砂浜に描いたうたかたの夢

 それだけでもビックリしたのに、顔めがけて飛んでくるという、恐怖のおまけつき。

『珍しい色のセミを見つけたから』と言われたのだけど……後で調べたら、羽化したばかりの状態のことで、全然新種じゃなかった。

 セミについて詳しくなれたものの、この件をきっかけに、私は虫全般が苦手になってしまった。

「悪気はなかったんだろうけど、あの時すごく怖かったんだからね⁉」

 当時は言えなかった胸の内を吐き出した。

 翌年、理科の授業が始まった時、教科書を見るのが怖くて怖くて。授業がある日は、給食がのどを通らなくなるほど憂鬱だった。

 今勉強している生物も、実は少しドキドキしながら授業を受けている。

「……そんなことあったっけ?」
「あったよ! 覚えてないの⁉」
「うーん……」

 目を合わせたかと思えば、首を傾げて全く覚えていないそぶり。典型的ないじめっ子タイプだ。

「それよりさ、その前にまず挨拶じゃない? てか、わざわざ迎えに来て荷物も運んでやったのに、なんで俺怒られなきゃいけないの?」
「……そうですね」

 並べられた正論に声をしぼませて返事をした。

 ですよね。ついカッとなって口走ってしまったけれど、まずは「こんにちは」、そして「運んでくれてありがとう」だよね。

 再会して早々失礼だったなと反省し、後部座席に乗り込んだ。





 街を抜け、木や田んぼに囲まれた道を走ること数十分。

「あ! 海だ!」

 太陽の光に反射してキラキラと輝く海が見えた。その美しさに取り憑かれたかのように、窓に顔を近づける。

 15年強の人生の中で、海には何度か行ったことはあったけど、こんなに綺麗な海は初めて見た。

「そんなに張りつく? 一花の地元って海ないの?」
「あるよ。でも、街中に住んでて距離あるから、気軽に行けなくて」
「うわぁ、サラッと都会自慢ですか」

 ……こいつ、さっきからなんなの?

 学校の話をしても、世間話をしても、言葉の端々に棘を感じる。セミの件で怒ったこと、まだ根に持ってるとか?

 サイドミラーに映った顔がものすごく腹立つ。けど、言い返したらより嫌味が増しそうだしな……。

「こら、八つ当たりしない。ごめんね一花ちゃん。この子、最近彼女と喧嘩したみたいで、ご機嫌ななめなのよ」
「バカ……っ! 勝手に教えんなよ!」

 すると、出発前からやり取りを見ていた伯母が説明をしてくれた。

 あんたもリア充だったのかよ。

 はぁ、どうしてこんな意地悪なやつに恋人がいて、毎日コツコツ勉強を頑張ってる私にはいないんだろう。……まぁ、人のことをこんなやつ呼ばわりする自分も、決して性格がいいとは言えないけどさ。

 住宅街に入り、右左折をしながら奥へ進むと、瓦屋根の大きな平屋が見えてきた。どうやらあれが曾祖母の家なのだそう。

 駐車場に車を停めて荷物を運び出し、インターホンを押した。

「お母さん、お父さん、来たよ」
「はいはーい。今開けるからちょっと待ってて」

 インターホンのカメラに向かって伯母が話しかけると、しばらくして曇りガラスに人影が現れた。ガラガラガラと音を立ててゆっくりと扉が開く。

「いらっしゃい。来てくれてありがとね」

 出迎えてくれたのは祖母だった。

 短く切り揃えられた明るめのブラウンヘアに、淡い黄色のカーディガンを羽織っている。夏っぽく爽やかな色合いがオシャレだ。

「智くんも一花ちゃんも、大きくなったねぇ」
「へへへっ。もうDKですから!」
「あらま、もうそんな年なんだねぇ」
「えっ、意味分かるの⁉」

 にこやかに頷いた祖母に思わず口を挟んだ。

 流行り廃りが激しい若者言葉なんて、絶対分かんないと思ってたのに。でも、この見た目からすると流行には敏感そうだし。もしかしたら聞いたことがあったのかも。

「お邪魔します」と挨拶をして家に上がり、別室に荷物を置いて祖父達が待つ居間へ。

「こんにちはー」
「こんにちはっ」
「おお、みんないらっしゃい」

 智と一緒に襖を開けると、紺色のポロシャツを着た祖父が目を細めて迎えてくれた。

 ひいおばあちゃんの姿を探そうと、辺りを見渡してみたのだけれど……。

「うおっ! なんか初めて見るのがいる!」

 祖父の足元でくつろぐ1匹のゴールデンレトリバーが目についた。

「可愛い〜! 名前何?」
「ジョニー。先月7歳になったばかりの男の子だよ」
「へぇ〜! よろしくジョニー!」

 わしゃわしゃと撫で始めた智を眺める。

 まさか犬がいるとは……しかも大型犬。あまり犬と触れ合った経験がないから、仲良くできるかちょっと心配だな。

 曾祖母は別室で寝ているみたいなので、先にお参りすることに。

 仏壇のろうそくに火を点け、お鈴を鳴らして手を合わせる。

 ひいおじいちゃん、お久しぶりです。一花です。

 まだお盆の時期ではありませんが、心身のリフレッシュも兼ねて、一足先に帰省しに来ました。

 自然を楽しみつつ勉強も頑張るので、応援してくれると嬉しいです。よろしくお願いいたします。

 心の中で唱えた後、仏壇の隣に立てかけられた写真に視線を移した。

 これは……おじいちゃんの家族かな? 少しぼやけてて分かりにくいけど、確か4人姉弟の2番目だったはず。
 それにしても、親子そっくり。この時のおじいちゃん、今のお父さんに少し似てるもん。

 他には、何かの記念写真や、老人会の集まりでの写真など。

 家族仲が良好なのがうかがえるけれど……。

「なんか犬が多いなぁ……」
「はははっ。家族全員動物大好きだったからねぇ。ここに写ってるのはみんな男の子だよ」

 家族写真の中の犬をまじまじと眺めていたら、祖父が笑いながら隣に腰を下ろした。

 お行儀よく座っているのがポチ、お腹を見せて寝ているのがタロウ、全身ふさふさしているのがシズユキなのだそう。

「ポチは頑固な分、2人きりの時は甘えん坊だった。タロウはのんびり屋さんで、シズユキは元気いっぱいだったなぁ」
「へぇ、そうなんだ」

 熱く語る祖父の瞳が輝いている。

 こんなに好きなら、新しい家族を迎えるのも納得だ。後で犬と仲良くなる方法を教えてもらおう。

「智、一花ちゃん、ひいおばあちゃん起きたって」

 半分聞き流しながら頷いていると、部屋の外から伯母に呼ばれた。居間を後にし、奥の部屋へ向かう。

「おばあちゃん、連れてきたよ」

 伯母の後ろからそっと顔を出した。

 パイプベッドに座る、花柄のブラウスを身にまとったおばあさん。隣にいる祖母に背中を擦られながら穏やかな笑顔を浮かべている。

「お義母さん、覚えてる? 智くんと一花ちゃん」
「こんにちはー。ひ孫の智でーす。DK1年生だよ!」

 部屋に入るやいなや、智が先陣を切って挨拶をした。祖父母の時と変わらないテンションで近づき、そのまま手を取って握手。

 あっちからしたら、DKって何だよって感じだけど、「よく来たねぇ」と笑っている。智は大丈夫だったようだ。

「さ、一花ちゃんも」

 伯母に背中を押されて、自分も彼女の元へ。
 
 私のこと、覚えてるかな。

 お父さんが言うには、話はできる反面、老眼が進んであまり目は見えていないんだとか。

 私が来ることも一応伝えてはいるみたいだけど……どうだろう。

「こんにちは……智と同じく、ひ孫の一花です」

 智の陰から顔を出して恐る恐る自己紹介をした。彼に向いていた視線がゆっくりと自分に向く。

 うわぁ、めちゃめちゃ見られてる。眼差しは全然怖くないのに、緊張で心臓がバクバク鳴っててうるさい。

「あ、あの……」

 聞こえなかったのかなと思い、再度名乗ろうとしたその時。

「……タダシさん?」

 え? タダシ? 誰?

「お義母さんっ、違うよ! 一花ちゃん! ひ孫だよ!」
「あぁ、そうかい? それは失礼しました」

 深々と頭を下げて謝罪した曾祖母。

 どちら様ですかとは言われなかったから良かったものの……知らない人に間違えられるのも、なんか複雑だな。ましてや女の人じゃなくて男の人に。老眼で見えにくいのなら仕方ないんだけどね。

 その後、曾祖母と一緒に居間に戻った。

 少し談笑し、時計の針が正午を指したところで、昼食の準備に取りかかることに。

 祖父と智には、テーブルと席の設置と、曾祖母とジョニーのお世話を。祖母と伯母と私は、車に乗って近所のスーパーへ向かった。

 お惣菜とオードブルを購入して帰宅し、台所でお皿に盛りつける。

 台所は居間とは別室。冷房はなく、数分動けばすぐ汗だくになる。

 多くの人なら、ベタベタして気持ち悪いとか、早く着替えたいと愚痴を漏らすだろうけど……。

「わぁ! 一花ちゃん、切るの上手ね!」
「あら本当! これは百人力だわ〜」
「えへへ。ありがとうございます」

 得意の包丁さばきを褒められて、気分は最高潮。だって私、料理するの大好きだから!

 しかも今日は、お刺身やお肉など、大好物だらけ。着替えは持ってきたので、多少汗をかいても気にしない。

 設置を終えた2人に配膳を手伝ってもらい、最後に、伯母が買ってくれたメロンを切り分ける。

 甘い部分が均等になるよう、慎重に包丁を入れて8等分。

 1つは、お金を出してくれた香織おばさんに。
 もう1つは、仏壇のひいおじいちゃんに。せっかくならみんなで味わいたいからね。

 全員に配り終え、ふかふかの座布団の上に腰を下ろした。

「えー、今日は集まってくれてありがとうございます。まだ全員揃ってはいませんが、ひとまず乾杯しましょう!」

 祖父の掛け声に合わせて、「乾杯!」とガラスのコップをぶつけ合った。

 ぷはーっ、ひと仕事終えてのジュースは最高だ!

「おっ、唐揚げ発見。いただきまーす」
「あー! それ私が狙ってたやつ!」
「いいだろ。まだあるんだし」
「それが一番大きかったの!」

 リスのように頬を膨らませてモグモグする智。

 くそぉ、お店で見た時から狙ってたのに。しかも焼き鳥まで取っちゃってる。早い者勝ちとはいえ、大好物を先に取られたのは悔しい。

「一花ちゃん、唐揚げなら、こっちに大きいのあるよ。あげようか」
「えっ、いいの?」

 口をへの字にしていたら、奥に座っている祖父から嬉しい情報が。

 いくら孫でも、顔を合わせたのは数年ぶり。にも関わらず、こんなにも温かく接してくれるなんて……。

「ありがとう! おじいちゃんもおばあちゃんも、みんな大好き!」
「はははっ、ありがとう」
「うふふ、おばあちゃんも大好きよ」
「……チョロっ」

 嬉しさのあまり、湧き上がってきた思いが溢れて自然と口が動いた。

 まだ来て数時間しか経ってないけど、帰省して良かった。充分気分転換できそうだし、勉強もはかどりそうだ。

 ボソッと呟いた智を無視して、もらった唐揚げをじっくり味わった。



 大好物を食べてエネルギーが満タンになったところで、夏休みの宿題に取り組む。

 持ってきたのは、英語と化学のプリントと、自由研究用のメモ帳とノート。そして日記帳。静かな環境を活かして一気に進める作戦だ。

 祖父母の部屋を借り、ちゃぶ台の上に宿題を広げた。髪の毛をお団子にまとめ、前髪も留め直す。

 晩ご飯の準備時間まで、あと3時間弱。まずは英語から始めるか。

「あ、いたいた」

 気合いを入れた直後、突然ドアが開いて、宿題を抱えた智が現れた。

「俺も入れてー」
「……どうぞ」

 あぁビックリした。自分の家じゃないんだからノックくらいしてよ。もし着替えてたらどうするの!

 溜め息をつき、広げた宿題を片づけて場所を空ける。

「ん? 何これ」

 すると、智が1冊のノートを手に取った。

「【8月3日 今日は久しぶりに、中学時代の友達と電話した】もしかして絵日記? ハハハッ、小学生かよ」
「ちょっと! 返してよ!」

 ケラケラ笑いながらページをめくる智。

 勝手に見るな! 読み上げるな! プライバシーの侵害だぞ!

 立ち上がって上から強引に奪い返した。

「もう! やめてよ!」
「わりぃわりぃ。でもお前、絵上手いな。よっ! 偏差値70の優等生!」

 反省の色ゼロの軽々しい謝罪。馬鹿にしたような口調で褒められても全然嬉しくないし。逆に不快だっての。

 その後、数時間奮闘し、目標の量をクリア。
 昼食の残りを含めた夕食を食べ、一息ついた夜の8時過ぎ──。

「智くん、一花ちゃん、準備はできたかい?」
「オッケー!」
「うん! バッチリ!」

 薄暗い玄関扉の前で祖父に返事をした。
 食後の運動も兼ねて、ジョニーの散歩に同行することにしたのだ。

「えっ、毎日2時間散歩してるの⁉」
「大型犬だからねぇ。その分運動量も多いんだよ」

 真っ暗になった住宅街を4人(正しくは3人と1匹)で歩いていく。

 祖父によると、朝晩それぞれ1時間程度。これをほぼ毎日続けているらしい。

「だからテーブルも軽々運べたのか。他にも何か運動してるの?」
「週に数回スクワットをしているよ。時間がある時は、おばあちゃんと一緒にラジオ体操もするかな」
「おおーっ。めちゃめちゃ健康的!」

 祖父母に向けられた褒め言葉が自身の胸にグサッと突き刺さる。

 10代の私より、70代のおじいちゃん達のほうが何倍も運動してるだなんて……。

 そっか。若々しいと感じたのは、定期的に運動していたからだったんだ。

「……毎日散歩したら、痩せるかな」
「おや、ダイエットかい?」
「うん。最近ちょっとお腹が出てきちゃって。このままだと服が入らなくなりそうだから」
「えっ、そんなに⁉ ヤバッ! 今もパツパツしてんの?」

 祖父を挟んだ右側から、無神経で失礼な質問が飛んできた。

 はぁ……どうして私の周りの男子はデリカシーがないのだろう。そんな無神経だから彼女と喧嘩したんじゃないの?

 反応したら負けだと思い、のどから出かけていた声を抑える。

 30分ほど歩いていると、風に乗って潮の香りが漂ってきた。

「もしかして、海に行くの?」
「まぁ、行くには行くが、中には入らないよ。ジョニーの足が汚れるから」

 期待したのも束の間、わずか2秒で撃沈。
 ……そうだよね。洗うの大変だし、夜だし。仕事増やしたくないよね。

「行きたいのかい?」
「……自由研究用に、写真が撮りたくて」

 だけど、今日の天気は雲1つない快晴。夜空に月が綺麗に出ている。せっかくなら建物が少ない開けた場所で観察したい。

「そうか。だが、暗い中1人で出歩かせるわけには……智くん、着いていってあげてくれないかい?」
「えー、なんで俺が」
「お願いします!」

 手を合わせて懇願するも、案の定渋っている。

 面倒なのは分かってる。けど、今頼れるのは智しかいないんだ。

 粘りに粘った結果、明日の朝、好物のだし巻き卵を作るという条件で了承してもらった。

 スマホのライトで足元を照らし、階段を下りて海岸へ。

「わぁ、綺麗……!」

 見上げると、視界いっぱいに満天の星空が広がっていた。小さな星も肉眼でハッキリと確認できる。

 海と同様、地元だったら絶対見られない景色。眺めれば眺めるほど、神秘的でとても美しい。

「はいもしもし。……時間? うん、大丈夫だよ」

 恍惚とした表情で撮影していると、隣から先ほどとは打って変わった優しい声が聞こえてきた。

 声色違いすぎ……あと顔も。一瞬で彼女って分かっちゃった。

 今耳元で、「この人、さっきデブいじりしてきたんですよ!」って暴露してやりたい。

 けど、多分仲直りしようとして電話をかけてきたはずだから。ここは彼女の気持ちを優先しよう。

 邪魔にならないよう、少し離れて撮影再開した。

 うーん、綺麗だけどなんかイマイチだなぁ。ライト消して撮ってみるか。

「わわっ、冷たっ」

 突然、足元にヒヤッと刺激が走った。ありゃりゃ、いつの間にか波打ち際に来ちゃってたのか。

 顔を正面に戻し、不規則に繰り返す波の音に耳を澄ます。

 こう眺めると、夜の海も綺麗だな。ゆらゆら揺れる水面が月明かりに照らされて、星空とはまた違った魅力がある。

「そうだ、せっかくなら……」

 パンツの裾をふくらはぎまでめくり、波が引いた砂浜の上を一歩ずつ進んでいく。

 今日はサンダルだし、智もまだ電話してるみたいだし、夜の海を撮ってみよう。

 足全体が波に覆われたところで止まり、カメラのレンズを海面に近づける。

 祖父いわく、日中は透き通っていてとても綺麗とのこと。昼間に比べたらかなり暗いけど、ライトを点ければ中まで見えるかもしれない。

 ピントを合わせてシャッターを押したその時。

「やめろーっ! 早まるなーっ!」

 後方から制止しようとする声が聞こえた。
 振り向くと、1人の男性がこっちに向かって走ってきている。

 えっ……もしかして私のこと⁉

「うわっ」
「っだ、大丈夫ですか⁉」

 目を丸くした直後、彼がバシャンと水音を立てて転倒した。

 慌てて駆け寄るも、反応がない。というより、全然微動だにしない。

 まさか、打ちどころが悪くて気を失ってしまったんじゃ……。

「あの……」
「……ぷはっ」

 再度声をかけると、ガバッと顔を上げて咳き込みだした。良かった。意識はあったみたい。

「大丈夫ですか……?」
「はい……」

 落ち着きを取り戻し、ゆっくり起き上がる彼。

 話を聞くと、私が自死しようとしているのではと思い、急いで呼び止めたのだそう。

「紛らわしいことをしてすみませんでした……っ!」

 海岸に戻り、つむじが見えるくらいに深く頭を下げた。

「いえ、こちらこそ。お楽しみのところ、邪魔してしまってすみません。足は大丈夫ですか? 何かに刺されてはない?」
「はいっ。大丈夫ですっ」
「そうですか。なら良かった」

 顔を上げると、安堵に満ちた表情が。

「もし入るのであれば、誰かに付き添ってもらってくださいね。暗いと、何かあった時に分かりづらいので」
「……はい」

 優しい口調で注意を受け、消え入るような声で返事をした。

 ……申し訳なさすぎる。

 頭からつま先まで全身びしょ濡れで、綺麗なお顔と髪の毛に至っては砂まみれ。

 対して私は、足と手が少し濡れただけ。謝罪1つでは足りないくらいだ。

「一花……っ!」

 せめてものお詫びをと思ったその瞬間、後ろで私の名を呼ぶ声が聞こえた。

「いたいたっ、どこ行ってたんだよ」
「ごめん。夢中になってて」
「ったく、そろそろ帰るぞ」
「う、うんっ」

 智が前を歩き出した後、チラッと隣を見る。

 何も言われなかったなと思ったら……いつの間に。

 辺りを見回しながら海岸を後にしたものの、彼らしき姿は見当たらず。心残りを抱えたまま帰路に就いたのだった。
 ピピッ、ピピッ。

「んんー……」

 頭上で目覚まし時計が鳴り出し、眉間にシワを寄せた。いつもと違う背中の感覚に違和感を覚えつつ、薄く目を開けて腕を伸ばす。

 眠いけど、宿題のために起きなきゃ。

 布団の上で伸びをし、まだ寝ている伯母と智を起こさないよう静かに起床。薄暗い廊下を歩いて洗面所へ向かった。

 うわっ、浮腫んでる。昨日お肉食べすぎたからかな。

 丸みを帯びた顔に苦笑いしながら髪の毛を後ろで1つに結び、冷水で顔を洗った。

 客間に戻ろうとドアに手を伸ばしたその時、曇りガラスに人影が現れた。

「あら、おはよう」
「おはよう……」

 引き戸をゆっくりと開けた曾祖母に挨拶した。場所を譲り、鏡越しに目を合わせる。

「早いね。もう起きてるなんて」
「そうかい? 私はいつもこの時間には起きてるよ」

 目を弓なりに細めて、器用に蛇口をひねって顔を洗い始めた。

 毎朝5時起きなの……⁉ 年取ると早起きになるとは言われているけど、それでも早くない⁉ ちゃんと眠れてるのかな……。

「タダシさんこそ、こんな時間に起きてるなんて珍しいじゃないの。もしかしてポチの散歩?」

 顔を拭く曾祖母の様子をうかがっていると、スイッチが入ったかのようにペラペラ話し出した。

「……ひいおばあちゃん、違うよ。私、一花。あと、ポチじゃなくてジョニーだよ」
「あら、そうだったかね。これは失礼しました」

 深々と頭を下げた丁寧な謝罪。そして謎の男、タダシの登場。

 また間違えられた……。早朝だから寝ぼけてるのかな。

 それにしても、タダシは一体何者なんだろう。昨日はみんなバタバタしてたから、結局聞けなかったんだよね。

 気になるところだけど、これから観察しに行かなきゃいけない。

 尋ねたい気持ちを抑え、歯を磨き始めた曾祖母に「またね」と言い残して退室した。





「おじいちゃん、ジョニー、お待たせ」
「おお、きたきた」

 急いで準備を進めること15分。駐車場にいる祖父とジョニーの元へ向かった。

「忘れ物はないかい?」
「うん! 大丈夫!」
「よし、それじゃあ出発!」

 祖父に返事をするようにワンと鳴いたジョニー。自分も「しゅっぱーつ!」と返して家の外へ。

 別室で着替えを終えて部屋を出た時、ちょうど前の部屋からおじいちゃんとジョニーが出てきて。これから散歩に行くって言うから、観察のついでに着いていくことにしたんだ。夜とは違うコースみたいだから楽しみ。

「昨日は長旅やらご飯の準備やら、色々とお疲れ様でした。夜は大丈夫だった? よく眠れた?」
「うん! 布団で寝たの、小学生以来だったけど、ぐっすり眠れたよ!」
「そうかそうか。なら良かった」

 穏やかな風を浴びながら住宅街を歩いていく。

 最初は寝つけるかそわそわしてたけど、早朝から活動したのもあってか、目を閉じた途端眠気が襲ってきて、あっという間に夢の中へ。多分、寝落ちするまで5分もかかってなかったと思う。

 1日中ずっと動く必要はなくとも、この調子で毎日過ごせば、早寝早起きできて、時間も有効活用できそうだ。

 曲がり角に差しかかると、道路の反対側に祖父と同世代くらいの男の人が歩いているのが見えた。

「ねぇ、おじいちゃんは、タダシさんっていう人知ってる?」

 その光景を見てふと思い出したので尋ねてみた。

「タダシ……一体どこでその名前を?」
「ひいおばあちゃん。昨日と、さっき洗面所で会った時、私の顔見てそう呼んでたの。もしかして、ご近所さんに似てる人がいるの?」

 目を丸くする祖父に対面した時のことも踏まえて説明し、再度尋ねた。

 名前の世代的に、息子か孫の子ども時代を重ねていたのかなと考えた。しかし、それなら呼び捨てか、◯◯くんと呼ぶはず。

 自分の子孫にさん付けする人もいるかもしれないけど、おじいちゃんのこと、ヒロマサって呼び捨てにしてたから、多分身内ではないだろう。

 当てはまるとしたら、ご近所さんくらいだと思ったのだ。

「そうか……」

 ポツリと呟き、感慨深そうに頷いた祖父。反応を見る限り、知っているっぽい。

「ご近所さんではないよ。タダシは、おじいちゃんのお父さん。一花ちゃんのひいおじいちゃんだよ」
「ええっ⁉」

 予想外の答えに目を丸くする。

 自分の夫と見間違えてたの⁉ でも、ひいおじいちゃんはもう……。

「一花ちゃんも何度か会ったことはあるんだけど……覚えてるかな?」
「うーん……あまり。ひいおばあちゃんでさえ、ほとんど覚えてなかったから」

 祖父母の顔は昔の父の写真で確認済みだが、曾祖父母の顔は未確認。

 そのため記憶は小学生の頃で止まっており、どんな顔だったかまでは覚えていない。だから昨日、家族写真を見ても全くピンとこなかった。

 だけど、しわしわの手とか、腰が曲がったシルエットとか、部分的にはなんとなく覚えている。

「そんなに似てる? 私とひいおじいちゃん」
「あー、目元が似てるかな。飾ってる写真は柔らかい雰囲気だけど、若い頃はキリッとしてたみたいだから」

 なるほど。確かに話す時はまず目を見る。それなら記憶に強く残るよね。

 キリッとしてるなら智も似たような系統だけど……女の私のほうが似てるのかな。
 ジョニーと時々触れ合いつつ、道端に咲く花や空を撮影しては、気づいたことをメモ帳アプリに書き込む。

 嫉妬に狂ったあの日以来、SNSを開きたくなくて、極力スマホを使わず、一時期紙のメモ帳を使っていた。けど、やっぱりこっちが便利だったから結局戻ってきた。

 とはいえ、使っているとつい気になってしまうので、同級生達には悪いけど、通知はフウトさん以外全員オフにしている。

 再開するのは、宿題が全部終わった後かな。まぁ、いいねを押すかは、投稿内容と私のメンタルによるけど。

 住宅街を歩き回ること30分。東の空から太陽が昇ってきた。出発時は薄暗かった空が徐々に明るくなっていく。

 通りに出ると、ふわっとぬるい風が吹いた。

 あぁ、この爽快感のある匂いは……。

 視線を下ろしたら、ジョニーも目を細めて鼻をひくひくさせている。

「もしかして、また海に?」
「あぁ。早朝の綺麗な海を眺めに行こうと思ってねぇ」
「本当⁉ やったー!」

 中に入ると分かった途端、一瞬にして軽い足取りに。満面の笑みで横断歩道を渡った。

 狭い路地を抜けて階段を駆け上がり、高台の上から海岸を見下ろす。

「わぁっ! 綺麗……っ!」

 視界いっぱいに広がった光景に感嘆の声を上げた。朝日に照らされた海面が、ほのかなオレンジ色に輝いている。

 同じ海なのに、時間帯と天体が違うだけでこんなにも印象が変わるとは。

 この美しさ、写真に残す以外の選択肢はないでしょう。

 カメラアプリを起動させ、この位置から1枚撮影。次に、海岸に下りて1枚撮影。

 他にも、波打ち際や砂浜を撮ってみたり、はしゃぐジョニーを撮ってみたり。画角と被写体を変えて、シャッターボタンを押しまくった。

「どうだった? いい写真は撮れたかな?」
「うん! バッチリ!」

 海岸を後にして帰路に就く。

 夜の海と朝の海。早速絵日記のネタができた。帰ったらざっくり下描きしようっと。

「……あ、そうだ」

 脳内でイメージを膨らませていると、ふと昨夜の出来事を思い出した。

「ねぇ、この近くに、若くて綺麗な男の人って住んでない?」
「綺麗? どんな感じの?」
「えっとね……」

 記憶をたどり、特徴を並べる。

 細身の体型に涼し気な目元、上品かつ落ち着いた雰囲気。例えるなら、月夜に輝く王子様。

 話し方が丁寧だったから、恐らく年齢は私より上。20代前半かなと予想している。

「どう? 心当たりある人いる?」
「うーん。この辺りは若者が少ないからなぁ。それだけハンサムな人なら、一目見たら覚えてるはずなんだが……」

 毎日周辺を散歩している祖父でさえも、知らないのだそう。言われてみれば、ご近所さんも年配の人ばかりだったもんな。

「捜しているということは、何かあったのかい?」
「あー……」

 しまった、情報欲しさについ……。

 誤魔化そうとすればするほど不信感は増し、隠そうとすればするほど知りたくなるもの。

 この流れだと気になるのも当然だから、正直に話してしまおう。お父さんに話がいって、後で何か言われたら嫌だし。

 余計な心配をかけまいと、包み隠さず全て話した。

「ごめんね。智は何も悪くないから、責めないであげて」
「いやいや。無事ならいいんだよ。もしかしたら、一花ちゃんみたいに帰省してる人かもしれないねぇ。学生さんなら、ちょうど夏休みだろうし」

 帰省中の学生か。それなら普段見かけないはずだ。

 昨日で帰ってしまっているなら難しいけれど……もし、近所に泊まりに来ているのなら。もう1回会って、改めて謝罪がしたい。

 また会えますように。
 そう願いながら帰宅し、祖母と伯母と一緒に朝食の準備に取りかかった。





「あら? おでかけ?」
「うん。ちょっと海に行ってくる」

 昼下がり。玄関で靴を履いていると、祖母に声をかけられた。

「海? 海水浴?」
「ううん。絵日記のネタ用に、写真を撮りに行くの」
「あぁ! 宿題ね! 外、日射しが強いから気をつけてね」
「はーい!」

 くるっと振り向いて元気よく返事をし、曇りガラスの扉を開ける。

「おお! 一花ちゃん!」

 外に出ると、駐車場で祖父とジョニーが水遊びをしていた。

「おでかけかい?」
「うんっ。そっちはプール?」
「そうだよ。夏場は時々こうやって遊ばせているんだ」
「へぇ〜。良かったね〜」

 ペット用のプールに入っているジョニーの前にしゃがみ込む。

 教えてもらった情報によると、犬は人間よりも体温が高いらしく、季節の変わり目になると気温に適した毛に生え替わるのだそう。ハッハッと舌を出して呼吸するのも、体温調節のためなんだとか。

 でも、夏毛でもかなり暑そう。真夏に毛皮のコート着てるようなものだもん。

 気楽で羨ましいと思ってたけど、犬も犬なりの事情があって大変なんだなぁ……。

「うわぁ!」

 お疲れ様と言わんばかりに頭を撫でると、身を乗り出して顔をペロペロ舐め始めた。不意打ちの愛情表現に驚き、慌てて手でガードする。

 室内にいる時は、足元にくっついてくるだけだったのに……っ。そんなに嬉しかったの……?
「こらっ、ジョニー! ごめんね、おでかけ前なのに」
「ううん。仲良くなれた証だし」

 立ち上がって引き剥がすと、今度は祖父にターゲットを変更し、お腹に顔をこすりつけ始めた。

 水浴びが気持ちよくて気分が高揚しているみたい。ポチ達もこんなふうに夏を楽しんでいたのかな。

 写真の中の犬達に思いを馳せた後、駐車場を出て住宅街を駆け抜ける。

 正午を過ぎたこの時間帯は、気温がピークに達する頃。多くの人は、極力出かけたくないだろう。

 しかし、今朝の光景が頭から離れず、葛藤した結果、欲望が勝ってしまった。

 明日は曇りの予報だから、できれば晴れているうちに撮っておきたい。

 今朝と同じく高台に向かい、海を見下ろした。

「うわぁ! 青……っ!」

 あまりの絶景に口から短い単語が飛び出した。

 進学校に通ってるわりには、語彙力低めな第一声だったけど……この光景を見たら、誰だって似たような感想が出ると思うな。

 リュックサックからスマホを取り出して撮影する。

 波打ち際から奥にかけて鮮やかなグラデーション。太陽光に反射して煌めく海面は、まるで散らばったダイヤモンドが輝いているかのよう。

「ヤッホー!」

 その美しさに魅了された私は、人目もはばからず叫んだ。

 いやいや、ここ山じゃなくて海だから。叫んでも返ってこないから。

 周囲はそう言わんばかりに目を向けているけれど、気にせず海岸に下りる。

 夏休みシーズンというのもあり、家族連れやサーフボードを持った男性などで賑わいを見せていた。

 パラソルやテントの立つ砂浜を通り過ぎて人気(ひとけ)のない場所へ移動。ひとしきり写真を撮った後は……。

「ひゃー! 冷たっ!」

 靴を脱いで裸足になり、波に当たる。

 部屋着だからジョニーみたいに全身とはまではいかないけど、ひんやりして気持ちいい。水着も持ってくれば良かったな。

「今日はお1人ですか?」

 浅瀬ではしゃいでいると、黒い日傘を差した男の人に声をかけられた。

「楽しんでるところ突然すみません。僕、昨夜ここで声をかけた者なんですけど……覚えてますか?」

 恐る恐る近づきながら、傘を傾けて前髪をかきあげたお兄さん。

 この端正な顔立ちと落ち着いた雰囲気は……。

「もしかして、転んで砂まみれになった……?」
「はい、そうです。顔面から砂浜に突っ込んだ者です」

 ドクンと心臓が音を立てた。

 ええっ⁉ あの水も滴るかっこいいお兄さん⁉ こんなに早く会えるなんて、奇跡としか言いようがないよ……!

「先日は本当にすみませんでした!」

 海岸に戻り、改めて謝罪した。

「綺麗なお洋服を汚してしまって……。あの、帰りは大丈夫でしたか? 風邪、引いてませんか?」
「はい。汚れたといっても海水ですし。ピンピンしてるので大丈夫ですよ」

 良かった。あの時お別れの挨拶ができなかったから心配だったんだよね。

「僕のほうこそ、勝手に帰ってしまってすみませんでした。彼氏さんに何も言われてませんか?」
「え?」

 彼の口から出た単語にきょとんとする。
 
 彼氏? 一体誰のことだ?

「……あ、もしかして迎えに来た人のことですか? あの人はただの従兄です」
「えっ、従兄?」
「はい。別行動してたのは、彼女と電話してたので、邪魔にならないように離れてただけなんです」
「なんだ、良かったぁ」

 彼の口から安堵の声が漏れた。

 智が彼氏だなんて、身内じゃなかったとしても、地球がひっくり返っても絶対無理だけど、傍から見たら男女2人組。カップルかなと思うのは自然なこと。

 もしかしたら、ややこしくならないように配慮して姿を消したのかもしれない。

「従兄ってことは、帰省中?」
「はいっ。夏休みなので」
「なら、学生さん?」
「そうです。高校生です」
「えっ、奇遇ですね。僕も高校生なんです」
「ええっ⁉」

 波の音だけが聞こえる閑静な海岸で驚きの声を上げた。若くても大学生くらいだと思ってた……!

「大人っぽいですね……」
「よく言われます。今高3なんですけど、制服着てても会社員に間違えられるんですよ。お姉さんは何年生ですか?」
「1年生です……」

 同じ学生とはいえ、年齢はやはり上だった。

 制服姿でも社会人か。私も年上に見られたことはあるけれど、それは顔と背丈だけ。立ち居振る舞いや言葉遣いは、小学生の頃から変わっていない。

 外見だけの私より、中身までしっかりしているお兄さんのほうが断然大人だ。

 軽く落ち込んだが、この町での同年代はなかなか貴重。お互い1人で時間も余っていたので、少しお話ししていくことに。

「絵日記の宿題かぁ。それで写真撮ってたんですね」
「はいっ。今朝も犬の散歩中に撮ったんです」

 近くの階段に腰かけてスマホ画面を見せる。

 オレンジ色に光る海と、金色の毛を風になびかせるジョニーの横顔。動画も撮っていたのでそれも一緒に見せた。

「どれも綺麗ですね。ワンちゃんも可愛い。僕のところにも犬がいるんですよ。3匹」
「3匹も⁉ どんな子ですか?」
「柴犬系雑種が2匹と、日本スピッツっていう種類の子がいます」
「スピッツ……?」

 日本ってことは国の犬? 柴犬みたいな感じ?

「戦後に人気があった犬種で、真っ白な毛をした中型犬です。最近だと珍しい種類に入るかな」
「へぇ〜」

 ピンときていない私に丁寧に説明してくれた。

 博識だなぁ。大人っぽく見られるのも分かる気がする。中型犬ならジョニーよりも小さいのか。後で調べてみようっと。

「……ん?」

 画面をスクロールしていると、何かに気づいたかのように彼がカメラロールを覗き込んだ。

「これ、絵?」
「はいっ。私、絵を描くのが趣味なんです」

 指を差した写真をタップし、画面全体に表示する。

 葉書の隅に描いた青い朝顔。夏休み前に中学時代の恩師に宛てた暑中見舞いのイラストだ。

 綺麗に描けたのでSNSにも一部分だけ投稿している。

「上手いですね。僕も趣味で絵を描いてるんですよ。他の絵も見せてもらうことってできますか?」
「はい! もちろん!」

 いそいそと絵専用のフォルダを開く。

 趣味といっても、ここ最近は勉強ばかりしててあまり描いてないんだよね。とりあえず、新しいやつから順にたどっていこう。

「学校の近くに咲いていた紫陽花です」
「おおーっ。これは、絵の具?」
「いえ、水彩色鉛筆です。ほとんどの絵はこれで描いてます。お兄さんは何の画材を使ってますか?」
「僕も色鉛筆かな。あとは絵の具とか。草花とかの自然を描くことが多いですね」
「本当ですか⁉ 私もです!」

 趣味、画材の種類、絵の対象物も同じ。すごい偶然だ。

 じわじわと感情が高ぶる中、画面をスワイプして次の写真を見せる。

 入学式の日の葉桜、中学卒業後に寧々ちゃんと観た桃の花、受験勉強の息抜きに出かけた先で見つけた梅の花。

 そして最後に……。

「今年の年賀状に描いた絵です!」

「あけおめー!」と叫んでいる虎の絵を見せた。

 これもSNSに載せていて、同級生からは【食われそう!】【目がギラついててこえー!】と感想をもらった絵だ。

「……あの、これっていつ描いたんですか?」
「冬休みです。クリスマスの後なので、26か27くらいだったと……」

 チラッと目を動かすと、無表情で絵を見つめている。

 さっきよりも反応が薄いな。リアルに描きすぎて驚かせちゃった⁉

「あの……違ったらすみません。もしかして、『二花』さんですか?」

 見せたことを後悔していたら、真っ直ぐな眼差しで問いかけられた。

 二花──それは、SNS上での私の名前。

 この名前を知っているのは、アカウントをフォローしている同級生や、一部のクラスメイトのみ。

 しかし、このお兄さんとは会うのは2回目。全く面識がない。

 ということは……。

「そう、ですけど……もしかして、フォロワーさん?」
「はい。僕、以前DMでやり取りしていた、『フウト』っていう者なんですけど……」

 聞き覚えのある名前が脳内に響き、心臓が早鐘を打ち始める。

 数少ないフォロワーの中で、そう名乗っている人はたった1人だけ。

「嘘……っ、本当に……⁉」
「はい」
「私が教えた親子丼を作ったあのフウトさんですか⁉」
「はい」

 淡々と返事をする彼だけど、開いた口が塞がらない。

「……まだ信じられないみたいですね。得意教科は家庭科と体育と数学。好きな食べ物はアイスと鶏肉。特に焼き鳥と唐揚げが好き。ユーザー名の由来は、2時2分の丑三つ時に生まれたから。ちなみに、先月の七夕の願い事は……」
「わぁぁぁ! 信じます! 信じますぅぅ!」

 今日イチの声量で彼の声に被せるように叫んだ。

 願い事を除いた全部はDMでやり取りした内容。特にユーザー名の由来は彼にしか話していない。

 じゃあやっぱり、今私の目の前にいるのは、憧れの……。

「お久しぶりです。二花さん」
「お久しぶりです……っ!」

 推しが、推しが私の名前を呼んでる……! そして笑いかけてる……!

 これは夢ではなく現実なんですよね⁉ あぁ、だとしたら私は昨夜なんてことを……。でも、元気そうで良かった……。

「あのっ、あく……」

 そう言いかけて右手を出したが、ハッと気づいて急いで引っ込めた。

「どうしました?」
「いえ、なんでもないです」

 ジョニーは何も悪くない。ただ、顔を舐められた時に手でガードしたから、よだれが付いている可能性がある。

 家に犬が3匹もいるなら、そういうのは多少慣れてるかもしれないけど……やっぱり、推しとは綺麗な手で握手したいから。

「あの、一緒に写真撮ってもいいですか?」
「あー……ごめん。写真はちょっと……」

 再び勇気を出したものの、断られてしまった。

 ……ですよね。SNSで繋がっているとはいえ、昨日会ったばかり。そりゃ警戒しますよね……。

「すみません……」
「いや、こっちこそ。俺、写真うつりが悪いからあまり撮られたくなくて。ごめんね」

 申し訳なさそうに眉尻を下げた彼。

 振り返れば、これまでの投稿の中に顔写真は1枚もなかった。顔出しなしで活動しているのなら、写真を拒むのも当然だ。
「それより、二花さんの本名、一花なんですね」
「あっ、はい。生まれた時間がゾロ目なので、全部同じ数字にしちゃおうと思って」

 衝動的に口走ってしまったことを反省していると、気を利かせて話を逸らしてくれた。

「フウトさんの本名はなんですか?」
「ナギ。漢字だと風に止まる。フウトはその字が由来」

 空に書いて説明する彼の指先を眺める。
 
 凪は穏やかな海って意味だっけ。まさに名は体を表す。物腰が柔らかいフウトさんそのものだ。

「素敵な名前ですね。どっちで呼んだらいいですか?」
「そんなの……本名に決まってるでしょ。ウシミツニャンコちゃんと一花ちゃん、どっちで呼ばれたい?」

 華麗な返しに思わず吹き出しそうになった。

 そう言われると本名一択ですけど、そこはユーザー名じゃなくて二花じゃない⁉

「……一花でお願いします」
「了解。年も近いし、さん付けなしで呼ばない? 敬語も外してさ。って、もう外してるけど」
「はい。じゃあ凪くんって呼びますね。あっ、呼ぶね」
「うん。よろしくね、一花ちゃん」

 あぁ、さっきと同じ笑顔なのに、胸が高鳴ってる。声がこだまして耳から離れないよ……。

「……更新、止まっててごめんね」

 すると、私を見ていた目が一瞬伏せられて、少し悲しい表情に変わった。

「DMも全然返さなくて、約束の絵もずっと待たせて、本当にごめん」

 つむじを見せるように頭を下げてきた。

 約束の絵というのは、私がSNSのアイコンに設定している写真のこと。

『中学卒業と受験合格のお祝いに何かプレゼントするよ』と言われて、『アイコンの絵を描いてほしい』とリクエストしたんだ。

 ちなみに写真は、梅の花とのツーショット。私立高校の入試が終わった後に観に行った時のものだ。

「ううん。3年生なら忙しいだろうし、ゆっくりで大丈夫だよ」

 同じ受験生でも、中学生と高校生とじゃ重みが違う。ある人は勉学に励み、ある人は社会に出るための準備をする。中には親元を離れることを選ぶ人も。

 委員会の活動中に、先輩が『模試やだな……』って呟いてたから、すごく大変なんだと思う。

 進捗は気になるけど、ここで急かして負担をかけたくない。

「年末でも、来年の春でも、生きてる間は何年でも待つから!」
「……ごめんね」

 心底申し訳ないと思っているのか、眉尻は下がったまま。

 全然怒ってないんだけどな。まぁでも、それだけ彼が優しくて真面目な証拠。海にいたのも、私と同じで束の間の休息中だったのかもしれない。

 ブーッ、ブーッ。

 すると、左手に持ったスマホが振動し始めた。彼に断りを入れ、応答ボタンを押す。

「もしもし?」
【もしもし、今どこ?】
「海だよ」
【は⁉ まだいんの⁉】

 素直に答えたら、「マジかよ……」と衝撃を受けたような声が聞こえた。

 そんなに驚く? と思いつつも時計を見たら、1時間以上が経過していた。

 昨日と同じ炎天下の中なのに、こういう時はあっという間だから不思議だよね。

【じいちゃんとばあちゃんが老人会に行くから、早く帰ってきてほしいって】
「はーい」

 短く返事し、電話を切った。

「ごめん、従兄から留守番頼まれた」
「そっか。なら、そろそろ解散しようか」
「……うん」

 外出するのは祖父母だけなので、家に誰もいないわけではない。だが、曾祖母のお世話に慣れていないため、人手が必要。それに加え、ジョニーだっている。

 もう少し一緒にいたかったけど、2人に任せっぱなしはできない。

「……明日も会う?」
「えっ?」

 リュックサックを背負って帰る準備をしていると、彼が唐突に口を開いた。

「いいんですか⁉ 忙しいんじゃ……」
「大丈夫。夏休み中はずっとこっちにいるし。近所だから毎日会えるよ」

 名残惜しさから一転、嬉しさが込み上げる。

「じゃあ、夕方4時頃はどうですか?」
「4時ね、分かった。どんな絵描いたか見たいから、絵日記も持ってきてくれない?」
「はい! もちろんです!」

 興奮のあまり、タメ語を忘れて敬語を連発。

 直接会えただけでも奇跡なのに、毎日会えるなんて。これ、妄想でも白昼夢でもなく、紛れもない現実なんですよね⁉ 奇跡が連鎖しまくってるよ……!

 約束を交わした後、スキップしながら帰ったのだった。
 推しとの再会から一夜明けた朝。

「ジョニー、待てだよ。……よし!」
「おおーっ! すごーい!」

 午前5時台の薄暗い駐車場で、鼻の上に置いたおやつをパクッと食べたジョニーに拍手した。

「はははっ。他にも、こうやって、頭にも乗せられるよ」
「わー! サーカスの人みたい!」

 今度は頭の上にボールを乗せた。滑り落ちそうな真ん丸のボールだけど、じっとしてバランスを取っている。その姿が可愛くて、1枚写真を撮った。

「それにしても、智くんはまだかねぇ」

 祖父と一緒に玄関の扉を眺める。

 毎朝恒例のジョニーの散歩。今回から智も参加することになったのだ。ただ、家を出る直前にトイレに行ったので、今遊びながら待っている。

 昨日たくさんご飯食べてたし、出すのに時間かかってるのかな。

 苦笑しながらジョニーを撫でていると、道路のほうから誰かが歩いてくる足音が聞こえた。

「おや! 松川さん!」
「おお! 高山さん!」

 振り向いた先にいたのは、祖父と同世代くらいのおじいさん。

「久しぶりですね〜。シロくんのお散歩ですか?」
「ええ。今日は曇ってるので、久しぶりに出かけようと思いまして」

 その彼の足元に、柴犬に似た白いワンちゃんが1匹。会話からすると男の子のようだ。

「あらら、見かけないお顔が。もしかしてお孫さん?」
「ええ。夏休みなので帰省してるんですよ」
「そうでしたか。はじめまして、高山といいます。こっちはシロです」
「は、はじめましてっ、一花といいます」

 祖父の後ろから顔を出し、たどたどしく自己紹介した。頭を下げたついでにシロくんのお顔を拝見する。

 垂れ耳のジョニーとは違い、三角形の立ち耳。尻尾はお尻に向かってくるんと巻き上がっている。

 すごく可愛いけど、ネーミングセンスが……。そのまますぎて思わず笑いそうになっちゃったよ。

 久々の再会に話に花を咲かせる2人。一緒に散歩はどうかと誘われたのだが、まだ智が来てなかったので残念ながら断った。

「可愛かったね。ジョニーとも仲良しだったし。犬友達?」
「はははっ。仲良しではあるが、6個上だからねぇ。先輩と言ったほうがいいかな」

 彼らを見送り、駐車場に戻る。

 6個上なら13歳か。人間に例えると小1と中1。友達より先輩のほうがしっくりくる。

「犬の先輩かぁ。一緒に遊んだりしたの?」
「そうだねぇ、ジョニーが若い頃は毎月遊んでたよ」

 懐かしそうに目を細めた祖父。

 犬の寿命は人間より短い。年を取るにつれて遊ぶ頻度が減るなら、顔を合わせる機会も減るか。

「あ、そうそう、昨日話したお兄さん、この辺に住んでるんだって」
「おや、そうなのかい?」
「うん。海に行った時に偶然会ったの」

 犬のことを考えたからか、凪くんの顔が思い浮かんだ。ただ、田舎は話がすぐ広まると聞いたので、名前は伏せておいた。休暇の邪魔はしたくないからね。

「それで、その人のお家も犬を飼ってて、日本スピッツって子がいるんだって」
「スピッツ⁉」

 犬種を口にした途端、目が真ん丸に。

「知ってるの?」
「もちろん! おじいちゃんが子供の頃にすごく人気だったんだよ。雪みたいに真っ白でふわふわしてて、目はクリクリで可愛かったなぁ」

 再び目を細めて懐かしんでいる。世代ドンピシャだったみたい。

「家族みんな動物大好きだったから、何度もおねだりしてねぇ」
「へぇ、それで飼えたの?」
「あぁ。弟が生まれた後にお迎えしたよ。無駄吠えが多いと聞いてたから、静かな子になりますようにと名付けて……」

 静かな子……そして雪みたいに真っ白……。

「もしかして、シズユキのこと?」
「そうだよ。ありゃ、話してなかったかね」

 あの子、スピッツだったんだ。言われてみれば、全身ふさふさしてたし、白っぽかったし、特徴は似てた。

 でも、性格は……。

「まぁ、名前とは正反対に育ってしまったけどな」

 はっはっはと豪快に笑い始めた。凪くんみたいにとはいかなかったようだ。

「近所に住んでるのは初めて知ったなぁ。どの辺りかは分かるかい?」
「いやぁ……そこまでは」

 生き生きした表情に輝く瞳。会いに行く気満々だ。

 いくらご近所付き合いが上手くても、それはちょっと図々しくない? 田舎の人の距離感ってこんな感じなの? 話が広まりやすいのも、こういうところから来てたりするのかな……。

「毎日散歩してるなら、どこかですれ違ってるかもよ? 見たことないの?」
「いやぁ、ないねぇ。最近だと珍しいから、1度見たら絶対覚えてるはずなんだが……」

 話題を逸らすように尋ねるも、返ってきたのは凪くんの時と同様の答え。

 毎日2時間も散歩してるのに、1回もないなんて。お散歩コースか時間帯が違うのかな? それかもう老犬であまり外に出てないとか?

「もしかしたら、他の犬種と思い込んで気づかなかったのかもしれないなぁ。今時のスピッツは昔と比べてだいぶおとなしくなってるらしいし」
「そんなにうるさかったの?」
「あぁ。近所に犬が多かったから文句は言われなかったんだが、何かある度に吠えてたよ」