……下がれ……灰墨。このことは他言無用だ……」
「黒王様! 花御寮様を村へ送り返してやりましょうよ!? 別の花御寮でも良いじゃないですか! だって下手したら、見知らぬ人間の男との子を育てるはめになってた――!」
「下がれ、灰墨っ!!」

 もう何も聞きたくない。
 黒王は意思表示をするように、瞼を閉じ顔を俯けた。

「黒王様……っ」

 憐れみと悔しさを滲ませた声で灰墨が呼ぶが、これ以上は何も考えたくないのだ。

「下がれ…………」

 喉から絞り出した声は、自分でも聞いたことないような悲壮感が漂っていた。
 灰墨が立ち上がる衣擦れの音がした後、すーっと障子が開いて、また閉められる音がした。
 トン、トン、と足音が部屋から遠ざかっていく。
 部屋に落ちる静けさが耳に痛かった。
 いや、耳よりももっと別のところが、掻きむしりたくなるほどに痛かった。

「それでも俺は……っ」

 瞼の裏では、彼女が『黒王様』と呼んで笑っていた。
 いつも扉を開けると、春陽が降りそそぐ明るい広間で、彼女はちょこんと座っている。そしてこちらに気付くと彼女は、ふっ、と顔をほころばせるのだ。
 桜色に頬を染めながら。

「っああ……こんな時に好きなものを知るとはな……」

 彼女の桜色に染まる頬が好きだ。
 彼女の小鳥がさえずるような愛らしい声が好きだ。
 彼女の「黒王様」と言う小さな口が好きだ。
 彼女の穏やかに下がった眉と、猫のように少し跳ねた目元が好きだ。
 彼女の真っ直ぐに見つめてくる、烏の色と同じ真っ黒な瞳が好きだ。
 すっぽりと握れてしまう小さな手も、懸命に後をついてくる狭い歩幅も、景色を見るたびにうっとりとした息を漏らすところも……。

「――――っ!」

 何もかも。
 全部。
 彼女が狂おしいほどに好きなんだ。

「もう……俺には彼女を手放すことなど……っ」

 たとえ、別の男の子を身ごもっていようと――。




        3




 桜も八分咲きとなり、風が吹けば淡い花びらを広間に散らすようになった。
 広間と続きになった広庇から見える景色は、夕日を浴び薄紅色の花びらが茜色に染まり、圧巻の一言だ。
 しかし、そんな美しい景色の中、菊は先ほどからずっとチラチラと部屋の入り口を気にして、若葉の話も上の空という感じだった。

「花御寮様、気になりますか?」
「えっ、何がですか」
「何がですか、じゃないですよ。昼過ぎからずっと入り口ばかり気にして。分かりやすすぎです」

 若葉が目も口も弧にして、隣へとにじり寄ってくる。「もうっ」と肩をグイグイと押され、なぜだか気恥ずかしくなった。

「私、そんなに分かりやすかったですか?」

 そりゃあもう、と若葉は大げさに頷く。

「黒王様をお待ちなんでしょう?」
「……はい」

 返事した菊の声は、消え入りそうなほど小さかった。

「確かに、今日はどうしたことでしょうか。もう夕刻だというのに、黒王様がまだお見えにならないとは……」
「お仕事でしょうか」
「そうかも知れませんね。婚儀も近いですから」
「婚儀……」

 その日を迎えれば、全てが明らかになる。

 ――そうしたら、私はどうなるのかしら。

 少なくとも、もうここにはいられない。
 この美しい景色とも、暖かな陽射しとも、優しい女官とも、姉のような若葉とも、お別れだ。そして……。

 ――彼とも……。

 傾く夕日のせいだろうか、心がきゅうと締め付けられ、なぜだか虚しくなった。

「大丈夫ですよ。皆、花御寮様が黒王様の正妻になられるのを心待ちにしているのですから。慣れないことも多いでしょうが、その都度わたくし達がお助けしますから」

 押し黙ってしまった菊の肩を、若葉がゆるりと撫でた。婚儀を間近に控えて不安に思っていると、勘違いされたようだ。
 菊は、曖昧に笑った。

「そういえば、若葉さんは黒王様と幼馴染みだとか。よければ黒王様について聞かせてくれませんか」
「うふ、花御寮様も黒王様のことが好きなのですねぇ。おふたりに仕えるわたくしにとっては、喜ばしいことです」
「え、好き……?」

 これ以上婚儀のことは考えたくなくて、別の話題を探してふっと出てきたのが彼だったというだけで、『好きだから』などとは考えなかったのだが。

 ――しかも、『花御寮様も』ってことは……。

 まさか、黒王は自分のことを好きなのか。
 確かに彼は優しいし、よく微笑みかけてくれる。
 でも、それはそういう優しい性格の人だと、自分の花御寮だから気遣っているのだと思っていた。以前、若葉も彼はとても優しい人だと言っていたし。
 悩む菊を置き去りに、若葉は嬉しそうに「小さい頃の黒王様は……」などと、さっそく語り始めている。

「まあまあ、それはそれはやんちゃでしたよ」
「え、あの黒王様がですか!? とても落ち着いた方ですが……」
「猫かぶりです。花御寮様に格好よく思われたくて、一生懸命につくろっているんですよ。わたくしの方が、えっと……三つ年上なのですが、もうそれは昔っから随分と手を焼かされたものですよ。わたくしの母が先代の花御寮様に仕えていたのもあり、よくわたくしもお屋敷に連れてこられていまして」
「ああ、それで幼馴染みなんですね」
「ええ、年が近くてちょうど良いからと、黒王様と、乳母兄弟の灰墨という者がいるんですけど、いつの間にかそのふたりのお世話係にされてましたね。花御寮様は灰墨をご存知で?」
「い、以前、母屋に行った時にチラッと……」

 菊が困ったように笑ったのを見て、若葉は「あー」と理由を察する。

「灰墨は昔から黒王様に憧れてましたからね。だからその黒王様が……」

 その先を言いにくそうに若葉が言葉を濁す。

「ええ、黒王様から聞いてます。そんなことがあれば、誰だって人間が嫌いなって当たり前ですよ」

 なるべく直接的には言わず知っているということを伝えれば、たちまち若葉の涼しげな両目が大きく、眦が裂けんばかりに見開かれた。

「え、あ……ま、まさか聞かれたんですか? 黒王様から先代花御寮様のことを」

 そんなに驚くことだろうか。
 素直に菊が頷くと、若葉は今度は目を細め、はぁと吐く息を震わせていた。

「良かった……っ本当に……あなた様が花御寮になってくださって。あの件で、彼は心を閉ざしてしまい、ほとんどの感情を失っていました。以降、決して誰にも先代花御寮様の話や、その件について口にはしませんでしたから」
「感情を失う……分かる気がします」

 村にいた時の自分も、感情など苦しいと悲しいくらいしかなかったものだ。それが当たり前になりすぎて、他の感情があることもすっかり忘れていた。
 考えると絶望に打ちのめされそうになるから、どうでもいいと無心で生きるしかなかった。

「でも今、黒王様は信じられないくらいに穏やかに笑われます。帰られる時も、とても名残惜しそうに広間を何度も振り返りながら」
「知らなかった……です」

 ――私だけじゃなかったのね……。

 閉まった扉に名残惜しさを感じていたのは。
 きょとんとしてこぼせば、若葉は眉を垂らして「そうでしょうとも」と肩を揺らした。嬉しくて仕方ないといった様子で、目尻を濡らしている。

「まるで幼い頃のあの子を見ているようで……感情豊かに、日々を楽しんでいるあの頃に戻ったようで、わたくしはとても嬉しかったのですよ」

 握りしめた菊の手に、若葉は敬うように額をあてがう。

「彼の心を取り戻してくださって、ありがとうございます。侍女の若葉ではなく、彼の幼馴染みとして心より感謝しております」

 彼女の手は小刻みに震えていた。どれだけ彼女が彼のことを気に掛けていたのか伝わってきて、菊も思わず目頭が熱くなる。

 ――誰かが喜ぶのが、こんなにも嬉しいことだなんて。

「私、黒王様の花御寮になれて良かったです」

 心からの言葉だった。
 しかし、自分がその名前で呼ばれるのもあと数日。瞬間、胸の奥が痛いほどに締め付けられる。しかし、菊はその感情を見ないふりした。
 その代わり、痛みを誤魔化すように菊はチラッと横目で入り口を窺った。

「黒王様もそう思ってくださってたら嬉しいんですけど……」

 なぜだか泣きたくなった顔に、無理矢理笑みを貼り付ける。

「大丈夫ですよ。きっと明日は訪ねてこられます。たくさん文字を練習して、驚かせましょう!」
「そうですね」

 若葉はちゃんと騙されてくれたようで安心した。
 まだ自分はしっかりと花御寮をできている。


 
         ◆



 しかし、次の日も、そのまた次の日も、彼は姿を現さなかった。
 病気なのではと心配になり、若葉に様子を尋ねたりもしたが、彼女は病気ではないと首を横に振った。

「仕事が詰まっているのかとも思いましたが、今の黒王様でしたら、一瞬でも手すきの時間があれば飛んできそうなものですのに」
「あの、私から黒王様を訪ねてはいけませんか?」

 あと僅かな限られた時間は、少しでも多く彼と過ごしたかった。
 菊の提案に、若葉がパンッと手を打つ。

「そうですよ。待っている必要なんかありませんものね! 花御寮様は母屋でも他の棟でも、ご自由に歩かれて良いんですよ」

 どうやら今までの花御寮は、東棟からは絶対に出ようとしなかったとかで、若葉もすっかり忘れていたらしい。
 確かに、嫁入りを泣き叫ぶほど嫌がっていたのなら、わざわざ東棟を出て人の多い母屋へと行こうとは思わないだろう。

「では、若葉さん。供をお願いします」

 こうして菊は、東棟を出て母屋へと向かったのだった。
 母屋には以前黒王に手を引かれて一度来たきりだったが、若葉がいてくれたおかげで迷いはしなかった。そして、黒王の行動範囲を把握している若葉によって、あっという間に彼は見つかった。

「こんにちは、黒王様」
「レ、イカ……ッ!?」

 なんのことはない。黒王は彼の私室にいた。
 若葉が訪ねて来ただけと思ったのだろう。若葉の入室を請う言葉に「んー」と気のない返事をした黒王は、現れた菊を見て、飲んでいた茶を吹きだしていた。

「いつも黒王様に来ていただくばかりでしたので、今日は私から訪ねてみました」
「どうやらお仕事中ではなさそうですし、ちょうど良かったですね、花御寮様」
「ええ、ありがとうございます、若葉さん」
「では、黒王様、花御寮様。どうぞごゆっくりぃ。あ、帰りは黒王様が東棟まで送って差し上げてくださいね」
「え、あ、おい! 若葉っ」

 言いたいことだけ言うと、若葉は黒王に口を挟ませる暇もなく部屋を去って行った。
 てっきり、いつものように笑みを向けてもらえると思ったのだが、黒王の顔は菊を向いていなかった。口元の茶を袖で拭きながら、どこか気まずそうに視線を下げている。

「すみません、突然。お仕事の休憩中だったでしょうか?」
「ああ、いやまあ……そうだな。この後は少し……郷の外を見回るつもりだ」
「黒王様自ら見回りなどされるのですね」
「ここ数ヶ月、他のあやかしが近くをうろついていてな。結界を張っているから中までは入って来ることはないし、もう片付いたようだが。一応念のためにな」
「それは大変ですね。そんな時にすみません。黒王様のお姿が最近見えなかったもので、気になって……」
「――ッ本当か!」

 逸らされていた黒王の顔が、勢いよく菊へと向けられた。あまりの勢いの良さに、菊のほうが驚いて一歩下がってしまう。
 部屋に入って初めて交わった視線。
 その表情はパッと花が咲いたように晴れやかなもので、紫色の瞳の中では星がぱちぱちと瞬いていた。

「あ、いや……なんでもない」

 しかしそれも、一度強く瞼を閉じ、再び開けた時にはもう消えていた。
 視線も逸らされたままで、部屋にもどかしい気まずさが漂う。
 菊はまだ部屋の入り口に立ったままであった。普段の彼ならば、部屋に菊が来た時点で手招きでもしそうなのだが、やはり今日は最初からどこか様子がおかしい。

「レイカ……聞きたいことがあるんだが……」
「はい、なんなりと」

 いつも隣で会話していたから、今のふたりの距離もそうだが、菊が立って黒王が座っているという妙な距離に違和感がある。

「その……体調は悪くはないか。腹が痛いとか……」
「ええ、おかげさまで。お料理は美味しいですし、若葉さん達皆さん優しいですし、差し込む太陽は暖かですし、一面の桜も美しいですから。村にいた時よりも健康的ですよ」
「そ、それならば良いが」

 またしても奇妙な空気が流れる。

 ――何かしら? 言いたいことを我慢してるような……。

 彼は言葉を飲み込むように、何度も喉を上下させていた。

「もう、鴉の(ここ)には慣れたか」
「はい、とても素敵なところです」
「では、そろそろ女官達に湯殿や着替えの手伝いをさせてはどうだ。仕事がないと困っているぞ」

 どくん、と心臓が痛いくらいに跳ねた。まるで内側から胸を殴られたようだ。

「い、あの、それはまだ慣れないと言いますか……その……見られるのが恥ずかしいので……」

 気付けば、先ほどまで視線を逸らしていた黒王がこちらを向いていた。
 吸い込まれそうなほどに深い紫が、射抜くような強さでまっすぐに見つめてくる。

「……っ」

 もしかして、入れ替わりがばれたのか。それとも、この身体を誰かに見られたのか。
 菊の踵がトンとぶつかった。

「あっ!?」

 振り返れば、いつの間にか背後にある障子まで後ずさっていたようだ。これでは、何かやましいことがあると言っているも同然だ。

「どうした、そんなに慌てて」

 近くで彼の声が聞こえ、驚きと共に顔を正面へと戻した次の瞬間、菊は息をのんだ。
 黒王が目の前に立っていた。
 思わず体勢を崩してしまい、よろりと今度は踵だけでなく背中まで障子にぶつかってしまう。ガタガタと障子がうるさく揺れた。

「俺に言えないことでもあるのか?」
「そ、そのようなことは……」

 カタン、と顔の両側から乾いた音がした。菊の逃げ道を塞ぐように、黒王が障子の格子に手を掛けていた。黒王が高い位置から菊を見下ろす姿は、黒い着物を着ていることもあり、まるで大きな烏が小さな菊に覆い被さっているようだ。
 影が落ちた顔の中で、紫の双眸が不穏にギラついている。

「なあ、レイカ。嘘は吐かないと桜の木の下で約束してくれたよな」
「嘘など……ついていません」

 そう言っている今も自分は嘘を重ねている。

 ――お願い。もうそれ以上踏み込んでこないで。

 嘘を吐く口は震え、逸らさないと決めた視線は伏せられ、膝が今にも抜けそうだった。
 いつかはばれると覚悟していたが、せめてぎりぎりまでは彼の花御寮でいたいのだ。

「見られるのが恥ずかしいから、な」
「あの、こ、黒王様……」
「本当は、身体を見せられない理由でもあるんじゃないのか?」
「――っ!!」

 心臓が胸を突き破ったのかと思うほど、身体の中心が激しく脈打った。嫌な汗が背中をじっとりと濡らす。
 彼は何をどこまで知っているのか。

「恥ずかしいならば慣れてしまえばいい。俺達はもうすぐで夫婦になる関係だ。俺にならば見られても構わないだろう?」

 言い終わらぬうちに、黒王の手が胸元の合わせからするりと入り込んできた。

「え、あっ!? お、お待ちください、黒王様!」
「待たない」

 菊が必死に制止の声を上げるも、黒王は強引に手を進め続ける。彼の手は胸元の輪郭をなぞりながら肩へとのぼり、到着すると撫でるようにして着物を脱がせはじめた。

「いやっ、黒王様!」

 身をよじって黒王の手から逃れようとした菊だったが、障子に突っ張っていた彼の腕に引っかかり体勢を崩してしまう。

「きゃっ!?」
「レイカ!」

 ぐらりと大きく傾いた菊の身体をすんでのところで黒王が抱きとめるが、既に半分以上倒れていたこともあり、二人してもつれるように畳へと転がった。
 ドスンという大きな音の割りに菊の身体に痛みがなかったのは、黒王の腕が代わりに下敷きになってくれたからだろう。
 脇から頭へ、背中から腰へと回された腕は、確かな力で守るように菊を抱きしめていた。
 耳元で「痛っ」と言う黒王の声が聞こえた次の瞬間、彼はガバッと身を起こし、不安そうな顔でこちらを見下ろしていた。

「大丈夫か、レイカ!?」

 彼の顔には焦燥が浮かんでいる。
「大丈夫です」と答えようとしたのだが、口を開けば言葉よりも先に嗚咽が漏れた。
 彼は自分の嘘に気付いているのに、それでもこうして心配してくれる。

 ――私には、彼に心配してもらえる資格なんかないのに……っ。

 すると、黒王の顔が苦しそうにしかめられた。

「頼む……泣かないでくれ」

 言われて初めて、菊は自分が泣いているのだと気付いた。
 目尻からぬるい雫がこめかみへと流れ落ち、畳に広がった髪を濡らしていく。一旦認識してしまうと、次々と涙があふれて止まらなくなってしまう。

「泣かせたいわけじゃないんだ。お前が大切だから全てを知りたいんだ」

 見ている方が痛々しくなるほどの悲痛な顔で、絞り出すように言った黒王は、畳に広がった菊の波打つ長い髪を、壊れ物に触れるような手つきで丁寧に梳き続けた。
 それはまるで『もう触れないから』と言っているようで、ますます菊の胸は締め付けられ嗚咽が止まらなくなる。

「……っ見な……で……」

 ごめんなさい、嘘を吐いて。
 ごめんなさい、何も言えなくて。
 ごめんなさい、あなたにそんな顔をさせて。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

「こく……お、様……っ、お願……ッ……し……」

 偽物なのに、あなたの傍にずっといたいと願ってしまって、ごめんなさい。
 顔を両手で覆い見ないでと懇願する菊を、しばらく黒王は唇を噛んで見つめていたが、視線を切ると一緒に、自らの羽織をはだけて露わになっていた菊の胸元に掛けた。
 え、と菊が思った瞬間、羽織で身体を包むようにして、抱き起こされる。
 突然の予期せぬことに菊の涙も止まったが、それも一瞬。

「好きだ」

 肩口に顔をうずめ、羽織の上からきつく抱きしめながら呟いた黒王の言葉に、止まっていた涙が再び流れだす。
〝好き〟という言葉が、これほどに感情を切なくするものだとは知らなかった。そして、同時に胸を高鳴らせるものだということも。

「黒王……様」
「どうした」

 互いに顔を見ずに声だけを交わす。

「もう少しだけ……っ、こうしていて、くださいますか……」

 途端に、グッと彼の抱きしめる力が増した。隙間がないほどにくっつき、互いの体温だけでなく鼓動すらも伝わってくる。

「もちろんだ、レイカ」

 彼の腕の中にいるのは自分なのに、彼が呼ぶ名前は自分ではなかった。
 しかし、だからこそ彼の腕の中にいられるのだ。
 レイカを羨ましく思ったことなど一度もなかったのに、彼に名前を呼んでもらえる今だけは羨ましくて仕方なかった。

 ――ずっとは願いませんから、だからどうかあと少しだけ、彼を私にください。

 今、菊はやっと初めてこの感情の名を知った。
 これは間違いなく〝恋〟だった。
 障子を通した柔らかな薄光に包まれ、部屋の色が白から茜になるまで、ふたりが離れることはなかった。
 


        4



「昨日は驚きましたよ。花御寮様ったら、黒王様に抱えられて戻ってこられるんですもの。しかも、すやすやと心地よさそうな寝息を立てられて」
「そ、それは本当、なんと言って良いのやら……」

 恥ずかしそうに菊が袖で顔を隠せば、若葉だけでなく女官達からもクスクスと笑いが漏れる。
 今朝、目が覚めたら自分の布団で寝ていた。どうやらあの後、自分は彼の腕の中で眠ってしまっていたらしい。しかも、東棟に帰ってきたのが日も暮れた頃と聞かされ、どれだけ長時間、彼を枕にしてしまったのかと申し訳なさでいっぱいだった。
 それに加え、昨日の一件が気掛かりでしょうがない。
 彼は今日どのような顔をして来るのか。どのような顔をして会えば良いのか。もう一度聞かれた時、はたして自分は嘘をついていないと言えるのだろうか。
 言いようのない不安に、じわじわと胸を蝕まれているようだった。

「そんな落ち込まないでくださいな。わたくし達は黒王様の腕の中で眠られている花御寮様を見て、嬉しかったんですから」

 どうやら若葉は、菊の表情が暗くなったのを寝入ってしまったからと思ったようだ。

「若葉さん達が嬉しい、ですか?」

 菊は首をコテンと横に倒す。

「ほら、人間はわたくし共を怖がるでしょう? でも、花御寮様は眠られるほど心を開いてくださっているのだなと思いまして」

 頬を緩めて「くふふ」と変な笑いを漏らす若葉は、本当に嬉しそうだった。

「若葉さん達は、今までの花御寮に色々と辛い思いをさせられてきたのに、どうしてそう私に最初から優しいんですか?」
「弱い者が強い者を怖がるのは自然の摂理ですから」

 にっこりと微笑まれ、姿形は一緒でも彼女達は常世に住む〝あやかし〟なのだと思い知らされ、少しだけ背中が冷たくなった。余裕が感じられる笑みは、絶対的な強者だという自負からきているのだろう。

「それに最初に言いましたように、来てくださっただけでありがたいんですから。邪険にすることなどあり得ませんよ。まあ、それ以上に、わたくし共が純粋に花御寮様を好きだからですけどね」

 ねー、と若葉と女官達は、少女のように声と首の角度を合わせて楽しそうに笑っていた。

「ですから、明後日の婚儀が楽しみで楽しみで仕方ないんです!」
「若葉殿ったら、まあ張り切っちゃって」
「本当に。こんなに張り切る若葉殿は珍しいんですよ、花御寮様」
「明後日……」

 外に目を向ければ、桜は満開に咲き誇っていた。
 風に吹かれ、さやさやと揺れた花が、広庇に薄紅色の雨を降らせている。
 そう、婚儀は明後日だ。
 今はそのために、当日着る衣装の最終調整をしているところである。
 村から嫁入りするときにも白無垢は着た。その時は、こんな上等なものは後にも先にもこれきりだろうなと思ったものだが、目の前の衣紋掛(えもんか)けに掛かっている白無垢や色打ち掛けはその比ではない。
 ただの白かと思えば、同じ白糸で模様が入れられており、光の加減で裾には流水文様が、胸元には桜と扇文様が浮かび上がる。下に着る着物――掛下(かけした)にも透かしが入り、帯は七宝文様。末広には金箔が巻かれ、頭を飾る(かんざし)の飾りにも見たことない美しい石がちりばめられている。
 溜息が漏れるほどに美しいとは、このことだろう。

「でも、その前にまずは明日の潔斎ですけどね」

 調整を終え、出した小物をてきぱきと片付けていく若葉達。

「禊ぎ、でしたっけ。それはどこでするんですか? 郷の外でしょうか」
「いえいえ、ご安心ください。郷の中ですから」
「安心?」

 菊は首を傾げた。

「最近までどこかのあやかしが、郷の外をウロチョロしていたようでして」
「そういえば、黒王様もそんなことを言っていたような」
「雑魚あやかしのようですから、そこまで心配する必要はありませんが。玄泰様が黒王様の命で対処されたようですし、もう大丈夫ですよ。大丈夫です、婚儀にはなんの支障もありません」

 はは、と菊はなんとも言えず、曖昧な笑みで話を躱す。

「それに、万が一があっても黒王様は強いですから。なんとかしてくれます!」

 若葉が力強く拳を握っていた。

「あやかしにも、強い弱いがあるんですか?」

 あやかしはあやかしとしか捉えていなかったが、その中にもやはり序列があるのだろうか。
 人間社会にも序列はあった。たとえば貴族には帝都貴族と地方貴族があり、平民にも商人や農民、職人など、さまざまな身分が存在した。当然、平民より貴族のほうが上であり、貴族の中では地方よりも帝都貴族のほうが序列は上だ。
 その中で、界背村は『祓魔師』と呼ばれるのだが、少々特殊で平民のくくりには入らなず序列から独立した地位にあった。しかし、村の中しか知らない菊がそれを体感することはなかったが。

「あやかしの序列は当然ありますよ」

 腕組みした若葉が、深く頷きながら教えてくれた。
 まず、水神や龍といった神と呼ばれる者達がいて、その次に、鬼や天狗、大蛇など人間にも伝承されるような者達、そして、烏や狐などの現世の自然界にも存在する者達がいて、最後に魑魅魍魎といった群れにならない小さな者達の順が基本なのだとか。

「だから我ら鴉は群れを作るのです。ひとりひとりの力は弱いですが、数は他のものとは圧倒的な差がありますからね。それと、実は黒王様はこの序列の限りではないんですよ。鬼か、下手したら龍にも並ぶほどの妖力をお持ちなんですから」
「え、でも黒王様も烏のあやかしですよね」
「ふふ、だから黒王様は我らの(おさ)であれるんですよ」

 若葉は、目と口元に意味深な弧を描いていた。



        ◆



 夜、菊は寝所を抜けだし、いつもの広間にひとり佇んでいた。
 時刻はそろそろ日付が変わろうとする頃、辺りはひっそりと静まりかえっている。菊が歩くたびにギィと板張りの床が鳴き、もの悲しさをかもしだしていた。
 ほぼ満月の月が、手燭もいらないくらいに全てを明るく照らし出す。
 とうとう今日、彼は来なかった。
 どんな顔をして会えば良いのか分からなかったから、少しだけホッとしたが、それよりも寂しさのほうが大きかった。
 明後日はとうとう婚儀の日だ。
『婚儀』という言葉を聞く度に、胸が苦しくなって息ができなくなる。

「最初から分かっていたことじゃない」

 しかし、最初はこのようになるとは思わなかったのだ。
 黒王は恐ろしいあやかしで、人間を食べると思っていた。たとえ食べられなくとも、ひどい扱いを受けるのだろうと覚悟していた。
 菊は見上げた月に向かって手を伸ばした。

「一度で良いから……菊って呼んでほしかったわ……」

 彼の、低く穏やかな声で。

「……っ……ぅ」

 菊は痛みに耐えるように身体をくの字に曲げ、自らの手で自身を抱きしめた。
 なぜ涙が出るのか。
 今までにも涙くらい、いくらでも流してきた。たくさん殴られた夜にも、空腹で寒くて凍えそうな朝にも、手を伸ばして誰にも見向きもされなかった日にも。
 でも、これはそんな悲しいだけのものとは違う。
 こうして涙が出る理由を、菊は昨日、彼に強く抱かれた腕の中で知った。

「好き……」

 これは愛おしさだ。
 彼に恋をして芽生えた、甘くて、もどかしくて、痛い感情。

「好きです……黒王様……っ」

 狂おしいほどに、離れがたいほどに、彼を愛してしまった。

 ――だから、これ以上は駄目。

 彼も好きだと言ってくれた。
 しかし、その言葉には応えられない。たとえ自分も同じ気持ちだとしても。
 菊は濡れた瞳を袖で拭い、まばゆいばかりに輝く月を見上げた。

「このままじゃいけないのよ、菊」

 このまま、彼と婚儀を挙げるわけにはいかなかった。

「私が花御寮に相応しくないって分かった時に婚儀を終えてしまっていたら、村がもうひとり別の娘を寄越すとは考えられないもの」

 ただでさえ、どこの家も花御寮を出し渋っているというのに。契約通りひとり出したのだからもう良いだろうと拒否するはずだ。
 しかし婚儀前ならば、黒王達も新たな花御寮をと押し通せるだろう。

「私の役目もこれでおしまい」

 言った後で、くっと口角が下に引っ張られる。

「元々私は偽物なのよ。良かったじゃない、偽物のくせにこんなに贅沢な時間を与えてもらって。あのまま村にいるより幸せだったのよ」

 自分に言い聞かせるように、菊はこれで良いのだと言い続けた。

「きっと黒王様なら、新しい花御寮にも優しくしてくださるわ。とっても素敵な方ですもの、新しい花御寮もすぐに彼を好きになるわ」

 彼と婚儀を挙げ口づけを交わし、名前を呼ばれながら肌を重ね、彼との子供をその両手に抱くのだろう。

「――っ!」

 両手で顔を覆った指の隙間から、一度は止めたはずの雫がまたぽたぽたと滴っていく。

「そんなのいや……っ」

 しかし、どうしようもない。
 自分は忌み子だ。生まれた時から彼と結ばれる運命になかっただけだ。
 しかし別れるのなら、せめて彼に好かれたまま別れたかった。

「こんな汚れた身体、彼には見られたくないもの」

 何も知られず、彼の記憶には綺麗なまま残りたかった。

「全ては、明日の潔斎まで」

 潔斎は身を清めるため、全てひとりで行わなければならないと聞いた。
 ひとりになったら密かに郷を出よう。郷の外のあやかしも片付いたと言っていたし、きっと大丈夫。それに、花御寮自らが逃げたとなればあやかし側に責任はない。
 菊は、広間の隅に置かれたいくつもの唐櫃に目を向けた。その中のひとつから硯箱を取り出し、筆をとったのだった。
 


         ◆



 眩しいほどの月明かりが、部屋の畳に障子の格子模様を落とす。
 黒王は酒杯を傾けながら、斜めに歪んだ格子を視界に映しているのだが、頭の中はまったく別のことを考えていた。
 レイカは羽根のように軽かった。
 彼女を手に抱いたのは、あれで二度目だ。
 一度目は必死にしがみついてきて、それが猫のようで愛らしく、重さなど気にする余裕もなかった。
 二度目は、自分の腕の中で眠っていた。少し赤く腫れた目元と、頬に残った涙の跡を愛おしく思ったものだ。東棟になど戻さず、このまま腕の中に閉じ込めて、彼女が目覚めるその瞬間まで寄り添っていたかった。

「腹の中に子がなあ……」

 昨日の彼女の反応を考えると、おそらくほぼ間違いはない。
 しかし幸いにも、灰墨以外レイカが身ごもっていることは誰にも知られていなかった。
 彼女が身ごもっていると知ってから、しばらく東棟へは足が遠のいた。どう接したら良いのか分からず、頭もぐちゃぐちゃで、彼女を見たら思ってもないことを口走ってしまいそうだったから。
 嘘を吐かないと誓ってくれたのにと憎む気持ちと、それでも彼女には傍にいてほしいと渇望する気持ちとが何度も衝突して、この先どうすればいいのか、ずっと答えが出せないままでいた。
 しかし、突然『気になって』と言ってレイカが部屋にやって来た。
 正直、嬉しかった。彼女が自分を気に掛けて会いたいと思ってくれたことに、震えるほどの喜びを感じた。
 そんな優しい彼女が身ごもっているはずがないと、確信がほしくて様子を窺ってみたのだが、彼女の反応を目の当たりにして、頭から血の気が引いていった。
 明らかに、彼女は動揺し何かを隠していた。
 驚くほど頭が冷えていた。いや頭だけでなく、まるで氷塊を飲まされたように身体の真中心が痛いほどに冷たくなった。
 気がついたら、自分は彼女を襲おうとしていた。このまま婚儀を待たず、自分のものにしてしまおうかとも考えていた。
 しかし、彼女が倒れそうになったのを見た瞬間、そんな考えはどこかへ飛んでいった。レイカだけでなく腹の子も守らねばと思い、抱き留めていた。

「悩むだけ無駄だったな」

 やはり自分は、彼女が身ごもっていても手放せないらしい。
『見ないで』と、泣きじゃくりながら哀願する彼女すら愛おしく思った。
『もう少しだけ』と抱擁を求める彼女を、誰が拒めるだろうか。
 そのまま腕の中で眠ってしまった彼女の額に、密かに口づけた。本当は唇にしたかったが、婚儀まではと我慢したものだ。
 今日が婚儀の前に彼女に会える最後の日だった。
 本当は会いたくて堪らなかった。
 しかし、運悪く玄泰やその他の里長、灰墨にまで捕まり、明日に控えた潔斎や明後日の婚儀について、段取りの確認や郷の者達への振る舞いなどを話し合っていたら、あっという間に日が傾いていた。
 明日のこともあるし、きっと緊張しているだろうから、さすがに夜に訪ねるのは憚られた。次に会えるのは婚儀の時だ。

「ははっ、まったく……どれだけ彼女のことを考えているんだか」

 思わず苦笑が漏れた。
 会っていても離れていても、常に脳裏には彼女の姿があった。

「自分でもどうしようもないくらい、彼女に惚れているんだろうな」

 たとえ嘘を吐いていようとも、その嘘ごと愛せるくらいに。
 おそらくレイカの身ごもりがばれたら、里長達は新しい花御寮をと騒ぐだろう。

「奪われて堪るか」

 自分から彼女を引き離そうとする者は、誰であっても許さない。
 彼女以外、花御寮はありえない。
 黒王は酒杯を床に置くと、障子を開けに立った。
 滑りの良い障子はすーっと静かに開き、夜の虫の音を邪魔することはない。廊下に出て見上げれば、ほとんどまん丸の月が夜闇に浮かんでいた。
 次に会えるのは婚儀の日。

「俺がほしいのは、花御寮じゃなくて彼女なんだ」




  
      1


 郷の南側にある霊泉。黒王の屋敷を出て、郷に住む者達の家々を通り抜け、高い針葉樹の木々に囲まれた山裾にそれはあった。
 どこか、古柴家の屋敷裏にあった雑木林を彷彿とさせる樹木の乱立具合だったが、薄気味悪さはない。
 ここまでは若葉と女官達に案内されてきたが、彼女達が立ち入れるのはこの森の手前までだそうだ。森の中を真っ直ぐ進むと泉があるから。そこで沐浴をして戻ってくるのだそうだ。
 着替えの着物を手に持ち、ひたすら木々の合間をぬって歩く。
 横から射し込む白い朝日が、大気に何本もの光の帯を描いていく。
 影を踏んで、陽だまりを踏む。そしてまた影を踏む。だんだら模様の世界を、菊はひとり歩いた。
 そうして、木々の道が終わった先――開けた空間に出る。

 真ん中には沐浴の泉であろう霊泉があり、水面にはぷくぷくと水泡が湧いていた。水源地のようで、泉からは川が伸びている。辺りを取り巻く空気には清浄さがあり、ここだけ別世界のようだった。
 霊泉を取り囲むように大小様々な岩があり、中には、大の男が五人で手を回してやっとというくらい大きなものもある。その中のひとつ、背が低く平らな岩の上に着替えを置き、菊は襦袢の懐から半分に折られた紙を取り出し、着替え間に挟んだ。

「これで、若葉さん達にも責任は及ばないはず」

 菊は森の向こう側で待つ若葉達の方へ一度視線を向けると、しかし、振り切るように踵を返した。
 どうやら霊泉は郷の外れにあるようで、近くに家などなく山や草木に囲まれている。

「このままもっと奥に進んだら郷を出られるはず……」

 そうして、菊は来た道とは別の方へと歩き出した。


        ◆


 どれくらい歩いただろうか。

「はぁ、はぁ……っ、もう……郷は出てるわよね」

 郷から離れるように山へ山へと進んだせいで、息は絶え絶えに、足は膝が震えるほどに疲労していた。

「きっと、他にも現世へと繋がる場所があるはずだわ」

 結界で守られた郷の中にある鳥居だけのはずがない。でなければ、現世に魑魅魍魎などわいてこないのだから。

「とにかく歩き続けなきゃ」

 坂を上りきり、ようやく少しは平坦な場所へと出た。
 振り返ると、小さくなった鴉の郷が木々の合間から見えている。そこでようやく菊は、ほっと胸をなで下ろす。

「あとは探すだけね」

 よし、と振り返った先――。

「え、外に出てきてんじゃん」
「やりぃ! 手間が省けたわ」

 着物を着崩した、派手な身なりの若い男達がいた。

「……え」

 しかも、彼らの頭には、つののようなものが二本ずつ生えていて、鴉の郷の者でないことは一目瞭然だ。
 すぐに、黒王や若葉達が言っていたことを思い出す。それは、郷の周囲をうろうろしている妖がいるという話だったが。

 ――でも、郷の周りの妖はもういなくなったって……。

 戸惑いに、菊はよろよろと後ずさるが、それは伸びてきた男の手によって阻まれてしまった。

「きゃっ!」
「はいはい、逃げない逃げない」
「この人間、すっげぇ良い匂いするな! 早く持って帰ろうぜ!」

 ――どこに。

 ゾッ、と感じたことのない恐怖が、足元から這い上がってくる。

「いやっ、離して――っ痛!?」

 逃げようともがけば、掴まれた手首が軋みをあげた。

「暴れんなよ、メンドクセー」

 男の鋭利な爪が食い込むほどにギリギリと手首を締め上げられ、菊の顔も苦痛に歪む。あまりの痛みと恐怖で「寝てろよ」という声を最後に、菊の意識は閉じたのだった。



        ◆



 潔斎を終え、北の霊泉から戻ってきた黒王が最初に聞いたのは、耳を疑うような言葉だった。

「レイカがいなくなった、だと……」
「申し訳ありませんっ! 霊泉の森には儀式の決まりで花御寮様しか入れず、わたくし共は森の入り口で戻ってくるのを待っていたのですが、いくら待っても戻られず」

 里長との会合などが行われる母屋の一室で、今、若葉と女官達が揃って頭を畳にこすりつけていた。

「ほら、黒王様! やっぱり人間なんか信用するものじゃないんですよ!」
「黙れ、灰墨!」

 黒王は座るのも忘れ、立ったまま呆然と床に伏す若葉達を見つめる。
 脳裏には、最悪の結末が思い浮かんでいた。
 レイカと同じ花御寮として連れてこられた人間で、かつて自分の母親だった者の末路。
 嫌な汗が背中を流れていく。

「決まりを破ってしまうとも思いましたが、何かあったのではと、わたくしひとりだけ霊泉へ向かいました」
「それでレイカは……」
「周辺をしばらく探しましたがお姿は見えず……霊泉の岩の上に、着替えの着物とこれだけが残されていまして……」

 若葉が震える手で差し出したのは、半分にたたまれた一枚の手紙。

「中は見ておりません」

 表には、たどたどしい文字で『こくおうさまへ』と記してあり、それを目にするなり、黒王は若葉の手から奪い取るようにして手紙を開いた。
 部屋には、紙がこすれる乾いた音のみが響く。

「黒王様、手紙にはなんと!? 花御寮様は誰かに連れ去られてしまったのでしょうか!」
「……っいや」

 クシャ、と手紙が黒王の手の中でよれる。

「彼女は自ら姿を消したようだ」
「なぜです!?」
「俺が知りたいわ!!」
「も、申し訳ありませんっ」

 空気が震えるほどの黒王の怒号に、若葉達はもうそれ以上は下がらない頭を、それでもさらに下げた。
 障子がカタカタと微動する音が、部屋に気まずい余韻を残す。
 黒王は額を抑え、自らを落ち着けるように深い溜息を吐いた。

「いや……悪かった。若葉達のせいじゃない」

 潔斎を終えたばかりだというのに、黒王の頭の中はとても清浄とは言いがたいほどに、様々な思念が渦巻いていた。
 なぜ婚儀を前にしていなくなったのか。
 本当に自分の意思なのか。
 やはり、妖の妻になるのが嫌だったのか。
 あの笑顔も、結んだ手の温もりも、一緒にいたいと言ってくれた言葉も、何もかもが嘘だったというのか。

「黒王……様……」

 心配そうに掛けられた若葉の声で、どうにか黒王は『黒王』の役目を思い出す。

「もしかしたら、村へ戻ろうとして鳥居に近付くかもしれない。若葉達は鳥居の周囲を探してみてくれ」

 黒王の指示に若葉達は短い返事を返すと、すぐさま、それこそ飛ぶような速さで姿を消した。
 部屋に残ったのは黒王と灰墨のみ。
 黙れと言われ口を閉ざしていた灰墨が、黙っていられなかったのかぼそりと悪態をつく。

「どうせ、腹の子の父親の元へ戻ろうとしたんでしょ。いよいよになって、騙しきれないと――」
「灰墨は空から郷の中を見て回れ。ただし、玄泰達には知らせるなよ。ここぞとばかしに面倒なことになる」
「黒王様!? どうしてそこまでしてあんな女を――っ!?」
「いいから行け!! これ以上俺に……っ現実を突きつけるな……」

 灰墨はまだ何かを言おうとしていたが、黒王が背を向ければ、渋々とだが部屋を出て行った。バサバサッと翼を羽ばたく音が、次第に遠ざかっていく。

「……っ今、お前はどこにいるんだ……」

 黒王は手紙を胸に押し当てるようにして、その場で膝を折った。




 それから間もなくして灰墨が戻ってきた。
 人に転化した姿で現れた灰墨は息を荒くし、額には汗が滲んでいる。なんだかんだ言いながら、命令には忠実に従ってくれたようだ。

「郷の中に花御寮様の形跡はありませんでした」
「そんな……」

 ただでさえ重かった身体が、さらに重くなる。
 しかし、灰墨の報告はそれだけではなかったらしい。

「……でしたが」

 言葉を繋ぎながら灰墨が懐から取り出したものを見て、黒王は飛びついた。
 真っ白な台に淡い桜色の鼻緒が愛らしい草履が片方、灰墨の手に乗っていた。

「灰墨、これをどこで……!」

 黒王の草履を握る手は震え、目は瞳がこぼれ落ちそうなほどに見開いている。その瞳には微かな希望がわきつつある。
 しかし、それも一瞬。

「郷の外です」
「は」
「南の霊泉の裏にある山を上った先で見つけました」

 黒王の瞳に宿りかけていた光は霧散した。
『郷の外を妖がうろついている』――どうしてか、そんなことが唐突に思い出される。それについては玄泰が既に対処したはずなのに。

「レイカ――ッ!」
「ちょ!? あっ、黒王様!」

 黒王は灰墨の制止を振り切り、空へと羽ばたいた。




        2



 (あやかし)全てが、鴉一族のように人間を受け入れているわけではない。それこそ界背村の者達が言っていたように、人間を食べる妖というのも存在する。
 目を覚ました菊は、自分が拘束されていることに気付いた。目を開けて、視界に映る自分の両手には、しっかりと茶色の縄が巻き付いている。幸いにも足は拘束されておらず、手も身体の前面で結ばれていたため、菊は苦労しつつも、なんとか身を起こすことができた。

「ここは……」

 辺りを窺った限りでは、おそらく浅い洞穴の中だろうことが分かった。
 左右と背後はゴツゴツとした岩壁に囲まれ、正面だけぽっかりと大きな口が開いている。
 口から見える景色は、菊が山登り中によく見た景色と同じで、この洞穴が山中のどこかにある場所だと推測できた。

「逃げなきゃ」

 菊は、意識が途切れる直前の記憶を思い出す。そこに映っていた男達は間違いなく鬼の妖で、とても友好的な目的で攫われたのではないだろう。
 ぶるっと身体が震えた。しんとした冷たさが足元から這い上がってくる。
 足元を見てみれば、片方の足は草履を履いていなかった。連れてこられる時に落としたのだろう。
 菊は息を殺して、洞穴の入り口の方へと神経を集中させる。しかし、誰かがいるような気配はなく、風に葉が揺れる音しか聞こえてこない。

「今のうちに……!」

 意を決して、菊が洞穴から頭を出した時だった。

「ほら、言ったとおりだろ。目を覚ましたら絶対逃げ出すって。賭けはオレの勝ちね」
「うはー……人間がここまで馬鹿なんて思わなかったんだよ、チクショウ」

 頭上から声が降ってきて、次に声だけでなく、目の前に男達までもが降ってきたのは。二人とも頭につのはあるが、最初に会った自分を捕まえた男とはまた別の者だった。いったい何人いるのか、また身体が恐怖に震える。
 しかし突然、震えを打ち消すほどの痛みが菊の頭皮に走った。

「きゃっ!? 痛い――ッ!」

 男のひとりが菊の長い髪を、無造作に鷲づかんだ。
 手加減という言葉を知らないのか、男は髪を掴んだまま、洞穴から菊を引きずり出そうとする。

「ほら、ちょうど良いから遊ぼうぜ」
「いや!? やめて!!」

 菊の拒絶の言葉など聞こえないようで、髪を引っ張る男は鼻歌交じりだ。
 両手を縛られた不安定な体勢で、強引に引っ張られたことにより、菊は前のめりに倒れてしまった。幸か不幸か、髪を男が掴んでいたおかげで顔を打つことはなかったが、ぐいっと無理矢理に頭を持ち上げられ首が痛む。
 すると、男はクンと鼻を動かし片眉を歪めると、菊の首元へと顔を近づけた。鼻先が首筋に触れ、ぞわりと不快感が全身を這いずり回る。

「ひっ……!」

 同じ妖でも、黒王に近寄られた時はこんな不快感など感じなかったのに。今は、髪の毛すら逆立ちそうなほど全身が粟立っていた。
 できるだけ男から離れたくて首を反らせるものの、髪の毛をがっしりと握られ叶わない。

「なあ、思ったんだけどさ……この人間の女、すっごい美味そうな匂いしねぇ」

 ――美味しそう……?

 それはやはり、食糧として見られているということだろうか。

「あ、やっぱり? 俺も思ったわ」
「あー、お前ら何勝手に手ぇ出してんの」
「抜け駆けはずるいぞ」

 そこへ、菊を攫った者達も戻ってくる。顔を巡らせることはできないが、周囲に人が集まってくる気配があった。

 ――ああ……私はここで死ぬのね。

 虚ろな菊の瞳から、雪解けのような冷たい雫が頬を伝う。
 せめて最後に見るのは彼が良いと、菊は閉じた瞼の裏に彼を思い描いた。
 背中で藤の花が咲いたような髪を揺らながらやって来る彼は、いつも優しい声音で語りかけ、大きな手で握ってくれ、紫の瞳で心に安心を宿してくれた。
 どうせ食べられるのなら彼が良かったな、と思った次の瞬間。

「ぎゃああああッ!」

 突如目の前から聞こえた耳障りなダミ声に、菊は閉じた瞼をすぐに開き、目の前の光景に瞠目した。
 菊の髪を掴んでいた男の、反対の腕が燃えているではないか。

「ああぁっ! なんで突然!?」

 男は火を消そうと懸命に腕を振り回し、困惑に声を上げながら地面を転がりまわる。その様子を、他の男達も状況を掴めずに、戸惑った様子で眺めているばかり。
 一瞬にして場は騒然となり、皆の意識が菊から遠ざかる中、菊は先ほど記憶の中で聞いた声と同じ声を、耳元で聞いた。

「もう大丈夫だ」

 え、という間もなく菊の身体はふわりと宙に浮き、どんどんと地面から遠ざかっていく。しかし、怖いという気持ちは微塵もわかない。それは、自分の身体を支えてくれる手の頼もしさに覚えがあったから。
 いつかの日のごとく、膝裏と背中に添えられた手は力強く、菊は彼を見上げた。

「こ……黒王様……どうして……」
「――っ良かった」

 抱いた菊の肩口に顔をうずめ、黒王は衣擦れの音がするくらいきつく、菊を抱きしめた。
 声には安堵が滲み、彼の首筋はうっすらと汗ばんでいる。

「やっと見つけたよ、俺の花御寮」

 肩口から上げられた彼の顔は、柔和な笑みが載っていた。
 勝手に逃げ出したのに、どうして怒りもせずそんな優しい顔を向けてくれるのか。
 言いたいことが分かったのだろう。黒王は「今は何も言わなくていいから」と囁いて、菊を地面に下ろした。そこは先ほどまで菊が入っていた洞穴の上で、地面からの高さは、男の背丈の三倍はある。
 どうやってここまで上って来れたのか。
 それは、彼の背後に見えている、折りたたまれた真っ黒な翼が全てを物語っていた。
 しっとりとした黒色は木漏れ日を受け、紫にも銀色にも輝き、濡れ羽色という言葉の意味を知る。

「もうっ! 置いていかないでくださいよ、黒王様」

 そこへ、一羽の烏が飛んできたと思ったら、着地すると同時に青年の姿となった。灰がかった髪色の、ちょっと生意気そうな顔をした青年――灰墨だ。
 話には聞いていたが、初めて転化というものを間近に見て、菊が目をまたたかせた。

「ちょうど良い。灰墨はレイカを守っていてくれ」
「は、はぁ!? この女をですか!? こんな裏切り者の女をですかぁ!?」

 裏切り者という言葉が胸に刺さる。
 しかし、それが事実で何も言い返せない。

「黙れ、灰墨。命令だ頼んだぞ」

 有無を言わせぬ黒王の言葉に、灰墨はぐぬぬぬと奥歯を噛んでいたが、結局は大人しく言うことを聞いて菊の隣へとさがった。それでも間に一人分の空間があるのは、彼なりの抵抗だろう。

「随分と命知らずの妖もいたものだ。以前から郷の回りをうろついていたのは、お前達だな?」

 黒王は岩山の縁に立ち、眼下を見下ろした。
 そこには、困惑した表情で見上げてくる男達が大勢居並んでおり、ようやく腕の火を消した男がよろりと立ち上がる。

「うるせーよ! たかが鴉が偉そうに言ってんじゃねえって!」
「目的はなんだ。誰の指図で郷の周りをうろついていた」
「言うわけねーだろ、馬鹿か!?」

 聞こえてくる声は実に対照的だ。

「はぁ……力の差も分からないとは、随分と低級の妖のようだ。仕方ない。では力づくで聞き出すとしようか」
「誰が低級だあ! たかが鴉の分際で鬼に楯突こうなんて、そっちこそ、女の前で恥じさらす前に謝れば半殺しで許してやるよ!」
「気遣ってもらって悪いな。だが、男とは好きな女の前では格好をつけるものだろう?」

 言い終わると同時に、黒王は岩下の男達が群れる中へと飛び込んでいった。

「あっ、黒王様!?」

 心配に菊が声を上げるが、横の灰墨はどこか余裕な口調で「大丈夫だって」と菊を止めたのだった。
  

 何が大丈夫なのか。すぐに菊は理解した。
 怖々と岩の縁から下を覗き込むと、そこには地面を埋め尽くすように、多くの鬼の男達が横たわっていた。あちらこちらから、苦しそうなうめき声が上がっている。
 その真ん中で、黒王だけが悠然と立っていたのだ。

「うそ……これだけの人数を、ひとりであっという間に……」

 呆気にとられていれば、隣にやって来た灰墨が、ふんっと鼻を鳴らす。

「当然だよ。元々烏ってのは、神の眷属(けんぞく)である神使(しんし)なんだ。そこら辺の動物の妖と一緒にされちゃ困るってもんさ」
「でも、どうやって……」

 地面でうごめいている男達は皆、火傷を負っていた。しかし不思議なことに、髪や着物は一切燃えていない。

「火だよ」
「火? 烏と火ってあまり結びつきませんが」

 これだから人間は、と灰墨は肩をすくめて、ヤレヤレと首を横に振った。

「いい? 烏ってのはさっき言ったように神の眷属なのっ。僕たちは日輪(にちりん)を背負う存在で、金烏(きんう)なんて呼ばれたりもして、天照様(あまてらすさま)の力である火とは切っても切れない関係なんだよ」

 出てきた偉大な神の名に、思わず菊は「すごい」と漏らすように呟いていた。
 菊の感嘆に気を良くしたのか、灰墨の胸の張りが良くなったように見える。

「まあ、その中でも黒王様は別格だけどね」

 まるで自分のことのように誇らしげに話す灰墨を横目に、菊は再び黒王へと目を向けた。

「あっ!」

 そこで、菊は気付いた。
 黒王の後ろから、密かに忍び寄る男の存在に。

「危ない、黒王様!」
「え、ちょ!? あんた!」

 叫ぶよりも先に、気付いた時には身体が動いていた。菊は岩山の上から、黒王に近付く男めがけて飛び降りた。
 声に気付いた黒王が振り返り、目に映った光景に驚愕の表情を浮かべる。
 菊はギュッと目を閉じ、男にぶつかる衝撃に備えた。

「レイカッ!」

 しかし、衝撃より先に黒王の切羽詰まった声と、「がぁっ!」という悲鳴じみた叫び声が聞こえただけで、覚悟していた痛みはいつまでも襲ってこず。

「え……」

 その代わり、菊の身体を襲ったのは、真綿でくるまれたような温かな抱擁だった。
 目を開ければ、肩で息をして眉根をひそめた黒王の顔が、菊を覗き込んでいた。どうやら、黒王が抱き留めてくれたらしい。

「まったく……無茶をしてくれる。俺の花御寮殿は」
「ひゃあっ!?」

 地面に下ろされると、そのまま黒王の腕の中に閉じ込められてしまった。
 チラと黒王の腕の向こう側を窺えば、彼に襲いかかろうとしていた男がのびている。

「すみません、かえってご迷惑を……」
「そんなことより、お前が無事で良かった」

 柔らかに髪を梳く手に、また菊の胸は甘やかに締め付けられる。
 しかし、そんな雰囲気も一瞬。
 さて、と辺りを見回した黒王に甘い雰囲気は微塵もない。

鴉一族(うち)の縄張りを荒らそうとしただけでなく、俺の花御寮にまで手をだすとはな。どうしてくれようか」
「ひぃっ!?」

 黒王の眼光の鋭さに、足腰立たない男達は、地面を這うように後ずさっていく。

「はいはーい、ちょっと待ってねぇ」

 そこへ、場にそぐわぬ軽い声が飛んできた。
 黒王の影から窺えば、やはり頭につのを二本はやした、派手な柄の着流しを着た鬼の男だ。

「やあやあやあ、こりゃ随分と派手にやってくれたなあ。あんたひとりで?」

 鬼の男は雪のように白い短髪を掻き上げながら、黒王に挑発的な笑みを向けた。目元にいれられた朱色の線が、細めた目と一緒に歪む。

「だとしたらどうする」
「鴉の王って本当に強かったんだ? 適当にふいてるだけかと思ったけど……へえ?」
「お前も試してみるか?」
「ははっ、遠慮しとくよ。ていうか、この場はどうか穏便におさめてくれって言いに来たんだし。ああ、自己紹介がまだだったな。俺はハクってんだ」

 へらっと笑っているが、彼の軽口や肩をすくめた軽妙な態度からは想像できないほどの圧が、ひしひしと伝わってくる。倒れている男達とは描くが違うというのは、妖に詳しくない菊でも分かった。
 ハクは鷹揚とした足取りで黒王へと近付くと、スンスンと鼻を鳴らしニヤリと笑う

「あー、あんたかなり強いな。下手したらうちの大将くらいはありそうな匂いしてる」
「匂い?」

 黒王が眉をひそめる。

「鬼族は嗅覚が良いもんでね、鴉と違って」

 ふと、ハクの視線が黒王から、背後に隠れる菊へと向けられた。

「ああ、あんたからか! この甘ったるい美味そうな匂いは!」
「……それ、他の方にも言われましたけど、どういう意味でしょうか」

 確かに普段着物には香が焚きしめてあるようだが、今は潔斎用の着物で香りなど何もないはずだ。

「自覚なしってわけ。でも、分かる妖は分かるよ。最高級の食事が落ちてるようなもんだし」

 嬉しそうな声を上げたハクは、さらに菊へと顔を近づけようとする。が、それは黒王の手によって防がれる。

「それ以上、俺の花御寮に近付くな」
「へえ、花御寮……なるほど。あんたの力が強いのもこういった人間を奪ってきたおかげか」

 間髪容れず、菊が反論する。

「う、奪われてないです! 私は自らの意思で、この方の隣にいるんです!」

 これには、ハクはもちろんのこと、黒王までもが目をまたたかせ驚いていた。
 菊は背後から黒王の着物の袖をぎゅうと握り、精一杯ハクを睨み付ける。効いているのかまるで分からないが、とりあえず彼が離れるまで睨み続けた。
 ハクはスッと目を細くし、もう菊に興味を失ったかのように遠ざかっていく。

「まあ、いいさ。今日は争いに来たんじゃないし。下っ端がやんちゃしたってことで許してな」
「このまま見逃せと?」
「そんなツンケンするなよ。特別に良い情報を教えてやるから、それでおあいこな」
「勝手に決めるな」

 黒王が苦々しい顔で言うも、ハクはもう彼に背を向けている。自由というかなんというか、身勝手な男という印象だ。

「鴉の中に狸が交じってるよ……古狸が」
「まさか……」

 菊には意味が分からなかったが、黒王には何か思い当たる節があったらしい。菊を庇っていた手が拳を握っていた。

「ほらっ、お前ら起きろ起きろ! ざまないねぇ、さっさと起きないと置いてくからな!」

 手をパンパンと叩いて、ハクは地面に伏せっていた男達を起こしていく。近くにいた何人かは結構な強さで蹴られていた。
 身を起こした男達は肩を貸しあいながら、ぞろぞろと山の奥へと消えていく。

「じゃあ、そゆことで。今回の件はお互いなかったってことで」

 ハクは顔の前で手を立て、茶目っ気たっぷりな流し目を残して男達と共に、あっというまに姿を消した。

「なんですか、あれ。嵐に巻き込まれたみたいな」

 烏姿になった灰墨が、黒王の肩に着地する。烏の姿なのに、溜息を吐いているのだろうなと伝わってきて、菊は小さく笑ってしまった。
 目の前に大きな手が差し出される。
 顔を上げれば、黒王が春の陽射しを思わせる温かな笑みで、こちらを見ていた。

「共に帰ってくれるか?」

 ぐっと喉が詰まる。
 勝手に逃げたのに、まだ『帰る』と言ってくれるのか。
 きっととても傷つけた。
 それでも、彼はこうしてまだ手を差し出してくれる。

「はい……っ」

 菊は、黒王の手に自分の手を重ねた。
 もう、これ以上自分の気持ちを隠すのは難しかった。

「泣かないでくれ」

 そう言われて菊は、自分が泣いていることに気付いたのだった。




        3




 黒王の屋敷に帰ってきた途端、若葉に抱きしめられた。
「心配したんですからっ!」と言って、ぐすっと鼻をすすった彼女の、抱きしめた腕の強さは一生忘れないと思う。
 どうやら、黒王や若葉達が内々で動いていたことと潔斎の日だったということで、花御寮や黒王の姿が見えずとも特に騒ぎにはならなかったようだ。
 ただ、潔斎の日は一日会ってはいけない、という決まりを破ることになってしまった。



「申し訳ありませんでした、黒王様」

 灰墨と若葉によって母屋は人払いが済まされ、今、菊は締め切られた部屋の中で、黒王と向かい合っていた。
 畳に額をくっつけた菊の身体を、黒王が助け起こす。

「謝らなくていい。ただ……」

 黒王は懐から、丁寧に折りたたまれた手紙を取り出し、菊の前に置いた。

「どうしてこのような手紙だけを残して、姿を消したのかは教えてくれるな?」

 手紙には、よろよろとした下手な字で短い文が綴られている。

「自分は黒王の隣にいる資格のない人間だから、このまま姿を消す。どうか新しい花御寮を迎えてくれ――と。こんな言葉で俺が納得するとでも思ったのか。俺の気持ちがその程度だとでも」

 黒王の言葉は責めるものではなかった。慈愛すら感じられる響きがある。それでも、やはり彼の気持ちを裏切ったことへの罪悪感で、菊の顔は自然と俯いてしまう。

「しかもこんな一言を最後に残していくだなんて……」

 手紙の一番最後。紙の下端ぎりぎりのところに、他の文字よりひとまわり小さく書かれた文字。

《すきです》

 それは、こんな言葉残していっては駄目だという気持ちと、この気持ちを伝えたいという菊の心がせめぎ合った末の文字だった。

「この時の俺の気持ちを教えてやろうか? 叫びたいほどに嬉しくて、だが、息ができないくらいに苦しかったよ」
「黒王……っさま……」

 顔を上げた先には、「ん?」と目を細めた黒王がいた。
 ささやかれる穏やかな声音、向けられたその眼差しで菊は分かってしまった。
 彼も自分と同じ気持ちなのだと。
 はらり、と桜の花弁が散るように、菊の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。一度落ちてしまえば、後は次から次に、先を急ぐように雫がとめどなくあふれてとまらなかった。

「なぜ泣く。泣かないでくれ。俺は、お前にはずっと笑っていてほしいんだ」
「……嬉しくて……苦しくて……っ、胸が痛いんです……っ」

 自分はニセモノなのに。
 嘘吐きなのに。
 願ってしまった。
 この人とどこまでも添い遂げたいと……。

「ずっと……ずっと、私は嘘を吐いていました」
「嘘?」

 指で流れ落ちる涙を拭われる。少しかさついた自分と違う熱さの指が触れるたび、離れないでと心が叫んでいた。

「元より私には花御寮になる資格なんかないんです」

 ピタリと涙を拭い続けていた指が止まり、「それは」と、一度黒王が言いにくそうに言葉を切る。

「……それは、他の男との子を身ごもっているからか?」
「ど……どうしてそのようなことを……」

 いったい、どこからそのような考えが出てきたのか。
 あまりにも驚きすぎて、目どころか口まであんぐりと開けてしまった。そして驚いていたのは菊だけでなく、目の前の黒王も同じで、予想外の菊の反応に目を大きく見開いて眉をひそめていた。
 なぜそう思うに至ったか、「実は」と黒王は話してくれた。

 黒王は菊の言葉や、事前に調べて聞いていた〝古柴レイカ〟の人柄とあまりにかけ離れていることに不信感を抱き、再び〝古柴レイカ〟について村で噂を集めたのだと言った。そこで、古柴レイカは妊娠していて村で騒ぎになっている、という報告を受けたらしい。 ただでさえ丸く開いていた菊の目は、黒王の話を聞いていよいよ眦が裂けそうなほどにまで見開かれていた。
 そんな馬鹿な、と思うと同時に、菊は、レイカの身代わりにされた理由を悟った。

 ――ああ……そういうことだったのね。

 なぜあれだけ村の掟だからと、レイカや叔母が喚いても花御寮を変えることは無理だと言っていた叔父まで突然掌を返したのか、ずっと不思議だった。
 すべて――レイカが身ごもったのを叔父も叔母も知っていたのだ。
 おそらく相手は、レイカとよく一緒にいた一平という男だろう。
 なるほど。妊娠したレイカを花御寮にはできない。しかし、誰かに変わってもらうことなど、娘の掟破り暴露するようなものでそれもできなかったのだろう。そこへ、レイカと背格好がよく似た、村でも存在を忘れられた自分がいたということか。
 誰も自分が消えたとて、気づきもしないだろう。

「俺だとて信じたくはなかった。だが……レイカは未だに、女官達に身体を見られるのを拒んでいるだろう」
「もしかして、その噂を知られたのは……潔斎の数日前ですか」

 黒王が瞼で返事をしたことで、菊は彼が突然訪ねてこなくなった理由に納得した。
 それでも彼は、迎えに来てくれた。
 帰ろうと言ってくれた。

「――っレイカ!? 突然どうしたんだ」

 菊は突然立ち上がると、自分の帯に手をかけはじめた。

「私は黒王様に嘘を吐いていました」

 シュルシュルと床にわだかまっていく帯を、黒王は目を白黒させて凝視する。

「何、を……」

 一体何をしているのか想像もつかないといった様子で、彼は菊と足元との間で視線を往復させる。

「私が誰にも身体を見せなかったのは――」

 まとっていた最後の一枚が床に落ちれば、黒王は息をのんだ。

「――この身体を、見られたくなかったからなんです」
「その身体は……」

 菊の身体は至るところに痣や傷があった。
 古いものから最近できたであろうものまで。決して転んだり自ら怪我をしただけではできない場所にまで傷痕があった。
 それは、故意に傷つけられたものということ。

「このような汚い身体、黒王様にも……誰にも見せたくなかったんです。汚い娘だと、黒王様にふさわしくないと……っまた、蔑まれるのが怖かったんです」

 黒王は自らの羽織を脱ぐと、菊の身体を覆いその上から抱きしめた。

「すまない、辛い思いをさせた」
 
 羽織の中でどんどんと小さくなり身体を震わせる菊に、黒王は羽織の上から頬ずりをして全身で慰める。

「レイカが身体を見せない理由は分かった。だが……」

 烏王は菊の身体を見て、傷の多さだけでなくもうひとつ驚いたことがあった。

「その腹はまるで……」

 菊の腹は、まるで妊娠していない女のものだった。
 膨らみは微かもなく、手や指の細さから想像した通りの華奢さだった。
 村を出る時に既に妊娠が分かっていたのなら、多少なりともそれと分かる膨らみがあるはずだ。

「私は、古柴レイカじゃないんです」

 やはりか、と黒王には口の中で呟いた。

「本来の古柴レイカは私の従姉です」

 菊は、本当の母親に村において行かれたことから、育ての家での生活の全てを、今度は嘘偽りなく話した。
 それを聞いて、彼女は猫を被っていたわけではなく全くの別人だったというオチに、黒王は今まで溜めていたものを全て吐き出すかのような深い溜息を吐いた。

「では、当然身ごもってもないんだな?」
「もちろんです」

「はぁ」と、黒王は菊にしな垂れるようにして頭を肩に乗せる。
 菊の耳元で「良かった」と囁かれる声の細さは、彼の心の底からの安堵を表わしていた。
 しかし、菊が告げなければならないのはこれだけではない。
 まだひとつ残っている。
 身代わりよりもずっと重い罪。
 この身体にたくさんつけられた傷も、元はそれが原因なのだ。

「黒王様、私は元より花御寮になる資格を持たないのです」
「資格? さっきからずっと言っているが、それはどういうことなんだ?」
「私は、母が村外の男との間につくった子です。村の者の血を半分しかひいておらず、花御寮の候補にすらなれない忌み子なんです」
「なるほどな」

 烏王は全て理解した。
 妖に怖がっているというより、怯えている様子だったのは、身代わりがばれたらと不安だったのだろう。

「俺の手はもう怖くないか?」
「と、当然です!」

 怖くなどない。それどころか彼に触れられると心地好いくらいだ。
 なぜそのようなことを聞くのか、という顔を向ければ、黒王は片眉を下げて逡巡する。

「初めの頃、お前の髪についた花びらを取ろうとしたら、怖がられたから……あれは意外と堪えてな」

 菊の顔から、サーッと血の気が引いていく。

「も、も申し訳ありませんっ! それは黒王様を怖がったわけではなく……っ」

 菊は言うかどうか迷ったが、結局は全てを話すことにした。
 村にいた時、従姉の恋人に襲われかけたことを正直に話した。それで、黒王の大きな手を見てその記憶が蘇ったのだと。
 黒王は何も言わずに聞いていたが、話し終えるとそのままただ抱きしめてくれた。
 肩口に頭を乗せられて彼の表情は窺えない。
 ただ、彼が長く息を吐いた音だけは聞こえた。

「やはり、こ、こんな汚い……身体の女など……っ、私が黒王様の隣にいたら、め、迷惑を掛けてしまいます、だから……」
「だから、俺の前から姿を消そうとしたのか」

 再びふーと細く長い息を吐くと、黒王はようやく菊の肩から顔を上げ、菊の頬を両手で覆った。

「私は……どのようになるのでしょうか」
「どうしようか」

 ――やっぱり、このままじゃいられな――。

「どうしよう……すごく嬉しいんだが……」
「は、え?」

 口元を手で押さえ、恥ずかしそうに目を伏せた黒王の初めて見る姿に、菊はすっとんきょうな声を漏らした。
 予想していた言葉と、あまりに違う言葉が聞こえた気がするのだが。
 黒髪の隙間から見えている耳が赤くなっているように見えるのは、勘違いだろうか。

「お前の行動が全て俺を想ってのことだったと思うとたまらない。あー……すまん。きっと今、気持ち悪い顔をしているからこっちを見ないでくれ」

 手を菊の顔の前に出して、懸命に視界を遮ろうとする黒王は、あまりにも可愛らしくて。菊のほうもたまらずに笑みを漏らした。

「ふっ、あははは……っ」

 いいのだろうか。

「やっぱり笑っているお前は可愛いな」

 忌み子の自分が、こんなに喜びを感じてもいいのだろうか。
 涙が目尻を伝って流れ落ちる。
 だけど、この涙はちっとも苦しくない。

「なあ、古柴レイカではないのなら本当の名前があるんだろう? 教えてくれないか」

 彼の親指が涙を拭いとっていく。

「菊と申します」
「よく似合った素敵な名前だ、菊」

 ああ、どうしよう……涙が止まらない。

「ずっと……ずっと、そう呼んでほしかったんです。あなた様に」



 
        ◆




 菊と黒王がいた部屋から廊下を渡った対面の部屋。
 いつまで待たされるのだろうか、どうなるのだろうか、と焦れた思いをしながら正座して待っていた灰墨の元へ、ようやく黒王が現れた。

「黒王様! 花御寮様はやはり身ごもって――!?」

 黒王が後ろ手にふすまを閉めるなり、ばったが跳ぶように灰墨は黒王に飛びかかる。

「いや、身ごもってなどなかった」
「ええっ!? そんな! 嘘でしょ!?」
「彼女の身体を見せることはできんが……むしろ見たら両目をつぶす……とても綺麗な身体だったよ。お前の母――乳母にも診てもらったが、やはり身ごもってはないと」
「怖っ……じゃ、じゃあ僕が村で聞いた話は?」
「そうだな。それについても、直接きっちりと説明してもらわねばな」

 彼女から聞いた話は驚くことばかりだった。正直、冷静を装うのが大変だった。
 しかし途中、耐えられそうになくて、彼女の肩に頭をのせて表情を隠した。
 彼女は気付いていただろうか。抱きしめた手が血が出そうなほどに拳を握っていたことに。

「俺が羽目を外しすぎないように一応お前もついてこい、灰墨」
「羽目じゃなくてたが(・・)でしょ」
「誰のものを傷つけたか、しっかりと分からせてやろうか」

 黒王のにやりとしたほの暗い笑みに、灰墨は界背村に「あーあ」と、憐憫の情をもよおした。



        4



 それは、花御寮がレイカに決まったと分かった日の古柴家での出来事。
 叔母の仕打ちで菊が気を失った後、レイカは『いーこと思いついちゃったんだぁ』と言って笑った。
 泣いていた娘が突然、化粧がドロドロに崩れた顔で笑いはじめたのだ。レイカの両親は娘が醸し出す得も言われぬ凄まじさに息をのみ、彼女の言う『いーこと』に耳を傾ける。

『菊にあたしのふりをさせて、花御寮にすれば良いじゃない』

 年はひとつしか離れておらず、従姉妹ということもあり、背格好も顔立ちも似ていたレイカと菊。声と髪はまったく違うのだが、声は喋らなければ良いし、髪も白無垢に身を包んでしまえばいい。日頃から菊の姿を見ていない村人達なら、だまし通せるだろうという話だった。

『ねっ、良い考えでしょ! あたしは菊のふりして地下で身を隠していれば良いんだし』
『でも、使用人の目があるぞ』
『そんなの娘が花御寮になって辛いから、しばらく家には来なくて良いって言えばいいじゃない。傷心の家族には、皆きっと優しくしてくれるわよ』
『しかし、いつまでもレイカを家に閉じ込めておくわけにはいかないが……』
『安心して。ほとぼりが冷めた頃に一平と村を出て行くから。〝菊〟が村から消えたところで誰もなんとも思わないわよ』

 レイカは床で気を失っている菊を一瞥して、舌打ちをする。忌々しげに吐かれたそれは、とてもただの従姉妹相手にするようなものではなかった。

『まあ、一時とは言えこんな女のふりをしなきゃだなんて、不本意で仕方ないけど』
『それは名案だわ!』

 今までレイカの話を大人しく聞いていた母親は、表情をきららかに輝かせ、娘のレイカに抱きついて喜んだ

『この子が生きていてくれるなら、村の外だろうがどこでも良いわよ。ねえ、あなたもそう思いますでしょ!』

 声も身体も弾ませたレイカの母親が、期待に満ちた顔で父親に目を向けるが、しかし父親の方の顔色はよろしくない。

『そんなこと許されるはずがないだろう! もし身代わりがばれたら、どんなお咎めがあるか……っ』
『どうしてです! あなたはそんなに娘を化け物の生け贄にしたいんですか!?』
『そんなことはない……っ! 俺だってできることなら……いやしかし、やはり……』

 村を欺くだけではない。強大な力を持った黒王という相手まで欺くことになるのだ。彼が二の足を踏むのも当然と言えよう。
 身代わりにする菊も、村の血が半分しか入っていない忌み子であり、他の村娘を差し出す方がまだ問題鴉は少ない。しかし、当然ながら代わりなど見つかるはずもない。
 誰だとて、謎に包まれた妖などに嫁ぎたくも、嫁がせたくもないのだから。

『それより、レイカ。さっきお前は、自分を差し出せば後悔すると言ったが、それはどういう意味なんだ』

 訝しげな目を向ける父親に、レイカはにんまりと唇に深い弧を描く。

『あたしのここ(・・)に赤ちゃんがいるの……一平との』

 ここ、と言った時、レイカの手は自らの腹を撫でており、父親の顔からは血の気が失せ、抱きついていた母親は、腹を凝視しながらよろりと半歩後ずさった。

『元々、あたしは花御寮になんかなれないのよ』
『レイカ、お前……掟を……』
『本当、神様って適当よね。わざわざこんな身ごもった女を選ぶんだから』

 クスクスと誰へ向けてか分からない嘲笑をして、腹を押さえながら身体を揺らすレイカを、両親は恐ろしいものでも見るかのような目で見つめる。

『しょせん神事なんてそんなもの。掟も契約もそんなもの。守る意味なんてある?』

 ここまで来れば、両親も腹をくくらざるを得なかった。

『ああ……一平は今仕事で村を出てたのよね。ちゃんと伝えといてね、お父さん。あなたの愛妻はちゃんと生きてるわよ、って』

 こうしてあずかり知らぬ間に、菊の運命は決められてしまったのだった。



        ◆



 日も暮れ始めた頃。
 東の空が夜を連れて西に沈む夕日を追いかけはじめた中、界背村の村人達も皆、帰路を急ぐ。
 しかし、ふといつもより夜が早いことに気付く。まだ夜は東の端にあらわれた程度のはずなのに、やけに頭上の空は黒い。
 そして、「なんだ?」と空を見上げた最初のひとりが、驚きの声をあげ腰をぬかせば、異変に気付いた他の村人達も空を見上げ、次々に鳩が豆鉄砲を食らったような顔になっていく。

「こりゃ、いった何事だ!?」

 村の上空を、烏の大群が覆い尽くしているではないか。
 そして、黒く覆い尽くしているのは空だけではなかった。

「待て、見ろ!! 村長の屋敷が!」

 村人が指差した先――村長の屋敷は、瓦よりも黒々としたものに覆われ、周囲を警戒するように烏が飛び交っている。

「不吉の前触れだ……」

 誰かがそう呟いた。
 そして、そう思ったのは遠くから眺めている村人だけではなく、屋敷を烏に取り囲まれた村長もだった。
 一日ももう終わるというところで家の扉を叩かれ、不機嫌まじりに村長は玄関扉を開けた。しかし、目の前にあらわれた、不吉を体現したような黒ずくめの男を見れば、村長の不機嫌などあっという間に跳んでいく。

「突然の来訪を許せ」

 背の高い黒ずくめの男。浮世離れした臈長(ろうた)けた面ざしは、帝都の貴人でもやって来たのかと思うほどに気品があふれている。
 だが、そうではないと村長は判断できた。
 藤の花を思わせるような紫の瞳と、髪の毛先。
 ハイカラな帝都の貴人はもとより、人間ですらない。

「あ、あのっ……ど、どちら様で……」

 目の前に立つ男の正体に薄々とは気付きつつ、それでも頭の片隅にあった『そんなはずはない』という常識が、村長に男を確認させた。
 男はふっと、どこか馬鹿にしたように笑う。

「黒王……と言えば分かるか? それとも、妖は現世には来られないとでも高をくくっていたか」
「こっ……黒王……!?」

 そんなはずはない、がはっきりと現実となり、村長は声を震わせ、尻から地面に落ちた。

「どうやら、この黒王をたばかった阿呆どもがいると聞いてな」

 すぐに村長は彼の言う〝謀った〟が何を指しているのかを理解する。
 しかし、どうやってばれたのか、なぜ花御寮を送ってひと月近く経った今頃になって言ってくるのか、と疑問は尽きない。

「う、噂の件は……その、わたくしも知ったばかりと言いますか……」
「ほう、どうやら噂は、しっかりと長の耳にも届いていたようだな。ならば話は早い。その阿呆どもに、こちらで沙汰(さた)をくだしても文句はあるまい?」

 黒王は許可を求めている言葉を口にしているはずなのに、村長にはただの決定事項にしか聞こえなかった。いっぺんの反論も許さぬ威圧感に、村長はぶるぶると身体を震わせながら頷くほかなかった。

「し、しかし、どのようにして黒王様はこの件をお知りに……」

 すでに踵を返していた黒王が、ゆるりと顔だけで振り向く。肩口から覗く目が細められ、内側の紫はにぶく光った。
 途端に、彼の向こうで見たこともない数の烏たちが、バサバサと羽音を立てて舞い飛び始めたではないか。
 黒王は何も言葉にしなかったが、目の前の光景を見れば充分だった。

「烏の……妖……」

 言葉を失い口の動きだけでそう呟けば、黒王は口端をつり上げ村長から視線を切った。
 この世の者とは思えない美しい顔がニヤリと笑う姿は凄艶で、村長は黒王の背にあらわれた黒翼で空へと上っていく姿を、どこか他人事のように見つめていた。




 古柴家は、娘を花御寮に出してからというもの、晴れでも昼でも常に雨戸は締め切られ、使用人の出入りもなくなり暗い雰囲気が漂っている。
 どこか村の中でも浮いている。
 しかし、それもそうだろう。
 最初は娘を花御寮に取られて可哀想に、と村人達は古柴家に同情していた。それが、村外の仕事から帰ってきた一平の『レイカは俺の子を身ごもっていた』という発言によって、腫れ物に触るようなものに変わった。
 もう花御寮として送ってしまったのだ。もし一平の発言が本当だとしても、村はどうしようもない。だから村人達は、万が一妖からのお(とが)めがあった場合、無関係だと言えるように関わりを控えるようになったのだが……。

「一平ったらもう帰っちゃうの?」
「ちょうど日も暮れたしな。それに明日は、また村外の仕事が入ってるんだよ」

 レイカ達にとっては好都合だった。
 二人は古柴家の地下につくられた座敷牢で、逢瀬を続けていたのだ。
 そんな二人にとって、いや古柴家にとって、周囲の目がなくなるのはちょうど良いことだった。

「にしても、本当にレイカが連れて行かれたと思って焦ったよ」
「だからって、あんな騒がなくても良いじゃない。おかげで妊娠してるってばれちゃったし」
「でも、その妊娠したレイカはもう村にいないんだ。村長も相手が古柴家ってこともあって、折を見て水に流すつもりだって話さ」
「それに相手が一平だもんね。古柴家(うち)も一平の家も村の顔役だし、さすがに二家を敵には回せないでしょ」

 男は、レイカの少しばかり丸みを帯びた腹を撫でた。

「もう、あたし以外に手を出しちゃ駄目よ」
「まだ言ってんのかよ。お前の妹……菊だっけ? 確かに、脅かしてやろうと思って、ちょっかいは掛けたけど未遂だよ。忌み子なんて本気で相手にするわけねえだろ」
「それもそうね」

 わざと甘えるように男の胸にしなだれかかるレイカに、男の鼻の下が伸びる。
 村で一番の器量好しで、他の村娘達を従える彼女が自分に懐いているというのが、たまらなく男の征服欲を満たしていた。村の若手で一番の男前と言われる自分と、彼女。互いの家は村を支える大家。
 お互いこれ以上にない最高の相手だろう。

「レイカ、落ち着いたら村の外で暮らそう。俺は仕事って言えば、村外に出るのなんてわけないしな」
「もちろん! こんな古くさい村なんかさっさと出たかったのよ! じゃあ、街で結婚式を挙げましょうよ! 今流行のハイカラなドレスってのを着たやつ!」

 そう遠くない未来に、レイカはキャッキャと少女のようにはしゃいでいた。

「本当、菊には感謝だわ。きっと、この時のためにあの子は生きてたのね」
「やっと役に立てたって、天国で喜んでんじゃねえの」
「あはっ! それってもう食べられちゃったって意味ぃ? まっ、でも実際そうかもね」

 ひとしきり笑い、男が帰るからと腰を上げようとした瞬間、上から女の悲鳴が聞こえた。

「――っお母さん!?」

 その声は間違いなくレイカの母親の声で、レイカは立ち上がりかけていた男よりも早く地下を飛び出し、悲鳴の元へと向かった。
 


 
 そこで最初に見た光景に、レイカは眉根を思いっきり寄せて絶句していた。
 両親が普段よくいる座敷に向かえば、そこには両親以外に見知らぬ男までいるではないか。彼は身体の側面をこちらに向けているため、顔は髪に隠れはっきりとしないが、間違いなく村の人間ではなかった。
 黒の着物に黒の袴に黒の羽織。
 背中に流れた髪の毛先だけは不思議な色をしていたが、それ以外は全部黒という不気味な出で立ちの男。
 そして、彼の足元で、両親は畳にひたいをこすりつけていたのだ。

「な、何……してるの? そこの奴誰よ」

 両親からの反応はなく、ただ虫の羽音のようなものが聞こえる。耳を澄ましてみると、それが父親が「申し訳ありません」と、母親が「すみません」と呟き続けている声だと分かり、急激な嫌悪感が込み上がってくる。

「――っちょっと、あんた! あたしのお父さんとお母さんに何させてんのよ!!」

 黒い男が、ゆるりとレイカに顔を向けた。

「――っ!?」

 レイカは黒い男の顔を見て、思わず息をのんだ。
 向けられた表情は穏やかで、口元は柔和な線を引いている。瞳は紫色をしており、宝石のような硬質的な輝きは驚くほどに冷たかった。しかし、その冷たさすら彼の魅力のひとつになっており、つまりレイカは、一目で男に心を奪われたのだった。

「よくも、黒王たる俺をたばかったな」

 その一言で、レイカは瞬時に相手の男が誰だか察した。

「黒王……って、まさか……妖の……鴉の王?」

 黒王はにやりと笑んでいた口端を、さらにつり上げてみせる。

「お前が本物のレイカだな。会いたかったぞ」
「本物……って、もしかしてあたしを迎えに来てくれたんですか!」

 たちまち、レイカの表情が輝きに満ちた。

「やっぱり忌み子の菊じゃ駄目だったんですね! お気持ち分かります! 確かにあなた様には、あんな醜くてみすぼらしい女など釣り合いませんものね!」

 あれだけ妖の嫁は嫌だと喚いていたレイカだが、黒王を目の当たりにしてコロリと掌を返した。

「おい、レイカ! 大丈夫か!?」

 そこへ、一足遅れてやって来た自分の恋人だが、レイカは彼に冷ややかな目を向ける。
 村一番の男前と称された者だとて、浮世離れした美男と並べば、春霞(はるがすみ)よりも(かす)むというもの。
 レイカは抜け目なく、黒王に婀娜(あだ)っぽい視線を送った。
 しかし、黒王は鼻で一笑した程度で態度に変化は見られない。黒王の視線はレイカの顔からどんどんと下がり、ピタリと帯の部分で止まる。

「なるほど。その腹の丸み……噂は本当だったか。そして、相手はそっちの男というわけだな」

 黒王の紫が男へと向けられれば、男はぶわっと全身から汗を吹き出し、気圧されたように廊下で尻餅をついた。

「な、なんだこいつ……っ、こんな妖見たことねえ……」

 ガクガクと震えながら、尻で後ずさる恋人の情けない姿をレイカは無視して、黒王へとすり寄る。

「黒王様、この妊娠はあたしの意思ではなかったのです。そこの男に無理矢理襲われ……」

 レイカは同情を引くように目元を着物のたもとで押さえ、黒王の胸へとしなだれた。しかし、やはり黒王は特に反応は示さず、菊と同じくらいに低いレイカの頭を無感情な目で「ほう」と言って見下ろすのみ。
 そこへ、レイカの母親が声を大にして入ってくる。

「む、娘の言うとおりでございます! わたくしどもは神事の決定に従おうとしたのですが……そ、そう! 我が家で養っていた忌み子がそこの男と結託して、娘を無理矢理手籠めにしたのです!」
「腹の膨らみからするに、神事が行われるより以前からのような気がするが?」

 矛盾をつかれ、母親が青い顔して唇を噛む中、今度はレイカが話の続きを引き取った。

「妹はずっと、家での待遇に不満を持っていたのです。母の姉の子である自分のほうがあたしよりも偉いだとか、忌み子の自分は花御寮にはならないからと、家を抜け出しそこにいるような男達と遊んだり……」

 一瞬、黒王の目の下が引きつったことに、レイカは気付かない。

「とにかく妹の菊は! 高慢でわがままで男癖も悪く……あたしはいつもそれを(いさ)めていたのですが、その仕返しをされこのような身体に。しまいには、花御寮を代わらなければ、掟破りだと村中に吹聴して回ると……うぅっ」

 はらはらと涙を流すレイカは黒王の羽織にしがみつき、分かってくれと言うように羽織に涙を染みこませていく。

「と、娘は言っているが……親はどうなんだ? 真実か」
「娘の言うとおりでございます!」
「わたくし共には、どうしようもないことだったのでございます!」

 間髪容れず、両親はレイカの言葉を〝是〟と認めた。
 途端に、黒王は大口をあけて咆哮するかのように笑い出した。

「あっははははは! なるほどなるほど、全て理解したわ」

 両親とレイカの間に、ほっと安堵の空気が流れる。

「では、黒王様。あたしを黒王様の花御寮にしていただけるんですね!」
「ああ、連れて行こう」
「本当ですか!」

 黒王が羽織を握っていたレイカの手首を掴めば、レイカは頬を喜色に染め、目に希望を宿らせた。

「お前の両親も共にな。実に立派な親子だ、ここまでそっくりだとは」
「え?」
「ここに来てまで俺をたばかろうとはな。親子共々ここまで腐っていたとは」
「え……あの……えと? 黒王様、く、腐っているとは……?」

 クスクスとまるで馬鹿にしたように笑う黒王に、危険を察したレイカは黒王から距離を取ろうとする。が、黒王に手首を掴まれていて離れられない。

「痛――ッ!?」

 それどころか、手首を握る力はどんどんと増し、ギチギチと締め上げられる。

「勘違いしているようだが、俺はお前たちに罰を与えに来ただけだ。誰がお前のような餓鬼以下の女を花御寮にするものか」

 吐き捨てるように言われた台詞にまざった〝罰〟という言葉を、三人はしっかりと聞き取った。薄暗い部屋の中で三人は顔を蒼白にし、カチカチと奥歯を鳴らす。

「ちゃんと連れて行ってやるさ、三人まとめて……黄泉の国へな」
「い――っ、いやああああああっ!! 助けてっ! 助けなさい、一平!!」

 床でへたり込んだままの恋人に向かって、レイカは必死に手を伸ばすが、相手の男は助けるどころか、彼女を恨めしそうな目で睨み付けるばかり。

「っなんでよ! 菊が気に入らなかったからって、どうしてあたし達が罰を受けないといけないのよ! そんなに花御寮がほしければ、他の娘でも攫っていけばいいじゃない!」
「あの娘がお気に召さなかったのですね!? だからそのように罰などと……!」
「娘はこの通り器量好しです! 腹の子はこちらでどうとでもいたしますので、何卒お許しください!」

 この期に及んで問題がどこにあったのか分かっていない三人に、黒王は憐れみすら覚えた。
 口々に「やめてください」と、餌を欲しがる雛鳥のように喚いている。
 雛鳥と違ってまるで可愛くはないし、情もわかないが。

「菊も、お前達に何度折檻をやめてくれと思っただろうなあ……。お前達はどれほど菊の言葉を聞き入れたんだ? どれだけ菊に涙を流させてきた」
「菊……って、嘘! まさかそんな……っ!?」

 そこで、三人はようやく黒王が何に怒っているのかを理解した。そして、今までの自分達の発言が全て、彼を逆撫でするようなものだったことも。

「ある意味お前達には感謝している。このような餓鬼よりも欲深い娘ではなく、清らかで愛らしい菊を送ってくれたことに。あれは俺の最愛のつがいだ」

 だから、と黒王はまだ逃げようとするレイカの手首を、容赦なく握りしめる。

「血など流させず綺麗に死なせてやろう。数百年と同じ村の中で婚姻し続けても病が出なかった理由が分かるか? お前達の身に流れる祓魔の力が、血の悪もおさえていたからだ。では、その力がなくなったら?」

 もう声すら出ないのだろう。

「これからお前達は急激に老い、この世に存在する数多の病がその身を蝕む。あらゆる痛みにさいなまれ、早々と死ねるだろうさ」

 黒王の言葉を聞いても、三人は首をぶるぶると横に振るばかり。
 何かを言い足そうに開いては閉じを繰り返す口からは、荒く浅い息が漏れている。

「黄泉の国も常世とも繋がっているからな。運が良ければ、向こうで俺に会えるかもしれんぞ」

 運が良ければな、と黒王が言い終わると同時に、三人は糸が切れた人形のようにべちゃりと床に突っ伏した。「え」と、レイカは声を出したのだろうが、その声はしわがれ、ただの息と変わりなかった。
 次第に三人の手は、干からびたように皺が刻まれ始める。

「――ッいやあああ、ああ!? あっああああああ! あぁ……っ…………」
「これからの菊には、優しい世界しかいらないからな」

 三人は悲鳴にならない悲鳴を上げた後、完全に沈黙した。
 黒王は、レイカの涙が染みこんだ己の羽織を脱ぐと、汚いものを見るような目を向け、動かなくなった三人の上へと放り投げた。
 真っ黒の羽織は、醜くなった三人をすっぽりと覆い隠し、黒王は満足げに踵を返し、開け放たれた雨戸へと向かう。
 しかし、黒王は廊下で腰を抜かしていた男の横で足を止めた。

「男、お前はしっかりと村の者達に伝えろ。常世の者を軽んじるとこのようになる、とな」

 男はぶんぶんと勢いよく首を縦に振る。

「お前が菊にした所業は知っているぞ」

 腰を折り、耳元で囁かれた言葉に、上下していた頭の動きがビタッと止まった。

「本当ならばこの場でお前も殺してやりたいが、伝える者がいなければならないだろう? 黒王を侮ったらどうなるか」

 青を通り越して死人のように真っ白になった男を見て、黒王は再び上体を起こして屋敷を出て行く。

「ゆめゆめ忘れるな。俺達鴉ははいつでも見ているからな」

 黒王が姿を消しても、古柴家の外からは、豪雨のような数多の鳥の羽音だけが聞こえていた。

 昼から始まった菊と黒王の婚儀は、里長や郷の重役達が見守る(おごそ)かな雰囲気の中、つつがなく執り行われていた。
 大広間に集った者達の姿は人間とまったく同じで、菊は三三九度の杯を傾けながら、ここが常世であることを忘れてしまいそうになる。
 それほどに穏やかな陽気に包まれ、祝い事にはもってこいの日和だ。
 開け放たれた障子の向こうには庭園が広がっており、松や竹の他にも池や石灯籠、そしてたくさんの桜の木が庭を飾っている。
 今こそ本領発揮と満開に咲き誇った桜は、風が吹くたびに薄紅の儚い雨で庭石を色づけていく。誰がこの万感の景色を見て、あの恐ろしいものが棲まう、と言われる常世と思うだろうか。
 三三九度を終え、緊張していた誓詞奉読も、ありがたいことに用意された紙は全て平仮名で書かれており、無事に終えることができた。
 そうして、全ての儀式を終えれば、集まっていた皆が一斉に叩頭する。
 自分よりも年上の里長や、配膳に動いていた女官や若葉、進行を支えていた灰墨まで皆が黒王と菊に頭を下げている状況に、菊はおたおたと動揺するが黒王は泰然としていた。

「祝着至極に存じます。ただ今よりあなた様は、我らが鴉一族の母となられました」

 姿勢を低くした白髪の老爺が、趣のある寂声で菊を迎える言葉を述べれば、後を追って他の者達が一斉に「祝着至極に存じます」と声を揃えた。

「良かったな、これで俺達は正式に夫婦だ」
「ふう、ふ……ですか……」
「どうした、何か気掛かりなことでもあるのか」

 己の胸にそっと手を置き見つめている菊に、黒王は首を傾げる。

「いえ、あの、その……それは……」
「それは?」
「……っとても、心がふわふわするものですね」

 頬を桜色に染めてへにゃりと柔らかく笑う菊に、黒王はごくりと喉を鳴らした。しかし、すぐに何事もなかったように、温かな眼差しで「そうか」と頷いた。
 二人にとっては何気ないやり取りだったのだろうが、これを見ていた里長や重役達は、目を丸くして黒王以上に驚く。
 花御寮が来てからは少し雰囲気が柔らかくなったと思っていたが、これはその比ではない。
 黒王は母親の件以降、あまり感情を露わにしなくなった。
 次期黒王としての強い責任感からかあまり人を寄せ付けず、いつも冷然として物事に淡々とあたっていた印象がある。彼の父親が亡くなった時だとて、彼は泣くこともせず新たな黒王としての役目を義務的にこなしていた。
 そんな彼が、見たこともない顔をして、感情をめっぽうあふれ出させている。
 驚くなというほうが無理だろう。

「お二人の仲が良いとは聞いていたが……まさかこれほどとは」

 里長のひとりが呟けば、周囲の者達も首振り人形のようにうんうんと頷いていた。

「それでは、花御寮様あらため、菊様。屋敷の外で皆が待っておりますので、行きましょう」

 皆が待っているとはどういうことだろう、と菊は隣の黒王を見上げると、黒王は菊の手を握って頷く。その握り方があまりにも優しすぎて、むしろくすぐったいくらいで、菊は笑みを漏らしてしまう。

「その可愛い笑みを、郷の者達にも見せてやってくれ」

 菊の頬に朱がさした。

「こ……黒王様は、なぜそのように恥ずかしいことばかり……っ」

 可愛いだの、美しいだのと、ことある毎に言われ正直そのたび頭がクラクラしてしまう。出会った頃のあの冷たさは、はたしてどこに行ったのか。

「恥ずかしいことはないさ。可愛いものを可愛いと言っているだけだからな」

 耳の先まで赤くなって俯くしかできなくなった菊を、皆が微笑ましく眺めていた。



        ◆



 烏色の夜が東からやって来ていた。
 そんな中でも、若葉の言うとおり、屋敷の前には大勢の者達がずらりと居並んでいて、皆、口々に祝いの言葉を叫び、菊と黒王に拍手を送っていた。

「きくしゃまぁ! おめでとうごじゃいます!」
「おめとー!」

 すると人だかりの中から、トテトテとした足取りで子供たちが駆けてくるではないか。手には野花を握りしめ、皆「はい!」と元気よく菊に突き出している。
 ニコニコと向けられる顔は一切の曇りがなく、純粋に自分が黒王の花御寮となったことを喜んでいるのだと分かって、菊の口元もほころぶ。

「皆さん、ありがとうございます」

 腰までしかない子供達に合わせて屈み、順番にひとりずつから花をもらっていく。

「とっても綺麗です。お部屋にかざりますね」
「ありがとー、きくしゃま!」

 次々にもらっていき、ひとりの少年が一歩前へ進み出た。少年の肩にはこれまた小さな烏が乗っていたのだが、なんとくちばしにくわえた野花を、少年と一緒についと菊へと差し出したのだ。
 これには菊も驚き「え!?」と上体を僅かに揺らし、目をぱちぱちと瞬かせる。
 慌てた少年が丸い頭を下げる。

「ご、ごめんなさい、菊さま! この子、ぼくの弟なんだけど、まだ小さいから転化できなくて……」

 そういえば、以前に黒王が、鴉の妖は〝転化〟して人の姿になっていると言っていた覚えがある。郷に来ても人の姿をした者達が多くあまり意識したことなかったが、少年の肩に乗っている烏を眺め、菊はこういうことかと納得する。

「ごめんなさい……菊さまを怖がらせちゃって……」

 少年は申し訳なさそうに顔を俯け、胸元で指をいじっていた。心なしか、少年の肩に乗った小烏もしょんぼりと項垂れているように見える。
 こんなに烏とは感情豊かなものなのか。
 村にいる時は、特別気にして見てはいなかったが、黒い羽根に覆われた真っ黒な瞳からは、『しょぼん』といった感情がありありと伝わってくる。

 ――なんて愛らしいのかしら……っ!

 菊は、小烏の前に掌を上向けて差し出した。

「可愛い烏さん。そのお花を私にくださいますか」

 たちまち少年も小鴉も目をキラキラと輝かせ、嬉しそうに口をパクパクさせる。

「大丈夫、怖いだなんて思ってませんから。愛らしいことをしてくれる烏さんに驚いただけですよ」

 小烏から花を受け取ると、彼は小さな羽をパタパタと扇いでいた。なんだか言っていることが分かる気がして、菊も「私もです」と肩をすくめれば、小烏と一緒に兄の少年もキャッキャと嬉しそうに跳ねたのだった。
 そこで、菊はふと村での出来事を思い出す。

 ――そういえば、村にいる時一度だけ、烏と会話したような気がするのよね。

 泣いている菊を慰めるように、涙が乾くまでじっとこちらを見つめていた。
 深い紫色の目をした烏だったと思う。

 ――まるで黒王様みたいな……。

 振り返った先で、里長達と話していた国王と目があい、ふっと首を傾げられる。背中に流れていた彼の紫の毛先が、わきからちらっと見えた。

 ――あの烏の羽根も、毛先だけ紫がかっていたような……。
 そんなことを思っていると、視界の端からジリジリと近寄ってくる影に気付く。

「灰墨……さん?」

 名前を呼べば、灰墨はビクッと大仰に身体を跳ねさせて足を止めた。
 何か用事でもあるのかと菊のほうから近寄れば、灰墨の額にじわりと汗が滲む。視線は明後日の方へと飛ばされ、上体は後ろへと反っている。

 ――やっぱり……そうよね。婚儀を上げたからって、急に受け入れられるものじゃないわよね。

「あ、あの、やはりまだまだ不十分でしょうが、たくさん学んで黒王様の妻の名に恥じないようになりますので……どうか、それまでもう少し待っていただけると――」
「ち、違う!」
「え?」

 違うとは何がだろうか。

「ああ、いや……黒王様の妻の名に恥じないようにしてほしいのは、違わないけど……あーその……」

 菊が首を傾げて見つめれば、灰墨は額を抑えたり、口元を隠したり、後頭部を掻いたりと動きが忙しない。
 そして、「あー」と呻くような声をしばらく出した後、菊に真剣な顔を向け、真面目な声をだした。

「僕は、まだ人間のことが嫌いだ。人間がした黒王様への仕打ちを未だに許せない」
「はい」

 それはそうだろう。
 黒王の話を聞いて、菊ですら胸を痛めたくらいだ。傍にいた者達はどれだけ辛い思いをしたことだろうか。

「でも、あんたは、その……少しは信じてもいいのかな、って……」

 段々と声は小さくなっていき、最後はごにょごにょしてほとんど聞こえなかった。が、彼の気持ちは伝わった。

「私を……信じてくださるんですか?」
「黒王様のために、僕より先に動いたあんたは、きっと他の人間よりかはマシだと思うから」

 きっと本当は、すごくすごく人間が憎いはずだ。それでも彼は、自分を信じると言ってくれた。喜びよりも嬉しさがこみ上げる。

「……っありがとうございます」
「あっ! でも、これからは自重してよね! あんたは羽根もなけりゃ、術を使えるわけでもないんだからさ――――どわっ!?」

 突然、菊に照れ隠し半分の説教をしていた灰墨の首に、見覚えのある袖が巻き付いた。

「あんた何様よ、灰墨。菊様、こんなアホズミのことなんて気にしなくて良いですからね。たんに黒王様をとられて拗ねていただけですから」

 若葉は横から灰墨の首を抱き込んでおり、灰墨は腰を折って地面を覗き込む体勢を強いられる。

「は、離せよ!? バカバ! 近いんだよっ!!」
「お口が悪いわあ? 聞こえなぁい」
「ああ、そういえば、黒王様も合わせた三人は幼馴染みでしたよね。そういう関係って羨ましいです」
「いや、この状況で羨ましいとか意味分かんないから!?」

 辺り一帯に笑いがこだました。
 そして菊は、若葉に袂で目元を拭われて初めて、自分の目に涙が浮いていたのだと知った。


 
        ◆


 
 郷の子供達と戯れている菊の姿を、黒王は後ろの方から愛おしそうな眼差しで眺めていた。

「いやぁ、本当に良き花御寮様を迎えましたなあ!」

 里長のひとりである南嶺(なんりょう)が隣にやって来て、太い腕を組みながら満足げに頷いている。

「にしても、まさか別の娘を送ってきていたとは」

 当初、界背村より奉納された、花御寮の名前が書いてある紙には『古柴レイカ』と記してあった。しかし、実際に花御寮としてやって来たのは『菊』である。

「まあ、私共にとっては界背村の娘であれば誰でも構いませんからな。それに、結果的にとても素敵な花御寮様でしたし、むしろ別の娘にしてくれて感謝しかありませんわ!」

 ガハハと豪快に笑う南嶺に、黒王もそうだなと同意を示す。
 ただし、心の中では密かに違うことを思う。

 ――俺にとっちゃ、〝誰でも構わない〟ことはないんだがな。

「本当、菊が花御寮でいてくれて良かったよ」

 ――俺は、彼女が良かったんだ。彼女じゃないと駄目なんだ。

 花御寮にするのなら、最初から彼女がいいと思っていた。
 界背村で黒王がやったことについては、一部だが、婚儀の前に重役達に伝えてある――古柴家は神事を軽んじ、身ごもっていた姉のふりをさせて妹を差し出した。故に罰を与えた、と。
 話を聞いた重役達は、身ごもった娘を送ってこられるくらいなら、身代わりのほうがありがたいと、口を揃えて言っていた。
 ただし菊が、村の血が半分しか入っていない〝忌み子〟と呼ばれる存在だということは伏せた。
 彼らが知れば反対されるだろうし、反対されたところで、黒王は菊以外を迎える気などさらさらないのだから。同族間で下手に争うより、多少宿る妖力が低くとも、胸にしまって穏便に済ませたほうが良いに決まっている。
 そうして、本当のことを知るのは黒王と灰墨のみ。



 それは、古柴家を片付け、郷へと戻ってきた時のこと。

『何か言いたそうだな、灰墨』

 母屋を歩く中、郷に帰ってからずっとむくれた顔をして後ろをついてきている灰墨に、黒王は私室を目の前にしてようやく尋ねた。
 まあ、灰墨が何を思っているのかは考えがつく。

『……忌み子ってあの家族は言ってました』
『ああ、そうだな』

 黒王はそれを菊の口から直接聞いていたし、特に驚きはなかったがやはり彼は気になるのだろう。

『お前を連れて行かなければ良かったな』
『僕はあなたの近侍ですよ! 常にお傍にいるのが役目です! そんなこと言わないでください!』
『だったら、受け入れろ。俺の決めたことだ』
『でも……それじゃあ次代の黒王様のお力が……』
『元々お前は、この因習をやめたがっていたじゃないか。同じ郷の娘を嫁にとるのと、妖力が半分しかない娘を嫁にとるのとでは、大差ないだろう』

 異なった力を掛け合わせるから強い者が生まれるのであって、同族であれば大した意味はない。水に水を混ぜるのと同じことだ。
『それに』と、黒王は足元を見つめている灰墨に、腰を折ってずいっと顔を近づける。

『だったらお前は、あの女の方に来てほしかったとでも言うのか』
『あんなの絶っ対! 嫌です!』

 ぶんぶんと横に首を振って間髪容れず拒絶した灰墨に、苦笑が漏れる。

『だったら分かっているな? 彼女のような花御寮は稀有なんだ。あんな……春のように温かな者は』

 さて、ここまで言ったがそれでも反論してくるかな、と黒王が灰墨の反応を窺っていれば、予想外にも、彼はケロッとして頷いた。

『確かに、それもそうですね』
『……急に物わかりがいいな』

 灰墨は、やれやれと言わんばかりに、両手を上向け肩をすくめた。

『だって、あなたのそんな顔を見たら、もう何も言えませんよ』

 そうして、菊が忌み子である件については、黒王と灰墨の胸にだけしまわれることになったのだが。



「何をしているんだ? あいつは」

 そわそわと、灰墨が遠くもなく近くもない微妙な距離から、菊を窺っているではないか。

「今まで花御寮に反対だと言っていたし、彼女につらい態度をとったこともあったからなあ……どうやって接すれば良いのか、分からないんだろう」

「なあ? 玄泰(げんたい)」と、黒王は人の輪から一歩後ずさり、後ろでひとり佇んでいた玄泰に並ぶ。
 白髪白髭の老爺は細かい皺がたくさん入った顔で、菊を見るともなく見ていた。
 微動だにしない彼の表情からは、感情が読み取れない。

「郷の外をうろついていた妖だが……確かに対応は済んだんだったな?」

 賑やかな場の中、二人の間にだけ沈黙がまとわりつく。
 二人は祝い事だと騒いでいる者達の方を向いたまま、互いの視線も交わさない。

「……なぜ婚儀の前にわたくしを処分されなかったのです」

 ややあって、掠れた溜息と共に玄泰が口を開いた。

「もう全て分かっていらっしゃるのでしょう。わたくしが鬼を手引きしていたことを」

 やはりその声も、年季が入ったもので掠れている。

「それなのに……彼女をまた傷つけるかもしれないのに、どうして皆に黙ったまま何も咎められないのです」

 昨日、菊が郷外に出たこともそこで鬼の妖に襲われたことも、重役達は知らない。知るのは、菊の潔斎に付き従っていた者と現場にいた者だけだ。

「俺は、玄泰に菊を見てほしかった。人間ではなく俺が選んだ菊を。お前が取り仕切る婚儀で」
「なぜ……」
「確かに、人間の血に頼らねば維持できない血筋など、脆弱だと思う気持ちも分かる。人間に頼らずに生きていく方法があれば、そうしたほうが良いことも」

 ただでさえ皺だらけの玄泰の目元に、さらに深い皺が刻まれる。

「人間は醜い。何も持たない者達に力を授けた過去の恩を忘れ、まるで初めから自分たちは特別だったと言わんばかりの振る舞い。なのに、花御寮に選ばれると、自分たちは被害者だとばかりに騒ぐのがわたくしは気に食わなかったのですよ」

 自分よりはるかに年上で、自分よりも長くこの郷を、代々の黒王と共に見てきた重鎮。
 きっと自分が見てきたことや、書物で読んだものよりも、ずっと色々なものを目の当たりにしてきたのだろう。

「先代様も先々代様も、花御寮様がどうやったら少しでも穏やかに過ごせるのかと、心を砕いておりました。しかし……」

 切った先の言葉は、聞かずとも分かっていた。
 自分の母親は最悪の結末を迎えた。
 それは彼女にとってだけでなく、父や子である自分、そして鴉一族にとっても最悪な結末だったのだろう。
 あれから父は随分と憔悴し一気に老け込んで、今はもう帰らぬ人となった。

「わたくしはこれ以上、我らが主が苦しむ姿など見たくなかったのですよ。もう……たくさん我らも苦しんできた。人間も我らも苦しむのであれば、力など捨ててしまえば良い」

 確かにそれもひとつだろう。
 だが今回、鴉一族の立場を再確認させられた。
 鴉は、あんな雑魚の鬼にも(あなど)られている。
 もし、郷の守り主である黒王の力が徐々に失われていけば、きっと他の妖も乗り込んでくるだろう。鴉の耳目の多さと情報の早さは、どの妖も喉から手が出るほどほしいはずだ。

「では聞くが、お前から見て菊という人間はどうだった」
「…………」

 彼お得意の皮肉すら出てこないということは、そういうことだろう。ただ、それでも無言というところが彼らしいというか、なんというか。

「三代にわたって、お前はよく仕えてくれた。まあ、俺にとっちゃ、何考えてるか分からない恐ろしい爺さんだったという印象が強いがな」
「あなたは、よく先代様の言いつけを破りなさったから」
「そうだったか?」

 静かに喉だけで苦笑すると、隣からもふっと鼻で笑う気配があった。

「玄泰、そろそろ次の世代にその席を譲ったらどうだ」

 暗に、今回の咎めを伝える。

「……そうですね。そろそろ、里でゆっくりするのもいいかもしれませんな」

 玄泰は、珍しく黒王の言葉に反論を唱えなかった。

「安心しろ。一族は俺が守っていく……彼女と共に」

 そこで初めて、玄泰は菊をしっかりと視界の中心に捉える。
 郷の者達に囲まれている彼女は、時折焦りながら、また恥ずかしがりながら、それでも皆の顔を見て一生懸命何やら話していた。

「……善き春になりそうですな」

 玄泰が空を仰ぐ。つられて黒王も空を見上げた。
 風に流れていく薄紅の花弁が、郷の景色を華やかに色づける。
 深い鴉色の夜に際立つ繊細な薄紅は、まるで真っ黒な鴉が棲まう郷にやってきた彼女のようで、自ずと黒王の口元も和らぐ。

「そうだな。長かった冬も……もう終わりだ」

 横目で玄泰の様子を窺えば、横顔には憂愁といくらかの喜色が見えた気がした。


 
        ◆


 
「大丈夫か、菊。随分と皆にもみくちゃにされていたが」
「皆さんとても楽しくて親切で、私もちょっとはしゃぎすぎてしまいました」

 結い上げていた髪は乱れたからと若葉がほどいてくれ、今はいつも通り下ろしている。
 婚儀の衣装のまま、菊と黒王はいつもの場所――東棟の広間で並んで、欄干の向こうに見える庭を眺めていた。
 満月の煌々とした灯りに、薄紅の桜がぼんやりと青白く浮かび上がって、幽玄な景色をつくりだす。

「あの、黒王様。本当に皆さんは私で良かったんでしょうか」
「ああ、大丈夫だ。入れ替わりについては皆了解してくれた。むしろ、そんな女が来るより、菊が来てくれて良かったと喜んでいたよ」
「それは嬉しい限りです。それにしても、古柴家がまさかそんなことになるだなんて……」
「菊が心配することじゃないさ。きっと村の外で何事もなく生きていくだろうし」
「それも……そうですね。レイカ姉様はずっと街に出たがっていましたし、意外と喜んでいるかもしれませんね」
「菊は優しいな」

 昨夜、黒王は界背村の村長と話してくると出て行ったわけだが、戻ってきて彼が教えてくれたのは、『村は古柴家の掟破りについて、古柴家全員を村外追放に処した』ということだった。具体的に何をどこまで話し合ったのかは聞いていないが、村のことにはもう興味がなかった。

「これで、もしあの鳥居を通って現世へ行くことがあっても、会わずにすむな」
「そう思うと、ちょっとホッとします」
「良かった」

 黒王に肩を抱き寄せられる。

「そういえば、菊」
「はい」
「菊は、俺に嘘は吐かないと約束したよな?」

 あっ、と菊は肩を跳ねさせ、じわりと窺うように下から黒王の顔を見つめる。

「あれはその……ど、どうせ捨てられる身だからと思っていて……お許しください」

 膝に置いていた手が、着物をぎゅうと掴んでいた。
 菊の反応に、黒王は目を弧にして意地悪な顔で菊を見下ろす。

「いいや、許さない」
「ええ!? それは……ど、どうしましょう」
「嘘を吐いたら俺の好きなようにして良いんだったな」

 黒王は菊の肩を両手で掴むと、自分のほうへと菊を向かせた。

「え、あの!?」

 戸惑う菊に対し、正面の黒王の表情は、先ほどまでの茶目っ気たっぷりのものではなく、とても真剣なもので、それが「あの!?」とさらに菊を戸惑わせていた。
 黒王が真剣さにおされ、菊も口を閉じる。
 二人の間の空気が薄くなった、次の瞬間。

「菊……俺の妻になってくれないか……」

 予想していなかった言葉に、菊は思わず「え」と間抜けな声を出してしまう。
 確か昼間に婚儀は済ませたはずだが。もしかして全て夢だったのだろうかなどと、頓珍漢なことすら考えてしまう。

「夢でなければ婚儀はすでに……」
「それは黒王と花御寮としてのだろう? 掟とか因習とか関係なく、俺は菊と結婚したいんだ」

 真っ直ぐな紫色の瞳に射抜かれ、胸の内側がざわめきたった。

「私と、ですか……」

 まつげを震わせ、目を大きく見開いている菊の頬を、黒王の手が撫でる。

「ああ。たとえ花御寮でなくても、俺は菊と結婚したかった」
「そんな……いつから……」
「初めて会った時から、かな。きっと、俺は最初からお前に恋をしていたんだ」

 ――恋……。

 触れられた頬から伝わる彼の熱が、首から胸へ、胸から背中を通って全身へと広がっていく。熱を持った身体はジンジンと痺れるようで、耳の奥で聞こえる鼓動は早鐘を打っていた。

「……初めてというと、迎えの儀の夜ですか」

 黒王はただ曖昧に苦笑だけしていた。どこか気恥ずかしそうに。
 それでも菊から視線は外れない。
 ただただ真っ直ぐに、菊だけを紫に映していた。深い紫の宝玉の中に。

「……怪我をした烏……」

 思うより先に、脳裏によぎった光景を口に出していた。

「やはり、彼女は間違いなく菊だったんだな」
「――っ本当に?」

 今思えば、烏の妖なのだから烏姿になれるのは当然だ。事実、灰墨の烏姿も見たし、かつて黒王より転化というものも教えてもらっていた。
 それでも、今の今まであの烏が彼に結びつかなかったのは、まさか人間である黒王が烏姿になれるとは思わなかったからで。

「それじゃあ、最初って……」

 黒王の目が細まれば、それが肯定だと分かるくらいには日々を共にしてきた。

「なあ、菊。返事を聞かせてくれないか?」

 尋ねる声はとても穏やかだ。
 どうしてだろう、胸に酢を掛けられたように締め付けられ痛む。けれど、それは決して嫌な痛さではない。

「ああ……菊、泣かないでくれ。驚かせてすまない」

 黒王が困ったように笑うが、菊は首をぶんぶんと横に振った。
 余計に目が溶けそうなくらいに熱くなり、瞳の表面に水膜が張った端から、(うろこ)のようにぽろぽろと剥がれ落ちていく。
 剥がれ落ちた透明な鱗は、黒王の手をさらに濡らす。

「私……っわたし、こんなに……っ幸せで……良い、んですか……」

 今日一日だけで一生分どころか、来世までの幸せも使い切ってはいないだろうか。
 それほどに、今日は信じられないほど嬉しいがあふれすぎている。
 いない者とされた自分の名前を、郷の者達がたくさん呼んでくれた。何度も何度も親しみが感じられる声音で「菊様」と、笑顔と共に呼んでくれたのだ。
 自分の意思なんかないものとされ、言いなりになることを求められてきたのに、彼は丁寧にひとつひとつ自分の意思を確認してくれた。
 涙を拭ってくれる者などおらず、ひとりで全ての感情を飲み下さないといけなかったのが、今は涙を拭ってくれる手があり、心に寄り添ってくれる。
 そして掟などではなく、自分の意思で妻に迎えたいと彼が言ってくれている。
 それらはどれも、菊が予想し得なかった最高の未来。

「……っこんなに幸せで……私、怖いです……っ」

 悔しいことに次々にあふれる涙のせいで、視界が揺れて彼の表情は見えないが、正面で彼が笑った気配は伝わってきた。

「気付いているか、菊? それは俺にとって最高の返事だって」

 両手で頬を捕まえられ、そのままコツンと額を合わせられる。

「永遠に菊だけを愛すると誓うから、どうか俺と結婚してくれないか」
「……ッ……っ」

 嗚咽のせいで上手く声が出せず、でもこの心の全てを伝えたいとでも言うように、菊は何度も何度も何度も黒王の言葉に頷いていた。
 菊から言葉での返事はない。
 しかし、時に言葉よりも伝わることはある。
 いつも(しと)やかな彼女が子供のように声を上げて泣く姿を見て、黒王の瞳も揺れ始める。

「なあ、菊。俺の名前を呼んでくれないか」

 彼が言う〝名前〟が、いつも呼んでいる名前でないことはすぐに分かった。
 それは、決して他人には知られてはならぬ名前。
『二人きりの特別な時にだけ』呼んでほしいと言われ、伝えられた名前。

「俺はお前だけに名前を呼ばれたいんだ」

 黒王の気持ちが手に取るように分かる。
 きっと、菊は誰よりも、名前を呼ばれたいという欲望を知っている。
 そして、慕っている相手から名前を呼んでもらえた時の嬉しさも。
 菊は一度、瞼をぎゅっと強く閉じた。それで内側に残っていた雫の欠片もすべて流れ落ちる。
 そうして瞼を開ければ、すぐそこには黒王の顔があった。
 目を赤らめ、目尻は僅かに湿っている。
 紫の瞳が『呼んでくれ』と言っていた。
 そこに映った自分は、まるで夜半の檻に囚われているかのようだ。甘やかな欲が瞳の奥でちらちらと揺れ、見つめられるだけで烏王の心が伝わってくる。
 無意識に菊は烏王の頬に手を添えていた。

「……紫月(しづき)様……」

 桜の花がさやめくような菊の声は、柔らかく、優しく、そして温かかった。
 風がはしった。
 ザァッ、と薄紅の花吹雪が夜空に舞い上がる。
 月明かりの中、照らし出された黒と薄紅だけが世界のすべてだった。

「私を、紫月様の妻にしてください」

 自然と、二人の唇が重なった。
 触れるよりも長く、交わすよりも深く。
 互いに触れる手や唇は温かく、菊の心はそれ以上に熱かった。
 夜空を染めた桜吹雪。
 ひらひらと舞い上がった花びらが空から落ちて、まるで祝福の送花のように二人のいる場所を色づける。

「紫月様、見てください。まるで雪みたいです」
「ああ……こんな温かな雪なら、悪くはないな」

 それは、辛いことも嫌な過去もすべて忘れていまいそうなくらい幻想的な光景。
 ひっそりと夜空に輝く満月だけが、二人だけの誓いを見ていた。



                                     【了】
 
 
 
  

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