綺瀬くん。綺瀬くん。綺瀬くん。
 心の中で綺瀬くん、と何度も彼の名前を叫ぶ。
 綺瀬くんの言う通りだったよ。話してみなきゃ、分からないんだね。話して救われることもあるんだね。ぜんぶ、綺瀬くんのおかげだよ。ありがとう。

 会いたいな。公園にいるかな。いますように。

 祈りながら、私は石段を駆け上がる。
 山の上にある神社の、さらに上。街が見渡せる広場のベンチ。
 そこに、綺瀬くんはいた。
「綺瀬くんっ!」

 石段を登り切る前に綺瀬くんの姿が見えて、私は綺瀬くんの名前を呼びながら石段を駆け上がった。

「水波! 久しぶり」
 綺瀬くんは、私を見るとにっこりと笑う。
「綺瀬くん!」
 一週間ぶりに会った綺瀬くんはやっぱり夏と切り離されたように涼しげで、少し現実離れしている。
 私は目が合うなり駆け出し、勢いよく綺瀬くんに抱き着いた。
「わっ……ど、どうしたの水波」

 綺瀬くんは戸惑いながらも私を優しく受け止める。
「会いたかった……」
 ぎゅうっと抱きつくと、綺瀬くんは優しく抱き締め返してくれる。
「ん。俺も」

 あたたかい。あたたかくて、涙が出そう。

 しばらくすると、綺瀬くんは身体を離して私の顔を覗き込んだ。
「……なんかあった?」
「うん」
 私は綺瀬くんの胸に顔を押し付けたまま、
「お母さんとお父さんとちゃんと話せたよ」
「うん」
「ふたりとも、すごくすごく私のこと考えてくれてた」
「そっか」
「夜の外出は八時までって言われたけど」
「……うん、まぁ、そうだよね。それがいい。危ないから」
「えー」
「ふふ」
 綺瀬くんが苦笑する。そこはもっと落ち込んでほしかった。
「それで?」
「……それからね、友達ができたよ」
「えっ?」
 顔を上げてはにかみながら言うと、綺瀬くんはきょとんとした。
「向き合うの怖かったけど……でも向き合ってよかった。友達になりたいって言えてよかった」

 綺瀬くんの顔に、じわじわと笑みが広がっていく。

「……そっか。なんだ、そっか……。よかった」と、綺瀬くんは柔らかく笑った。
「良かったね」
「うん。ぜんぶ綺瀬くんのおかげだよ」
「そんなことないよ。水波が勇気出したからだよ」
 じんわりと心があたたまっていく。
「ねぇ、手繋いでくれる?」
「ん」

 綺瀬くんが手を差し出す。その手を取って、ベンチに並んで座る。街並みを見下ろしながら、私たちは何気ない話をする。

「あ、そうだ、これ。綺瀬くんにお礼しようと思って、うちの名物のプリンあんまん買ってきた。あげる」
 カバンから、朝香お気に入りの購買パンを出すと、綺瀬くんの瞳が輝いた。

「ちょうどお腹減ってたんだ。ありがとう」
「美味しくないから覚悟してね」
「えっ、美味しくないの?」

 ぽーんと目を丸くした綺瀬くんの顔がおかしくて、つい笑ってしまった。「冗談だよ」と付け足すと、綺瀬くんは拍子抜けしたように微笑んだ。
「じゃあ、半分こね。水波ほっそいからちゃんと食べろよ」
「えーでも、これでカロリー取るのはなぁ。どうせならドーナツとか」
「文句を言うんじゃありません」
「ハイ」

 プリンあんまんの片割れを綺瀬くんから受け取ると、同時に訊かれた。
「学校は楽しい?」

 綺瀬くんはプリンあんまんを咥えながら、優しい眼差しで私を見た。

「うん。楽しい。あのね、もうすぐ文化祭なんだ。朝香から、今年は一緒に回ろうって誘われてて……」
「おっ。それは楽しみだね」
 綺瀬くんはいつもよりのんびりとした声で言った。
「いいなぁ。文化祭かぁ……」
 綺瀬くんは、どこか遠い目をして呟いた。
「綺瀬くんは、文化祭出たことある?」
「うん、あるよ」

 まるで用意しておいた答えのように綺瀬くんはそう言った。

「文化祭は高校生限定のイベントだからね。絶対サボっちゃダメだからね?」
「……うん。あのさ……」

 綺瀬くんは、どこの学校に行っているの? 何年生?
 聞きたいけれど、聞いたら答えてくれるのだろうか。もしも言いたくないことだったら、迷惑になる。

 ……それに、なんでだろう、聞くのが少しだけ怖い。

 ざわ、と風が吹いた。綺瀬くんのにおいと、秋の気配。どこか懐かしさを感じる横顔。

 でも、なぜ?

 綺瀬くんとは会ったばかりなのに。懐かしいと感じるほど、よく知らないはずなのに。

 心がざわつく。
 突然黙り込んだ私を、綺瀬くんが覗き込んでくる。
「どうした?」
 静かに首を振る。
「……ううん。なんでもない」
 心の戸惑いを誤魔化すように曖昧に微笑み、私はプリンあんまんをかじった。


 それから半月後。数日後には衣替えとは思えないほど濃い陽の下、文化祭は開幕した。

 文化祭は、私の想像を遥かに越えていた。

 私たちの出し物である巫女カフェは、教室を使用しており、パーテーションで半分に区切り、半分をカフェ風に、もう半分はスタッフルームだ。

 接客担当はおそろいで作った紅白の巫女風の衣装を着て、その他の生徒たちはこれまたおそろいで作ったクラスティーシャツを着る。

 私たちのクラスの出し物は、二年の中でもかなり大盛況なようだった。

 提供するのは、缶ジュースと事前に焼いておいたカップケーキ。

 調理系のものは許可を取ることが難しいらしく、普通科はそう簡単に提供することはできないため、簡単なカップケーキを販売することになったのだ。
 その代わりラッピングに少しこだわり、和風の千鳥柄や市松模様で、紙も和紙風の手触りのものにした。

 目にも可愛い、そして美味しいがウチの売り……らしい。

 宣伝担当となった私は、制服のスカートはそのままにクラスティーシャツを着て、手作り感満載のダンボール製のプラカードを持って構内を歩いていた。

 構内は、遊園地になったのではと錯覚するほど賑やかで、あちこちから華やかな声が聞こえてくる。

 薄ぼやけていたはずの教室や廊下が、今はカラフルに色付いている。

 赤色や黄色のペンキで丁寧にダンボールに塗られた文字。七色の風船。わいわいと楽しげなさざめき声も、それぞれの色をまとって学校を彩っている。

 小学校の運動会に少し雰囲気が似ている、と思った。

 しばらく構内を練り歩いていると、
「水波ちゃん、宣伝お疲れ様! 交代するね!」
 と、ピンク色のぽんぽんを持ったクラスメイトが、私に声をかけながら駆け寄ってきた。

 背が低くて、ふわふわとしたくせ毛がどことなくうさぎを思わせる、愛くるしい、という表現がぴったりな子だった。
 名前はたしか、松本(まつもと)歩果(あゆか)ちゃんだ。
「あ、うん。お願いします」

 プラカードを渡そうとすると、歩果ちゃんはぽんぽんを片手で持とうとする。しかし、手が小さいせいでぽとりと落としてしまった。

「わわっ」
「大丈夫?」
「うん、ご、ごめんね」

 歩果ちゃんは生徒や来場者が激しく往来するなかでぽんぽんを落としたことが恥ずかしかったのか、頬を赤くしながら慌てて拾う。
 そんなに慌てなくても、と思いながら私はその様子を微笑ましく見守った。

 そのあとも、歩果ちゃんは何度かわたわたと、拾っては落としてを繰り返していた。見兼ねた私は、控えめに口を開く。

「……よかったら、それ持ってようか?」
「えっ? あっ、ありがとう」

 歩果ちゃんからぽんぽんを受け取り、プラカードを渡す。

「それで、これはどこに持っていけばいい――」

 じっと視線を感じて歩果ちゃんを見ると、はたと目が合った。首を傾げる。

「……歩果ちゃん?」
 歩果ちゃんはハッと我に返ったように、早口で言った。

「あっ……ごめんね! 水波ちゃんって、本当に綺麗な顔してるなって思ってつい魅入っちゃった」
「えっ……!?」
 突然!?
「ぽんぽんすごく似合うね……」
 歩果ちゃんは、ぽ〜っとした顔をして私を見つめている。
「えっと……ありがとう?」

 お礼を言うのが正しいのか分からないけれど、とりあえず言っておく。

 ……歩果ちゃんとはほとんど話したことないけど、そういえばクラスでよく天然だと言われている子だった。と、そこまで思って、彼女がひとりでいることに気付き、首を傾げる。

 いつもなら、彼女のそばには必ず花野(はなの)琴音(ことね)ちゃんという親友がいる。歩果ちゃんとは正反対の、背が高くてサバサバした感じの子だ。

「そういえば、今日は琴音ちゃんと一緒じゃないんだね」
 会話の種にと思って何気なく訊くと、歩果ちゃんが言葉に詰まった。私から目を逸らし、小さく「うん」と頷く。
 今にも消え入りそうな声に、しまったと思う。聞いてはいけないことだったかもしれない。

 微妙な空気になってしまって、私は一歩後退った。

「……あ、えっと……じゃあ」
 しれっと踵を返して歩き出す。すると、制服の裾を掴まれた。

「――?」

 振り返ると、歩果ちゃんが控えめに私のティーシャツを掴んでいる。
「歩果ちゃん?」
「あの……水波ちゃん。もうちょっとだけ、私と一緒にいてくれないかな?」
「え?」

 歩果ちゃんはもじもじしながら、
「私、人混みが苦手で……いつもは、琴音ちゃんが守ってくれるんだけど、今日はその……喧嘩しちゃって」と言う。

 なるほど。そういうことだったのか。

 事情を察し、私は近くの教室の時計を見る。朝香との約束の時間まではまだ少しある。

「うん、いいよ」
 頷くと、歩果ちゃんの表情がぱあっと明るくなった。

 それから、私はしばらくプラカードを持った歩果ちゃんと一緒に構内を歩いた。

 これまで歩果ちゃんとは話したことはほとんどなかったけれど、穏やかな性格の子だった。喋り方もおっとりしていて、笑うと花のように可愛い。

 正直、とてもだれかと衝突するような気の強い子には思えない。歩果ちゃんは、どうして琴音ちゃんと喧嘩してしまったのだろう。

「ねぇ、水波ちゃん」
 ちょいちょいと歩果ちゃんに袖を引かれた。

「ん?」
「あれ食べない?」
 歩果ちゃんが指で指し示したのは、校門前にある屋台。
「……牛串?」

 屋台には、大きく『牛』の文字と絵がある。

 そういえば、うちの高校は普通科のほかにいくつか専門学科がある。農業科や調理科はいつもお店顔負けの()った出し物をするので、そこがうちの売りでもあったりする。

「宣伝付き合ってくれたお礼に奢るよ」
「えっ、いいよ……って、ちょっと歩果ちゃん!」

 歩果ちゃんは私の声も聞かず、屋台へ一目散に走っていく。牛串を二本買うと、私の元へ戻ってきた。買ったうちの一本をグイッと私に差し出し、微笑む。

「はいっ!」
 買われてしまっては、受け取らないわけにはいかない。このところ、奢ってもらう機会が増えたな、なんて思う。

「ありがとう……」
 礼を言いながら受け取ると、歩果ちゃんは嬉しそうに牛串にかじりついた。
 私も牛串にかじりつく。その瞬間、じゅわっと肉汁が口の中に広がった。

「!」

 私たちが今食べているこの子は、この日のために農業科が愛情たっぷりに育てた『ヨシヒコ』くんだという。一から育てた子牛をこうしてお肉にしてお客さんに提供までする農業科は、あらためてすごい科だと思う。

 ……気分的には、ちょっと食べづらいけど。

「美味しいね!」
「うん」

 屋台の端に寄ってふたりで牛串を食べていると、体育館前でたむろする女子の集団が目に入った。見覚えのある集団だった。

 あれは、たしか……。

 その集団は、バスケ部の子たちだった。中には琴音ちゃんの姿もある。

 すらりとした体躯に、さっぱりとしたショートカット。綺麗な二重の猫目で、長いまつ毛が瞬きのたびに揺れているのがここからでもよく分かる。

 ぱたりと目が合った。すぐに視線がわずかに逸れる。となりにいる歩果ちゃんに気付いたらしく、琴音ちゃんは驚いた顔のまま固まった。

 ちらりと歩果ちゃんを見ると、彼女もまた琴音ちゃんを見つめて、ぼんやりとしていた。琴音ちゃんはグループの子になにかを耳打ちすると、こちらへ駆け寄ってきた。

 話す気があるらしいと分かり、ホッとする。早々に仲直りできそうだ。

 しかし、
「……行こ、水波ちゃん」
「え?」

 歩果ちゃんのほうは琴音ちゃんが駆け寄ってきていることに気付いていないのか、歩き出してしまった。

「あ……歩果ちゃん! 琴音ちゃん、こっちにきてるみたいだけど、話したいことがあるんじゃないかな」

 校舎の中に入っていこうとする歩果ちゃんに、私は慌てて声をかける。

「いいから、行こっ」
「えっ、でも……」
 それでも歩果ちゃんは私の声を無視して、ずんずんと歩いていく。聞こえていないわけではないだろうに。

 仕方なく歩果ちゃんを追いかけ、校舎に入る。

 歩果ちゃんは、その後もずっとムスッとした顔をして歩いていた。口数も少ない。

 ……これはどうしたものか。

 少し喧騒が落ち着いた渡り廊下に出たところで、私は歩果ちゃんに「ねぇ」と声をかけた。

「……あのさ、歩果ちゃん。聞いてもいいかな」
「……なぁに?」
 くるりと振り向いた歩果ちゃんは、不機嫌な感じはしない。
「琴音ちゃんとどうして喧嘩しちゃったの?」

 私の問いに、歩果ちゃんは少しだけ目を泳がせた。
「言いたくなかったら言わなくてもいいんだけど、ふたりってすごく仲良しだったから、ちょっと気になって」
「……こっち、きて」
 そう言うと、歩果ちゃんは廊下の端に寄り、プラカードを手すりに立てかけた。私も歩果ちゃんのとなりに並ぶ。
 歩果ちゃんは手すりに寄りかかり、行き交う学生や父兄を見つめながら、小さな声で話し始めた。

「……今日の文化祭ね、ずっと前から琴ちゃんと一緒に回ろうねって約束してたの。でも、先週になっていきなり琴ちゃんが、別のクラスのバスケ部の子も誘っていいかなって言ってきたんだよ。私が人見知りなの、琴ちゃん知ってるのに」
「……それで、喧嘩しちゃったの?」

 歩果ちゃんはこくりと頷く。

「私、琴ちゃんとふたりで回れるってすごく楽しみにしてたんだ。昨年はべつのクラスで、スケジュールが合わなくてあんまり一緒にいられなかったから。それなのに……琴ちゃんはぜんぜんそんな気なかったみたいで……そう思ったら、なんかすごく寂しくて」

 小さな声で言いながら、歩果ちゃんは不貞腐れたように頬をふくらませた。
 元々白くてふくふくしている頬が、さらにぷくっとした。
 歩果ちゃんは続ける。

「……だから、やだって言ったの。ふたりで回る約束でしょって。……そしたら、琴ちゃん怒っちゃって…… じゃあ歩果とは回らないって。それから、話してくれなくなっちゃったんだ」

 歩果ちゃんはぎゅっと唇を引き結んで、涙をこらえている。
「……そっか」
 親友と喧嘩してしまったことを後悔し、瞳をうるませる歩果ちゃんの様子に、私は懐かしさに似た感情を覚えた。

 私も、来未といた頃はよく喧嘩をしていた。
 いつもはっきり物事を言う来未と違って、私はうじうじ悩むタイプだったから。来未の自己主張に対して、それに言い返すこともできない私は余計に来未を怒らせていた。

 でも、喧嘩をすると、いつもあの子が間に入ってくれたから、なんとか仲直りできていたのだ。
 ……あれ?
 かつての思い出を回想するうち、かすかな違和感を覚える。
 あの子って、だれだっけ……?