「私のことは、額田、と」
あかね色の空は、あの蒲生野に置いてきた。
あかね色の私は、きみを愛しているから。
だから私は、別の私として、別の幸せを、歩む。
「……では、額田王」
「はい、旦那様」
「あなたのことは、よく聞いている」
はい、ともう一度頷く。よく分からない目の前の男が、それでもかすかに目を細めたのが分かった。
「あれに、幸せがあるように、と」
「……え」
「そう思って、離縁したのだ。あなたのお父上は、そのままでもいいと言っていたが」
姉のことだ、と思った。そして、そこでようやく、別に私を娶るから姉を離縁する必要はなかったのだということに気づいた。
だからあれは、姉に対するせめてもの罪滅ぼしだった。
ああ、と思う。私たちはきっと、どうしようもないくらいに、行動を決められてしまっていて。それでも、その中で、互いを想い合うためにどうすればいいのか、必死に考えて、必死に行動しているのだと。
それが、誰かにとって幸せになればと願い、祈って。幸せであることを信じて、突き放すしかないことだってあるのだと。
そう思ったら、急に目の前の彼のことが身近に思えた。
愛せるかどうかは分からない。あかね色の愛は、彼に渡してしまったから。それでも、もしかしたら。『額田』ではない、『茜』である私も、彼のことを愛せる日が来るのだろうか。
傷のなめ合いにすぎないとしても、彼のことを大切だと想える日が来るのだろうか。
無言で手を差し出されて、その骨ばった手のひらを見つめる。彼の手とは違う、けれど同じような場所にできているタコを見て、私は無言で自分の手を重ねた。
彼に手を引かれて、家の中へ足を踏み入れる。振り向いた視線の先、陽が落ちかけた空にあかね色が差していることに気づいて、私はきゅっと唇を引き結ぶと。
心の中であかね色を転がして、きみへ向ける愛情を考えた。