凛とした朝の冷たい空を吸い込むと、
急に忘れかけていた切なさを思い出した。

黒いマフラーのフリンジを揺らして君が微笑み、
距離が縮まった、あの瞬間が鮮明に蘇った。
だけど、もう、その日から、
あまりにも離れたところまで来てしまったのは、
わかっているんだ。
だけど、今でも、君のこと忘れられないや。





「別に不安なんか、吹き飛ばせばいいんだよ」
 小田切(おだぎり)くんはそう言って、微笑んでくれた。そのあとすぐ、冷たい風が吹き、雪予報のいつものホームはものすごく冷たくなった。

 私はいつも乗っている電車に乗らずにベンチに座っていると、小田切くんが私の隣に座った。
 私も小田切くんも制服姿なのに、学校に行く概念を忘れてしまったみたいに、行き先が表示されている電光掲示板のデジタル時計だけが、ただ、いたずらに進んでいた。
 
「そんなこと、できる人って羨ましいな」
 皮肉のつもりでそう返し、小田切くんを睨むと、小田切くんは、なにに対して面白かったのか、わからないけど、ふふっと私のことを笑った。
「怒るなよ、萌夏(もか)ちゃん。ココア、コーヒー、カフェオレ、どれがいい?」
「ココア」
 そう返すと、小田切くんはバッグからiPhoneを取り出し、立ち上がった。そして、数歩先にある自販機までいった。ピッと甲高い電子音が2回なり、自販機が雑になにかを落とす音も2回した。
 飲み物と私の名前を並べてほしくないって思ったけど、きっと、小田切くんはそんなこと、気にもせず、考えてもいないと思う。
 そんなことを考えているうちに、小田切くんは、なにかを2つ買って、またベンチに戻ってきた。

「ほら、お詫び」
「へえ、優しいね」
「お礼くらい、言えよ」
「――ありがとう」
 小田切くんから、缶のココアを受け取った。缶は熱くて、冷たくなった手が、じんじんする感覚がした。小田切くんは、缶のブラックコーヒーを左手に持ち、そして、ブルリングを引っ張り、缶を開けた。気持ちいい音がしたあと、できた穴から、かすかに湯気が立っていた。
 だから、私も同じように缶を開けたあと、そっと缶を唇につけて、飲んだ。

「頑張ってる方だと思うよ。こんなことになってるのに」
「なに? 彼氏面したいの?」
 缶を唇から離し、そして、小田切くんを睨んだ。小田切くんは黒のマフラーにグレーのコートを着ていた。重めの黒髪マッシュは今日もきれいに決まっていたし、二重まぶたで、こぶりな鼻、しゅっとしたフェイスライン、すべてが完璧なバランスだった。
 二重まぶたを細めるだけで、アンニュイな世界になるし、小田切くんの寂しそうな表情は、冬の中でも十分輝いていた。
 だから、小田切くんはモテるし、クラスで居場所をなくした2軍の私になんか、話しかけなくても、十分、満たされた生活をしているはずだと思う。

「違うよ。口説いてるだけだよ」
「――朝から元気だね」
「萌夏ちゃんが元気なさすぎなんだよ」
 ほっておいてよって言って、立ち去ろうと思った。そう思って、もう一度、電光掲示板の時計を見ると、もう、お互いに学校には間に合わない時間になり始めていた。
 なんか、小田切くんを遅刻させておいて、しかも、ココアおごってもらって、勝手に立ち去るなんて、ひどいかもと思い、私はもう一度、ココアを一口飲んだ。

「小田切くん、学校、遅刻するよ」
「いいよ。そんな暗い顔して、座ってる萌夏ちゃんのこと、ほっておけるわけないじゃん」
 そう得意げに言って、小田切くんはブラックコーヒーをもう一口飲んだ。小田切くんには、前にも二度、ちょっかいを出されたことがあった。一度目は、放課後、忘れ物をして教室に戻ると、小田切くんが座っていた。そのときも話しかけられたけど、数往復の当たり障りない会話をして、終わった。
 二度目は、バイト先のコンビニでレジをしていたら、21時50分に客として現れ、そして、22時にバイト先のコンビニをあがって、店を出たら、小田切くんが店の前で待っていた。
 どうして、シフト終わりわかったの? って聞いたら、『未成年は22時以降、働けないだろ。そんなのバレバレだよ』と言って、笑って返してきた。小田切くんは変に頭が切れていて、変に洞察力が鋭い。
 そして、小田切くんと帰っているとき、気がついた。小田切くんは私のことを勝手に馴れ馴れしく『萌夏ちゃん』と名前呼びしていた。

 小田切くんは、頭が切れて、会話のとっさの返しもうまいから、クラスの一軍にも人気があるし、クラスの中心人物に違いないなんだけど、なぜか、陰キャばかりが揃っている図書局に入っていて、週に1度、図書室で当番をしているらしい。
 そのギャップで、小田切くんは、クラスでは不思議なところあるよねって、よく言われている。

「変わってるよね。小田切くんって」
「そうかな。まわりが言うほど、変わってないと思うよ。むしろ、俺からしたら、みんなの方が変わってるよ」
「えっ。どういうこと?」
「だってさ、ギャーギャー騒いで、噂話して、なにかネタになることがあると、それでまたギャーギャー騒いでさ。俺には真似できないな」
 小田切くんだって、ギャーギャー騒いでいる方じゃん――。
 そう思いながら、ココアをもう一口、飲んだ。口いっぱいに甘さが広がったのを感じながら、小田切くんって本当によくわからないなって思った。

「だから、バイト禁止って学校もよくわからないけどな。それで、まわりもギャーギャー言っても仕方ないじゃん。なのに、騒いで萌夏ちゃんのことをバカにする。俺には、よくわからないな」
「――だよね」
 先々週、意地悪な1軍女子軍団、4人に囲まれて、『バイトやってて、なにになるの?』と問い詰められた。そこから、陰口を言われるようになり、私はクラスで一気に孤立した。そうなった原因はわかっている。小田切くんと、あの夜、コンビニからの帰り、駅前で1軍女子のひとりとばったり会ってしまったからだった。
 それは完全に勘違いだし、しかも1軍女子のリーダーが小田切くんに想いを寄せていることも知っていた。だけど、これは私の意思で小田切くんとふたりきりになったわけじゃないのに、クラスで1.5軍の中途半端なポジションの私は、簡単に1軍からの圧力が来るようになってしまった。

「バイトなんて、黙ってやってるやつなんて、何人もいるのにさ、萌夏ちゃんだけ、やるって完全に当てつけじゃん」
「当てつけで簡単にクビになるし、ホント、最悪だよ」
「だけど、なんでクビになったの?」
「学校から、バイト先に電話いって、それでオーナーが仕方ないけど、学校に許可とれないなら、うちは無理だわって言われた」
「へえ。ひどい話だな」
「他人事みたいなんだけど」
 右隣にいる小田切くんを睨むと、「悪い」と小さな声でそう返してきた。そして、また小田切くんがブラックコーヒーを飲んでいる途中で、私たちが乗る予定だった電車の3本あとの電車がホームに入ってきた。窓の内側に広がる車内には、多くの人たちが立ち、つり革を掴んでいた。そして、電車が止まる衝撃で、みんな同じ方向に軽く揺れたあと、ドアが開いた。

「ただ、萌夏ちゃんは悪くないよ。他のやつらより、冷静だし、大人っぽいよ」
「――ただ、小遣い稼ぎしたかっただけだよ」
「いいじゃん、真っ当な方法選んでるんだし」
 そう言われて、少しだけ見栄を張って、嘘ついたことがすぐに嫌になってしまった。なんでかわからないけど、小田切くんになら、本当のことを言ってもいいかなって思った。

「ごめん、嘘」
「嘘?」
「本当は県外の大学行くために、ひとり暮らし用の資金貯めてる」
「あー、だと思った」
「えっ?」
「だって、派手じゃないし、こないだ会ったときも質素な服装だったし、なにに使ってるんだろうってちょっと思ったから、安心した」
 また、独特の頭の切れのよさを見せつけるかのように小田切くんはそう言った。その間に、聞き慣れたメロディが流れたあと、ドアが閉まり、電車がゆっくり動き出した。ステンレスで銀色の電車が、すっと加速していき、轟音を立て、あっという間に私たちの、目の前を通り過ぎた。

「あーあ、マジやってらんないよな。頑張っても水を差してくるヤツもいるし、無理しても報われないってさ、どうかしてるわ」
「――そうだね」
「孤独で寂しくなったら声、かけてよ」
「えっ?」
「それに、俺もこんな状況になってる萌夏ちゃんみるのは、嫌だな」
「――そうなんだ」
 私はどう、リアクションを取ればいいのかわからず、とりあえず、同調しておくことにした。その間に急に心拍数はあがり、なぜか鬱陶しかったはずの小田切くんのことを意識している自分がいることに気がついた。それを悟られないようにしようと思い、ココアをまた一口飲み始めている途中で、また冷たくて強い風が吹いた。そして、急に灰色の空から、綿のような雪が無数に舞ってきた。

「これ、電車とまるんじゃね?」
「まだ、降り始めたばかりじゃん」
「どうせ、今日、学校行っても、帰宅難民になるかもな」
「学校行かない理由、つくってるだけでしょ」
「それもある」と言って、小田切くんは弱く微笑んだ。そして、また強くて冷たい風が吹き、小田切くんの黒いマフラーのフリンジが揺れた。私は寒くて、思わず身震いをすると、小田切くんはそんな私のことを「寒がってるじゃん」と言って、笑った。

「なあ」
「なに?」
「好きになっちゃった」
「えっ」
「身震いして、肩上げてるの、めっちゃかわいい」
 私は、どうすればいいのかわからず、とりあえず前を向いたまま、無数の白い粒を眺めることにした。





 だけど、小田切くんとは付き合って、1年くらいで別れてしまった。
 高校を卒業して、別々の街に住み始めて、すれ違った連絡はそのままになって、そして、君との恋は消えた。

 今、仕事が終わり、大勢の人たちと一緒に、iPhoneを片手に、人差し指で情報をダラダラと流し読みしながら、電車を待っている。吸い込む息は冷たく凛としていて、ヘトヘトの身体が余計重く感じた。

 『今夜から最強寒波襲来 積雪に注意』

 大学に入ってからは、私はもう一度、付き合った恋が消えて、今、3人目の彼と付き合っている。
 あれから5年近く経ち、私はすでに大学も卒業し、灰色の都会で、群衆の中、ひとりの社会人になった。
 そこそこのお金をもらって、そこそこの暮らしで、たまにささやかに楽しみ、生活を維持できたらいいやって思っている。
 
 未だに夢や目標とか、自分がやりたいこととか、よくわかっていない。とにかく、生活をしなければならないから、ビル街のオフィスで事務を黙々とこなしているだけだ。

 そして、QOLを意地でも、維持するためにどんなにヘトヘトになっても、自炊はするようにしている。

 帰ったら、トマトとレタスのサラダだけ、準備して、昨日パン屋で買ったベーコンエピを食べよう。そして、ぐっすり眠って、明日の休みで疲れをとろう――。
 そんなことを、考えているうちに比較的速いスピードで電車が冷たい風を作った。




 あのとき、すれ違わなかったらって思う時がある。
 改札を抜けて、小さな駅から、アパートまでのいつもの路地を歩き始めた。心細い白色LEDで路地は照らされていて、ひっそりとしていた。私はパンプスをコツコツさせながら、黙々と闇を進んだ。

 そして、冷たい向かい風がぶわっと吹き、私の髪は一気に乱れた。そのあと、あのときと同じように無数の雪が降り始めた。白いLEDに照らされた雪はちらちらとしていて、それがよりひとりであることを実感させられているくらい、寂しくなった。
 私の小さな嘘も、なにも考えずに言った本音を、しっかり受け止めてくれる人は、まだ小田切くんしか知らない。5年経った今でも、たまに小田切くんって本当に優しくて、私のことを考えてくれてたんだって、今でも強く思う。

 iPhoneをバッグから取り出し、LINEを起動した。そして、数年前で時が止まったままのタイムラインを表示した。

 《いままで、ありがとう ごめん》 
 最後は君からのメッセージで終わっていた。 
 都合がいいのはわかっているけど、ただ、もう一度、私は君に話しかけてみたくなった。
 
 《久しぶり 雪、降ってるの見て、急に思い出したんだ》

 あの日、雪が降るホームで『孤独で寂しくなったら声、かけてよ』って言ったよね。
 すぐ、メッセージの横に既読がつき、またあの日みたいに私はドキドキし始めた。