俺は高校を卒業する2ヶ月前、首都圏にある美大に進学するために、地元の岐阜を離れて下宿先のアパートへの引っ越しを済ませた。卒業式を終え数日経ったある日、一足先に新生活気分を味わおうと下宿先のアパートで一人暮らしを始めたのだが――その矢先に高校時代の友人である森川逸生(もりかわいつき)に「送別会やろっけ」と呼び出され、一旦実家に舞い戻ったのだが。

「おい、他のヤツは?」
「ああ、ドタキャンくらったから今日はお前と二人きりだわ」
名古屋にある食品メーカーに就職した 成瀬晶(なるせあきら)、小学校教師を目指し関西の有名私大に進学する織原和弥(おりはらかずや)も来ると言うから来たというのに。この二人がいないということは、俺がダイレクトに逸生の洗礼を受けることになる。
やられた。

「ドタキャン? てか最初からそのつもりやったやろ、逸生」
「まあまあ、細かいことはいいやん。たまには」
「いや、たまにじゃないやろ。そういや今思い出したけど、これまでこういうの何回かあったわ」
「何回も引っかかるお前がチョロすぎなんやて」
「うざ」
この男は俺とは違い、常に切れ目なく恋をしている。会えば、二言目には気になる女の子や恋愛の話題が飛び交うのは日常茶飯事。俺にとっては、正直かなり面倒くさい奴だ。もともとは成瀬の小学校時代からのツレらしく、俺と成瀬の席が近かったことがきっかけでよく話すようになってから、逸生もくっついてやってくるようになり……といった流れで現在に至る。
ちなみに織原と俺は、中学時代に同じ美術部に所属していた事があり、当時は部内でもあまり話すことはなかったが、進学先とクラスが同じだったことからよく話すようになった。織原は穏やかで面倒見が良く、後輩からも慕われていたので男女ともに隠れファンが一定数いた。頭の回転が早く、機転も利く気配り上手。非の打ち所がないほどの絵に描いたような優等生で、先生たちからも一目置かれていた。生徒会長に推薦されるほどの人望も兼ね備えていながら「学業に専念したいので」と断り続けた。勤勉さも思いやりもユーモアもバランスよく保てるバランス感覚抜群の彼は、男の俺から見ても魅力満載なやつだった。羨ましい限りで、自慢の友人の一人と言っても過言ではない。どっかの誰かとは大違いだ。できれば織原に会っておきたかったが、今となってはもう遅い。後で電話しておこう。


「なあ、涼平は彼女作らんの?」
逸生は四六時中女の子のことばかり考えているからなのか、話題も限定的で展開が見込めない。結局彼の惚気や自慢話が炸裂し完全に独壇場と化すだけで、興味がなければないほどこの時間が苦痛でならない。
「いや、俺にはそういうの無理」
なるべく早く終わらせたいのだが、「でもそろそろ欲しいやろ?」となかなかの食らいつき。
「うーん、俺に彼女とか想像できんし。できたところで何していいかわからん」
「中坊かよ。お前都会に住んどったら可愛い子と出会いたい放題やないんか?」
「んなことない。てかそこまで恋愛したいとか思わんし」
「マジか。勿体な」
「お前は彼女いるからいいやん」
「いや、オレは地元の大学やし。妥協した感否めん」
「そもそも妥協でするもんでもないやろ。てか逸生。それ、彼女にめっちゃ失礼すぎん?」
「ほんの冗談やん。オレは単に地元出たお前が羨ましいってだけ」
逸生はそういいながらも、この前彼女と卒業旅行でディズニー行ったとか、車を買ってもらい早速ぶつけて親にめちゃくちゃド叱られたとか、結構充実していることを喋り倒してくる。
「充実してるならいいやん。俺は車はまだないし、免許も夏休みに短期で取りに行く予定やし」
「車って便利な。もう少し早く取れたら彼女乗せて卒業旅行行けたのにな」
「いやいや、そんなのこれからいつでもできるやん。それに、お前。まだ親の金に世話になってる以上は身の程わきまえんと、彼女にも愛想つかされるで」
「真面目かよ。てかお前恋愛経験ゼロなのにそういうとこはよく気がつくな」
「逸生はすぐ調子乗るからな。だいたいいつも振られてたやん」
「まあ、オレは女の子に振られたくらいではへこたれん自信ある。ダメなら次行けばいいだけやし。そうやって経験値積んでるわけよ。打たれ強くもなるって」
「いや、打たれ強いとかじゃなくて。なぜ振られたのかってこと考えんの?」
「は? どうせ別れるなら理由なんてどうでもよくね?」
「……ああ、そうですか」
価値観とは、人それぞれ。それは恋愛に限らずだ。でも、少なからず恋愛の価値観というものは、人生全体の価値観にも影響しているような気がして、何となく軽視してはいけないような気がするのだ。
逸生は切り替えが早い分、人よりも常に先を行く。失敗を恐れず突き進む行動力は見習うべきかもしれないが、内省力に欠けるところがあるのでそれがいつか仇となるのではと危惧してしまう。
「てか、いいよなあ。涼平はこれから自分の部屋に女の子呼び放題できるやん」
「いや、呼ばんし」
「呼んどけって。オレなんか実家だから気遣って毎回ホテ――」
「アパートだって隣近所に気遣うから。壁薄いし、騒いだら丸聞こえ。寧ろ赤の他人に気遣う方が疲れるから」
でも、よくよく考えると確かに一人暮らしは気楽だ。身内の目もなく、気兼ねなく自分の時間に没頭できる。

もし、俺に彼女ができたらなんて。
考えたこともなかった。
大学の4年間、絵を描くだけで終わるのは違う気がする。その先の未来、どう生きたいか。まだ漠然としているが、この先どんな仕事につくのかとか、地元に帰るのかこのまま帰らず残るとか。

そもそも俺は“何を描きたい”のか。

人生のテーマ、なんて壮大なものを描けるほど、俺はまだ人間できていない。

課題に追われて作品を製作することは今後何度かあるだろうが、魂が揺さぶられるくらいの衝撃の一枚とやらも、一度でいいから描いてみたいとも思う。

そのためには、魂が揺さぶられるくらいの経験が必要だ。
想像で描くのには限度がある。というか次元が違うから、共感は得にくい。
どこかでリアルを盛り込まなければ。

そう考えると、恋愛をするという経験は、ある意味貴重で特別な経験なのかもしれない。

「涼平」
「何?」
「お前、今エロい事考えとったやろ」
「は? お前と一緒にすんなや」
「男なんてみんな考えること同じやって」
「いや、そう思っとんのは逸生だけや」


もともと絵を描くのは好きで得意分野だった。風景画の写生大会では小学生の頃から毎回入賞していたし、個人で応募したコンテストでも何度か受賞歴がある。
「写真のような立体的な絵を描く人」に憧れて美大を志望した俺。それだけだと、オリジナリティに欠ける。俺にしか描けない絵を描けるようになりたい。それも美大を志望した動機の一つだが、どうも漠然としている。

恋愛とは無縁の人生を生きる。そう思っていたのに。


それは本当に突然訪れた。


大学2年生になったばかりの春。たまたま通りかかった、大学近くのドーナツショップの入口で売り子をしていた彼女。


桜ヶ丘(さくらがおか)」というネームプレートをエプロンの左胸付近につけ、溌剌(はつらつ)とした声でセールを呼びかけている。
その笑顔があまりにも眩しくて、俺は思わず足を止めた。

油臭い画材まみれの服さえ着ていなければ即入店したのに、と日頃の身なりを恨めしく思ったのもこのときが初めてだった。

「ただいま全品10%OFFでーす!」

店頭に立ち並んだドーナツを買い求める客の行列が、次第に長くなる。
期間限定メニューとやらも完売御礼の札が貼られており、それ目当てで来たであろう女子大生っぽい二人組が残念そうに肩を落としながら他のドーナツを選ぶ姿も見えた。

実をいうと、俺は甘いものがそんなに好きではない。もしここで彼女を見かけなければ、この店は俺の視界にすら入らなかっただろう。
それにしても……。

「ありがとうございました! あ、期間限定メニュー全品完売です! すみませんねえ。今あるやつでおすすめは、もちもちドーナツシリーズの……」

元気がいいな。


本来、俺は声の大きい女の子は苦手だった。でも、彼女は違った。

このやや高めの溌剌とした声が、何故か心地よかった。
まるで歌を歌っているような。
包みこまれるような。

麗日(うららか)な日和、気候。春爛漫とした季節をより引き立たせるような、あたたかな空気感。
可愛らしさと、芯の強さ。
晴れ渡る空にひらひらと舞う桜の花弁――その情景が瞼を閉じていても浮かぶような。
インスピレーションのようなものを感じさせる不思議な声に、その瞬間から俺はすっかり魅了されてしまっていたのかもしれない、と今になって思う。

俺の絵筆が水を得た魚のように踊り始め、真っ白だったキャンバスがたちまち色づいたのも、その頃からだった。

俺は、彼女に恋をした。


一目惚れだった。