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蒲生野には、ちらほらと人がいた。
そこで私はようやく、今日が蒲生野での歌会の日だったことを思い出した。
歌会自体には欠席の連絡をしていたから、すっぽかしたわけではないけれど。彼がこの場所が好きなことを私はよく知っていて、だから真っ先にこの場所に来た。
彼の後ろ姿が、見える。くくった長い黒髪が、風になびいてゆらゆらと揺れている。
好きだった。愛おしかった。それでも私は、この感情を表に出すわけにはいかなくて。だからこんな公の場で、本来ならこうして息せき切って駆け込むなんてことすら許されなかった。
周りがざわつき始めるのが分かる。それに気づいたのか、彼がゆっくりとこちらを振り仰ぐ。気づかないでほしいという気持ちと気づいてほしいという気持ちがせめぎあって、心の中はぐちゃぐちゃだった。
それでも私は、いまこの場をやり過ごさねばならない。
彼の兄のもとへ嫁ぐことが決まっている私が。こんな公の場で、分かりやすく彼への愛を紡ぐことなんて、絶対に許されない行為だった。
茜、と彼の唇が私の名をかたどる。彼の名を紡ごうとして、けれどぐっと飲みこんだ。
彼と話をしに来たはずなのに、いま、それは許されない。彼が分かってくれることを信じて、私は思いついた歌を、そっと唇に乗せた。
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
あかね色の光が、私たちの間に降り注いでいる。
眩しそうに私を見つめる彼が、同じようにそっと息を吸い込んだのが見えたような気がした。
「紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我れ恋ひめやも」
ああ、彼はやはり、もうすべて知っているのだ。
分かったうえで、彼はここに、この地に立っている。
彼の兄の領地である蒲生野に、来ている。
それが彼の選択で、彼も私と同じように、誰かのものに過ぎないのだということを理解した。