こうなったら、一か八か。
俺は腹をくくる決意をする。
もうどうとでもなるがいい、俺。
「あの、俺と――」
ぐううう〜~~
「あ……」
腹をくくった瞬間、盛大に腹が鳴った。
穴があったら、是非とも入りたい。
「あっはははは!」
終わった。絶対に終わった。
「やっぱ面白いわ、お兄さん」
「あ、えっと……」
もう帰りたすぎる。もっと一緒にいたいのに、居た堪れないという矛盾。
「いいよ。お兄さんとなら」
「え?」
何のことだ?
「えっと……?」
「だから、付き合おうってこと」
「は? え、え、えへ?」
「あっはははははははは! 」
俺、まだ何も言っていないのに。
何故だ? 何故こうなった?
「あの、何で俺?」
「だって、絶対楽しいじゃん。あたし、付き合うなら絶対に笑わせてくれる人がいいと思ってたからさ。お兄さんビンゴなの」
「いや、別に俺は笑わそうとしたわけじゃなくて……」
ああ、何か想像とかなりかけ離れていて思考が追いつかない。本当にこれでいいのだろうか。こんなにあっさり付き合うことになるものなのか。恋愛感全く無いような。これは、友達レベルでは?
俺はどうしても腑に落ちなくて、もう一度仕切り直す術を模索するが思いつかない。そうこうしているうちに彼女の方から、「その天然さが余計にツボるんだよ。ああ面白い」と言われた。喜んでもいいのだろうか。反応に困る。
「それに、さっき助けてくれた時。かっこよかった」
「え、あれはただ……」
俺はただ逃げただけなのに。しかも、小学生並みの反撃で、だ。
「ううん、どんな形でも、あたしを守ろうとしてくれたことが一番嬉しかった。それが一番の決め手かな」
「そ、それならよかった」
「ありがとう」
それが決め手ならば、あの男に少しばかりだが感謝だな。
「あ、そういえば。あたしまだちゃんと名前言ってなかった。あたし、桜ヶ丘梨歩。よろしくね、お兄さん……じゃなくて。あ、お兄さんの名前も知らんわ。知らんのに付き合おうとか。ウケる! で、名前は?」
「柴田、涼平。です」
彼女、とうとう自分に突っ込んでいたな。俺には彼女の笑いのツボがいまいち理解できないが、結果オーライということでいいのだろうか。何だか彼女のペースに流されている気がする。でも、それも悪くないなと思えるのは、やっぱり俺が彼女を好きだからなのだろう。
「じゃあ、涼ちゃんね。よろしく、涼ちゃん」
「あ、はい」
「あたしのことは梨歩って呼んでね」
「わかった。あ、わかりました、梨歩、ちゃん」
「あっははは! 何で敬語に直すの、あたしより年上じゃん。遠慮しすぎてウケる!」
「あ、じゃあ……わかった」
「ホントに? 次敬語使ったら連れ回しの刑ね」
「はい」
「あっはははははははは! 連れ回し決定! どんだけあたしと一緒にいたいのよ」
ぎこちなさ全開の俺に対して、こんなにも全力で笑い飛ばしてくれるとは。
「ねえ、早速なんだけど」
「え?」
「デートしよ!」
「い!?」
で、デートだと?
「あっはははは! 何それ、『い!?』って。やっぱ涼ちゃん面白いわ」
「えっと……どこに、行きたい?」
「そこのすぐ近くのホテル――」
「は!?」
ちょっと待て。心の準備体操が……。
「ちょ、何? その反応。あたし、そこのホテルの最上階にあるレストランでケーキ食べたいって言おうとしたんだけど」
「あ、ああ。そっちか」
「そっち、って。まさか、やらしい方想像した? やだもう、涼ちゃんたらぁ」
「ちちち、違……! 決してそんなつもりじゃ……」
すっかり彼女のペースだ。でも、何故だろう。不思議なくらい心地良い。
「ね、行こ!」
「あ……」
さり気なく手を繋ぐ形になり、思考が追いつかずに思わず足元がふらつく。俺は今、女の子と手を繋いでいる。そう思うだけで顔が沸かしたてのポットの湯のように沸騰しそうになるというのに。
俺達は作品置場を出てエレベーターを使い、もと来た道を行く。
(……慣れない、この感覚)
キャンパスの中を彼女と手を繋いで歩くなんて、少し前までの俺には想像できなかった展開だ。妄想ですらしなかった。故にこの手のシチュエーションにおける免疫は皆無。
やばい、手汗が……。
じわじわとにじみ出る感覚に気まずさを覚え、俺は思わず手を引っ込めてしまう。
「涼ちゃん?」
「あ、ごめん。その……」
「どうかした?」
「えっと……」
手汗が気になってつい。なんて言えるはずもなく言葉に詰まる。それに、いくら他の言葉を探してもそれ以外思いつかなかった。
「ああ、そうか。わかった! こうすればいいんだ」
不意に彼女が口走り、俺の左腕にぶら下がるように掴まった。
「え、え?」
いずれにしても、唐突すぎる彼女の行動に戸惑うばかりで、情けないことに俺は間抜けな声しか出なかった。
「あっはははは! こっちの方がカップルっぽくていいじゃん。それにあたし、憧れてたのよね。大学なんて来たことなかったから、キャンパスライフってやつ? いかにも青春してますって感じのさ。ああいうのやってみたかったの」
「そ、そうなんや」
「ん?」
彼女が足を止める。
「ねえ、涼ちゃんってさ」
「な、何?」
「地元どこ?」
「え、岐阜だけど」
唐突に聞かれて驚いた。何か思うところがあったのだろうか。
「岐阜かぁ。岐阜の人は初めて出会ったわ。名古屋の人ならあるけど。ねえ、岐阜って何があるの? あたし行ったことなくて」
「岐阜城とか、長良川鵜飼とかはよく聞くと思うけど。モレラレ岐阜っていうでかいショッピングモールとか、玉宮町ってとこにある飲み屋街とか柳ヶ瀬商店街とか。飛騨高山や白川郷も観光地としては有名かな」
「へえ、そうなんだ。白川郷は聞いたことある。世界遺産だっけ?」
「そうだよ。でも俺はそのあたりはあまりよく知らない。同じ岐阜でも全くノータッチだったり、別世界に感じる場所もあるくらいだから」
「じゃあさ、涼ちゃんのおすすめスポットはどこ?」
「俺の? いや、おすすめってほどでもないかもしれないけど、俺は……」
俺は基本出不精だ。が、たまに違った景色が見たくなって海のある街に出かけたり、高層ビルや洒落た店が建ち並ぶ都会の空気に触れたくなるなど、衝動的に出向くことはある。
「うーん、俺がよく行くのは……」
そうこうしているうちに、例のホテルに着いた。
展望レストランに直結したエレベーターに乗ると、ガラス張りの壁面からは俺の通う大学周辺の景色が一望できた。
「わあ! すごい、人がノミのようだわ」
「それ、某映画のラスボスが吐き捨てたセリフじゃ……?」
「あ、わかった? あたしあの映画好きでさあ。小さい頃から何回も観てたの」
「ああ、俺もよく観てたよ。姉貴と」
「お姉さんいるんだ、涼ちゃん」
「うん。5歳離れてるし、物心つく頃にはいつも姉貴の後ろくっついていたよ。今でもThe姉御って感じの人だから」
「頼りになるお姉さんなんだね。あたしは8歳離れた双子のお兄ちゃんがいるよ」
彼女の兄はそれぞれ小児科医と高校の体育教師をしているらしい。特に上のお兄さんについては、この首都圏でも超難関で有名な大学の医学部に通っていたようで。
「あたしがいうのも変なんだけど、二人とも結構イケメンでさ。めっちゃモテたの。特に上のお兄ちゃんはハイスペだったし、あ、でもね。下のお兄はちょっとひねくれてるから、高確率ですぐフラレる。全く同じ顔してるのにさ、性格が間逆なの」
ケータイに写った家族写真を見せてもらうと、確かに二人ともかなりの男前だった。俺には眩しすぎるくらい、というか、この世にはこんなにも完成した人間がいるのかと思うほどだ。地味な俺が隣にいても、背景にしかならないのは明白だった。
「仲良さそうだね」
「割とね。でも、下のお兄とはいつも喧嘩ばっかりだよ。昨日もあたしのおやつ勝手に食べてムカついたから、テレビのリモコンで脳天チョップかましちゃったわ」
「へ、へえ……」
兄妹喧嘩の程度は、思った以上に激しそうだ。
「あ、着いた」
最上階に到着すると、レストランの前に受付のスタッフがいた。
「あの、予約……してないんですが」
「はい、かしこまりました。お席確認しますので少々お待ち下さい」
受付のスタッフは一瞬店内に入り、すぐさま戻ってきた。
「お待たせいたしました。空いているお席がございましたのでどうぞ」
運良く席に空きがあったようだ。こういうのは事前に予約していくのがスマートなのだろうが、今回は思いつきと言うか、急遽だったので俺も完全に抜けてしまっていた。
「やったね、涼ちゃん。結構いい席だよ。あ、マスドがアリンコみたい」
席に着くやいなや、彼女はバイト先を指差す。
「だいぶ高いな」
「涼ちゃん高いとこ平気?」
「まあ、平気な方かな」
「良かった。あたしの友達の若葉はね、高所恐怖症で歩道橋ですら腰抜かしちゃうのよ。あれは大変だわ」
「若葉ちゃんって、あの長い黒髪の?」
「そうそう、あたしたちを繋いでくれたグラマーな子」
「ぐ、グラマー?」
「うん、脱ぐともっとすごいよ」
「そ、そうなんだ」
「あ、そうだ。涼ちゃん美大だったらさ、ヌードとか描くの?」
「え!? いや、それは……ない」
今のところは。
「えー、そうなんだ。てっきりそういうモデルさん呼んで描いたりとかしてるのかと」
「全然、そんなことはない。あったとしても、生身の人間じゃなくて彫刻とかだから」
「何だぁ、つまんない」
「え?」
「もし裸婦が描きたかったら若葉にお願いしたげようかなと思ったんだけど」
「いや、それ絶対あかんやつでしょ」
「そうかなあ。まあ、あたしはまな板だし幼児体型だから対象外だろうし。ていうかあたしも人前で脱ぐのは嫌だわ」
「それは誰だって嫌だよ」
まさか展望レストランに来て早々、ヌードがどうのこうのという話になるとは思いもしなかった。ここはヌードよりムードだろう。俺は話題を変えようと試みる。
「あのさ、ドリンク何にする?」
俺はメニューを広げる。
「あ、そうか。すっかり忘れてた」
やっぱりな。
「道理でお腹すいたと思ってたの。じゃああたしオレンジジュース」
「なら俺はアイスコーヒー」
「やば、マスドの時とパターンおんなじじゃん」
「ドリンクなんて、だいたいどこの店行ってもついいつもの流れで決まったやつ頼むもんじゃないの? 俺はずっとそうだけど」
「そう言われるとそうだね。あたしだいたいジュース系飲んでるわ。コーヒーも紅茶もイマイチ気分じゃなくてさ。若葉は紅茶ばっかりだし」
「まあ、人それぞれだな」
「だね」
「で、ケーキは?」
「あ、そうだ。忘れてたわ」
「そもそもケーキが食べたかったんだよね」
「そうそう。喋ってるとつい忘れるんだよね」
「気持ちはわからなくはないけど、ここで忘れるのは痛いね」
「あっはははは! 言えてるわ」
アフタヌーンティータイム? というやつだろうか。ヌン活とかいうちょっと小洒落た高級感のあるスイーツと、それに合わせたコーヒーか紅茶を啜りながら談笑するおばさんや若い女子たちがキャッキャいいながら写真を撮ったりしている。
「ヌン活プランってのがあるんだね」
「ホントだ。でもあたしは好きなやつだけ食べたいから、そういうのはいいや。あたし写真撮りに来てるわけじゃないし」
意外と冷めているな。てっきりあれもこれも、とか言い出すかと思ったのに。
「涼ちゃんはケーキ食べるの?」
「え、ああ。普段は食べんけど、ここの桃タルトが美味いって聞いたことあるからそれにしようかなと」
「そうなんだ。あたしはこの抹茶のモンブランがずっと食べたくてさあ。ねえ、よかったらシェアしない?」
「あ、ああ。シェア、いいよ。うん、そうしようか」
シェアってことは。
まさかな。
それは、流石にないな。
それにしても、一切れ1000円のケーキなんて。俺はいまだかつて食ったことがない。
せいぜい1ホール3000円の誕生日ケーキくらいだ。
「あ、来たよ」
テーブルに運ばれたケーキとドリンク。
「すごい、どっちも美味しそう」
「うん、普通に美味いのが食わなくてもわかる」
「いや、食わなきゃだめだよ。何なら涼ちゃんのも食べたげようか?」
「それは困る」
「あっはははは! じゃあ早速いただきまーす」
彼女は豪快な1口目をいった。
「あ、めっちゃ美味しい! ねえ、涼ちゃん。これは当たりだわ、最高」
「そ、それはよかった」
2口目、3口目と食べ進めていく彼女。
シェアの話は、聞かなかったことにするか。
俺もタルトを口にいれる。
「うま……」
思わず声が漏れた。マスドも衝撃だったが、このタルトは別格だ。さすが名物というだけある。
「え、いいな。ちょっとちょうだい」
「え、食うの?」
「うん、食べたい。さっきシェアしよって言ったじゃん」
忘れてなかった。
「でも、俺もう口つけちゃったし……」
「いいよ、そんなん気にしなくて」
「いや、でも……」
「はい、あーん」
「あ……」
思わず口を開けてしまった。
彼女の使用済みのフォークが、俺の口に入って――と考えれば考えるほど顔から火が出そうになるのを必死で抑える。
「ね、大丈夫でしょ」
「う、うん、まあ」
「今度はあたしにして」
「え!」
彼女が口を開けて俺のタルトを待っている。もうこの際気にしていても却って申し訳ないので、俺はそのままフォークにタルトを乗せて彼女の口まで運んだ。
「タルト美味しい! もう一口ちょうだい」
まさかの2口目ねだられた。仕方がないので2口目を投入。
「やっぱ美味しい! さすが名物」
「うん、美味いよね。食べなくてもわかるけど」
「いや、食べたらもっと美味しいって」
「確かに」
和やかなティータイムはあっという間に過ぎた。
気がつけば、もう夕方だ。
会計を済ませ、俺達は帰路につく。
「今日はありがとう。ケーキまでごちそうしてもらっちゃって」
「いや、こちらこそ。何か、色々面倒なことに巻き込んでごめん」
今日だけで色々と事が起こりすぎて、頭が大混乱しているのだが――結果的に俺は彼女と付き合うことになった。あまり実感はないが。
「ううん、楽しかった。またデートしようね」
「ああ、また連絡するよ」
彼女と別れ、俺はアパートに向かう。
日が傾き始め、薄暗い街並みを歩いていると、見覚えのある人物に出くわした。
「よお、柴ヤン」
「げ、森嶋……」
せっかく彼女とのデートの余韻に浸ろうと思っていたのに、何の罰ゲームだろうか。
よりによって森嶋とは。せめて若葉ちゃんなら良かったのに。せっかくの高揚感が台無しだ。
「何や、“げ”はないやろが。失礼なやっちゃなお前」
「何だよ」
「お前こそ何やねん」
「何が」
「今女の子とおったやろ」
見られた。クソが。
「だったら何だよ」
「お前なあ、昨日の今日でどないしたん?
ものすごい展開やんけ。例の絵の子か?」
やっぱりこうなった。これはこいつが納得するまで付き合うしかないな。
「わかったから。詳しくは家で話す」
「へへ。悪りぃね、兄チャン」
森嶋の襲来により、この日は夜通し質問攻めを食らう羽目になったのは言うまでもない。
俺は腹をくくる決意をする。
もうどうとでもなるがいい、俺。
「あの、俺と――」
ぐううう〜~~
「あ……」
腹をくくった瞬間、盛大に腹が鳴った。
穴があったら、是非とも入りたい。
「あっはははは!」
終わった。絶対に終わった。
「やっぱ面白いわ、お兄さん」
「あ、えっと……」
もう帰りたすぎる。もっと一緒にいたいのに、居た堪れないという矛盾。
「いいよ。お兄さんとなら」
「え?」
何のことだ?
「えっと……?」
「だから、付き合おうってこと」
「は? え、え、えへ?」
「あっはははははははは! 」
俺、まだ何も言っていないのに。
何故だ? 何故こうなった?
「あの、何で俺?」
「だって、絶対楽しいじゃん。あたし、付き合うなら絶対に笑わせてくれる人がいいと思ってたからさ。お兄さんビンゴなの」
「いや、別に俺は笑わそうとしたわけじゃなくて……」
ああ、何か想像とかなりかけ離れていて思考が追いつかない。本当にこれでいいのだろうか。こんなにあっさり付き合うことになるものなのか。恋愛感全く無いような。これは、友達レベルでは?
俺はどうしても腑に落ちなくて、もう一度仕切り直す術を模索するが思いつかない。そうこうしているうちに彼女の方から、「その天然さが余計にツボるんだよ。ああ面白い」と言われた。喜んでもいいのだろうか。反応に困る。
「それに、さっき助けてくれた時。かっこよかった」
「え、あれはただ……」
俺はただ逃げただけなのに。しかも、小学生並みの反撃で、だ。
「ううん、どんな形でも、あたしを守ろうとしてくれたことが一番嬉しかった。それが一番の決め手かな」
「そ、それならよかった」
「ありがとう」
それが決め手ならば、あの男に少しばかりだが感謝だな。
「あ、そういえば。あたしまだちゃんと名前言ってなかった。あたし、桜ヶ丘梨歩。よろしくね、お兄さん……じゃなくて。あ、お兄さんの名前も知らんわ。知らんのに付き合おうとか。ウケる! で、名前は?」
「柴田、涼平。です」
彼女、とうとう自分に突っ込んでいたな。俺には彼女の笑いのツボがいまいち理解できないが、結果オーライということでいいのだろうか。何だか彼女のペースに流されている気がする。でも、それも悪くないなと思えるのは、やっぱり俺が彼女を好きだからなのだろう。
「じゃあ、涼ちゃんね。よろしく、涼ちゃん」
「あ、はい」
「あたしのことは梨歩って呼んでね」
「わかった。あ、わかりました、梨歩、ちゃん」
「あっははは! 何で敬語に直すの、あたしより年上じゃん。遠慮しすぎてウケる!」
「あ、じゃあ……わかった」
「ホントに? 次敬語使ったら連れ回しの刑ね」
「はい」
「あっはははははははは! 連れ回し決定! どんだけあたしと一緒にいたいのよ」
ぎこちなさ全開の俺に対して、こんなにも全力で笑い飛ばしてくれるとは。
「ねえ、早速なんだけど」
「え?」
「デートしよ!」
「い!?」
で、デートだと?
「あっはははは! 何それ、『い!?』って。やっぱ涼ちゃん面白いわ」
「えっと……どこに、行きたい?」
「そこのすぐ近くのホテル――」
「は!?」
ちょっと待て。心の準備体操が……。
「ちょ、何? その反応。あたし、そこのホテルの最上階にあるレストランでケーキ食べたいって言おうとしたんだけど」
「あ、ああ。そっちか」
「そっち、って。まさか、やらしい方想像した? やだもう、涼ちゃんたらぁ」
「ちちち、違……! 決してそんなつもりじゃ……」
すっかり彼女のペースだ。でも、何故だろう。不思議なくらい心地良い。
「ね、行こ!」
「あ……」
さり気なく手を繋ぐ形になり、思考が追いつかずに思わず足元がふらつく。俺は今、女の子と手を繋いでいる。そう思うだけで顔が沸かしたてのポットの湯のように沸騰しそうになるというのに。
俺達は作品置場を出てエレベーターを使い、もと来た道を行く。
(……慣れない、この感覚)
キャンパスの中を彼女と手を繋いで歩くなんて、少し前までの俺には想像できなかった展開だ。妄想ですらしなかった。故にこの手のシチュエーションにおける免疫は皆無。
やばい、手汗が……。
じわじわとにじみ出る感覚に気まずさを覚え、俺は思わず手を引っ込めてしまう。
「涼ちゃん?」
「あ、ごめん。その……」
「どうかした?」
「えっと……」
手汗が気になってつい。なんて言えるはずもなく言葉に詰まる。それに、いくら他の言葉を探してもそれ以外思いつかなかった。
「ああ、そうか。わかった! こうすればいいんだ」
不意に彼女が口走り、俺の左腕にぶら下がるように掴まった。
「え、え?」
いずれにしても、唐突すぎる彼女の行動に戸惑うばかりで、情けないことに俺は間抜けな声しか出なかった。
「あっはははは! こっちの方がカップルっぽくていいじゃん。それにあたし、憧れてたのよね。大学なんて来たことなかったから、キャンパスライフってやつ? いかにも青春してますって感じのさ。ああいうのやってみたかったの」
「そ、そうなんや」
「ん?」
彼女が足を止める。
「ねえ、涼ちゃんってさ」
「な、何?」
「地元どこ?」
「え、岐阜だけど」
唐突に聞かれて驚いた。何か思うところがあったのだろうか。
「岐阜かぁ。岐阜の人は初めて出会ったわ。名古屋の人ならあるけど。ねえ、岐阜って何があるの? あたし行ったことなくて」
「岐阜城とか、長良川鵜飼とかはよく聞くと思うけど。モレラレ岐阜っていうでかいショッピングモールとか、玉宮町ってとこにある飲み屋街とか柳ヶ瀬商店街とか。飛騨高山や白川郷も観光地としては有名かな」
「へえ、そうなんだ。白川郷は聞いたことある。世界遺産だっけ?」
「そうだよ。でも俺はそのあたりはあまりよく知らない。同じ岐阜でも全くノータッチだったり、別世界に感じる場所もあるくらいだから」
「じゃあさ、涼ちゃんのおすすめスポットはどこ?」
「俺の? いや、おすすめってほどでもないかもしれないけど、俺は……」
俺は基本出不精だ。が、たまに違った景色が見たくなって海のある街に出かけたり、高層ビルや洒落た店が建ち並ぶ都会の空気に触れたくなるなど、衝動的に出向くことはある。
「うーん、俺がよく行くのは……」
そうこうしているうちに、例のホテルに着いた。
展望レストランに直結したエレベーターに乗ると、ガラス張りの壁面からは俺の通う大学周辺の景色が一望できた。
「わあ! すごい、人がノミのようだわ」
「それ、某映画のラスボスが吐き捨てたセリフじゃ……?」
「あ、わかった? あたしあの映画好きでさあ。小さい頃から何回も観てたの」
「ああ、俺もよく観てたよ。姉貴と」
「お姉さんいるんだ、涼ちゃん」
「うん。5歳離れてるし、物心つく頃にはいつも姉貴の後ろくっついていたよ。今でもThe姉御って感じの人だから」
「頼りになるお姉さんなんだね。あたしは8歳離れた双子のお兄ちゃんがいるよ」
彼女の兄はそれぞれ小児科医と高校の体育教師をしているらしい。特に上のお兄さんについては、この首都圏でも超難関で有名な大学の医学部に通っていたようで。
「あたしがいうのも変なんだけど、二人とも結構イケメンでさ。めっちゃモテたの。特に上のお兄ちゃんはハイスペだったし、あ、でもね。下のお兄はちょっとひねくれてるから、高確率ですぐフラレる。全く同じ顔してるのにさ、性格が間逆なの」
ケータイに写った家族写真を見せてもらうと、確かに二人ともかなりの男前だった。俺には眩しすぎるくらい、というか、この世にはこんなにも完成した人間がいるのかと思うほどだ。地味な俺が隣にいても、背景にしかならないのは明白だった。
「仲良さそうだね」
「割とね。でも、下のお兄とはいつも喧嘩ばっかりだよ。昨日もあたしのおやつ勝手に食べてムカついたから、テレビのリモコンで脳天チョップかましちゃったわ」
「へ、へえ……」
兄妹喧嘩の程度は、思った以上に激しそうだ。
「あ、着いた」
最上階に到着すると、レストランの前に受付のスタッフがいた。
「あの、予約……してないんですが」
「はい、かしこまりました。お席確認しますので少々お待ち下さい」
受付のスタッフは一瞬店内に入り、すぐさま戻ってきた。
「お待たせいたしました。空いているお席がございましたのでどうぞ」
運良く席に空きがあったようだ。こういうのは事前に予約していくのがスマートなのだろうが、今回は思いつきと言うか、急遽だったので俺も完全に抜けてしまっていた。
「やったね、涼ちゃん。結構いい席だよ。あ、マスドがアリンコみたい」
席に着くやいなや、彼女はバイト先を指差す。
「だいぶ高いな」
「涼ちゃん高いとこ平気?」
「まあ、平気な方かな」
「良かった。あたしの友達の若葉はね、高所恐怖症で歩道橋ですら腰抜かしちゃうのよ。あれは大変だわ」
「若葉ちゃんって、あの長い黒髪の?」
「そうそう、あたしたちを繋いでくれたグラマーな子」
「ぐ、グラマー?」
「うん、脱ぐともっとすごいよ」
「そ、そうなんだ」
「あ、そうだ。涼ちゃん美大だったらさ、ヌードとか描くの?」
「え!? いや、それは……ない」
今のところは。
「えー、そうなんだ。てっきりそういうモデルさん呼んで描いたりとかしてるのかと」
「全然、そんなことはない。あったとしても、生身の人間じゃなくて彫刻とかだから」
「何だぁ、つまんない」
「え?」
「もし裸婦が描きたかったら若葉にお願いしたげようかなと思ったんだけど」
「いや、それ絶対あかんやつでしょ」
「そうかなあ。まあ、あたしはまな板だし幼児体型だから対象外だろうし。ていうかあたしも人前で脱ぐのは嫌だわ」
「それは誰だって嫌だよ」
まさか展望レストランに来て早々、ヌードがどうのこうのという話になるとは思いもしなかった。ここはヌードよりムードだろう。俺は話題を変えようと試みる。
「あのさ、ドリンク何にする?」
俺はメニューを広げる。
「あ、そうか。すっかり忘れてた」
やっぱりな。
「道理でお腹すいたと思ってたの。じゃああたしオレンジジュース」
「なら俺はアイスコーヒー」
「やば、マスドの時とパターンおんなじじゃん」
「ドリンクなんて、だいたいどこの店行ってもついいつもの流れで決まったやつ頼むもんじゃないの? 俺はずっとそうだけど」
「そう言われるとそうだね。あたしだいたいジュース系飲んでるわ。コーヒーも紅茶もイマイチ気分じゃなくてさ。若葉は紅茶ばっかりだし」
「まあ、人それぞれだな」
「だね」
「で、ケーキは?」
「あ、そうだ。忘れてたわ」
「そもそもケーキが食べたかったんだよね」
「そうそう。喋ってるとつい忘れるんだよね」
「気持ちはわからなくはないけど、ここで忘れるのは痛いね」
「あっはははは! 言えてるわ」
アフタヌーンティータイム? というやつだろうか。ヌン活とかいうちょっと小洒落た高級感のあるスイーツと、それに合わせたコーヒーか紅茶を啜りながら談笑するおばさんや若い女子たちがキャッキャいいながら写真を撮ったりしている。
「ヌン活プランってのがあるんだね」
「ホントだ。でもあたしは好きなやつだけ食べたいから、そういうのはいいや。あたし写真撮りに来てるわけじゃないし」
意外と冷めているな。てっきりあれもこれも、とか言い出すかと思ったのに。
「涼ちゃんはケーキ食べるの?」
「え、ああ。普段は食べんけど、ここの桃タルトが美味いって聞いたことあるからそれにしようかなと」
「そうなんだ。あたしはこの抹茶のモンブランがずっと食べたくてさあ。ねえ、よかったらシェアしない?」
「あ、ああ。シェア、いいよ。うん、そうしようか」
シェアってことは。
まさかな。
それは、流石にないな。
それにしても、一切れ1000円のケーキなんて。俺はいまだかつて食ったことがない。
せいぜい1ホール3000円の誕生日ケーキくらいだ。
「あ、来たよ」
テーブルに運ばれたケーキとドリンク。
「すごい、どっちも美味しそう」
「うん、普通に美味いのが食わなくてもわかる」
「いや、食わなきゃだめだよ。何なら涼ちゃんのも食べたげようか?」
「それは困る」
「あっはははは! じゃあ早速いただきまーす」
彼女は豪快な1口目をいった。
「あ、めっちゃ美味しい! ねえ、涼ちゃん。これは当たりだわ、最高」
「そ、それはよかった」
2口目、3口目と食べ進めていく彼女。
シェアの話は、聞かなかったことにするか。
俺もタルトを口にいれる。
「うま……」
思わず声が漏れた。マスドも衝撃だったが、このタルトは別格だ。さすが名物というだけある。
「え、いいな。ちょっとちょうだい」
「え、食うの?」
「うん、食べたい。さっきシェアしよって言ったじゃん」
忘れてなかった。
「でも、俺もう口つけちゃったし……」
「いいよ、そんなん気にしなくて」
「いや、でも……」
「はい、あーん」
「あ……」
思わず口を開けてしまった。
彼女の使用済みのフォークが、俺の口に入って――と考えれば考えるほど顔から火が出そうになるのを必死で抑える。
「ね、大丈夫でしょ」
「う、うん、まあ」
「今度はあたしにして」
「え!」
彼女が口を開けて俺のタルトを待っている。もうこの際気にしていても却って申し訳ないので、俺はそのままフォークにタルトを乗せて彼女の口まで運んだ。
「タルト美味しい! もう一口ちょうだい」
まさかの2口目ねだられた。仕方がないので2口目を投入。
「やっぱ美味しい! さすが名物」
「うん、美味いよね。食べなくてもわかるけど」
「いや、食べたらもっと美味しいって」
「確かに」
和やかなティータイムはあっという間に過ぎた。
気がつけば、もう夕方だ。
会計を済ませ、俺達は帰路につく。
「今日はありがとう。ケーキまでごちそうしてもらっちゃって」
「いや、こちらこそ。何か、色々面倒なことに巻き込んでごめん」
今日だけで色々と事が起こりすぎて、頭が大混乱しているのだが――結果的に俺は彼女と付き合うことになった。あまり実感はないが。
「ううん、楽しかった。またデートしようね」
「ああ、また連絡するよ」
彼女と別れ、俺はアパートに向かう。
日が傾き始め、薄暗い街並みを歩いていると、見覚えのある人物に出くわした。
「よお、柴ヤン」
「げ、森嶋……」
せっかく彼女とのデートの余韻に浸ろうと思っていたのに、何の罰ゲームだろうか。
よりによって森嶋とは。せめて若葉ちゃんなら良かったのに。せっかくの高揚感が台無しだ。
「何や、“げ”はないやろが。失礼なやっちゃなお前」
「何だよ」
「お前こそ何やねん」
「何が」
「今女の子とおったやろ」
見られた。クソが。
「だったら何だよ」
「お前なあ、昨日の今日でどないしたん?
ものすごい展開やんけ。例の絵の子か?」
やっぱりこうなった。これはこいつが納得するまで付き合うしかないな。
「わかったから。詳しくは家で話す」
「へへ。悪りぃね、兄チャン」
森嶋の襲来により、この日は夜通し質問攻めを食らう羽目になったのは言うまでもない。