果たして、目の前に在るものの本質とは、本当に其処に在るのだろうか。
 自分自身すら、本当に我が本質が有ると言えるのだろうか。

 しかし現実は、自分が自分で有る事の証明すら、ままならないのだ。
 もっと遠く、遠く、遙か久遠の先。
 自分らの本質は、常に向こう側に、有る。


 ◆


「…………って事なんだけど」
「いやいや解りませんって」

 辺りを見渡すと、コンクリートでは無い何かで作られた白い壁が見える。
 建築やそう言った素材に関する知識など皆無であるが、そんな俺が見ても、その壁が異質なのが解る。
 その上、机でさえも、ただ宙に浮いている板なのだ。
 椅子も然り。
 ふわふわの何かが宙に浮き、それに座る。
 地球の技術でこんな物が作れる筈も無し。
 此処が地球でない別文明の世界である事は確かなのだが。

「いや、解るでしょう? 君が、デンシャ? に轢かれそうになった所を僕が助けたのさ。寧ろ感謝して欲しいね」

 目の前の男は、傲岸不遜な態度で俺にそう言う。
 正直腹が立つが、賢い俺はここで激昂したりなどしない。
 そう、俺は賢いのだ。

「いや、君は賢く無いよ」
「五月蝿い!」

 いや、え?
 目の前の男は、まさか俺の思考を読み取って……

「そうだよ」

 やはり。

「一体どうやって……?」

 一応訊いてみる。

「簡単な話さ。“自我意識”の形を見るんだ。と言っても、僕と母様以外に出来てる奴を見た事は無いけどね」

 自我意識……とは?

「まぁ順を追って説明するさ。落ち着き給え」

 一々癪に触るな。

「何だと?」
「いえ、何も無いです」

 危ない危ない。

「そうだな、実に危ない」

 ってか、一々人の心読むの止めてくれません?
 俺何も出来なくなるんで。

「今だけの辛抱さ。後でどうにかするから」
「なら」

 取り敢えずここじゃ何だし、移動しようか。
 そう言って目の前の男はこの部屋を去った。
 当然俺もそれに後続するのだった。


 ◇


「先ず状況を整理しよう」
「お願いします」

 来た場所は、恐らく食堂らしき場所。
 そこで男は食事をとり、俺はその目の前でただ座っている。
 食事と言っても栄養食の様な物だ。
 そのバー一本食べるだけで一日分の栄養を補給出来る、みたいな。

「ご明察。その通りだよ」

 お、本当にそうだった。

「ちなみに何味か分かるかい?」

 いや、食べてないから分かんないし。
 それにこの世界の食事など知り得ている筈もない。

「正解はチョコレートだ」
「チョコレート⁈」

 思わず大きな声が出てしまった。

「この世界では最近、地球食が流行っているのさ。誰かがラーメンを模倣して販売したんだよ、僕だけど。それが馬鹿みたいに売れてね。以降色んな人が地球食の再現に奮闘しているんだ。栄養食が蔓延っている世で、しっかりとした食事を摂ると言う発想自体無かったからね」

 でも結局は栄養食が手っ取り早くて、安くて良いんだけど。
 そう言って男は再び栄養食を口に入れる。

「そうそう、状況整理だったね」

 食べながら、思い出した様に男は言った。

「先ず、君は死にかけた。ここまでは良いかい?」

 まぁ、解りましたけど。

「駅のホームから転落して今にも電車に轢かれそうになっている所を、僕が華麗に救出したってワケ。解った?」

 俄かには信じ難いですが。

「そうだね。君の持つ稚拙な知識のみでは、とても測り知れ無い超常に聞こえるだろう」

 順を追って説明してやる、と言って、目の前の男は説明を始めた。
 要約するとこうだ。

 つまり、人間を含む知的生命体の本質とは、主に二つに分かれるらしい。
 一つは『自我意識』。
 これは、所謂魂とも言える存在で、その個体の性格、記憶、人格、思考等々の、つまり知的生命体としての“中身”を司るのが、この『自我意識』なのだ。
 そしてその受け皿となるのが、『体組織』。
 所謂人体である訳だが、これがある事で、自我意識を隠せ、そして知的生命体としての生活を送れる様になる、と。
 簡単に言えば、大まかにはその二つで構成されている。
 男は俺が死ぬ直前、俺の自我を()()()()()、俺の自我意識のみをこちらへ持ってきたのだと。
 だから自我意識を隠す体組織が無い為、今の俺の思考は丸分かりだし、何もかもが筒抜けになっている、まぁ言わば全裸の様な状態っていう事だそうだ。
 つまりその体組織さえ手に入れれば、思考が読まれる事も無い、と。
 男が言っていた「今だけの辛抱さ」とは、そういう意味だったらしい。

「って事は、俺の体を用意してくれているって事ですか?」
「無論。とっくに用意している」

 ヤッタァ! と心の中で喜ぶ。
 まぁバレているのだろうけど。
 ほら、俺を見た男がニヤけた。

「だが、タダと言うワケでは無いさ」

 まぁそんな上手い話は無いわな。

「君にはね、我が母が作り賜うた箱庭へ行って貰う」

 おう! これはまさかの異世界転生では⁈

「まぁそうかもしれないが。異世界とは呼べない代物なのだ。まぁ僕も詳しくなく、その真実を知るのは創造主(我が母)のみとされているが。一説では四次元空間内に作られた幾万もの三次元空間のうち創造主が新たに創った三次元空間。また一説では多元宇宙(マルチバース)の内の一つを創造主が改変させた物、だとも。つまり、まぁ異世界とは呼べないかもしれないな。君の思っている様に、魔法とかスキルとかがあるワケでも無いし」
「え⁈ 無いんですか!」
「あるワケ無いでしょ、そんな非科学的な」
「そんなぁ…………」

 多少は期待していたのだ。
 多少は。

「なんか……ごめんね?」
「いえ、俺の勝手な妄想なので。すみません」

 そこそこ落胆しつつ、本題に入る。

「そこで、何をしろと…………?」

 タダでは無いのだから、何かあるのだろう。
 しっかりと聞いておかないと。
 もしかしたら魔王討伐、とかだったりして!

「いや、()()()()()何もしなくて良い」

 あれ? そうなんですか?

「僕がしたいのは、自我意識を向こうに送れるかの検証。成功するとは思うけど、もし失敗したら君の自我意識は霧散して消えちゃう。それが、僕からのお願い」

 まさか、俺の命とは、たったその検証の為だけの価値だったとは。

「もし消えたく無いのなら、別に良いよ? まぁ、自我意識()のままだけど」

 そりゃ死にたくは無いけど。
 この状態で一生を過ごすのもそれはそれで嫌だな……
 うーむ。

「ちなみに成功率はどのくらいなのですか?」
「…………多分四割……いや、五割か…いやいや、六割!」

 いや何割だよ。
 まぁそこまで確証のある物では無い事が解った。
 そして、俺の命はただの検証材料でしか無い、と。

「だーかーらー。別に引き受けなくても何も言わないってさ。誰しも『死ね』って言われて死ぬやつなんて大していないんだから」

 つまり貴方は俺に『死ね』と?

「あっ…………」

 あっ…………って何だよ。

「でもまぁ、このまま居ても羞恥の塊ですし。どうせ死ぬ身だったんです。五割もの確率で再び生きながらえれるなら、それも悪く無いかなぁ、と」
「そうかそうか! いやぁ、君が引き受けてくれなかったらどうしようかと思ったのだよ。また新たな自我意識を採って来なきゃならないし……」

 なんかサラッと怖い事言ってるけど、ここは無視だ。
 そうだ、俺は賢いのだ。

「いや、だから賢くな――」
「じゃぁやっぱり断ろうかな……」
「いやいや、賢い賢い」

 やっとそこまで腹が立たなくなってきた。

「そりゃ良かった」

 一々五月蝿いな。


 ◇


「そう言えば、貴方は誰なんですか?」

 初めはあまり疑問に思って無かったけど、この人(?)の名すら未だ知らないのだ。

「僕? 僕の名前はガイスト=ルイア。ガイストは種族共有の苗字みたいな物で、名前はルイアだ」
「やっぱり人間じゃ無いんですね?」
「そうだな」
「…………神様……とか?」
「いやいや、そんな大層なものじゃ無いさ。ただ我々は、我々の事を『上位種』と呼称している。何で上位なのかは……想像に任せるけど」

 あぁ、人間だろうなと本能的に理解する。

「ちなみに僕の母様はその“向こう”の世界を作った、上位種の祖、創造主と呼ばれている。まぁ君はあまり気にしなくて良い事さ」

 なら頭に留めておくのみにしておこう。

「そういや言い忘れてたけど」

 何?

「向こうの世界で君は、齢一歳の赤子の体組織に乗り移って貰う。その赤子の名は、アイジス=ロメオという。つまり、これからの君の名は、アイジスだ」

 つまり暫くは赤子のふりをしろって事か。

「そう言う事だな」

 向こうに行ったら好きにして良いんですか?

「良いよ……と言いたいが、若し何か向こうでして欲しい事があれば声を掛けるので、成る可く手伝ってくれると助かる」
「解りました」

 まぁその頼みによるけど、これでも男、ルイアは俺の命の恩人なのだ。
 貰った恩は返さないと。

「宜しく頼む」
「承知しました」

 そう言いながら俺とルイアは固い握手を交わした。


 ◇


「最後に一つだけ訊いても良いか?」
「何ですか?」

 向こうへ行く準備をしていた時、ルイアは突然そう声を掛けた。

「君は君か?」
「………………え?」

 質問の意味が解らない。

「簡単な話。君の自我は君のものなのか?」
「…………はい………………?」
「なら良い」

 どう言う事だ?
 だが結局ルイアは、その質問の真意を教えてはくれなかった。


 ◆


「それじゃぁ向こうに行って貰うけど、準備は良い?」
「大丈夫です」
「なら送るよ?」
「お願いします!」

 そう言った瞬間、男は消えた。
 成功していれば今頃、アイジスとして向こうに顕現した筈。
 後で確認に行かなければ。

「ふぅ…………」

 後ろにあった椅子に深く腰掛ける。
 ルイアは頭の後ろで腕を組み、ほぅっとため息を吐いた。

「これで果たして、成功するかどうか」

 ルイアの脳裏に反芻されるは、彼の母の姿。
 あの忌々しい思想を想起するだけで吐き気がしてくる。

「頼むぞ…………」

 自らの宿願の成就を心の底から願い、ルイアは天に祈った。







 



 

 幼い頃、父は戦争へと繰り出され、死亡した。
 激しい剣戟の中、無念にも戦禍を被り戦死した。
 元はこの村の警備隊長であった。
 だからこそ腕を見込まれ王都ガルシスの国軍より直々に依頼を受けたのだが。
 結果は前述の通り。
 計画が杜撰であった訳では無い。
 寧ろこれで負ける方が難しい様な布陣であった。
 兵の中には、宣戦を布告したライア=ヴァルヘルム皇国を弄し、鼻で笑った。
 結果は我が国の圧勝であったが、しかし軽微ながらに犠牲はあった。
 その少なき犠牲の内の一人が、父なのだ。

 そして父を(うしな)い、母と兄と三人で暮らす様になってから数年。
 今度は母が病死した。
 その身一つで子二人を生かさねばならぬと毎日毎日東奔西走し、何とか食い扶持を稼いでいた。
 そんな生活を続けていたから、過労なのだろうと思った。
 しかし医者を呼ぶが原因は判らず。
 過労ではなく、何か病に臥せっている訳でもなく。
 外傷は無く、身体機能も何ら異常は無い。
 しかし母はいつ見ても大量の汗を流してのたうち回り。
 そんな母を見る事すら、苦痛以外の何物でも無かった。
 そうして悶え苦しむ母は、ある時会いに行くと、胴と首の分たれた状態で見つかった。
 誰が見ても既に息絶えている事は一目瞭然であった。
 その目は開いたままであり、眼球は赫く輝いている。
 無数にある切り傷の所為か、白かった服は真紅に染まり、抱擁してくれた時に感じた温かさは、既に消えている。
 兄は母が見えない様に前に立ち、結局母とは、その骸と対面する事なく別れた。


 ◇


 そしてまた数年。
 私は十歳となり、兄は今日で十五歳であった。
 そう、今日は兄の誕生日なのだ。
 しかし兄の稼ぐお金ではケーキなど到底買えず、私の稼ぎでも精々蝋燭を数本しか買えない。
 兄の誕生日祝いは、私の歌と手拍子。
 贈り物は、おめでとうという気持ち。
 果たしてこれで良いのかと私は問うたが、兄はこれで十分と、涙を流して答えてくれた。
 いつかちゃんと祝える様に。
 何度目かも判らぬ決心を、今日もした。
 いつか、いつか。
 兄が繋いでくれた自分の命を無駄にしない様に。
 この恩を倍にして返せる様に。
 そう心に留めて、今は祝いだと心を入れ替えた。


 しかしその決心が具現する事は無かった。


「うぐぁ…………!」

 突然兄が悶えた。
 机の上にあった花瓶が兄の手に当たり。
 床に落ちて潔い音を立てて粉々になった。
 兄は椅子から転げ落ち、また椅子も兄とは反対側に倒れた。
 悶え、苦しみ、声にならぬ悲鳴を上げながら、床の上をのたうち回り、額からはあまりの苦痛に汗が滲んでいる。

「どうしたのっ⁈」

 私も急いで駆けつけるが、兄が無茶苦茶に暴れる所為で、近付こうにも近付けない。
 何か自分にも出来る事は無いかと周りを見渡すが、出来る事は何も無い。
 今から医者を呼ぼうにも此処から病院までの道が解らない。
 母の時は兄が医者を呼んでくれたので、私は知らないのである。

 ―――どうすれば―――――――?
 
 ――――どうすれば――――――?
 
 ―――――どうすれば―――――?
 
 ――――――どうすれば――――?
 
 ―――――――どうすれば―――?

 ――――――――どうすれば――?

 ―――――――――どうすれば―?
 
 
「どうしたら………………?」
 

 そうして考えていた時。


「ガァァァァ‼︎」

 突然、兄が絶叫した。
 その瞬間。
 目一杯見開かれた目は段々と赫く染まり。
 兄は徐々に暴れなくなった。
 赫い瞳は瞼に隠され。
 兄は眠った様に見えた。
 私はゆっくりと兄へと近づく。
 そして肩に手を置き、ゆさゆさと兄の体を揺らした。
 しかし反応が無い。
 取り敢えず叫び過ぎて喉を痛めているかも知れないと思案し、水を取りに向かった。
 兄に背を向け、歩き出す。
 当然背後で音も無く起き上がった兄には気付かず――

「危ないっ‼︎」

 なので誰かのその叫びに気付いた頃には既に遅かった。
 兄の放った拳は誰かに押された私の頬を掠め、其処からは少し血が滴った。
 私は誰かに押された所為で尻餅を付き、しかしそのおかげで兄に殺されずに済んだのだ。
 急いでその誰かに目を向ける。
 其処にいたのは、精悍な顔立ちの青年。
 恐らく二十歳前後であると推測される見た目だが、その雰囲気は、青年をもう少し年増だと錯覚させる。
 その服は、王都ガルシスの王国軍の軍服の様で少し違う。
 黒の生地で統一された上着とズボンは一見動きにくそうだが、意外と伸び縮みする素材の為、戦闘には向いていた。
 そしてその手には、剣にしては両刃では無く片方のみが刃となっていて、そして少し湾曲している。
 剣とは異なり、それが切断に特化した“刀”である事を知るのは、もう少し先の事であった。
 青年はその刀を構え、兄と対峙する。
 対する兄は、もう兄では無くなっていた。
 漂わせる雰囲気は獣物が如く。
 その眼球は赫く染まり、眼光は鋭い。
 いつもの温厚な兄からは考えられない程に強烈な圧を感じる。

「…………何が………………何が起きて……」

 理解が追いつかない。
 突然兄が悶え始めたと思ったらこれもまた突然兄は動きを止め。
 気付いたら謎の青年に体を押され、兄の放った拳を間一髪のところで躱す。
 そして気付くと兄は、豹変し、人外の存在と言っても過言では無い“異形”と化してしまった。
 わからない。
 益々わからない。
 ただ。


 このままでは兄が危ないと、直感で理解した。


「待って‼︎」

 だから叫ぶ。
 それしか自分には出来ないから。
 ただ一人の家族。
 この人を失ってしまったら、もう生きていけない。
 それに、まだ、何も返せていない。
 この命も、恩も、想いも、何もかも。
 それに。
 これ以上奪われるのが嫌なのだ。
 もう、嫌なのだ。
 だから、やめて…………
 もう。

「もう、これ以上…………!」

 しかし現実はたかが人の子の言葉になど靡かないし、聞く耳すら持たない。
 兄は一直線に青年へと飛びかかった。
 その速度は回避すら儘ならぬ速度であり、常人ならば回避すら叶わず、その拳に身を貫かれているだろう。

 しかし青年は、常人では無かった。

 何事もないかの様にその拳を半身になって躱し、その刃にて兄の首を切り落とした。
 刀を出す力と、飛びかかってきた兄の推進力も相俟(あいま)って、首の切断は青年にとって最も容易く完遂された。
 しかしそれでは足らず。
 青年は兄の背に回り、返す刃で左肩から右脇まで袈裟斬りにした。
 それにより減速した三つの肉片は、それぞれの音を立てながら、落下した。
 兄の眼球は赫く。
 しかし青年がその目に手を添えた事により、再びその兄の赫き目を見る事は無かった。
 こうして、兄は、青年の手によって討伐された。


 ◆


 時折、何の前触れも無く、人が獣物の如く暴れ狂う“何かしら”に変貌する事がある。
 その“何かしら”は総じて特徴があり、目が赫く染まるのだ。
 そしてその“何かしら”に変貌した人間は、人間と比べ遥かに卓越した生命力と身体能力を得る。
 首を切っても死なぬ事も屡々(しばしば)
 その拳は、力一杯振るうと余裕で人体を貫く凶器と化す。

 その“何かしら”は、通称『異形』と呼ばれ、それを討伐する人を、“異形狩り”と呼称する。


 ◇
 

 この時、異形狩りである青年アイジス=ロメオは、少女ジル=コルミットとの出会いを果たしたのだ。




 





「ぁ………………あっ…………っ」

 ただ少女は地面にへたりながら、茫然自失した。
 ずっと、自分を育ててくれて。
 いつかその恩を返そうと。
 兄のおかげで有るこの命に報いようと。
 そう決心したのに。
 その対象は目の前でただの肉片と化した。
 少女にとっては親同然であった最後の家族が、息絶えた。
 しかも、人外の何かしらと化し、少女を殺そうとして。
 少女は、ジルは、何も出来ない自分の脆弱さに、最後の家族を(うしな)ってしまった哀しみに、ただ静かに哀哭する事しか出来なかった。


 ◇


 兄を切り捨てた青年は、刀に付いた鮮血を懐に忍ばせていた大きめなハンカチを使って拭き取り、刀は鞘に、ハンカチは血の付いた所が内側になる様に折られた後、再び懐に忍ばせた。
 青年はジルの兄だった骸と向かい合い、目を瞑る。

「…………済まない」

 青年は、少し響く声でそう言った。
 果たしてその言葉が、兄の骸に対しての物なのか、ジルに対しての物なのか。
 青年すらもあまり良く考えていない。
 青年の背後では、ジルの哀哭する悲痛な叫びが響き渡る。
 さして大きな声では無いのだが、それでも、響いた。

「………………済まない」

 もう一度そう言うが、今度も返答は無――

「兄は、如何(どう)して死んだんですか?」

 突然、ジルが訊ねた。
 震えた声で。
 泣いていた所為か、時々声が裏返っている。

「人と言う枠組みを、超越した“異形”になったから。そうなってしまったら、こうするしか無い」

 ジルの方は向かず、青年は答える。
 成る可くオブラートに。
 ジルを傷つけない様に。

「何で…………何で………………?」
「……っ…………済まない。異形となる原因は、し、知らなくて…………」
「そうじゃなくて…………」

 溜飲が下がらず、ジルはただ蟠りをぶつけた。

「殺さなくちゃいけなかったんですか? 殺さなくても、そう! 何か人に戻す方法とか――」
「ある訳ないだろう!!」

 突然大声を出して済まない、と青年は謝罪する。
 だがしかし、その所為でジルはすっかり萎縮してしまった。

「俺の方が、そんな方法があるのならば聞きたい。まぁ尤も、聞こうとすれば訊けるのかもしれないが」

 青年はため息を吐き、いや、それは無いなと、自らの発言を訂正する。

「まぁこう言われても納得出来ないのは解る。だが、君の…………」
「兄です」
「そうか……そのお兄さんを殺さなければ、今頃君は無事では無いだろうし、周りの人だってもしかしたら……」
「………………」
「受け入れてくれとは言わない。そう簡単に受け入れられる物では無いと知ってるから。ただ、俺の事は信じて欲しい。決して悪意があって殺したのでは無いと」

 気付けば青年はジルの目を真っ直ぐ見ていた。
 ただ一心に、信じて欲しいと思いながら。

「…………そうです。受け入れられる訳がないじゃ無いですか。昔父も母も喪って、最後の……最後の家族だったのに…………」
「………………」
「もう‼︎ もう‼︎ ほ、ほんと、何なんですか。何で、何でこんな……何でこんなことにならなきゃいけないんですか。だって、ただ、ただ…………」

 青年は、自分を見ている“者”に、再び激しく憤り、軽蔑した。
 やはりこんな世界を創る奴等は、ただの阿呆だと。

 異形化の原因を知り得ているからこそ、余計虚しくなる。

「もう、良いです。もう、私には何も無いから。良いんです」

 もう良いんです、と、少女の涙はいつの間にか止まっていた。
 もう、何もかもを放棄した。
 人との関わりも、自らの心すらも。
 一切躊躇しなかった。
 こうすることで、少しでも気が楽になるのならと、そう思ってであったが、存外苦しくなくなるものだなと。
 いや、そう考えることすら億劫になってしまった。

「…………済まない」

 目線を逸らしながら、青年、アイジス=ロメオはそう呟いた。


 ◆


「ありがとうございました…………」
「いえいえ……」

 アイジスは、ここより近所の年嵩な女性に謝辞を述べられ、愛想笑いをしながら応えた。
 女性が去り、見えなくなろうとしていた時。
 ジルは外方を向きながらボソッと呟いた。

「…………何で感謝するの」

 今にも消えそうな、か細い震えた声で、そう言った。
 アイジスは応えようにも何と応えて良いのか解らず、ただ沈黙を纏った。

「…………それで、君はどうするんだ?」

 アイジスが、また視線を合わせずに、ジルに訊いた。

「どうする…………とは?」
「これからの事さ。一人で生きていけるのか。無理なら、俺の旅に同行するって言う選択肢もあるけど」
「そうします」
「まぁゆっくりと考えたら…………え?」
「どうせ、ここに居ても虚しいだけですし。どうせ、ここに居ても生きてられないので」

 アイジスは、揺らぐ。
 果たして、この子の兄を殺す事が、最善だったのか、と。
 或いは、別の何か、もっと最善手が存在したのでは無いか、と。
 そう悩むも答えは一向に出て来ない。
 この提案すら、果たしてジル(この子)にとっての最善手なのかどうかすら、解りかねる。

「…………本当に、君はそれで良いのかい?」

 そう訊ねてみるが。

「はい…………」

 心無き声で、ジルは答える。
 だからこそ余計アイジスは慮ろうとするのだが、ジル自身、アイジスの心境を慮る余裕など持ち合わせてはいなかった。

「本当に?」
「はい……」
「多分……大変だと思うけど……」
「大丈夫です」

 アイジスはとことん、口下手な自分に失望した。
 しかしアイジスがジルに見たのは、決意などでは全く無く、ただの成り行きな様な気がしてならない。

「俺は、異形狩りだ。異形となった人を殺して、その町や村を助けるのが仕事だ。つまり、危険なんだ、途轍もなく。それに惨憺(さんたん)たる現場を、何度も目にする事になる。未だ子供の君には、あまり関わるべき事ではない」

 提案者の言う事では無い。
 しかし、ジルは未だ、子供だ。
 子供の経験する事では、到底無い。

 しかし。

「でも、このままここに居ても、どうせ野垂れ死ぬだけなので」

 同じ事を何度も宣う。
 話は平行線を辿るばかりであった。

「…………本当に、良いのか?」
「はい」
「……本当に?」
「……はい」

 しつこいが、こうでもしないとアイジスの心は罪悪感で埋め尽くされてしまう。
 ちゃんと止めた、と言う事実が、罪悪感の捌け口になるのだ。

 アイジスは下唇を噛む。
 この少女が死ぬ事になっても、それは自分の関知する事ではない、と。
 この子が勝手に着いてきただけなのだから。
 自分には何の咎は無いのだ、と。
 死んでも、死んでも、死んでも…………
 

 俺は何も知らない。
 

「……アイジス=ロメオだ」
「ジル=コルミットです」
「…………コルミット………………?」

 その名を聞いてアイジスは少し思案するが、直ぐに放棄した。

「取り敢えず、今日泊まれる場所まで行こうか」
「………………はい」

 この村で泊まるのは、ジルには酷だと思い、明日行くつもりだった隣村の宿まで。
 そう言おうとしたが、それを聞く前にジルは承諾した。


 ◇


 目の前で人が死ぬのを見たのは……もう何回目だろう。
 この手で人を殺したのは、二度目。
 もう……悩みたく無い。
 何も考えたく無い。
 ならもうこんな事、辞めれば良いのだが、でも、あの決心だけは不意にしたく無い。

 だから。
 これ以上この手から溢れる命に、向き合うのは止めよう。
 もう二度と。
 ――もう、二度と。




 





 ジルの居た村は、ガイムーン王国の南端付近にある村だ。
 ガイムーン王国は余りにも広大である為、中央集権国家としては地方の政がままならない。
 その為地方分権を採用している。
 その地域内、乃至(ないし)王都ガルシス出身の王国国民が立候補し、王都ガルシスにて行われる厳格な試験の後、合格すれば、王都出身の者は好きな地方の。その他の地域内出身の者はその出身地域の領主として従事する事となる。
 領主の収入はその領地内で掛けられる税金や、国から支給される給付金の一部となっている。
 一見領主が好きなだけ搾取出来るような仕組みだが、ちゃんと対策はされてある。
 領主は、その領地内での政に関しての決定権を有し、税金や条例についても自由に制定出来る。
 その代わりそこの領民には領主を辞職させる権利を有している。条件としては領民の三分の一の署名が必要だが、領主が不適切な政を行えば、領民からの制裁がある。
 相互監視の関係が成り立つからこそ、ガイムーン王国の地方分権は、これまで一切の波乱無く行われているのだ。

 話を戻すが、ジルの住んでいた村は、他の地域と比べて小規模で過疎化が進行している為、抑も村の名すら存在しない。
 一応地図には、領主であるバック・ハイータの名から取って、「ハイータ領」と呼ばれている。
 人口僅か百五十人。
 元より領民達の結束力は固く、領主と一丸となってハイータ領を守ったが、飢饉の為村の財政が悪化。
 ハイータは国に給付金を請求するも、ライア=ヴァルヘルム皇国から宣戦を布告された為その対応で手一杯だと断られた。
 (やが)て領民達は自身の生活すらままならなくなり、村の存続など考える余裕が無くなり。結束力など失われていった。
 ジルの父が村を発ったのもこの頃である。
 なので例えジルがこの村を出たとして、誰も気にしなければ、誰も気付かない。
 寧ろ食料が余るから出て行けとすら思っているかもしれない。
 ジルの知る由もない事だが、逆にここから出て良かったのかも知れないとは、気付かなかった。


 ◇


 ハイータ領より更に南。ハイータ領から徒歩で四時間程の場所。
 此方もハイータ領とはさして領地面積の変わらない地域だが、“町”なのだ。
 人口は五百人程度だが、ハイータ領は農業で成り立っていたのに対し、この町は水産物と観光で成り立っていた。
 町の奥には川が流れていて、夕暮れ、川に映る夕陽が綺麗だと毎月一定数の観光客が訪れている為、おかげもあって、この町の経済は潤っていた。
 一応その川で獲れる魚も町の経済の一助となっているのだが、やはり最も貢献しているのは、観光なのである。
 そんな町だからこそ日々発展をし続け、それと同時にこの町への移住者も増えていると聞く。

 その町の名は、ギィガル。
 アイジスが目指す、次の目的地である。


 ◆


 アイジスとジルがギィガルに着く頃にはもう既に日は落ちていて、空には満点の星々が煌めいていた。

「折角なら夕方に来たかったが…………」

 アイジスがそう呟くが、返事は無い。
 ジルの方をチラッと見てみるが、ジルはギィガルの町並みを眺めていた。
 しかしその目が孕むのは新天地への期待では無く、ただ眺めるものもなく。仕方なく前を向いていると、偶然そこにギィガルの町並みがあるだけ。
 そこに期待も、興奮もない。
 虚無だけが存在している。

「王都で有名なんだよ、この町。知ってる」
「…………知らない」

 淡白で、静かな返事であったが、返事があったという事実だけで、アイジスは少し嬉しかった。
 上がってしまう口角を必死に抑えながら、話す。

「この町の奥の方に、川があってさ。決まった時間になったら川に夕日が映って綺麗なんだと」

 しかしジルからの返事は無かった。

「取り敢えず宿屋を探そう。もう暗いし、早く寝ないと」

 そう言ってもやはり返事は無く、歩き出すアイジスの後ろを着いてくるだけだった。


 ◇


「どうする部屋は別にする?」
「いえ、一緒で結構です」
「なら一部屋で」

 ギィガルに入って取り敢えず一番手前にあった宿屋に入ってみた。
 入ると、一階は食事処、二階から三階が部屋になっているらしい。
 受付も一階なので、アイジスの後ろには多くのテーブルが並べられている。
 宿屋と一階の食事処は同系列で無く、一つの建物に二つの店が入っている、という扱いらしい。
 なので食事を頼む時は、当然その料理に対して別途料金を支払わないと行けない訳だ。

 アイジスは部屋の鍵を貰って、ジルと一緒に二階へと上がった。
 ギィガルの建物は全てが木造建築である。
 此処は元々林だったのだが、それを切り拓いて作った町である為、伐採した木材をそのまま家屋の建材として利用している。

 歩く度に地面がギィギィと軋む音が廊下を伝う。
 そうして暫く廊下を歩いた後。

「此処か…………」

 受付で貰った鍵で戸を開け、部屋の中へと入った。
 まぁこれと言って特筆すべき点は無い。
 入るとただの奥に長い長方形の部屋のみ。
 風呂もトイレも無いので、この部屋にあるのは棚とベッドくらい。
 一応風呂はギィガルの銭湯。トイレはこの建物の一階にあるものを共有で使うので問題は無い。
 ベッドもそこまで悪くは無いが、滅茶苦茶寝易いとかでも無く。
 一泊する程度なら全く問題無い。
 寧ろ野宿していた昔よりはよっぽどマシであると、アイジスは過去を想起しながら少し感慨に浸る。

「どうする? もう夜遅いけど、風呂屋さん行く?」

 アイジスは荷物を置きながらジルに訊いた。

「いえ、大丈夫です」

 お金も無いですし、とジルは続ける。

「まぁ…………」

 実はアイジスも大してお金を持っていなかった。
 こっちに来て最初の頃は、風呂に入らないなどあり得なかったのだが、野宿やらなんやらを繰り返す内、風呂に入る事の重要性を見失っている。
 アイジスだって理解はしているのだが、どうも一度定着した思想は剥がせない。
 実に厄介なものだ。

「それもそうだな、もう寝るか」
「はい……」

 この町の観光は明日でも良いか。

 そう思いつつ、この日はそのまま眠りに着いた。









 








 ――目の前には、()()の異形。

 ――何で…………

 ――何でこんな事に…………?

 ――これが初仕事だって?

 ――ふざけるのも大概にしろよ‼︎

 ――何だよ!

 ――そんなに俺から奪いたいのか?

 ――そんなに俺が絶望しているところを見たいのか?

 ――楽しいか!

 ――()()()‼︎

 ――――見てるんなら。

 ――――そうやって見てるんなら。

 ――――――ちょっとは助けて下さい…………


 だが()()は言うのだろう。

 どうせ傀儡なのだから。と。







 ◆





 

「はっ………………」

 目が覚めた。
 どうも目覚めが悪い。
 何か、昔の夢を見ていた気がする。
 通りでそりゃぁ。
 昔の夢なんて、悪夢以外の何物でもないのだから。
 わざわざこんな時に思い出さなくても良いよ。

 そう思いつつ周りを見渡す。
 この部屋にベッドは二つあったので、窓際のベッドをジルが。入り口側のベッドは俺が使っている。
 ジルはまだ寝ていた。
 そうして寝顔を見ていると、嗚呼ジルもまだ子供なのだなと実感する。
 幾ら歳が進もうとも、子供の寝顔にはやはり子供特有の何かがあるのだ。
 俺に対しては、心を喪くし、淡白に振る舞われたので少し子供とは遠い存在なのかと錯覚するが、やはりまだ子供なのだ。

 子供の背負うものにしてはあまりにも大きく、重すぎる。

 アイジスはただ、自身を諌めるのに必死だった。


 ◇


 アイジスはベッドから降り、窓に掛かってあったカーテンを開く。
 朝日が入り込んでくる……かと思いきや、空に暗雲が立ち込めていた所為で、朝日が入って来ることは無かった。
 しかしカーテンを開く音は部屋に響いたらしく。

「ん……んぅぅ………………」

 後ろでそう呻く声がしたので振り返ると、そこには上体を起こしているジルが居た。

「おはよう…………」

 一応言ってはみるものの。

「……おはようございます」

 あれ? 返事があった。
 だがしかし淡白だなぁと、しかし返事があるだけマシか、と。
 色々と思案するアイジスだったが、無駄だと悟り放棄する。
 そうしている内に気付けばジルはベッドから降りて、布団を畳んでいた。
 自分は既に畳んでいたので、ジルの手際を見て、十歳にしては良く出来る子だなと感心した。


 ◇


「あら、おはよう! ぐっする眠れた?」

 一階に降りると、そこに居たのは受付の女性。
 歳は恐らく四十くらい。気さくで人当たりの良い、常にエプロンをしているおばちゃんだ。
 名をジョウル・クラウゼと言った。
 この宿屋の店主である。

「はい、ベッド気持ち良かったです!」
「そりゃぁ良かった! そちらの嬢ちゃんも、どうだった? ゆっくり眠れた?」

 女性は少し屈みながら、ジルにも寝心地を訊ねた。
 アイジスもジルに視線を向けるが、その視線は不安気だ。
 ジルが果たして返事をするのかと、懸念している。
 そして十数秒。
 案の定ジルは俯いたまま何も言を発しなかった。

「じ、ジルも気持ち良さそうに寝てました!」
「そ、そうかい? なら良いが…………」

 すかさずアイジスが割って入ったのでこの話題は終了する。

「アイジスさん! おはようございます!」

 また一階の奥より一人の女性がやって来た。

「ジルちゃんも、おはよう!」

 妖艶な体つきとは裏腹に、可憐な顔を綺麗なブロンズの髪の間から魅せるこの女性は、名をリリー・ハイヤルと言う。
 
「おはようございます!」

 アイジスはそう返事し、ジルは軽く会釈する。
 リリーは笑顔で頷き返し、そのまま店を出ようとして……

「リリー! 忘れてるよ!」

 そう言いながらまた奥から出て来たのは一人の男。
 顔も特に美麗な訳でもなく、お腹だって締まっている訳では無いが不思議とイケメンに見えてしまうのは、その包容力と無意識に行使している人心掌握術である。
 名をアラム・ハイヤルと言う。
 リリーの夫であり、この店で働く従業員でありながら、本業はギィガルの領主なのだ。
 聞くところによると「領主として、領民の生活の一助を担う立場として、領民の生活を知り、改善しようと奔走する事こそが責務。その為には領民と共に生きるのが手っ取り早い」との事。
 この宿屋で働かせて貰って、その中でリリーと結婚した訳だが、それからも、領主としても、また一従業員としても、また一人の夫としても。全て円滑に全うしているのだと。
 いやはや、その手腕は賞賛すべきものである。

 ただ正確には宿屋で働いている訳ではなく、リリーもそうだが、リリーとアラムは、宿屋従業員、兼食事処店主を務めている。
 だがジョウルは、何れは宿屋と食事処を合併させようかと考えていた。
 なのでリリーは食事処店主なのだが、宿屋の次期店主も担っていた。
 それに伴ってジョウルも従業員を募集しているそう。
 アイジスとジルは流石に出来ないが、密かに応援しようとは思っているのだ。

「あ、おはようございます」
「おはようございます…………」

 アラムも、急ぎながらもアイジスに対して挨拶を欠かさない。
 しかし急いているので、そのままリリーを追って外へと出てしまった。
 その手に持っていたのは一本の傘。
 今ももう既に、満点の暗雲が町を覆っていた。
 いつ雨が降っても可笑しく無い。

「ジル。残念ながら今日も夕日は見られないかもな」

 そう言うと、ジルは少し落ち込んだ表情を……する訳でも無く、ただ小さく。

「はい」

 と言うのみだった。

「リリーは行ってしまったけど、どうする? 朝食べていくかい?」

 いつの間にかエプロン姿のジョウルは、アイジスとジルに問う。

「はい、お願いします!」
「まいどっ!」

 そう言ってジョウルは厨房の方へと消えていった。
 そうしてアイジスとジルは食事処の椅子に座る。アイジスの対面にジルが座る形だ。


 ◇


 アイジスは思う。
 これからも暫くはジルと共に旅をする訳で。
 この観光を機に少しでも距離を縮めたいものだな、と。


 しかしアイジスは知らない。
 その願いは、最悪な形で成就される事となるのだ。







 




「いただきます」

 アイジスはそう言って目の前の料理に手をつける。
 トーストや茹で卵など、アイジスにとっては少し懐かしい料理が並んでいた。
 少し感慨深くなりながら、その料理を口に運ぶ。
 うん、美味しいと、口角を上げて思う。
 ふと前を見ると、アイジスもゆっくりではあるが、食事に手はつけている。
 ゆっくりと咀嚼するが、その表情は笑っていない。
 ただ生命活動を継続する為だけに、機械的に摂取しているのみ。
 今のジルにとっての食事とはその様な物ではないかと考えてしまう程に、その顔に心は宿っていなかった。

「どうだい? 美味しいだろう!」

 厨房の方から、ジョウルの軽快な声が聞こえる。

「はい、とっても!」
「だろう?」

 ふとジョウルの得意げに笑う顔が想像できた。
 そのまま再び食事を再開した時。
 アラムが帰ってきた。

「あ、ただいま!」
「お帰りなさい、御母さん」

 アラムは着ていた上着をハンガーに掛けながら応える。
 そしてゆっくりとアイジスの方へと歩み寄った。

「初めまして。この町の領主を務めさせていただいております、アラム・ハイヤルと申します。ようこそ、我が町ギィガルへ!」

 両腕を目一杯広げながら、四人しかいない宿屋の中で、その声は隅々までに響き渡った。
 しかし、ただの宿屋の一人の従業員が、領主を名乗ってこの町を代表している姿は、何とも言えない。
 悪く言えば滑稽、よく言えば……あまり思いつかないな。
 だが、悪い気は俄然起きない。
 それこそが、領主アラムの人格者たりえる手腕なのだろう。

「お、お邪魔しています……」

 それくらいしか返す言が無いのだから仕方ない。

「しかし残念です。折角我が町自慢の夕陽をご覧になって頂きたかったのですが、生憎の曇りで。どうです? うちの店のご飯美味しいでしょう?」

 領主としてのアラムと従業員としてのアラムが混在している。

「はい、とても美味しいです!」
「それは良かったです! うちの店はね、ディナーも絶品なんですよ! なので……」
「なら夕食もこちらで頂くことにします」
「ありがとうございますっ!」

 正直、少し鬱陶しい。
 だが観光客にはこの方がウケるのか?
 いやはや、よく分からないものだ。

「そう言えば、アラム様とリリーさんのご関係は……?」
「様など付けずとも結構ですよ。私など、宿屋のしがない一従業員ですから」

 いやいや、主な職業は領主だろうが、と思うがその言葉は心の中に留めておく。

「それで、リリーとの関係ですか? ……夫婦です」

 少し小さな声で、頬を赤らめながらアラムは言った。

「何照れてんだい、領主様!」
「いや、照れてなどいないよ、断じて!」
「いや、照れてた。顔真っ赤だった」
「違うってお義母さん…………」

 なんか、不思議な光景だ。
 領主相手に少し嘲る母親と、領民をお義母さんと呼ぶ領主。
 違和感しかない。

「アイジスさん……だっけ?」
「は、はい!」

 突然ジョウルに呼ばれて、少し素っ頓狂な声が出てしまった。

「領主様ね。リリーと結婚したの先週なのよ」
「は、はぁ」
「付き合ってた期間はそこそこあったらしいけどね、未だ夫婦って紹介するのが恥ずかしいって……」
「やめて…………」

 アラムは顔を真っ赤にして外方(そっぽ)を向いている。
 それを見てニヤニヤしてるジョウルを見る限り、あぁ普段は領主として威勢を張っているけれど、本来はシャイなのだ。
 だからこそ皆この領主(アラム)を好んでいるのだなと理解する。
 事実、アイジスもアラムの事を少し、いや結構気に入っていた。

「あ、アイジスさんは、どの位ここに滞在される予定なのですか?」

 話題を変えようと少し噛みながらアラムはアイジスへ訊ねる。

「明日くらいには出発しようかと」
「そうですか……明日には晴れると良いのですが」

 あの夕陽は本当に自慢なんですよ、と溢すアラム。
 心底この町が好きだと言う事が重々に理解出来た。
 この時には既にアラムへの鬱陶しさなど霧散していて、寧ろ好感すら覚えている。

「ただいま!」

 そんな時、リリーが沢山の食料品を抱えて帰ってきた。
 どうやら買い出しに行っていた様である。

「お帰り」

 そう言ってアラムはその食料品を受け取り、厨房まで運んだ。
 リリーは、アラムより渡された傘を片していた。

「あ、アラム! そう言えばさっき、向こうのファイリさんが呼んでたよ!」
「わかった! 行ってくるよ」

 それじゃあ、失礼します。そう言ってアラムは宿屋を飛び出して行った。
 この場には、アイジスとジル、ジョウルとリリーの四人のみとなっている。
 リリーはアラムの出て行った入り口を眺めながら。

アラム(あの人)、少し鬱陶しいでしょう?」

 突然リリーはそう暴露した。
 思わぬ発言に飲んでいた水を吹きそうになってしまう。

「口を開けば町の宣伝ばっかり。アイジスさんも、聞きました?」
「はい、少しだけですけど」
「どう思いました」
「ま、まぁ、ギィガルが心底好きなのだなぁ、と」
「……アイジスさんは優しいのですね」

 リリーはそう言いながらアイジスへと微笑みかける。
 その艶めかしさは、もともと感じていた可憐な顔には似合わぬ程に嫣然と佇んでいる。

「私が初めてあった時も、そんな感じの熱量で話されました。ほんと、鬱陶しくて、後ちょっとでも喋ってたら怒鳴り散らしていたかも」

 可憐な顔立ちには似合わぬ少しワイルドな方なのだなぁと、アイジスはリリーへの印象を更新する。

「でも、だからかも知れません。何故かそこに惹かれたのです。好きなものに対して、直向きに、ずっと想い、繋ごうとする姿勢に」

 それはアイジスも同感だ。

「そしてまぁ、色々あって今の関係に落ち着いた訳ですが」

 何があったのか、訊くのは野暮というものなので、特に言及しないでおこう。

「つまり、あの人はただ鬱陶しいだけの人じゃ無いのだと、ただそう言いたかっただけなのです」

 気付けばリリーはアイジスの隣のテーブルに着いていた。

「いや、別にアラムさんを鬱陶しいとは思っていませんよ?」
「え?」
「寧ろリリーさんと同意見ですし」
「えぇ?」

 目を見開くリリー。
 その表情を見るに、本当に驚いている様である。

「…………そう、そうですか」

 外方を向く。
 その頬は少し赤らんでいた。

「鬱陶しいと思っていたのなら訂正しようと思ったのですが。余計なお世話でしたか」

 どうやら頬を赤らめているのは羞恥のためだと理解する。
 それにしても、つくづくいい夫婦だなと思う。

「いえいえ、よりアラムさんの事を好ましく思います」
「そうですか、なら良かった」

 再びアイジスの方を向き、優しく微笑んだ。
 今回の笑みは嫣然さを孕んでおらず、ただ優しく、優しく、秋の夜凪に包容されている様な、暖かい笑顔だった。
 本当に、良い夫婦だ。

「そう言えば、アイジスさんはいつまでギィガル(ここ)に?」

 既視感のある質問だ。
 
「一応明日には発とうかと」
「なら、明日。晴れると良いですね」

 この天気じゃ夕陽も拝めませんし。
 そう言ってリリーは、窓から外の暗雲を視認する。
 
 町想いな領主と、妻想いでシャイな夫。
 夫の面倒臭い所すら絶大な魅力であり、これまたシャイな妻。
 何より、二人とも性格が酷似しているのだ。
 だからこそ、お似合いだと思うのだろう。
 仲睦まじい夫婦なのだなと、つくづく感じられる。
 是非ともこれからも仲良く過ごして欲しいものだと心底願う。
 
 アイジスは残っていた水を飲み干し、食器を厨房にいるジョウルへと渡した。
 それに後続して、ジルも食器を盆へ乗せ始めた。
 その光景を見て、再び微笑むリリー。
 可愛い……と呟きながらウットリしている。
 確かに、ジルもこの歳にしては美形だしな。
 見惚れるのも無理ないか。

 そんな事を思っていた時。
 


 ―――突然外から轟音が唸った。
 


「な、何⁈」

 あまりの轟音に、ジルは腰を抜かしてしまっている。
 ジョウルも厨房より飛び出してきた。
 アイジスとリリーはすぐさま外へ出て、音の鳴った方へと目をやった。

「………………え?」

 果たしてそう絶句したのはアイジスか、リリーか。

 目の映るは、ただ一面に広がる炎の海だった。




 





「――――え?」

 なんで?

 ――火災?

 それも、こんなに同時に?

 ――放火?

 まさか、そんな事する人、ここには居ない。

 ――なんで?

 なんで?

 ――なんで?

 ――――なんで、アラムの愛した町が、炎に飲まれなきゃ行けないの?

 お願いだから。

 やめて。

 やめて。

「…………ん」

 やめて。

「…………さん」

「やめて!」
「リリーさん‼︎」
「はっ…………」

 アイジスの呼びかけのおかげで、リリーは目覚める。
 しかし目前に広がるのはやはり炎の海。
 一体誰が……?
 誰が大切なこの町に、火を?


 ◇


「リリーさん。取り敢えず住民の避難誘導をしましょう何が起きているのか……」

 その時、ある家屋の屋根が弾けた。
 そして、“それ”は、他の家へと飛び移ったのだ。

「………………え?」

 成る可く見ないで欲しかった。
 リリーには見ないで欲しかった。
 見ると、きっとリリーは。
 錯乱する。

「……アラム?」

 天井から天井へと移る“それ”は。

 アラムの異形と化した姿だった。


 ◆


 アイジスは炎の下を見やる。
 そこには必死に炎から逃げ惑うギィガルの住民。
 いや、炎からか、或いは。

「リリーさん!」
「解ってる‼︎」

 さっきとは口調がまるで違う。
 こっちが素なのか。
 いや、そんな事はどうでも良い。

「俺は逃げ遅れた人の救助に向かい、そのまま……領主アラムさんを――(しい)します」
「なんッ………………」

 アイジスの言葉に、リリーは、足を止める。
 その顔は青褪め。
 (まぶた)と唇が震えている。

「ほ、本当に、あれは……アラムなんですか?」

 一番解っているのは貴女でしょう?
 そう言いたいが、傷付ける事しかできないのは、誰の目から見ても明白だった。
 だが、リリーは。
 どうしようもない中、一縷の望み(一本の藁)にさえ縋ったのだ。

 しかしたかが矮小なる人一人によって改変出来るほど、運命とは綻んでなど居なかった。

「…………あれは、アラムさんです」
「……………………そんなぁ……」

 溜め息混じりの感嘆は、涙を誘った。
 溢れたくない。
 溢したくない。
 涙も。
 彼の命も、この手から。
 そう思ったのか、リリーは両手で顔を覆う。
 涙よ、溢れるな。
 そう切望するが、物理法則には逆らえず。
 地面の土が、微かに染みる。

「いや、いやぁ、嫌だよぉ…………」

 リリーは、地面にへたった。
 アイジスは屈み、リリーの肩に手を添える。

「でも、今この時。最もアラムさんの事を想えるのは、貴女です。アラムさんは、所謂『異形』と言う、人ならざる存在へと成りました。異形とは、自我を失った人の成れの果て。だからああして、自我を求めて暴れるんです。きっと、苦しいのだと思います、自我がないのが。自分が、自分が自分であると証明できる自我(なにか)を喪ったのです。だから、貴女が証明してあげて下さい。きっと、アラムさんも、楽になる……」

 実際、異形が苦しんでいるのか。
 本当に自我を求めて暴れているのか。
 アイジスには解らない。
 でもきっと、こう答える事が最適解だった気がしたのだ。
 大切なのは、リリーさんの原動力になる事。
 ジルの様に、大切な人の死に立ち会っても。
 成る可く深い傷にならない様、死に綺麗な理由を付ける事。
 それが決して、美辞麗句にならない事。
 しっかりと、リリーの心に、訴えたかった。

「………………ありがとうございます」

 袖で涙を拭い、それを振り払う。
 立ち上がり、暴れるアラムの方へと目を向ける。

「待ってて」

 そう呟いて、リリーはアラムの愛した民の所へと走って行った。

「俺も、頑張るかぁ」

 刀の柄に手をかけながら、アイジスは気合を入れた。


 ◇


「大丈夫ですか!」

 ギィガルの住民達は、川の近くに集まっていた。
 もし火がこっちへ来ても、川に飛び込んで逃れる作戦である。
 ただ今飛び込んでも余計危ないだけだと皆思ったのか、ただ瓦解して行くだけの町を傍観していた。
 そこへ、リリーが駆けつける。

「あぁ、無事だったんだね、良かったよ」

 そうリリーに言うのは、さっきリリーが行った八百屋の店主だった。

「そちらもご無事で何より。ここに居ない人は……」

 そう言いつつリリーは周りを見渡す。
 ギィガルは、同じ規模の地域の中では発展しているものの、住民が極めて少ないのだ。
 なので生まれた時からギィガルのリリーは、ギィガルの住民全員の顔と名前を覚えていた。
 無論、それは住民ほぼ皆覚えている事なので、そこまで誇る事ではないのだが。
 しかし覚えていたおかげで。

「あれ……? ファイリさんは…………?」

 八百屋の二つ隣の建物は、小物屋であった。
 そこの店主がファイリであり、新商品の相談をしたいとの事で、アラムを呼んでいたのだ。
 まさか!
 そう思い周りを見ていた視線を、背後にある嘗て小物屋であった建物へ向ける。
 アラムは、ファイリに呼ばれて行った。
 宿屋から小物屋までは、さして遠くは無いのだ。
 時間にして凡そ二分あれば着く距離にある。
 そして轟音が響いた時、あれはアラムが宿屋を出て暫く。それこそ小物屋などとっくに着いているだろう。
 つまり。

「…………店の前に、()()だろう?」

 八百屋の店主はそう言う。
 その時、リリーは見つけた。
 見つけて()()()()
 そこには、恐らく『異形』というものに変貌したアラムに飛ばされた。
 片腕があった。
 それだけで、言わずとも理解できる。
 ファイリは、もう…………

「今の所死亡が確定してるのは一人だけさね。でもまぁ、もっと死んでても、可笑しく無い」

 確かに、ここに集まっているのは、住民の半分程度だ。
 残り半分の人は未だ所行方不明な訳で。
 その内の幾人かは、既に死んでしまっている可能性が極めて高い。
 これ以上被害を出さない為には。

 アラムを止め(殺し)て貰う事。
 それが最も、早い。

 ジョウルとジルはアイジスに任せるとして。
 リリーは避難してきた人の心の支えとなれる様。
 アイジスが命を守るのなら。
 リリーはその心を守る。
 アラムの愛した町を守る為。
 またその町の成立には欠かせない人々を、守る為。


「…………お願いします」


 リリーは、アイジスに。
 アラムを弑する事を願った。





傀儡の花苑より

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