◇
リュックサックを砂浜に置き、浅瀬に腰を下ろす。
「ひゃーっ、冷たーっ」
足を伸ばすと、下半身全体がひんやりした感覚に包まれた。
空から降り注ぐ真夏の暑さを和らげてくれる、冷たすぎずぬるすぎない絶妙な水温。最高に気持ちがいい。
「凪くんもおいでよ!」
首だけを後ろに向けて、波打ち際で突っ立っている彼に手招きした。が、先ほどと変わらず、表情に活気がない。
目を凝らすと、ちょっぴり強張っているようにも見える。
……まだ気にしているみたい。凪くんのことだから、間接的に関わっただけでも責任を感じたのかな。
「本当にもう大丈夫だから。遊ぶ時間なくなっちゃうよ?」
「……そうだね。ごめん」
ようやく口を開いたかと思えば。出てきたのは謝罪の言葉。
真面目で優しい性格は素敵だけど、度が過ぎると少し厄介だな……。
呼び寄せると恐る恐る海に入り、1人分の距離を空けて隣に座ってきた。
「凪くんって水泳部だったよね? 何泳ぎが得意なの?」
「クロール。その次はバタフライ」
「バタフライって1番難しそうなやつだっけ。どうやって泳ぐの?」
「んー、まずは潜る練習からかな。その次にキックで……形はこんな感じ」
足を揃えて波を蹴る凪くん。ドルフィンキックというらしい。
「あの……今ここで教えてもらえることって、できる?」
水しぶきが収まり、伏せられていた目が丸く開かれた。
水泳教室に通った経験はないが、幼い頃から運動を卒なくこなせていたため、学校の授業で平泳ぎまでは習得済み。全部マスターするのは難しくても、キックまでならいけるかもと思ったのだ。
「俺が先生役やるの?」
「うん! ダメ、かな?」
顔を覗き込むと、気まずそうに視線を逸らされた。
都合の悪さが全面に表れているこの顔──連絡先の交換を渋っていた時と少し似ている。
今まで無茶なお願いを聞いてくれた凪くんだけど、指導は荷が重かったかな……。
「ごめん。嫌ならいいから……」
「いや、全然。むしろ教えてあげたいくらい。……実は、昔クラゲに刺されたことがあって。海で泳ぐのがちょっと怖いんだ」
また言い訳が始まるのだろうかと構えていたが、返ってきたのは真面目な答えだった。
そういえば……出会った日、何かに刺されてないかって聞かれたような。あれ、クラゲのことだったんだ。
「だから、顔強張ってたの?」
「まぁ……うん。変なやつが浮いてないか確認してた。昨日、クラゲのニュース見てさ。ビビっちゃって」
恐る恐る海に入った理由が判明した。
凪くんも観たんだ。砂浜に打ち上げられたクラゲに刺されて、何人もの人が病院に緊急搬送されたってニュース。
現場は違うけど、毎日海に来ているし。警戒したのかもしれない。
だとしたら……あの時、恐怖と闘いながら止めに来てた……?
「申し訳ないけど、今日は浅瀬で水浴びでいい? 明日埋め合わせするから」
「うん! ありがとう」
感謝と喜びを噛みしめつつ、無鉄砲な行動をした過去の自分を深く反省した。
◇
ひとしきり海水に浸かって涼んだ後、水分補給をしに砂浜に戻った。
水筒の水をのどに流し込み、最後に塩アメを1つ。熱中症予防は水分だけじゃなく、塩分の摂取も大切だからね。
「凪くんは何も飲まなくていいの?」
「大丈夫。家出る前に味噌汁3杯飲んできたから。それより、今日のネタは見つかった?」
浅瀬でくつろぐ彼に尋ねたら、昨日とほぼ同じセリフで返された。
出た、味噌汁信者。体にいいのは分かるけど……本当に平気なのかな。今日は室内じゃなくて外だから、のどは確実に渇いているはずなのに。
……まさか、海の水で潤せばいいって考えてる?
「うん。今着てる水着と花飾りと、今朝おじいちゃんと従兄と一緒に作った精霊馬を描こうと思ってる」
いや、さすがにそれはないか。成績、中の上だもん。飲んじゃいけないことくらい知ってるはずだ。
「そっか。なら良かった。まだ時間は大丈夫?」
「うん。あと1時間半は遊べるよ」
スマホの時計は午後3時30分。海に来て30分が経過したところ。
このままのんびりするのもいいけど……ずっと同じ景色を眺めるのは、正直ちょっと退屈。
ノートは置いてきちゃったし、記念写真を撮ろうにも、凪くんは写真NGだし。ボールとか水鉄砲とか、遊ぶ物を持ってくれば良かったな。
「1時間半か。それなら、今から探検に行かない?」
「探検? どこに?」
「防波堤」
おもむろに立ち上がると、砂浜に戻ってサンダルを履き始めた。
「前来た時にスケッチしたことがある場所でさ。個人的にオススメスポットなんだけど……どう? 行く?」
「行く!」
瞬時に返事をし、いそいそとリュックサックを背負う。推しのオススメと言われたら、行く以外の選択肢はないでしょう。
案内する彼の後を着いていくこと数分。消波ブロックに囲まれた防波堤が見えてきた。
形は先端が二手に分かれたT字型。手前側の先端には、赤い灯台がポツンと孤立するように立っている。
「シュッとしててかっこいい〜。消波ブロックも骨みたいで珍しいね!」
「う、うん……」
顔を合わせると、なぜか口を押さえて目を逸らされた。肩は小刻みに震えており、手で覆われた口元からはふふふと笑い声が漏れている。
「えっ……私、何か変なこと言った?」
「いや、骨って言うとは思わなくて……」
「ええっ⁉ 私は骨に見えるけど……見えない?」
「俺はダンベルに見える」
再度目を凝らす。ジョニーのおもちゃと形が似てたから、それに引っ張られちゃったのかも。
奥側の先端に向かい、灯台をメインに海岸の写真を数枚撮影。
今日の分のネタを収穫し終えて一安心した私は、その場に腰を下ろした。
「ありがとう。これで今日も安心して描ける」
「えっ、明日の分じゃないの?」
「明日は最終日だから、ちょっと違った物を描きたくて」
帰省期間は7泊8日。月曜日に来たので、こっちに泊まるのは明日の日曜日が最後。
「じゃあ、帰るのは明後日?」
「うん。午前中で掃除して、お昼に帰る予定なんだ」
凪くんと出会った日から今日までを振り返る。
スケッチさせてもらったり、悩みを聞いてもらったり、2人でおでかけしたり。短期間だったけど、すごく幸せだった。
明日はとことん楽しんで、凪くんとの思い出を心に刻みつけるぞ。
「一花ちゃん」
「ん?」
「急で悪いんだけど……明日、午前中に出てこれない?」
意気込んだタイミングで、突然集合時間の変更をお願いされた。
「マジごめん。宿題もあるのに、急だよね」
「大丈夫! 宿題は午後に回せばいいんだし! 何か用事思い出した?」
「うん。今朝、天気予報観てたらさ……」
申し訳なさそうな表情で話し始めた。
朝のニュース番組で天気を確認したら、昼から天気が荒れる恐れがあると言われ、戸惑ったらしい。
というのも、今日からお留守番しているワンちゃん達、みんな雷が苦手なのだそう。
「元々日曜は雨の予報だったけど、降水確率30%だったから大丈夫だろうと思ってた。でも、雷を伴う雨って言われてさ」
「それは心配だね。ケージはみんな同じ部屋に置いてあるの?」
「うん。横並びに置いてるから、心細さはないと思うんだけど……」
彼が心配しているのは、愛犬の心と身の安全。
昨夜、父が観ていたテレビで、犬のお留守番の様子が流れていた。
最初こそおとなしくベッドで寝ていたけれど、長くは続かず。お皿をひっくり返しては、トイレシートを噛みちぎって。しまいにはベッドまでも振り回して。1時間が経つ頃には、ケージの中がぐちゃぐちゃになっていた。
テレビに出ていたのは小型犬だったけど、凪くんの犬達は全員中型犬。体が大きいほど、数が多いほど、暴れ出すと激しい。
ひいおじいさんとおばあさんの大切な家族でもあるから、万が一のことがあったらいけない。
「分かった。なら明日は早めに集合する?」
「そうしてもらえると助かる。ありがとう」
手を合わせて何度も頭を下げている。
こんなにも責任感が強くて優しい人なのに……。
厄介だなと思ってしまった30分前の自分に、強烈なビンタをお見舞いしてやりたくなった。
「天気荒れるなら、ネタ探しは難しそうだなぁ」
「毎日外で探してるもんね。でも、雨の日ってチャンスだと思うな」
「チャンス?」
「うん。晴れの日は暑さでしおれていた花が、雨の日は元気を取り戻していたり。外に出たら、色とりどりの傘が歩いていたり。同じ場所でも、天気が違うだけで新しい発見がある。悩みや壁にぶち当たった時は、こうやって視点を変えてみるといいよ」
長々と語った後、助言で締めた凪くん。その瞬間、ハッと気づいて海岸に目を向けた。
今まで撮ってきたのは、海と空と砂浜だけの、陸視点の写真。
だけどさっき撮ったのは……海と空と砂浜に加え、階段と高台、消波ブロックと灯台が写った、海視点の写真。
同じ海岸でも、眺める場所や時間帯によって全く景色が異なる。
「……本当だ。全然違う」
「でしょ? これ、中学の頃、美術部の先生に言われた言葉なんだ」
すると次は、SNSを始める前、フウトになる前の話をしてくれた。
『同じ絵は絶対描かない』という強いこだわりを持っていた凪くんは、絵日記の宿題が出されなくなっても毎日違う絵を描いていた。
しかし、速筆だったため、中1の夏休みでネタ切れに陥ってしまったという。
「宿題も手につかなくなるくらい悩んでて。ちょうどお盆前に登校日があったから、放課後に相談しに行ったんだ。そしたら……」
『君は1度着た服は2度と着ないのか。1度食べたものは2度と食べないのか』
『1つの角度じゃなくて、色んな角度から見てみなさい』
蒸し暑い職員室前の廊下で、穏やかな声で言われたのだそう。
「先生は俺に足りないものを分かってた。それでも見守ってくれてたのは、口を挟むと意欲がなくなると思ったんじゃないかなって。俺、頑固だったから」
「素敵な先生だね。それが、こだわりを卒業できたきっかけだったんだ」
「うん。助言をもらった後は、考え方がガラッと変わった。ちょうどその時、部活で絵を描く宿題が出されてたんだけど、1から描き直したんだよ」
「1から⁉ 大変じゃなかった⁉」
「いや、それが不思議と苦じゃなくて。夢中になってたみたいで、気づいたら下描きが終わってたんだ」
驚きの声を上げたのも束の間、さらに目を丸くする。
たとえ描きかけでも、また最初から描くのは精神的にも堪えるはずなのに。なんて凄まじい集中力なんだ……。
「2学期に入る頃には調子が戻って、褒められる回数も増えてさ。賞も、入選や入賞を取れるようになったんだよ」
「おおお……眠れる獅子が起きたどころか、覚醒して無双しまくってる……!」
「ふはっ。そんな、眠れる獅子だなんて……」
顔を隠すように日傘が傾いた。照れ隠しの仕方が可愛いなぁ。
「ありがとう。初めて言われたからビックリした」
「えへへ。今も無双してるの?」
「いや……また、眠ったかな」
再び日傘が傾くも、現れたのは30分前に見たのと同じ顔。
「……スランプに、なって」
「そう、だったんだ……」
SNSの更新が止まっていたのは勉強が忙しいから。DMの返事ができなかったのはスマホが使えなくなったから。
しかし──真の理由、根本的な原因は別の場所にあった。
『乗り越えるためにあえて離れていた』という選択を、どうして考えられなかったのだろう。
趣味で描いている私でさえも、上手く表現できなくて悩んだ時期があったというのに。
「そんな悲しい顔しないで。まだ本調子じゃないけど、最近回復してきてるんだよ」
「そう……? 私の絵見てる時、辛くなかった?」
「全然。むしろ間近で見れたからテンション上がってたよ。ありがとう」
感謝されてしまった。
描けない自分に嫌気がさしていたんじゃないかなって不安だったけど……気分転換できていたのかな。
すると、ふわっと風が吹いて、潮の香りが私達の間を駆け抜けた。
「……いい景色。見れて良かった。教えてくれてありがとね!」
「どういたしまして。俺も、一花ちゃんと一緒に見れて良かった」
彼の目が三日月のように緩やかな弧を描いた。
出会った浅瀬、再会した波打ち際、奇跡が起きた階段、初めて絵を見せた砂浜、涙を流した高台。
1つ1つ回想しながら、思い出が詰まった海をもう1度目に焼きつけた。
◇
絶景を楽しんだ後、海岸に戻った私達。時間が来るまで砂浜に座って談笑することに。
「ねぇ、あそこ、何か浮いてない?」
話の途中で凪くんが海面を指差した。視線をたどると、打ち寄せる波に乗って細長い物が近づいてきている。
正体を考えている間に謎の物体は波打ち際に漂流。目を凝らしつつ恐る恐る拾う。
「……枝?」
「だね。先月末雨が酷かったから、その時に折れたやつが流れてきたのかも」
「そんなに酷かったの? 詳しいね」
「いや、詳しいもなにも、先月からこっちにいるし」
「あ、そうだったね」
水に濡れて焦げ茶色になった枝を眺める。
この枝、ちょっと大きいけど、そこそこ太さがあって持ちやすい。
「絵を描くのにちょうど良さそう」
「確かに。一緒に描く? ここで」
「いいの?」
「うん。他に流れ着いてるやつがあるか探してくる」
そう言い残して枝を探しに行った凪くん。
オススメスポットを教えてもらって、ためになる助言までくれて。なんだか今日はツイてる気がする。昨日たっぷり悲しんだからかな?
何かネタになる物はないかとキョロキョロしていると、遠くの砂浜で写真を撮る派手な髪色をした男女2人組を見つけた。辺りに人がいないのをいいことに、熱い抱擁を交わしている。
「……そうだ」
なぜかその姿にピンときて、砂浜を一筆書きでなぞる。
次に、お互いの名前を書いて……。
「できた……!」
ぎごちない手つきで書くこと数十秒。相合傘が完成した。
以前凪くんが私と智をカップルだと見間違えたように、私達も傍から見たら若者カップル。
別に、特に意味はなくて。ただ遊び心で描いただけ。例えるなら、推しの名前と自分の名前の相性を調べてみた感覚に近い。決して凪くんに下心があるわけでは……。
苦しい言い訳を考えていると、打ち寄せてきた波が足元と相合傘を覆った。
「……もう1回っ!」
波が引いて凹凸がなくなった砂浜を再度枝でなぞる。
今日のネタは得ているから絵日記には描かないし、もちろん日記にも書くつもりはない。けど……せめて写真には残したい。
「あっ! くそぉ、もう1回!」
懲りずに何度も書き直す私は、傍から見たら恋愛成就のおまじないに必死になっている痛い奴なのだろう。でもそんなことは気にせず果敢に挑み続ける。
「よし! できた!」
描いては消えてを繰り返すこと5回。ようやく完成した。急いでリュックサックからスマホを取り出す。
「ただいまー」
電源ボタンを押した直後、後方で凪くんの声が聞こえた。
「ごめん、枝なかった」
「あっ、そう?」
やばい、このままじゃ見つかる。
首だけ振り向いて返事をし、急いでカメラアプリを開いてピントを合わせたけれど。
「ああっ!」
シャッターボタンを押す前に波が来てしまい、またなめらかな砂浜に戻ってしまった。
そんなぁ、あとちょっとだったのに……。
「あ……もしかして写真撮るところだった?」
「……うん。でも、また描けば大丈夫!」
笑ってみせたけど、どうやら枝までも流されてしまったらしく、足元には何も残っていなかった。
酷いよ。絵だけならまだしも、描くものまで持っていくなんて。海め、私が何をしたっていうんだぁ……。
「邪魔してごめんね。ちなみに、何描いてたの?」
「へ⁉ あぁ、えっ、と……」
悲しさと悔しさを含んだ眼差しで睨んでいると、不意打ちで質問を投げかけられた。声が裏返り、目が泳ぐ。
どうしよう。「相合傘だよ」なんて、冗談でも本人の前で言えるわけがない。
「将来の……夢?」
気が動転した私の口から出てきたのは、壮大な答えだった。
私の馬鹿……! いくら焦ってたからって、ごまんとある物の中から将来の夢を選ぶ奴がいるかよ……!
そりゃあ、付き合えたら楽しいだろうなとは思うけど……夢のまた夢すぎる。そもそも、シンプルに「傘だよ」で良かったじゃないかぁぁ。
「そっか。頑張ってね。応援してる」
「ありがとう!」
荒ぶる私の心を一瞬にして和らげる、優しくて柔らかい笑顔。誤魔化すことができて胸を撫で下ろした。
けど……まだ本調子じゃないからか、少し辛そうに見えて。
瞳の奥も、心なしか切なげに揺れていたように思えた。
◇
「将来の夢か……」
欠け始めた月の下、静寂に包まれた海岸に腰を下ろし、砂浜を指でなぞる。
水泳選手、インストラクター、ダイバー、ライフセーバー、イラストレーター。
幼い頃から沢山あったけど、今はもう全てうたかたの夢になってしまった。
……というより、そもそも俺に夢を抱く資格なんてない。
『……スランプに、なって』
夢を書き出しながら今日の出来事を振り返る。
先月スケッチをしていたお気に入りの場所で、俺はSNSを放置している理由の1つを打ち明けた。
だが……案の定、一花を傷つけてしまった。
『私の絵見てる時、辛くなかった?』
悩みを抱えているとは知らず、無神経にお披露目しちゃったって、心を痛めたんだろうな。そもそも見たいと言い出したのは俺なんだから、一花は何も悪くないのに。
素直で、純粋で、真っ直ぐで。
そして、とても眩しくて──正直、直視するのが辛かった。
最後の夢を書いて、空を見上げる。月に薄雲がかかり、ほんの少し辺りが暗くなった。
高偏差値の進学校で成績は学生10位。片や平均以下の偏差値の学校で成績は中の上。
前者の一花からしてみたら、後者の俺は大した人間じゃないかもしれない。
けど、目の前で自分の過ちを責めている人に、言葉を選ばず答えるほど馬鹿ではない。
かといって、大切な人に心を閉ざして本音を隠したというわけでもない。
確かに辛いとは感じたけれど、絵を見せてもらっていた時は本当にテンションが上がっていた。
今までスマホ画面を通して見ていた絵を間近で観賞できて、その上貴重なラフ段階の絵も見ることができたから。
だから……追い打ちをかけないように、半分優しい嘘をついたんだ。
雲間から月が顔を出し、再び海岸に明るさが戻った。
「明日で最後か……」
本当は、今日話すつもりだった。いつも待ち合わせている砂浜で、全てを打ち明けようと。
だけど……目を充血させて嗚咽を漏らす姿が頭から離れなくて、言い出せなかった。
仲直りしたから大丈夫だと言われても、結果的に喜んでもらえたからと励まされても、罪悪感は消えるどころか増すばかり。
だって……どう考えたって、一花が深く傷ついた原因は俺のせいなんだから。
拳に力を入れていると、足元に波が押し寄せ、書き並べた夢が跡形もなく消えた。
月の光に照らされている海面を見ると、昼間よりも水位が高くなっている。
そろそろ満潮か……。
『理桜‼ 聞こえるか⁉ 理桜‼』
すると、叫ぶ自身の声と当時の光景が脳内によぎり、頭に痛みが走った。眉根を寄せて目を瞑る。
一花……俺、眠れる獅子なんかじゃないよ。
本当は怖がりで、現実から目を背け続けている臆病者なんだ。
今だってそう。
もういっそのこと、「どうしてパスワードを友達に聞かないの」って、直球で突っ込んでほしいと思ってる。
会えるのは明日が最後だというのに……意気地なしすぎるだろ。
「……嫌い」
痛みが収まり、薄目でゆっくりと腰を上げる。
勉強不足な自分、こだわりが強い自分、自信過剰な自分。全てが嫌い。
だけど、それ以上に嫌いなのは──。
不甲斐ない自分を責めていると、波が足の甲を覆った。行き場のない感情をぶつけるように勢いよく蹴り飛ばす。
綺麗な色をして、穏やかな顔をして──全てを奪っていった海が大嫌いだ。
朝食を済ませた日曜の朝。台所で食器を洗う祖母と伯母のお手伝いをする。
「おばあちゃん、これはどこに入れるの?」
「ん? あぁ、その大きい器なら1番下」
「ええ? 下? どこ?」
「奥。ちょっと見えづらいけど、同じのが重ねてあるから」
「あぁ! あったあった!」
棚の引き出しを全開にして、胸に抱えた大きめの器を1つずつ丁寧にしまう。
「この1週間、一花ちゃんには沢山お世話になったわね〜」
「お母さんが言った通り、百人力だったね」
流し台でお皿を洗ってはすすぐ2人。その後ろで顔をニヤニヤさせながら、作業台に積まれていくお皿を布巾で拭いて棚に戻す。
帰省してから、毎日のように感謝の言葉と褒め言葉をもらった。
それだけでも嬉しいのに、アイスをはじめ、大好物が大量に入ったオードブルまでも買ってくれた。
お手伝いする者の特権なのだろうけど、私にとって料理は大好きなことだから全然苦ではなかった。
大好きなことをして、大好きな物を食べることができて……この1週間、好きなものに囲まれて最高に幸せだったな。
「一花ちゃん、本当にありがとう。今日のお昼は特別に、一花ちゃんの食べたい物をごちそうしようかな」
「本当⁉ やったぁ!」
嬉しさのあまり、その場でピョンと小さく跳びはねた。
「甘々だねぇ。孫は目に入れても痛くないってやつか」
「ええ。何人入れても痛くないわよ。それより一花ちゃん、何食べたい?」
「んー……鶏肉がいいな!」
苦笑いする伯母をよそに話を進める私達。食べたい物は山ほどあるけれど、私だけ特別なら大好物が食べたい。
焼き鳥にしようか、唐揚げにしようか。他にも、照り焼きチキンとかフライドチキンもいいなぁ。
「鶏肉かぁ。それなら、隣町のレストランに行かない?」
脳内に鶏肉料理を浮かべていると、思いついたように祖母が口を開いた。
「隣町? 遠いなぁ。まさか私が送迎係やるの?」
「あらバレちゃった。でも香織にもお世話になったから特別にごちそうするわよ」
「そうこなくっちゃ。で、どこにあるの?」
「ショッピングモールの近く。6月にオープンしたばかりの新しいお店よ。今朝のチラシに、今月から新メニューでチキンステーキが登場したって書いてあったから、ピッタリだと思ってね」
「なるほど。じゃあおばあちゃんのお世話はお父さん達に任せるのね」
「何言ってるの、おばあちゃんも一緒に連れて行くわよ」
「ええっ⁉ 4人で行くの⁉」
「あんな男だらけの中で女1人は寂しいじゃない。今日で最後なんだし、思いっきり楽しみましょ! 題して、松川家の女子会!」
「いや、私もう松川じゃないんだけど……」
呆然とする私を置いて、どんどん話が展開されていく。
女子会やら、ひいおばあちゃんも連れて行くやら、気になるワードだらけ。
だけど、それよりも私がまず反応したのは……。
「あの、そのレストランには、何時頃に行く予定なの?」
「そうねぇ、オープンから2ヶ月経ってるけど、夏休みで多いと思うから……11時台かしら」
「お盆だもんね。それに今日は日曜だから、ランチタイムでも多そう。待ち時間も考えると、11時半には着いておきたいかな」
早急に鶏肉料理を消し去り、丸いアナログ時計を思い浮かべる。
ショッピングモールがある町の中心部までは、車でおよそ20分。11時半に到着だとすると、遅くても11時10分にはここを出発しないといけない。
「……あ、何か、予定あった?」
「……はい」
あからさまに沈む顔色を見た伯母が気まずそうに尋ねてきた。
今日の午前は、凪くんとの海水浴の予定がある。
時間は9時から11時で、昨日と同じ2時間。
ここから海まで何分かかるか計ったことがないから詳しい時間は分からないけど、この10分間で、帰宅とシャワーと着替えと準備は、さすがに無理がある。
仮に猛ダッシュしたとしても、信号に引っかからずスムーズに帰れたとしても、間に合う気がしない。
「でも、早めに帰ってくるので! みんなで行きましょう!」
だが、今日は帰省最終日。この日を逃せば、しばらく伯母にも祖母にも、曾祖母にも会えない。
それにチキンステーキなんて、最終日にはもってこいのごちそう。絵日記に描くのにピッタリ。
10分、いや5分ほど早く切り上げてもらえるようお願いすれば、ギリギリ間に合うかもしれない。
ごめんね。せっかく時間作ってくれたのに。
でも凪くんとは、夏休みが終わって友達にパスワードを聞くことができたら、いつでも連絡が取れるようになるから。
電話番号も交換したら、テレビ電話で話すことだってできるから。
「そう? なら、ひいおばあちゃんにも話しておくね。で、道は知ってるの?」
「大丈夫。チラシに住所書いてあったから。ナビは付いてるのよね?」
「もちろん。最初から付いてるわよ」
行くことが決まり、伯母と祖母はくるりと背を向けた。安堵すると同時に手を合わせる。
いつも自分勝手でごめんなさい。いつも年下らしからぬ失礼なことを言って本当にごめんなさい。
この分の借りは必ず返しますので、どうかお許しください。
ペコペコと頭を下げながら、海のある方角に向かって謝罪の念を飛ばした。
「料理係がいないなら、お留守番する人達のご飯を考えなきゃね」
「そうね。何がいいかしら」
話し合いを再開した2人の後ろで、自分も作業を再開する。
お留守番……おじいちゃんとお父さんと智のことだよね? あとジョニーも。
毎食私達が作ってはいるけれど、冷蔵庫に食材はあるし、朝炊いたご飯もまだ残ってる。わざわざ作り置きしなくてもいいんじゃ……。
「おじいちゃん達、料理できないの?」
聞き流していたが、どうしても気になり、質問を投げかけた。
「ううん。全くできないわけじゃないの。むしろ昔は、一花ちゃんみたいによく作ってたほう。ね、お母さん」
「ええ。ただちょっと、加減が分からないだけなの」
苦笑いする2人。過去に作った料理で何かあったのだと見て取れた。
「昔、私達2人とも熱を出して寝込んだことがあってね。おじいちゃんが仕事を休んでお粥を作ってくれたのよ。だけど、塩を入れすぎたみたいで、ものすごく辛かったの」
「あったあった。あの時は辛すぎて1度戻したなぁ。懐かしい」
伯母の口から出た単語に目を丸くする。
戻した……⁉ 唐辛子を使った激辛料理で吐くのはバラエティ番組で何度か観たことはあるけど、お粥で吐くパターンは初めて聞いたよ⁉
「それ、味見してなかったんじゃない⁉」
「そう思うでしょ? だけどね、ちゃんと確認したそうなのよ。本当お粥とは考えられないくらい辛かったもんだから、しばらく観察して。そしたらようやく原因が分かったの」
「一体何だったの⁉」
「元から私達と味覚が違ったの」
原因を探るため、平日の朝と夜、土日は朝昼夜、食事するところを毎日観察し、メニューとともに記録していたという祖母。1週間観察を続けた結果、調味料を使う量が多いということに気づいた。
白ご飯やお刺身、豆腐、サラダなど、元から味付けされていない物に対してふんだんにかけていたらしい。
「何回も注意したんだけど、なかなか減らなくてね。結局健康診断で引っかかるまで治らなかったわ」
「そんなに濃い味が好きだったんだね」
「ええ。お医者さんからも厳しく言われて、それからは健康的な食事をするようになったの」
ここ1週間の祖父の食事中の様子を思い出す。
確かに、あまり揚げ物とかは食べず、私や智に譲ってくれてたな。台所にも、おばあちゃんを呼ぶ時以外はほとんど入ってなかった気がする。
つまり、本当はみんなに振る舞いたいけど、被害者を出してしまうから、我慢するためにあえて台所に近寄らないようにしていたのか。
家族のために作っても、自分しか楽しめなかったのはちょっと気の毒だな。
「大変だったんだね。でも、料理ならお父さんが得意だから、作り置きはしなくて大丈夫だよ!」
「「ええっ⁉」」
口にした途端、驚愕に満ちた声で返された。
「お父さんって、一昨日ベロンベロンに酔っぱらってたクニユキよね?」
「はい」
「グラスを割って、一花ちゃんお手製の料理までひっくり返した、暴れん坊のクニユキよね?」
「は、はい」
「次の日二日酔いで寝坊して、先祖に情けない姿を晒した、あのクニユキよね?」
「はい、そうですけど……」
逐一確認するように尋ねる伯母に気圧されて、徐々に声が小さくなっていく。
ジリジリと迫ってくるその顔には「嘘でしょ⁉」と書かれており、まるで信じられないという反応。
智にも似たようなことを話して驚かれたけど、ここまで血眼になっていない。
「一花ちゃん……本当なの?」
「本当だよっ。最近はあまりしないけど、お母さんの代わりにお弁当作ってくれた時もあったんだよ」
祖母も、お皿を持ったまま目を見開いて立ち尽くしている。
「そっか……あのクニユキが、お弁当を……」
丸くなった目にじわじわと涙が溜まり、溢れて頬を伝った。
男子組の昼食の心配はしなくていいって言っただけなのに。なぜか台所には、子の成長を喜ぶ感動のムードが漂っている。
お父さんも、おじいちゃんみたいに料理が苦手だったのかな。だけど、今も涙を流してしまうくらい酷いありさまだったの……?
ティッシュで涙を拭う祖母を眺めていると、後方で曇りガラスの引き戸が開いた。
「母さーん、麦茶あるー? ……って、どうしたの」
やってきたのは、ほんのついさっきまで話題の中心になっていた父だった。
噂をすれば影がさす、という言葉があるけれど、まさか本当に来るなんて。廊下に聞こえてたのかな……。
「クニユキ……あなた頑張ったのね……」
「は? 何を?」
「なんでもない! 料理できるのすごいねって話してただけ!」
「え、おいちょっと、俺は麦茶を……」
「後で持ってくるから!」
頼むから空気を読んで。今はそっとしておいてあげて。
そう言わんばかりに父の背中を押して台所から退出させたのだった。
◇
誰もいない荷物部屋で、祖父母と曾祖母に借りた全身鏡の前で首を動かし、頭部全体を確認する。
みつあみにした髪の毛をくるんとまとめた耳下お団子ヘア。水に濡れて崩れないよう、持参したヘアピンを全部使ってしっかり固定した。
まだ少し時間は残ってるけど、凪くんが先に到着している可能性も考えて、今日は早めに出発しよう。
リュックサックを背負ってドアをそっと開け、廊下に誰もいないことを確認し、忍び足で玄関へ向かった。
スニーカーの靴紐を結び直して立ち上がり、曇りガラスの引き戸をゆっくり開ける。
「お、一花」
外に出た瞬間、思わず心の中で舌打ちしてしまった。
「今日は早いんだな」
「う、うん。お昼から雨降るみたいだから」
小さなプールの中で嬉しそうに尻尾を振るジョニー。
その隣で……父が小さな折りたたみ椅子に座っている。
黙って立ち去りたいところだけど、呼ばれたので無視するわけにもいかず、一声かける。
「何してるの?」
「見ての通り水遊びだよ。ペット用のプールがあるって教えてもらって、最後に一緒に遊ぼうと思ってな」
目を細めてジョニーの頭を撫で始めた父。気持ちいいのか、ジョニーも父と同じように目を細めている。
犬ってすごいなぁ。
怒鳴り散らしている人間に突進して全身で止めに入って。至近距離で暴言を吐かれても、次の日は何もなかったかのように駆け寄って挨拶をして。
そして今、父の思い出作りに協力してくれている。
どうしてこんなに強くて健気なんだろう。その小さな頭に乗っている手をどけて、優しく抱きしめてあげたいよ。
「一花もこれから水浴びか?」
いってきますと一言言い残して立ち去ろうとしたが、一歩踏み出したところで足止めされた。
「えっ、なんで」
「違うのか? 水着着てるからてっきり海に行くのかと」
「いや……合ってるけど」
心臓がドクンドクンと荒ぶり始め、帽子の中で冷や汗が額を伝う。
どうして……⁉ みんながお風呂を終えた後にこっそり洗って朝イチで回収したのに。水着を買ったことも、口外してないから誰も知らないはず……。
「なんだ、やっぱりそうじゃないか。でも、そんな派手なやつ持ってたっけ?」
「いや。こないだショッピングモールに行った時に買った。ご飯作り手伝ったお礼に、おばあちゃん達がお小遣いくれて」
追及される前に説明した。
今朝はひいおばあちゃんが先に起きていたけれど、老眼だから、仮に見たとしても水着だとは判別できない。
他に考えられるとしたら……夜中に洗面所に寄った時、ドアの隙間から見えた、とか。二日酔いならトイレに行く回数も多かっただろうし。
「あー、だからデカい袋持ってたのか」
「うん」
短く返事をしてそそくさと退散する。せっかく早く準備が終わったのに、道草食ってたら意味がない。
「そっか。良かったな、早めに宿題終わって」
しかし、昨日の智と同様、今回もそう簡単には解放させてもらえなかった。
「絵日記はまだ残ってるみたいだが、持ってきたやつはもう全部終わったんだろう?」
「…………いや」
数秒沈黙を置いた後、包み隠さず答える。
「え……まだ残ってるのか?」
「……化学のプリントが、2ページだけ」
聞こえなかったふりをして逃げようかとも思ったのだけど、それはあからさますぎて怪しまれるのがオチ。嘘をついても、今日も午後から部屋を借りる予定なので、終わったと思い込んだ父が祖父母を呼びに来るかもしれない。
残されたのは、正直に白状する道しかなかったのだ。
「でも、お昼にするから大丈夫」
サボって遊びに行くわけではないと伝えるも、父の口から、はぁ……と溜め息が漏れた。
この呆れた様子の溜め息は、合流した時にも耳にしている。
恐らくこの次に発せられる言葉は……。
「そうやってお前は大事なことを後回しにするのか」
「違う! 本当は朝やろうと思ってたんだよ! でもお昼から雨だっていうから午後に変えただけ!」
「それを後回しと言うんだよ。それに、たった2ページならすぐ終わらせられるだろう。そんなシャレた頭にする時間があったら」
説教モードに入った父が私の髪の毛を顎で差した。
たった2ページ、されど2ページ。そりゃあ数だけ見たら少ないよね。集中すれば1時間もかからないだろうって。
でもね……私が通っているのは地元で1番の進学校。問題自体は少なくても、内容はすごく複雑で難しいの。
特に最終章は応用問題がほとんど。教科書とノートを見直しながらじゃないと解けないんだよ。
込み上げる感情を抑え、右の拳に力を入れる。
「そこまで言うなら解いてみてよ。20分で」
「は? なんで」
「さっき『シャレた頭にする時間があったら』って言ったよね? これ、20分で作ったからさ」
爪を手のひらに食い込ませつつ、左手でお団子を指差した。
この髪型は20分で完成させた。器用な人からしたら遅いと感じるのだろうけど、20分は50分授業の半分よりも短い時間。
テストの時でさえ、裏表に印刷されたプリントを50分近くかけて解くんだ。半分以下の時間で全問題を解くのは、いくらなんでも無理難題すぎる。
「20分じゃ無理に決まってるだろう」
「え? たった2ページだよ? 人に偉そうに言うわりにできないの?」
「お前……っ」
煽り口調で返すと、ジョニーの頭から手を離して立ち上がった。
親に向かって口答えするなんて。反抗期だからって生意気すぎる。そんな声が聞こえてきそうなほど、険しい表情を浮かべている。
だけど、私達子どもも頑張ってるんだよ。
宿題の量に頭がパンクしそうになっても、苦手な問題や難しい問題にぶち当たっても、乗り越えようと毎日試行錯誤してるんだよ。
それを、大人の目線で「たった」の3文字で片づけないでほしい。
というか……親ならそこは、「よく頑張ったな!」って、努力を褒め称えるところだよね?
「……お父さんっていつもそうだよね。人の都合も考えないで、好き勝手言って」
「おい、話を逸らすな」
「この帰省もそうだよね。私の意見丸無視で勝手に話進めて。どこかに連れて行ってとは言ったけど、自分は仕事があるからって、10年近く帰ってない家に普通子供1人で行かせる?」
冷静を保っていたが、我慢の限界に達してしまった。怒りが声に表れていたのか、空気を察知したジョニーがクゥーンクゥーンと不安そうに鳴き始めた。
「高校生だからもう大丈夫だろうと思ったのかもしれないけど……私、伯母さんに会うまですごく不安だったんだよ?」
乗り場と時間をブツブツ唱えて。切符と電光掲示板をしつこく照らし合わせて。無事に乗ることができてホッとしたけれど、油断はできなかった。
降りる駅を間違えるといけないから、停車する度に駅の名前を確認して。乗り過ごしてしまうかもしれないからと、宿題で眠気を飛ばした。
「絵日記のことだって、こっちに来る前に、既に1回計画立て直してたんだよ⁉ なのに、そっちが勝手に決めるから、結局2回も立て直した……っ」
「えっ、そうだったのか?」
「そうだよ! あと、1週間も空いてたじゃないかって言ってたけど、じゃあそれが仕事の時だったらどうなの⁉」
「それは……」
早口でまくしたてると、バツが悪そうに黙り込んだ。
自分のことは棚に上げて偉そうに物を言う。これだから大人は理不尽で嫌なんだ。
そりゃあ、私自身もそこまで出来た人間じゃないから、偉そうなことは言えないけど……普通親は、子供のお手本にならなきゃいけない存在だよね?
あれこれ口出しする以前に、自分自身の言動は見直さないの⁉
「それなら、提案した時にすぐ言えば良かったじゃないか。嫌がってる様子じゃなかったから、てっきりいいのかと……」
「うるさい! 言い訳すんな! この呑んだくれの暴れん坊親父が!」
乱暴に吐き捨てた後、近くに転がっていたボールを拾い、父の顔めがけて投げて走り去った。
「たった」で済ませてほしくないとは言ったものの、そこは「ごめん」って、“たった一言”でもいいから謝ってほしかった。
あぁ、本当イライラする。朝から説教しやがって。しかもおでかけ前に。
そもそも、毎日の勉強で疲れきった心を癒やすために帰省したのに。疲れの元凶になった話題をここで出すか⁉
「お父さんのバカヤローーっ‼ クソ親父ーーっ‼」
止まることなく走り抜けて高台に登り、誰もいない閑静な海に向かって叫んだ。
「朝から元気だね」
すぐ後ろで声がして振り向くと、昨日と同じ格好をした凪くんが立っていた。
「なに、また喧嘩したの?」
「……聞いてくれる?」
「もちろん」
優しさに包まれた笑顔が現れ、燃え盛っていた怒りの炎が一瞬にして鎮火した。
はぁ……この安心感溢れる笑顔、癒やされる。
推しだから、顔がいいからとかは関係なく、元から凪くんの笑顔には、精神を安定させる不思議な力があるのかも。
そのままお決まりの場所に移動し、叫んだ理由を話した。
「確かに朝から説教はテンション下がるね」
「でしょ? 大人だって同じことされたら気分下がるくせに。何様だよ」
砂浜に座ってブツブツと鬱憤を漏らす。
だいぶ落ち着きは取り戻したが、思い出したらまた腹が立ってきた。
足を伸ばして波に当たり、火照った体の温度を下げる。
「すごく分かるよ。俺も似たようなことあったから。けど……物は投げちゃダメだよ」
共感してくれて嬉しいと喜んだのも束の間、穏やかな口調で指摘された。
「そのボールさ、多分ジョニーくんのおもちゃだよね? 大切な物を乱暴に扱われたら誰だって悲しむよ」
「……ですね」
途端にいたたまれない気持ちになり、視線を落とす。
いきなり怒り出して、ボール投げて、ビックリさせたよね。もし軌道がずれていたら、隣にいたジョニーに当たっていたかもしれない。
うなだれて顔を両膝に埋める。
最低だ。私も結局親と同じで、物に当たっているじゃないか。
「ごめんねジョニー……」
「いや、今ここで謝られても。とにかく、家に帰ったらお父さんにもちゃんと謝るんだよ」
「ええー……」
「ええーじゃない。たとえ相手が悪かったとしても、1割でも自分にも非があるなら謝って。文句を言っていいのは、相手が10割悪い時だよ」
その体勢のままチラッと顔を横に向けると、真剣な目つきと視線がぶつかった。
顔は全然似てないのに、説教する父の顔が重なって見えて、眉をひそめる。
確かにボールを投げたのは悪かった。それは認める。けど、先に謝るのはあっちじゃない?
空気を読まず余計な口出しをして、子の心に寄り添わないで言い訳した。充分私が触発する原因は作ってる。だからお父さんが先に謝るべきだ。
諭してきた彼に反抗するようにそっぽを向くと、突風が吹いた。
「ああっ! 帽子が!」
風に乗って飛んだ帽子は海の上へ。そんなっ、あの帽子お気に入りなのに……!
「取ってくる!」
「ええっ⁉ ちょっと待っ……」
制止する彼を無視して浅瀬に入り、平泳ぎで帽子を取りに向かう。
あれは凪くんが褒めてくれた花飾りが付いている特別な帽子。手放したくない。
波を横切りながら泳ぎ、帽子の元にたどり着いた。
「一花ちゃーん! 大丈夫ー⁉」
「うん!」
掴んだ帽子を高く上げ、保護したことを知らせた。手を振る凪くんの近くには、昨日見た赤い灯台が立っている。
わわっ、夢中になってたらこんなところまで来てたなんて。早く戻らなきゃ。
腕と足を使って方向転換。しかし、ここで、あるはずのものがないことに気づく。
……足場が、ない。
その時、右足の裏に張り裂けそうな痛みが走った。
嘘、つった……⁉
「凪く……っ」
右足を動かせないと判断し、咄嗟に名前を呼ぶも、背後から来た波に呑まれ、口の中に水が入った。
「っ……はっ」
息ができないっ、苦しいっ、助けてっ。
一瞬にして頭が真っ白になり、もがいて酸素を体内に取り込む。
「一花っ‼」
すると、上下に揺れる視界の端で、凪くんが防波堤から海に飛び込むのが見えた。綺麗なフォームで入水し、クロールで泳いでくる。
凪くん、ダメ。またクラゲに刺されちゃう。また苦しい思いしちゃうよ。
来ちゃダメだと心では言いながらも、腕と左足を必死に動かして耐える。しかし、負担をかけすぎたのか、最悪なことに左足までつってしまった。
その瞬間、再び背後から波が襲い、今度はのどの奥に水が流れ込んだ。
足裏に感じた時の何倍もの強烈な痛みが、のど全体に広がる。
その感覚が胸に移動すると、視界がぼやけ、青一色の世界に落ちた。
お母さん、毎日騒いでごめんなさい。
おじいちゃん、おばあちゃん、伯母さん、智、最後まで迷惑かけてごめんなさい。
楓も、お土産買ったのに持って帰れなくてごめん。
そして、お父さんも──。
走馬灯を見終えてまぶたを閉じると、冷たくなった体が何かに包まれた。
音が遮断された真っ暗な世界の中。誰かが私を引っ張っている……?
「一花っ! しっかりしろ!」
顔に蒸し暑い空気が触れた。
けれど、もう意識が薄れていて確認する気力も残っておらず。
最後に唇に温もりを感じて意識を手放した。
──ミーンミンミンミンミーン……。
「んん……?」
夏を感じさせる鳴き声が耳に入り、眉間にシワを寄せながら目を開けた。
視界に入った、鉢植えの花と盆栽。
曾祖母の家の庭と構造が似てるけれど、飾ってある種類が少し違う。だとしたら、ここは誰かの家の庭……?
「あ、起きた?」
見慣れない場所に戸惑っていると、頭上から声が聞こえた。
「おはよう。よく眠れた?」
仰向けになり、まばたきを繰り返しながら、寝起き数秒の頭を起動させる。
前髪から覗く涼しげな目元、派手さはないが全体的に整った品のある顔立ち。
「……うえぇぇっっ⁉」
視界いっぱいに広がる顔が鮮明になり、慌てて起き上がった。
「おおっ。寝起きなのに元気いっぱいだなぁ。具合はどう? どこも痛くない?」
「う、うん。ピンピン、してます」
「なら良かった」
優しく笑う凪くんにぎこちなく返事をし、辺りを確認する。
左側には障子、右側には庭。どうやらここは縁側らしい。
「岸まで運んだんだけど、ぐったりしてたから家に連れて帰ったんだ」
「そう、なんだ。助けてくれてありがとう」
「いえいえ。あ、帽子あるから持ってくるね」
そう言って立ち上がり、凪くんは障子を開けて部屋に入っていった。
手のひらで頬をそっと包み込む。
溺れて、沈んで、走馬灯を見て。
私の人生もう終わりなのかなって死を覚悟してたけど……無事だったんだ。生きて帰ってこれたんだ。
「ただいま。はいどうぞ」
「ありがとう」
戻ってきた彼から帽子を受け取った。良かった。花飾りも無事だったみたい。
海水を含んで少し柔らかくなった帽子をギュッと抱きしめる。
「本当驚いたよ。こっち見て返事してたのに、次の瞬間溺れてるんだもん。クラゲか何かに刺されてひるんだ?」
「ううん。足がつって動けなかっただけ。それに、足場もなかったから……」
回想しながら帽子を抱きしめる力を強めた。
いつ波が来るか予測できない恐怖、のどと肺が水に埋め尽くされていく感覚。
何度足掻いても、状況は良くなるどころか、体力が失われていくだけ。
生きたいという希望が一瞬にして消え去り、絶望に塗り替えられた。
心臓が激しく音を立て始め、顔が青ざめていく。すると、背中に手が回り、そっと抱き寄せられた。
「……怖かったよね。でももう大丈夫」
小さな子どもをあやすように、背中をトントンしつつ擦ってくれた。
高台で号泣した時は壊れ物を扱うみたいな手つきだったけど、今はしっかり擦られていて、手のひらの温かさがハッキリと伝わってくる。
じわじわと涙が込み上げてきて、こぼれ落ちないように唇を噛みしめた。
「……あっ、ごめん」
その優しさに甘えたくなって自分も背中に手を回そうとしたのだけれど、惜しくも体が離れてしまった。
「いきなり、嫌だったよね」
「ううんっ。全然……」
そんなことないよ。そう小さな声で付け足すも、視線は彼ではなく帽子に。
おかしいな。高台で見つめられた時は安心感で満たされていたのに。今は胸がドキドキしてて、顔を合わせないで済むハグのほうがマシだと感じてしまっている。
とはいえ、ずっと俯いたままなのは失礼なので、恐る恐る顔を上げた。
「あの、助かったってことは、何か措置したんだよね?」
「うん。心肺蘇生して、水吐き出させたよ」
叱られた子供が親に向けるような眼差しでぎこちなく尋ねた私に、凪くんはすんなり答えた。
全く動揺しない堂々とした姿。いかに自分が自意識過剰で異性慣れしていないということを思い知る。
心肺蘇生って、心臓マッサージをして人工呼吸をするやつだったよね。
意識が飛ぶ直前、唇に何か温かいものが触れていたような気がしたから、もしかして……。
「……ちょっと、どこ触ってるの」
ハッと我に返り、口元に当てていた手を急いで離した。
「もう、こっちは必死で救助してたっていうのに」
「ううっ、すみませんっ」
ジリジリと凪くんとの距離が縮まる。近づいてくるジト目から逃れようと、帽子でガードするも……。
「そんな純情乙女みたいな反応されるとは思わなかったよ」
あっけなくひょいと取り上げられてしまい、熱くなった頬を両手で挟まれた。
「本当にピュアだねぇ、一花ちゃんは。もう笑っちゃうくらいピュアだよ」
「は、放してよっ」
「将来悪い男に引っかからないか心配だなぁ」
「かからないよっ。弟いるし、男の性質には詳しいほうなんだからっ」
「へぇ〜。じゃあどうして今お顔がりんごみたいに真っ赤なんですかー?」
「うっ、それは……」
指先を当てたままくるくる回して感触を楽しむ凪くん。海辺でからかってきた時と同じ、いたずらっ子みたいな笑顔を浮かべている。
何が『引っかからないか心配だなぁ』だ!
年上の余裕をこれでもかってほど見せつけて、人生経験が少ない年下の心を弄んで! 凪くんが現時点で1番悪い男だよ!
「答えられないってことは、つまり」
「違う! 別に凪くんにドキドキしてるわけじゃないから!」
「……俺まだ何も言ってないんだけど」
「…………」
黙り込むと、目の前の彼からふふふっと笑い声が漏れた。
焦ったがゆえに墓穴を掘ってしまった……。