事故ってから3ヶ月が過ぎた。季節は変わり、もう辺りはすっかり冷え込んだ空気に包まれる。街路樹には電飾が施され、夜になると幻想的な光が街を彩る。あれから俺はリハビリも兼ねて入院を継続し、当然ながら大学には通えないため休学の届出を申請した。
単位が取れずに留年するかもという危機に陥ったが、幸いにもリモート授業や課題のレポートさえ出せば認定すると言ってもらえたので、何とか留年は免れそうだ。パソコンがあって本当によかった。

足の状態は、日頃のリハビリのおかげでだいぶ良くなった。

まだまだ本調子ではないが、順調に回復しつつある。


梨歩にはしばらく実家に戻ると連絡して以来、会っていない。

たまに来るメッセージのやりとりからも、梨歩は梨歩で自分の時間を過ごしているようだ。


というか、梨歩も持病が悪化し入院しているようで、お互い会いに行けない状態が続いている。俺が事故って入院したと伝えたら、ビデオ通話で泣きながら「早く治して帰って来て!」と怒られた。それはお互い様だろ、と思うところもあったが、離れていてもこうして繋がっているだけで彼女との距離はさほど感じずにいられた。


そういえば、4月6日は梨歩の誕生日だ。

最後の10代を迎える彼女は、歌手になる夢を負い続けながら今日も病室でギター片手に歌っているのだろう。

梨歩は先天性の心疾患がある。
そのことを打ち明けられたのは、付き合って2ヶ月目の夜。俺の部屋に初めて泊まりに来た日、梨歩の口から告げられた。

そして、たった今。

俺にとってこの日は、梨歩に始めて出会った頃の衝撃とはまた別の衝撃を食らうというとんでもない日だった。

おそらく、人生最大級にして、最悪の衝撃だ。

思えばそれは数日前。

「柴田さん、ちょっと顔色が……」とさりげなく言い放った男性看護師の言葉が妙に引っかかった。普段ならスルーしてしまうところだったが、「俺、そんなに顔色悪く見えますか?」と答えると、「まあ……良くはないですね」と何とも歯切れが悪い。それがやけに俺の不安を掻き立てた。
身体はこんなにも元気なのに、何故だ。
「もしかすると、重篤な症状が隠れているかもしれないので、すぐ診てもらったほうがいいです」
看護師から別の検査を勧められた俺は、すぐさまPET検査を受けるよう促され検査を受けた。そして今、俺はその検査の結果を聞きに訪れていた。

「え……?」

「柴田さんの膵臓に、がん細胞が見つかりました」
担当医の言葉に絶望を感じずにはいられなかった。



「……がん?」


来週には退院できると聞いていたのに。

どういうことだ?


俺が、癌?


「あの……早く治療すれば、治るんですよね?」


俺は、何ともない。


至って健康だ。


「……正直なところ、かなり深刻です。あなたは若いから進行も早いようで。しかも、この疾患はあなたのような若い方が罹るのが非常に珍しい症例なんです」

「手遅れ、ってことですか?」

「まあ、はっきり申し上げれば……。肝臓の数値もよくないですし、わずかですがリンパ節への転移も見られます。膵臓がんは自覚症状がない分気づきにくく、だいぶ進行してから気づくケースも少なくありません。柴田さんの場合、極小ながらもかなり広範囲に広がっていますので、抗がん剤治療をしても根治の見込みは、限りなく0に近いかと……」
「そんな……」
「光療法という最先端医療の治療法もありますが、こちらは自由診療になるので保険適応外です」

マジか。

たとえ高額な治療費をつぎ込んだとしても、助かる見込みがない確率もある以上、姉貴に負担をかけるわけにはいかない。

実質、俺が腹をくくればいい話だ。変に期待を持ってさらなる絶望を味わうくらいなら……。

「ご家族の方とも、よく相談なさってください。我々としては最先端医療での治療を勧めたいところですが」

俺に残された時間は、限られている。


「もし、このまま治療をしなかった場合だと……あと、どれくらい生きられるんですか?」

まさか、この俺が人生の終焉を迎えようとしているなんて。
信じられなかった。

信じたくなかった。

「何もしなければ、もって……1ヶ月あるかないか、です。3ヶ月、と言いたいところですが、先ほども申し上げたようにあなたはまだ若いので、進行が早まる可能性があります」


梨歩の誕生日。
それまで俺は生きられない。


どうせ生きられないのなら、せめて彼女に最後のメッセージを。

「…………」

でも、彼女も病気を抱えている。
下手をすれば、命に関わる病だ。
だから、俺の病については言わないことにした。

嘘はつきたくない。
でも、俺のせいで悲しい思いをさせたくない。
「どうしたら……」

溢れ出す感情が、涙となって頬を伝う。

「とにかく、今は今できることをしましょう。我々も最善は尽くします。最善は尽くしますが、万が一のこともありますので……残された時間をどう過ごしたいか、を基準に考えられたほうが良いかもしれません。大変辛いかもしれませんが――」
「本当に……もう無理なんですか?」

受け入れられるはずがなかった。さすがに余命宣告はないだろうと。近々退院したら、梨歩の見舞いにでも行こうと思っていたのに。

梨歩に会いたい。でも、もうすぐ会えなくなる。
もう二度と。

最後にあったのはいつだろうか。
もし、俺が事故らなければ……病に気づくことはなかったかもしれない。そう思い込むことで、多少なりとも気休めくらいにはなっただろうか。

「とにかく、このことは一刻も早くご家族に伝えないといけません。ですから――」
「わかりました。あの……それなら……姉に」
「お姉さん?」
「両親は、もういないので」
「わかりました。ではお姉さんに連絡をします」





俺は自室に戻るなり、ベッドの上に脱力した状態で臥した。

実感がなさすぎて、逆に怖い。
刻一刻と迫る命のカウントダウン。梨歩もこんな不安と恐怖に苛まれながら今まで生きてきたのだろうか。でも、俺の知る限りの梨歩は、いつも笑顔だった。溌剌とした印象で、病とは無縁の、至って健康そのものなのだと思っていた。

いつどうなるかわからない恐怖。
生きている事自体が当たり前の日常だと信じて疑わなかった。その日常が、日常ではなくなる日がこんなにも早く訪れるとは思いもしなかった。

死にたくない。

もっと生きたい。

当たり前の日常が壊れていく恐怖ほど、絶望を感じずにはいられなかった。



死へのカウントダウン。


誰がこんな未来を想像できただろうか。


怪我が治ったら、真っ先に梨歩のもとへ駆けつけるのに。


最悪足が動かなくなったとしても、命さえあればいくらでも会えるチャンスはある。



それなのに、何て仕打ちなんだ。

俺が一体何をした?


なぜ、気付けなかった?


自覚症状が何なのかすらわからないなんて。


「くそ……ッ」


悔しい。


俺はまだ生きられる。


こんなにも元気なのに。


何もかも手遅れだというのか。


「何でだよ……」

もう明日が来なくなるかもしれないと思うと、急に目の前が真っ暗になったような気がした。

「……梨歩」