◇
「お待たせしました」
会計を済ませ、凪くんがいるタオル売り場に向かった。
「おっ、買えたみたいだね。で、結局どっちにしたの?」
「……ワンピース」
先ほどの彼と同じくらいの声量で返事をすると、やっぱりかと言わんばかりにふふっと笑われた。
「笑わないでよ……っ。凪くんは男の子で細いから分からないだろうけど、こっちは真剣なんだから……っ」
大声で言い放ちたい気持ちを抑え、震える声で言い返した。
楓に指摘されて、智には馬鹿にされて。クラスメイト数人にも、『少しふっくらした?』と突っ込まれた。
1人ならまだしも、複数人が口を揃えて言ったんだ。相当変わったんだと思う。
「ごめんっ。そんなに悩んでたなんて知らなかった」
普段と違う雰囲気に焦ったのか、慌てて謝ってきた。
「家と学校で、何度も似たようなこと聞かされてたから、今回もそうなのかなって……。本当にごめん!」
今度は腰を直角に曲げて頭を下げてきた。
……私、何やってるんだろう。毎日時間を作って会ってくれる人に、お店の中で謝らせて。しかも悲しい顔にまでさせて。
悪いのは笑った凪くんだけど、元は私が執拗に意見を求めたせいじゃないか。
「……私こそ、しつこく聞いてごめんなさい。家族って、お姉さん? 妹さん?」
「姉ちゃん。一花ちゃんと同じで、体型を気にしててさ」
初めて聞いた、彼の家庭事情。3人姉弟の末っ子で、お姉さんの愚痴を1個上のお兄さんと一緒に聞いていたらしい。
「可愛い服を見つけても、毎回『体型カバーできないから私には無理』って言ってて。着たいのに我慢して、それで人生楽しいのかなって思ってた」
「そうだったんだ……」
優しい凪くんにしては少し鋭い言い方だが、的を射ている。
我慢ばかりの人生なんて、楽しくないし苦しいだけ。でも、大人になったら我慢する場面も増えるだろうから、そういう時こそ自分を大切にしないと。
あれもこれもって、関係ないことにまで蓋をして、心の奥底に沈めちゃったら……。
「あとは、同じ部活の人かな」
ハッと我に返り、巡らせていた思考を止めた。
「へぇ、部活してたんだ。何部?」
「水泳部と美術部。姉ちゃんよりも、こっちのほうが酷かったかも。耳にたこができるくらい毎週聞いてたから」
かけ持ちしていることをサラッと言ってのけた凪くん。
そういえば、将来の夢も、水と絵に関する仕事って言ってたっけ。
「なんて俺も、昔は体型気にしてたんだけどね」
「太ってたの?」
「ううん、逆。今より痩せててさ。同級生からずっとからわれて、それが嫌で水泳始めたんだよ」
再びサラリと言ってのけた。
顔に加え、体型コンプレックス持ち。タイプは違えど、私と同じだ。
ちょっと待って。だとしたら私、さっき感情に任せてとんでもなく酷いことを……。
「ごめんなさいっ。私、全然知らなくて……」
「いや、別に謝ってほしいわけじゃなくて。俺が言いたかったのは、周りの目や野次を気にしすぎないでってこと」
優しく諭す声が聞こえてゆっくり顔を上げる。
「それで自分のしたいことを諦めるの、すごくもったいないよ。話戻るけど、人に迷惑をかけない程度なら、好きな服を着ていいと思う。あれこれ囚われすぎてたら、心の健康にも悪いよ」
枕を見つめていた時と同じ、真剣な眼差し。
『もうやだ……っ、帰りたい』
心の健康と聞いて、以前自分が苦しまぎれに吐いた弱音が脳内をよぎった。
さっきの人生の話も腑に落ちたし、今だって、心に響くどころか、核心を何度も突かれて動揺している。
「あっ、ごめん。つい熱く……」
「ううん。……もしかして、過去に何かあった?」
恐る恐る尋ねると、目を伏せて静かに頷いた。
「俺も、周りの声に囚われてた時期があって。今の一花ちゃんが、その時の自分と似てたから……」
……そりゃそうだ。SNSでは、投稿する度に称賛される、輝かしいインフルエンサー。
だけど……中身は私と同じ、10代の高校生だもんね。
「マジごめん。せっかく遊びに来たのに、空気重くなっちゃった」
「ううん! 励ましてくれてありがとう」
女の子の扱いに長けている反面、ちょっぴり不器用なところがあったり。絵のモデルをすんなり引き受けてくれたと思いきや、苦悩を抱えていたり。
彼の人間らしい部分に触れて、ほんの少し、心の距離が縮まった気がした。
◇
気を取り直してネタ探し再開。2階をぐるりと回り、エスカレーターで1階へ。
父と智がいないかを時折確認しつつ、化粧品売り場や専門店をチェックした。
「一通り回ったし、少し休憩しようか」
「そうだね。じゃあ、そこのカフェに寄ってもいい?」
「うん。いいよ」
小腹も空いてきたので、休憩を挟むことに。イベント広場の近くにあるカフェに入った。
「凪くんは何も頼まなくていいの?」
「うん。そこまでお腹空いてないから」
チーズケーキとココアを注文した私に対して、凪くんは何も買わず。
冷房が効いてるとはいえども、今は真夏。室内でも熱中症になるって話、よく聞くし。何も飲まなくて平気なのかな……。
チーズケーキとココアを受け取って奥に進み、2人がけの席に座った。
「いただきます」
手を合わせて小さな声で挨拶し、チーズケーキを口に運ぶ。
ん〜! しっとりしてて濃密! 最近はダイエットのために控えてたけど、宿題頑張ってるし、今日くらいはいいよね!
味わっていると、凪くんが頬杖をついてクスクス笑い始めた。
「な、何?」
「幸せそうに食べるなぁって」
フォークをケーキに刺す手が止まり、カーッと顔の熱が急上昇する。
私の馬鹿……! いくら空腹だからって人前でがっつきすぎだよ……!
「まじまじと見ないでよ……」
「ごめんごめん。じゃあこれならいい?」
「いや、逆に食べづらいよ」
その場で目を閉じた彼にツッコミを入れた。
今日の今日まで、真面目で真っ直ぐな人かと思ってたけど、意外にもお茶目で可愛げのある人だったんだな。なんて言ったら、またムキになって怒ってきそうだから胸の中に秘めておくけど。
「……あ、写真撮ってなかった」
半分食べたところで、絵日記用の写真を撮るのを忘れていたことに気づいた。
スマホのカメラを起動し、お皿とフォーク、マグカップの位置を調整して1枚撮影。
お店のライトがいい感じに当たって、食べかけだけどオシャレな雰囲気が出てる。秋服の次はこれを描こうかな。
「……それ、SNSに載せるの?」
撮った写真を確認していると、凪くんが神妙な面持ちで尋ねてきた。
「しないよ。最近は宿題に集中するためにやめてるから」
「そう……」
安堵したような反応を見せるも、表情には影が落ちたまま。
どうしたんだろう……? さっきまで楽しそうに笑ってたのに。落差激しくない?
「どこか具合悪い?」
「あぁいや。ファンにバレそうになった時のことを思い出して」
そうだった。凪くんは以前、このショッピングモールでファンと鉢合わせちゃったんだった。
笑顔が消えるくらい、深刻な顔になるということは……。
「もしかして……その現場って、ここ?」
「……うん。ちょうど一花ちゃんが座ってる場所。そこで写真撮ってSNSに載せたら、女の子2人組に声をかけられたんだ」
恐る恐る尋ねてみたら、まさかのビンゴ。
私、バレそうになった時の状況を丸々再現してたの⁉
彼のアカウントにアクセスし、当時の投稿写真を元に詳しく話を聞かせてもらう。
「あっ、これだよ」
スクロールする指を止めて、彼が指差した写真をタップした。
投稿日時は1年前の夏。写っているのは、美味しそうなフルーツサンドとコーヒー。
一見、なんの変哲もない写真に見えるけれど……。
「このフルーツサンド、ご当地限定のメニューでさ」
「ご当地⁉ でも、お店なら沢山あるんじゃ……」
「うん。だけど、その中でも販売店舗が限られてたんだよ。それだけでもかなり範囲は絞られるのに……俺、リアルタイムで投稿して……」
全身の皮膚がゾクッと粟立った。
写真の下には【おやつなう】の文字。つまり、『今ここにいます』と全世界に発信しているようなもの。顔出ししてなくても、声をかけられる恐れは充分ある。
怖くなり、急いで画面をトップページに戻した。
「位置情報は付いてなかったんだよね?」
「うん。だからケーキの情報だけで特定したんだと思う。声かけられた時はマジでビビった。心臓破裂するんじゃないかってくらいバクバクして。なんとか平然を装ったからバレずに済んだけど、もし……」
「やめて、それ以上はやめて」
思わず彼の口を塞いでしまいたくなるほど、当事者でない私でさえ、恐怖で心臓が嫌な音を立てている。
ここで顔写真撮られてたらって考えると……。ダメだ、これ以上の想像は無理。とにかく、凪くんが無事で本当に良かった。
「これがきっかけで、場所が一発で分かるような写真は載せなくなった。景色の写真とかも、少し日を置いて投稿したり、特徴のある建物が写らないようにして……。徐々に外の写真を減らしていったよ」
切ない眼差しで写真を眺めている。
言われてみれば、こうやって振り返ると、秋から冬にかけて絵の写真のほうが若干多い。これも、彼女達に勘づかれないため……だったのかな。
「一花ちゃんは8割方食べ物と絵の写真だけど、景色の写真も昔載せてたよね? 三日月のやつ。あれはそこまで問題はないとは思うけど、今後もし載せるならマジで気をつけてね」
「きっ、気をつけます……っ」
恐怖が収まらず、震え声で返事をした。
SNSやネットの使い方は、始める前に家族と先生に教えてもらっていた。けど、言葉の重みは圧倒的に凪くんのほうが上。
思い出したくないはずなのに、私のために……。
──ピンポンパンポーン。
すると、午後4時を知らせる館内放送が流れてきた。
「わっ、もうこんな時間か。あとはどこか見たいところある?」
「食料品売り場。長寿のお祝い用に買いたいのがあって」
「了解。まだ時間あるし、ゆっくりでいいからね」
昨日と一昨日に引き続き、またも胸の内を読み取られてしまった。
本音を言うと、もう少し2人でゆっくり話したい。でも、いい思い出がない場所に長時間居座らせたくない。気遣いは嬉しいけど、ごめんね。
謝罪を含んだ眼差しで頷き、残ったケーキを丸々口の中に放り込んだ。
◇
「本当に何も飲まなくて良かったの?」
「うん。ここに来る前に味噌汁飲んできたから」
カフェを後にして食料品売り場へ向かう。
何も注文しなかった凪くんがどうしても気になって聞いてみたら……味噌汁って。塩分補給にはなるけど、結構歩き回ったし、のどは渇いているはず。
「それだけで足りる? もしかして金欠なの?」
「…………」
冗談半分で口にすると、視線を逸らしてあからさまに黙り込んだ。
「えっ……まさか図星?」
「……そうだよ。昔から、お小遣いは全部趣味につぎ込んでて。だから万年金欠」
毎月お小遣い帳をつけて管理してるタイプかと思ってたら、万年だって⁉ 絵関連の本とか、画材を爆買いしてたとか? あれだけ沢山描くならすぐ切らしちゃいそうだし。
凪くんの真面目で優等生なイメージが、この数時間でどんどん覆ってる。
言い方は失礼だけど……見掛け倒しも遺伝するのかな。
意外なギャップに驚きつつ歩くこと数分。食料品売り場に到着した。
「桃?」
「うん。せっかくなら、白寿のお祝いも一緒にしようかなって」
青果売り場に向かい、桃を1つ手に取った。
百寿も白寿も、数え年で祝うのが基本だけど、最近は満年齢で祝うのも増えているとのこと。
それならどっちも重なるし、一緒にお祝いしちゃおうと思ったんだ。
数分間吟味し、全体的に色が濃い物を選んだ。
「見つかって良かったね。他にも何か買うの?」
「うん。あとはね……」
奥に進みながら隣を見ると、凪くんの視線が私ではなく桃に向いていた。
「凪、くん?」
「あ、ごめん。桃見てたら、犬に食べられたの思い出しちゃってさ」
思わず足を止めて目を見開いた。
「い、犬に?」
「うん。他にも、バナナとメロンと、昨日はスイカも食べられちゃったんだよ」
油断していたら、3つのうち2つを食い散らかされてしまったらしい。
ジョニーも食いしん坊なほうではあるけど、人の物を盗るほどがめつくはない。相当食い意地が張ってるんだなぁ……。
「災難だったね……。しつけはされてるの?」
「多分。ひいじいちゃんとばあちゃんの言うことは聞いてるから。でも、時々くっついてくる時もあるんだよ」
笑顔を見せているが、瞳は切なさの色が抜けていない。
……多分それ、ナメられてるか、単にツンデレかのどっちかだと思うよ。教えてあげたいけど、ショック受けちゃうかな。
「明日から俺1人で面倒見なきゃいけないから、ちょっと心配なんだよね」
「えっ、おばあさん達いないの?」
「うん。旅行に行くんだって」
どうやら数日間、お盆期間を利用した旅行に行くという。
話を聞く限り、問題児はその子だけで、他の2匹は大丈夫みたい。だとしても、1人で3匹のお世話は大変そう。
調べたら、柴犬もスピッツと同じく中型犬。例えるなら、シロくんが3匹いるようなもの。お散歩するだけで疲れそう……。
「なら、明日会うの、難しいかな?」
「大丈夫。お留守番はできるみたいだからいつも通り会えるよ。水着買ったなら、海水浴でもする?」
「本当? やった!」
小さな声で小さくガッツポーズ。
2人で海水浴。水着姿を拝めるのかぁ。って、私ったら何を考えてるんだ。本人がいる前で妄想を繰り広げるんじゃないよ!
「あれ? 一花?」
すると、後ろで今1番会いたくなかった人物の声が聞こえた。
「なんだ、お前もここにいたんだ。買い物?」
「まぁ、ね」
「ふーん。今ちょうど母さんもあっちで買い物してるから、終わったら来いよ」
「う、うんっ」
去っていく背中を眺めながら、安堵の溜め息をつく。
「もう大丈夫だよ」
呼びかけると、積み上げられたトイレットペーパーの陰から凪くんがひょこっと顔を出した。
「バレなかった?」
「ギリギリセーフ」
危なかった。あのまま先に進んでたら確実に見つかってた。ありがとう、フルーツ大好きながめついワンちゃん。
「良かった。人も多くなってきたし、この辺で解散する? 伯母さんが買い物してるなら、もうすぐ帰る時間だろうし」
「うん、そうする」
名残惜しいが、智がここにいるのなら、父も来ている可能性は充分ある。これ以上行動を共にするのは危ない。
提案を呑み、予定より少し早めに解散した。
「よっこらせっと」
買い物を済ませて帰宅し、別室に荷物を置いた。
一時はどうなるかと心配してたけど、無事に終わって良かった。
買った水着を取り出して体に当ててみる。
セパレートも可愛かったけど、こっちを選んで正解だったかも。露出が少ないから日焼けしにくそうだし。明日はこの上にパーカーを羽織っていこうかな。
──ガチャッ。
「あ、いたいた」
鼻歌を歌いながらしまっていると、いきなり部屋のドアが開き、肩をビクッと揺らした。
ノックもなしに入ってくる人物は、この家の中でたった1人しかいない。
「ビックリした……何?」
「ちょっと話があって」
慌てて立ち上がり、智に体を向ける。
いつものおちゃらけた顔ではなく、口を閉じた神妙な面持ち。何か相談事があるのだろうか。
「お前さ……何か俺に隠してるだろ」
私を見据えていた瞳が疑い深い色に変わった。
「えっ……? なんのこと?」
動揺しているのを悟られないよう、とぼけたふりをして聞き返す。
「なんのことって……お前、食料品売り場で会った時、挙動不審だったじゃねーか」
途端に顔全体が硬直し、心臓の音が嫌なリズムを刻み始めた。
焦りが顔に表れたのか、智の表情がより険しい色に。
「車に乗ってる時も、着いて中に入る時も、なーんかそわそわしてたし? 俺が行くって言った時も、あからさまに嫌な顔してたもんな」
「そ、そうだったっけ?」
ジリジリと私のほうに足を進める智。一歩一歩近づくにつれて、こっちも一歩一歩後ずさりする。
やばい、完全に怪しまれてる。
どう切り抜けようか、そう考えているうちに窓にぶつかり、逃げ場がなくなってしまった。
「さてはお前……」
ごくりとつばを飲み込む。あああもう終わりだぁぁ。
「……俺に隠れて、美味いもんでも食おうとしてたな?」
…………え?
「慌てて隠してたけど、俺はこの目でちゃんと見たぞ。お前がめちゃくちゃ美味そうな桃を持っていたところを!」
ビシッと自信満々に指を差した智。
なんだ、そっちか……。
凪くんのことではなかったと分かると、全身に入っていた力がどっと抜けて、その場にへなへなと座り込んだ。
「もう、ビックリさせないでよ。一体何事かと思ったじゃない。普通に聞いてよ」
「だって、こうでもしないと絶対口割らねーと思ったから。丸々1個食うの?」
「なわけないでしょ。あれはひいおばあちゃんにあげるの」
「ひいばあちゃん? 頼まれたの?」
「いや、実は……」
腰を上げて最初から説明した。
「白寿と百寿かぁ。でも、お祝いはもうしたって言ってなかったっけ」
「うん。でも、せっかく来たんだから、やっぱり何かしたいなって」
百寿祝いは来年でもできるけど、白寿祝いは今年しかできない。
来年も必ず帰省するとは限らないし、ひいおばあちゃんも必ず元気でいるとは言い切れない。もし入院しちゃったら、それこそ直接祝えないから。
「なるほど。贈るのは桃だけ?」
「ううん。もう1つある」
外に声が漏れないよう、身を寄せて話し合う。
「分かった。じゃあ準備始める時間になったら目配せで合図な。見張りは任せとけ!」
「ありがとう」
詳細を伝えると、協力してもらえることに。
いたずら好きでお調子者な彼が、この時ばかりはほんの少しだけ頼もしく見えた。
よし、作戦開始だ!
◇
「アハハハハ! こいつ白目剥きすぎだろ〜!」
夕食が終わり、一段落ついた午後6時50分。
テレビに映る犬の寝顔を見て、父が盛大に笑い出した。
「ギャハハ! 口半開き!」
ゲラゲラ笑う声が耳に響いてキンキンする。
うるさいなぁ。そんなに面白いかよ。
と言ってやりたいのだけど、現在父は飲酒中なため、酔っぱらって笑いのツボが浅くなっているのだ。
「ジョニーもこんな風になったりすんの?」
「いやぁ、よだれ垂らしてる時はあるけど、ここまで酷くはないなぁ」
「そうかそうかぁ~。お前はいつも可愛いのかぁ~」
ジョニーの頭をワシャワシャと撫でる父。そんな父を、祖父はお酒片手に微笑ましい顔で見ている。
なぜこうも親子で違うのだろうか……。
「ありゃ、もうなくなったのか。母さーん! まだあるー⁉」
「おい、まだ飲むのか。もうやめときな」
「いいじゃねーかぁ、ちょっとくらい。こういう時しか堪能できねーんだからよぉ」
止める祖父を振り払い、「おーい、母さーん!」と、グラスを持ったまま祖母を呼び続ける。
うるせぇなぁ! この呑んだくれが! そんなに飲みたいなら自分で持ってこいよ! ……って言ってやりたいぃぃ。でも絶対喧嘩になるから言えないぃぃ。くそぉぉ。
「叔父さん! 俺呼んできますよ!」
「お! いいのか⁉ ありがと〜」
不快感丸出しで口を引きつらせていたら、智が手を上げて立ち上がった。
……あぁ、そういうことね。
目配せしてきた彼に続き、自分も腰を上げて祖母と伯母がいる台所へ。
「ねぇ、叔父さんがお酒欲しいって」
「お酒? どれ」
「茶色い瓶のやつ」
「あー、焼酎ね。冷蔵庫にあるから」
伯母の返答を聞き、再度智とアイコンタクト。2人で冷蔵庫の前に移動し、智が焼酎を取る隙に1番上の棚に置いてある白い袋を取った。
よし、まずは第1段階クリア。
「あのっ、洗い物なら、私達がやりましょうか?」
第2段階に進むため、流し台で食器を洗う祖母と伯母に声をかけた。
「あら、優しいねぇ。でも大丈夫よ」
「ええ。もうすぐ終わるし。ほら智、早く持ってってあげて」
やんわりと断られてしまった。
ううっ、どうしよう、これじゃ準備ができない……。
「なんだよ2人して。あのなぁ、俺らは叔父さんの相手をするのが大変だからこっちに来たんだよ」
すると、見かねた智が助け舟を出してくれた。
「持っていったらお酌を頼まれて、そしたらさらに酔いが回って、間違えてお酒勧めてきたらどうするの? 叔父さん、罪に問われちゃうよ?」
重い言葉を使って脅すように説得する智。
酔っ払っているとはいえ、さすがにお酒は勧めないとは思うけど……。
「おーい! まだかーい!」
ドアの向こうから催促する声が聞こえた。
やばい、痺れを切らしてる。これ以上待たせるともっとうるさくなるぞ。
「俺まだピチピチの高校生なのに、酔っぱらいの相手なんてしたくないよぉ〜」
「あぁもう分かったから! 分かったから静かにして」
泣き落とし攻撃が効いたのか、ようやく折れてくれた。良かった。これで準備に専念できる。
焼酎を伯母にバトンタッチ。台所を後にする2人を笑顔で見送った。
「ありがとう」
「別に。てか、なんかごめん。ちょっと言いすぎた」
「ううん。本当のことだし。じゃあ、早速始めますか!」
襖が閉まる音を確認して、急いで作業に取りかかる。
まずは食器棚に隠しておいた桃を取り、皮を剥いてザクザクと一口大に切っていく。お皿に盛りつけたら、次はメイン料理へ。
「白ゴマと醤油取って」
「ええー、どこ?」
「電子レンジの横」
豆腐の包装を剥ぎながら、洗い物を終えた智に指示を出す。
見て分かる通り、白寿と百寿祝いは、桃と豆腐料理。
何が好きかこっそり観察してたんだけど、野菜もお肉もまんべんなく食べていて。聞いたら、特に好き嫌いはないとのこと。
悩んだあげく、お年寄りでも食べやすい柔らかい物を贈ることにしたのだ。
テーマカラーにも合ってるし、我ながらいいチョイスだと思う。
お皿に出した豆腐の上にかき混ぜた納豆を乗せ、その上にネギと白ゴマ、醤油をトッピング。最後に祝のマークを書いた旗を挿した。
「よし! 完成!」
「おおー! 美味そう! あっ、この旗って、もしかしてひいばあちゃん?」
「うんっ」
この旗は手作り。特別感を出そうと思い、裏に似顔絵を描いたのだ。
おぼんに移し、絵日記用と記念用に写真撮影。スプーンとフォークを添えて居間へ向かう。
この系統の料理は初めて作ったんだよね。お口に合うといいな。
心の中でそう願い、智の後に続いて中に入る。
「ただいまー」
「おー! 智くん! おかえり!」
入って早々、1番に反応した父。智の背中越しに覗くと、赤らんだ顔が見えた。
うわぁ、めちゃめちゃ酔っぱらってる。久々に実家に帰ったからって気緩みすぎ。明日は二日酔い確定だな。
「……ん? なんか変な匂いがするぞ?」
苦笑いしていると、眉間にシワを寄せて鼻息を鳴らし始めた。
なんでこんな時に限って嗅覚が敏感になるんだよ。隣にいるジョニーよりもうるさいんですけど。
ざわつく中、隠し通すのは時間の問題だと感じ、腹をくくって前に出ることに。
「わぁ! 美味しそう!」
「あら! 一花ちゃんが作ったの?」
「おお、よくできてるねぇ」
「もしかして、変な匂いってそれか⁉」
部屋のあちこちから声が飛び交う。
肝心のひいおばあちゃんはというと……む、無反応……。だけど、私達を真っ直ぐ見据えている。
智と再度目配せし、旗に描いた絵を見せるようにおぼんを横に回す。
「ひいおばあちゃん、白寿と百寿、おめでとう……っ!」
深呼吸をした後、意を決して言い放った。
しかし……なぜか全員、目を丸くして固まっている。
サプライズだからビックリするのは当然なんだけど……いくらなんでも驚きすぎじゃない?
一瞬にして静寂に包まれた空気に困惑しつつも、奥にいる曾祖母の元へ。
「あの……改めて、白寿と百寿、おめで──」
「一花」
床に膝をついて言いかけたその時、私の声を遮るように誰かが名前を呼んだ。
「下げなさい」
声の主を探るように顔を動かすと、祖父の隣に座っている父と目が合った。
「えっ……なんで」
「いいから早く下げなさい」
耳をつんざくような声から一変した低い声。顔も、頬は赤らんでいるものの、陽気さは全くなく、目つきも鋭い。
その変貌ぶりは、ほんの数十秒前まで酔っぱらっていたとは思えないほど。
そんなに匂いきつかった……? だとしても、そこまで怒ること?
「…………だよ」
「えっ?」
「なんで黙ってんだよ‼」
蛇に睨まれた蛙のように身を縮こませて原因を考えていると、突然父が怒鳴り声を上げた。至近距離だったのもあり、全身が大きく跳ね上がる。
「父さんも、母さんも、姉ちゃんも、なんで……っ!」
「クニユキっ! やめんか!」
「ばあちゃんも……っ! なんで黙ってんだよ‼」
父の手に握られていたグラスがテーブルに強く叩きつけられ、その衝撃でパリンと破片が飛び散った。
「クニユキ‼ いい加減にしろ‼」
「叔父さん! 落ち着いて!」
慌てて祖父と智が仲裁に入るも、酔いが回ってタガが外れているからか、なかなか収まらず。辺り構わず怒鳴り散らしている。
これまでの人生の中で、酔っぱらっている姿は数えきれないほど見てきた。
だけど……。
「うわっ、ちょっ、やめろ! お前に何が分かるっ!」
体当たりして仲裁に入ったジョニーにまで怒号が飛び、おぼんを持つ手がカタカタと震える。
吐き出される暴言、真っ赤になった目。
私の知っている父の姿はどこにもいなくて、恐怖で足がすくんで動かない。
「──……ちゃん、一花ちゃん」
肩を叩かれて我に返ると、祖母が隣にいるのに気づいた。
「危ないから、一旦避難しましょう」
手にはビニール袋と小さなちりとりセット。私が呆然としている間に片づけたらしい。ふと前を見たら、伯母も曾祖母に寄り添っていた。
刺激しないように、目を合わせないように。
祖母に背中を擦られながら、ゆっくりと立ち上がる。
「おいどこへ行く! 話はまだ終わってねーぞ!」
しかし、相当頭にきていたようで、そう簡単にはいかなかった。
制止する声に足を止めた時、既におぼんには父の手が伸びていて──。
──ガシャン!
綺麗になったテーブルの上に、おぼんと2つの器がひっくり返って落ちた。
醤油で浸されていく旗を目にした瞬間、抑え込んでいた感情が溢れ、視界が滲んでいく。
もう、ダメだ……っ。
「一花ちゃん!」
「一花っ!」
涙を浮かべたまま逃げるように居間を後にし、そのまま家を飛び出した。
夕焼け空の下、無我夢中で走り続け、気づいたら海にたどり着いていた。高台の上から海岸を見下ろす。
夕日に反射して輝くオレンジ色の海面。朝も同系色だったけど、この時間帯は心が落ち着くような温かい色合いをしている。
「さ、そろそろ帰るよ」
「やだーっ、まだ遊ぶーっ」
ぼんやり眺めていると、小さな女の子が駄々をこねて父親の腕を引っ張っているのを見つけた。
微笑ましい光景に顔をほころばせる。と同時に、収まっていた涙がまた出てきた。
……何か、間違えてたのかな。
ふさわしくない食べ物を選んでしまってた? もしかして、まだ祝う時じゃなかったとか?
だとしても、あんなに怒らなくても……っ。
「あれ……? 一花ちゃん?」
手で涙を拭っていると、聞き覚えのある優しい声が私の名前を呼んだ。
滲む視界の中で動く白いアロハシャツ。誰だかすぐに分かってしまった。
「どうしたの……⁉ どこか具合悪い⁉」
首を激しく横に振って否定する。
大袈裟なくらい振るのは、顔を覗き込まれているから。
目が合ったら、それだけでまた涙が溢れ出してしまいそうだから。
こんなぐしゃぐしゃで汚い顔、凪くんに見られたくない。
なのに──。
「一花っ、俺の顔見て」
不意打ちで再び名前を呼ばれて、目を合わせてしまった。
「何があったの……?」
一昨日にも向けられた、吸い込まれそうな眼差し。それは、私の涙腺を崩壊させる、安心感をまとった優しい眼差し。
凪くんの馬鹿……っ。女兄弟がいるくせに、どうして女心が分からないの……っ。
再度涙が頬を伝う。咄嗟に俯くと、背中を擦られているのを感じた。
触れているのか分からないくらいの、かすかな感覚。
それが凪くんの手だと分かると、さらに涙が溢れ出してきて。
口を手のひらで覆って嗚咽を漏らしたのだった。
◇
「少し、落ち着いた?」
「うん。ありがとう」
ひとしきり泣いた後、近くの階段に腰を下ろした。
すっかり日が沈み、オレンジ色に染まっていた雲は東の空に消え、入れ替わるように夜が徐々に顔を出し始めている。
今日は満月だったっけ。もうすぐあの空からお月様が出てくるのかな。
ブーッ、ブーッ。
空を眺めていると、ポケットに入れたスマホが振動し始めた。
「……出なくて、いいの?」
「うん」
画面に表示された名前を見た瞬間、着信拒否ボタンを押して、再びポケットの中へ。
酔っぱらった人間なんかと電話なんてしたくない。
「一花ちゃん」
「ん?」
「……もしかして、家族と喧嘩した?」
「…………うん」
号泣した原因をピンポイントで当てられた。
やっぱりこの人、読心術習ってるんじゃない? いや、さっきのでなんとなく察しがついたのかも。
「……長寿祝いのことで、お父さんと喧嘩したんだ」
涙が収まるまで傍にいてくれた彼に、小一時間ほど前に起こった出来事を簡潔に話した。
「コップが割れるって……大丈夫だった? 怪我してない?」
「大丈夫。……まぁ、心は粉々になってるけどね」
自虐的に笑って返したけれど、笑えるレベルではなかったようで。本当に心が壊れたのではないかと、逆に心配させてしまった。
「酔ってたとはいえ、その怒り方は尋常じゃないね……」
「だよね? 匂いがきつかったのかな……」
「いや、他の原因だと思うよ。だってジョニーくんがいるんだよ? 匂いに敏感になってたら、出す以前にジョニーくんに怒ってただろうし」
力強く言われて、確かになと納得する。
言われてみれば、私が準備する前から戯れていた。あの時点で結構酔いが回ってたし、匂いに敏感になってたらスキンシップでさえ拒むはずだ。
じゃあ凪くんの言うように、他に原因が……?
「もしかしたら、アレルギーがあったとかは?」
頭を捻っていると、凪くんが仮説を立てた。
「食物アレルギーのこと?」
「そう。一花ちゃんが作った料理の中に、体質的に食べられない物があったのかも」
記憶をたどり、食材を1つずつ確認する。
豆腐、納豆、ネギ、ゴマ、醤油、桃。うーん、どれも特に思い当たる節はないなぁ。
「特には……。仮にあったとしても、あそこまで怒る必要は……」
「いや怒るよ!」
柔らかい口調から一変、眉毛を吊り上げて反論してきた。
「俺、納豆アレルギー持ってて、それで1回、病院に運ばれたことがあったんだ」
「えっ⁉ そんなに酷かったの⁉」
「うん。俺は吐いただけで済んだけど、場合によっては命に関わるんだよ」
アレルギーの恐ろしさを知り、もう1度振り返る。
えっと、豆腐と醤油は大豆だから……だとすると、可能性があるのは5つくらい?
でも……それなら来た時点で伝えるはずだよね? だって私、毎日ご飯作りを手伝ってるんだもん。命に関わるのならなおさらだ。
「いや、ないと思う。あるなら事前に知らせてるはずだから」
「そっか……」
解決の兆しが見えたかと思いきや、振り出しに戻ってしまった。じゃああとは何が残ってるんだ……?
「……もしかしたら、食材じゃなくて、お祝い自体がダメだったのかも」
1から思考を巡らせていると、再び彼の口から新たな仮説が飛び出した。
「お祝い自体? どういうこと?」
「例えば、祝っちゃいけない時期だったとか。ここ1年間で、身内に不幸はなかった?」
頭の中に去年のカレンダーを思い浮かべ、1ヶ月ずつめくっていく。
ここ1年間は……なかったよね? 伯父さんから喪中葉書が届いたことはあったけど、中2の時だったから当てはまらない。お母さんの親戚も、誰かが亡くなったって話は聞いてないし。
みんな生きてるから違うはず──。
「……あ」
残り1ヶ月に差しかかった時、ふと思い出した。
「心当たり……ある?」
「……うん」
勉強はどうだの宿題はどうだの、毎日同じことを言われ続けていたから、日常化してすっかり忘れていた。
私の家は、いつも家族全員で食卓を囲んでいる。だけど先月、父だけが先に食べていた日があった。
確かあの日のお父さん、スーツじゃなくて喪服を着ていた気が……。
「でも、私もお母さんも、お葬式に出てないよ?」
「なら、遠い親戚なのかも。田舎は風習を大事にしてるイメージがあるから、それで過敏に反応したんじゃないかな」
全身の血の気が引き、体温が急低下していく。
そんな……っ、もしそうだとしたら、私、なんて不謹慎なことを……っ。
「どうしよう……」
「大丈夫だよ。身内って知らなかったんだから。それに何も聞かされてなかったんだし。話せば許してくれるよ」
優しく励ます凪くん。それでも、軽率な行動をしたことには変わりない。
私のせいで、家がめちゃくちゃになってしまって……ごめんなさい……。
「一花ぁーっ!」
自責の念に駆られていると、遠くで父の声がした。電話を無視したからか、捜しにきたのだろう。
「ほら、呼んでるよ。行こう」
「でも……っ」
「気持ちは分かるけど、ずっとここにいるわけにもいかないでしょ?」
戻るように促され、重い腰を上げる。
申し訳なさすぎて、合わせる顔がない。
しかし、時刻はもうすぐ8時。帰らなかったらそれこそ心配をかけてしまう。
高台に戻り、向かい合わせになる。
「じゃあ、俺そろそろ行くね」
「うん。ありがとう」
お礼を言い、「また明日」と手を振って彼を見送った。
本当は一緒にいてほしかった。
けど……こんな夜に、見知らぬ男の人と2人でいるところを見られたら、ますます逆上しそうだから。
私が怒られないように、悲しまないように、気持ちを汲み取ってくれたんだよね。
「ありがとう……」
暗闇に消えていく彼に向かってポツリと呟いた。
「一花……っ!」
その直後、後ろで先ほどよりも鮮明な父の声が聞こえた。
「バカっ! なんで電話出ないんだ!」
「……酔っぱらってる人と話したくなかったから」
抑揚のない淡々とした声で返答した。
膝に手をついてゼェハァと息切れする様子から、相当走り回ったんだと見て取れる。
ここで「この呑んだくれ親父が」とか、「父親失格」とか言って、冷たく突き放すこともできるけど……。
「……ごめん」
謝ろうとした矢先、先に父が口を開いた。
「いきなり怒鳴って、暴れて、皿までひっくり返して……怖い思いさせて、本当に悪かった」
顔はまだほんのり赤いものの、呂律は正常通り。だいぶ酔いは覚めてるみたいなので、反抗するのはやめておいた。
「……なんで怒ったの?」
「先月に、親戚が亡くなって……まだ1ヶ月しか経ってないもんだから、祝い事は控えようと話し合ってたんだ」
声を詰まらせながら言葉を紡いだ父。
やっぱりそうだったんだ……。1ヶ月なら49日もまだだもんね。
「……そっか。私こそ、おじいちゃんに今年はもうしないって言われてたのに……ごめんなさい」
事情を聞き、自分の非を謝罪した。
父がしたことは、決して親としてふさわしいとは言えない言動だった。だけど、火種を生んだのは私だ。
私が素直に言うことを聞いていれば、ここまで大事には発展はしなかった。
被害を受けたのは私のほうだけど、それだけで父だけを責めていい理由にはならない。
「いや……そもそもお父さんがきちんと説明しなかったのが悪いし……」
「じゃあ……おあいこ?」
「一花がいいなら……」
これ以上謝罪大会を続けるとらちが明かないので、お互い様ということで落ち着いた。
海に別れを告げ、真っ暗になった住宅街を歩いて帰路に就く。
「ただいま」
「一花ちゃん……!」
曇りガラスの引き戸を開けて中に入ると、待ってましたと言わんばかりにみんながバタバタと走ってやってきた。
「無事で良かった……っ!」
「心配かけて、ごめんなさい……っ」
上では祖母に抱きしめられて、下ではジョニーが顔を腕にこすりつけていて。温もりを感じてじわっと目頭が熱くなった。
そのまま祖母に手を引かれて居間へ向かう。
「あら、おかえり」
「た、ただいま……」
襖を開けるやいなや、曾祖母が和やかな笑顔で迎えてくれた。
ん……?
テーブルに置かれたお皿が視界に入り、目を凝らす。
これは、豆腐と桃……?
「片づけようとしたら、『まだ食べてないから』って、素手で掴んで食べ始めてね。新しい器と交換して出したの」
入口で立ち尽くす私に説明する祖母。近づくと、曾祖母の手元に一部分が茶色く染まった小さな旗が置かれている。
「一花ちゃん、ありがとねぇ。すごく美味しいよ」
「お口に合って、良かった……っ」
名前を呼ばれた途端、再び涙腺が崩壊。
もう、なんで今日はみんなして、私を何度も泣かせるんだ……っ。
嬉し涙、悲し涙、恐怖の涙。
1年間分の涙を流したんじゃないかってくらい、忘れられない満月の夜を過ごしたのだった。
朝食を終えて一息ついた、土曜日の9時過ぎ。
「おじいちゃん、これはハンドル? 鏡?」
「それはハンドル。鏡はこっち」
「ねぇ、余ったやつでヘルメット作っていい?」
「もちろん。ひいおじいちゃんも喜ぶと思うよ」
祖父と智の3人で居間のテーブルを囲み、組み立てられた爪楊枝と割り箸に、小さく切ったキュウリとナスをくっつける。
今日はお盆初日。なので、曾祖父のために精霊馬と精霊牛を作っているのだ。
「にしても、ひいじいちゃんが原付乗りだったとはな〜」
「意外だよね〜」
相槌を打ちながらハンドル部分に爪楊枝を挿し込む。
今作っているのは原動機付自転車。自動車の運転免許を持ってなかった曾祖父にとって、相棒のような存在だったらしい。
祖父が言うには、長年愛用していたので喜んでもらえるかなと思い、毎年作っているとのこと。
親思いで素敵だなぁと感動したけれど、1つ気になることが。
「でもさ、なんで両方とも原付なの?」
尋ねようとした矢先、まるで私の疑問を代弁するかのように智が口を開いた。
「それは、思い出深いからだよ」
「ええーっ。キュウリで迎えるのって、早く帰ってきますようにって意味だったよね? 遅くならない?」
私の手元にあるキュウリの原付に智の視線が落ちた。
智の言う通り、精霊馬と精霊牛の野菜にはそれぞれ意味がある。
キュウリは『早く帰ってきますように』という願いから、足が速い馬を。
ナスは『ゆっくり帰れますように』という願いから、足が遅い牛に見立てているらしい。
「大丈夫。今日中に着けばいいから」
「そうは言っても……原付って30キロまでしか出せないんでしょ? あと高速道路も走れないって」
「へぇ、そうなんだ。詳しいね」
「兄ちゃんが乗ってるんだよ。ひいじいちゃん、長時間運転できるかなぁ」
ナスをくっつけながら心配する智。
天国から私達がいる世界までどのくらいの距離があるのかは分からないけど、長時間の運転は疲れるよね。ましてやお年寄りに。新幹線や飛行機の座席のほうが足腰に優しいと思うけどなぁ。
「自転車は論外だし、他に運転できるのって戦闘機くらいじゃね?」
「だよね! 思い出深いし速いし!」
目を合わせ、うんうんと頷く。
昔の写真を見せてもらった時に教えてくれた情報によると、若い頃は戦闘機を操縦していたんだとか。
慣れ親しんだ原付もいいかもしれないけど、速度に関しては断然そっちのほうが上だし。何より、愛しの妻と子孫達に早く会えそう。
「戦闘機……確かにそれも思い出深いが、いい思い出と言えるかどうかは……」
2人で話を進めていると、祖父がおもむろに口を開いた。
気まずそうな苦い笑み。その瞬間、私達は失言したことに気づいた。
「ごめん……」
「ごめんなさい……」
「いやいや。おじいちゃんこそ、説明不足でごめんね」
謝罪で返されてしまった。
違うよ。説明不足じゃなくて、私達の想像力がなかっただけ。
よく考えたら、曾祖父が生きていたのは戦時中。軍服を着ていたということは、死と隣り合わせの環境にいたということ。
仲間が負傷した姿や、空に旅立つ姿を見てきたかもしれないのに……。
「……実は、戦闘機を見ると、切ない思い出がよみがえると言われてな。それで迎えるのは複雑だろうと思って原付にしたんだよ」
軽々しく口にしたことを後悔していると、少し目を伏せて語り始めた。
曾祖母と結婚した翌年に入隊した曾祖父。
その凛々しい容貌から、新人の中でも一目置かれていたそうなのだけど、不器用だったせいか、毎日失敗ばかりで上官に怒られていたらしい。
自分には才能がないのではないか。ここにいては足手まといなのではないか。
次第に優秀な同期と比べ始め、しまいには、兵士と名乗る資格なんてないと、自分を責めるようになったのだと。
「毎日怒られるのはつらいね……」
「あぁ。しかも弱音を言えない環境だったから、より苦しかったみたいでな」
みんなが寝静まった頃に声を殺して泣いていて、最初の1年間は毎晩のように枕を濡らしていたのだそう。
写真で見た印象からは想像もつかないけれど、現代なら大学生の年齢。社会人なら1年目や2年目。子供から大人になる時期だもん、不安が募るのも当然だ。
苦悩を抱えながらも、数年間の厳しい訓練に耐え続け、現役生活が終了。家に戻ったが、すぐ召集がかかり、また離れ離れに。
再び訓練を受け続けること数ヶ月──いよいよ戦地に向かう日がやってきた。
切磋琢磨してきた同期達と抱擁を交わし、戦闘機に乗り込んだそうなのだけれど……。
「向かう途中で、エンジントラブルが起きてな……」
飛び立ってわずか数分後、突然エンジンが止まってしまい、海に不時着。全身大怪我を負ったが、高度が低かったことが幸いし、一命を取り留めたのだという。
「どうして止まったの? 変なボタンでも押したとか?」
「いや、それはないと思う。不器用ではあったが、その分人一倍練習していたみたいだから。それに、途中までは飛行できていたし」
「じゃあ、どこかが壊れてたとか?」
「うーん、それも大破したからなんとも……」
原因探しをする智だけど、私は真っ先に心情を考えてしまった。
怖かっただろうなぁ。私だったら死を覚悟して遺書を書くと思う。
でも、ひいおじいちゃんは最後まで諦めなかった。だって、もし諦めてたら陸に墜ちていたかもしれない。
人々を巻き込まないように、迫りくる恐怖と闘いながらハンドルを操縦したのかなと思うと……。
「一花、大丈夫?」
「……うんっ。早く作っちゃおう。今日中に帰ってこれなくなっちゃう」
指で涙を拭い、止めていた手を動かして作業に戻った。
終戦後の話によると、病室で包帯を換えてもらっている最中に上官が訪れて、同期数人が亡くなったと知らされたのだそうだ。
「……一花は、いきなり友達が数人亡くなったって聞かされたら、どんな反応する?」
「んー……まず疑うかな。嘘でしょって」
「俺も。葬式で亡骸を見るまでは信じられないかも」
作り上げた不格好な原付2台を仏壇の下のテーブルに飾る。
『一緒に戦おうと約束したのに破ってしまった』
戦友を失った悲しみから自責の念に駆られ、食事ものどを通らなくなり、退院後も毎週のように通院するばかり。
未来に希望を見出せなくなり、人生を投げ出すことまで考えたらしい。
だけど、後輩、上官、亡き戦友の家族、妻である曾祖母から叱咤激励を受け、彼らの分まで生きることを決意した、と。
お鈴を鳴らして手を合わせる。
最後まで諦めず、生きることを選んでくれてありがとう。そして、命を繋いでくれてありがとう。
沢山ごちそう作って待ってるから、安全運転で帰ってきてね。
心の中で感謝を述べ、写真立ての中の曾祖父に微笑みかけた。
「ふあぁぁぁ〜っ」
その直後、場の空気にそぐわない声が後ろで響いた。
「叔父さん! おはようございます!」
「おお〜っ、智くん。おはよぉ〜」
布団の上であくびをする父に冷めた目を向ける。
仲間のため、家族のため、懸命に生きた祖父の昔話が繰り広げられていたとはつゆ知らず、隣の部屋でぐーすかぐーすか。
お盆初日から二日酔いで寝坊した孫の姿を、曾祖父は今、どんな顔で、どんな気持ちで見ているのだろうか。
「んんっ? なんか美味そうな物飾ってんな〜」
「ダメだよ食べちゃ! ひいおじいちゃんが帰ってこれなくなっちゃう!」
うわぁ最低。悲しむどころかドン引きしたよね。それか呆れたかな。同じ子孫として恥ずかしい。帰ってきたら爪の垢をもらって煎じて飲ませてやりたいよ。
だらしない姿で再びあくびをした父に、「お盆が終わるまでは指一本たりとも触るな」と厳しく釘を刺したのだった。
◇
昼食を挟み、化学のプリントに取り組むこと数時間。
ピピッ、ピピッ。
第2章の最後の問題を解き終えたのとほぼ同時にスマホのアラームが鳴った。宿題と筆記具を片づけて、海水浴に行く準備に取りかかる。
まずは荷物部屋に移動し、昨夜洗濯しておいた水着とパーカーを持ってトイレに駆け込んだ。
着替えた後は忍び足で洗面所に向かい、髪の毛をみつあみに。荷物部屋に戻り、リュックサックと帽子を持って玄関へ。
「あ、一花」
スニーカーを履いていると、背後で若々しい声が響いた。
「また今日もネタ探し?」
「う、うん」
なんで最後の最後で智が出てくるんだよ。外出するのは毎日のことなんだからいちいち声かけんなぁぁ。
笑顔の裏で叫びつつ、そそくさと立ち上がって引き戸に手を伸ばす。
「ふーん、にしては随分オシャレだな。いつもは部屋着なのに」
鋭く棘のある返答が飛んできた。恐る恐る振り向くと、足先から頭まで全身舐め回すように見ている。
こいつの言う通り、初日と昨日を除いた3日間は部屋着で出かけていた。
だけど今は、紺色のパーカーにワンピースタイプの赤い水着。おまけに麦わら帽子には、水着の色とお揃いの花飾り付き。
『前髪切った』『リップの色変えた』などの微々たる変化に鈍い人間でも、これほど系統が違えばさすがに気づくだろう。
帽子の中で冷や汗が伝っているが、突っ込まれることは予想済み。事前に考えておいた台詞を返す。
「昨日、新しいの買ったから、着たくって」
「あー、そういえば何か買ってたな。でも、体型気にしてるわりには露出高くね?」
上手くいったと思いきや、追及されてしまい、またも引き戸を開ける手が止まった。
この野郎……っ、どうして今日に限って……っ!
そんなにスカート穿いてるのが珍しい⁉ 私が悩んでること知ってるならまじまじ見るなよ!
「いいでしょ別にっ。智みたいにいじる人いないんだから。じゃあね」