「……一昨年の沖縄の海難事故、知ってる?」
「……フェリーが岩場に座礁して、沈没したやつだよね?」
少し黙り込んでから、綺瀬くんが答えた。
私は静かに頷き、続ける。
「私ね、あれの被害者なの。一昨年の夏休みにね、親友とふたりで沖縄に旅行に行ってた。……それで、あのフェリーに乗って、事故に遭った。結果、私だけ助かって親友は死んだ。……まぁ、簡単に言ったらそういうこと」
「…………」
綺瀬くんは黙り込んだ。
当たり前だ。
こんなの、他人からみたらあまりにも重過ぎる内容だし、私だって、本当に助けてほしくて話したわけじゃない。ただ、軽く説明すればいくら綺瀬くんでもそれ以上ツッコんではこないだろうと思ったから話した。
沖縄のフェリー海難事故は、二年前の今日、八月九日に起こった。
二○二五年、沖縄の沖合でフェリーが岩場に座礁し転覆、沈没する事故があった。
その日は濃霧により視界が悪かったため、一時は欠航になるかと思われた。しかし、フェリーは一時間遅れで出航してしまった。
……もしあの日、あのまま欠航になっていれば、と何度思っただろう。
出航してまもなく、視界不良による操縦ミスでフェリーは岩場に座礁。船体は横倒し状態のまましばらく海上を流れた。
その後、損傷部から海水が船内に流入し、フェリーは乗客と乗員を乗せたままゆっくりと沈没を始めた。
結果、フェリーに乗っていた二十二人の乗員乗客のうち二十人が死亡、うちひとりが今も行方不明のまま。多くの犠牲者を出し、ニュースにも大きく取り上げられた事故だった。
あの事故で助かったのは、フェリーに取り残されて沈没直前に助け出された私だけ。
海上保安庁の潜水士が私を助け出した直後、フェリーはひとりの乗員を取り残したまま、渦を巻いて海の中に消えていった。
事故発生から、約一時間半後のことだった。
「あの日、私は来未と一緒に乗ってたんだ。でも、来未だけ海に落ちちゃって……ライフジャケットを着ていなかった来未は遠くまで流されて、発見されたときにはもう……。……結局、私だけ助かっちゃった」
目を閉じると、今でも来未の声が聞こえてくるような気がする。涼やかな、夏の風鈴のような彼女の声が。
もちろんそれはただ気がするだけで、実際には聞こえない。目を開いても、来未はどこにもいない。この世の、どこにも。
指先が白くなるほど、手を握り込む。
「……今日、来未のお墓に行ったの」
綺瀬くんが、柵の向こうに落ちている仏花をちらりと見る。
「そうしたら、来未のママと会っちゃって……あなたが死ねばよかったのにって言われたんだ。あの子を返してって、泣きながら私に詰め寄ってきた」
足が竦んだ。怖くて怖くて、たまらなかった。
視界が滲む。俯き、一度瞬きをすると、雫が膝の上にぽっと落ちる。
「私……怖くて……だって、来未のママのあんな顔初めて見たの。事故の前まではすごく優しい人で、声を荒らげるところなんて、一度も見たことなかったのに……」
あそこまでだれかに恨まれるのははじめてだった。
血走った目。わなわなと震える拳。
穏やかでいつもニコニコしていた来未のママが、あんな顔をするだなんて、あんなふうに怒鳴るだなんて信じられなかった。
「来未のママにあそこまで憎まれているだなんて、今日までぜんぜん知らなかった。でも、考えたら来未のママの態度は当然のことだよね」
だって、なにより大切な娘を失ったのだ。
来未のママにとって、私は娘を奪った人間。娘を殺した人間。私は、殺したいほど憎まれて当然の人間なのだ。
「……だから、死のうとしたの?」
目を伏せ、頷く。また雫がぽろっと落ちた。
こんなに苦しいのなら、助からなきゃよかった。あのとき、来未と一緒に死んでしまえばよかったんだ。
そうしたら、こんな苦しまずに済んだのに。
「……もう、終わりにしたかった。死んだら、楽になれると思ったの」
逃げたかった。でも、生きている限りこの現実は変わらない。
……ならば。
どこに行ったって、逃げ場所がないのなら、もう死ぬしかないではないか。
「……まったくバカだなぁ」
空に向かって、あの子の真似をして大きな声で言う。
「え……?」
綺瀬くんが、戸惑いがちに私を見た。
「……来未の口癖だったの。私が落ち込むと、いつもとなりでバカだなぁって言って笑ってた。笑って、気にするなって言ってくれたんだ。そうしたら私も笑って、うん、そうだねって笑い飛ばすことができたの」
でも……ここにはもう、そう言ってくれる親友はいない。来未は私のせいで、死んだ。
「私、なんで生きてるんだろ……」
再び目の奥がじんわりと熱くなる。
生きることがこんなに辛いだなんて思いもしなかった。
あの事故がなければ、こんな感情は知らずに生きられたのに。
幸せに笑っていられたのに。
……あの事故をなかったことにできたら、どれだけよかっただろう。
そんなことはできない。分かっている。だから、私は。
「……死にたい」
荒波のように迫り来る孤独に耐えるようにぎゅっと目を瞑る。すべてを遮断しようとしたとき、頭上から、ふと光の雨のような声が降ってきた。
「それは違うよ」
顔を上げると、綺瀬くんが私の手をそっと握った。
「君は死にたいんじゃなくて、この苦しみから逃れたいだけだよ」
この……苦しみから。
「……でも、生きてる限りそんなの無理だよ……っ!」
「そうかな? そんなこと、ないんじゃないかな」
「どういうこと……?」
首を傾げると、綺瀬くんは私をまっすぐに見つめて言った。
「だって君は、助けられたから生きてるんだよ」
「助けられたから……生きてる……?」
優しい顔で私を見る綺瀬くんがいる。吸い込まれそうなほど、澄んだ瞳をしていた。まるで、水の惑星そのものを閉じ込めてしまったかのような。
「……せっかく助けられた命なんだから、無駄にしちゃダメじゃん」
ドラマやなんかでよく聞くような、ありきたりなセリフだと思う。けれど、その言葉はなによりもあたたかく、私の胸にじわじわと沁みていく。
「でも、やっぱり話を聞いてよかったよ」
「……え?」
「君はただ、苦しみから逃げたかっただけ。君にとって、苦しみから逃れるための選択肢のひとつに、死ぬことがあって、君は間違ってそれを選んでしまっただけなんだ」
「選択肢……?」
「そうだよ。でも、死なずに君の苦しみが消える方法だってきっとあるはず。それを一緒に探そう」
爽やかな微笑みをたたえて、綺瀬くんが告げる。
その笑顔に、思わず言葉を失って見惚れる。
返す言葉も忘れて呆然としていると、綺瀬くんはかき氷のカップを傾け、溶けたそれを喉に流し込んだ。
「ひゃ〜っこいっ!! 頭がぁっ!」
かき氷を食べたとき特有の頭痛に叫ぶ綺瀬くんを、呆れて見つめる。
「一気に飲むからだよ」
「んーっ、でもうまい!」
痛みが落ち着いたのか、綺瀬くんはからりと笑った。
「……まったく、子供みたい」
「ははっ。ねぇ、俺の舌どうなってる? 赤くなったでしょ?」
と、綺瀬くんは私に顔を近付け、舌を出した。
「ちょ、なに。いきなり近っ……」
咄嗟に身を後方へ避けると、バランスを崩した。
「わっ……!」
バランスを崩し、ベンチから落ちそうになる私を、綺瀬くんが掴み、抱き寄せる。
「……大丈夫?」
すぐ耳元で声がして、うわ、と思う。
私は、綺瀬くんに抱き締められていた。
「……だ、大丈夫。ありがと」
身体を離しながら、熱くなった頬を押さえた。
そんな私を見て、綺瀬くんはにっこりと微笑んでいる。
……不思議な人だ。
初対面なのに、私が死ぬのを力づくで止めて。
無理やり私の心に土足で踏み込んできて。励ましてくれて、食べ物まで与えてきて。
……でも、嫌じゃない。というか、初対面なのにこんなにも安心感があるのはなんでだろう……。
涼し気な藍色の浴衣と、赤いきつねのお面。いまどきの高校生らしくない、落ち着いた言動。話せば話すほど、不思議な人だと思う。
綺瀬くんは、しばらく日が暮れて落ち着いた色の街並みを眺めていた。
「……さっき、君に触れて、君が生きていることが実感できて、よかった」
綺瀬くんはそう、しみじみとした口調で言った。見ると、綺瀬くんは静かに涙を流していた。
「綺瀬くん……?」
驚き、私は息を詰める。
どうしてあなたが泣くの。どうしてそんなに、私のことを心配してくれるの。あなたは、なんなの。
綺瀬くんの涙は、私の心まで揺り動かした。
「……あのね、水波。心が死んでいくのは、目では見えないんだよ」
「え……?」
「だから、手遅れになる前にだれかに助けを求めなきゃダメなんだ」
助けを、求める。
まっすぐな視線から、目を逸らす。
「自殺というのは、心が死んだ人がする行為だから」
低い声にどきりとしてもう一度綺瀬くんを見ると、彼は少し責めるような眼差しで私を見ていた。
私は綺瀬くんから視線を外し、手元を見る。
「……自殺はいけないって言う綺瀬くんの気持ちは分かるよ。でも、私には、そんなことを考えてる余裕なんてなかった。とにかくこの状況から逃げたかったの。私だけまだ生きているのが辛かったから」
綺瀬くんが、寂しげな眼差しを私に向ける。
「でも、もし俺が来未ちゃんだったら、水波だけでも助かってよかったって思ってると……」
「やめてよ」
静かに綺瀬くんの言葉を遮る。
「そういうの、いらないから」
綺瀬くんが息を詰めるのが分かった。見ず知らずの私にこんなによくして、話まで聞いてくれている人に、私はなんてひどい言葉を投げているのだろう。
頭では分かっているのに、でも、止められない。
「なにを根拠にそんなこと言えるの? 死んだ人の気持ちなんてだれにも分からないじゃない! 勝手なことを言わないで」
心臓がどくどくと騒ぎ出す。一瞬にして全身から酸素が消失したように息苦しくなった。
「ごめん、水波……」
違う。謝ってほしいわけじゃない。
「私は……」
身体を折り曲げ、両手で自分を抱き締める。
私は、だれかにそんなことを言ってもらえるような人間じゃない。
「私は……私は」
苦しい。息ができない。まるで、水の中にいるみたいだ。
過呼吸のようになって、背中を丸めた。
「はぁっ……」
「水波、ごめん。大丈夫だから落ち着いて」
綺瀬くんが優しく私の背中をさすってくれる。
「大丈夫だから、ゆっくり息を吸って」
苦しい。息が、できない。
あのときの来未も、こんな感じだったのだろうか。こんなふうに、苦しんだのだろうか……。
どれくらいそうしていただろう。過呼吸が治まる頃には、空はすっかり藍色になっていた。
こめかみを汗がつたい落ちた。
「……毎日、あの日のことを夢に見るんだ」
「……うん」
綺瀬くんは控えめに相槌を打ってくれる。
「来未が流されていく夢。来未が必死に助けを求めてくるのに、私は一度だってその手を取れないんだ」
あの日からずっと、水の音が……来未の声が頭から離れない。
夢の中で、来未は遠くへ流されていく。
流されながら来未は、助けてと私に必死に手を伸ばすのだ。私も一生懸命来未へ手を伸ばすけれど、届かない。
来未はどこまでも、どこまでも流されていく。
「私はあのとき……必死に助けを求める来未の手を離した……」
あの光景は、いまだに鮮明に焼き付いたまま、私を責めたてる。
「あのとき私は、たしかに来未の手を一度掴んだ。それなのに私は、来未の手を、すがりついてくる彼女の手を離しちゃった……」
その事実は、私と来未しか知らない。
海上保安庁の人も、来未のママも、家族すら知らない。言えない。
怖くて、とても口になんてできなかった。
これは、今この世界で私しか知らない真実だ。
「来未はきっと、私が手を離したことを恨んでる。私がちゃんと握っていれば、来未を引きあげていれば、来未は、私と一緒に助かったかもしれないんだから」
夢の中で、来未はいつも苦しそうに顔を歪ませて、海の底に沈みながら溺れ死んでいく。
来未が波に呑み込まれたあとのそんな光景を見た記憶なんてないのに。私の脳は勝手にその映像を作り出しては、リピート再生する。
「……夢の中でいくら手を伸ばしても、来未は遠くへ行ってしまう。私を責めたてるみたいに、手だけを海面に出して」
分かってる。手を離した私が悪いんだ。来未はきっと私を恨んでる。だから、今も夢に出てくるんだ。
最近は来未のことまで忘れたいと思うようになってしまった。
だって、眠れないから。
苦しくてたまらないから。
「命で償うしか、もう私には選択肢なんて残されてないんだよ」
呟くように言うと、
「……ダメだよ」
綺瀬くんが私の手を両手で包む。
「死んじゃダメ。だって、君が自殺したら、君は彼女をもう一度殺すことになる」
「……もう、一度?」
「そうだよ。だって、死んじゃった人は、生き残った人の思い出の中でしか生きられないんだから」
とても寂しそうな声をしていた。
「ねぇ、よく思い出してみて。君の親友は、君に恨み言を囁くような人だった? 君を責めるような人だった?」
「それは……」
ふと思い出す。
そういえば、この人も大切な人を失っているのだと。
遠くを見つめるその横顔は、悲しいほど美しい。もしかしたら綺瀬くんも今、遠くにいるその人のことを想っているのだろうか。
「……苦しくないの? 綺瀬くんは、その人を思い出して」
「……苦しいよ。でも、俺にはもう想うことしかできないから。なにがあっても、忘れたくないって思うんだ」
悲しげに笑う綺瀬くんに、言葉を失う。
でも、たとえそうだとしても。
「……私は、綺瀬くんみたいにはなれないよ」
私には、亡くなった来未をそんなふうに想い続けることはできない。
だって、
「私は、そんなに強くないもん」
「水波……」
「……話、聞いてくれてありがとう。……りんご飴も」
じゃあね。
そう言って立ち上がり、石段へ向かう。すると、一度離れたはずの手が、パッと掴まれた。
振り返ると、今にも泣きそうな顔をした綺瀬くんと目が合う。
「な、に……?」
「強くないよ、俺だって。だからここにいるんだ」
掴まれた手に、ハッとする。綺瀬くんの手は、かすかに震えていた。
「本当は俺も、君と同じ。ひとりが寂しかったんだ。寂しくてたまらなくて、死のうかと思ってた。そうしたら、君を見つけた。君を助けたのは……似たもの同士だったから」
「え……」
「本音を言うよ。本当は、俺が水波を助けたのは、俺のため。君に、そばにいてほしいって思ったんだ。……俺も今、寂しくて死にそうだったから」
顔を上げて綺瀬くんを見て、私は息を呑んだ。綺瀬くんは、静かに涙を流していた。
「えっ……ちょっと……」
私は慌ててポケットからハンカチを取り出す。
「はは。ごめん。なんか急に涙が出てきちゃった。……まったく、男が泣くなんて情けないよな」
片手で乱暴に涙を拭いながら、綺瀬くんは力なく笑った。
「……そんなことない。泣きたいときは、だれにだってあるよ」
「……ん」
はにかんだ綺瀬くんは、今にも消えてしまいそうで。私は、思わずその手を握り返した。
「……いいよ、いる」
「え?」
綺瀬くんが驚いて顔を上げる。私は潤んだ声でもう一度言った。
「私が、そばにいるから」
言いながら、唐突に思った。
きっと、私はこんなふうにだれかに寄り添ってほしかったんだ。お互いを心から欲しがって、寄り添い合えるだれかに。
私はきっと、ずっとこの人を待っていた。
いつの間にか、私は綺瀬くんの手を握ったまま眠りについていた。
綺瀬くんのとなりは、優しい香りがしてあたたかな毛布に包まれているような心地がして。
事故の後初めて、私は来未の夢を見ることなく、ぐっすりと眠った。
ふと目を開けると、満天の星空が見えた。
目の前に広がる夜空は霧が晴れたようにすっきりとしていて、星が溢れんばかりに輝いている。
星? なんで……。
「あ、起きた?」
すぐ近くで、声がした。
ハッとして振り向くと、浴衣姿の男の子と目が合った。綺瀬くんだ。
「わっ!」
驚いて少し身を離すと、手が繋がれていることに気付く。慌てて離し、綺瀬くんから距離をとった。
「ごっ、ごめん! 私、寝ちゃって……」
自分で言いながら、驚いた。
今、何時? うそ、私どれだけ寝てた!?
見回せば、空はもう真っ暗だ。
こんなに眠りこけるなんて有り得ない。
いつもは眠っても数十分で悪夢にうなされるのに……。
「気にしないでいいよ。俺ものんびりできたし。こんなに穏やかな日は久しぶりだったから」
そう言って、綺瀬くんはくんっと両手を空へ伸ばした。
「……もしかして、ずっと手を繋いでてくれたの?」
訊ねると、綺瀬くんはちょっと申し訳なさそうに笑って、首を横に振った。
「ううん。一回離したんだ。でも、その後ちょっとうなされてるみたいだったから、心配でもう一回握った。そうしたらすっと眠ったようだったから、それからはずっと」
つまり、ほぼずっと綺瀬くんは私に付き合っていてくれたらしい。
「……ごめん」
いくら寝不足だったからって、初対面の人の手を握ったまま眠るなんて有り得ない。
落ち込んでいると、くつくつと笑う声が聞こえた。
「なんで謝るの。そこはありがとうって言ってほしかったかな。俺こそ、こんな美人と添い寝できるなんてラッキーだったんだから」
あっけらかんとした口調に、小さく笑みが漏れた。
「……なにそれ」
笑いながら綺瀬くんを見ると、綺瀬くんはふっと目を閉じて、空へ顔を向けた。月明かりに照らされたその横顔は、ハッとするほど涼しげで美しい。
「俺も、君のぬくもりに慰められたよ。だから、本当にお互い様だよ」
「……そっか。それなら、よかった」
空を見上げ、目を閉じる。
すうっと鼻から息を吸い込む。身体が軽い。頭がすっきりしている。
こんなふうに深い眠りについたのは、事故以来初めてのことだった。
「……ずいぶん、寝不足だったんだね」
控えめに、綺瀬くんが言った。目を開けて、綺瀬くんを見る。躊躇いつつ、小さく頷く。
「……いつも来未が夢に出てきて、ほとんど眠れなかったから」
綺瀬くんがもう一度、私の手を握る。どこまでも澄んだ瞳が、私を映し出す。
「……じゃあ、眠くなったらここにおいで」
「え?」
「俺はいつでもここにいるから。眠くなったら、手を握っててあげる。だから、君のぬくもりを俺にも分けて」
言われて初めて、その手がひんやりしていることに気付いた。
こんなに暑いのに……。
綺瀬くんの手はなぜか、なにかに怯えるように震えている。
「あなたも、寂しいの? あなたも、孤独なの?」
綺瀬くんは静かに微笑むだけで、なにも言わない。
不思議だ。今日出会ったばかりの同じ歳くらいの男の子なのに。
名前以外、お互いに大切な人を亡くしたということ以外、なにも知らないのに。
家の場所も、通っている学校も。
なにも知らないのに。
でも、でも……。
「……ありがとう」
私はその手を、ぎゅっと強く握り返した。
***
それから数日後の夕方。
私はまたあの神社の先にある広場にいた。
石段に沿うようにつけられた提灯を見ながら、神社の鳥居を目指す。
神社を抜けて、その奥にある石段をさらに登っていくと、街を一望できる広場に出る。その一角にあるベンチに綺瀬くんがいた。
ホッとして、そっとベンチに向かう。
「やぁ。また来てくれたんだ」
綺瀬くんは私に気が付くと、読んでいた本を閉じて、ベンチをとんとんと叩いた。
「おいで」
私は素直にとなりに座る。
「本……読んでたの?」
緊張しながら話しかける。一度泣き顔を見られているせいか、ちょっと落ち着かない。
「ううん。開いてただけ」
「え、開いてただけ……?」
綺瀬くんを見ると、綺瀬くんは恥ずかしそうに笑って、頬を掻いた。ほんのり頬が赤くなっている。
「本を読んでるふりしながら、水波を待ってた」
「え、私を?」
綺瀬くんが苦笑する。
「……寂しくて。でも、昨日も一昨日も来なかったし、もしかしてもう来てくれないのかなぁって思って、ちょっと落ち込んでたところ」
ぱたん、と本を閉じて、綺瀬くんは私を見た。どきりとして、思わず目を逸らしてしまう。
なんだろう。目を合わせるのが、恥ずかしい……。
「……ごめん。何度かその、表の神社までは来たんだけど」
「だけど?」
「その、なかなか勇気が出なくて……」
すると、綺瀬くんがふっと笑う。
「……そっか」
会いたいけど、会いたくない。
そう思ってしまったのだ。だって、言われたとおりに甘えてここに来て、もし綺瀬くんがいなかったら。
私は、今度こそ生きていける気がしない。
「おかげで俺は、毎日寒くてたまらなかったんだけど」
「あ……」
綺瀬くんは膝の上で手を組んだ。
あの日のぬくもりを思い出す。夏の陽の下にいるとは思えないほど冷たい手。なにかに怯えるように、震える手……。
そういえば、綺瀬くんも私と同じだったのだ。綺瀬くんも寂しくて、私のぬくもりを求めていたのだった。
それなのに、私はまた自分のことばかり……。
「……ねぇ綺瀬くん。手、繋いでもいい?」
おずおずと声をかける。
「え?」
綺瀬くんは、驚いたように私を見た。私はハッとして、立ち上がる。
「あっ……い、いや、なんでもない。ごめん、今のは、忘れて」
いたたまれなくなって逃げ出そうとしたとき、パシッと手を掴まれた。
「待って」
引き止められ、足を止める。
「……せっかく来たのに、もう帰るのはなしでしょ」
「でも……」
「もう少し、そばにいてよ。お願い」
縋るような声に、私はもう一度綺瀬くんのとなりに座り直した。すると、綺瀬くんがぎゅっと私の手を握り直す。少しかさついた指先が、くすぐったい。
「……うん。私も、ここにいたい」
あぁ、そっか。
寂しいのは私だけじゃないんだ……。
ひんやりとした手を握り返して、目を閉じる。
「……私ね、綺瀬くんのとなりなら、ちゃんと眠れるの」
あの恐ろしい悪夢を見ずに、ぐっすりと眠ることができる。なぜかは、分からないけれど。
「……違うよ。俺が手を繋いでいれば、でしょ。俺もそうだから、分かる。俺も、君と手を繋いでいると、ぜんぜん寒くないんだ。やっぱり俺たちは、似たもの同士なんだよ」
そう言って、綺瀬くんはにっこりと笑った。
「……うん、そうかも」
身を寄せ合って、手を握り合って、目を閉じる。
静かに、波が引くように、私はゆっくりまどろみへと落ちていく。