『もうすぐ始まる夏休み。海水浴に出かける人々も増えるであろう今回は、海に潜む危険について──』
午後9時過ぎ。テレビに釘づけになっている母の目を盗んでキッチンに忍び込んだ。
冷凍庫からバニラ味の棒アイスを取り、そっと封を開けて口に運ぶ。
ん〜! 涼しい部屋で食べるアイスは最高だ!
「ただいまー」
テレビを観ながらむさぼり食っていると、父が帰ってきた。リビングに入るやいなや、真っ黒なジャケットを脱いでエアコンの前へ。
「おかえり。ご飯どうする? 一応、魚は焼いてるけど」
「あー、なら魚だけ。残りは明日の朝に食べる」
テレビ画面がCMに切り替わり、立ち上がった母。その声に父が首だけを動かして返事をした。
アイスを口に詰め込み、何事もなかったかのようにしれっと棒をゴミ箱に捨てる。
小さかったからあっという間に終わっちゃった。もう1本食べようっと。
「ニュースでも見たけど……本当、残念ね」
「あぁ。みんな泣いてた。顔見た途端、泣き崩れてた人もいて……多分友達だろうな」
ネクタイを緩めてシャツをパタパタさせる父。
お葬式って夏場でも長袖なのか。初めて知った。今日みたいに曇ってたらいいけど、晴れだったら汗だくになりそう。
話に夢中になっている隙を見て冷蔵庫の前に移動した。次はチョコ味にしようかな。
「一花、もうやめなさい。お腹壊すよ」
「うっ……」
アイスを取り出したその時、母の低い声が飛んできた。ゆっくり開けたけれど、わずかな音で気づかれてしまったようだ。
くっ、あと少しだったのに。というかさっき食べてたのもバレてたなんて。お母さんの地獄耳め!
「お風呂上がったよ〜。ああっ! アイス!」
すると、首にタオルをかけた4歳下の弟の楓がやってきた。
「嘘だろ⁉ 俺まだ1本も食べてねーのに! 食い尽くしてねーだろうな⁉」
「してないってば……」
柔らかい声色から一変、私を押しのけて冷凍庫を開け、血眼になって確認し始めた。
いくら好物だからって、全部食べるわけないでしょう。
「バニラが1本減ってる! お風呂入る前はあったのに! お母さん食べた?」
「ううん。お姉ちゃんがこっそり食べてた」
「ええっ⁉」
目を丸くする楓。その目は、2本目を食べようとしてたのか⁉ という衝撃に満ちている。
「このアイス泥棒め! 食いすぎの罪で逮捕する!」
「うるさいなぁ。そっちだって毎日食べてるでしょ」
「そうだけど、俺は1日1個しか食ってない! 対して姉ちゃんは、季節問わず、見つけたらすぐ食っている!」
ビシッと指を差し、「その数、1週間で平均12個!」と言い放った。逐一数えてたのかよ。
「これだけじゃないぞ! 他にも、プリンやゼリーまで! そんなんだから、お腹プヨンプヨンに……」
言い終わる前にギロッと睨みつけた。
さっきから聞いてりゃあ、食い尽くしてだの、泥棒だの、失礼極まりない言葉を連発しやがって……。
「このクソガキ! レディに向かって失礼でしょ!」
「レディ⁉ 食いしん坊で口が悪いのに⁉」
「口が悪いのはあんたもでしょうが!」
「やめなさい! こんな夜に近所迷惑でしょ!」
ギャーギャー言い合っていると、母の怒号が飛んできた。
お母さんの声のほうが大きいよ。そう返したかったけれど、さらに怒鳴られそうだったのでグッと呑み込む。
先に喧嘩を売ってきたのは楓なのに。
口を尖らせ、アイスを冷凍庫に戻す。
「一花、アイスもいいが、勉強はしたのか? 夏休みの宿題、もう何個かもらってるんだろう?」
冷蔵庫からジュースを取り出す手を止め、眉間にシワを寄せた。
「……誰から聞いたの?」
「職場の先輩。子どもが一花と同じ高校に通ってるって聞いて、教えてもらった。クラスは違うみたいだけどな」
……余計なことを教えやがって。
仲間を見つけて盛り上がったのかもしれないけど、勝手にペラペラ話さないでほしい。
「やってるよ。今、自由研究のテーマ考えてる」
落ち着いた口調で答えるも、湧き上がってきた苛立ちは隠せず。少々乱暴な手つきで冷蔵庫のドアを閉めた。
「そうか。進学校に入ったんだから、ちゃんと計画立ててやるんだぞ」
そう言い残すと、父は洗い物をする母に食器を渡して出ていった。
毎日同じことを何回も。通夜から帰ってきてまで言う言葉かよ。
口を一文字にしてジュースをコップに注ぐ。
うちのお父さんは通る声で、昔からよく目立っていた。
どのくらいかというと、小学生の頃、運動会のリレーで走ってた時、応援する声がハッキリと耳に届いたくらい。
後日、『一花ちゃんのお父さん、パワフルだったね』と、みんなに口を揃えて言われるのが、私の中での毎年恒例行事。
楓が入学してからも熱量は変わらずで……卒業するまで恥ずかしい思いをしたものだ。
それに加えて、性格も竹を割ったようにサバサバ。
本当はガツンと物申してやりたかったのだけど、そうするとお母さんの何倍もの剣幕で返されてしまう。それこそ近所迷惑だ。
夜じゃなかったら遠慮なく言い返してたのに!
湧き上がってきた悔しさをジュースと一緒にのどの奥へ流し込んだ。
◇
「みんな席着いてー。ホームルーム始めるぞー」
学期末の大掃除終了後。教卓で担任の先生が呼びかけた。その声に応えるように、クラスメイト達が次々と着席していく。
「皆さん、1学期お疲れ様でした。入学から数ヶ月経ちましたが、高校生活には慣れましたか?」
「いいえ! 全然! かわちゃん厳しいもん!」
「慣れるどころか疲れてます!」
教室のあちこちから上がる否定の声。自分もうんうんと頷き、彼らに同意した。
かわちゃんこと河原先生は、眼鏡と真っ白なシャツが定番スタイルの数学教師。
この学校の卒業生でもあり、私達生徒と比較的年齢が近いため、親しみを込めてあだ名で呼ばれている。
「綺麗な顔と性格の良さに免じて許すけど、ちょっとテスト多すぎです!」
「特にこないだやった予告なしの小テスト! マジ怖かった!」
「俺ら後輩なんだから、もう少し優しくしてくださいよぉ」
容赦なく率直な意見をぶつけられて、苦笑いしているかわちゃん。
艶々の黒髪と知的な雰囲気に端正な顔立ち。
入学当初は『イケメン教師!』『目の保養!』なんて盛り上がっていたけれど、それは最初の1ヶ月だけ。毎日の宿題と小テストに疲弊して、みんな徐々におとなしくなっていった。
そんな中、先週予告なしでテストした時は大ブーイングだったな。
「明日からの夏休み、くれぐれも、羽目を外しすぎないように。節度を守って楽しんでください」
ぼんやりと回想していると、あっという間に終わりの時間に。委員長の号令に合わせて席を立ち、「さようなら」と挨拶をした。
えーと、まずご飯食べて、休憩したら宿題の計画立て直して……。
「……かわっ、松川っ!」
名前を呼ばれて我に返った瞬間、額にゴンと鈍い音が響き、痛みが走った。
「いったぁ……」
「大丈夫⁉ 怪我はないか⁉」
「はい……」
目の前にあったのはドア、左には壁、右を見れば、気まずそうに教室を出るクラスメイト。どうやらドアに激突しちゃったみたい。
「良かった。呼んでも反応ないから心配したぞ」
「すみません。ちょっと考え事してて……」
苦笑いしながら額を擦る。
「そうか……? 最近少しボーッとしてるように見えるけど……夏バテ?」
ドアに突っ込んだからか、本気で心配している様子。
いいえ、違います。食欲はあるので夏バテではありません。
確かに、連日の真夏日に疲れているのも本当ですけど……。
「……かわちゃんのせいですよ」
「えっ?」
「かわちゃんが変な宿題出すからですっ!」
まだクラスメイトが残っているのにも関わらず、大声を上げた。
「変……? もしかして絵日記のこと?」
「そうですよ! せっかく計画立てたのに、またやり直しだなんて……」
高校生初めての夏休み。宿題は、国語の読書感想文をはじめ、全教科分。
以前父に説明したように、既にいくつかの教科はもらっていて、一足早く今週から自由研究に取り組んでいる。
土日で熟考して、やっとの思いで立てたのに。3日前の終礼の時間、突然無地のノートを配り、『絵日記を書いてきて』と言い出したのだ。
「ただでさえ宿題多いのに、いきなり増やさないでくださいよ!」
「……ごめんな」
弱々しい声で謝られた途端、一気に罪悪感が襲ってきた。
八つ当たりしたって、文句を言ったって、現状が変わるわけじゃない。困らせるだけなのは分かってる。学年主任の先生から突然言われたとか、事情があったのかもしれない。
だけど、今の私はそれを受け入れる余裕がないくらい疲弊していたのだ。
「松川の気持ちは分かるよ。俺も当時は、決まったんなら早く教えろよって思ってた」
「……すみません」
「いいって。もし行き詰まったり悩み事があったら、遠慮せず相談していいからな」
「……ありがとうございます」
ポソッとお礼を呟くと、「じゃあ早速相談していいですかー?」とクラスメイトの男子が手を挙げた。
やることは鬼畜だけど、こういうところは優しいかわちゃん。彼のクラスを経験した先輩によると、気遣いに助けられたという人が多く、陰で評判がいいらしい。
寄り添ってくれるのはとても嬉しいし、ありがたい。
けど……身近な人だからこそ、本音ってなかなか言い出せないんだよね。
◇
夏休みが始まって1週間。冷房が効いた自室で両腕を枕にして机に突っ伏した。
時刻は夕方の5時。ちょうど今、数学の宿題が3分の1終わった。
絵日記のせいで、また1から立て直すはめになってしまったけれど、順調に進んでいる。
……今のところは、ね。
数分休憩した後、散らかった机の上を片づけて、教科書とノートを棚に戻す。
作戦は、得意教科や量が少ないものから先にやる。
最初は全部同時進行の予定だったんだけど、苦手なものは時間を費やすと考えて、他の宿題を終わらせたほうが集中して取り組めると思ったんだ。
再考した計画、吉と出るか凶と出るか。
「さてと、塗りますか」
引き出しを開けて無地のノートと色鉛筆を取り出し、線画に色をつけていく。
急遽追加された絵日記の宿題。別に、日記を書くことも絵を描くことも嫌いではない。むしろ、絵を描くのは趣味だから好きなほう。
かわちゃんからすると、いきなり出したことに腹を立てたと思われただろうけど……実は他にも理由があるんだ。
「一花! ちょっと来て!」
「はーい」
まぁ、それは後々分かるとして。気分転換も兼ねて野菜でも切りますか。
切りのいいところで中断し、1階に下りて母と一緒に夕食の準備をした。
「はぁ……疲れた……」
お腹を満たして再び宿題に取り組むこと3時間。数学の教科書を閉じて溜め息をついた。
ややこしい問題が何個か出てきて、珍しく手こずってしまった。
なんとか時間内に終わったけど、頭を使いすぎてもう瞼が限界。でも、お風呂も日記も絵もまだだから踏ん張らないと。
とりあえず、眠気を紛らわすためにスマホを見ることに。
「うわっ」
電源ボタンを押すと、画面に大量の通知が表示された。
いつもはこんなに来ることないのに……みんなどうしたんだろう。
スクロールし、最初に来た通知を確認する。
【一花ー! 久しぶりー! 元気ー?】
全文が表示された途端、ふふっと笑みが漏れた。
連絡をくれたのは、中学時代の同級生、寧々ちゃん。クラスも部活も3年間一緒だった親交の深い友人の1人である。
【そっちももう夏休み入ったよね? 来月空いてたら会おうよ!】
そのすぐ下に綴られた文を見て、卓上カレンダーに視線を移す。
勉強量を減らした休息日は数日設けてはいる。けど、こんなやつれた顔で会うのはなぁ……。寧々ちゃん優しいから、「疲れてたのにごめんね」って謝ってきそうだし、逆に心配されそう。でも、卒業して初めてのお誘いだし……。
数分間考えた結果、電話ならできるかもという答えにたどり着いた。返信して次の通知をチェックする。
【友達とプール♪】
ポップな文とプールサイドに座る女の子の写真が出てきた。背を向けていて顔は見えないが、仲睦まじそうな雰囲気が漂っている。
この子は2年生の時のクラスメイトだったっけ。あまり話したことはなかったけど、彼女の近くを通る度、いつもいい匂いがしてたのは覚えてる。
いいなぁ、楽しそう。
【家族全員でキャンプ!】
【イツメン4人でお泊りパーティ☆】
【部活終わりの焼き鳥最高っっ!】
ネットサーフィンをするように、そのまま他の同級生達の投稿も見ていく。
みんな夏休み満喫してるなぁ。あぁ、焼き鳥美味しそう。食べたい。
ドアップで撮られた焼き鳥の写真にいいねボタンを押して、最後の通知をタップした。
「……」
ゴツゴツした手と華奢な手が合わさって作られた大きなハートの写真。その下には、【3ヶ月記念日♡】とシンプルな文章が。
リア充め……こっちは大量の宿題で心身ともにぐったりしてるというのに……っ!
行き場のない怒りを拳に込めて、ドンドンドンと机を叩く。
私だって……私だって本当は遊びたい。
友達と一緒にご飯食べたり、家族で旅行したり。恋愛もしたいし、好きな人を作って2人で出かけたい。
「もうやだ……っ、帰りたい」
強く叩いたのと同時に弱音がこぼれた。
私、何言ってるんだろう。ここ自分の家なのに。一体どこに帰るんだよ。疲れすぎて頭おかしくなっちゃったのかな。
「姉ちゃんうるさい!」
再度叩こうと拳を上げた瞬間、隣の部屋から怒鳴る声が聞こえた。
いけない、感情任せに暴走してしまった。
彼女には悪いけど……今の私は、いいねをつける心の余裕がない。
ごめんね。でも、長続きするよう応援してるよ。
「お幸せに」と呟いて彼女のアカウントから離れ、別のアカウントへ移動する。
燃えたぎる嫉妬の炎は、推しの力で鎮めるのが1番だ。
訪れたのは、海のアイコンが特徴のフウトさんのアカウント。
色鉛筆画と水彩画を得意とする絵描きさんで、週に数回SNSに絵を載せている。一般人だけど、フォロワー5万人を超えるインフルエンサーなんだ。
画面をスクロールし、過去の投稿を眺めながら回想する。
彼を知ったきっかけは2年前の夏。家族で行ったキャンプで撮った夜空の写真をSNSにあげたのが始まり。
同級生達がテンション高めで反応する中、【綺麗ですね。三日月ですか?】と丁寧なコメントが来て……それがフウトさんだった。
後日、アカウントを覗いてみたら、なんと2つ上の高校生ということが判明。私が好きな自然を基調とした絵を描いており、さらに、自分が描く絵と雰囲気が似ていた。
当時中学2年生。ロマンティックな事柄に憧れるお年頃。
勝手に運命を感じ、それからは彼の投稿をチェックするようになった。
いいねボタンを押すのはもちろん、コメントも時々書き込んだ。毎回じゃないのは、警戒されないため。たった1回コメントしただけなのに絡まれちゃった、なんて怖がられたくなかったから。
2週間に1回、週に1回と、徐々に交流を図った結果、2ヶ月で認知され、3ヶ月目で相互フォロー。知り合って半年が経つ頃には、DMでやり取りする関係にまで発展した。
美しい色合いの写真をひとしきり堪能した後、場違い感が漂う食べ物の写真をタップする。
醤油漬けした鶏もも肉を使った親子丼。これは私がDMで送ったレシピを元に作られた物。
実は私、絵や景色の写真の他にも、手料理の写真もあげていて。興味を持った彼に、オススメ料理を教えてほしいと頼まれたんだ。
この写真が投稿された時、嬉しすぎて叫んだなぁ。なんならスクショしてバックアップまで取ってる。芸能人で例えると、「自分がプレゼントした服を着てくれてる!」みたいな感覚かな。
画面を戻し、最新の投稿をタップした。
【今日は七夕ですね。僕の願い事は英語のテストで平均点以上を取ることです。皆さんの願い事は何ですか?】
半月の写真と学生らしい内容の文章。
テスト勉強の合間に撮ったらしく、私もこの時ちょうど勉強してて、また運命を感じたなぁ。
もちろんコメントを、というより願い事を書き込んだんだけど……。
「結局叶わなかったなぁ……」
何を隠そう、書いたのは『小テストがなくなりますように』。ちなみにこの次の週、予告なしでテストが行われた。
今振り返ると、ちょっと酷かったなと反省している。
確かあの2人って、恋愛に溺れて仕事をサボり始めたから離れ離れにされたんだっけ。もしかしたら、『真面目に勉強しなさい』という織姫と彦星による罰ゲームだったのかも、なんてね。
苦い笑みを浮かべながらアプリを閉じた。
あれから3週間。今どうしてるだろう。願い事は叶ったのかな。
連絡したいけど、今年の春から投稿頻度が下がってるんだよね。受験生だから勉強で忙しいのかな。
電源ボタンを押して机の上に置いた瞬間、スマホが振動し始めた。画面をスワイプして母からの電話に出る。
「もしもし? 何?」
「お風呂、もうすぐお父さん上がるから入って」
「はーい」
電話を切ると、ふと画面上部の時計が目に飛び込んできた。
えっ、もう10時過ぎ⁉ 10分だけ休憩するつもりが30分以上経ってたの⁉
引き出しを開けて日記帳を出し、急いで絵を描いていく。
今日は11時に寝ようと思ってたのに、これじゃ間に合わないよぉぉ。
その後、急いでお風呂を済ませ、時間内に終わらせようと頑張ったものの、結局間に合わず。ベッドに入ったのは日付が変わる5分前だった。
翌日の朝9時。リビングにて。
「いただきまーす」
エアコンの前に立ち、桃味の棒アイスにかぶりつく。
ん〜! 外から帰った後のアイスは格別だ!
「なんだ、また食ってるのか。宿題はしたのか?」
最後の一口を味わっている最中、幸せな気分をぶち壊す声が聞こえた。髪の毛がはねていて、いかにも寝起き状態。
「うるさいなぁ! 毎日暑い中勉強してるこっちの身にもなってよ!」
部屋が閉め切られているのをいいことに、バンと机を叩いて言い返した。
「暑い中? 涼しい部屋にずっといるじゃないか」
「なわけないでしょ! ほら!」
目を丸くしている父に書きたてほやほやのメモ帳を見せつける。
生物の先生からの宿題、自由研究。テーマは、夏の草花と空。
他教科の宿題の合間を縫って、庭で雲や月を観察したり、花に関しては、近所の公園に足を運ぶこともある。
「そっちがぐーぐー寝てる間、こっちは毎朝外に出て観察してるの!」
しかし、今は夏真っ盛りの時期。うだるような暑さの中、長時間外にいるのは非常に危険。
なのでこの宿題は、気温が上がる前の比較的涼しい朝の時間にやっている。
その日の天気によっては、まだみんなが寝てる時に家を出ることもあるから、知らないのは当然なのだけど……。
「お父さんだって、仕事終わりにビール飲んでるんだから、私も好きな物くらい食べたっていいでしょ⁉ それがダメなら気分転換にどこか連れて行ってよ!」
もう既に、身も心も疲れ果てていて、限界寸前だった。
残った体力で叫ぶように言い放ち、アイスの棒をゴミ箱に投げ捨てる。
「……そうか。それなら、旅行に行くか?」
「…………え」
頭に血が上っていたせいか、反応したのは3秒後。
「どこに?」
「ひいおばあちゃんち」
いや……それ、旅行じゃなくて帰省じゃない?
ツッコミを入れる気力もなく、ジト目で父の顔を見つめる。
「おじいちゃんとおばあちゃんもいるし、1週間もいれば、充分気分転換できるだろう」
「まぁ……」
遠い過去の記憶を呼び起こす。
最後に遊びに行ったの……小学校低学年の頃だっけ。従兄弟達とテーブルを囲んで宿題をした記憶がある。人数が多かったから誰が誰かは全然覚えてないけど。
「ただ、平日は仕事があるんでな」
「えっ」
「有給は取るつもりだが、お盆休みに入るまでは先に行っててくれ」
「えええっ⁉」
10年近く行ってない曾祖母の家に、私1人で行けだって⁉ スマホで色々調べられる便利な時代とはいえ、難度高すぎない⁉
「もしもし? 姉ちゃん? 今年のお盆だけど……」
ちょっと待って、考え直して。
そう言おうとしたけれど、即行で伯母に電話をかけ始めた。
人の意見も聞かず、勝手に話を進めやがって……。
その姿に腹を立て、怒りに任せてもう1本アイスを食べた。
「一花、そろそろ行くよ」
「はーい」
洗面所の鏡の前で髪の毛をまとめながら、部屋の外にいる母に返事をした。後ろで1つに結び、前髪をピンで留めて洗面所を後にする。
8月上旬。月曜日の午前7時。
今日は待ちに待った、曾祖母の家に行く日なのだ。
「お、来た来た」
「遅いぞ姉ちゃん」
玄関に向かうと、なぜかシャツ姿の父とパジャマ姿の楓がいた。よく見たら、口がモゴモゴ動いている。
「忘れ物はないか? 手土産は持ったか?」
「大丈夫。さっきリュックに入れた」
「お土産買ってくるのも忘れんなよ! てか覚えてる?」
「覚えてるって。お菓子でしょ?」
執拗に何度も確認する2人。
そこまで言わなくても、ちゃんと全部持ったし、お土産も写真つきでメモしてるって。
なんて呆れながらも、食事を中断してまで来てくれたことに、内心少し嬉しく思ってたりする。
「いってきまーす」
心配性な2人に見送られながら家を出た。キャリーバッグを車に乗せ、駅へ向かう。
中学の修学旅行ぶりに乗る新幹線。当時は同級生や先生と一緒だったけど、今日は1人。期間も7泊8日で過去最長。
初めてのことばかりだから、ちょっと緊張する。
ドキドキしていると目的地が見えてきた。入口の近くに停車し、キャリーバッグを運び出す。
「じゃ、気をつけてね。着いたら連絡するのよ?」
「はーい。いってきます」
最終確認を終えて母と別れ、いよいよ駅の中へ。
思っていたよりもお客さんはそこまでおらず、待合室のソファーも空席が目立っていた。
通勤する人が大勢いるのかなと思ったけど、まだ時間が早いからあまりいないのか。
切符は既に購入済み。特に寄るところもないので、早速入場することに。
電光掲示板をスマホのカメラで撮影し、切符を掲示板と照らし合わせて再度チェックした。改札口を抜けてエスカレーターに乗る。
「7時35分発、2番乗り場……よしっ、合ってる」
最後に、撮った写真と切符を照らし合わせた。
普段はここまでしないんだけど、今日は何もかもが初めて。多少面倒くさくても、念には念を入れて慎重にいこう。
しばらくすると、アナウンスが流れて新幹線がやってきた。自由席号車を確認して乗り込む。
「ふぅ、乗れたぁー」
座席に腰を下ろし、小さく安堵の声を漏らした。
第一関門を突破したら、ホッとしてなんだか眠くなってきた。今日は6時に起きたし……。でもダメ。寝過ごしたらみんなに心配かけちゃう。
閉じかけた目をカッと開け、リュックサックから宿題を取り出す。
長旅だからこそ、隙間時間を有効活用しないとね。
降車駅に着くまで休憩も入れず、英語の宿題に没頭したのだった。
◇
2時間後、降りる駅に到着した。時刻は9時40分を過ぎたところ。
待合室で水分補給をし、少し休憩した後、外に出た。
「うわっ」
自動ドアが開いた途端、蒸し暑い風が頬を撫でた。顔をしかめて日向に出ると、今度は強烈な日射しが降りそそぎ、さらに顔をしかめる。
雲が見当たらない快晴。花壇の近くにある気温計には31度と表示されている。
洗濯物を乾かすのには最適なお天気なのだろうけど……暑すぎる。
これからの気温上昇に軽く絶望しつつ、屋根の下に移動した。手持ち扇風機で熱を冷ましながら時間を確認する。
伯母さんが迎えに来るのは10時。こういう時に限って、時間が経つのって遅く感じるから不思議だよね。あと3分。お願い、早く来て。
そう願った数十秒後、1台の軽自動車が近づいてきた。あの背の高い茶色の車は見覚えがある。
「一花ちゃん! 久しぶり!」
「お久しぶりですっ」
目の前で車が停まり、ドアが開いて伯母が出てきた。
お父さんより2つ年上の香織おばさん。
ほとんど記憶にない従兄弟達と比べて顔も車も覚えていたのは、おばさんの旦那さんの実家が私の地元にあるから。帰省のついでに時々顔を見せに来ていたからなんだ。
「あー、これは後ろに入れたほうがいいかな。智、ちょっと手伝って」
「はーい」
すると、助手席から同い年くらいの男の子が下りてきた。
智……この名前も聞いたことがあるぞ。
『一花、これあげるよ』
『え? なあに? ……ぎゃあああ!』
思い出した……!
「あんた……っ! 小学生の頃、私にセミ渡してきたでしょ!」
せっせと運ぶ彼に向かって大声で指を差した。薄れていた嫌な記憶が鮮明に甦る。
そう、あれは小学校2年生の時。今日みたいに日射しが強い夕方。
突然白い箱を渡してきて、ワクワクしながら開けてみたら、でっかいセミが入っていたのだ。
それだけでもビックリしたのに、顔めがけて飛んでくるという、恐怖のおまけつき。
『珍しい色のセミを見つけたから』と言われたのだけど……後で調べたら、羽化したばかりの状態のことで、全然新種じゃなかった。
セミについて詳しくなれたものの、この件をきっかけに、私は虫全般が苦手になってしまった。
「悪気はなかったんだろうけど、あの時すごく怖かったんだからね⁉」
当時は言えなかった胸の内を吐き出した。
翌年、理科の授業が始まった時、教科書を見るのが怖くて怖くて。授業がある日は、給食がのどを通らなくなるほど憂鬱だった。
今勉強している生物も、実は少しドキドキしながら授業を受けている。
「……そんなことあったっけ?」
「あったよ! 覚えてないの⁉」
「うーん……」
目を合わせたかと思えば、首を傾げて全く覚えていないそぶり。典型的ないじめっ子タイプだ。
「それよりさ、その前にまず挨拶じゃない? てか、わざわざ迎えに来て荷物も運んでやったのに、なんで俺怒られなきゃいけないの?」
「……そうですね」
並べられた正論に声をしぼませて返事をした。
ですよね。ついカッとなって口走ってしまったけれど、まずは「こんにちは」、そして「運んでくれてありがとう」だよね。
再会して早々失礼だったなと反省し、後部座席に乗り込んだ。
◇
街を抜け、木や田んぼに囲まれた道を走ること数十分。
「あ! 海だ!」
太陽の光に反射してキラキラと輝く海が見えた。その美しさに取り憑かれたかのように、窓に顔を近づける。
15年強の人生の中で、海には何度か行ったことはあったけど、こんなに綺麗な海は初めて見た。
「そんなに張りつく? 一花の地元って海ないの?」
「あるよ。でも、街中に住んでて距離あるから、気軽に行けなくて」
「うわぁ、サラッと都会自慢ですか」
……こいつ、さっきからなんなの?
学校の話をしても、世間話をしても、言葉の端々に棘を感じる。セミの件で怒ったこと、まだ根に持ってるとか?
サイドミラーに映った顔がものすごく腹立つ。けど、言い返したらより嫌味が増しそうだしな……。
「こら、八つ当たりしない。ごめんね一花ちゃん。この子、最近彼女と喧嘩したみたいで、ご機嫌ななめなのよ」
「バカ……っ! 勝手に教えんなよ!」
すると、出発前からやり取りを見ていた伯母が説明をしてくれた。
あんたもリア充だったのかよ。
はぁ、どうしてこんな意地悪なやつに恋人がいて、毎日コツコツ勉強を頑張ってる私にはいないんだろう。……まぁ、人のことをこんなやつ呼ばわりする自分も、決して性格がいいとは言えないけどさ。
住宅街に入り、右左折をしながら奥へ進むと、瓦屋根の大きな平屋が見えてきた。どうやらあれが曾祖母の家なのだそう。
駐車場に車を停めて荷物を運び出し、インターホンを押した。
「お母さん、お父さん、来たよ」
「はいはーい。今開けるからちょっと待ってて」
インターホンのカメラに向かって伯母が話しかけると、しばらくして曇りガラスに人影が現れた。ガラガラガラと音を立ててゆっくりと扉が開く。
「いらっしゃい。来てくれてありがとね」
出迎えてくれたのは祖母だった。
短く切り揃えられた明るめのブラウンヘアに、淡い黄色のカーディガンを羽織っている。夏っぽく爽やかな色合いがオシャレだ。
「智くんも一花ちゃんも、大きくなったねぇ」
「へへへっ。もうDKですから!」
「あらま、もうそんな年なんだねぇ」
「えっ、意味分かるの⁉」
にこやかに頷いた祖母に思わず口を挟んだ。
流行り廃りが激しい若者言葉なんて、絶対分かんないと思ってたのに。でも、この見た目からすると流行には敏感そうだし。もしかしたら聞いたことがあったのかも。
「お邪魔します」と挨拶をして家に上がり、別室に荷物を置いて祖父達が待つ居間へ。
「こんにちはー」
「こんにちはっ」
「おお、みんないらっしゃい」
智と一緒に襖を開けると、紺色のポロシャツを着た祖父が目を細めて迎えてくれた。
ひいおばあちゃんの姿を探そうと、辺りを見渡してみたのだけれど……。
「うおっ! なんか初めて見るのがいる!」
祖父の足元でくつろぐ1匹のゴールデンレトリバーが目についた。
「可愛い〜! 名前何?」
「ジョニー。先月7歳になったばかりの男の子だよ」
「へぇ〜! よろしくジョニー!」
わしゃわしゃと撫で始めた智を眺める。
まさか犬がいるとは……しかも大型犬。あまり犬と触れ合った経験がないから、仲良くできるかちょっと心配だな。
曾祖母は別室で寝ているみたいなので、先にお参りすることに。
仏壇のろうそくに火を点け、お鈴を鳴らして手を合わせる。
ひいおじいちゃん、お久しぶりです。一花です。
まだお盆の時期ではありませんが、心身のリフレッシュも兼ねて、一足先に帰省しに来ました。
自然を楽しみつつ勉強も頑張るので、応援してくれると嬉しいです。よろしくお願いいたします。
心の中で唱えた後、仏壇の隣に立てかけられた写真に視線を移した。
これは……おじいちゃんの家族かな? 少しぼやけてて分かりにくいけど、確か4人姉弟の2番目だったはず。