非情やった。人の上に立つ神のすることやない。許されへん。
 そないなことはワシが一番よう分かっとる。

 せやけど、ただナミに会いたかった。
 どうなってもええ。ただ、ナミに会いたかったんや。

 ワシはナミに会うために、黄泉の国へ行く決心をした。

「ナミ! ナミ! ()るんか。聞こえるか」
 せやけど黄泉の国は、ワシを一歩たりとも中に通してくれへんかった。孤独にも、入口の扉の前で泣き叫ぶことしか許されへんかった。

「ナミ、愛しとるで。ナミ。一緒に日本を作ろうと中つ国に行った日のこと、覚えとるか」
 扉をようけ叩いた。力一杯叩いた。

「日本はまだ完成してへん。ナミと一緒やないと日本は完成せえへん。せやから帰ろう。一緒に中つ国に帰ろう」
 ほんならそん時、扉の中からナミの声が聞こえたんや。

「悔しいです。ナギ」
「ナミか? そこに居るのか? ワシの声が聞こえるんか?」

「ごめんなさい。ナギ。先に逝ってしまって、悔やんでも悔やみきれません」
「そないなことない。一緒に帰ればええだけのことや。一緒に帰ろ。なあ」

「でももっと、もっと早く来てほしかった」
「もっと早く?」
「そうよ。もう遅い。間に合わないの」
「どういうことや」
「もっと早く来てくれていれば、私、帰れたのに」
「詳しく説明してくれ」

「私、こちらの食べ物を食べてしまったの。産気づいてから何も食べて無かったから、あまりの空腹に耐えきれなくて。でもね、黄泉の国には規則があったの」
「なんや」
「こちらの食べ物を食べたら、元の世界には決して戻れないっていう規則があった」
「そない……」
「決まりなんだって」
「そないなこと……」
「あるんだって。絶対なんだって。規則なんだって」
 ワシは声を(うしの)おた。

「だからごめんなさい。もう現生には戻れないわ」
「せやけどナミ。ナミは日本を作るゆう重大な任務を抱えとる。せやから現世に戻らなあかん。なあ、一度相談してみてくれへんか」
「相談って……?」
「黄泉の国の王に掛け()おてみてくれ」
 その言葉を言うた後、何十分にも感じるほど長い沈黙が続いた。
 つい昨日まで一緒に仲良う暮らしとったナミが、扉の向こうにおる。ナミはすぐ傍におるはずやのに、扉は遠く、遠く、薄暗く、決して触れられぬほど重たく感じた。

「……ナミ? 聞こえとるか?」
 いよいよ沈黙に耐え切れんくなったワシが口を開くと、ナミはゆっくりと言葉を紡いだ。

「はい。分かりました。相談してまいります」
 何故か、敬語やった。

「ありがとう。ありがとう、ナミ」
 ナミはワシの言葉を遮るように声を荒げた。
「しかし」
 はっとして息を呑んだ。

「私が良いと言うまで、決して中を覗かないで下さいね」
 ナミはそう言い残し、すたすたちゅう足音を立て黄泉の国の御殿の中へ入っていった。

 それから何日、何週間、何年が経ったんやろう。
 扉の前に取り残されたワシにはもう、時間の感覚など残ってへんかった。

 ただ、ナミが戻ってくればええ。ナミに会えればええ。
 ナミを待つことに一切の苦はなかったんや。
 
 せやけど、待てど暮らせどナミがワシの元へ帰ってくることはあれへんかった。
「ナミの身に、何かあったんやろか」
 膨れ上がった不安や悲しみが行き場を無くしかけたその時、

 ガラガラガラッーーー。

 強く吹き荒れる風によって、黄泉の国の扉が開いた。数ミリだけ開いた。
 決してワシが触った訳やない。神すら知らぬ何かの力によって、偶然開いた。

「天の思し召しかもしれへん」
 そう思ったワシは、開いた扉の隙間に瞳を擦り付けた。
 中を覗くつもりなど毛の先ほども無かった。ナミからすれば言い訳に過ぎへんと分かっとるけれど、ほんまに中を覗くつもりなど無かったんや。
 ただ不安で、ただ寂しうて、ただ怖うて、ただ悲しうて、ただナミを守りたかっただけやった。
 
 黄泉の国は暗闇に包まれとった。一寸の光も無い。広がるのは、暗い黒い空間。

 ワシは髪を束ね挿しておった簪を取り折り、火を灯した。火の回りがぽっと色付く。音を立てへんように扉を開け、そっとそっと中へ歩いて行ってん。

 すると、見覚えのある後ろ姿を見つけた。間違えるはずなどない。愛する神の後ろ姿。
「……ナミ? ナミか? ナミ!」
 ワシは大声を出し、ナミの方へと駆け出した。

「ナミ、会いたかった。ついに会えた。ついに会えたんや」

 ナミの肩を掴もうとしたその時、ナミがぴくりと背中を動かした。
「信じていたのに……」

「え?」

 ほんで、ゆっくりとワシの方を振り返った。
「ナギは決してこの扉を開けないと、信じていたのに……」

 そうして振り返ったナミはもう、ワシの知っとるナミやあらへんかった。

 艶やかやった髪は、見る影もない程ぼさぼさに広がり。
 美しかった顔は、爛れて原型を留めず。
 体中に大量の蛆虫がひしめき合い、素肌すら見えへんかった。

「どうして扉を開けたの」
 ナミの目は怒りと悲しみに震えとった。

「どうして私に恥をかかせたの。どうしてこの姿を見てしまったの」
 ワシは取返しの付かへんことをしてもうたんや。ナミから「私が良いと言うまで、決して中を覗かないで下さいね」と、そう言われとったのに。言われとったのに、その約束を破った。

 たったそれだけの簡単なはずの約束を、破ってしもうた。

 自分の情けなさに……いや、ちゃう。もうこれ以上ナミの姿を見てられへんかったワシは、扉の方へと駆け出した。結局ワシは、自分を守ることしか考えてへんかったやと思う。

 今逃げ出したら、ナミが深く傷付くことを知っとった。
 そもそも扉を開けたら、愛するナミとの約束を破ることを分かっとった。

 それやのにワシは自分の欲に負けてまう。ナミを守り抜くと言葉で言いながら、ナミを守れたことなど一度たりとも無かった。


「ナミ、ごめん! ナミ」
 謝りながら、泣きながら、ワシは足元の見えへん暗闇の中を必死に走り続けた。

「許さない! ナギ! 許さない」
 しかしナミの怒りが収まることはあれへんかった。

 ナミは黄泉の国でもっとも強く足の速い化け物を遣いに回し、ワシの後を追い回した。ワシは必死に逃げまどった。
 ワシを捕まえることが出来へんかったナミは、それから更に千五百体の化け物を遣い、ワシを追い込んだ。

 逃げれども、逃げれども、四方八方から得体のしれない追手が飛び出してくる。

 いつから。どないして。こないなことに。
 ワシはナミをただ愛して、ただ会いたかっただけやったのに。なんでや。
 削られ続けた心から塵が落ち、淡い雪のように辺りを舞った。


 暫く走り続けた道の先に、ナミがいた。
 先ほどよりも爛れた醜い体で、ワシの前に立ち竦んどる。

「ああ、ナギ。私はあなたを愛してる。愛してるからこそ、許すことが出来ないの」
「ナミ……」

「この怒りをどこにぶつければ良いの。この悔しさを、恥ずかしさを、どこにぶつければ良いの。ねえ! 教えてよ」
 こんな時、気の利いた言葉を何一つ思い浮かばない自分が心の底から憎らしい。

「何も言わないつもりなのね。もう良いわ、ナギ。そういうことなら、覚えていなさいよ」
「何をするつもりや」
「私たちが作った日本に仕返しをする。私、毎日千人の人を殺すわ」
「なんて事を言うんや! ナミ!」

「あなたに私を責める権利なんて無い! 分かっているでしょう。だって私が命がけで生んだあの子。火の神はどうして今、黄泉の国にいるの?」
「それは……」

「黄泉の国であの子に会ったわ。あなたがあの子にしたことも全部聞いた。驚いた。信じられなかった。最初は、あなたがそんな事をしたなんて信じたくなかった」
「違うんや。あれは違うんや……」

「違くない! 私はあの子を命にかえて守ったの。あの子のために死んだのに」
「ナミ……」

「それだけじゃない。あなたは、私との約束も破った。決して開けないでとお願いした扉を開けた」
 ナミは聞いたことの無い声で、顔で、剣幕で、全身をわなわなと震わせとった。
 

 ……ああ、そうか。もう遅いんや。

 分かったで。愛しかったナミ。
「君が一日千人殺すというのなら、俺は一日に千五百人の人を誕生させる。そうして俺たちが作った大切な日本を守る」

「あなたがいつ誰かを守れたっていうの? 何かを守れたことがある? ねえ、聞いてるの?」
 
 そうして怒り狂い叫び続けるナミの前に、ワシは大きな岩を置いた。
 一片の隙間も出来ぬよう詰め込み、ワシとナミが二度と会えぬよう道を塞いだ。

 ゆっくりと目を瞑り、楽しかった日々の思い出に蓋をする。

「さようなら、ナミ」
 ワシは、ナミを愛することを終えた。
 
 それから中つ国に帰ったワシは、身体を清めるために川へ向かった。


 
 もう、何も考える必要はあらへんかった。完全なる無やった。
 蓋をした愛おしい思い出の日々を取り出すことがあれへんように、ワシは何度も何度も体を清めた。今でも覚えとる。あん時の水はただただ冷たく、凍えるほどに冷たく、ほんで一点の曇りもない。
 日本を作ったことは決して間違いやあらへん。そう確信できるほど澄み渡る綺麗な川やった。
 
「ナミを失った今、私に出来ることは何もない」
 高天原に向かって顔を上げそう呟いた時、川の中から声がした。

「お父さま。私たち、僕たちにお任せ下さい」
 はっとして声のする方を見ると、対面に三柱の子どもたちがワシを見つめて微笑んどった。

「私たちは、あなたの子ですよ」
 かつてのナミを思わせるように艶やかな黒髪を持つ一柱が、優しい声で呟いた。
「ナギとナミの子です」

「そうか。名は何と言う」
 この子たちは、ワシら二柱が幸せな時を刻んだ証。愛おしい日々を紡いでいた証。

「私は高天原の神。アマテラスです」 
 艶やかな黒髪が風にそよいだ。

「僕は夜の神。ツキヨミです」
 隣に立つ精悍な顔つきの柱が続けた。

「俺は海の神。スサノオだ」
 最後に、屈強な筋肉を持つ柱が口を開いた。

「そうか。良い名や。ありがとう。後のことは、君たちに任せることにしよう」
 ワシは、愛する我が三柱に、この世の全てを託すことを決めた。


 この子たちが後世、日本の皆々から三貴神(さんきしん)と呼ばれ愛される偉大な神様に成長することはまた後のお話。