「好きです」



もし、彼女にそう言えたらどんなに楽だろう。


そんな勇気も度胸もあるはずなかった。


昨年春に地方から上京し、大学2年生になった時点で未だ恋愛経験ゼロの俺は、告白なんて大それたことをしたこともなければ、されたこともない。永遠に成立することはない関係性なんて、想像しても虚しいだけだ。そう思い込むことで本音を直隠しにしながらプライドだけを保ち続けた。

それでも、今回ばかりはどこか期待してしまう。
俺を選んでくれる保証なんてないに等しいのに、妄想とやらはそれすらも超越し、いとも簡単にその先の嬉しい展開を連想させてくる。しかもノンストップだ。

ヤバいと思いながらも、欲望を満たすように都合の良いシチュエーションを自動再生しながら、会計を済ませて俺は壁際のテーブル席に着いた。

「はあ……」

もしも奇跡が起こるなら、俺は彼女の前でどんなリアクションをするだろう。
いや、どんなリアクションをすればいいだろうか。リアクションの仕方までシミュレーションするなんて、ただの変態ではないか。
あれこれ考えていると、声をかけられた。
「あの、大丈夫ですか?」

「あ、はい……え? え」

声の主にハッとする。

つややかな黒のロングヘアーが印象的な、可憐で清楚な女の子。
この子は確か、彼女の友人だ。
「あれ? 若葉じゃん。どうしたの?」
ワカバ、と桜ヶ丘さんに呼ばれた子は、「あ、梨歩」と返す。
(リホ……っていう名前なのか)
「ちょっと具合悪そうだったからつい、声かけちゃって」
俺、そんなふうに見えていたのか。
妄想していたなんてとても言えないが。

「え、そう? あたしはそんなふうに見えないけど。具合悪いんですか?」
いきなり話を振られて俺はテンパってしまう。
「え、あ、あの……まあ、そんな感じで……」
「アハハハ!」
笑われた。
「ちょっと梨歩!」
「絶対違うよ、若葉。だいたい具合悪い人がこんなにドーナツ食べに来るわけないじゃん」
俺のトレーにはもちもちドーナツのビターチョコと抹茶、オールドファッションのオリジナルにミートパイ、飲茶セットが並んでいる。しかもまだ全く手つかずだ。
「え、違うの?」
「それあたしに聞く? 本人に聞いてよ。ああ面白い、アハハハ……」
彼女は何に対して笑っているのだろう。俺のリアクションだとしたらちょっとショックだ。いや、かなり。
「あの、具合……悪いですか?」
さっきよりもおずおずとした様子で、ワカバと呼ばれた子は俺に訊く。
「まあ、さほど……でも、ない」
「アハハハ! 結局どっちよそれ!」
再び笑われた。
「え? やだ、何か……ごめんなさい、私……」
「若葉失礼すぎて面白すぎ! あとお兄さんのリアクションも最高にツボった!」
やっぱり俺のリアクションも含んでいたか。
「あ、いや。俺は別に……」
「ていうか、お兄さん。最近よく来てくれますね。学校が近くとか?」
何と、彼女から不意打ちのアクションが。
「まあ、そんな感じ――」
「アハハハ! さっきと全く同じ答えだし! やっぱ面白い!」
今のはそんなに笑うところだろうか。
「梨歩、店長さんが呼んでる」
「あ、ヤバ。喋り過ぎってまた怒られるわ」
「またって……」
「じゃあ仕事戻りますねー。また話しましょう」
「あ、はい」
桜ヶ丘さんはそそくさとレジの方に戻って行った。
「あの……」
ワカバさんが申し訳無さそうに「せっかくの休憩時間にごめんなさい」と再度謝ってきた。
「あ、いいんです。俺もう今日は予定ないので」
俺は思い切ってワカバさんに訊いてみる。
「あの……」
「はい?」
「桜ヶ丘さんって……」
「梨歩、ですか?」
「…………あ、えっと……」
ヤバい、緊張してきた。
「い、いつも元気がいいですね」
俺は何を言ってるんだ。訊きたいのはそういうことじゃないのに。
多分、ワカバさんもなんだコイツ?って思っているだろうな。
さり気なく彼氏の有無とか、そういうのを聞き出す方法ってないのだろうか?直接聞いたほうが確実なのはわかっているが……デリカシーないやつと思われたくなくてつい遠回りしすぎた結果がこのザマだ。やっぱり当たって砕ける覚悟が必要なのだろうか。
「梨歩は、中学を卒業してからずっとここでバイトしてるんです。自分の夢を叶えるために」
ワカバさんが思いもよらぬ情報をくれた。「せっかくなので、少しご一緒してもいいですか」と彼女がいうので、俺は二つ返事で了承した。向かいの席に腰掛けた彼女は、アイスティーを注文し話を続けた。
「改めまして、梨歩の友人の山口若葉です」
「あ、俺は柴田涼平です」
改めましての挨拶に、俺はド緊張してしまう。普段面と向かって女の子と話すことなんてないし、免疫も備わっていない。
「柴田さんは、大学生ですか?」
「あ、はい。すぐそこの、美大に」
「え、あの月ヶ丘美大ですか!?」
「はい、まあ。そこの2年です、一応……」
そんなに驚かれるとは。
「すごいですね。かなり狭き門でプロの卵の精鋭ぞろいって聞いたことあります。デザインか何かの勉強を?」
「いや、俺は絵画で。風景画をメインで描いてます」
「そうでしたか。私は来年の春から東堂大の造形学部でフラワーデザイナーの勉強をしたくて。高校も園芸科に(かよ)っています」
「え、まだ高校生?」
俺は思わず口走ってしまう。
「はい」
「すみません。あまりに大人っぽいから、俺よりも若いとは思わなくて……あ、気を悪くしたらごめん、なさい。えっと……」
やってしまった。

「いえ、大丈夫です。よくそう言われるので。ちなみに梨歩とは小学生の頃からの付き合いです。もう7年くらいになりますね」
若葉さん、いや、若葉ちゃん? 馴れ馴れしいか? 山口さん、と呼ぶべきか。
「涼平さん、あ! 柴田さん。ごめんなさい、下のお名前で呼んでしまって……」
何と、彼女の方がやってくれた。
「あ、涼平でいいです。俺も、下の名前で呼んでいい、ですか?」
「はい。それは全然構いません。ちなみに涼平さんは私よりも年上の方なので、敬語じゃなくていいですよ。話しにくそうですし」
ものすごく気を遣われてしまった。でも、彼女の厚意を無駄にしてもかえって失礼になるだろう。
「じゃあ、お言葉に甘えます。あ、甘える、ね。ありがとう」
「いいえ。多分梨歩は近々涼平さんに敬語使わなくなると思うので」
「え?」
若葉ちゃんの含みのある言動が気になって俺は思わず訊き返した。
「あの、それはどういう意味で?」
「私の想像で申し訳ないんですけど、涼平さんって……梨歩のこと、気になってますよね?」
「あ……」
あっさり見抜かれていた。
「やっぱり、そうでしたか」
「えっと、まあ……そんな感じ」
そんなにわかりやすかっただろうか。はたまた、若葉ちゃんの勘が鋭いからなのか。いずれにしても、桜ヶ丘さんへの好意がバレた以上、詰んだも同然。気まずさMAX。俺の淡い恋心は、きっと淡いまま儚く散る運命だったのだろう。
「そういうことなら、協力してもいいですよ」
「え?」
協力? 今、協力って言った?
「梨歩、これまでも何人かの人からデートのお誘いがあったんですけど……気乗りしないし今は恋愛する気になれないって全部断ってて」
それは、余計に脈なしではないのか。
喉まで出かかった言葉を飲み込もうとした時だった。
「でも、今日の梨歩の様子を見て確信しました。涼平さんなら、もしかするといけるんじゃないかって」
「え……ど、ど、どのへんが?」
変に吃ってしまう俺。
「梨歩が男性の前であんなに笑ったの、初めてなんです」
「いや、俺は何もしてないけど……」
寧ろ彼女の笑いのツボが知りたい。
「笑わせようとして笑わせてくる人は、面白くないみたいです。彼氏にするなら、意図せず自分を笑わせてくれる人がいいと言っていたので。ナチュラルでやや草食系っていうんですかね? そんな人がいいそうです」
どこか素直に喜べない俺。桜ヶ丘さんの好みに条件が一つでも当てはまるなら、可能性はゼロではないのはわかる。だが、きっとこんな地味男を相手にするほど彼女は相手選びには困らないだろう。
「俺、マジで恋愛の経験値ないから……つまらんと思うよ」
「だから、今回その経験を積むチャンスじゃないですか」
若葉ちゃんがやたらと俺の背中を押してくる。
「これは、梨歩にとってもいい経験になるはずですから」
「でも……」
「じゃあ、私はこれで失礼しますね」
「あ、ちょっと――」
「あ、大丈夫です。自分のお代は自分で出しますから」
「いや、そうじゃなくて……」
「あ、そうだ。梨歩がもうすぐバイト終わるので、そのままそこで待っててくださいね。あとで涼平さんから梨歩に話があるって伝えときますので」
「え! それはちょっと……」
「今日はこの後もまだ時間あるんですよね? なら何も問題ないかと」
「う……」
何て記憶力なんだ。
「では、頑張ってください」
やや強引に推し進められてしまい、俺は呆然とする。
ヤバい、緊張してきた。

逃げたい。


でも、これはまたとない千載一遇のチャンスだ。

無駄にするわけにはいかないが、どう対処すればいいのかも俺にはさっぱりわからない。

どういう展開に持ち込めばいいのか。


迷えば迷うほど焦りが滲み出る。

桜ヶ丘さんを好きな気持ちは変わらない。それでも、この気持ちをどう形にすればいいのか、はたまたどうひた隠すか、さり気なく好意を伝えるべきか。

正直迷っている時間はない。

どうする、俺。



「あ、さっきのお兄さん」
「ひっ!」
急に後ろから声をかけられ、俺はビビって裏返った声が出てしまう。
「あっはははは! 何その反応。めっちゃ面白いんだけど」
桜ケ丘さんだ。案の定、豪快に笑われた。
「あ、あの……」
「うん。さっき若葉から聞いたの。お兄さん、あたしに話があるんでしょ?」
「う、うん。まあ……」
「そんな感じってか」
「はい」
「あは、当たった。で、話って何?」
「えっと……とりあえず、店の外出てもいい、かな?」
「了解。じゃあ外で待ってるね」
彼女は颯爽と出入り口まで歩いて行った。俺は返却口にトレー一式を返し、彼女の後を追うように店をあとにする。
すると、彼女がチャラそうな男に絡まれていた。
「おねえちゃん、今暇?」
「暇じゃない」
「暇そうじゃん。俺と遊びに行こうよ」
「人待ってるから無理」
「そんなやついいじゃん。遅刻するようなやつほっといてさあ」
「遅刻?」
「だって来てないじゃん」
「いや、もう来てるから。じゃあね」
彼女が俺の方に向かって歩いてきた。
「ちょ、待てって」
「痛い!」
男が彼女の腕を掴んだ。
「やめて、離してよ!」
「まだ話は終わってないだろ」
「もう、しつこい! あっち行って!」
これは、やばい。
「あ、あの……」
「あ? 何だてめえ」
う、やっぱり柄悪いな。
「彼女、嫌がってるじゃないですか」
「だったらなんだよ。部外者が口出すんじゃねえよ」
「いや、部外者も何も……俺がその、相手なんで」
「は? 嘘つくなし」
真の部外者に嘘つき扱いされるとは。
「あの、部外者はあなたの方なんで」
少々イラッとした俺は、彼女の腕を掴んだ男の手をギリッと抓ってやった。
「痛ってえ! 何しやがんだ!」
パッと男の手が離れた隙に、俺は彼女の手を取り走り出す。
「待ちやがれ!」
男が俺に飛びかかるように追ってきた。
いきなり会って早々喧嘩売られるとは思っていなかったので、とりあえず俺は彼女を安全な場所に連れて行こうと駆け出す。
「な、何なの。あいつ」
「とりあえず、今は逃げよう」
俺は近くにあった大学のキャンパスに駆け込んだ。
「こっちだ」
俺は正門から警備のおじさんがいるゲート前で学生証をかざす。
寸でのところでゲートが締まり、男はバーの前で立ち止まる。
「ち……!」


諦めたように男はその場を立ち去った。
「ねえ、ここって……」
「ああ、俺の通ってる大学だけど」
「嘘! マジでここの美大生だったんだ、お兄さん」
「まあ、一応……」
「すごい! ねえ、どんな絵描くの?」
「風景画が多いかな」
「へえ、例えば?」
「河川敷から見える四季の移り変わりとか、そこにある桜の木とか、自然が感じられる景色が好きでよく描くよ」
「えー、見たい。ないの?」
「あ、あるけど」
「じゃあ見せて。大学の中にあるの?」
「まあ……」
半ば強引に押し切られる形で、俺は彼女を連れて学内に入った。こんな姿目撃されたら、絶対森嶋に茶化されるな。
「何や、お前。昨日の今日でもう例の彼女連れとるやんけ」みたいな。
控室の前を通り過ぎ、俺は課題作品が置いてある教室に向かう。
エレベーターを使い、5階まで上がるとすぐ右手側に教授の研究室がある。向かいの通路を通り、一番奥から2番目が俺の作品置き場になっている。ゼミ仲間と共有しているので俺のだけではないが。
「これが俺の作品……」
「わあ! これ、写真じゃないの?」
「まあ、一応描いたやつだけど」
「すご! 写真かと思っちゃった。想像以上に上手くてやば!」
興奮気味に彼女が言う。
「ねえ、このきれいなお姉さん描いてあるのは?」
「ああ、それは同じゼミ友の作品」
「さすが美大生って作品ね。しかも月ヶ丘美大って、精鋭中の精鋭揃いで有名じゃん。なかなか入れないって聞くよ」
「いや、それは大げさだよ。俺はいつもダメ出し食らってばかりだし。俺は運が良かっただけだから」
現に松岡は特待生だし、森嶋はチャラそうに見えて数々の賞を総嘗めにしてきた真の実力者だ。ちなみにこのきれいなお姉さんの絵は森嶋の作品だ。本人曰く落書き程度らしい。
「いいなあ、好きなことに夢中になれるって。あたし中卒だから、学校って勉強ばっかりでつまらないイメージしかなかったのよね。まあ、歌い手になりたいから高校行かないって選択したのはあたしなんだけどさ」
「歌い手?」
「そう、あたし小さい頃からずっと歌手になるのが夢で。これでも音楽活動してるのよ」
「そうなんだ。ああ、それでマスドにいつもいるのか」
「うん、中学卒業してからずっとバイトしてるの。もう2年くらい経つかな」
「それだけやればもう立派な看板娘だね」
「やっぱそう思う? 実際看板娘だけど」

やはり彼女は明るい。地味な俺とは対照的だ。でも、彼女に対して劣等感を抱くかと言われればそういうわけでもない。
この感覚は一体何なのか。
「ねえ、お兄さんの夢は?」
「俺の、夢?」
ストレートに聞かれて思わず言葉に詰まってしまった。俺は確かに絵を描くのが好きだし、それを活かした仕事に就きたいと考えてはいたが、具体的に何を目指しているかと言われると、正直まだ漠然としている。
「具体的に何をしたいかっていえばまだ決まっていないけど、絵を描き続けることはしたいと思っているよ。画家として成功する人なんてほんの一握りだし、専門性が高い分狭き門だからよほどの覚悟がないと……あ、それは君も同じか」

漠然とした将来。こんな男についてくるような女の子なんて、きっといないだろう。
俺は早くも悲観している。せめて彼女の夢を支えるくらいの経済力とかあればいいのだろうが、今の俺には何もない。二人きりのこの時空間が奇跡のようなものだ。

「いいじゃん、無理に決めなくて」
「え?」
「だってさ、もったいないよ。今から色々決めちゃうと、固定概念に縛られちゃいそう。迷ってるってことはさ、それだけ可能性があるってことじゃん。選択肢は多いに越したことはないよ。それが迷う原因でもあるんだけどさ」
あはは、と彼女はいつものように笑う。




ガチャッとドアが開く音。

「ヤバい、隠れて!」
俺は声を潜めて彼女に言う。
「え?」
俺はとっさに彼女を包み隠すよう、奥のバカでかいキャンバスの裏に逃げ込んだ。

「ん? 誰かおんのか?」
森嶋だ。よりによってあいつが来るとは。
バレるとますます厄介だ。

「ねえ、何で隠れるの?」
「ごめん、あいつにだけはこの状況を見られたくなくて」

森嶋のやつ、何しに来たんだ。
「お? 柴ヤン来たんか?」
「!?」
「鞄忘れとるやんけ、鈍くさ」
余計なお世話だ。それは置き荷だ。
「まぁええわ。とりあえず、ワシのこのネエチャン完成させるか」
キャンバスを脇に抱え、森嶋は出ていった。
「はあ、やっと行ったか」
「ぷはぁ」
「あ、ごめん。苦しかった?」
「ううん。何かよくわからないけど、ドキドキした」
「え?」
「お兄さん、結構大胆なんだなと思って」
「あ、え? あ……」
「あっはははは! 自覚なし、ウケる!」
そういえば、とっさに彼女に覆いかぶさってしまったな。
「ご、ごめん。キモいことして」
「え、何でキモいの?」
「そ、そりゃあ……付き合ってもない男に、いきなりそんなことされたら、嫌じゃない?」
「別に? あたしお兄さん嫌じゃないから大丈夫」
「そ、それなら、まあ、いいけど。あ、いや、良くは、ないか……」
「何で?」
「えっと……」