まるで夢のような、夢ではない時間。
これが恋なのか。常時ふわふわとした浮遊感がつきまとう。
【柴田涼平、大学生になって初めて彼女ができました♪】
と勝手に流れる脳内テロップ。気色悪いったらありゃしない。
桜の季節が終わり、辺りはすっかり緑が映える季節となった。初夏の陽気を感じ始めた今、俺はその彼女を下宿先の自分の部屋に連れ込んでいる。
お相手は、歌手志望の18歳。高校には進学せず、ドーナツショップで働きながら音楽活動もしているらしい。
「涼ちゃん」
「り、梨歩……」
ぎこちなさMAXな俺の頬に、柔らかく温かな感触が走る。
「あ……えっ、え?」
「あっはははは! 何その中学生みたいな反応」
「ちゅ……?」
「あははは! ねえ、もしかして……マジで初めてとか?」
「……うん」
ああ、格好悪い。俺がリードしなきゃならんのに。彼女の方からさせるなんて。
「うっそ……。やだ、何かごめん。こんなシチュエーションで良かったのかな? 思った以上にウブな反応過ぎて意外」
ドン引きだよな。女の子とプライベートで手を繋いだ記憶すら、俺には全く無い。故に、免疫のない俺に不意打ちのキスなんて。
反則以外の何物でもない。
「いや、俺こそ。慣れてなくて」
「いいんだよ、慣れなくて」
梨歩はいつもの溌剌とした声からは想像つかないような玲瓏とした声で言う。
急に梨歩が大人っぽく見えた。
「でも、女の子って男からリードされたいって思うんじゃ……」
「そんなの好みの問題でしょ」
そう言ってのける彼女は、「あたしはピュアな反応されたほうが嬉しい」と続ける。
「まあ、あたしがそんなこと言える立場でもないんだけどね」
「え?」
「だって、あたしも……こういうことするの……初めてだから、さ」
彼女は、策士なのだろうか?
恋愛経験値ゼロの俺は、嬉しい反面疑い深くなってしまい、素直に喜べずにいた。
「あたしだってね、大胆なことすると……緊張するの」
みるみる紅潮していく彼女の頬。
前言撤回。
ヤバい。これは、マジなやつだ。
可愛すぎる。
「〜〜〜〜ッ!」
俺の中で、何かが弾けた。
「ちょ、涼ちゃん!?」
「…………」
彼女の小さな肩ごと、俺は包み込むように抱き寄せた。
抑えられないくらいの、心の底から揺さぶられるような熱い衝動に。
俺は負けた。
「うんッ……りょ、ちゃ――」
そう言いかける梨歩の口を、俺は唇で塞ぐ。
止められなかった。
嫌がるかもしれない。
そう思うと初めの一歩すら躊躇していたというのに。
さっきよりも柔らかくて、熱い。
熱帯びた互いの呼吸が乱れるたびに、欲望が俺を支配し始める。
まずい、止めないと。
歯止めが効かなくなる。
でも、離れたくない。
離したくない。
(どうすれば……)
引き際がわからず躊躇していると、梨歩が俺の肩を押して体を離す。
「……ご、ごめん」
「いいの。続けて」
「へ?」
間の抜けた声が出てしまった。
「嬉しいの。涼ちゃんに求められるのが」
何だ。
何だ。
何だ、この妙な色っぽさは。
普段無邪気な梨歩が、こんな表情を見せるなんて思いもしなかった俺は、ますます翻弄されていく。
「本当に、俺でいいの?」
「涼ちゃんが、いい」
このまま小柄で華奢な梨歩の身体をきつく抱きしめれば、壊れてしまうのではないかという不安もあった。でも、俺は心の何処かでそれでもいいと思っているような気がして――急に恐怖が俺の中に渦巻いた。
そして、これから起こそうとする行動を抑圧するように、まるで金縛りにでもあったかのような呪縛感に襲われる。
「……」
「涼ちゃん?」
「……あ、いや。えっと、な、何でも、ない」
どうすれば。
どうすればいいんだ。
こんな中途半端になるなんて。最高にダサ過ぎる。
俺は何とか知識の糸を手繰り寄せ、今後の展開に備え模索しようと試みる。
とりあえず、もう一度彼女を抱き寄せてみるか。
(こ……これで、いいのか……?)
俺がぎこちなく手を伸ばそうとすると、「ちょっと待って」と彼女に静止された。
そうか。そうだよな。冷めるよな。
俺は一人、自己嫌悪に陥る。
(うん、終わったな)
パサっと、何かが床に落ちる音がした。
「?」
俺の視線の先の梨歩が、羽織っていたレースのカーディガンを脱いで、それが床に滑り落ちる音だった。そして梨歩は、俺の目の前でそのまま上半身の脱衣を始める。
「え、ちょ、ちょ待っ――!」
スルスルと滑らかに上半身を纏っていた衣服を滑らせ、あっという間に下着姿になる梨歩。目のやり場に困った俺は、思わず視線を逸らす。
「涼ちゃんに、話しておかないといけないことがあるの」
真剣さを含んだ梨歩の声に、俺は再び梨歩の方へと視線を向けた。
「あ……」
ヤバい。ヤバい。
俺の中で、聞き慣れない鼓動がバクついて頭がフラフラする。まるで飲み慣れない酒を、一口飲んで秒で酔いが回ったみたいに……。
朦朧とし始めた意識。俺は今にも卒倒しそうになる脆弱なメンタルを何とか保とうと、脳内で奮闘し始めた。
(落ちるな、落ちるな、落ちるな! 絶対に落ちるな! 死んでも落ちるな!)
梨歩は少し恥じらいながら背を向け、下着を外した。
「驚かないでね」
今の時点でだいぶ驚愕なのだが、多分とても大切なことなのだろう。俺は「わかった」と返す。
上半身を露わにした彼女。
俺は息を呑んだ。
「ーーッ」
彼女の胸に刻まれた生々しい傷跡に。
「あたし、生まれつき心臓が弱くて。小さい頃何度も手術したの」
青白く浮き出た血管が透き通って見える。儚げなその柔肌には残酷すぎるくらいの存在感。
俺は思わず気圧されそうになる。
「気持ち悪いよね。こんな傷、二度と消えないってわかってるのにさ。何度も見るたびに、どうにか消す方法ないかなとか、隠すことばかり考えちゃう自分が本当に嫌で。もし好きな人ができて、いつかこの傷を見ることになったら……気持ちが離れていっちゃうんじゃないかって。だから、最初に話しておこうと思って」
彼女の傷には驚いた。でも、それ以上に俺にその傷のことを打ち明けた勇気に感服した。
確かに驚きはしたが、傷があるからなんだ。彼女は彼女じゃないか。
とにかく明白なのは、彼女は俺の想像以上に今まで傷ついてきたことだ。普段の溌剌とした元気いっぱいの彼女からは到底知り得ない事実だったが、その傷こそが彼女の芯の強さを助長しているようにも思えて、時折見せる繊細さの意味を漸く理解できたような気がした。
「あ、あとね。あたし、見ての通りまな板だから……。友達の若葉って子いるじゃん? 前にも言ったかもしれないけど、あの子すごくグラマーで。脱ぐともっとすごくて。だから、羨ましいっていうか、長年のあたしのコンプレックスというか……。もし、涼ちゃんが胸ある方が好きなら、がっかりさせちゃうかなって……ああ、何言ってんだろ、あたし」
「綺麗だ」
「……へ? 何が? どこが?」
「綺麗、というか、格好いいよ」
梨歩は、ぽかんと口を開けて固まってしまった。
「あ、ごめん。わかりにくかったよな」
「うん、どゆこと?」
「梨歩がいつも明るく元気に振る舞えるのは、その傷があるからなんだなと思って」
俺は続ける。
「傷は確かに生々しいし、結構ショッキングだった。でも、それを俺に打ち明けた梨歩はめちゃくちゃ格好よかった。コンプレックスを誰かに打ち明けるのってすごく勇気がいっただろうにって。だから、それは傷じゃなくて、梨歩の強さの証だと思う。それに……」
少し言い淀んで、俺は梨歩の傷に触れながら言った。
「ひゃ……!」
「これは、俺だけに見せてくれればいい。いや、そうしてほしい」
「え……」
「この先もずっと」
「涼ちゃん……」
彼女の体温を感じながら、俺はさらに胸の奥に迸る熱い情動と理性の間で葛藤を続けていたが、そろそろ限界だ。
俺は着ていたTシャツを脱ぎ、梨歩をさっきよりもきつく抱きしめる。
「好きだ」
好きだとはっきり伝えたのは、きっとこの時が初めてだ。梨歩と付き合う前は俺から告白はしたものの、好きだとは言えずにいた。
(まさか、あんな告白で付き合えるとは思ってもみなかったからな)
まあ、結果オーライということで今日まで関係を続けてきたわけなのだが、信じられないくらいスムーズな流れでこうなった。それは恐らく、彼女がとても素直で寛大だからだと思う。
きっと彼女の寛大さが、俺に勇気をくれたのだろう。俺のようなヘタレた男を受け容れるくらいの器の持ち主だ。そういう意味では、俺はもしかすると人を見る目があるのかもしれないな――とささやかに自賛してみる。
「あたしも。好きよ、涼ちゃん」
「梨歩」
このまま時間が止まればいい。
ありきたりな表現しか思いつかないが、そう思えるくらいの幸せが凝縮された瞬間だった。
梨歩の体温を肌で感じながら、俺は心の底から梨歩を求めていると気づいた。
「涼、ちゃん……」
「……!」
「大、好き……」
狂おしいくらいに、愛おしい。
いまだかつて感じたことのない、“欲望”という名の本能。
求め合うーー互いの体温、熱帯びた吐息、そして。
「梨歩……」
もっと。
もっと。
「涼ちゃ……ん」
君が、欲しい。
欲しい。
君を、独占したい。
他の誰にも、渡したくない。
理性が飛んでしまいそうになるのを必死で堪えながら、俺は梨歩を求め続けた。
「く……!」
やばい。制御不能。
このままだと、梨歩が本当に壊れてしまいそうだ。
怖い。
でも、もう止まらない。
「涼ちゃん……痛い」
「あ、悪、いーー」
次の瞬間、俺の意識は途絶えた。
*
翌朝、目覚めると隣には小さな寝息を立てて眠る梨歩がいた。
「あ……」
とうとうやってしまったか。
自室に彼女を連れ込んだ挙げ句、一夜をともにするなんて。今までの俺には想像もつかなかった。
いつか逸生が言っていたことが現実になりつつある。こうやって今よりもっと味を占めるようになるのだろうか。
逸生には一人暮らしに対する不純な動機しかないと思っていたが、意外と真っ当な願望なのかもしれないと今になって思い直す。己のしでかしたことへの正当化と言えばそうなのだが。
俺はいかに狭い世界で生きてきたのだろうと思い知る。
「ん……」
梨歩が寝返りを打ちながら薄目を開ける。
「涼ちゃん……」
寝ぼけ眼で梨歩は上半身を起こした。
「!!」
「どうしたの? 涼ちゃん」
俺は咄嗟にブランケットで梨歩の身体を覆う。
「え、何?」
「いいから、とりあえず……何か着て」
目のやり場に困った俺は、梨歩に背を向けるように立ち上がる。
「ぶっ!!」
突如梨歩が噴き出した。
「あっはははは! どの口が言ってんの、涼ちゃん」
「え?」
「ねえ、それ素? 狙ったわけじゃないよね?」
ヒイヒイ引き笑いをしながら梨歩は続ける。
「まッ……マジでウケるんだけど。涼ちゃんこそ、パンツ穿いたら? ああ、ヤバい! 面白すぎて笑い死にしそう!」
「うげっ!!」
不覚だった。
やけに風を肌に感じると思ったら……そういうことか。
「もうダメ、ギブギブ! これ以上あたしの腹筋いじめないで! あっははは……!」
そこまで笑うところだろうか、と内心思ったが、とりあえず俺はブツを探す。
「どこだ……?」
一人暮らしも一年過ぎると、人目を気にすることがなくなる。そして、無防備な姿が日常化すると、そのことに違和感を覚えなくなる。
よって、これが俺の“ありのまま”スタイルであることが、本日梨歩にバレた。
いつぞやの懸賞生活を送っていた某タレントのようなスタイルだ。
「ねえ、そこに落ちてるの違う?」
梨歩が指差す方向に、それはあった。
「あ、あった」
「ちょっと、大丈夫? パンツどこで脱いだか忘れるって、どんだけテンパってたのよ」
そして、再び大笑い。
「いや、別にテンパってたわけじゃない……のかな」
「あたしに聞かれても困るんだけど。ああ、面白すぎてムードも何もないわ」
「う……」
格好悪すぎる。穴があったら入りたい。なるべく大きめの深い穴に入って、しばらく地上には出て行きたくないくらいだ。
「まあ、これはこれでありだけどね」
いや、無しだろ。あり得なさ過ぎだろ。
できることなら記憶から抹消したい。
これは、いわゆる黒歴史というやつか。こうやって俺がやらかす度に刻まれていく、痛い歴史のことをいうんだ。
「ねえ、また来てもいい?」
「え?」
「楽しかった。やっぱりあたし、涼ちゃんともっと一緒にいたい」
真っ直ぐな瞳。嘘偽りのない素直な彼女の言動に、俺はいつも救われた。俺がこうして彼女を抱きしめることができるのも、不器用過ぎる俺を受け入れてくれた彼女だったから。
そう思うだけで、俺はもっと彼女を好きになった。
たとえ黒歴史だと俺が思うことですら、彼女の中では楽しい思い出として映るのだろう。それがありがたかったし、俺にとってもその方が都合がいい。無駄に自己嫌悪に陥るくらいなら、いっそのこと彼女を思い切り笑わせて、“二人だけの楽しい思い出”を増やしていったほうが心の経済的にも良いだろう。ウィン・ウィンというやつだ。知らんけど。
「ああ、もちろん」
「やったあ! ありがとう、涼ちゃん」
無邪気に俺に抱きつく梨歩。
「そうだ。今度あたし路上ライブやろうと思ってて。新しく歌作ってるの。ギター持ってきていい? 練習したいから」
「いいよ。ただ、うちは防音じゃないから」
「わかった。なるべく静かに歌うね」
「あ、それなら……この近くにある河川敷の方がいいかも」
俺はスランプに陥ると、いつも訪れる場所があった。そこから眺める景色が絶景で、去年越してきたばかりの頃に見た桜が忘れられないほど秀麗過ぎて。今はもう桜の時期ではないが、四季の移ろいすらも一本のドラマを観ているようで趣深い。風景画を専攻する俺にとっては、同じ場所から毎度違う景色を描くうえでも打ってつけの場所だった。
「へえ、そこなら思い切り歌っても大丈夫?」
「ああ。人も遠目にしかいないし、練習場所にはちょうどいいと思う。じゃあ、俺も画材持っていこうかな」
「いいね、それ。あたし賛成! 行こ行こ!」
「よし、じゃあ今度はそれで」
*
五日後の昼過ぎ。
俺は梨歩を連れて例の河川敷に来た。アパートから十五分程歩くと堤防があり、階段を下って河川敷に降りると一級河川が流れている。その対岸に映る桜の木々と晴れ渡る空のコントラストが俺のお気に入りだ。
5月も中頃に差し掛かると、もうすっかり夏が訪れたような陽気に包まれる。
「わ、思ったより暑いね。もう少し陰になるところない?」
背中にアコースティックギターを背負った梨歩は、額に汗を滲ませ手の甲で軽く拭った。俺はスケッチブックと色鉛筆の入ったショルダーバッグをかけ、「この辺りなら」と梨歩に木陰になる場所をすすめる。
「ありがとう。うわ、背中汗ヤバい」
背負ったギターを降ろすと、梨歩は背汗の跡を気にするように背後に手を回し、背中に張り付いた服を引っ張りながら風を通している。
「何この暑さ。もう夏じゃん。服選び失敗したわ」
「確かに、今日は特に暑いな」
「ねえ、デオス持ってない?」
「え、でお……?」
「あ、ごめん。デオドラントスプレー」
「ああ、脇シューのことか」
「え、何?」
「あれ? 脇シューって言うんじゃ……」
マジか。ギリ通じると思ったのに。10代の女子なら共通語なのかと思っていた。
あれは、方言だったのか?
「あっははは! 脇にシューってするから? 何それ、めっちゃ面白い!」
案の定、大笑いされた。
「あー……もしかして、通じなかった?」
まさか。
通じないとは思わず、当たり前のように発した言葉が恥ずかしい。
俺の地元では、高校時代に女子が「ねえ、脇シュー貸して」などとしょっちゅう言っていたから。
標準語だと思っていた。
「初めて聞いたわ、それ今度使お。“脇シュー”ね。ねえ、涼ちゃん。脇シュー貸して」
早速使ってるし。
「ああ、これね」
「ありがとう」
俺は梨歩にデオス……ではなく脇シューを渡した。俺は手汗と体臭が気になるので、年中持ち歩いている。中学時代に女子から「オッサンの加齢臭みたいなニオイがする」と言われたのがトラウマで、外出先には必ず持ち歩いている。
「涼ちゃんって、もしかして女子力高め?」
「え、いや、そういうわけじゃないけど」
「だって、こういうのササッと出てくるじゃん。あたし現地調達か人に借りることの方が多いからさ、持ち歩く習慣ないんだよね」
梨歩は俺の脇シューを背中に噴射しながら言った。
「ああ、さっぱりした。ありがとう」
柑橘系の爽やかな香りが辺りに漂う。
「これめっちゃいい香りするね。あたしも買おうかな。メーカーどこの?」
梨歩は脇シューの本体を見ながら再び噴き出す。
「ちょ、待って。これ、足用じゃん!」
「ああ、それは……」
「ウケる、もしかして足ムレる系?」
「いや、足だけじゃなくて……え?」
「あっははは! 足だけじゃないって、何? 全身とか?」
「まあ、そんな感じ……」
「出た! “そんな感じ”! やっぱ涼ちゃん最高だわ」
中学時代の苦い経験がベースなのだと言いかけたが、この様子だとわざわざ言わなくてもいいかと思った。言われた当初はかなりしんどかったが、こんなにも明るく笑い飛ばしてくれる彼女に救われるとは。俺が脇シューを携帯する理由が上書きできそう。そう思うだけで晴れやかな気分になれた。
俺は脇シューをしまう前に自分にも噴射した。
この爽やかな香りがいつまでも続いてくれるのがいいのだが……そういうわけにもいかず。
「よし、気を取り直して……やりますか」
梨歩がハードケースからアコースティックギターを取り出した。
「うん、さっきの脇シューの香りのおかげで創作意欲が湧いてきたわ」
「俺も」
「よし、じゃあ早速作ってみよう。タイトルは……」
『脇シュー』
かぶった。二人見事にかぶった。
「あっははははは!」
「ヤバ、ここまできれいにかぶるとは思わんかった」
「脇シューに感謝だねえ」
「まさか、こいつに感謝する日が来るとはな」
馬鹿みたいに笑った。こんなに笑ったのはどれくらいぶりだろう。
梨歩が歌い、俺が描く。
共同作業のような時間の中に、それぞれの世界観が絶妙に入り混じる。
俺が描き、梨歩が歌う。
春を歌い、春を描く。
夏を歌い、夏を描く。
秋を歌い、秋を描く。
冬を歌い、冬を描く。
そんなふうに二人の時間を重ねていける。いつの間にか、梨歩と過ごすのが当たり前になっていく。
少し前までには想像もつかなかった俺の“青春”。
晴れ渡る空の青さがやけに沁みて、この幸せをずっと噛み締めていたいーーそんな贅沢な思いを抱くようになるほど、俺は梨歩に夢中になっていた。
「ここ、すごくいい場所だね」
「ああ。俺のお気に入りの場所なんだ」
「ねえ、あたしも気に入っちゃった。また一緒に来ようね」
「ああ。いつでも」
これが恋なのか。常時ふわふわとした浮遊感がつきまとう。
【柴田涼平、大学生になって初めて彼女ができました♪】
と勝手に流れる脳内テロップ。気色悪いったらありゃしない。
桜の季節が終わり、辺りはすっかり緑が映える季節となった。初夏の陽気を感じ始めた今、俺はその彼女を下宿先の自分の部屋に連れ込んでいる。
お相手は、歌手志望の18歳。高校には進学せず、ドーナツショップで働きながら音楽活動もしているらしい。
「涼ちゃん」
「り、梨歩……」
ぎこちなさMAXな俺の頬に、柔らかく温かな感触が走る。
「あ……えっ、え?」
「あっはははは! 何その中学生みたいな反応」
「ちゅ……?」
「あははは! ねえ、もしかして……マジで初めてとか?」
「……うん」
ああ、格好悪い。俺がリードしなきゃならんのに。彼女の方からさせるなんて。
「うっそ……。やだ、何かごめん。こんなシチュエーションで良かったのかな? 思った以上にウブな反応過ぎて意外」
ドン引きだよな。女の子とプライベートで手を繋いだ記憶すら、俺には全く無い。故に、免疫のない俺に不意打ちのキスなんて。
反則以外の何物でもない。
「いや、俺こそ。慣れてなくて」
「いいんだよ、慣れなくて」
梨歩はいつもの溌剌とした声からは想像つかないような玲瓏とした声で言う。
急に梨歩が大人っぽく見えた。
「でも、女の子って男からリードされたいって思うんじゃ……」
「そんなの好みの問題でしょ」
そう言ってのける彼女は、「あたしはピュアな反応されたほうが嬉しい」と続ける。
「まあ、あたしがそんなこと言える立場でもないんだけどね」
「え?」
「だって、あたしも……こういうことするの……初めてだから、さ」
彼女は、策士なのだろうか?
恋愛経験値ゼロの俺は、嬉しい反面疑い深くなってしまい、素直に喜べずにいた。
「あたしだってね、大胆なことすると……緊張するの」
みるみる紅潮していく彼女の頬。
前言撤回。
ヤバい。これは、マジなやつだ。
可愛すぎる。
「〜〜〜〜ッ!」
俺の中で、何かが弾けた。
「ちょ、涼ちゃん!?」
「…………」
彼女の小さな肩ごと、俺は包み込むように抱き寄せた。
抑えられないくらいの、心の底から揺さぶられるような熱い衝動に。
俺は負けた。
「うんッ……りょ、ちゃ――」
そう言いかける梨歩の口を、俺は唇で塞ぐ。
止められなかった。
嫌がるかもしれない。
そう思うと初めの一歩すら躊躇していたというのに。
さっきよりも柔らかくて、熱い。
熱帯びた互いの呼吸が乱れるたびに、欲望が俺を支配し始める。
まずい、止めないと。
歯止めが効かなくなる。
でも、離れたくない。
離したくない。
(どうすれば……)
引き際がわからず躊躇していると、梨歩が俺の肩を押して体を離す。
「……ご、ごめん」
「いいの。続けて」
「へ?」
間の抜けた声が出てしまった。
「嬉しいの。涼ちゃんに求められるのが」
何だ。
何だ。
何だ、この妙な色っぽさは。
普段無邪気な梨歩が、こんな表情を見せるなんて思いもしなかった俺は、ますます翻弄されていく。
「本当に、俺でいいの?」
「涼ちゃんが、いい」
このまま小柄で華奢な梨歩の身体をきつく抱きしめれば、壊れてしまうのではないかという不安もあった。でも、俺は心の何処かでそれでもいいと思っているような気がして――急に恐怖が俺の中に渦巻いた。
そして、これから起こそうとする行動を抑圧するように、まるで金縛りにでもあったかのような呪縛感に襲われる。
「……」
「涼ちゃん?」
「……あ、いや。えっと、な、何でも、ない」
どうすれば。
どうすればいいんだ。
こんな中途半端になるなんて。最高にダサ過ぎる。
俺は何とか知識の糸を手繰り寄せ、今後の展開に備え模索しようと試みる。
とりあえず、もう一度彼女を抱き寄せてみるか。
(こ……これで、いいのか……?)
俺がぎこちなく手を伸ばそうとすると、「ちょっと待って」と彼女に静止された。
そうか。そうだよな。冷めるよな。
俺は一人、自己嫌悪に陥る。
(うん、終わったな)
パサっと、何かが床に落ちる音がした。
「?」
俺の視線の先の梨歩が、羽織っていたレースのカーディガンを脱いで、それが床に滑り落ちる音だった。そして梨歩は、俺の目の前でそのまま上半身の脱衣を始める。
「え、ちょ、ちょ待っ――!」
スルスルと滑らかに上半身を纏っていた衣服を滑らせ、あっという間に下着姿になる梨歩。目のやり場に困った俺は、思わず視線を逸らす。
「涼ちゃんに、話しておかないといけないことがあるの」
真剣さを含んだ梨歩の声に、俺は再び梨歩の方へと視線を向けた。
「あ……」
ヤバい。ヤバい。
俺の中で、聞き慣れない鼓動がバクついて頭がフラフラする。まるで飲み慣れない酒を、一口飲んで秒で酔いが回ったみたいに……。
朦朧とし始めた意識。俺は今にも卒倒しそうになる脆弱なメンタルを何とか保とうと、脳内で奮闘し始めた。
(落ちるな、落ちるな、落ちるな! 絶対に落ちるな! 死んでも落ちるな!)
梨歩は少し恥じらいながら背を向け、下着を外した。
「驚かないでね」
今の時点でだいぶ驚愕なのだが、多分とても大切なことなのだろう。俺は「わかった」と返す。
上半身を露わにした彼女。
俺は息を呑んだ。
「ーーッ」
彼女の胸に刻まれた生々しい傷跡に。
「あたし、生まれつき心臓が弱くて。小さい頃何度も手術したの」
青白く浮き出た血管が透き通って見える。儚げなその柔肌には残酷すぎるくらいの存在感。
俺は思わず気圧されそうになる。
「気持ち悪いよね。こんな傷、二度と消えないってわかってるのにさ。何度も見るたびに、どうにか消す方法ないかなとか、隠すことばかり考えちゃう自分が本当に嫌で。もし好きな人ができて、いつかこの傷を見ることになったら……気持ちが離れていっちゃうんじゃないかって。だから、最初に話しておこうと思って」
彼女の傷には驚いた。でも、それ以上に俺にその傷のことを打ち明けた勇気に感服した。
確かに驚きはしたが、傷があるからなんだ。彼女は彼女じゃないか。
とにかく明白なのは、彼女は俺の想像以上に今まで傷ついてきたことだ。普段の溌剌とした元気いっぱいの彼女からは到底知り得ない事実だったが、その傷こそが彼女の芯の強さを助長しているようにも思えて、時折見せる繊細さの意味を漸く理解できたような気がした。
「あ、あとね。あたし、見ての通りまな板だから……。友達の若葉って子いるじゃん? 前にも言ったかもしれないけど、あの子すごくグラマーで。脱ぐともっとすごくて。だから、羨ましいっていうか、長年のあたしのコンプレックスというか……。もし、涼ちゃんが胸ある方が好きなら、がっかりさせちゃうかなって……ああ、何言ってんだろ、あたし」
「綺麗だ」
「……へ? 何が? どこが?」
「綺麗、というか、格好いいよ」
梨歩は、ぽかんと口を開けて固まってしまった。
「あ、ごめん。わかりにくかったよな」
「うん、どゆこと?」
「梨歩がいつも明るく元気に振る舞えるのは、その傷があるからなんだなと思って」
俺は続ける。
「傷は確かに生々しいし、結構ショッキングだった。でも、それを俺に打ち明けた梨歩はめちゃくちゃ格好よかった。コンプレックスを誰かに打ち明けるのってすごく勇気がいっただろうにって。だから、それは傷じゃなくて、梨歩の強さの証だと思う。それに……」
少し言い淀んで、俺は梨歩の傷に触れながら言った。
「ひゃ……!」
「これは、俺だけに見せてくれればいい。いや、そうしてほしい」
「え……」
「この先もずっと」
「涼ちゃん……」
彼女の体温を感じながら、俺はさらに胸の奥に迸る熱い情動と理性の間で葛藤を続けていたが、そろそろ限界だ。
俺は着ていたTシャツを脱ぎ、梨歩をさっきよりもきつく抱きしめる。
「好きだ」
好きだとはっきり伝えたのは、きっとこの時が初めてだ。梨歩と付き合う前は俺から告白はしたものの、好きだとは言えずにいた。
(まさか、あんな告白で付き合えるとは思ってもみなかったからな)
まあ、結果オーライということで今日まで関係を続けてきたわけなのだが、信じられないくらいスムーズな流れでこうなった。それは恐らく、彼女がとても素直で寛大だからだと思う。
きっと彼女の寛大さが、俺に勇気をくれたのだろう。俺のようなヘタレた男を受け容れるくらいの器の持ち主だ。そういう意味では、俺はもしかすると人を見る目があるのかもしれないな――とささやかに自賛してみる。
「あたしも。好きよ、涼ちゃん」
「梨歩」
このまま時間が止まればいい。
ありきたりな表現しか思いつかないが、そう思えるくらいの幸せが凝縮された瞬間だった。
梨歩の体温を肌で感じながら、俺は心の底から梨歩を求めていると気づいた。
「涼、ちゃん……」
「……!」
「大、好き……」
狂おしいくらいに、愛おしい。
いまだかつて感じたことのない、“欲望”という名の本能。
求め合うーー互いの体温、熱帯びた吐息、そして。
「梨歩……」
もっと。
もっと。
「涼ちゃ……ん」
君が、欲しい。
欲しい。
君を、独占したい。
他の誰にも、渡したくない。
理性が飛んでしまいそうになるのを必死で堪えながら、俺は梨歩を求め続けた。
「く……!」
やばい。制御不能。
このままだと、梨歩が本当に壊れてしまいそうだ。
怖い。
でも、もう止まらない。
「涼ちゃん……痛い」
「あ、悪、いーー」
次の瞬間、俺の意識は途絶えた。
*
翌朝、目覚めると隣には小さな寝息を立てて眠る梨歩がいた。
「あ……」
とうとうやってしまったか。
自室に彼女を連れ込んだ挙げ句、一夜をともにするなんて。今までの俺には想像もつかなかった。
いつか逸生が言っていたことが現実になりつつある。こうやって今よりもっと味を占めるようになるのだろうか。
逸生には一人暮らしに対する不純な動機しかないと思っていたが、意外と真っ当な願望なのかもしれないと今になって思い直す。己のしでかしたことへの正当化と言えばそうなのだが。
俺はいかに狭い世界で生きてきたのだろうと思い知る。
「ん……」
梨歩が寝返りを打ちながら薄目を開ける。
「涼ちゃん……」
寝ぼけ眼で梨歩は上半身を起こした。
「!!」
「どうしたの? 涼ちゃん」
俺は咄嗟にブランケットで梨歩の身体を覆う。
「え、何?」
「いいから、とりあえず……何か着て」
目のやり場に困った俺は、梨歩に背を向けるように立ち上がる。
「ぶっ!!」
突如梨歩が噴き出した。
「あっはははは! どの口が言ってんの、涼ちゃん」
「え?」
「ねえ、それ素? 狙ったわけじゃないよね?」
ヒイヒイ引き笑いをしながら梨歩は続ける。
「まッ……マジでウケるんだけど。涼ちゃんこそ、パンツ穿いたら? ああ、ヤバい! 面白すぎて笑い死にしそう!」
「うげっ!!」
不覚だった。
やけに風を肌に感じると思ったら……そういうことか。
「もうダメ、ギブギブ! これ以上あたしの腹筋いじめないで! あっははは……!」
そこまで笑うところだろうか、と内心思ったが、とりあえず俺はブツを探す。
「どこだ……?」
一人暮らしも一年過ぎると、人目を気にすることがなくなる。そして、無防備な姿が日常化すると、そのことに違和感を覚えなくなる。
よって、これが俺の“ありのまま”スタイルであることが、本日梨歩にバレた。
いつぞやの懸賞生活を送っていた某タレントのようなスタイルだ。
「ねえ、そこに落ちてるの違う?」
梨歩が指差す方向に、それはあった。
「あ、あった」
「ちょっと、大丈夫? パンツどこで脱いだか忘れるって、どんだけテンパってたのよ」
そして、再び大笑い。
「いや、別にテンパってたわけじゃない……のかな」
「あたしに聞かれても困るんだけど。ああ、面白すぎてムードも何もないわ」
「う……」
格好悪すぎる。穴があったら入りたい。なるべく大きめの深い穴に入って、しばらく地上には出て行きたくないくらいだ。
「まあ、これはこれでありだけどね」
いや、無しだろ。あり得なさ過ぎだろ。
できることなら記憶から抹消したい。
これは、いわゆる黒歴史というやつか。こうやって俺がやらかす度に刻まれていく、痛い歴史のことをいうんだ。
「ねえ、また来てもいい?」
「え?」
「楽しかった。やっぱりあたし、涼ちゃんともっと一緒にいたい」
真っ直ぐな瞳。嘘偽りのない素直な彼女の言動に、俺はいつも救われた。俺がこうして彼女を抱きしめることができるのも、不器用過ぎる俺を受け入れてくれた彼女だったから。
そう思うだけで、俺はもっと彼女を好きになった。
たとえ黒歴史だと俺が思うことですら、彼女の中では楽しい思い出として映るのだろう。それがありがたかったし、俺にとってもその方が都合がいい。無駄に自己嫌悪に陥るくらいなら、いっそのこと彼女を思い切り笑わせて、“二人だけの楽しい思い出”を増やしていったほうが心の経済的にも良いだろう。ウィン・ウィンというやつだ。知らんけど。
「ああ、もちろん」
「やったあ! ありがとう、涼ちゃん」
無邪気に俺に抱きつく梨歩。
「そうだ。今度あたし路上ライブやろうと思ってて。新しく歌作ってるの。ギター持ってきていい? 練習したいから」
「いいよ。ただ、うちは防音じゃないから」
「わかった。なるべく静かに歌うね」
「あ、それなら……この近くにある河川敷の方がいいかも」
俺はスランプに陥ると、いつも訪れる場所があった。そこから眺める景色が絶景で、去年越してきたばかりの頃に見た桜が忘れられないほど秀麗過ぎて。今はもう桜の時期ではないが、四季の移ろいすらも一本のドラマを観ているようで趣深い。風景画を専攻する俺にとっては、同じ場所から毎度違う景色を描くうえでも打ってつけの場所だった。
「へえ、そこなら思い切り歌っても大丈夫?」
「ああ。人も遠目にしかいないし、練習場所にはちょうどいいと思う。じゃあ、俺も画材持っていこうかな」
「いいね、それ。あたし賛成! 行こ行こ!」
「よし、じゃあ今度はそれで」
*
五日後の昼過ぎ。
俺は梨歩を連れて例の河川敷に来た。アパートから十五分程歩くと堤防があり、階段を下って河川敷に降りると一級河川が流れている。その対岸に映る桜の木々と晴れ渡る空のコントラストが俺のお気に入りだ。
5月も中頃に差し掛かると、もうすっかり夏が訪れたような陽気に包まれる。
「わ、思ったより暑いね。もう少し陰になるところない?」
背中にアコースティックギターを背負った梨歩は、額に汗を滲ませ手の甲で軽く拭った。俺はスケッチブックと色鉛筆の入ったショルダーバッグをかけ、「この辺りなら」と梨歩に木陰になる場所をすすめる。
「ありがとう。うわ、背中汗ヤバい」
背負ったギターを降ろすと、梨歩は背汗の跡を気にするように背後に手を回し、背中に張り付いた服を引っ張りながら風を通している。
「何この暑さ。もう夏じゃん。服選び失敗したわ」
「確かに、今日は特に暑いな」
「ねえ、デオス持ってない?」
「え、でお……?」
「あ、ごめん。デオドラントスプレー」
「ああ、脇シューのことか」
「え、何?」
「あれ? 脇シューって言うんじゃ……」
マジか。ギリ通じると思ったのに。10代の女子なら共通語なのかと思っていた。
あれは、方言だったのか?
「あっははは! 脇にシューってするから? 何それ、めっちゃ面白い!」
案の定、大笑いされた。
「あー……もしかして、通じなかった?」
まさか。
通じないとは思わず、当たり前のように発した言葉が恥ずかしい。
俺の地元では、高校時代に女子が「ねえ、脇シュー貸して」などとしょっちゅう言っていたから。
標準語だと思っていた。
「初めて聞いたわ、それ今度使お。“脇シュー”ね。ねえ、涼ちゃん。脇シュー貸して」
早速使ってるし。
「ああ、これね」
「ありがとう」
俺は梨歩にデオス……ではなく脇シューを渡した。俺は手汗と体臭が気になるので、年中持ち歩いている。中学時代に女子から「オッサンの加齢臭みたいなニオイがする」と言われたのがトラウマで、外出先には必ず持ち歩いている。
「涼ちゃんって、もしかして女子力高め?」
「え、いや、そういうわけじゃないけど」
「だって、こういうのササッと出てくるじゃん。あたし現地調達か人に借りることの方が多いからさ、持ち歩く習慣ないんだよね」
梨歩は俺の脇シューを背中に噴射しながら言った。
「ああ、さっぱりした。ありがとう」
柑橘系の爽やかな香りが辺りに漂う。
「これめっちゃいい香りするね。あたしも買おうかな。メーカーどこの?」
梨歩は脇シューの本体を見ながら再び噴き出す。
「ちょ、待って。これ、足用じゃん!」
「ああ、それは……」
「ウケる、もしかして足ムレる系?」
「いや、足だけじゃなくて……え?」
「あっははは! 足だけじゃないって、何? 全身とか?」
「まあ、そんな感じ……」
「出た! “そんな感じ”! やっぱ涼ちゃん最高だわ」
中学時代の苦い経験がベースなのだと言いかけたが、この様子だとわざわざ言わなくてもいいかと思った。言われた当初はかなりしんどかったが、こんなにも明るく笑い飛ばしてくれる彼女に救われるとは。俺が脇シューを携帯する理由が上書きできそう。そう思うだけで晴れやかな気分になれた。
俺は脇シューをしまう前に自分にも噴射した。
この爽やかな香りがいつまでも続いてくれるのがいいのだが……そういうわけにもいかず。
「よし、気を取り直して……やりますか」
梨歩がハードケースからアコースティックギターを取り出した。
「うん、さっきの脇シューの香りのおかげで創作意欲が湧いてきたわ」
「俺も」
「よし、じゃあ早速作ってみよう。タイトルは……」
『脇シュー』
かぶった。二人見事にかぶった。
「あっははははは!」
「ヤバ、ここまできれいにかぶるとは思わんかった」
「脇シューに感謝だねえ」
「まさか、こいつに感謝する日が来るとはな」
馬鹿みたいに笑った。こんなに笑ったのはどれくらいぶりだろう。
梨歩が歌い、俺が描く。
共同作業のような時間の中に、それぞれの世界観が絶妙に入り混じる。
俺が描き、梨歩が歌う。
春を歌い、春を描く。
夏を歌い、夏を描く。
秋を歌い、秋を描く。
冬を歌い、冬を描く。
そんなふうに二人の時間を重ねていける。いつの間にか、梨歩と過ごすのが当たり前になっていく。
少し前までには想像もつかなかった俺の“青春”。
晴れ渡る空の青さがやけに沁みて、この幸せをずっと噛み締めていたいーーそんな贅沢な思いを抱くようになるほど、俺は梨歩に夢中になっていた。
「ここ、すごくいい場所だね」
「ああ。俺のお気に入りの場所なんだ」
「ねえ、あたしも気に入っちゃった。また一緒に来ようね」
「ああ。いつでも」