まるで夢のような、夢ではない時間。
これが恋なのか。常時ふわふわとした浮遊感がつきまとう。
柴田涼平、大学生になって初めて彼女ができました。
と勝手に流れる脳内テロップ。気色悪いったらありゃしない。
桜の季節が終わり、辺りはすっかり緑が映える季節となった。初夏の陽気を感じ始めた今、俺はその彼女を下宿先の自分の部屋に連れ込んでいる。
お相手は、歌手志望の18歳。高校には進学せず、ドーナツショップで働きながら音楽活動もしているらしい。
「涼ちゃん」
「り、梨歩……」
ぎこちなさMAXな俺の頬に、柔らかく温かな感触が走る。
「あ……えっ、え?」
「あっはははは! 何その中学生みたいな反応」
「ちゅ……?」
「あははは! ねえ、もしかして……マジで初めてとか?」
「……うん」
ああ、格好悪い。俺がリードしなきゃならんのに。彼女の方からさせるなんて。
「うっそ……。やだ、何かごめん。こんなシチュエーションで良かったのかな? 思った以上にウブな反応過ぎて意外」
ドン引きだよな。女の子とプライベートで手を繋いだ記憶すら、俺には全く無い。故に、免疫のない俺に不意打ちのキスなんて。
反則以外の何物でもない。
「いや、俺こそ。慣れてなくて」
「いいんだよ、慣れなくて」
梨歩はいつもの溌剌とした声からは想像つかないような玲瓏とした声で言う。
急に梨歩が大人っぽく見えた。
「でも、女の子って男からリードされたいって思うんじゃ……」
「そんなの好みの問題でしょ」
そう言ってのける彼女は、「あたしはピュアな反応されたほうが嬉しい」と続ける。
「まあ、あたしがそんなこと言える立場でもないんだけどね」
「え?」
「だって、あたしも……こういうことするの……初めてだから、さ」
彼女は、策士なのだろうか?
恋愛経験値ゼロの俺は、嬉しい反面疑い深くなってしまい、素直に喜べずにいた。
「あたしだってね、大胆なことすると……緊張するの」
みるみる紅潮していく彼女の頬。
前言撤回。
ヤバい。これは、マジなやつだ。
可愛すぎる。
「〜〜〜〜ッ!」
俺の中で、何かが弾けた。
「ちょ、涼ちゃん!?」
「…………」
彼女の小さな肩ごと、俺は包み込むように抱き寄せた。
抑えられないくらいの、心の底から揺さぶられるような熱い衝動に。
俺は負けた。
「うんッ……りょ、ちゃ――」
そう言いかける梨歩の口を、俺は唇で塞ぐ。
止められなかった。
嫌がるかもしれない。
そう思うと初めの一歩すら躊躇していたというのに。
さっきよりも柔らかくて、熱い。
熱帯びた互いの呼吸が乱れるたびに、欲望が俺を支配し始める。
まずい、止めないと。
歯止めが効かなくなる。
でも、離れたくない。
離したくない。
(どうすれば……)
引き際がわからず躊躇していると、梨歩が俺の肩を押して体を離す。
「……あ、ごめん」
「いいの。続けて」
「へ?」
間の抜けた声が出てしまった。
「嬉しいの。涼ちゃんに求められるのが」
何だ。
何だ。
何だ、この妙な色っぽさは。
普段無邪気な梨歩が、こんな表情を見せるなんて思いもしなかった俺は、ますます翻弄されていく。
「本当に、俺でいいの?」
「涼ちゃんが、いい」
このまま小柄で華奢な梨歩の身体をきつく抱きしめれば、壊れてしまうのではないかという不安もあった。でも、俺は心の何処かでそれでもいいと思っているような気がして――急に恐怖が俺の中に渦巻いた。
そして、これから起こそうとする行動を抑圧するように、まるで金縛りにでもあったかのような呪縛感に襲われる。
「……」
「涼ちゃん?」
「……あ、いや。えっと、な、何でも、ない」
どうすれば。こんな中途半端になるなんて。最高にダサ過ぎる。
俺は何とか知識の糸を手繰り寄せ、今後の展開に備え模索しようと試みる。
とりあえず、もう一度彼女を抱き寄せるか。
俺がぎこちなく手を伸ばそうとすると、「ちょっと待って」と彼女に静止された。
そうか。そうだよな。冷めるよな。
俺は一人自己嫌悪に陥る。
パサっと、何かが床に落ちる音がした。
「?」
俺の視線の先の梨歩が、羽織っていたレースのカーディガンを脱いで、それが床に滑り落ちる音だった。そして梨歩は、俺の目の前でそのまま上半身の脱衣を始める。
「え、ちょ、ちょ待っ――!」
スルスルと滑らかに上半身を纏っていた衣服を滑らせ、あっという間に下着姿になる梨歩。目のやり場に困った俺は、思わず視線を逸らす。
「涼ちゃんに、話しておかないといけないことがあるの」
真剣さを含んだ梨歩の声に、俺は再び梨歩の方へと視線を向けた。
「あ……」
ヤバい。
俺の中で、聞き慣れない鼓動がバクついて頭がフラフラする。まるで飲み慣れない酒を、一口飲んで秒で酔いが回ったみたいに……。
朦朧とし始めた意識。俺は今にも卒倒しそうになる脆弱なメンタルを何とか保とうと、脳内で奮闘し始めた。
(寝るな、寝るな、絶対寝るな! 気絶しそうになっても気絶するな!)
梨歩は少し恥じらいながら背を向け、下着を外した。
「驚かないでね」
今の時点でだいぶ驚愕なのだが、多分とても大切なことなのだろう。俺は「わかった」と返す。
上半身を露わにした彼女。
俺は息を呑んだ。
彼女の胸に刻まれた生々しい傷跡に。
「あたし、生まれつき心臓が弱くて。小さい頃何度も手術したの」
青白く浮き出た血管が透き通って見える。儚げなその柔肌には残酷すぎるくらいの存在感に、俺は思わず気圧されそうになる。
「気持ち悪いよね。こんな傷、二度と消えないってわかってるのにさ。何度も見るたびに、どうにか消す方法ないかなとか、隠すことばかり考えちゃう自分が本当に嫌で。もし好きな人ができて、いつかこの傷を見ることになったら……気持ちが離れていっちゃうんじゃないかって。だから、最初に話しておこうと思って」
彼女の傷には驚いた。でも、それ以上に俺にその傷のことを打ち明けた勇気に感服した。
確かに驚きはしたが、傷があるからなんだ。彼女は彼女じゃないか。
とにかく明白なのは、彼女は俺の想像以上に今まで傷ついてきたことだ。普段の溌剌とした元気いっぱいの彼女からは到底知り得ない事実だったが、その傷こそが彼女の芯の強さを助長しているようにも思えて、時折見せる繊細さの意味を漸く理解できたような気がした。
「あ、あとね。あたし、見ての通りまな板だから……。友達の若葉って子いるじゃん? 前にも言ったかもしれないけど、あの子ね、脱ぐとマジでめっちゃすごいの。だから、羨ましいっていうか、長年のあたしのコンプレックスというか……。もし、涼ちゃんが胸ある方が好きなら、がっかりさせちゃうかなって……ああ、何言ってんだろ、あたし」
「綺麗だ」
「……へ? 何が? どこが?」
「綺麗、というか、格好いいよ」
梨歩は、ぽかんと口を開けて固まってしまった。
「あ、ごめん。わかりにくかったよな」
「うん、どゆこと?」
「梨歩がいつも明るく元気に振る舞えるのは、その傷があるからなんだなと思って」
俺は続ける。
「傷は確かに生々しいし、結構ショッキングだった。でも、それを俺に打ち明けた梨歩はめちゃくちゃ格好よかった。コンプレックスを誰かに打ち明けるのってすごく勇気がいっただろうにって。だから、それは傷じゃなくて、梨歩の強さの証だと思う。それに……」
少し言い淀んで、俺は梨歩の傷に触れながら言った。
「ひゃ……!」
「これは、俺だけに見せてくれればいい。いや、そうしてほしい」
「え……」
「この先もずっと」
「涼ちゃん……」
彼女の体温を感じながら、俺はさらに胸の奥に迸る熱い情動と理性の間で葛藤を続けていたが、そろそろ限界だ。
俺は着ていたTシャツを脱ぎ、梨歩をさっきよりもきつく抱きしめる。
「好きだ」
好きだとはっきり伝えたのは、きっとこの時が初めてだ。梨歩と付き合う前は俺から告白はしたものの、好きだとは言えずにいた。
(まさか、あんな告白で付き合えるとは思ってもみなかったからな)
まあ、結果オーライということで今日まで関係を続けてきたわけなのだが、信じられないくらいスムーズな流れでこうなった。それは恐らく、彼女がとても素直で寛大だからだと思う。
きっと彼女の寛大さが、俺に勇気をくれたのだろう。俺のようなヘタレた男を受け容れるくらいの器の持ち主だ。そういう意味では、俺はもりかすると人を見る目があるのかもしれないな――とささやかに自賛してみる。
「あたしも。好きよ、涼ちゃん」
「梨歩」
このまま時間が止まればいい。
ありきたりな表現しか思いつかないが、そう思えるくらいの幸せが凝縮された瞬間だった。
*
翌朝、目覚めると隣には小さな寝息を立てて眠る梨歩がいた。
「あ……」
とうとうやってしまったか。
自室に彼女を連れ込んだ挙げ句、一夜をともにするなんて。今までの俺には想像もつかなかった。
いつか逸生が言っていたことが現実になりつつある。こうやって今よりもっと味を占めるようになるのだろうか。
逸生には一人暮らしに対する不純な動機しかないと思っていたが、意外と真っ当な願望なのかもしれないと今になって思い直す。己のしでかしたことへの正当化と言えばそうなのだが。
俺はいかに狭い世界で生きてきたのだろうと思い知る。
これが恋なのか。常時ふわふわとした浮遊感がつきまとう。
柴田涼平、大学生になって初めて彼女ができました。
と勝手に流れる脳内テロップ。気色悪いったらありゃしない。
桜の季節が終わり、辺りはすっかり緑が映える季節となった。初夏の陽気を感じ始めた今、俺はその彼女を下宿先の自分の部屋に連れ込んでいる。
お相手は、歌手志望の18歳。高校には進学せず、ドーナツショップで働きながら音楽活動もしているらしい。
「涼ちゃん」
「り、梨歩……」
ぎこちなさMAXな俺の頬に、柔らかく温かな感触が走る。
「あ……えっ、え?」
「あっはははは! 何その中学生みたいな反応」
「ちゅ……?」
「あははは! ねえ、もしかして……マジで初めてとか?」
「……うん」
ああ、格好悪い。俺がリードしなきゃならんのに。彼女の方からさせるなんて。
「うっそ……。やだ、何かごめん。こんなシチュエーションで良かったのかな? 思った以上にウブな反応過ぎて意外」
ドン引きだよな。女の子とプライベートで手を繋いだ記憶すら、俺には全く無い。故に、免疫のない俺に不意打ちのキスなんて。
反則以外の何物でもない。
「いや、俺こそ。慣れてなくて」
「いいんだよ、慣れなくて」
梨歩はいつもの溌剌とした声からは想像つかないような玲瓏とした声で言う。
急に梨歩が大人っぽく見えた。
「でも、女の子って男からリードされたいって思うんじゃ……」
「そんなの好みの問題でしょ」
そう言ってのける彼女は、「あたしはピュアな反応されたほうが嬉しい」と続ける。
「まあ、あたしがそんなこと言える立場でもないんだけどね」
「え?」
「だって、あたしも……こういうことするの……初めてだから、さ」
彼女は、策士なのだろうか?
恋愛経験値ゼロの俺は、嬉しい反面疑い深くなってしまい、素直に喜べずにいた。
「あたしだってね、大胆なことすると……緊張するの」
みるみる紅潮していく彼女の頬。
前言撤回。
ヤバい。これは、マジなやつだ。
可愛すぎる。
「〜〜〜〜ッ!」
俺の中で、何かが弾けた。
「ちょ、涼ちゃん!?」
「…………」
彼女の小さな肩ごと、俺は包み込むように抱き寄せた。
抑えられないくらいの、心の底から揺さぶられるような熱い衝動に。
俺は負けた。
「うんッ……りょ、ちゃ――」
そう言いかける梨歩の口を、俺は唇で塞ぐ。
止められなかった。
嫌がるかもしれない。
そう思うと初めの一歩すら躊躇していたというのに。
さっきよりも柔らかくて、熱い。
熱帯びた互いの呼吸が乱れるたびに、欲望が俺を支配し始める。
まずい、止めないと。
歯止めが効かなくなる。
でも、離れたくない。
離したくない。
(どうすれば……)
引き際がわからず躊躇していると、梨歩が俺の肩を押して体を離す。
「……あ、ごめん」
「いいの。続けて」
「へ?」
間の抜けた声が出てしまった。
「嬉しいの。涼ちゃんに求められるのが」
何だ。
何だ。
何だ、この妙な色っぽさは。
普段無邪気な梨歩が、こんな表情を見せるなんて思いもしなかった俺は、ますます翻弄されていく。
「本当に、俺でいいの?」
「涼ちゃんが、いい」
このまま小柄で華奢な梨歩の身体をきつく抱きしめれば、壊れてしまうのではないかという不安もあった。でも、俺は心の何処かでそれでもいいと思っているような気がして――急に恐怖が俺の中に渦巻いた。
そして、これから起こそうとする行動を抑圧するように、まるで金縛りにでもあったかのような呪縛感に襲われる。
「……」
「涼ちゃん?」
「……あ、いや。えっと、な、何でも、ない」
どうすれば。こんな中途半端になるなんて。最高にダサ過ぎる。
俺は何とか知識の糸を手繰り寄せ、今後の展開に備え模索しようと試みる。
とりあえず、もう一度彼女を抱き寄せるか。
俺がぎこちなく手を伸ばそうとすると、「ちょっと待って」と彼女に静止された。
そうか。そうだよな。冷めるよな。
俺は一人自己嫌悪に陥る。
パサっと、何かが床に落ちる音がした。
「?」
俺の視線の先の梨歩が、羽織っていたレースのカーディガンを脱いで、それが床に滑り落ちる音だった。そして梨歩は、俺の目の前でそのまま上半身の脱衣を始める。
「え、ちょ、ちょ待っ――!」
スルスルと滑らかに上半身を纏っていた衣服を滑らせ、あっという間に下着姿になる梨歩。目のやり場に困った俺は、思わず視線を逸らす。
「涼ちゃんに、話しておかないといけないことがあるの」
真剣さを含んだ梨歩の声に、俺は再び梨歩の方へと視線を向けた。
「あ……」
ヤバい。
俺の中で、聞き慣れない鼓動がバクついて頭がフラフラする。まるで飲み慣れない酒を、一口飲んで秒で酔いが回ったみたいに……。
朦朧とし始めた意識。俺は今にも卒倒しそうになる脆弱なメンタルを何とか保とうと、脳内で奮闘し始めた。
(寝るな、寝るな、絶対寝るな! 気絶しそうになっても気絶するな!)
梨歩は少し恥じらいながら背を向け、下着を外した。
「驚かないでね」
今の時点でだいぶ驚愕なのだが、多分とても大切なことなのだろう。俺は「わかった」と返す。
上半身を露わにした彼女。
俺は息を呑んだ。
彼女の胸に刻まれた生々しい傷跡に。
「あたし、生まれつき心臓が弱くて。小さい頃何度も手術したの」
青白く浮き出た血管が透き通って見える。儚げなその柔肌には残酷すぎるくらいの存在感に、俺は思わず気圧されそうになる。
「気持ち悪いよね。こんな傷、二度と消えないってわかってるのにさ。何度も見るたびに、どうにか消す方法ないかなとか、隠すことばかり考えちゃう自分が本当に嫌で。もし好きな人ができて、いつかこの傷を見ることになったら……気持ちが離れていっちゃうんじゃないかって。だから、最初に話しておこうと思って」
彼女の傷には驚いた。でも、それ以上に俺にその傷のことを打ち明けた勇気に感服した。
確かに驚きはしたが、傷があるからなんだ。彼女は彼女じゃないか。
とにかく明白なのは、彼女は俺の想像以上に今まで傷ついてきたことだ。普段の溌剌とした元気いっぱいの彼女からは到底知り得ない事実だったが、その傷こそが彼女の芯の強さを助長しているようにも思えて、時折見せる繊細さの意味を漸く理解できたような気がした。
「あ、あとね。あたし、見ての通りまな板だから……。友達の若葉って子いるじゃん? 前にも言ったかもしれないけど、あの子ね、脱ぐとマジでめっちゃすごいの。だから、羨ましいっていうか、長年のあたしのコンプレックスというか……。もし、涼ちゃんが胸ある方が好きなら、がっかりさせちゃうかなって……ああ、何言ってんだろ、あたし」
「綺麗だ」
「……へ? 何が? どこが?」
「綺麗、というか、格好いいよ」
梨歩は、ぽかんと口を開けて固まってしまった。
「あ、ごめん。わかりにくかったよな」
「うん、どゆこと?」
「梨歩がいつも明るく元気に振る舞えるのは、その傷があるからなんだなと思って」
俺は続ける。
「傷は確かに生々しいし、結構ショッキングだった。でも、それを俺に打ち明けた梨歩はめちゃくちゃ格好よかった。コンプレックスを誰かに打ち明けるのってすごく勇気がいっただろうにって。だから、それは傷じゃなくて、梨歩の強さの証だと思う。それに……」
少し言い淀んで、俺は梨歩の傷に触れながら言った。
「ひゃ……!」
「これは、俺だけに見せてくれればいい。いや、そうしてほしい」
「え……」
「この先もずっと」
「涼ちゃん……」
彼女の体温を感じながら、俺はさらに胸の奥に迸る熱い情動と理性の間で葛藤を続けていたが、そろそろ限界だ。
俺は着ていたTシャツを脱ぎ、梨歩をさっきよりもきつく抱きしめる。
「好きだ」
好きだとはっきり伝えたのは、きっとこの時が初めてだ。梨歩と付き合う前は俺から告白はしたものの、好きだとは言えずにいた。
(まさか、あんな告白で付き合えるとは思ってもみなかったからな)
まあ、結果オーライということで今日まで関係を続けてきたわけなのだが、信じられないくらいスムーズな流れでこうなった。それは恐らく、彼女がとても素直で寛大だからだと思う。
きっと彼女の寛大さが、俺に勇気をくれたのだろう。俺のようなヘタレた男を受け容れるくらいの器の持ち主だ。そういう意味では、俺はもりかすると人を見る目があるのかもしれないな――とささやかに自賛してみる。
「あたしも。好きよ、涼ちゃん」
「梨歩」
このまま時間が止まればいい。
ありきたりな表現しか思いつかないが、そう思えるくらいの幸せが凝縮された瞬間だった。
*
翌朝、目覚めると隣には小さな寝息を立てて眠る梨歩がいた。
「あ……」
とうとうやってしまったか。
自室に彼女を連れ込んだ挙げ句、一夜をともにするなんて。今までの俺には想像もつかなかった。
いつか逸生が言っていたことが現実になりつつある。こうやって今よりもっと味を占めるようになるのだろうか。
逸生には一人暮らしに対する不純な動機しかないと思っていたが、意外と真っ当な願望なのかもしれないと今になって思い直す。己のしでかしたことへの正当化と言えばそうなのだが。
俺はいかに狭い世界で生きてきたのだろうと思い知る。