砂浜に描いたうたかたの夢

 下がった眉尻と悲しみの色で埋め尽くされた瞳。それは、昨日よりも酷く、濃く。

 顔と耳のように赤く潤んだ目は、今にも涙がこぼれ落ちてしまいそうだった。

「でも……怖いよ……っ」
「だよな。怖いよな。でもね一花」

 細長い指先でそっと涙を拭うと、コツンとおでこをくっつけてきて。

「いなくなったら、喧嘩することも、笑い合うことも、一緒にご飯を食べることも、こうやって触れ合うこともできなくなるんだよ」

 目を瞑ったまま。1つ1つ言い聞かせるように。

 私に向けられた言葉だけど、なぜか凪くん自身に言い聞かせているようにも感じた。

「お願い一花、仲直りして。怖いのは分かる。けど、ここで逃げたら絶対後悔するから」

 額を離し、真っ直ぐな目で諭してきた。

 ズルいね凪くんは。また年上の権力を振りかざしてきたね。

 呼び捨てで命令されたら……もう「はい」以外選べなくなるじゃない。

「……また会える?」
「うん」
「本当に? 画面越しじゃないよ? 三次元でだよ?」
「会えるよ。約束する」

 差し出された小指に自身の小指を絡める。

 と──視界いっぱいに、目が閉じられた端正な顔が現れて、唇に柔らかな感触が広がった。

 それは、意識を手放す直前に感じたのと同じ、とても優しい温もりだった。

「……馬鹿で意地悪でチャラくて、ズルい男でごめんね」
「本当だよ……っ」

 自分も人のことは言えないけど、私よりも遥かに、凪くんは大馬鹿者だった。

 こんなことしたら、ますます離れるのが辛くなるっていうのに……っ。

「ほらっ、早く行って。このままじゃ俺、ひいじいちゃんとばあちゃんに雷落とされる」

 体が半回転すると、ポンと背中を押された。

「凪く……っ」

 涙にまみれた顔で振り向きながら山道を下る。

 名残惜しそうに手を振る彼の姿。

 自分も手を振り返すと、よそ見したせいか、足を滑らせた。膝がガクンと曲がり、バランスが崩れてよろめく。

 回る視界の中で最後に見たのは、大好きな人の頬に伝い落ちた一筋の涙だった。





 ──ミーンミンミンミンミンミーン……。

「ん……?」

 夏を感じさせる鳴き声で目が覚めた。

 視線の先には、鉢植えの花と盆栽……ではなく、真っ白な天井。

 あれ? 私、さっきまで凪くんの家にいて、一緒に山道を歩いたはず……。

 まさか、夢を見てたの?

「一花……?」

 ぼんやりした頭を急いで起動させていると、左隣から名前を呼ばれた。目だけを動かして声の正体を探る。

「おとう、さん……?」

 真っ赤に充血した目。顔中涙と鼻水だらけでいっぱいになった父が、点滴に繋がれた私の手を握りしめていた。

「あぁ良かった……っ、本当に良かったっ、一花ぁぁぁ……」

 返事をしたら、手を強く握られて、しゃくり上げるように泣き始めた。目を凝らすと、額がほんのり赤くなっている。

「ごめんなっ、一花の気持ち、全然考えないで……っ、毎日頑張ってるのに、労いもせず、酷いことを……っ」
「ううん、私こそ。逆ギレして、生意気な口利いてっ、ボール投げて……っ、ごめんなさい……っ」

 ボロボロと涙を流す父につられたのか、言葉を紡ぐにつれて、自分も涙が込み上げてきた。親子揃って病室でしゃくり泣く。

「一花……?」

 すると今度は、右側から名前を呼ばれた。顔を動かすと、ついさっきまでベッドに突っ伏していたであろう智が目をこすっていた。

「一花……! お前っ、やっと起きたのか!」
「うるさいっ……それより、なんでチキンステーキのこと知ってるの……っ」

 号泣する父に比べて目は赤くないし、涙は一滴も流れていない。けど、頬にうっすら涙の跡が見えて。

 もしかして泣き疲れて寝てたのかなって思ったら、また涙が溢れ出してきた。

「ごめん、廊下で盗み聞きした」
「サイテー……っ」

 毒を吐く私を笑って受け止めた智。「母さんに連絡してくる」と言い残すと、ナースコールを押して病室を出ていった。

 だだっ広くて殺風景な病室に、私と父の2人だけが残された。

「ねぇ、一体何があったの……?」

 ズズーッとティッシュで鼻をすする父に尋ねた。

 もしあれが夢だとしたら、私はどうやってここまで運ばれたのか。

 真相を探るべく、まずは海で溺れた後の話を聞く。

「なんだ、覚えてないのか? お前、浜辺で倒れてたんだぞ」
「そうなんだ……。じゃあ、誰がここに運んだの? お父さん? 智?」
「いや、救急隊員の人。だけど……一花が倒れてるのを最初に見つけたのは、ジョニーなんだよ」

 全く予想していなかった人物が登場して、目を点にする。

 ジョニーが……? じゃあ、助けてくれた凪くんは一体どこに行ったの?

「一花が出ていった後、智くんが来て、一緒に遊んでたんだ。そしたら、突然道路を見つめ始めてな」
「道路って、家の前の?」
「あぁ。何かいるのかと思って見てみたら、いきなり飛び出していって。それで2人で追ってたら……」
 田舎でも家の敷地外。いつ危険と出くわしてもおかしくない。

 無我夢中で追っていたらいつの間にか海岸にたどり着いていて。倒れている私を発見し、智のスマホで連絡したのだという。

 なぜジョニーが突然走り出したのか。海に向かったのか。

 謎だらけだけど……現時点で分かったのは、凪くんは私を岸まで運んだ後、姿を消したのだということ。

「他に人はいなかったの?」
「いなかったよ。ライフセーバーの人は来てなかったから、お父さんと智くんとジョニーだけだった」
「本当に? 若くて綺麗な男の人、見てない?」

 でも、そんなはずはない。瀕死状態の私を置いて帰るだなんて、凪くんに限って絶対あり得ない。

 だって凪くんは水泳部。水難事故については部活動でも教習してるだろうし、人一倍詳しいに決まってる。

 ファンの心を弄ぶちょっぴり悪い男だけれど、死にかけの人間を放ったらかしにするような人間ではない。

 もし根っからの極悪人なら、最初から助けず見捨てていたはずだ。

「若くて綺麗? 具体的にどんな?」
「細身で、全体的にクールな顔立ちで、でも笑った時の顔は柔和で、ふとした時の目が憂いを帯びている時があって……」
「にゅう、わ? うれい……?」

 眉根を寄せて首を傾げている。

「王子様みたいな大人っぽい人だったんだけど……」

 特徴を並べてもピンときていない様子だったので、シンプルにまとめた。

「いや……そんな少女漫画のヒーローみたいな人はいなかったぞ。そもそも、海にいたのはお父さん達と隊員の人だけで、野次馬もいなかったから」

 きっぱりと、最初からいなかったと言い切られた。その直後、恐ろしい考えが頭をよぎる。

 まさか、私を助けた後、力尽きた……? いや、砂浜に倒れていたのなら、確実に陸に上がっている。

 でも、力尽きて倒れた場所が浅瀬だったら……波に呑まれて流されたって可能性も……。

 認めたくないけど、仮にそうだとするならば……私が見ていた幸せな夢は、本当は夢じゃなくて、凪くんの──。

「失礼しまーす」

 ドアのノック音と看護師さんの声で我に返った。

 点滴を外してもらっている最中、私以外にも運ばれた人がいないかを尋ねたのだけれど、返ってきたのは、やはり父と同じ答え。

 智にも同じ質問をしたのだが、『そんな絶世イケメン、いたら記憶に残ってるに決まってるだろ』と一蹴されてしまった。

 別室に移動すると検査が行われた。

 数時間に及んだので心配していたが、早期発見だったためか、奇跡的に問題なしと診断をもらい、その日のうちに退院することができた。

 伯母に車で迎えに来てもらい、帰路に就く。

「ただいまー」

 引き戸を開けた父に続いて中に入ると、ドタバタと走ってくる足音が迎えにやってきた。

「一花ちゃん……!」

 泣き腫らした目をした祖父と祖母、そしてジョニーまでもが玄関に集まった。

「ごめんなさいっ、約束、してたのにっ」
「いいのよっ。ステーキよりも、一花ちゃんのほうが大事なんだから……っ」

 頭を撫でられ、背中を擦られ、体温に包まれて。収まった涙が息を吹き返す。

 鼻水が出てきたのでティッシュをもらおうとすると、ジョニーが立ち上がって抱きついてきた。

「ジョニー……っ、大事なボール、投げてごめんね……っ」

 途切れ途切れで謝罪する私の顔を、ペロペロと舐め始めた。

 大丈夫だよ、だからもう泣かないで。そう言うように涙を拭っているように思えて。

 全身で愛情表現をする健気な彼を抱きしめ、小さな頭を何度も撫でた。

 一昨日と同じく、祖母に手を引かれて居間へ。

 中に入ると、客間の襖が開いており、曾祖母が仏壇に向かって座っていた。

「ただいま。ひいおばあちゃん、帰ったよ」

 驚かせないよう、少し離れたところから声をかけた。

「……一花ちゃん、かい?」
「うんっ。一花だよ。ただいま」

 2日前に1年分流したばかりなのに。顔を合わせた途端、再び視界が涙で滲んでいく。

 現実世界と幻想世界の分を合わせたら、今日だけで1年半、いや2年分は泣いたかもしれない。

「何してたの……?」
「タダシさんにお願いしてたんだよ。一花ちゃんを助けてくださいって」

 しわがれた声で返事をした曾祖母にそっと抱きつく。

「ごめんなさい……っ、ありがとう」

 涙声で謝罪と感謝を伝えると、背中を優しく擦られた。

 せっかく休んでたのに、また心配かけて、最後まで人騒がせな子孫で本当にごめんなさい。

 ひいおばあちゃん、ずっと信じて待っていてくれてありがとう。

 ひいおじいちゃんも、ひいおばあちゃんの願いを叶えてくれてありがとう。

 後ろですすり泣く複数の声を耳にしながら、涙が収まるまで愛の温もりに浸ったのだった。





 壁掛け時計が鳴った午後3時。涙を流しきったところで軽く食事を取り、家族全員で居間のテーブルを囲む。

「……つまり、その若くて綺麗な王子様みたいな人が、SNSで繋がった友達で、溺れた一花を砂浜に運んでくれたんだな?」
「うん」
 簡潔にまとめた父に頷く。

 秘密にしていたけれど、家族を巻き込む大騒動となってしまったので、先週の出会いから今日までの出来事を、隠すことなく全て話した。

「にしてもすげーな! 推しと海で出会うって! 運命みてー! その人何て名前なの?」
「あー……フウトさん、っていうの」

 興奮状態になっている智に名前を明かした。

 本名を言おうか迷ったが、あくまでも智が尋ねているのはSNS上での名前。ひとまずここはペンネームで返しておいた。

「フウトかぁ。知らねーなぁ」
「そりゃ絵に興味ないからね。絵描きの世界では有名で、フォロワー5万人もいるんだよ」
「マジ⁉ ヤバッ! 俺100人しかいねーよぉ」

 若者言葉を連呼する智。

 あんたもSNSやってたのかよ。ってか私よりもフォロワー多いのかよ。後でフォローしようかなと思ったけど、調子に乗りそうだからやめようかな。

「フォロワー5万人の絵師の正体は、王子様系イケメン。芸能人だったら即バズるだろうな。どんな顔なの? 写真ある?」
「ないよ。顔出ししてないから写真NGなの。でも……絵なら描いてる」
「マジ⁉ 見たい!」

 瞳を輝かせて「早く早く!」と急かす智を落ち着かせ、日記帳を取りに別室へ向かった。

 色は塗っているものの、画質が高い写真と比べてそこまでハッキリしていないので、全体的な雰囲気を確認する程度なら大丈夫だろう。

 日記部分を下敷きで隠し、凪くんを描いたページを広げてテーブルの上に置いた。

「おお〜っ、確かにイケメンだな! 年は、20代くらい?」
「ううん。2つ上の高校生だよ」
「へぇ、大人っぽいな! 学校でめちゃめちゃモテてそう。あとこの白い犬可愛い〜」

 瞳孔を開いてはしゃぐ姿はまるで小学生。ジョニーの隣に描いたシロくんを指差し、「これ写真撮っていい?」とまで言い出した。

 呆れつつも了承し、周りに目を向ける。

 やけに静かだなと思ったら……曾祖母を除いた全員、目が真ん丸。長寿祝いの料理を見せた時以上に、絶句して微動だにしない。

 まさか、また何かやらかした? でも、人物と動物だし。特にタブー要素はないと思うんだけど……。

「……ユキエ?」

 異様な空気に困惑していると、曾祖母が沈黙を破った。

 ユキエ? 誰? 女の人?

 老眼のひいおばあちゃんまでも見間違えるとは。これなら過敏に反応するのも分か──。

「母さ……っ! 違うよ! この子は凪くんだよ!」
「ええっ⁉」

 祖父が慌てて訂正した後、出てきた名前に即座に反応した。

「おじいちゃん、凪くんのこと知ってるの⁉」
「まぁ……うん」

 膝立ちして顔を近づけるも、バツが悪そうに目を逸らされた。

 祖母も伯母も、そして父も、なぜか私と目を合わせようとしない。

 嘘っ、私また何か失言を……。

「……一花」
「は、はいっ」

 斜め前から低い声が飛んできて、背筋を正して座り直す。

「……本当に、この子と1週間、会ってたんだな?」
「はい。毎日会ってました」

 父の目を真っ直ぐ見据える。

 号泣して数時間が経過。赤みはだいぶ引いているけれど、まぶたの腫れはまだ治まっておらず。

 これ以上不安を煽りたくなかったが、ここで嘘を吐くと全貌を明らかにすることができない。

 帰省中の曾祖父も見守っている手前、偽りなく答えた。

「お父さんも知ってるの?」
「あぁ。この子は浅浜(あさはま) 凪くん。一花と智くん以外は、みんな1度会ってるんだ」

 少し目を伏せてフルネームを口にした父。

 へぇ、浅浜さんって言うんだ。初めて知った。だから智以外みんな反応してたんだ。やらかしたわけじゃなくて良かった……。

「ちなみに、どこで会ったの?」
「……葬儀場」
「えっ……もしかして先月会ってたの?」
「あぁ。実は彼とは遠い親戚なんだ。だけど──先月、ここの海で亡くなったんだよ」
「なーぎーっ!」

 授業終了のチャイムが鳴り始めると、教室の後ろからバタバタと駆け寄ってくる足音が聞こえた。

「飯食いに行こ!」
「いいけど、弁当忘れたの?」
「髪のセットに時間かかってさ、バタバタしてたら持ってくの忘れた」

 自身の茶色い毛髪を指差し、あははと白い歯を見せて笑った男子。

 彼は佐倉(さくら) 理桜。小学生時代からの仲で、今年で12年目の付き合いになる友人。

 つい先日梅雨入りしたばかりで、大半の人なら気分が滅入ってしまいそうだが、出会った頃から変わらず、元気でお調子者な性格なんだ。

 洗い場で手を洗った後、弁当箱と水筒を入れたバッグを持って食堂へ足を運ぶ。

「おーい! 理桜ーっ、凪ーっ」
「あっ、桃士(とうじ)!」

 空席を探していると、奥の席に男子2人が座っているのを見つけた。彼らの元に向かう理桜の後を追う。

「お前も来てたのか〜! って、鋼太郎(こうたろう)もいたのかよ! 珍し! そっちも弁当忘れたの?」
「あはは、違うよ〜。今日お母さんの具合が良くなかったから作れなかっただけなんだよ」
「マジ? 大丈夫なの?」
「……心配ないから、まず座れ。通行人の邪魔だ」

 モゴモゴする口元を手で隠して注意をした少々気難しそうな顔の男は、生徒会長の木橋(きはし) 鋼太郎。

 そんな彼の前に座るのは、ふにゃふにゃした笑顔と穏やかな口調が特徴的な長峰(ながみね) 桃士。

 彼らとは高1の頃からずっと同じクラスで、席もお隣さんである。

「ごめーん! んじゃ、お邪魔しますねっ」
「おい、なんでこっちに来るんだよ」
「えっ、お前が座れって言うから……」
「言ったけど隣とは言ってないだろ。長峰のところに座れ」
「ごめん鋼太郎。俺もうこっちに座った」

 桃士の隣に座って謝ると、理桜の口角がにんまりと上がった。

「ってことで、今日は俺が隣な♡ 会長♡」
「馬鹿っ、近づくな! 公共の場だぞ!」

 弁当箱を開けつつ、いちゃつく2人を桃士と一緒に微笑ましい目で眺める。

 見ての通り、全員個性が強く異なった性格。だけど、顔を合わせると毎回何らかの話をしている。まぁ、イツメンってやつだ。

 食事を終えて教室に戻り、スマホを確認すると、水泳部のグループチャットから通知が届いていた。

 送信者は顧問の淡井先生。どうやら奥さんが体調を崩してしまい、心配なので今日は直帰するとのこと。

 マジか。でも、病人を長い間1人にはできないよな。先生の家、奥さんと2人暮らしだから子どもいないし。

「それなら……」





「あれ⁉ 浅浜先輩じゃないですか!」
「今日は水泳部じゃなかったんですか?」
「急に休みになって。ちょっと覗きに来た」

 放課後。部活が休みになって時間が空いたため、代わりに美術室に足を運んだ。

 俺が来るとは思っていなかったのか、出迎えてくれた女の子の目が丸くなっている。

 他の部員達も、一見集中しているが、顔は少し強張っており、戸惑いの色を隠せていない。

 毎週火曜日にしか来ない人間が休日明けに来たら、そりゃ誰だってビックリするよな。

「何か手伝えることある? 今日道具持ってきてないからさ」
「いいんですか⁉ それなら、絵のモデルになっていただけませんか? ちょうど今からデッサンしようと思ってたところなので!」
「了解。どんなポーズ取ればいい? 海老反りとか?」
「いえいえ! 座ってるだけで大丈夫ですよ!」

 承諾すると、みんな話を聞いていたのか、席を立って一斉に机と椅子を動かし始めた。表情は硬かったけど、嫌がられてなかったみたい。

 ホッと胸を撫で下ろし、教室に入る。

「先輩! 準備できました!」

 荷物を下ろしている間に移動が完了した様子。肩と首を回して体をほぐし、部室の中心へ。四方八方から視線を浴びながら椅子に座り続けた。

 2時間後、最終下校時間の6時に。
 小雨が降る中、自転車で帰路に就いた。

「ただいま」
「おお、凪くん。おかえり」

 濡れたスクールバッグをタオルで拭いていると、祖父がやってきた。

「もうご飯できてるみたいだよ」
「ん。分かった」
「それと、学校からお届け物が来てたよ。リビングに置いてるからあとで持っていってね」
「はーい」

 返事をして洗面所に向かい、手を洗ってタオルをかごの中に入れた。

 お届け物か。多分こないだ注文したやつかな。

 先に回収するため、荷物を持ったままリビングに入った。

「ただいま」
「おかえり。パンフレット、届いてるわよ」
「ん」

 フライパンを洗う母に短く返し、視線をたどる。

 ダイニングテーブルの上に用意された和食セット。その隣に、A4サイズの封筒が低い山を作っている。

 ……今日は2校か。

「それで、あといくつ届くの?」

 シンクから流れ出る水が止まり、同時にスクールバッグに封筒をしまう手も止まる。

「いくつって、何が」
「パンフレットに決まってるでしょう。今月に入ってから毎日のように届いて……あなたいくつ注文してるの」

 耳に飛んでくる声に顔をしかめつつ封筒をしまう。

「家族が家にいるからって、いつでも受け取れるわけじゃないんだから。お母さんもおじいちゃんも忙しいのよ?」
「うるせーな」

 最後の1つを乱暴に突っ込み、ドアに八つ当たりするようにして部屋を出た。

 マジあり得ない。帰ってきて即説教って。こっちは部活終わりで疲れてるというのに。俺だって受験生なんだから忙しいんだよ。
「おっ、凪」

 わざとらしく足音を立てて階段を上っていると、踊り場に4歳年上の姉が現れた。

 よれよれのTシャツに着古して柄が薄れたハーフパンツ。完全オフモードの部屋着ということは、今日はバイトは休みのようだ。

「おかえり〜。イライラしてるねぇ。またお母さんと喧嘩したの?」
「……どけよ」

 短く吐き捨てて去ろうとするも、両手で壁を押さえて通せんぼ。

 睨むように見上げると、食堂で見た理桜と同じくらい口角が上がっている。

「なに、またパンフレット絡み?」
「……どけって」
「分かる〜。私も特典の図書カード欲しかったもん。画材爆買いしまくる凪にとってはのどから手が出るくらい欲しいよね〜」
「どけっつってんだろ!」

 体当たりして強引にバリケードを壊し、自分の部屋に駆け込んだ。

 内定が出たからって調子に乗りやがって。万年金欠ではあるけれど、それ目当てで注文したわけじゃない。

 バッグに詰めた封筒を開封して机の上に並べ、引き出しを開けて数を確認する。

 大学は、スポーツもデザインも1校のみ。
 短大は、スポーツが3つで、デザインは1つ。
 専門は、スポーツとデザイン、共に2。

 今日の分を合わせても、まだ12校か……。

 引き出しを閉め、新しく届いたパンフレットを棚に入れていると、スマホの通知音が鳴った。

 ロック画面に表示されていたのは、SNSアプリのアイコン。

 その下には……【◯◯スクール】の文字と長文メッセージ。

「……チッ、またかよ」

 舌打ちをしてスマホをベッドに放り投げた。

 今月に入って3校目。高校生だとは名乗っているけれど、詳しい年齢は明かしていない。一体どこから俺が受験生だって知ったんだ。

 あそこ、こないだ見学しに行ったけど、教師の目がギラついてたんだよな。このDMみたいに勧誘臭が強かった。設備は申し分なかったのに残念だ。

 関わりたくないけど、無視するとまた来そうだから断ろう。

 スマホを拾うと、再び通知音が鳴った。

 またDMか? と思ったら、フォロワーの投稿通知だった。アカウントに移動し、最新投稿をチェックする。

「わぁ、美味そう……」

 画面に映る、野菜スープと唐揚げ。夕食前なのもあってか、感想がポロッと口からこぼれた。

 角度も色合いも配置もバッチリ。これはいいねボタンに自然と指が伸びる。

 高評価ボタンを押し、アカウントを離れて待ち受け画面に戻った。

 梅の花とのツーショットがアイコンの二花さんは、2年前に知り合った2歳年下の高校生。

 今日は料理の写真だったけど、俺と同じく絵の写真も載せており、年齢も近いことから、去年の冬からDMでやり取りしている仲良しのフォロワーさんだ。

 そういえば、去年、オススメ料理のレシピを教えてもらったな。醤油漬けにした鶏もも肉を使った親子丼、だったっけ。あれ、めちゃめちゃ美味かったんだよなぁ。

 作ってSNSに載せたら、コメントとDMで返事もらって。べた褒めされたのが嬉しくて、2週間くらい上機嫌だった気がする。

「よし、久々に作るか」

 善は急げ。保存しておいたレシピの写真を捜し、材料を確認。食事を済ませた後、明日の夕食に作れないかと相談した。

 口答えをしたばかりだったからダメ元だったけど……なんと奇跡的にオッケー。

 翌日、部活を少し早く切り上げて帰宅し、母と祖父と3人で作った。

 姉には『カロリー高そう』と文句を言われたものの、父と兄には大好評で、見事完食。もちろん自分も完食し、おかわりもした。

 これで今月末までは乗り切れそうだ。

 そう安心していたが──自分でも気づかないうちに、相当疲れが溜まっていたようで。2週間はおろか、1週間も保たなかった。


 火曜日の放課後。

 部室奥の窓際にイーゼルを立て、見本の写真を参考にキャンバスに鉛筆を走らせる。

 しかし、描いては消しての繰り返し。なかなか満足のいく線が描けない。

 なんとか花びらを描き上げたのだが……変に力が入ってしまい、全く関係ない場所に線がついた。

「……あぁっ! もう!」

 殴り書きするように鉛筆で絵を塗りつぶす。

 ……しまった。

 我に返った時にはもう遅く。恐る恐る周りを見渡すと、部員のほとんどがこっちに目を向けていた。

「浅浜くん、大丈夫?」
「……はい。すみません」

 顧問の三木先生が心配そうな顔を浮かべてやってきた。

 はぁー……最悪。ここ、学校なのに。

 周りに誰もいないならまだしも、部室で、しかも後輩と先生がいる前でブチギレるって。先輩失格だろ……。

 謝罪して作業を再開したものの、場の空気を乱してしまったという罪悪感がどうしても拭えず。「体調が優れない」と嘘をつき、1時間が経過したところで早退させてもらった。

 だがしかし……回復どころか、日を追うごとに悪化していった。
 家族の笑い声が耳障りに感じたり、授業中、当てられた問題を解くのが面倒に思えて、途中で放棄したり。些細なことでイライラするようになった。

 何度も爆発したくなったけれど、みんなの前で感情任せに吐き散らかすわけにはいかない。

 毎日毎日、家に着くまで必死に抑え込んだ。

 そんなひたすら我慢の日々が続くこと数日──。

「じゃあ、よろしくね」
「はいっ。お任せください!」

 金曜日の午後4時半。校内の室内プールにて。
 テスト前最後の部活は、水泳部の活動で締めくくることに。

 後輩の男の子に計測を頼み、ジャンプ台に登る。

「では行きますよ。よーい……」

 背後でピッと短く笛が鳴り、プールに飛び込んだ。全身をしならせ、力強く進んでいく。

 一昨日も計測したのだが、やはり調子は良くなく、自己記録に一歩届かずに終わった。まぁ、朝から雨で気分が滅入ってたのもあるかもだけど。

 対して今日は曇り。それに晴れ間もあったから、気分は多少いいとは思う。

 2回往復し、100メートルを泳ぎきった。

「どうだった?」
「……あの、先輩、最近どこか具合悪いんですか?」

 ゴーグルを外すと、怪訝そうな顔でストップウォッチを見ていた。

「いや? 雨で気分は下がり気味だけど、体調面は特に何も。そんなに悪かった?」
「……前回よりも、下がってます」

 見せてくれた画面には、一昨日よりも5秒以上遅れた数字が表示されていた。

 嘘……なんで? 計測ミスじゃないよな? 普段通り泳いだのに、自己ベストの10秒近くも下回ってるなんて……。

 突きつけられた現実。頭を鈍器で殴られたような感覚がした。





「何かあった?」
「えっ?」

 駐輪場を出て校門に向かう途中、理桜が顔色をうかがうように尋ねてきた。部活終わりに合流したため、一緒に帰ることになったのだ。

「最近、ふと見たらボーッとしてる時が多いからさ。珍しいなと思って」

 理桜は小学生の頃からサッカーを習っていて、今ではサッカー部のエース。よく後輩の相談にも乗っており、技術も抜群で頼れる先輩だと人気なのだそう。

「俺ら、ユニセックスネーム同盟だろ? 話してくれよ。無理ない範囲でいいからさ」

 ニカッと歯を見せて笑った理桜。その歯は空に浮かぶ雲よりも白い。

 意外と周りを見ている理桜なら、俺が空元気だとすぐ見抜くのも当然だな。

「実はさ……」

 自転車を押しながら、ここ数週間の出来事を話した。

「……なるほど。今の話聞いて、なんとなく予想ついた」
「マジ? 原因は何なの?」
「多分スランプだな。それも、進路の悩みで拍車がかかった厄介なやつ」

 横断歩道に差し掛かり、立ち止まったところで原因を探る。

「まず、スランプの原因だけど、十中八九、性格だな」

 ズバッと言い切られた言葉が胸に刺さった。
 長年の仲だからって、遠慮なさすぎだろ……。

「お前は無駄に真面目なんだよ。あと頑張りすぎ」
「そうかな。鋼太郎に比べたら全然だと思うけど」

 信号が青に変わり、歩き出すと、隣から呆れたような溜め息が漏れた。

「お前と鋼太郎の真面目は全くもって別物だ」
「違うの?」
「全然違う。あいつは人にも自分にも厳しいタイプ。でも凪は、自分に厳しく人に優しいタイプ。人として素晴らしいのかもしれないけど、そのうち精神蝕まれて心死ぬぞ」

 再び飛んできた直球が今度は頭に直撃。
 心が死ぬ⁉ 俺このままじゃ、うつ病まっしぐら⁉

「DMも。結局は迷惑メールと変わりねーんだから、いちいち律儀に返信するな。ってか、水関連の仕事に決めたんじゃねーの?」
「……最初はな」

 中学時代──水泳教室と美術部の活動を両立していて、将来どっちの道に進むか迷っていた。

 部活で毎年結果を残していたから、当時はかなり悩んだのだけれど……出した答えは、『水泳は水場じゃないとできないが、絵はどこでも描ける』。

 結果、絵は趣味で続けることにし、高校は運動部が盛んな学校を選んだ。

 ただ、毎日練習があるわけではなかったため、休日の火曜日は美術部で絵を描き、リフレッシュしていた。

 他の文化部と比べて自由度が高かったので、かけ持ちしていても楽しく活動ができていたのだけど……。

「あんなに何度も来られたら……揺らいだんだよ」

 高校に入り、友達作りの一環で始めたSNS。
 初めて投稿したのは4月。入学式の日に撮ったローファーの写真だった。

 それからは、部活で描いた絵や、休日に撮った写真を載せ始めて……気づいたら、フォロワーが5桁に到達していた。

 あまり数は意識していなかったのだけど、ある日、デザイン系の学校からメールが届いて。ここで初めて、自分はそこそこ名が知られていたんだなと実感した。時期は高2の冬だったと思う。

 最初は気軽に返信していたのだが……。

【来月説明会があるので、良かったら参加しませんか?】
【現在イラストレーターを募集しているのですが、興味ありませんか?】

 高3に上がった途端、勧誘臭漂う内容が増えてきて。

 ただでさえ学校の種類で迷っていたのに、執拗なスカウトのせいで、中学時代に消したはずの夢が復活してしまった。

 とはいえ、今は副業も可能な時代。
 全国の海を潜り、見た光景を絵にする……なんてことも、大人になったら可能なのだろう。
 けど……現時点で、進学先は1つしか選べない。 
 入る順番や学校を間違えたら、それこそ夢から遠のきそうだし……。

 歩くこと数分。再び横断歩道にやってきた。

「よし、分かった。とりあえず、お前は一旦進路のこと考えるのやめろ」
「えっ、なんで」
「焦る気持ちは分かる。けど……精神不安定な状態で、まともな判断ができるか?」

 そう述べると、理桜は歩行者用のボタンを押した。3回目のストレートな発言を受けて、ハッと気づく。

 普段元気な理桜でさえ、高校受験の時は志望校を変えようかギリギリまで迷っていた。

 誰だって人生の岐路に立ったら、多少悩むに決まってるはずだ。

「考えても答えが出ない時は、一旦離れる。失せ物も、捜すのをやめたら出てきたって話、よく聞くだろ? ってことで、テスト終わったら海水浴に行こうぜ!」
「…………は?」

 信号が変わり、小走りで後を追う。

「話は分かったけど……なんで海水浴?」
「気分転換だよ。壮大な景色を見たら、悩みがちっぽけに思えるかもしれねーだろ? もうすぐ海開きだし、だだっ広い海を見て癒やされようぜ!」

 白い歯を見せて眩しく笑った理桜。

 それ、単にお前が海に行きたいだけなんじゃ……。まぁでも、気分転換にはピッタリだし。それに高校最後の夏だし。思い出作りも兼ねて行くのもありか。

 帰宅して早速、部屋のカレンダーに予定を書き込んだ。





 7月上旬。土曜日の朝。今日は待ちに待った海水浴の日。

 メンバーは、理桜と俺と、鋼太郎と桃士。
 急だったけど、事情を話したら『友のためなら!』と快く承諾してくれたんだ。

「凪くん、これ」

 玄関で靴を履いていると、祖父が紙袋を渡してきた。

「ひいおばあちゃん達によろしくね。いってらっしゃい」
「うん。いってきます」

 お土産が入った紙袋を受け取って外に出た。自転車のかごに荷物を入れ、鍵を挿して動かす。

 先月、海水浴に行きたいと相談した際、その海岸の近くに曾祖母の家があることが判明して。

 祖父が連絡をすると、『近くに来るならぜひ会いたい』と言われたため、帰省も兼ねてお邪魔することになったのだ。

「凪っ、待って!」

 サドルに跨がり、ペダルを踏もうとした瞬間、玄関のドアが開いて母が出てきた。

「これ、お弁当」
「いいよ、コンビニでパン買って食べるから」
「パン⁉ ダメよ! 成長期なんだから、ちゃんとバランス良く食べなさい」

 差し出されたオレンジ色の巾着袋を押し返すも、そこは親子。少々乱暴にかごに突っ込んできた。

「……分かったよ」
「ひいおばあちゃん達に失礼のないようにね」
「ん」
「こまめに水分補給するのよ? 今日も30度超えるみたいだから」
「……ん」
「あと、日が長いからって、あまり長居しちゃダメだからね。遅くならないうちに帰ること。明日体験入学なんだから……」
「あぁもううるせーな! いちいち言われなくたって分かってるよ!」

 長々と口出ししてくる母を一蹴して家を飛び出した。

 あのクソババア、マジであり得ない。

 長時間の遠出だから心配なのかもしれないけどさ……これから出発って時に、わざわざ明日の予定言うか⁉ あれ、完全に水を差す言動だったよな⁉ もう小学生じゃないんだし、「気をつけてね」で充分だろ!

 怒りをペダルに乗せて漕ぐこと十数分、駅に到着した。全員揃ったところで切符を買い、電車に乗り込む。

「まさか凪のひいばあちゃんに会えるとはなー。何歳なの?」
「98。今年で99って言ってた」
「すご〜い。もうすぐ100歳だぁ」
「なるほど。数え年だと百寿か。だから少し高価なお土産なんだな」
「そうそう」

 座席を向かい合わせにして座り、声を抑えて話す。

 前回曾祖母の家に帰省したのは、曾祖父が生きていた頃。俺が小3の時に亡くなったから……9年くらい前になるのか。

 覚えててくれてるかなぁ。「どちら様ですか?」なんて言われなきゃいいけど。

 電車を乗り継ぎ、出発から約4時間。駅からバスに乗り、曾祖母の家がある町に到着した。

 最寄りのバス停で降車し、地図を頼りに住宅街を歩く。

「おーい! 凪くーん!」

 顔を上げると、前方に両手を大きく振るおじいさんの姿を視界に捉えた。

「久しぶり。長旅お疲れ様」
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」

 駆け寄り、帽子を取って挨拶をした。

 この人は祖母の弟のヒロマサさん。父の叔父で、俺からすると大叔父に当たる人だ。

 案内する彼に着いていくと、瓦屋根の平屋が見えてきた。

 懐かしい。結構大きな家だったっけ。部屋が多いから、従兄弟らしき人達と一緒にかくれんぼした記憶がある。

「ただいまー。連れてきたよー」
「はーい」

 曇りガラスの引き戸に向かい、ヒロマサさんの後に続いて中に入ると、奥からおばあさんがやってきた。

「いらっしゃい。遠いところから来てくれてありがとね」
「こんにちは。今日はよろしくお願いします。これ、お土産です」
「あらぁ! ありがとう!」

 紙袋を嬉しそうに受け取った。

 明るめのブラウンヘアにパステルオレンジのカーディガン。爽やかで若々しい印象のこの女性は、ヒロマサさんの妻のヒロコさん。大叔母に当たる人だ。
 挨拶を済ませて家に上がり、居間へ向かう。襖を開けると、1匹のゴールデンレトリバーが駆け寄ってきた。

「可愛い〜。尻尾ブンブン振ってる〜」
「歓迎してくれてるのかなぁ。鋼太郎、そんなに怖がるなって」
「こ、怖がってないっ。少し大きいからビックリしただけだっ」

 否定してるけど顔が強張ってるよ。あと声も、ビビってるの見え見えだよ。

 ヒロマサさんいわく、名前はジョニーくんというらしい。

「こんにちは、はじめまして。凪で……うわぁっ!」

 しゃがんで名乗ると、顔をペロッと舐められた。初対面なのにすごく積極的だな。

「もう、なに? 俺に一目惚れしちゃったの?」
「うわぁぁ、凪お前、チャラっっ!」
「人間の次は犬をたぶらかすとは……けしからん」
「さすが水泳部1のモテ男! ヒューヒュー!」

 頭を撫でる俺に野次を飛ばす友人達。

 チャラいって何だよ。たぶらかすって何だよ。あと、後輩に慕われてるだけで別にモテてるわけじゃないから。

「あらま、お客さんかい?」

 客間の襖を開けて荷物を運んでいると、腰の曲がったおばあさんが部屋に入ってきた。

「こんにちは! 凪の友人の佐倉 理桜です!」

 理桜が挨拶したのを筆頭に、鋼太郎と桃士も名乗り始める。

 額にうっすら残る傷痕。当時小学生だった自分の記憶にもうっすら残っている。

「こんにちは。お久しぶりです。凪です」
「……ユキエ?」

 曾祖母の元に向かい、数年ぶりに挨拶をした。
 しかし……返ってきたのは、亡き祖母の名前。

「お母さん、違うよ。この子は凪くん。娘じゃなくてひ孫だよ」
「ひ孫……?」
「そうだよ。ごめんね、ここ数年で目が見えにくくなってるんだ」
「いえいえ。似てるとよく言われるので全然」

 老眼ならば仕方ない。長年顔合わせてなかったし、それにひ孫も多いだろうし。

 そう言い聞かせるも、心の片隅では、ちょっぴり寂しいなと感じたのだった。





「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。またいつでも来てね」

 昼食を平らげて少し休憩した午後。

 玄関で手を振るヒロマサさん達に深くお辞儀をし、曾祖母の家を後にした。帽子を被って目的地の海岸まで足を運ぶ。

「楽しかったなー。卵焼きも絶品だったし、凪が生粋の女顔だってことも分かったし!」
「おい、蒸し返すな。コンプレックスなんだぞ」
「え〜っ、品があるって素敵だと思うけどなぁ。ねぇ鋼太郎」
「そうだな。雰囲気が柔らかいのは少し憧れる」

 頷きながら口を揃える2人。可愛い系の桃士ときつめの印象の鋼太郎からすると、俺の顔は羨ましいのだそう。

 けど、昔はこの顔が原因で女みたいだとからかわれたことがあるので、正直複雑な気持ち。

「やっぱお前らもそう思う? 次来る時女装してみたら? 喜んでお小遣いくれるかもよ?」
「馬鹿。そこまでして欲しくねーよ」

 隣を歩く理桜の脇腹を肘で突いた。

 そんな騙し取るようなことしたら、ばあちゃんが悲しむ。というか、その前にひいじいちゃんに怒られるだろ。ったく、調子のいいやつなんだから。

 炎天下の中、歩くこと十数分。海岸に到着した。

「凪! 撮って撮って!」

 階段を下りるやいなや、浅瀬に直行した理桜。桃士と鋼太郎も、波に当たっては笑みをこぼしている。

 小さな子どものようにはしゃぐ彼らを、スマホのカメラで撮影した。

 本当は俺もあんなふうに入りたいけど、またクラゲに刺されるのは怖いから。代わりにあいつらの姿を写真に収めよう。

 犬かきで泳ぐ理桜や、浅瀬でくつろぐ桃士、漂流物を観察する鋼太郎。

 場所を変えて数十枚ほど撮った後、階段に腰を下ろした。リュックサックからスケッチブックとペンケースを取り出す。

 写真撮影だけだと飽きると思い、時間潰し用に持ってきたのだ。

 ページをめくり、塗りかけの絵に赤とピンクの色鉛筆で色を付けていく。

 行きの電車の中でも塗っていた二花さんの絵。
 中学卒業祝いのプレゼントに描いてほしいと頼まれて、今月で4ヶ月が経つ。そろそろ完成させないと。

「なーにしてるの」

 突然頭上から声が聞こえてビクッと肩が揺れた。
 顔を上げると、タオルを首にかけた理桜がペットボトル片手に手元を覗いていた。

「また塗り絵?」
「頼まれ物なんだよ。そっちは休憩?」
「おぅ」

 隣に座った理桜と2人で海を眺める。
 すると、浅瀬ではしゃぐ桃士が鋼太郎に容赦なく水をかけた。

 ふはっ、ずぶ濡れ。これも写真に撮っておこうかな。

「あれ? ない。って、何してるんだよ!」
「んー? 忙しいお前の代わりに写真撮ってあげてる」
「馬鹿っ、返せ。また変な写真増えるだろ!」

 奪うようにスマホを取り返した。

 まったく……油断も隙もない。

 理桜は俺のスマホで写真を撮るのが好きらしく、気づいたら、カメラフォルダに見に覚えのない写真が大量に保存されていることがしばしばある。

 容量圧迫する前に消さないと……。

「あれ? 開かない。お前っ、またやりやがったな⁉」
「へへーん。今回はそう簡単に消されてたまるかよー」
「あっ! おい!」
 あっかんべーと舌を出し、海岸に逃走。
 理桜め……これじゃ写真撮れねーじゃねーか。

 溜め息をつき、全部塗り終えたところで腰を上げて海岸に下りる。

 桃士と鋼太郎には悪いけど、写真が撮れないならかなり時間持て余すだろうし。

「スケッチしてくる」と伝えて、単独行動することに。人気のない場所へ向かい、地べたに座ってスケッチブックに鉛筆を走らせる。

 水分補給もしつつ、描き写すこと1時間半。


 ブーッ、ブーッ。


 ポケットに入れたスマホが振動し始めた。

 あいつ、マナーモードにまでしやがったのか……。

 いたずら好きな友人に呆れながら、鋼太郎からの電話に出た。

「はい、もしもし」
【浅浜っ! 早く来てくれ! さくっ……佐倉が──】





「鋼太郎!」
「浅浜! こっち!」

 血相を変えて手を振る鋼太郎の元へ全速力で走る。

「理桜‼ 聞こえるか⁉ 理桜‼」

 海面で浮き沈みする理桜に大声で呼びかけた。

 鋼太郎の話によると、水分補給しようと岸に戻る途中、海面から顔を出しては引っ込めていたようで。

 最初はふざけているのかと思ったのだが、呼びかけても返事がなく、慌てて電話したのだと。

「桃士は⁉」
「他の人を呼びに行ってる。けっ、警察には電話したからっ」
「分かった。分かったから落ち着け」
「おーい!」

 顔を真っ青にする鋼太郎の背中を擦っていると、桃士が数人の大人を連れて戻ってきた。

 紐を繋ぎ合わせて長くするように、手首を掴み合って、波が押し寄せる海に入っていく。

「理桜、待ってろ。今行くからな」

 溺れている彼に声をかけつつ、人間ロープを伝い、先頭に立つ。

 あと少し、あと少し。

 鋼太郎の手首を掴んで手を伸ばしたが──大きな波が理桜に覆いかぶさった。

「浅浜! 大丈夫か⁉」
「うん……」

 水しぶきに怯み、眉をひそめながら閉じた目を開ける。

「あれ……?」

 目の前に広がる青々とした海。ついさっきまで顔を出していたはずの理桜の姿がどこにも見当たらない。

「理桜⁉ どこいった⁉ 理桜っ⁉」
「浅浜っ! 落ち着け!」

 取り乱した俺に鋼太郎が後ろから何度も声をかける。

 だけど、目の前で友人が忽然と姿を消して、平常心を保てるわけがない。

 まさか、あいつ……っ。

 絶望の淵に立たされた瞬間、遥か遠くの海面に人の顔が浮かんでいるのが見えた。

「理桜……っ!」
「馬鹿っ! 浅浜! 戻れ!」

 鋼太郎の腕を乱暴に振り払い、バシャバシャと水しぶきを立てて駆け出す。

 ふざけるな。言い出しっぺがなんで溺れてるんだよ。

 勝手に写真撮りやがって。パスワードも設定も変えやがって。

 チャラいとか、女顔だとか、散々俺のこと馬鹿にして貶しやがって。

『俺ら、ユニセックスネーム同盟だろ?』
『だだっ広い海を見て癒やされようぜ!』

 じわじわと涙で視界が滲んでいく。

 黙って先にいくなんて絶対に許さない。

 俺──まだお前に何も返せていないのに。

 後方から呼び止める声が何度も聞こえてくるが、無視してクロールで理桜の元へ向かう。

 理桜はサッカー部だけど、俺は水泳部。
 着衣泳の講習は水泳教室と部活で何度も受けてきたし、これまで大会で何度も賞を取ってきた。だから大丈夫。

 そう確信していたけれど……俺は、自分の力を過信していた。

「うぐっ」

 自然の力は予想以上に凄まじかった。

 地面を蹴って進もうとしても、足場がなくて。ここでようやく自分が沖にまで来ていたことに気づいた。

「理桜っ、もう大丈夫っ」

 押し寄せる波を避け続け、やっとの思いでたどり着いた。

 しかし、パニックに陥っている人間を運ぶのはそう簡単にいかず。理桜は俺に全体重を乗せるように必死でしがみついてきた。

 振り向くと、岸には豆サイズの友人達と大人達。
 正確な距離は分からないが、確実に50メートルは流されている。

 このまま救助を待つか? だけど、いくらサッカー部のエースでも、あれだけもがけば体力を消耗しきっているはず。

 どう動けばいいのかと考えていると、背後から波が襲いかかってきた。一瞬にして上半身が呑まれ、海水が口の中に流れ込む。

 ──怖い。

 クラゲに刺された時とは比にならないほどの恐怖が全身を駆け巡る。

 ダメだ。ここにいたら助けが来る前に沈んでしまう。早く逃げないと。

 水を掻いて進もうとしたその時、力尽きたのか、理桜がずるりと背中から落ちた。

 理桜……っ!

 心の中で叫んで手を伸ばしたが、再び波が襲いかかり、避ける暇もなく、大きな衝撃が俺達を包み込んだ。





 誰かのすすり泣く声で目を覚ました。

 病室のような場所。だけど、薄暗く、天井も壁一面も真っ白。

「どうして……っ」

 顔を左に向けると、声を詰まらせながら母が泣いていた。……オレンジ色の巾着袋を握りしめて。

 母の隣には、リュックサックを抱きしめる姉と、帽子を抱きしめる兄。右には、嗚咽を漏らす祖父の肩を優しく擦る父の姿が。

 違和感に気づき、慌てて起き上がって後ろを向くと──青白い顔をした自分がベッドの上で眠っていた。

 そんな……嘘だろ? 俺……。

 すると、コンコンコンとノック音が聞こえてドアが開いた。

「お義兄さん……」

 入ってきた人物を見た瞬間、充血した祖父の目から再び涙がこぼれ落ちた。

 ヒロマサさんと、ヒロコさんと……ひいばあちゃん。

「ごめん、俺が炎天下の中を歩かせたばかりに……っ」
「違う、叔父さんは悪くない。叔父さんのせいじゃないって……っ」

 自分を責め始めた大叔父を、父が首を横に振って宥める。

 その隣で、涙目の大叔母が曾祖母を連れて枕元にやってきた。

「タダシさんとユキエのところに行ったか……2人によろしくねぇ」

 しわしわの手で俺の頬を撫でる曾祖母。

 涙は流れていないけど、瞳はどことなく悲しい色に染まっていた。

 それもそうだ。ばあちゃん……実の娘が亡くなって、まだ3年も経っていないんだから。

 ごめんね。また来るねって、約束したのに。

 親不孝で、祖父母不孝で、曾祖母不孝で……馬鹿な子孫でごめんなさい。


 悲痛に満ちた家族と親戚の姿に心を痛めたが、現実は残酷で。2日後、追い打ちをかけるように葬儀が行われた。

「浅浜っ、ごめん! 俺が、俺があの時手を離したから……っ」

 棺にしがみついて泣き崩れる鋼太郎の背中を、桃士が涙目で擦っている。

 違う。お前はパニックになった俺を何度も呼び戻そうとしてくれた。

 悪いのは取り乱した俺。勝手に手を振りほどいて海に突っ込んでいった俺なんだよ。

 俺のために忙しい中時間作ってくれたのに。朝早くから来てくれたのに。

 高校最後の夏の思い出も作れなくて、撮った写真も渡せなくてごめん。

 ──理桜のことも、助けられなくて本当にごめん。

 そう声をかけても、何度も謝っても、届くことはなく。抱きしめることも、涙を拭うこともできない。

 直視できなくて顔を背けると、その光景を少し離れた場所から眺める祖父を見つけた。一昨日と同様に目が充血していて、今にも泣き出しそう。

「おじさん!」

 すると、凛々しい顔立ちをした中年男性が祖父の元に駆け寄った。

「これ、使って」
「ありがとう……」

 ヒロマサさんと顔の系統が似ている。親戚だろうか。

 ハンカチを受け取った祖父は、身内らしき彼に背中を擦られながら涙を拭っていた。