高校の図書室に足を踏み入れた。

 その中に入ってから聞こえた音は、かすかな春風の音だけ。それ以外は何も聞こえない無の空間だ。

 生徒はいつも通りまばらだった。ぽつんぽつんと席が埋まっているぐらいだ。それも、多くの人が図書室にある本を読んでいるのではなく、教科書やノートを広げ、勉強をしている人たちだった。

 私はその姿を横目に、何冊も何冊も並んでいる本棚からある一冊の本をそっと手に取った。ずっしりと重い。

 ――伊勢物語。

 それは平安時代前期に成立した有名な古文だ。大和物語、平中物語と並び日本を代表する歌物語で、高校の古典の授業で扱われることも多い。そんな伊勢物語についての本をなぜ手に取ったのか正直に言えばわからない。無意識だった。読みたかったとかそういう理由じゃない気がする。でも、それが仮に小説だとしてもどうしてあなたは今その小説を読んでいるの? って言われたとしよう。そのときだってはっきりとは答えられないことがほとんどなんじゃないか。だから、これもきっとなんとなくとかそういう理由なんだろう。

 ――世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし。

 日本にはこんな和歌があるみたいだ。この和歌は伊勢物語にあるもので、現代語訳すると『もしも世の中に全く桜がなかったなら、春を過ごす人の心はどれだけのどかでしょうね』という意味になると私が今読んでいる本には書かれていた。日本にとって桜は長い間大切にされている、春を代表すると言ってもいい花だ。でも、そんな桜がなかったら桜が咲いたり散ったりすることはないから、桜が散ったときの寂しさもないし、現代ならお花見のときにする場所取りが苦という人もいるかもしれないが、その必要だってなくなる。それって、人にも当てはまるんじゃないだろうか――。



 私には半年前ぐらいから文通を交わしている人がいる。今は昭和時代か、それよりもっと昔か――いや、そんなことはない。今はインターネットが普及し誰もがSNSを使う令和時代だ。では、なんで文通なんかいう古風なことをするのか――それは私がやり取りしている相手は少し変わった人で、昔の時代のものを好むからだ。だから、ほとんど和食しか食べない。私服は着物。好きな本は伊勢物語。そして、趣味は尺八を吹くこと……。これだけでもかなり変わっている人だと言えるだろう。いや、正直言えば変わっている。だから、文通になったのもこんなような理由から分かると思う。

 でも、そんな彼が私はある意味気に入っていた。憧れていた、救われたという言葉でもあっているのかもしれない。

『文通ってなんだか昔でいう和歌を送りあうみたいだね』

 彼が一番最初に送ってきた文通の冒頭がそれだった。確かに、と私はその時思った気がする。

 もう何百年も前、こんなやり取りがあったんだとすると、今の時代でも私たちがこうやってることは少し特別に思えた。

 そんな彼から今日、新しい文通を送られてきたのだ。私は早速その文通に目を通す。

『葵(あおい)さん、今度、会ってみませんか?』

 内容はこういうものだった。達筆な字でそう書かれていた。確かに、相手と会ったことはまだ1回しかないから正直言えばちゃんと相手の顔を把握してるわけではない。だから、春休みも近いし、私は素直に会おうと書いた。ただ、その文通が届くのに日数がかかることも考慮して1週間後の土曜日に会うことにした。



 約束した1週間後の土曜日は、簡単に言えば雲一つない、いい天気だった。だんだんと桜が満開になってもうすぐ本格的な春が来るよということを伝えるのに正しい温かい典型的な初春の一日だ。

 待ち合わせは私の住んでいるところから比較的近い駅前。彼は着物で来るのかなと思ったけれど、予想に反してそんなことはなく、普通の(と言っても少し和服めいた)服だった。やっぱり都会で着物は目立つからできなかったのかもしれない。半分よかったという気持ちと寂しいという気持ちが混じり合う。

 でも、この彼の空気感、思い出した。

 初めて彼と会った日も、こんな空気感だったような気がする。

「お待たせしました。待ちました?」

 彼は少し乱れた呼吸をちゃんと整えてからそう言った。

「いや、今来たとこだよ」

 本当は10分ぐらい前には来ていたのだけれど、別に約束の時間にはまだなってないし、お決まりの言葉としてそう言った。

「それならよかった」

「業平(なのひら)くん、それよりわざわざ遠くからありがとうね」

 それに、彼の方が遠くから来たのでなおさら待ったよとは言えない。私は来てくれてありがとうの意味も込めて笑顔を見せる。

「いえいえ、じゃあ行こうか」

 彼との会話は「昨日は有明(ありあけ)の月がきれいでしたね」とか、「こういう心地いい暖かさだとなんだか和歌を詠みたくなっちゃうね」とかいう古典的な話になることも考えていたけれど、そんなことはなく現代の高校生らしく学校の行事の話とかをした。ただ、完全に古典的な話になってないかと言われるとそうではなかったかもしれない。でも、私はそんな彼との会話がなんだか楽しかった。私のコミュニケーション能力からして、普段男の人と話すことなんかほとんどないから新鮮という言葉で表していいのかわからないけれど、そんな風に特別だった。思わず話が弾んでしまう。

「で、ちなみに今はどこに向かってるの?」

「この近くに水族館があるみたいなんでそこに」

「あれ、博物館とかじゃなくていいのー?」

 気分がよかった私は彼を少しからかってみた。この近くには彼の好きそうな博物館もいくつかある。でも、彼は水族館に向かってると言い出したのだ。

「いや、それは今度個人的に行こうかな。今日は一緒に楽しめる場所に行きたいから」

 ただ、彼は感が鈍いのか、私の期待とは裏腹に真面目にそう返してきた。なんで私の心に熱が巡っているのだろう。少し、胸が締め付けられるような感じがしているのだろう。彼は私のことを考えて水族館に行こうとしているのに。

 少し自分の言ったことに対して後悔した。言わなきゃこんな気持ちにはならなかったのに。



 水族館に来たのは久しぶりかもしれない。小学生の頃はよくお父さんに連れて行ってもらったけど、それ以来かもしれない。暗い空間に様々な魚たちが透き通った水の中を優雅に泳いでいる。今いるこの大水槽では、エイやカメ、たいにいわし……数え切れないほどの魚がどれも関係なく楽しそうに泳いでいた。お互いが他の魚を襲うことなく。そんな姿が私たちの心を奪い足を止めさせる。私たちのいる世界に例えるならその光景は、身分のなく楽しんでいる……そう置き換えられるのだろうか。私は大きなエイが近くを通ったところで一枚写真を撮った。ただ、私の写真技術はあまり上手くないようでピンぼけしていた。

「私、小さい頃はこの中で魚さんたちと一緒に泳ぎたいって思ってたなー」

 写真のことはおいとくことにして、私は目を輝かせながら魚たちを見ている彼に話しかける。

「へー、可愛いな。僕も小さい頃はそんなこと思ってたかも」

 彼はその魚を見ながら相槌を打った。

「おもしろし」

 続いて、そんな言葉を言った。

「えっ? おもしろし?」

 私も高校生だしそれぐらいの古典知識は身についている。それに自慢ではないが私の古典のテストは毎回クラス1位だ。彼が今言ったおもしろしは、趣があるとかそういう意味だ。でも、おもしろしという言葉がなんだかこの水族館という空間に全然似合わなくて、思わず笑ってしまった。せめて、歴史的な場所で言ってほしい。

「あ、ごめん。場違いだったね。……っていうか、自分から水族館に行こうって言っておいてあれだけど、付き合ってない僕らが水族館を巡るのも少し場違いだったかもね。ごめん」

「いや、ないよそんなこと。楽しいから! うん!」

 私は一瞬、周りをキョロキョロと見渡した。でも、私は別に付き合ってもない彼と水族館を巡ることが決して場違いだとは思っていない。ただ、どうなんだろうと考えてしまう自分もどこかにいる。だから、こんなにも文がごちゃごちゃになってしまったのかもしれない。

「あっ、ごめんね」

 その時、幼稚園の年長さんぐらいの女の子がスキップしながらこっちの方に来て、その子は他のものに気を取られ周りが十分見えていなかったのかその場にいた私と軽くぶつかってしまった。私はすぐにその子供に謝る。

「お姉さん、ごめんなさい」

 その子も私が謝るとすぐに頭を下げて謝ってきた。その近くにいたお母さんらしく人も私に謝ってきたので私も軽く頭をさげた。少し強くぶつかった気がしたけれど、怪我はなさそうでよかった。女の子は何事もなかったようにお母さんと手を繋いでイルカショーの方に進んでいく。

 でも、今、私は何か温かいものに触れているような感じがした。

 これは、何……?

 触れたことないようなもの。

 ――!

「あ、ごめんなさい」

 思わず急に敬語になってしまう。このごめんなさいは――彼に向けたものだ。さっきの反動で私が動いてしまったためか、彼の手を握ってしまったのだ。この温かい感触は彼の手だったのだ。これこそ、場違いだ。私はすぐに手をずらした。

「いや、別にそのぐらい……」

 恥ずかしがっている私とは対照的に彼はなんともないよとでも言うかのように冷静だった。その冷静さに思わず源氏物語の玉鬘(たまかずら)かよ……と一瞬、思ってしまった。それからも、クラゲやペンギンなどを見て水族館を巡ったけれど、私からはなんだかあの一件もあって喋れなくなってしまった。ただ、彼はさっきと変わらずに会話をしてくれたので、私はそれに答えるだけという感じだ。住んでるところがお互い遠いのもあって会う機会なんてほとんどない大切な時間なのに、私から話を作れなくて少し申し訳ない。

 私たちは水族館を2時間かけて巡った。イルカショーとかもあったみたいだけれど、水に濡れるのだったり、人が多いところはお互い苦手な感じだったので、イルカのストラップを買うだけにしておいた。

 でも、なぜか2時間の間に気まずさというものも昨日見た夢のように自然と消えていってしまった。だから、水族館を出たときには気づけば私からも話しかけ、笑い話をしていた。



 駅前に着くと、なんだか人だかりができていた。比較的年齢層が高い人たちが群がっている。何かイベントでもやっているのだろうか。

 大きな駅前でよくバンドなどが路上演奏をしてることがあると思う。よく見てみると、どうやら誰かが路上演奏のようなものをしているみたいだった。でも、漏れ出す音は思わず踊りだしたくなってしまうような心を揺さぶる激しいものではない。もっと昔からあるような穏やかで優しい音。着物みたいに優しく包んでくれる癒やしの音色。

 ――琴。

 私は普段路上演奏なんかに目もくれない人なのに、なんだか不意に足が止まってしまった。着物を着た女の人が赤いカーペットに座り、気持ちよさそうに琴を弾いている。ただそれだけの光景なのに私にはなぜか心が惹かれてしまうものがあるのだ。その音が私の全身を駆け巡っていく。どこまで到達してしまうのだろう。

 私はその音を聞きながら目をつぶってみた。もちろん、真っ暗だ。何も見えない。でも、その先に音の世界が見える。波のようにゆっくりと流れていく。どういう言葉が似合うのか私には到底わからない。でも、美しいそれだけは確かだ。

 数分間、特別な空気に私は包まれたのだ。

 その演奏はあっという間に終わってしまう。まだ聞いていた気もするけれど、物足りなさはない。そして、拍手が沸き起こる。私も小さいながらも拍手をする。彼も隣で拍手していた。

 琴を弾いていた女の人が聴いてくれた人に向かってお辞儀をした。

「そういえば、僕らが初めて会ったのは、琴がきっかけだったよね」

「うん、そうだったね。私が琴を演奏してるところに業平くんがやってきて……」

 私がこの琴の演奏に聴き入ってしまった理由の一つに自分でも琴を弾いているというのがあるんだろう。彼と初めて会ったのもこの琴がきっかけだ。私は今から焼く半年前、彼の住んでいる街で琴の演奏会をすることになった。その会場に彼がいたのだ。会場の多くが中年以上の人だった中、彼はかなり目立つ存在だったので、演奏中に何度もその人に視線がいってしまった。

 演奏会が終わると、彼は私の元にやってきた。そして、一番初めにこう言ったのだ。

『あなたの演奏、とても素敵でした。また聴きたいです』

 感想としてはよくあるものなんだろう。でも、私は素直なその感想が、そして私と同い歳の子がそう言ってくれたことが何より嬉しかったのだ。友達も私の琴演奏にはあまり興味がないみたいだったから、多分このぐらいの歳の人にそう言われたのは初めてだったような気がする。私の演奏を楽しんでくれるのは私よりも大先輩な人ばかりで、身近になんて私の演奏を楽しんでくれる人はいなかった。今の人は琴の演奏なんかよりギターやピアノの演奏の方が何倍も何倍も興味があるだろう。でも、彼は私の琴の演奏を褒めてくれたのだ。

 彼は自分なりに私の演奏を解釈してくれて、そのことについて話していくうちにたった数分で仲良くなってしまった。それから私たちの文通が始まったのだ。なんだか、琴から始まる物語って古典ぽいとも言えるだろう。そう思うのは私だけだろうか。いや、多分彼もそう思っているはずだ。別にこれは恋愛っていうわけではないかもしれないけれど、昔の恋愛は男の人が琴の演奏を聞いて始まるというのも多かったんだし。

「そうだったね」

 思い出話に少しの間、花が咲いてしまった。琴の演奏は全て終わったのか、女の人はゆっくりと片付けをしていった。

「あっ、話変わるけどあそこの文房具屋さん入ってもいい?」

 私たちはことの演奏が終わったんだし、駅の方向に戻った。駅に戻る途中、彼が文房具屋さんに寄りたいと言ったのでそこに入った。彼は万年筆を買いたかったから入ったみたいだけど、私は特別買いたいものもなかったので、店内をウロウロと回った。まだ、さっきの琴の音色は鮮明に耳が記憶している。もう一度、私だけのところでその演奏が始まったように思えた。

「あ、万年筆あった?」

「うん。なんか素敵な便箋もあったから後朝(きにぎぬ)の文(ふみ)用として使おうかな」

「もう、変な例えしちゃって」

 後朝の文。平安時代頃――通い婚だった時代だ。男性が朝になり女の人の家を後にしたのち、男性から送られる手紙。好意を示すために贈られる。すごく簡単に言えばそんなものだ。

「あっ、それ、琴の絵柄……」

 私は琴の絵柄の便箋だと気づいた瞬間、思わず彼に見せてと言っていた。彼はそれを私に渡してきたので、私はその便箋を眺めてしまった。可愛いタッチで描かれた琴の絵柄の便箋。

「私もほしいかも、持ってこようかな」

 私も見てるとなんだか欲しくなってしまった。子供みたいだ。

「お、そう? じゃあ、僕が新しいの持ってくるから、それどうぞ」

「いや、私が自分で――」

 私が自分で持ってくるよ、と言おうとしたけれど、彼はすでにその便箋があるの方に行ってしまい、私の声は届かなかったのだ。

「なんか、今までこんな人いなかったな」

 気持ち悪いな。独り言を言ってしまうなんて。ただ、こんな人、私の周りにはいなかった。こういう優しさがある人、そしてに私のことを認めてくれる人。

「ん? なんか言った?」

「いや」

 どうやら、彼に聞こえていたみだいだ。だけど、私がそう言うと特に気にする様子はなく、再び便箋の方に足を進めていった。

 一番最初の文通には、私の琴の演奏について沢山褒めるような言葉で溢れていた。よく分からない例えもしてきたけれど、それが彼が感じた素直な感想なんだろう。ただ、私は2回目の文通に『このまま琴をややべきなのか悩んでるんだ』というまだ彼と会ってから間もないのに、そんな質問をしてしまったんだった。確かその時は自分の思うように弾けなくて少し悩んでいたんだっけ。

 そんなことを思い出していると、彼はさっきのと同じ琴の絵柄が描かれた便箋を持ってきた。2人で買い物を済ますと、近くの喫茶店に寄って少し休憩した。喫茶店を出たときには気づけばオレンジ色の夕日が出ていた。久しぶりに見たかもしれない。彼は遠いところからわざわざ来てくれたため、もうそろそろお開きだ。ただ、彼は最後に桜だけ見て帰りたいと言ってきたので、桜のイルミネーションが楽しめる場所に行った。光り輝くことでいつもの桜とは違い幻想的に感じた。ただ、桜の話というより、そこでは文通の話になってしまった。

「私がやるるべきかどうかって送った後、『少しでも誰かに聴いてもらいたいという気持ちがあるなら、辞めるべきではないと思うよ』って送ってくれたよね。その言葉で続けようって思えたんだよ。だから私は今も琴を弾けているんだと思う。ありがとう」

「そうかな。仮に僕がそういうことを言ってなくても続けてたと思うけどな」

「そんなことないよ。本当に感謝しかないな」

 ちょっと変わった彼と私がいる理由。それがこれなんじゃないかと思っている。もしかしたら、私の方が変わっているのかもしれない。

「いやー、そんなこと言われると、慣れてないから照れるな。でも、友達とかに相談したとしても、こう言われてると思うけどな」

「そうかな……。ただ、私は一番君に相談がしやすかったんだよね。なんでだろう」

 この瞬間、私はこんな彼を離したくないんだなって、はっきり思った。ずっと近くにいてほしいって思った。一番相談しやすかった――そんな言葉が出てしまったのだから。

 もしかして、私、この感情――。

 この温かい気持ち――。

 私はふと立ち止まった。そして、ライトで綺麗に照らされている桜を眺めながらこう言った。

「――世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」

 伊勢物語にある和歌の一つだ。私が前に図書室で読んだ本に書いてあったもの。

「……僕もそれ、知ってるよ」

「意味も?」

 私が彼の方に振り返ると、彼はもちろんという風に頷いた。でも、きっと彼は私の思っている意味と一致しないだろう。

「『もしも世の中に全く桜がなかったなら、春を過ごす人の心はどれだけのどかでしょうね』とかいう意味でしょ」

 流石だ、彼はこんなの簡単だとでもいうかのように本来の意味を当ててしまった。でも、私はそういうことを言いたいからこの和歌を出したのではない。

「この和歌ってさ、桜が綺麗すぎるからいっそなかった方がよかったのにっていう和歌でしょ。だから、私も今、そんな気持ちなの」

 彼はまだ理解していないのか、首をかしげた。流石の彼でも少し難しかったようだ。だったらと思い、私は彼に自分の思いを打ち明けることにした。言葉にして、彼に伝えるんだ。

「私にとって業平くんはすごく大切な人なの。離したくない人。でも、もうすぐ帰っちゃうでしょ……それが嫌なの。ずっと傍にいてほしい。けど、それはできない。だったらいっそ、君みたいな人と出会わなければよかったって……。今日一日一緒にいてちゃんとわかったんだ――私、君のこと好きなんだって」

 こんなところで、周りの人が沢山いるところでこんなことを言って、彼を困らせていることなんて分かっている。そんなことは承知だ。ただ、言わずには言えなかった。この桜の下なら言っても怖くないと思ったんだ。

「――散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき」

 彼は私のことには全く触れず、私と同じように桜を眺めたまま、その和歌を読んだ。それも伊勢物語にある和歌の1つだ。

「これ、分かる?」

 さっきの私みたいに聞いてくる。真似をしているのだろうか。

「『散るから桜は素晴らしい。この無常の世の中に何が久しくとどまっているだろうか』……そんな意味だよね」

 意味はあの和歌――世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし。とは反対の意味だ。彼の今言った和歌は散るからこそ素晴らしい。でも、私の言ったの和歌はいっそ桜がない方がよかった。どちらも桜の素晴らしさについて述べているが、そういう違いがある。

 私は彼がその和歌に包まれているような気がして何も言うことができなくなった。ただ、少し経ってから彼は私に手のひらを見せてきた。その手のひらには桜の花びらが1枚のっていた。

「僕もさ、こんなにも自分のことを理解してくれる人、初めてで実はとても嬉しかったんだ。話したりするのも楽しかったしさ。水族館であったあの出来事の時、冷静な顔してたかもしれないけど、胸がドキドキだったよ。死んじゃうかとも思った。――つまりさ、僕は君のことが好きだよ」

 彼が全て言い終わった途端、彼の手に乗っていた桜の花びらは風でどこかに飛んでいってしまった。多分、大空へと飛んでいってしまったのだろう。もう、どこにいったのかわからない。探しようがない。

 ――つまりさ、僕は君のことが好きだよ。

 でも、その言葉は確実に私の心に届いた。私は普通ならこの言葉に驚かないはずないのに、なぜかそんなことはなかった。むしろこの言葉が私を守るガードの役目をしているかのようだった。

「でも――」

 だけど、彼は逆説の言葉を使った。

「僕は帰らなきゃいけないな。もちろん、僕もずっと傍にいたいよ。その気持ちは一緒だよ。だけど、僕が今読んだ和歌を今の僕達に置き換えると、離れてしまうからいいんじゃないかなっていう意味になるでしょ。この和歌の今と昔、一緒なんじゃないかな。こういう考え方もあるんじゃないかな」

「……そうだね。そういう考え方もあるね」

 伊勢物語82段に出てくる話にある2つの和歌。この2つは違う側面から和歌を詠んでいる。ただ、どちらも桜が素晴らしいからこそそんな和歌を詠んでしまった。そして、私たちも離れたくないからこそこの2つの和歌が出てきた。どっちが正しいとかはない。でも、今は彼の言った和歌を受け入れるべきなんじゃないだろうか。そして、また今度会ったときには私が言った和歌の通り、どうせ離れるなら会わなきゃよかったなっていう笑い話をすればいいんじゃないだろうか。

 うん、きっとそうだ。

「わかった。またいつか会おうね。その時まで待ってる! 約束だよ!」

「うん、じゃあまた。離れたくない気持ちが大きくなる前に桜も見られたし帰ろうかな。今日はありがとう! 楽しかった!」

 彼は離れたくない気持ちが大きくなる前に変えると言って、走って駅の方に向かった。そんな彼に私は大きくてを振った。そうだよ、また会えるんだから。こういう思いをするならばこんな人と会わなきゃよかった。でも、こういう思いをするからこそまた会いたいと思えるんだろう。

 私は彼がいなくなった後も桜を少しの間眺めていた。何回か桜の花びらが散った瞬間を見た。ただ一人で立ってる。こんな姿を周りの人は寂しそうな少女とか思ってるかもしれない。でも、私は寂しくなんかない。

 帰りの電車で私は早速後朝の文――手紙を文房具屋で買った便箋を使って手紙を書いた。後朝の文は普通男性から書くものだ。だから、女性から書いて送ることはない。でも、それはあくまで古典の世界の話。私達の世界は少し変わってたっていい。

 私は彼への想いを便箋いっぱいに書いた。重複してしまっている箇所もいくつかあるかもしれない。何度も読み直し、どこを直したらいいか考えた。だから、思わず電車を乗り過ごしてしまいそうになった。

 まだ、始め部分もあやふやだけど、手紙の最後にはこう書こう。そう決めた。それ以外ない。

 ――君なんかいなきゃよかったな……そう思うほど、君のことが好き。

 と。