「ねえ、茜」
姉が、私の名を呼ぶ。うん、と頷いて、ゆるゆると顔を上げて。茜、と優しく私を呼ぶ姉に、これから言われることを察してきゅっと唇を引き結んだ。
「茜の大好きなひと、もう知っているよ」
そうだろうな、と思った。だって、そういう立場にいるひとだから。
もしかしたら、そもそも私に話が回ってくる前から、知っていたかもしれない、とすら思った。
だって私の好きなひとは、姉の夫の、その弟だ。
きっかけは、姉の結婚式だった。幼い私はきらきらしている姉にばかり気を取られていて、何かの拍子に迷子になって。そのときに助けてくれたのが、姉の夫の弟だった。
最初は何とも思っていなかったけれど、姉の家に行くと、ときどき彼と顔を合わせた。そのたびに優しくしてくれる彼に、私はいつの間にか惹かれていて。
だから、このひとといつか幸せになるのだと、勝手に思っていた。
「ちゃんと話をしておいで、茜。……これからも、顔を合わせるんだよ」
だって、彼は。私の夫となるひとの、弟という立場になるのだから。
逃げられない。あのひとが好きなのに、あのひとの妻にはなれないのに、私はあのひとから逃げることができない。
いっそ、何にも関係のない相手ならよかったのに。もう一生顔を合わせる機会なんてなかったら、もっと諦めがついたのに。
この想いを抱えて生きていく。一生。もう誰にも知られてはならない想いを抱えて、私は。
「諦めるために、ちゃんと話をしておいで、茜」
私はしてきたよ、と姉が言った。
ぐっと唇を噛み締める。そっと背中を押されて、私は顔を上げた。同じように唇を噛み締めている姉が、それでも私を見つめてくる。その瞳を同じように見つめて、私はゆっくりと長く息を吐くと、ひとつこくりと頷いた。
いい加減、覚悟を決めなければならない。
もう一緒にはいられないこと。この気持ちはもう隠さなければならないこと。
それでも、きみが好きだということ。
うん、うん、と言い聞かせるように。何度も頷いて、姉が私の頭を撫でてくれる。その手に押し出されるように私は立ち上がると、しゃがんだままこちらを見上げてくる姉にそっと笑って、それから一言、口にした。
「いってきます、お姉ちゃん」
「いってらっしゃい、茜」
姉の言葉に、背中を押される。くるりと踵を返して、駆け足で家を出る。
素直に、そしてシンプルに、ただ会いたい、と思う気持ちだけを胸に。私は彼のいるであろう場所を目指して、あかね色に染まる夕焼けの空の下を走った。